世界と他者に対する“親密性”と生きる為に働くという事(別記事)
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社会における職業選択と自己アイデンティティの確立の問題
徳保隆生さんの『梅田望夫さんが見ている、どこか遠い世界』と『勉強のできない人から職を奪う生き方の提案』という記事を読んで、勉強能力と学習能力の現代における意義や対人スキルの必要性を考え、職業生活と自己アイデンティティの確立の相関について思いを巡らせました。
徳保さんの意見は、梅田望夫さんの記事を踏まえて書かれている訳ですが、梅田さんは来るべき「次の十年」で書物を読み、知識を得て、モノを書くという『勉強能力』は、(特に生活コストの高い先進国では)生計を支える為の必要条件ではあるが十分条件にはならないだろうと言います。そして、インターネットの普及と発展によって、『勉強能力』と『学習能力』は依然大切なものではあるが、それだけで飯が食える場(チャンス)が確実に減っているという印象を述べています。
たとえば僕の場合でも、本を読んだり勉強したりモノを書いたり、そういうことは子供の頃から大好きだった。でもそれだけでは食えない。いま僕の事業を、ひいては生計を支えているのは、僕の「勉強能力」ではなく「対人能力」もっと言えば「営業能力」なのである。「勉強能力」は必要条件ではあっても十分条件にはならない。「勉強能力」こそが必要十分条件だった職業ほど、「次の十年」で脅威にさらされるのである。特に生活コストの高い先進国では、その傾向が顕著になろう。
ここで語られているように、大企業であっても中小零細企業や専門職、自営業であっても実社会での事業や職務を的確に遂行し、一定以上の評価を得たり業績を上げる為には、「勉強能力」よりも「対人能力」のほうが重要でしょう。
また、自らの能力や魅力を効果的にアピールできるような機知の効いたコミュニケーションを活用できる人は「高い営業能力」を持つこととなり、顧客・取引先の興味関心を惹き付けて、自分または所属組織が提供できる商品・サービス・技能を魅力的にプレゼンし購買意欲や契約のモチベーションを高めることが出来るのではないかと思います。
上に引用した文章には『学習能力』は出て来ませんが、下に引用した文章に『勉強能力』に併記されて『学習能力』が出てくるので、本筋から脱線しますが、私が考える学習観について少し書いてみようと思います。
私は、狭義の知的機能である『勉強能力』と広義の環境適応的な『学習能力』を区分して考えたいと思いますが、確かに本を読んで勉強してモノを書く知的能力だけでは、余ほど商業価値のある文章や作品を書ける人でなければ生計を支えるのは困難でしょう。
個人的で恣意的な印象となりますが、私は『勉強能力』と『学習能力』の差異を考えてみることで、社会への適応性や経済的な利得を高める知的作業の効率を高めることが可能になるように思います。
しかし、各人の言語感覚や定義によって勉強能力と学習能力は、ほぼ同一の知的能力だと考えることも出来ますから、その差異を意識しないならしないで問題があるわけではありません。また、お金や利得につながる知的作業や学習能力のみが有価値なものでもなく、それぞれがそれぞれの幸福観や人生観に則って最善と思う知的活動を楽しみ行えばよいとも思います。
ただ、テキストや既定の範囲内の領域から知識や技能を汲み上げる知的作業を『勉強能力』とし、置かれた環境に巧みに適応する為に臨機応変に新たな技術や行動を獲得することを『学習能力』とすることによって、視野狭窄的な勉強のみに埋没することのリスクみたいなものを体感することが可能になるかもしれませんね。 (勿論、この場合のリスクとは、功利主義的な価値判断に基づくリスクであって、個別の価値指標を包括する一般的なリスクではありません。)
以下に、個人的な定義ですが、勉強能力と学習能力についての概略を述べておきます。
■勉強能力について
学校教育で求められるペーパーテストに正確に解答する形式の能力であり、入学試験・入社試験・資格試験など想定可能な出題範囲内の学習成果を競うために『準備された相対評価の場』において確実に高い成績を得ることの出来る能力である。
広義の勉強能力は、『“正しい知識”として提示される“記述されたテキスト”を理解・記憶し、再生・応用する能力』であるが、勉強能力は更に『プラグマティックな勉強能力(合目的的な勉強能力)』と『非プラグマティックな勉強能力(教養・趣味の勉強能力)』に分類される。
前者は、入社試験の勉強や資格試験の勉強のように、何らかの経済的社会的利益の獲得や他者からの評価を目的としてなされる勉強であり、後者は日本文学全集を読んで書評を書くとか世界史の歴史文献を渉猟するとかいった自己充足的な教養の深化や知識の獲得、他者との教養趣味の談笑などを目的としてなされる勉強と言えるだろう。
一般に社会的に評価されるのは、プラグマティックな勉強能力であって、この勉強能力に秀でた人たちが、“一流企業への就職、医師・弁護士・会計士・教師・研究者といった専門職、国家公務員1種合格による官僚”といった職業に就く事が多く、今までの学校教育におけるエリート層という認識が為されていたのだと思います。
■学習能力について
心理学的な学習という概念を応用して、『環境に適応する為の後天的な行動と知識の獲得であり、その学習結果は、比較的長期にわたって持続するもの』と考える。この定義に基づけば、学習能力は勉強能力の高次概念であり、勉強能力は学習能力に包摂される。
人間の知性は、記憶・思考・感情・創造が密接に複合されて学習行動を行うことになるが、その学習行動は『知識・情報獲得の為の静的なテキスト読解』と『対人関係スキル・技術・運動機能獲得の為の動的な反復的経験』に分けられるように思える。
静的な学習行動の場合には、実際に身体を動かしたり、試行錯誤をする必要がなく、書籍と紙と鉛筆もしくはコンピューターがあればよく勉強能力に近いが、動的な学習行動の場合には、実際に身体を動かし、言葉を他者に向けて発して、他者や環境からのフィードバックを得る事によって学習を押し進めなければならない。
また、動的な学習は、失敗や間違いを繰り返しながら経験を反復する必要があるだけでなく、静的な学習とは異なり自分一人しかいない環境では行い得ない学習行動である。
学習能力にあって勉強能力にはない要素で特徴的なものは、実際に他者(環境)に働きかけてどのような反応(結果)が得られるのかを体感するという経験的要素と身体と言語を駆使する身体的要素、対人的な相互作用の要素ではないかと思います。
勉強能力の高さは、大手企業の就職採用試験や官公庁・学校・研究所などの公務員採用試験、各種国家試験や資格試験などの合格確率を高めるものであって、その後の職業活動における成功や優位を保障するものではないように思えます。
“相互依存的な競争原理があまり機能していない環境・公的資格によって排他的独占ができる職種・終身雇用が保障された組織”であれば、(特別な対人関係スキルの障害や社会適応能力の問題がなければ)勉強能力だけでも一定以上の豊かさと安定を得られるように思います。
今後十年で、それがどのように変化していくのかの将来予測を語るのは私には難しいですが、徳保さんの語るように『食べる為の仕事=仕事の内容を問わない仕事』の供給が圧倒的に不足するような事態にはならないのではないでしょうか。
少なくとも日本人の大半が、生きるか死ぬかという生存の危機に立たされるという事態は想定できないですし、特別に、衆に抜きんでた勉強能力と対人関係スキルがなければサバイバルできない淘汰圧が極度に高まった社会は到来しないのではないかと思います。
一部の経済学者や社会学者は、社会的スキルと密接に結びついた成果主義やITの習熟度によるデジタル・デバイド、市場経済のグローバル化などを要因として、今後、経済格差の拡大が起こりある種の社会階層の分化に至るという説を述べています。
その経済格差が教育機会の格差につながり、遂には自己の将来や社会的成功に関する希望格差を生むというような言説も社会学の新書などで出てきています。そして、そういった社会学的アプローチによる階層社会到来を予見するかのような危機意識の喚起も『食べる為だけの仕事』に対する心理的抵抗感や階層意識に基づく劣等感などを助長しているのかもしれません。
食べる為の仕事が決定的に不足するのではなく、自己の社会的アイデンティティに伴う自尊感情や過去の経歴や業績にまつわるこだわりのようなものによって『結果として職業選択の幅が狭まる』というのが実際的な状況だと思います。
とはいえ、やはり梅田さんが想定しているような高学歴者層(あるいは、社会的アイデンティティ確立と自己の存在意義が完全に重複している層)の人たちであれば『職業を主体的に選択せずに仕事が得られればそれでよい』という判断を下す事には非常な苦悩と逡巡が伴うのではないでしょうか。
私は、社会的アイデンティティは、自己アイデンティティの一部であって全体ではないと思いますが、“仕事・職種・地位・収入・所得・人脈といった社会的属性”を“自己のアイデンティティの核心”として持っている人が多いという事実はあります。
そして、そういった社会的属性にプライドや高い価値を見出す事自体は、批判されるべきことではなく、むしろ社会人としての責任をまっとうしようとする意志の表れであり、経済活動への積極的な参加や創造的な職業活動という面で高く評価される部分も多くあると考えられます。
この問題は、経済学的に考えれば雇用と個人の市場価値や労働意欲と就業率の問題(NEET問題など含む)なのでしょうけれど、心理学的には、エリク・エリクソンのライフサイクル論で“青年期の発達課題”として語られる“自我アイデンティティの確立”にまつわる問題だと言えます。
自我アイデンティティの確立については、また時間のある時に色々と考えてみたいと思います。
以下は、次の別記事になります。
世界と他者に対する“親密性”と生きる為に働くという事
世の中は日に日に複雑化し、「勉強能力」「学習能力」が仕事上ますます大切になっているのは事実である。ただその一方で、それだけで飯が食える場(チャンス)が確実に減っている気がしている。インターネットのおかげで。あるいはインターネットのせいで。
それで一つの仮説として、「飯を食うための仕事」と「人生を豊かにする趣味」はきっちり分けて考え、「勉強好き」な部分というのは「音楽好き」「野球好き」「将棋好き」と同じ意味で後者に位置づけて生きるものなのだ、と考えるってのはアリなのかもしれないなと思い始めているのである。文学や哲学が好きで文学部に進んだ人なんかの場合は、「最初から就職先あんまりないぞ」みたいな覚悟があって、ほんの一握りの才能を持った人以外は、「勉強好き」(自分が楽しめると思える領域の勉強)の部分を仕事で活かせるなんて、はなから諦めていた。
そしてその部分を「人生を豊かにする趣味」と位置づけて生きるのは、これまでも当たり前の流れだったのだろうと思う。その感じが、文系世界では経済学部や法学部のほうまで、そしてさらに理系にまで、どんどん侵食してくるイメージ。そう言ったらわかりやすいだろうか。同意できる仮説かどうかは別として。
では「飯を食うための仕事」という部分では純粋に何が大切なの? という話になるとやはり「対人能力」なんだろうな。そこをきちんと意識しておかないと、つぶしが利かないんじゃないかなぁ。そんなことが言いたかったのである。ここでいう「対人能力」は前エントリーで述べた「村の中での対人能力」ではない。組織の外に向かって開かれた「対人能力」のことだ。
自負心や存在意義を包含する自我アイデンティティには、『私は、私以外の何者でもない』という実存的価値の側面と『私は、社会環境において○○としての役割を担っている』という社会適応的な側面とがありますが、前者が過剰になれば唯我独尊的な孤立の恐れがあり、後者が過剰になればシステマティックな労働環境に機械的に取り込まれる恐れがあります。
後者は、厳密には既存の社会体制への適応性や社会からの受容性とも密接に関わっていて、決定的に社会的アイデンティティの確立に失敗すれば、非社会的問題行動が遷延したり、特異な反社会的行動・組織に魅惑を覚えたりすることもあるかもしれません。
前者の実存的価値の側面は、独我論的な存在そのものの価値であると同時に、経済的利害から切り離された情緒的価値の充実でもあります。例えば、収入を若干犠牲にする代わりに拘束時間の短い仕事に就いて、家族・恋人と過ごす時間を増やしたり、趣味の合う仲間や友人とくつろぐ時間を充実させたりといった形の幸福追求の形もあるのではないかと考える事も出来るというような事です。
エリクソンは、青年期後期の発達課題に、“親密性の獲得”を置き、それと対置するものに“孤独”を置きましたが、これは、『社会環境における役割遂行』と相補的な『密接な人間関係の確立』を意味するものです。
勿論、孤独な時間でしか出来ない行為や楽しみもありますが、誰とも関わることのない徹底的な孤独は、多くの人を憂鬱にし現実感覚を希薄化させるのではないでしょうか。誰からも好意や興味を寄せられないという孤独の悲哀は、時に、社会への嫌悪や否定の感情をも呼び起こします。
精神的な健康や安定の為には、一定以上の社会的交流や他者とのコミュニケーションが必要なわけであり、私は『仕事の為の対人スキル』と合わせて『継続的な人間関係を結ぶ為の対人スキル』も現代社会には求められるのではないかと考えます。
うまく説明できないのですが、単純に、結婚をして夫・妻・子どもを持つほうが良いというような意味での親密性の獲得ではなくて、『(本人が不本意であるような)飯を食うための仕事』が虚しくならないような、言い換えればただ自己の生存の為だけに働くのではないことを信じられるような『親密性=安らぎや幸福感を得られるような継続的な人間関係』が人間には必要なのではないかと思うのです。
親密性の概念を更に拡張するならば、『この世界への親密性』としてもよく、その場合には『人間関係だけに留まらず、飯を食うための仕事をする以上の見返りを得られる対象・事物の獲得』ということになりますが、こういった世界や他者への親密性を心底から信じられなくならない限りは、人はそれなりに社会生活に適応して、自分固有の生の面白さや楽しみを発見し続けていけるものだとも思います。
(注記:精神分析的に解釈するならば、『親密性』には性的成熟と生殖成功(子孫の継承)の意味が強く含まれるが、ここでは主張の文脈に合わせて『人間関係の親密性・継続的な人間関係・意味を感じる事象全般』という意味合いに重点を置きました)
エリクソンは、社会的アイデンティティについて、以下のように述べています。
各個人の神経症の克服は、彼(彼女)を今のような彼(彼女)にした歴史的必然を受け容れるところから始まるのである。各個人が自己自身の自我同一性(アイデンティティ)との同一化を選択することができるとき、そして、また与えられたものを為さねばならないことへの転換をすることができるとき、人間は自由を体験するからである。
エリクソン『自我の強さと社会病理学』より
『プラグマティックな勉強』と『非プラグマティックな勉強』で分類した場合に、学問や技芸で収入や生計につながる目的的なものが『プラグマティックな勉強』となります。
また、プラグマティックな勉強においても、大学・企業・研究所に所属しないと勉強(学問の研究)そのものが出来ない分野、つまり、大規模施設や高価な実験器具・実験材料などを要する自然科学分野のほうが、実利や職業につながりやすい傾向があります。純粋に勉強のみで生計を立てようとすれば理系分野のほうが有利であるようにも思えます。
何故、理系分野の勉強(研究)のほうが、市場価値を生み出しやすく、専門研究職の枠も大きいのかを考えると、『文系分野が“言語・観念・解釈”を用いて研究を行う為にモノの開発・生産につながりにくいこと、理系分野が“物質・実験・検証”を用いて研究を行う為にモノの開発・生産につながりやすこと』が最大の要因であるように思えます。
人間は、通常、抽象的な観念や主観的な解釈、言語としての知識には対価を支払うことを渋る傾向がありますし、その傾向は、『無数の情報が無料公開されているインターネットの発達と普及』によってますます強化される可能性があります。
反対に、人は、具体的な商品や真新しいサービス、快適で便利な技術が応用された新商品に対しては、相対的に対価を支払い易い傾向を持ちますから、産学連携という意味では、文系よりも理系に大きな期待が集まり、専門的研究に従事する学者の人件費を賄える予算がつけられやすくなります。
一般社会では、大学の学術研究活動にも、経済的な実利性や技術への応用性を求める人が大多数であり、アメリカに典型的な産学連携の流れもそういった社会的経済的要請が強く働いていると思われます。
哲学・倫理学、心理学(自然科学的心理学を除く)、文学・古典、歴史などの経済に貢献しにくい文系分野に、政府が大きな予算をつぎ込んで大勢の専門家を公費で扶養する事は、これからますます困難になる一方でしょうし、独立行政法人としての大学では、市場の競争原理に基づく学問分野の選択的淘汰が起こりやすくなることが想定されます。
それらのことを考え合わせて、梅田望夫さんの
http://d.hatena.ne.jp/umedamochio/20050618/p1
でも勉強が好きな少年は、何だかずっと勉強みたいなことをする仕事をして一生を送れるのではないかとこれまでは思ったし、ここ数十年はそういう仕事がけっこうたくさんあった。そういう状況自体が今後厳しくなって、勉強が好きな少年も、野球好きの少年や将棋好きの少年や音楽好きの少年と同じような「人生の厳しさ」に直面するようになる。
という文章を読むと、勉強好きな少年が、ずっと勉強みたいなことをする仕事に従事し続ける為には、どのような分野や領域にその勉強能力を向けていくべきなのかがぼんやりと見えてくる気もします。
しかし、前の記事で述べたように、大企業であっても中小零細企業や専門職、自営業であっても実社会での事業や職務を的確に遂行し、一定以上の評価を得たり業績を上げる為には、『勉強能力』よりも『対人能力』のほうが重要だとは思います。
仕事上の成果や社会的な評価以外の人生における幸福や精神的な充実も、多くの人の場合、対人能力による関係性、即ち、他者からの認知・関心・愛情によってもたらされますが、一人で孤独な環境下にないと、十分に楽しめない趣味や行為も幾つかありますね。
(“勉強好きな少年”というのは、『勉強による快楽や知る喜び』を人並み以上に満喫できる少年なのでしょう。知ることや思索すること、想像することによる快楽のようなものは、他者の存在がなくても湧き起こってくる事があるという意味で『趣味・娯楽としての勉強は、他の趣味とは異なり、お金がかからず、他者を必要とせず、何処でもできる』といった特異的な性質を備えているように思えます。
ゲームやインターネットも一人で出来る娯楽ですが、ゲームは、ゲームのハードとソフト、映像を映すパソコンやテレビが必要で一定の費用がかりますし、思索や知ることを楽しむというよりも仮想世界に向けての想像や決められたルールや枠組みの中での得点などを競う楽しみみたいな要素が強いように思えます。インターネットの面白さや利用目的は、人によって様々ですから、一義的に、何が魅力的なのかを断定することは出来ませんが)
『勉強が好きな少年』が、それを職業につなげていこうとするならば、まず考えるべきなのは、『純粋に勉強だけで生計を立てる事と勉強を知的好奇心に応じて楽しむ事との差異』であり、そういった差異を経験的にあるいは合理的に知ってもなおそれで生計を立てたいかどうかを自問することでしょう。
更には、『現代社会で“純粋な勉強”に対価が支払われる可能性』が、自らの興味ある分野(専攻分野)と自らの知的能力・勉強意欲を考えた場合に、どのくらいあるのかなどを現実的に検討していく必要もあるかもしれませんね。
しかし、そういった賢しらな計算や思惑を抜きにして『ただ好きだから、時を忘れて懸命に勉強し続けられる人』こそが、本当に、勉強好きな少年の精神を、大人になっても保ち続けている人なのでしょう。
『無垢なる子どもの精神』は、ニーチェが至上価値を見出した精神性ですが、現代社会では、既存の価値体系や経済的制約に捉われない少年の自由な精神を、社会的アイデンティティと共に持ち続ける事は困難です。
しかし、勉強好きと結びついた社会的アイデンティティの確立が困難である一方で、情報化された現代社会では、知的好奇心を刺激する膨大な情報が氾濫していて、誰もが比較的簡単に『興味ある情報を即時的に消費する快楽』『興味ある情報を題材に対話する喜び』『フローな情報を知識としてストックする充足』を得ることが出来ます。
そのことから、社会的属性と結び付けずに、精神的な満足を得る目的で勉強(知的営為)を楽しもうとするならば、現代の情報社会には、十分に整備されたアクセシブルな環境が用意されているとも言い換えられるでしょう。
無限とも言える情報に開かれた先進国のアクセシブルなネット環境では、自分が何を知りたいのか、何を行いたいのかを明確にして、膨大な情報に対するリテラシーを高めなければ、無意味な情報や悪意ある他者に翻弄されたり、間違った知識や危険な知識を得てしまう恐れもあります。
しかし、メディア・リテラシーやネット・リテラシーを高める過程において、多様な論者や数多くの情報に曝されることで情報の取捨選択能力が鍛錬される面は否定できませんし、その情報の取捨選択の過程こそが、ネットの大きな楽しみの一つではないかと思います。
RSSリーダーの隆盛の原因の一つも、一方的にコンテンツが送られてくるマス・メディアと違って、自分の趣味や価値観に基づいて取捨選択したコンテンツを、更新通知を受けてすぐに読める満足感であると思います。
元記事の執筆日:2005/07/01