『農業革命・工業革命・情報革命』人類が歩む無数の価値とデバイドの産出の歴史、戦争と平和・集団と個人・適正なコンプライアンスレベル

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『農業革命・工業革命・情報革命』人類が歩む無数の価値とデバイドの産出の歴史:2(別記事)

戦争と平和・集団と個人・適正なコンプライアンスレベル(別記事)

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『農業革命・工業革命・情報革命』人類が歩む無数の価値とデバイドの産出の歴史:1

農業革命や産業革命といった人類史上の大変革に匹敵する出来事(第三次革命)として情報革命が起こり、私たちはかつて想像すらできなかった有象無象の膨大な情報に取り囲まれています。IT(Information Technology:情報技術)革命と呼ばれる急速な情報化社会の到来は、社会構造や経済システム、そして、私たちのライフスタイルに大きな変化をもたらしました。1990年代ごろから、情報技術分野におけるイノベーション(技術革新)が加速して、パソコン(personal computer)や携帯電話、PDAといった情報関連機器があっという間に私たちの日常に普及していきました。

人類の歴史における第三革命とも言われるITの進歩と普及は、一体、どういった恩恵と弊害を人類にもたらしたのでしょうか。農業革命によって、人類は食料の生産性を格段に向上させ、かつての狩猟採集時代に頻繁に起こっていた飢餓と欠乏の恐怖から(完全ではないにせよ)脱け出すことに成功しました。農業革命の最大の功績は、かつては偶然の幸運と自然の恵みに頼っていた食料の確保を人工的に行い、その収穫量を激増させたことにあります。

しかし、人類を飢餓から救った農業革命には、階級社会の形成を早めて封建的な身分差別を促進したという負の側面もあります。収穫量を飛躍的に上昇させたことによって、生産物に余剰ができるようになり、人々の間には生産物(食糧)をよりたくさん蓄積したいという欲求が生まれました。

工業革命(産業革命)以前の封建主義の政体で、最も価値ある財(資産)は何かといえば、それは農業の生産力を規定する『肥沃な土地』です。かつて、江戸時代の日本でも、国の力は石高という米の生産高で表されていました。

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農業が機械化されて少ない労働で多くの収穫を得られるようになる近代以前には、人々の多くは農業に従事して命を支える穀物や野菜、果物を生産していましたから、より広大で肥沃な土地を所有することはそのまま絶大な権力を所有することと同じ意味をもっていました。

人類の第二次革命とも呼ばれる重化学工業を起点とする産業革命(工業革命)は、人類史上最大の革命といっても良く、産業と技術の相補的な発達は、あらゆる物質的な豊かさや人工的な快適さ、高速移動の便利さ、意匠的な華やかさの源泉となっています。

ここでは、産業革命が人類の歴史と生活に与えた広範で強力な影響について詳細に述べる余裕がありませんが、大雑把に産業革命の正と負の影響を考えてみます。産業革命によって人類が物理的に得た利益や快適さは、それ以前の農耕牧畜社会で得られた収穫物(農産物・家屋・移動手段など)とは量的にも質的にも隔絶したものでした。

人類は、蒸気機関や内燃機関の発明と進歩によって、海を隔てるような遠い距離を何の疲労や苦しみもなく簡単に移動できるようになり、航空輸送の発達によって誰もが『安全で快適で高速な大陸間移動』を行うことが可能になりました。

化学物質の解析・合成や材料工学の進歩によって耐久性に優れた素材や保温能力や通気性の良い繊維が開発され、私たちのファッションは機能性が高いだけではなく、デザイン的にもより洗練された魅力的なものになりました。 雨風に長く耐える塗料や色合いの良い塗料、簡単には割れない強化ガラス、堅固で長持ちする材料などを家屋や建造物の建設に用い、室内には、温度・湿度を適切に調整するエアコンを効かせることによって、私たちは寒暖の差や不快な刺激のある外部環境から遮断された快適な居住空間や労働環境を手に入れることにも成功しました。

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しかし、大きな効果や影響を生み出す生活上の変化は、その反作用としての弊害を生み出しやすいので、人類のライフスタイルと経済生活の根本を変革した産業革命は、農業革命以上の反動的な負の作用を引き起こしました。それでも、私は、産業革命のもたらしたメリットはデメリットと比較して大きいのではないかと思いますが、だからといって、産業革命によるマイナスの影響や破滅的な現象をこのまま放置してよいわけではありません。

物質的な豊かさや移動の高速化、快適な人工の生活環境といった産業革命がもたらした好ましい要素は、そのまま、マイナスの負の効果や破壊的な影響を生み出すことにもつながりました。産業革命が生み出した最大の脅威は何と言っても、人類全体を絶滅させる潜在的可能性を持つ『核兵器(nuclear weapon)』でしょう。

その他にも、自然科学の理論や技術を応用して、一発のミサイルや爆弾で無数の人々を瞬時に殺戮できる大量破壊兵器が、20世紀半ばごろに続々と登場しました。それらの脅威的な殺傷力を持つ近代兵器は、通称、『ABC兵器(Atomic weapon,Biological weapon,Chemical weapon)(核兵器、生物兵器、化学兵器)』とも呼ばれ、国際社会でもその所持や使用が厳しく監視され制限されています。

しかし、比較的、国力の劣った開発途上国や独裁国家に対して、ABC兵器の所持使用を厳しく禁止する一方で、アメリカやイギリス、フランス、中国、ロシアをはじめとした世界情勢の中で重要な位置を占める大国は、膨大な数の大量破壊兵器を所有しています。現在、国際社会で指導的地位にある大国は、(憲法9条によって軍事力増強を大幅に制限されている日本国を除いて)核兵器を中核とする抑止力と軍事力によって、自国の安全保障能力を高め、国益を守っているという矛盾した構造が見られます。

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この事から、人権思想や平和の大切さを知る国民から構成される先進国においても、軍事力は重要な国益保護のために必要不可欠なものと見做されているといえるでしょう。国際社会における指導力や統制力は、他国の暴走や侵略を抑止し鎮圧する軍事力によって支えられているというのが現状なのです。産業革命のもたらした負の遺産の一つが、人間の生命の尊厳を一瞬にして灰燼に帰す破壊力を持った核兵器、そして大量破壊兵器といえるでしょう。

人間は、基本的にいったん手に入れた技術やパワーを手放さないという本性がありますし、ゲーム理論による囚人のジレンマによって『出し抜かれる(核兵器を隠し持たれる)リスクを低減させるため』に全ての大量破壊兵器を国家が廃棄することは、今後もあまり期待できません。科学技術の発達によって生まれた弊害や脅威は、基本的に科学技術を捨てて取り除くことは出来ないということが歴史的に証明されています。

ですから、この弊害や脅威は、科学の発達を捨てるのではなく、進展させることによって解消していく事になるのではないかと推測されます。争いや対立の根本原因を、科学技術の進歩と地球規模での経済成長によって消滅させることが最も理想的な解なのでしょうが、これが実際に実現可能かどうかを考えると、経済成長による環境破壊の問題や人口過剰による資源枯渇の問題など様々な難問が山積しています。

戦争を地球上から無くす平和主義の理想は、遥か太古の昔からありましたが、その平和実現の理想を阻んできたのは、絶望的な貧困や飢餓、歴史的な怨恨、集団間の屈辱体験でした。また、少なくない人たちが、激しく殴りあう格闘技や圧倒的な破壊力を示す軍事演習に興奮や爽快感を覚えるように、人間には先天的な攻撃本能が備わっていると考えられます。

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現存している生物全般は、長い自然淘汰(自然選択)の歴史を環境への適応や他の生物個体との競争を通して生き残ってきたという背景を持っていますから、種の保存や生命維持につながる攻撃本能や衝動的な行動傾向を持っているのは当然といえば当然なことなのですが、この生物学的基盤によっても平和な世界の実現はなかなか困難であることが分かると思います。

脳の解剖学的構造(脳幹や大脳辺縁系)からも人間の自己保存欲求と結びついた破壊的な攻撃欲求の存在が推測されるのですが、平板な変化の少ない平和状態が長期間継続した場合に生まれやすい倦怠感や退屈をどのように解消していくかが大きなポイントとなる気がします。

現在の日本の若年層に、比較的、軍事力増強や同盟国との集団自衛権に肯定的な意見が多いことやプライドやK1といったリアルさを追求した格闘技に人気が集まることも、(実際の戦争の悲惨さを知らないということ以上に)長期間の平和状態による攻撃本能の抑圧や同じような日常が続く倦怠感が無意識的に作用していると推察することが出来るのではないでしょうか。

平凡な安定した日常生活の繰り返しこそが、人間にとっての幸福なのだと語る人も多くいますが、これは勿論、全ての人々に当て嵌まる普遍的な幸福感ではないというところに戦争や対立を生起させる競争的な攻撃欲求の萌芽があります。変化の少ない安定した生活の継続を望む保守的な幸福感を持つ人の集団がいる一方で、出来るだけ変化の多い刺激に満ちた不安定な状況の展開を望む革新的な幸福感を持つ人の集団がいます。

そして、現在までの人類の歴史を振り返ってみると、時代の変革期に社会の中でより大きな権力や指導力を発揮するのは、『現状を維持しようとする保守派ではなく現状を変化させようとする革新派』でした。

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『農業革命・工業革命・情報革命』人類が歩む無数の価値とデバイドの産出の歴史:2

経済メカニズムやビジネスが変化し、社会構造や生活形態が変化する時には、必ずその流れを推し進めようとする革新派と、その流れを押し留めて今の状態を維持しようとする保守派が現れますが、はじめ優勢であった保守派も、多くの場合、時間経過と共にその勢力を弱くして、最終的には時代の変化に敏感であった革新派が主導的な立場にたつといったことが歴史には頻繁に見られます。

特に、戦争行為と平和主義の葛藤の問題においては、諸外国が平和主義を前提とした外交を意識していない以上、『外国による一方的侵略や攻撃の脅威』や『軍事力がないための国益損失』といった問題が折に触れて立ち上がってきます。そういった国家安全保障や国際政治上の危難が起こったときには、必ず自衛戦争と報復攻撃を前提とした軍事力増強と安全保障体制の強化を主張する人たちが現れてきて、不安や屈辱を感じている国民感情を高揚させ、軍事力強化に対する国民の同意を取り付けようとします。そこで私たち国民一人一人が、どう判断すべきなのかということでしょうね。

とはいえ、この問題は、そういった軍事力増強による国防を主張する人が、戦争肯定者で間違っているとか間違っていないとかいう単純な問題ではないでしょう。結果として、軍事戦略が功を奏すという可能性を捨てきれない以上、そういった平和主義に逆行する政策に賛同する人たちの判断は、ある意味で合理的であり現実的な功利主義に適ったものだからです。

私個人は、軍事力の脅威や恫喝に対して軍事力強化と同盟国との集団自衛活動で強硬に対抗するという政策には、あまり有効性を感じないし、延々と同じ歴史の惨禍を繰り返す恐れもあると思うのですが、国防の問題には数多くの国民の生命がかかっていますから、理想論だけで平和主義を貫徹するリスクも十分に考慮する必要はあるでしょうね。

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大きく話題が逸れましたが、物質的な豊かさをハイスピードで増進させた産業革命の基盤にあるのは、科学技術の進歩と画期的なアイデアに基づく技術革新です。そして、その技術の革新と進歩を推進させる原動力は、人間の果てしなき『快楽への欲望』と『権力への意志』です。 快楽への欲望は、フロイトの精神分析学でいえば『エス(イド)』と呼ばれるリビドーが充満した本能的欲望に相当するでしょうし、権力への意志は、アドラーの個人心理学でいう『優越への意志』に当てはめることができるでしょう。

これらの人間の本能的ともいえる欲望や意志を日常的な言葉で表現すれば、『より豊かになりたい、より快適な世界を作りたい、より便利で高性能な商品を利用したい、より速く時間を節約して移動したい、より効率的で収益性の高いシステムを利用したい、他人よりも優位な立場にたちたい、他人との競争で勝ってより強力に裕福になりたい、国家間・民族間の戦争で勝って国益を増加させたい』ということでもあります。

こういった快楽を求める欲求や他人を傷つける感情は、よくエゴイズムだとか利己主義だとかいう形で非難されたり批判されることがありますが、物質文明社会で生きる私たちがこれらの欲望を完全に抑圧して無かったものとすることはまず出来ません。 しかし、これらの荒れ狂う本能的欲求や自然的本能は、完全に抑圧できなくても、学習や思考、運動などを用いて破壊的ではない方向に転換することが出来ます。精神分析では、反社会的なエスの本能的欲望を、社会的に承認された行動に転換する『昇華』の機制を、最も生産的な防衛機制であるとしています。

パソコンや携帯電話の普及によって本格化した情報革命(IT革命)の時代に私たちは正に生きているわけですが、情報化社会の中で起きた生活上の最も大きな変化は『いつでもどこでも情報を自由に受発信できるというユビキタス環境』の獲得です。 しかし、インターネットが至るところに張り巡らされたユビキタスな社会に生きるということは、無数の有益な情報を入手したり、自分の知識や情報を簡単に世界に向けて発信できるといった良い面ばかりではありません。

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個人では到底処理しきれない『インターネットの広大無辺な情報の海』に呑み込まれてしまうと、自分にとって本当に必要な情報や知識以外にも、無意味な情報や膨大なノイズに曝され続けることになります。『価値あるものと無価値なものが混在した圧倒的な情報量』に絶えず意識を占領されていると、私たちは自分が何を必要としていて、何を学習しようとしているのかという本来の目的を忘れやすくなってしまいます。

低コストで幾らでも新たな情報を受信できる便利な情報革命時代に生きているからこそ、私たちは、自分自身の情報の真偽を見極める目を養い、自分にとっての情報の価値基準を定めるメディア・リテラシーを培わなければならないのです。 休日などに、漫然と雑多な情報に曝露されるだけの受動的な時間を空費するのも楽しいものですが、いざ、目的意識をもって生産的な情報収集や情報利用をしなければならないという時に、情報の氾濫するインターネットで漂流し続けるというのでは困ります。

情報革命によるIT時代を自分に有利なものとするためには、自分の目的に合ったITを使いこなす知識と技能を得るだけではなく、量より質の観点を大切にしながら、必要な情報だけを的確に取捨選択するネット・リテラシーを磨いていく必要があるのです。

また、情報技術普及による情報や知識の格差であるデジタル・デバイド(digital divide)については過去に書いたのですが、現代社会から未来を志向するにあたって解消あるいは緩和が期待される格差には、近代主義に特徴的な集団的威力(軍事・警察)を根拠に持つ権力の格差(blutal divide)、そして、資本運用力と保有資産額に根拠を持つ資本の格差(capital divide)があります。

しかし、これらの格差は、人間が『他者との差異に価値を付与して快楽を感じるという心理特性』を持っている以上、原理的なアポリアとして人類の歴史にそびえたっているデバイドだとも言えますから、デバイドを緩和することによって生じるモチベーションやインセンティブの低下を回避する方策はないのかをイノベーションの進展と歩調をあわせて見守っていく必要があるでしょう。

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戦争と平和・集団と個人・適正なコンプライアンスレベル

先の記事の終わりのほうで、集団的威力や潜在的暴力によって生み出される『権力の格差(blutal divide)』に触れましたが、これが戦争と平和の状態を生み出す人間の集団心理を読み解く最大のキーワードであることは間違いないでしょう。心理学的に考えるならば、実質的な個人の力による権力の格差ではなく、自分の意志や考えよりも『上位の価値や支配権』があると信じさせる権威の格差に、集団的な戦争行動を引き起こす動因があります。

そういった上位の価値や支配権は、通常、構造的あるいは手続き的に付与された正当性によって支えられていて、一般の国民たちはその正当性を疑ったり抵抗することが多くの場合不可能な仕組みが形成されています。よく市民運動などを行う熱心な平和主義者の方は、『何故、普段の生活で善良な市民が突然、戦時になると無慈悲に人殺しができるのかわからない』と語ったり、『私は殺されても、人を殺さない』という信念を語ったりします。

しかし、おそらく集団的な暴力活動に参加すること、軍隊のような統制の為の集団規律がメカニカルに貫徹している組織に帰属することは、そういった個人の信念や価値観を捨象した次元に行動原理が置かれているので、そういった普遍妥当性のある倫理規範によって軍人や兵士の攻撃行為を止めることは出来ません。もし、仮にカントの説くような『普遍妥当性のある個人内面の定言命法(汝の為す格率が常に、万人に普遍的に妥当するように振る舞えという倫理規範)』が、本当に万人にとって普遍的な価値を有し、人為的なシステムの上位に位置するのであれば、世界平和を実現することは射程の範囲内へと入ることになります。

そもそも、定言命法が通用する世界においては、軍隊や軍事力の保有そのものが初めから否定される可能性がありますが、現実の人間の行動は『倫理的な正しさよりも功利(結果としての利益)』に従って決定されることが多いですから、基本的に無条件に他者を信頼することをしません。正に、経済学のゲーム理論の囚人のジレンマのように、『もし、私が寛容さや倫理性を見せて、暴力を行使しないことを宣言すれば、相手につけこまれて裏をかかれる』という不安と恐怖に絶えず人間は苛まれているといってもいいでしょう。

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人間は、普遍的な倫理規範の隷従ではなく、絶えず、自由意志に開かれた存在ですから、相手を裏切ることによって利益を得られる場合には、完全に相手を信頼して隙を見せることを恐れます。それはあたかも、『恩を仇で返される危険がある』という懐疑的認知をもつことによって、『やっぱり相手を信頼しなくて助かった』という安堵を得たいという狡猾で怜悧な投資家のようでもあり、振られる悲哀を回避せんとして頑なに人を好きになることを拒む臆病な恋愛否定主義者のようでもあります。

これは、国家間のような集団間の関係のみに限らず、一般的なビジネス状況や恋愛関係、友人関係などでも頻繁に見られる現象で、多くの場合、人間は『相手が自分に協力しなかった場合(裏切った場合)における非協力的ゲームの戦略』を無意識的にもって様々な行動や選択をしています。近代社会における集団に帰属して取る行動の多くは、論理や倫理よりも集団力学(グループ・ダイナミクス)によって生み出されるリーダーシップによって決定されるのが普通です。

戦争がこの世界からなくならない理由の一つは、人間の脳の先天的構造から生み出される自己保存欲求にあるのでしょうが、もう一つの理由は、必要に応じて個人としての意志や信念を捨てて帰属集団に自己を投影し、同一化することのできる人間の精神機能にあると思われます。よくナチスの冷酷無比な軍人が、個人として話せばとてもそんな残酷な事の出来ない温厚で優しい人だったとか、オウム真理教の脱退した幹部も、個人として見ればあんな大それた凶悪なテロ事件を起こしそうな人には見えないといったことが言われますが、集団に帰属して、集団を円滑に機能させるためのシステムの一部として組み込まれれば、(日頃、強靭に個性を主張している人でも)ほぼ全ての人が、個人としての判断や意志を放棄して与えられた職務や責任に忠実に従います。

また、そういった人間の精神機能がなければ国家という大組織や多国籍企業という巨大組織が、幾つかの目的やプロジェクトを達成する為に秩序だった一貫性のある行動を取れるわけはありません。『集団の権威から与えられた命令に忠実に従っただけで、私には殺す意図はなかった』というエクスキューズは様々な虐殺や紛争の場面で、兵士によって語られる言葉であり、多くの場合それは真実でしょう。

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アフリカの内戦や東南アジアの内紛に借り出される年若い少年兵たちも、明確な殺意や政治的理想のために生命を賭けて戦っているというよりも、身近な血縁地縁関係から段階的に構築される集団の秩序を支える上位の価値システムに従属する形で戦争に参加しています。一人一人の子どもが生まれながらの兵士であったり、殺すことに何の抵抗もないわけではないでしょう。

こういったことを考えていくと、北朝鮮のような特定個人に権力と権威が集中する独裁国家は何故、巨大な集団を機械的に支配できるのかという疑問が湧くかもしれませんが、これは金正日総書記という個人に絶対的なカリスマ性や権力があるというよりも、その体制下であったほうが都合の良い周囲の権力者たちと相補的な関係にあるからというのが正しいと思います。

いかに強大な権力を保有していても、それは『潜在的な命令可能性』という権威によって担保されている力に過ぎないというのは、先進国の大統領であっても、立憲君主国の首相であっても、封建国家の王侯貴族であっても同じことです。

『私の指示や命令がピラミッド型の階層システムをトップダウンで伝わっていくだろう』という権威者の部下と国民に対する信頼と『あなたの指示や命令には正当性があるのだから、それに従わなければならないだろう』という部下や国民の権威者に対する服従という、『相互的な命令と服従の心理的システム』が『現実的利害の関与する相互依存的な社会構造』と結びつく事で、あらゆる階層性のある集団の機能と実体は支えられています。

故に、フセイン大統領の統治するイラクは、アメリカ合衆国の苛烈な攻撃によって、『フセイン大統領に対する服従のインセンティブ』が大幅に低下し、『アメリカ合衆国に対する服従のインセンティブ』が大幅に上昇したために、フセイン体制下で抑圧されていた層のイラク国民は、明示的にフセインを非難したりその権力の正当性を批判し始めました。反対に、フセインに服従することで高い社会的属性を獲得し、大きな報酬を受けていた層のイラク国民は、それまでと打って変わって迫害や掠奪を恐れて弱気になり、それまで住んでいた豪勢な邸宅を後にして地方に逃れました。

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恐怖政治や独裁政治において、『現実的利害の関与する相互依存的な報酬体系』を支えるのは、『ゲーム理論の囚人のジレンマ』ですが、囚人のジレンマ状況にある人は、まだ自分の意志や判断を完全には放棄していません。自分より上位の価値に無条件に服従するようになると、囚人のジレンマは消えて、メカニカルなテクノクラート的な従属が生まれてきます。

政治・経済・司法などの社会システムを円滑に機能させるためには、多かれ少なかれ、個人の持つ機能や価値観を抑制して、メカニカルなテクノクラート的従属のもとに伝統的な慣習・常識感覚・慣例に倣いながら実務をこなす必要があります。個人の価値や主張を介在せずに定められた手順や規則に従って、責務を果たし業務を遂行すること自体は、コンプライアンス(法令順守)の精神に則った遵法精神の現れであり、特別に問題視することではありません。

個人の自由の不当な侵害ではなく、社会を正常に機能させるために必要な抑制は、コンプライアンスの理念に沿ったものとはいえますが、独裁国家や恐怖政治ではそのコンプライアンスが一方向の強制的抑圧になっていて、その法定の手順や規則を国民の側から改善したり、異議申し立てが行えないところに問題があります。

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■補遺

最後にやや強引にコンプライアンスと絡めた話題を出したのですが、CNET Japanで『ITコンプライアンスの遵守が企業体力を強化する』という記事を見た影響かもしれません。IT分野のビジネスの推移を見ていると、巨大IT企業のIBMが衰退してから、専門分化のスピードが上がっていて、あらゆる商品とサービスが『その職務に特化されたベンダー』によって担われるようになっていることが興味深いです。

ITコンプライアンスのソリューションだけに特化された専門分野も、今までの企業法務とは異なる一つの大きなビジネスとしての地位を占めるようになるのかもしれません。

鋼鉄製橋梁の建設工事を巡る談合事件で、日本道路公団(JH)の内田道雄副総裁などが独占禁止法違反の疑いなどで逮捕され、その罪状を認めたようです。

同様の事件で逮捕された、元公団理事の神田創造氏などは、供述の中で『上の指示に従って動いただけ』といった自己の主体的責任の免責を求めるような発言をしていたようですが、これもテクノクラート的な慣習・慣例への無条件の従属といえる心理機序を含んだ事件ではあるでしょう。人間は巨大な組織に帰属すると、自らの意志や主張によって、上位の価値系統を否定できる可能性を考え難くなることが多いという傾向はあります。 広義の従属性という意味では、過労死や無給の長時間残業、上司への私生活にもわたる過剰な配慮、私的感情の徹底的無視(アレキシシミア様状態)などもあるでしょう。

魂の労働―ネオリベラリズムの権力論

元記事の執筆日:2005/08/16

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