傷ついた自己愛の防衛と補償のメカニズムと母子一体感からの脱却(別記事)
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自己愛と対象愛によって満たされる私:健全な自己愛と病的な自己愛
フロイトは、自己愛(self-love)を自他未分離な状態の未熟な感情であるとし、自己愛の過剰による誇大自己や自我肥大による万能感を幼児的なものとして否定的に認識していた。
精神的に成熟した大人の自我は、自己愛に執着する事なく、自分の外部にある他者や対象を愛することが出来るようになる。つまり、健全な成熟した自我を形成した人は、現実原則に従ってリビドーを満たす際に、ナルシシズムのような自己陶酔や他者の存在を無視した自己愛のみに没頭して満たすのではなく、好意を抱く他者との関係性や外部の対象への欲求が満たされる事によって充足感を得ることが出来るようになるというのがフロイトの精神の成長モデルである。
フロイトのリビドー発達観によれば、生まれたばかりの赤ちゃんや幼児期の子ども達は、自他の境界線が不明瞭で、リビドー(性的衝動・生のエネルギー)のベクトルが自分自身に向けられているが、心身が成長して行動範囲と対人関係が拡大するに従って、リビドーのベクトルが自分の外部にある他者や事物に向けられるようになっていく。
古典的な精神分析理論にとって、自分で自分を愛し、他者の視点や立場に配慮することの出来ない自己愛は“発達早期の未熟なリビドーの充足方法”に過ぎず、いずれは克服されるべきものなのである。
従来の精神分析では、『自己愛から対象愛へ』のリビドーのベクトルの転換と発達が起こる事によって、人は社会性や倫理観を身に付けた自我を成長させることが出来るのであり、大人になっても自己愛を対象愛に転換できず、ナルシシズムに陶酔しきっているのは病理的な誇大自己の人格構造であり、自己顕示欲や自己中心性に支配された幼児的な精神状態(19世紀のヒステリー性格特有の自己中心性・自己顕示性・わがまま・衝動性・情緒不安定)であると考えられていた。
(ここでは、精神分析の自己愛と対象愛の概念の変遷を中心に述べますので、アメリカ精神医学会(APA)作成の診断基準であるDSM-Ⅳに定義された過度の性格の偏りと歪みによって起こる“自己愛性人格障害(Narcissistic Personality Disorder)”の詳細と対処については機会を改めて書きたいと思います。)
外界の脅威や不安から自我を防衛する自我防衛機制を分類整理して自我心理学派を確立したのは、シグムンド・フロイトの娘のアンナ・フロイトである。そのアンナ・フロイトの弟子に、独自の概念装置を利用した自己心理学派を創設したハインツ・コフートという精神分析学者がいる。
コフートの自己理論によれば、自己愛は必ずしも否定され克服されるべき“病的な自己愛(自己を苦悩させ、他者に危害を加える自己愛)”ばかりではない。フロイトは、リビドーの精神発達過程において、自己愛は対象愛へと転換されなければならないと考えたが、ここで自分の生活状況と人間関係を内省してみると、誰もが自己愛を完全に脱却して対象愛の充足のみによって生きているわけではないことに気付くであろう。
ユングの性格理論の概念に、リビドーが自己内面に向かう“内向性”とリビドーが自己の外部に向かう“外向性”という類型があり、内向性の性格特性を持つ人は自分の感情や思想あるいは好き嫌いを価値基準にして、外向性の性格傾向にある人は他者の評価や承認、自分の外部にある事物や利益を価値基準にする。
しかし、飽くまで内向性・外向性の二分法による性格類型論は、仮想的な説明概念に基づくモデルであり、完全に自己の内面の信念や選好にしか興味のない内向型性格の人はまず見つからないし、完全に自己の外部にある事物や他者の評価にしか関心のない外向型性格の人も滅多にいない。
ユングの性格類型と同じように、快楽と満足を求めるリビドーが自己に向かう自己愛と外部の対象に向かう対象愛も、それらを一目瞭然の形ではっきりと区分することは不可能だし、それぞれを個別の愛として差別化し、自己愛を未熟で幼稚な愛とし、対象愛を成熟した適応的な愛として優劣をつけることは現実的ではない。何より、私たちの生活環境への適応や精神の安定、そして、健全な発達に“自己愛の継続的な充足”は欠かせないのである。
アルフレッド・アドラーの“劣等感の補償による権力への意志”ではないが、私たちの努力研鑽の意志は、傷つき弱められた自尊心や自己効力感を補償して取り戻すという力動と密接に結びついている。あるいは、才気溢れる有能な人物で、劣等感の全くない人が仮にいたとしても、その人の仕事・学業・コミュニケーションといった社会的活動の意欲は、自己肯定感や自尊感情といった自己愛と切り離すことは出来ないだろう。
社会環境における行動の動機付けや学習意欲は、自らの能力や業績を他者に承認して欲しい自己顕示欲や虚栄心によって強化されるし、他者からの賞讃や評価といった精神的報酬(正の強化子)によって、オペラント条件付けが成立し、他者に期待される社会的活動の頻度は高まっていく。
恋愛関係における幸福感も『他者を愛する対象愛の喜びと他者から愛される自己愛の喜びが相補的に統合されたもの』であり、そういった事柄を考えると、単純に自己愛は対象愛に劣る幼稚で未熟な愛であると断定することは勇み足であるように思える。
自分を愛する事ができないという事は、人生を力強く生き抜く気概を持つ事を困難にし、他者とのコミュニケーションや関係性から感動や歓喜を味わう事を抑止する。
自己愛とは、『自己存在の積極的な肯定あるいは自己存在の無条件の受容』であり、『この世界に生きている事を楽しみ喜ぶ姿勢』を持つ事を宣言することでもあるのだが、私たちは、確かにフロイトが言うように精神の発達過程において様々な人間関係や現実制約を体験して学習する事で自己愛を少しずつ不完全なものへと弱めていき、対象愛という新たなる愛の形を手に入れることとなる。
しかし、『自分以外の他者の存在を思いやる不完全な自己愛』は、『自分と他者の境界が不明瞭な完全な自己愛』よりも社会や外界に開かれた適応的な自己愛だと私は思う。
他者との利害調整や感情交流を前提とする不完全な自己愛を持つ事によって、私たちは、他者との共感に基づく幸福を味わうことが出来るし、社会的な関係性が生み出す深みのある充足感や達成感をリアルなものとして経験することが出来るのである。
自己愛が過剰に強くなって自己愛性人格障害や演技性人格障害といった病理的な人格構造が形成されてくると、現実的な自己認識を逸脱した誇大自己が肥大して、特異的な行動パターンを示してくる。尊大な態度や傲慢な振る舞いが多くなり、他者を自己の欲望充足の為に操作的に利用しようとする意図的な言動などが見られるようになるだけでなく、自分を批判する者や自分の考えに反対する者を激しく攻撃したり排除しようとする衝動的で防衛的な行動が目立ってくる。
病的な自己愛の持ち主と一緒に居る場合に感じる不快感や違和感というのは特徴的なもので、一般的にわがままで自己顕示欲が強く、支配的で非常識な性格といった形で認識されることが多い。自己愛性人格障害などの自己愛の過剰な高まりに基づく性格の歪みが見られる人と一緒にいると、次のような不快な苛立ちや困惑を感じることが多くなってくる。
『いつも都合の良いように利用されている気がしてイライラする』『一方的に自分の意見や好みを押し付けてくるくせに、私の意見や希望は一切聞き入れてくれない』『わがままで自己中心的過ぎるので、それとなくそのことを指摘すると激しく怒って攻撃的になる』『自己陶酔的で、自分が特別な存在、最高に価値のある人間という勘違いをしていて、それを押し付けてくる』……こういった印象や感情を抱く場面を頻繁に経験する相手と良好な人間関係を維持していくのは非常に困難である。
また、上手く対応して相手の支配的な言動に呑みこまれないようなコミュニケーション・スキルを身に付けないと、相手に利用され尽くして、自分自身が心身共に疲れ切って病的な情緒不安定に陥ることもあるだろう。
私たちは、『不完全な自己愛』を、他者に向かう対象愛と相補的なものへと成熟させ、他者との人間関係の中で洗練させていかなければならない。 そのことによって、真に自己を愛し人生を肯定できるだけでなく、それ以上に他者を愛し世界を肯定できるようになれるのではないだろうか。
『自分を本当に愛せない者は、他者をうまく愛することが出来ない』という使い古された愛の言葉ではないけれど、自分の存在を徹底的に否定し嫌悪することは、抑うつ的な絶望感や破滅的な衝動につながり、他者を愛し肯定する心理的余裕や寛容を失わせてしまうし、何をしてもうまくいかないし、全ての努力は無駄だという悲観的な認知は自らを身動きのとれない精神的な窮地に追い込んでしまうだろう。
適切な強度と内容を持つ『健全な自己愛』は、自分自身の精神の安定と人格の成長に必要なだけではなく、自己愛に基づく自尊感情の励起によって行動力や活動性を高め、他者との共感的関係や連帯的協調を実現する。そして、他者や社会と積極的に関わっていきたいという動機付けを高める自己愛は、相互利益的なコミュニケーションを円滑にするという働きを持っている。
以下は、次の別記事になります。
傷ついた自己愛の防衛と補償のメカニズムと母子一体感からの脱却
自己愛と対象愛の相補性や自己顕示的な自己愛と社会的行動の発生について、前の記事で述べましたが、今回は、“病的な自己愛”と“健全な自己愛”の差異についてハインツ・コフートの自己心理学を元にして書いてみたいと思います。
フロイトの自己愛には、外的な対象と内的な表象(イメージ)が存在せず、自己愛は“直接的に自分自身へとリビドー(性的欲動)が向けられる自己没入的な依存的な愛”として否定的なものと認識されていました。
コフートの自己愛には、外的な対象(もう一人の自己)は当然存在しませんが、内的な表象(イメージ)は存在していて、自己愛は対象のない内閉的な愛ばかりではないことを示しています。つまり、自己対象という内的表象にリビドーが向けられる自己愛を仮定することで、自己愛や依存性を『内閉的ではない内的対象(自己表象)との関係性』で考える事が出来るようになったのです。
フロイトの自己愛への耽溺は、外部からのアプローチや働きかけが通用しない病的な自己愛をイメージさせますが、コフートの自己愛の概念は、外部の他者との関係性を生み出し、社会環境への適応をより良いものへと変容させていく原動力となるものです。
健全な自己愛を他者とお互いに認め合う事、そして、大切なかけがえのない相手の依存心をお互いに受け容れる事によって、私たちの人間関係や生活状況は更に素晴らしく魅力的なものとなるという基本的な理念が自己心理学にはあると言えるでしょう。
コフートの自己愛に関する考察と理解は、対象関係論を踏まえたものであり、彼の言う肯定的で健全な自己愛を理解する為には、『表象(representation)』という概念を適切に理解しておかなければならないでしょう。
表象とは、厳密に言えば『外界の対象からの刺激を受けて感覚される情報の複合体として、心の内面に思い浮かべられる直感的な外的対象の像(イメージ)』のことです。簡単に言えば、外的対象の代わりに心の中に思い浮かべられるイメージであり、内面心理に投影された外的対象の心像・観念のことです。
“対象(object)”は、自分の意識の外部にあるモノ(物質)でありコト(現象)を意味しますが、“表象(representation)”は、自分の意識の内部に記憶や印象と共に浮かび上がってくるイメージや観念を意味するので“内的対象”として理解しても良いでしょう。
外的対象、即ち、具体的な事物や現象がなくても、表象は心の中に想起され意識されますし、表象のお陰で私たちは過去の記憶に基づく会話をしたり、実際に目の前にない事物や現象について色々なことを考えたりすることが出来ます。
更に言えば、人間の知性の起動力であり源泉でもある言語機能も、表象の想起・再生・応用の能力に大きく依存しており、表象(イメージ)を直感的に思い浮かべられないと、共通理解に基づく他者とのコミュニケーションを正確に効率よく行うことは出来ないでしょう。
自己愛を否定的な欲求充足の形と見る伝統的な精神分析では、自己愛を“一次的な自己愛(発達早期の未熟な自己愛)”と“二次的な自己愛(病的な自己愛)”に分けます。
自己愛の発達を対象愛の発達と同様に、正常な精神発達ラインの一つと考える自己心理学では、自己表象との関係性によって規定される自己愛が、心理構造の安定化や適切な自己評価・自尊心の維持という機能を果たしていると考えます。
フロイトの自己愛から対象愛への発達でモデルとなっているのはエディプス・コンプレックスに苦悩する子どもであり、去勢不安や男根羨望といった葛藤を乗り越えて、異性の親への欲求を断念し、同性の親を理想的な人物像として性同一性を確立していく事となります。
自己愛が、自己から他者への愛の欲求の転換であるように、エディプス・コンプレックスの克服は、自己に隣接した家族への愛から家族外部の他者への愛の転換なのです。
幼少期からの生活環境を共にした異性には性的欲求を感じ難いとする“ウェスターマーク効果”と家族内部の異性の親に性的関心を抱き、それを断念するという“エディプス・コンプレックス”は、一見矛盾する理論ですが、家族から社会へと人間関係を開放して共同体を拡大していくという“人類におよそ普遍的に見られる婚姻やセクシャリティの法則”を異なる視点から説明する理論でもあります。
一方、コフートの自己愛理論でモデルとなっているのは、母親(養育者)と自分がまだ未分離な発達早期(幼少期時代)に形成された心理構造に欠損や外傷を抱えている個人であり、一般に“欠損モデル”とも呼ばれます。誰もが自己愛の充足というモチベーションによって思考・感情・行動が少なからぬ影響を受けるように、誰もが自己愛を生み出す母胎としての“自己の欠損・自己の傷つき”を抱えています。
自己の欠損の大小といった程度の差はありますが、私たちは自他の境界が未分離な発達早期において、メラニー・クラインが述べるような自分と母親の区別が明瞭でない“母子一体感”の幻想的状況の中にいます。
母親と自分の区別がつかない自他未分離の状態では、母親は赤ちゃんの心の中で自分と同じ対象として認知されます。つまり、自己心理学に基づけば、赤ちゃんや乳幼児の内面心理で形成される“自己表象”とは、母親と自分が渾然一体となっている混沌とした自己のイメージなのです。
赤ちゃんにとって自分と母親は同じ自己対象なのですから、母親から虐待されたり無視されたりミルクを与えられなかったりする事は、自分自身(自己対象)が自分を裏切ったり傷つけている体験として赤ちゃんに理解されることとなります。
生まれて間もない乳幼児の時期に、非共感的な母親(父親・養育者含む)から冷淡でよそよそしい態度や行動を取られると、赤ちゃんは自己表象が自分を否定したり傷つけたりするものだと認識(誤解)してしまい、強烈な欲求不満を感じ、自己愛の傷つき・欠損や自己の断片化(養育者の表象の自己表象からの分離)が起こってしまいます。
しかし、母親と自己の区別が不明確な自己対象に対する自己愛が傷ついて、心理構造に欠損が生まれる事自体を悲観的に考える必要はなく、それ自体は悪いことでもありません。
“自己の欠損・傷つき”は、正常な心身の発達過程において必ず起こらなければならない出来事であり、母親(養育者)が自分とは異なる独立した意志を持つ他者であることを認めるという事は自我の萌芽を意味します。
自己愛が傷つき、心理構造に欠損が生じることによって、私たちは『魔術的な思考(泣けばすぐにミルクや愛撫がすぐに魔法のように現れてくる)』や『幼児的な全能感(世界と自己は一体のものであり、やりたいと思う事は全てできる)』を脱却して、母親への一方的な依存や自己愛に基づく横暴なわがままを抑制することが出来るようになっていきます。
つまり、魔術的な思考や幼児的な全能感を持ち続けていては社会や他者に受け容れられることはないことを知り、私たちは発達早期においてその独我論的な万能感を断念することになるのです。
そして、世界(客体)と自己(主体)が切り離されている事を知る事で、現実的で客観的な世界認識が可能となっていきます。更に、他者と自己が対等な権利を有する異なる存在であることを了解することで、他者の感情や立場を思いやることができるようになり、自己愛に溺れすぎない健全な人間関係を発達させていくことが出来るのです。
元記事の執筆日:2005/07/03