精神分析の非日常的コミュニケーションにおける解釈:フロイトのエディプス・コンプレックスとコフートの自己対象との共感的関係

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フロイトのエディプス・コンプレックスとコフートの自己対象との共感的関係(別記事)

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精神分析の非日常的コミュニケーションにおける解釈・洞察の効果と限界

人間の心理領域の治療方略としての精神分析は、現代のエビデンス・ベースド(evidence-based)な心理療法に先駆ける臨床理論であると同時に実践技法であった。人類はその太古から心理的な悩みや実存的な存在の不安を抱えていたが、心理療法や文明生活の消費の快楽が誕生する以前には、その悩みや不安を解消する為の役割は、宗教の告解や儀式、共同体の人間関係によって担われていた。

精神分析はその隆盛期において“宗教・政治・思想・哲学の代替物”としてもてはやされ、その高額な謝礼金もあって精神分析を受けることが上層階級のある種のステイタスであるという認識がもたれた時代もあった。おおかたの心理療法の中心的な効果の機序は『言語的あるいは非言語的なコミュニケーションによる無条件の存在の肯定と尊重』にあるのではないかと私は考えているが、精神分析の治療機序はそれとはやや異なっていて『非日常的な空間における無意識の言語化と自己の欲求に関する洞察』にある。

一般的なカウンセリングと正式な精神分析場面を比較してみれば、その差異は面接構造に明示的に表れている。カウンセリングは、通常、日常的な対話の形態と交流から大幅に逸脱することはなく、椅子やソファーに座って共感的な雰囲気の中で心理的な葛藤や問題について語り合い、傾聴し合う。一方、精神分析は、寝椅子に横たわって自由連想をしながら独り語りの形式で、自分の過去の物語や人間関係を思い出して言葉にしていくという特殊な形態と方法を採用している。

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分析を受けるクライアントが自由連想をしている間、通常、分析家は滅多なことでは口を挟まないし、意見や質問も最小限に留める。何より、分析家はクライアントの視界に入らない背後や側面などにポジションを取って、静かにクライアントの内面を映し出す鏡のように話を聴き続けるというのが原則であるのだから、一般的なカウンセリングとは全く異なるコミュニケーション形式がそこには見られるのである。

『誰かが近くにいるのに、自分一人で話したいことを遠慮せずに滔々と話し続ける空間』というのは、明らかに日常の人間関係では見ることのできない非日常的で特殊な空間である。そして、その非日常的で特殊な時間と空間において、自分自身の精神生活の歴史と人間関係にまつわる感情の系譜を遡り言葉にする自由連想こそが精神分析療法の本質である。

その非日常的な空間の中で二人の興味の対象となるのは『自身の精神生活の感情と記憶』であり、功利主義的に動く社会生活の中で感じる疎外感を回復する『結果よりも存在を尊重する場』として精神分析は機能していくと考えられる。

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しかし、精神分析の弱点は、正にその本質である『行為の結果よりも存在の尊厳を重視する事』『分析者の中立性を保ってひたすら話に傾聴し解釈する』というところにあり、新しい一定の不安と危険を伴う状況離脱のための行動を決断できないという結果をもたらすことがある。つまり、分析のための分析に終わらない為には、適応的な行動や習慣を獲得するための能動的な働きかけをしていかなければならない。

精神分析的な『無意識の意識化』を促す心的過程の解釈だけに終わるのではなく、クライアントの自我の強度や性格傾向に応じて、環境適応を高める為に認知行動療法的なアプローチも合わせて行っていくほうがより良い効果が発揮できるのではないかと思う。

受動的な共感的傾聴による解釈を主とする技法は『存在の肯定』を目的とし、能動的な積極的介入による行動と認知の変容を主とする技法は『具体的な生活行動の改善』を目的とするが、それらは対立するものではなく相補的に支えあっていくべきものである。

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以下は、次の別記事になります。

フロイトのエディプス・コンプレックスとコフートの自己対象との共感的関係

伝統的な精神分析と自己心理学派の赤ちゃんの精神構造のモデルも全く異なるもので、フロイトは赤ちゃんを、自他未分離で本能的欲求である“エスの人格構造”に支配された存在と見ていました。 エスとは、動物的本能や原始的欲求が混沌として渦巻く善悪の分別がない領域であり、破壊衝動や攻撃欲求の原資となるリビドーの源泉でもあります。しかし、エスで生み出されるリビドーは、破壊欲求のエネルギーとして利用されるだけではなく、成長過程で社会性や道徳観を学習していくにつれて、創造的な行動や建設的な欲求のエネルギーとしてもリビドーは利用されます。

フロイトによれば、赤ちゃんの攻撃性や衝動性は生得的な本能的欲求で、それは生まれながらのものですが、コフートによれば、赤ちゃんの攻撃性や衝動性は純粋な本能ではなく、思い通りにいかない自己対象(母親・養育者)との関わりの中で学習されるものであり、その時の自己愛的憤怒(narcissistic rage)が攻撃欲求の起源となっていると考えるのです。また、シグムンド・フロイトからアンナ・フロイト、メラニー・クラインといった人たちは、赤ちゃんが自分自身を外界の恐怖や脅威から自分を守る為に、原始的な防衛機制を用いると考えました。

原始的な防衛機制として最も重要なものは、メラニー・クラインが発見した“投影性同一視(projective identification)”“分裂(splitting)”ですが、その他にも取り入れ、否定、否認など幾つかの原始的防衛機制が定義されています。これらの原始的防衛機制に共通する特徴と機能は、“現実原則の考慮の欠如”であり、もう一つは“母親からの分離―個体化”への正当な評価がなされず、自己の外部の人に対しての対象恒常性が欠如していることです。

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これらの防衛機制は、境界例の精神分析や幼児の児童分析を通して見出されたものが多いことからも、小学生以上の発達年齢で原始的な防衛機制を頻繁に用いて、現実認識能力の低下や幼児退行的な自閉性が見られる場合には、境界性人格障害の病理性や発達障害などの可能性を考えなければならないかもしれません。

フロイトの赤ちゃんに対する認識は、どちらかというと無力で自他未分離な不安定な精神状態にあり、全面的に親の世話と愛情に依存するだけの受動的な存在というものなのですが、コフートは、赤ちゃんにも母親に向かって積極的に働きかける能動的な面があり、“アサーティブ(自己開示)の能力”の芽生えも見られるとしました。

また、伝統的な精神分析では、去勢不安を伴うエディプス・コンプレックス(異性の親への性衝動・独占欲と同性の親への嫉妬・敵対心)が強化されてくる4~6歳の時期を将来の精神的健康を左右する非常に大切な時期だと考え、自由連想法や夢分析の技法では、このエディプス期の情緒的葛藤や混乱を心的外傷(トラウマ)の遠因として解釈することが多くなっています。

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しかし、コフートの自己心理学では、エディプス・コンプレックスの克服やトラウマをそれほど重視せず、異性の親を独占しようとした為に同性の親から懲罰を受けるとか迫害されるといった去勢不安も一般的なものではないとします。そして、男性の去勢不安と対置される女性のペニス羨望(男性性と権力欲求のメタファーとしての男根羨望)なども、客観的根拠のないファンタジーとして退ける立場です。

自己心理学がエディプス期に重視する心理的発達課題は、自他未分離な母親との幻想的一体感を克服した子どもの健全な自尊心や自己肯定感の成長であり、その成長を親(養育者)が促進する為には、愛情と優しさに満ちたコミュニケーションや子どもの自発性や積極性を尊重して承認するようなアプローチが大切になってきます。

コフートは、エディプス期に生じる同性の親への敵対心や反発心によって生じる去勢不安のようなものを重視しませんが、エディプス期が特別な心理的不安のない安定した時期、障害の少ない時期だと考えているわけでもありません。エディプス期の発達上の問題は、自己対象(自分と近い関係にある大切な人たち)が非共感的な対応をすることで、自己の統合性が乱されて断片化することで解離的な状態に陥る危険があることです。また、適度な強さや程度の自尊感情を抱くことが出来なくなると、様々な事柄・課題に対して消極的になり、対人関係からひきこもりがちになって社会生活(学校生活)に支障が出てくる事もあります。

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この時期に達成するべき心理的課題は、適切な強度と耐久力のある自尊感情と自信の成長であり、自己肯定感をもって、失敗や間違いを恐れずに色々な課題や問題に積極的にチャレンジしてみることだと言えるでしょう。 そうした四苦八苦の試行錯誤と七転八倒の努力の繰り返しの中で、子どもは自分自身の能力の特性と可能性を認識して、友達と競い合ったり助け合ったりしながら、自己の長所を伸長させ、自己の短所を改善させていく事となります。

子ども達が、学校などの集団活動に適応し、自分の力や可能性を伸ばしていく為には、安定した精神状態と自分の存在と能力に対する肯定的な自覚が必要となってきますが、身近な家族から自分が承認されて受け容れられているという実感を持つことが出来れば、外部の世界でも自己肯定感情を持ちやすくなるのです。

何故、子ども達は自分の両親や兄弟から尊重されて理解されることを求めるのでしょうか?何故、健全な精神の発達や情緒の安定の為には、身近な他者の承認や肯定が必要で、温かく見守ってくれる優しい眼差しがなければ不安や恐怖を感じるのでしょうか?この問いに対する答えは、本当は極めて自明な事であり、言葉で論理的に説明できなくても誰もが実際の生活体験の中で『身近な人の愛情や信頼の大切さ』を実感しています。 また、未成熟な子どもではない十分に自立した大人であっても、身近な他者である家族や配偶者、恋人、友人から尊重され理解されることは生きていく上で欠かす事が出来ません。

自己心理学においてコフートが人間の精神的健康を維持する最大の要因として想定したのは、『自己対象の肯定・尊重・受容の態度』であり、私たちは日常生活の様々な感情体験の中でその事を深く実感することが出来ます。

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コフートのいう“自己対象(self-object)”とは、“主体性の中心的機能を担う自己”や“体験を認識する容器としての自己”とは全く異なる概念であり、自己対象とは『自己の一部として感じられるような大切な他者・自己の一部として機能しているような重要な他者』を意味する概念です。

私たちは、内的対象のイメージとしての大切な他者との関係にせよ、外的対象の実際の人間としての重要な他者との関係にせよ、自分の周囲にいるかけがえのない人たち=自己対象との感情生活と情緒体験によって気分や感情が変化するので、充実した生活を満喫する為には自己対象とどのような関わりを持つべきなのかを考えていかなければなりません。

また、この自己対象は、『自分にとっての味方』と『自分にとっての敵』を区別する心的過程の指標として考えることもできるのではないかと思います。自己対象に包含される『自分にとって高い価値のある他者』に対しては、崇高な自己犠牲による行動を取ることが出来る一方で、自己対象に包含されない『自分にとってあまり高い価値を持たない他者』に対しては冷淡な思いやりに欠けた対応をとることもあります。

自己対象内部の他者と自己対象外部の他者とを完全に同等に取り扱うことは、無償の博愛であるアガペーの実践となるため通常の人間にはほぼ不可能なのですが、排他的理念に基づく激しい戦闘やテロが繰り返される世界情勢を見ていると、自己対象の範囲の狭小と関連した破壊性・排撃性の恐ろしさを思わされます。多くの伝統宗教で掲げられる他者に対して寛大な心をもつことの美徳は、そのまま自己対象の範囲を拡大することを意味するのですが、それを妨げる歴史的・文化的・経済的要因が現代社会にはあまりに多過ぎて解決の糸口が見え難いですね。

『世俗の規範としての共同体倫理』よりも高い普遍性と強い正当性が望まれるべき『神聖の規範としての宗教倫理』が、時に戦争やテロを生み出す原因ともなるのは皮肉なことですが、その根本要因として『自己対象の内部・自己対象の外部』を対立する境界として設定する『二分法の危険性』を考えることも重要でしょう。

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元記事の執筆日:2005/07/22

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