『でたらめな仕組みで動く社会』の正当性や根拠にまつわる考察(別記事)
池田晶子『41歳からの哲学』の書評:自分の頭で不思議や疑問を考える哲学(別記事)
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大勢の人の前で緊張せずに話をする方法
普段から、対人緊張、吃音(どもり)、対人恐怖を感じている人でなくても、大勢の人の前で講演したり演説したりすることには一定の緊張と苦手意識を感じるものです。しかし、人前で流暢に話す技術、特に大勢の聴衆の前で緊張せずに話せる心を持つことの重要性と必要性を多くの人が感じています。
極端に対人緊張の強い人の場合には、自分の通いなれた職場の朝礼や終礼で簡単な一日の決意や感想を述べることさえうまくできず劣等感に悩んでいるという人やみんなの前で何か発言したり主張しなければならない日は前日から神経が興奮して寝付けないという人もいます。
中には毎日、部下の前で訓示や指導をしなければならないから出世する事が恐ろしいとか、出来るだけ人前で話をしなければならない職業や地位には就きたくないから今のままの日の当たらない部署が一番いいのだと自己否定的な思いにとらわれている人もいます。
大勢の人の前で、面白い話題を選んで自然に話が出来る能力というのは、ビジネス場面でも有利な性格特性として重宝され、集団の中でリーダーシップを取りやすい人物としての評価を受けることも稀ではありません。
しかし、日本人の文化結合症候群として社会性不安障害(対人恐怖症)が指摘されるように、日本人の多くは大勢の人の前で講演したり意見したり演技したりすることを基本的に回避する傾向があります。
但し、今回は精神病理としての対人恐怖は取り扱わずに、一般的な演説場面などで感じる緊張の心理を前提として語ります。その前提を経て、多くの人の前で緊張せずに自分の話したいテーマについて話す方法について考えてみたいと思います。
人前で何かをしなければならないと聞くだけで強度の緊張や不安に陥る人が、実際にその場面になった時にはどのような身体の生理的変化が起きているでしょうか。 緊張症や赤面恐怖などを訴える人の生理的変化は極めて似通ったもので、『大量の冷や汗をかく・喉がカラカラに渇いて声が出にくくなる・頭が真っ白になって何を話すつもりだったのか思い出せない・心臓がドキドキと激しく鼓動して不安になる・呼吸困難に似た状態になる』といったものです。
これは、ハンス・セリエの汎適応症候群(GAS)の警告反応期の段階に似た生理学的状態で、大勢の人の前に立ち話したり実技をしたりしなければならないという精神的ストレスを『脅威的な事態』と認知した結果、起こってきた状態です。
脅威的な事態の認知を経た有害なストレスが自律神経系に働きかける事によって、迫り来る危険に備える為に、交感神経が優位となり活発に身体各部の運動を促進します。勿論、迫り来る危険とは『戦闘して打ち倒すべき外敵』ではなく『大勢の前で話をすること』なのですから、自律神経系の急激な変化による自己防衛機制は実際上、何の役にも立たないばかりか、かえって話をすることの邪魔や障害になるばかりです。
病理水準に至らないごく一般的な対人緊張や対人不安は、誰でも多かれ少なかれ抱くものですが、それに振り回されずに、それを当然のストレス反応と考え、その身体反応の原因を客観的に理解して適切な認知と演説態度をとれる者は、対人緊張によって苦悩することが少なくなります。
対人恐怖とは端的に言えば、『外的自己意識あるいは内的自己意識の過敏や過剰』を根本にもっている恐怖反応であるが、文化的特性として村社会的な集団主義の風潮をもっている文化圏に多く見られ、突出した個性や自己主張をあまり好ましく思わない共同体や集団の中で成長した人に発生しやすい不適応な心理状態でもあります。
実は、さきほど語った大勢の人の前で話す状況を『脅威的な事態』と考えるのは何故だろうか?を突き詰めて考えていく事に、講演や演説、プレゼンテーションの場面での緊張を緩和するヒントが隠されています。
私たちの身体の健康や安定を維持する自律神経系の反応は、実にあなたの心理状態の変化に敏感であると同時に正直なものです。大量の発汗や心臓のドキドキの高まりが見られる場合、あなたの身体は原始的な防衛機制を働かせて、身体各部にアドレナリンやコルチゾールといったホルモンを分泌して臨戦態勢をとっていることを示しています。
しかし、これはよく考えると奇妙なことです。あなたは戦闘や喧嘩をしに演壇や教壇に立っているわけではないし、大勢の人の前に歩いていっているわけではありません。つまり、身体は『今は、危険な状況で身構えなきゃいけないぞ』という間違った認知をもとにして、あなたに危険のシグナルを伝達しているわけです。本当は、身体的な危険はあなたに全く迫っていませんし、大勢の人の前で瞬発的な防御や行動をとるような事態はまず起きません。
何故、『あなたの話を聴く為に集まってくれている大勢の聴衆の前で話す事』を太古の戦闘場面と誤認するかのような反応を身体は示すのでしょうか?それはシンプルに考えると、大勢の聴衆が目の前にいることを、自分にとって脅威的な事態だと感じ、戦闘すべき敵だと心理的に錯誤しているからだということになります。
これも、少し突き詰めて考えてみるとかなり奇妙な認知の誤謬を含んでいます。 あなたの話を聞くために集まってくれている大勢の聴衆を、脅威・危険と認知するということは、無意識的にせよ『あなたへの悪意・害意・軽侮』を聴衆側の内面に想定していることになるからです。
その基本的認知は、『自己に対する自意識過剰と自信・自己肯定感の低さ』であると同時に『他者への不信・他者の加害性の想像』であると言えます。
自分の外見・服装・態度に対する外的な自己意識と自分の知識・価値観・判断に対する内的な自己意識が過剰になるとどうなるのか?簡単に言えば、『羞恥心の強化』が起こり、恥をかかないための完全主義や馬鹿にされないための防衛的態度によってより一層の緊張と不安を再生産することになります。
しかし、ここで勘違いしてはならないのは、大勢の聴衆は基本的にあなたの敵として眼前に立っているのではなく、その目的があなたの揚げ足取りや揶揄、批判、反対にあるわけではないということです。
『もし、失敗したらどうしよう?』という心配や『もし、言い間違ったらどうしよう?』という恐怖は、その場面には全く不要なものであり、失敗しても何も危険なことが起こることはありません。何度でもやり直しが出来ますし、言い間違えなどは演説や弁舌の得意な政治家や教授などでもしょっちゅうしている当たり前の間違えに過ぎません。
『話す内容を忘れたらどうしよう?』という緊張した場合の記憶力の問題についても以下の方法論の中で書きます。ここまでで理論的な説明を終えて、大勢の人の前で緊張せずに話す為の具体的な方法をまとめてみます。
大勢の前で話をする時の緊張や不安を和らげる認知的な方法
1.大勢の聴衆の敵意・悪意を前提としていることが不安・緊張の根底にあるが、実際の挨拶・講演・講義・説明を聴きに集まっている人はどちらかといえばあなたの話を聴きたがっている味方”であるという基本認識を忘れないようにしよう。
聴衆は味方であるという認識を持って臨む時、あなたの言い間違えや僅かな沈黙もあなた独自の個性として受け容れられているという安心感を抱くことが出来る。
聴衆は、あなたの間違いや矛盾を指摘するために存在するのではなく、あなたの話から何か面白い点や参考になる考えを聴きに来ているのである。
実際問題として、あなたに恥をかかせようなどという敵意を持っている聴衆というのは政治的な演説などでない限りまず存在しないだろう。
2.『無知・理解不足・言い間違え』などを理由に心配したり不安になったりするのは、専門的教師の立場で知識を教授する場合や知識の正確さと多寡を競い合う場面などを除いて不要の心配である。
例えば、専門分野の教授であってもその分野の全知識を漏らさず記憶しているわけではない以上、完全主義は何処までいっても終わりがなく強迫的な不安を強めるばかりである。
また、誰もあなたと知識の競い合いをしに講演などを聴きに来ているわけでもなく、あなたの人間性も含めた興味深い話の内容を聴きに来ているということを忘れないようにしよう。
3.話し言葉は、書き言葉ではないから、完全な内容よりも不完全さを感じさせる内容のほうが、人間臭いユーモアを感じさせて面白いといういい意味での『リラックスしたいい加減さ』を持とう。
完全な内容で演説や講演をするのならば、話は早い、事前に下調べを徹底的に行って完全に間違いのないと思われる原稿を時間に合わせて用意しそれを棒読みすればよい。
しかし、そういった類の講演や説明が無味乾燥で面白くないというのは誰もが知っていて、それ故、有能な官僚が製作した書類の読み上げは退屈であることが多い。
魅力的な講演や演説というのは、内容の完全さや知識の正確さにあるわけではなく、興味深い内容の話をその場限りのダイナミックな雰囲気で聴くことが出来る点にある。
その為、様々な失敗や言い間違え、度忘れの沈黙などは、それが講演自体を台無しにしたり、話の内容を破滅的に聞き取れなくしたりしない限りは、聴衆にとってもいい思い出になるし、あなたに対する好感や興味を増させる効果も期待できる。
4.聴衆は自分を肯定してくれる味方であるのだから、愛情や好意をもって気軽に語りかけるように話し掛けよう。
前述した『敵じゃなく味方と思おう』に類似しているが、声の調子や抑揚に魅力をつけるには、聴衆を大切な友人知人のように思って親愛の情を込めて語りかけるような感じで自然に話すと良い。
人間の心理機制として、好意や肯定、尊敬の感情に対しては同じような肯定的な感情を相手に返すという『好意の返報性』というものがある。
講演・演説・説明の第一段階の気候の挨拶や自己紹介の場面で、まずは優しく温かい雰囲気で言葉を発するようにしてみると、こちらの側から相手に対する敵意がなく好意があることを明示的に示すことが出来る。
完全主義で緊張や不安を感じやすい人の中には、相手を自分の話で圧倒しようとか自分の知識で感嘆させようとかいう『行き過ぎた自尊感情』が見られることがある。
それは、本来、小心で臆病な癖に、自負心ばかりが肥大して相手を屈服させたいという支配感情が緊張を煽り立てている心理状態である。
大勢の前で話すことに強い恐怖や不安を覚える人の何割かには、この支配感情を背景に持つ完全主義者がいるが、こういった無意識的な支配感情は、聴衆に対する敵意を内包している。敵意は敵意を返報する性質を持つ為に、相手を支配しようとか相手に敬服させようとかいう意識と結びついた完全主義を捨てる必要がある。
元々、臆病で気が弱いのに自尊心だけが強いという気質である場合には、まず、相手と対等な立場に自分が降りて、自分の側から親愛感や好意の感情を相手に示すことで緊張は格段に低下する。
『恥をかくんじゃないか、失敗すると大変なことになる』という対人恐怖症に接近するような対人緊張を見せる人は、相手の敵意や悪意を意識することがあるが、その根底には自分の側から支配欲求を相手に向けていることがある。完全主義の支配欲を捨てれば、失敗はそれほど致命的な恥や挫折とはならないからである。
5.演説・講演・説明で話す内容を的確に絞り込んで、『物語形式の自由連想』が可能なようにしておこう。
自由にテーマを決めて人前で講演や話をする場合には、神経質な生真面目さを発揮して『あれもこれも全部まとめて話してやろう』と欲張るべきではない。これは、自分自身が話の内容を忘れやすいという理由もあるが、それ以上に聴衆の記憶容量と印象に残る話題の選択性によってそれほど多くの内容を1回の講演で残さずに覚えている事はないからである。つまり、労多くして益少なしの講演となる危険性が高い。
反対に、話したい内容のポイントを絞り込んで、1つの話題(テーマ)を3つか4つくらいの観点や視点から掘り下げて話すほうが、聴衆の印象や記憶に明瞭なものとして残りやすいし、話し手であるあなたに対する評価も高くなりやすいのである。
全ての内容を綺麗に原稿にまとめあげてそれを読む官僚方式の演説は、一般の人には余り好まれないと前述したが、一応、簡単な備忘録としてのメモ書き程度はもっていたほうが良いだろう。
その場合にも、一つの中心テーマを、3つ程度の視点や側面から語るという方式であれば、非常に簡単にまとめたコンパクトなメモで済む。
そのメモには、『中心テーマ・3つの視点・話の大まかな流れ・重要なキーワード・忘れそうな内容の概略』などを書いておくといいだろう。
例えば、『思春期の子どもの問題』について講演しようとする場合に、性の問題、親子関係の問題、薬物の問題、就職とニートの問題などを全てまとめて語ろうなどとは決して考えるべきではないし、それを一定時間内にまとまりよく分かりやすく講演することは、多くの人たちにとって実際問題として不可能である。
そういった場合には、『性の問題』なら性の問題だけを語り、『薬物汚染と思春期の子ども』なら薬物の問題だけを語るようにして、それぞれの問題に関する小項目を3つくらい(『性の問題』なら『性愛の意義・現代社会の子どもを取り巻く性情報・正しい性教育とその目的』などの小項目を立てる)立てて、それぞれを物語形式で頭の中で結び付けておくようにするとよい。その上で、何度かリハーサルすれば、まず話す内容の全てを忘れて頭が真っ白ということにはならないように思う。
以下は、次の別記事になります。
『でたらめな仕組みで動く社会』の正当性や根拠にまつわる考察
はてなを運営している近藤淳也さんの『新ネットコミュニティ論 世の中はでたらめな仕組みで動いている』を読み、人間社会のルールと倫理規範、政治権力、市場経済などの仕組みや根拠などについて漠然と考えたので、それを少し文章化して残しておきます。
近藤さんのお話にインスパイアされてこの記事を書いたのですが、近藤さんの述べたいと考える趣旨から相当に脱線していますので、私のモノローグ的な記事として読んでください。
僕はなぜか、「世の中は誰かが適当に作ったとんでもなくでたらめな仕組みで動いている」という世界観を持っています。「世の中は遠い過去からこれまで人類の英知が作り上げてきた精巧な仕組みで動いていて、現時点での最適解になっている」などとは到底思えないのです。
世の中の仕組み(政治・法律・制度・常識)は、私たち国民の個々人の理想や思想、欲求、要望を直接的に反映したものでは有り得ません。直接民主制でも間接民主制であっても、個人の価値観・能力・気質性格・社会経済的環境に一定の差異がある以上、全ての人に歓迎され肯定されるような世の中の仕組みは確立できませんから、通常想定される『政治活動や社会制度の最適解とは、功利主義的な最大多数の最大幸福』ということになるのではないかと思います。
無論、最大多数の最大幸福という思想には、大多数が幸福であれば、少数者や異端者は不幸であっても仕方がないという“構造的なマイノリティの不遇”という問題が生じてきますから、人権意識が高まり、経済成長によって財政に余裕が生まれた国家や地域においては各種の社会保障制度や福祉政策によって『最低限の生活水準と文化的生活』が全ての人に保障されていく流れが生まれていきます。
世界を見渡してみても、『その人の能力・体質・健康状態に依拠せず、全ての人に生存権は認められなければならない』という基本的人権が認められている国家や地域に生きていることは非常に幸運なことなのですが、そういった弱者保護の制度的取り組みは、とりあえず先進文明国の一指標として用いることが出来るかもしれません。
社会保障や社会福祉は、動物界の弱肉強食の論理から一歩抜け出した人間的な相互扶助のあり方であると同時に、『市場経済による自律的な財の分配』とは異なる『政治権力による意図的な財の再分配』といえるのではないかと思います。
ただ、ここらへんは、政府による経済的な再分配の裁量をどこまで認めるのかという政治思想の対立もあり、社会保障制度の充実と労働意欲の減退との相関に注目する人もいて、どこまでの障害・不遇を保護すべきなのかには多くの議論があります。
それらのことから、民主的な政治的意思決定という建前はあっても、『国家におけるあらゆる意思決定・行政におけるあらゆる公的実務・司法におけるあらゆる判決措置』が、大多数の国民に承認され賛同されているわけでもありません。
現在、施行されている公的年金制度を中核とする社会保障制度には大部分の国民の将来不安に基づく怨嗟の声が寄せられ、官僚主義に陥った政治の主導力の低下には従前から根強い反発を感じる国民がいて、国家の最高法規に対しても賛否両論あり、課税制度の公正性についても様々な意見が対立しています。
それでも、社会において正式な法定手続きを経て制定された法律や制度には、(様々な反論や異論を主張することは出来ても)とりあえず従わなければならないのは、法治国家の国民として当然の義務です。また、社会構成員の大多数も、既存の政府や公的機関に正当性を感じているから、政府決定や公的機関(裁判所・検察警察・省庁役所など)の処断に基本的に従っています。
その事を前提とすると、自由民主主義国家における既存の世の中の仕組みに正当性が付与される根拠には、二つあるのではないかと私は思います。(専制主義国家や独裁国家の場合の正当性は、飽くまで“世襲身分・功績・観念的地位に支えられた圧倒的な軍事力(暴力)の所持”であると思います。)
1.主権者である国民自身が、立候補者の政治信条に同意して選挙で選出した代表者(国会議員・地方議員)が法律や条令を制定し、その法律に基づいて公正な選抜試験に合格した官僚・公務員が制度施行の実務を行っているのだから、政府の決定は国民の大多数の意見の信託を受けたものであるとする『民主主義理念・手続きにおける正当性』
理念に基づけば、建前上ではあるが(実際には諸般の事情や制約により不可能な場合が多いが)、政治に不満があれば自分自身がその反対の根拠と改善案を示して政治家に立候補することが可能であり、官僚や公務員が優遇されていて不公平だというならば自分が試験を受けて公務員になることが可能であるという事によって社会的アイデンティティの流動性が保たれていると考えている。
2.法治国家の国民は、如何なる場合も、『定められた民主的な意思決定手続き』に従って政治方針を変更しなければならず、その手続きを逸脱したり軽視すれば独裁政治や専制主義の不利益を蒙る恐れがあるという『社会秩序の維持感覚に根ざす正当性』
3.大多数の国民がその権威と権力を承認して、警察・自衛隊・司法などの実質的な権力基盤を有する既存の政府に、個人や小集団で物理的な抵抗や闘争をすることは現実的ではなく無意味であるとする『実力の圧倒的格差と現実感覚に根ざす正当性』
また、こういった既存の法秩序に基づく政府の意思決定に対して、物質的に裕福で政治的な危機が日常的に意識されない日本のような先進国の場合には、基本的に無関心になりやすい傾向も考えられます。
投票率に明示的に示されることもある“政治への無関心”は、多くの国民の政治への期待の無さを表し、政治的意思決定に対する無力感(自分一人がどんな投票行動を取っても政治は変わらない)を象徴するものです。
現代の国民国家のように国家の領土・人口・経済の規模が拡大すれば、相対的に国民個々人の主権の効力が弱くなるのは当たり前のこととも言えますから、『参政権を行使しても何も変わらない』という意識が芽生えることにも一定の理由はあります。
古代の小規模な地縁血縁に基づく共同体では、参政権を有する事自体が貴族の証であり名誉なことでしたが、現代社会における参政権そのものに感動や名誉を感じるという人はあまりいないでしょう。
国政に自分が参与できるという躍動的な感覚の喪失、主権者として国家権力を分有しているという自己効力感の減退といったものを改善するような対案があれば良いのですが、なかなか簡単には思いつきません。
しかし、どんなに政治に無関心な人であっても、自分自身や家族の生活状況、生命・財産・自由の損害に直接的に関係する政策問題については興味を持つものと思われますので、国家財政が破綻の窮地にある現在の状態は、公的年金や公的保険の存続維持の問題、不穏な東アジア情勢などを中心として政治に意識が向かい易い状態にあると言えるかもしれませんね。
もう少し大人になると、ますます社会のルールはおかしいのじゃないかという確信を深めていきます。例えば中学校の制服。なぜか襟にプラスチック製の白いカラーがついた詰襟の服を毎日着なければいけません。成長期の汗をよくかく時期なのに、毎日同じ制服をろくに洗いもせずに着続けなければならない(耐えられないので首にタオルを巻いてました)。襟が少し短かったり、長かったりすることが格好良さの象徴で、先生は少し短い襟や長い襟のことを「いけない」と決め付けて取り締まる(長い襟は格好悪かったけど、短い襟はそれなりに良いと思いました)。しかも誰にどれだけ尋ねても、制服が必要な理由や短い襟がいけない理由を合理的に説明してくれません。合理的な理由が無いので、ルールがでたらめだ、という確信を深めざるを得ません。
不合理な規則の厳しい中学校というのは、現代に唯一残る“規律訓練型システム”であるという事だと思います。良くも悪くも、不合理と考えられる規則を生徒に強制することによって、“既存の秩序を維持する社会の成員”を教育養成するという役割を一昔前の公立学校は持っていたのではないでしょうか。
既存の秩序といっても、『制服の形や仕様を改変してはいけないとか暑くてもプラスチック製のカラーを変えてはいけない、髪の毛の長さは眉の上何センチまででパーマや染色禁止』といった不合理な規則が存在する学校が思い描く社会は、一昔前の社会であり、決められた産業経済の枠組みの中で、社会に忠実に貢献しながら勤勉に働くことが善良な市民のあり方であると考えられていた時代の社会であると思います。
勿論、そういった勤勉・忠実・貢献・質実剛健・貞淑といった伝統的な美徳の価値は、現代社会でも完全に否定されているわけではありませんが、価値観や生活スタイルが多様化した現在ではかつてのように固定的で一面的に伝統的な美徳が称揚されることが減っているとはいえるでしょう。
つまり、多くの自由を制限する校則を残した学校というのは、かなりの割合の生徒が、時間遵守や制服規程などの厳しい工場や現場の製造業に就職することの多かった近代工業社会を前提とした教育観・人間観をもっているということです。 様々な不合理で無意味と思える規則も、そういった多くの労働者を必要とする近工業社会を前提とすれば、有能な被雇用者を育てる為に役に立っていたと考えられます。
また、長きにわたって日本企業の特色であった終身雇用制度や年功序列賃金制といったものも、そういった『帰属組織への忠誠・帰属組織のルールの厳守・目上の人に対する無条件の服従』を学校教育で躾けることを後押ししていたのかもしれません。
また、基本的に、公的な学校教育は、近藤さんのような起業家や経営者を育成することを目的としていませんから、学校教育における社会適応性の促進というのは、(教師による就職進路相談などの実際を鑑みても)企業や政府など何らかの組織に雇われる従業員になることを大きな前提として行われていると考えて良いのではないかと思います。
現実問題として、全ての人が市場経済で通用する独自の個性や創造性を有するわけではなく、大多数の人は幾つかの不条理な制約に縛られる被雇用者となるのですから、その学校教育の基本方針自体が根本的に間違っているとも言えないと思いますが、行き過ぎた統制目的の校則というのは少しずつ見直していく必要があると考えます。
また『制服の強制』というのは、学校内部の秩序維持と権威(教師)への従順性を高めるという目的からなされるのでしょうね。制服には、『集団への帰属意識の増進』や『集団内での地位の明確化』などの心理的効果がありますから、なるべく生徒に問題行動や反抗をして欲しくない教師たちにとっては制服があったほうが生徒を管理監督しやすくなるというメリットがあります。
服装の自由化は、心理的な解放感を高めて、制限や束縛に抵抗する反権威の意識を強めますから、校内の平穏な秩序と教師-生徒の非対称性を保ちたいと考える学校側としては、好ましい変革ではないと判断する可能性が高いと推測されます。
また、中学生の世代は、異性に対する意識や関心が高まり、外的自己意識の過剰が見られることも多いですから、『他の生徒との差異化を目的とした服装・化粧・アクセサリーの行き過ぎた競争』によって本業である勉強が疎かになることを学校側は心配するのかもしれません。『制服を着た生徒』と『制服を着ない生徒』に対峙した場合の教師側の心理的萎縮や統制能力の低下も懸念される点ではあるのでしょう。
世の中の仕組みや学校教育の問題について、色々考えてきましたが、これらの問題の背景にあるのは、どういった態度や考えが正しいとか間違っているとかいう単純な構造ではなくて、『公的性格を持つ権威に対して、どういった態度や認知をとるのか』という問題であるようにも思えます。
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近藤の思考回路と「行動主義」(My Life Between Silicon Valley and Japan)
『自分の頭でモノを考える人間』が、自分の思考や他者との議論の結果アウトプットされたものを、即座に現実世界における行動につなげられることの有能性について述べてあります。
言うは易く、行うは難しですが、観念の世界で困難なことが外部の世界で簡単な場合もありますから、堂々巡りの煩悶に陥ったときにはまず動いてみることも大切だと思います。
[ブログ]はてな近藤氏のネットコミュニティ論って(朝になるとやってくる antiECOの日記 )
現在の学校教育制度の本質を分かり易く突いている記事で、判断能力・責任能力・知識経験が未熟である未成年と成人の社会的な取り扱いを同列に考える事に抵抗感があるという内容になっています。
教師・親・生徒の三者関係をどのような視点や立ち位置で考えるべきなのか、社会化(社会適応)のための権威的な指導や訓練はどの程度必要なのかなどいろいろなことを考えさせられました。
以下は、次の別記事になります。
池田晶子『41歳からの哲学』の書評:自分の頭で不思議や疑問を考える哲学
「週刊新潮」で2003年5月1日から2004年6月3日まで「死に方上手」というコーナーで連載されていた池田晶子のエッセイをまとめて収載した41歳からの哲学を読みました。ポップな語り口調でありながら、遠慮会釈のない直截な言葉で、社会問題、政治経済、倫理問題を快刀乱麻を断つかのような切れ味鋭いエッセイ集。
この本は、週刊誌で連載された比較的短いエッセイを集めたもの、おまけに、書き手は、主観的感情と哲学的思索を社会一般の常識に対して圧倒的に優位におく知る人ぞ知る池田晶子女史です。ですから、書かれている内容の真偽や妥当性を冷静に分析して批判するような読み方は全く似合わない。また、哲学に関する正統的な知識や社会的な倫理観をもってこのエッセイ群を論駁しようと思えば簡単に出来るのです。
何より、大半が独断的結論と主観的思弁によって展開されるエッセイなのですから、はじめから著者自身、知的な防衛や主張の客観性などには配慮していないでしょう。そういった自然体で書く文章だからこそ、下手に複雑な論述よりも文章の趣旨がすっきりとしていてとっかかりやすいものになっているとも思います。
しかし、池田晶子は、おそらくそうした論理的なあるいは倫理的な反論の可能性について既に了解していて、自らが思い考えるところを率直にエクリチュールとして書き綴っていることと思います。
常識だとか人情だとか世間だとかそういったものを前提としてこの本を読むのはお薦め出来ませんが、ちょっと生活世界から身を離して、斜に構えながら気楽に社会や人間について考えてみたいと思う人は、この本と共にある数時間を心から楽しむことが出来るでしょう。
『41歳からの哲学』とは銘打ってありますが、別に年齢にこだわって読むような作品でもない。対象年齢を問わない肩の力を抜いて読める秀逸なエッセイが揃っていますし、逆に中年世代よりも中学生や高校生が読んでみると、退屈で平凡だと思っていた日常生活を見る視点が変わってくるのではないでしょうか。ゲーム好きの中学生だとかファッション好きの高校生だとか、普段、本を手に取る機会の少ない人で、何か今までとは違う刺激や興奮が欲しいなとふと退屈を覚えたときなどに気軽に読んでみるといいかもしれません。
先ほど、この本のエッセイや評論は比較的簡単に論駁できると書きましたが、これは実は面白いエッセイに必要な要素でもあるのではないかと私は考えています。綿密な考察に基づく完全無欠の論理性や反駁困難な精緻に築き上げられた倫理性をもって語られる哲学やエッセイは、真性の哲学愛好者にとって垂涎ものであっても、一般の読者には読みにくい専門的な用語や概念のオンパレードだったりして、何が何だかさっぱりということになりかねません。
何より、作者の意見に対して一切の反論が出来ないと感じられるような論説は、『ご説もっともであり、いい勉強になった』という形の感想で終わってしまい、自分で物事を考える起点にならないこともありますし、日々の仕事や勉強で疲れている時に難解な読書は大変です。
週刊誌上に掲載されるようなエッセイを読む時には、『それはちょっと違うだろう』とか『それよりも自分の考えや主張のほうがもっと説得力があるんじゃないか』とか『社会や人間の観察や分析がもう一歩踏み込み足りない』といった作者への異議申し立てが出来るエッセイのほうが面白く感じられるものです。
何より、池田晶子氏は、『専門用語を極力使わずに日常の言葉で哲学的に物事を考える』ということを重視していますから、専門用語や専門知を使わないことで読者に『自分の頭で考える快楽と不思議なことを不思議と思える感性』を伝えようとしているのかもしれませんね。その伝える手段が、書物に記されたシニフィアン(文字)にこめられた彼女の生きた言葉なのでしょうね。
彼女自身がこの『41歳からの哲学』で述べているように『彼女の哲学は、あくまで哲学であって宗教になりえない“私”の思索』であり、真の哲学とは『自分の頭で物事を考えること』にほかならないことを強調しているのだと思います。
真理や救済を説く宗教には宗教の価値がありますが、宗教を起こす創始者自身は宗教を盲目的に信仰したのではなく、主観的な哲学を行った果てに自らが絶対的と思う真理に到達し、それを万人に布教することを自らの使命と考えるに至ったのでしょうね。
しかし、絶対的な真理に到達した途端、自らの頭によって思索する営為は終わりを向かえ、哲学は宗教へと必然的に移行します。絶対的な宗教教義を布教するようになれば、その教義を反駁したり超越する個人の哲学を行う余地ははじめからなくなります。
宗教とは、哲学(主体的な思考と価値判断)の終局であると同時に、『哲学の死』であるとも言えると考えると、既存宗教や新興宗教を見る目も磨かれるかもしれません。
元記事の執筆日:2005/07/18