『父・母・子どもの三者関係』を取り巻く幻想と現実のヴェール
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精神分析とうつ病・大人の無意識的願望と子どもの憂鬱感
20世紀初頭、フロイトを始祖とする精神分析は、近代精神医学に比類なき大きな影響を与え、人間の精神現象の理解にパラダイム・シフトをもたらしました。かつて、精神療法の代名詞でもあった精神分析学は、人間の精神構造の仮説(無意識・前意識・意識)を打ちたて、精神病理のメカニズムを臨床経験を通して解釈して、独自の精神療法体系を築き上げました。
しかし、精神分析の無意識と自我構造論を前提とした精神病理学には、科学的方法論を用いていない故の限界があることもまた事実です。精神分析の明瞭な限界の一つが、気分障害(うつ病)の病因論であり、児童精神医学における子どものうつ病理解の欠如でした。この精神分析の限界は、現在では近代精神医学の発達と脳神経科学の知見を応用した精神病理学の精緻化によって乗り越えられています。
精神分析におけるうつ病の病因論は、『強烈な超自我によるエスの過剰な抑圧』を元にしたものであり、精神運動を活発化させる精神エネルギーであるエスの過剰抑圧によって様々なうつ病症状が発症すると考えました。抑うつ感や意欲減退をもたらす根本原因は、『厳格な超自我によるエスの性衝動・攻撃衝動の強い抑圧』にあると精神分析では考えます。
しかし、この精神分析学的病因論を用いて、現実に観察されるうつ病者を見るとき、明らかな矛盾と弊害が生まれることに気付かざるを得ないのです。精神分析学を特殊な権威として信奉しない限りは、私たちは、実際にこの目で観察できる現象とこの耳で聴けるクライエントの言葉を、ドグマとしての理論よりも事実に近いものとして受け止めねばなりません。
カウンセラーにせよ心理臨床家にせよ精神科医にせよ、研究者であると同時に実践家であらねばなりませんから、ある理論体系や学的権威に観察事例を機械的に適合させるのではなく、個別の事例に対して柔軟な態度をもってより良い説明理論と治療技法を探求していく必要があります。精神分析学では、うつ病の病因を超自我の強度の倫理観と良心に求めます。つまり、『~してはいけない・~すべきである』という道徳的な命令・禁止を内面で行う『超自我の心的装置』の形成がなければ、うつ病という病態は発生しないということになります。
精神分析に基づく病理学では、良くうつ病の症状形成機序を『内向したエスの攻撃衝動や怒りによって生じる罪悪感』を元に説明したりもします。かつて、精神分析が隆盛していた頃には、うつ病症状の中心的概念には憂鬱感や無気力による精神運動制止ではなく、強い罪悪感による精神運動抑制が置かれていました。
しかし、現在の日本で頻繁に見られるうつ病の中心症状に罪悪感が見られることは極めて稀です。競争心や達成欲求が強く、仕事熱心で社会的責任の意識が強い人、几帳面で物事を徹底的にやり遂げなければ気が済まない完全主義傾向のある人、明るく社交的で、他人との人間関係への配慮が過剰な人は、一般的にうつ病に罹患しやすい性格傾向(病前性格)であると言われます。
確かにこれらの人は、他の性格類型の人と比較して、『自分は、当たり前のことが出来ずに、周囲の人々に迷惑をかけているダメな人間だ。』という罪悪感を感じやすいのですが、その罪悪感は飽くまで気分障害による憂鬱感の結果にまつわるものに過ぎません。精神分析の説くうつ病特有の罪悪感は、攻撃衝動を禁止する超自我と攻撃衝動の充足を求めるエスの『精神力動(対立的なせめぎ合い)の結果』として生まれてくるものです。つまり、『超自我の命令に背いたために起きる罪悪感によって、精神運動が抑制され憂鬱感や無気力が生じる』と考えるのが精神分析に基づくうつ病の病因論です。
しかし、実際に観察される症例では、過剰な倫理観(超自我)によって感じる罪悪感が、行動・思考・感情・意欲を低下させているといった症例は殆どなく、超自我によって内面に向けられた怒りや攻撃衝動によって自分自身を苦悩させるといった心理メカニズムが見られることも多くありません。
故に、精神分析をはじめとする力動的精神医学の考えるうつ病の病因論としての罪悪感や内向する怒り・攻撃衝動では、現実のうつ病の病態を十分に説明することが出来ません。また、罪悪感によって精神的な苦悩が強まるという心理機序は、人類に共通のものとは断言できません。道徳規範の根拠や倫理規範の起源に『罪悪感』を想定するのは、『原罪・禁欲主義・贖罪』といった人間の欲望を否定的に見る概念に正当性を感じる文化圏に限定されます。
つまり、人間は生まれながらに大きな罪を背負ったものであるという原罪の教義を持ち、性欲や物欲を抑圧することが正しい道徳的な生き方であるという禁欲主義の道徳観が、人間の罪悪感の生起と密接に結びついています。ユダヤ教やキリスト教を典型とする一神教文化圏に特徴的に見られる罪悪感は、神(超越者)の戒律(規範)に背くために生まれる罪悪感(後ろめたさ)であり、日本で見られる集団主義を前提とした世間の常識や期待に背くために生まれる罪悪感(申し訳なさ、体裁の失墜)とは質的に異なります。
フロイトの自我構造論は、キリスト教文化圏における道徳観や倫理規範に大きく影響されていて、19世紀の禁欲的な社会背景も反映していますので、超自我は内面の非道徳的な欲望の監視者として位置づけられていて、神のメタファーの役割も果たしていると解釈できます。現代では、それほど強固な内面の良心や倫理規範を有していなくても、誰でもがうつ病に罹患する可能性を有していて、その根本原因は脳内の神経伝達活動の障害や異常にあると科学的に推測されています。
また、精神分析学のうつ病理論におけるもう一つの欠点は、『超自我形成とうつ病発症』を結びつけた為に、不完全で脆弱な超自我(善悪観)しかもたない子ども(乳幼児~児童~思春期)がうつ病(気分障害)を発症することはありえないと断定したことです。しかし、現実の臨床場面では、子どものうつ病の症例も数多く存在しており、通常の気分の落ち込みやショックな出来事によるストレス反応では説明できない『長期間にわたる激しい気分の落ち込みと無気力、喜び・興味の喪失』が子どもの精神症状として観察されることがあります。
小児うつ病についても機会があれば書きたいと思いますが、今回、語った精神分析のうつ病論の限界で感じた興味深いことは、小児うつ病を無視させた最大の動因がおそらく大人側の無意識的願望にあるということです。 『子どもは未来への希望に燃えて、明朗活発に毎日の生活を楽しんでいなければならない。小さな子どもは、大人の社会にあるような強烈なストレスや耐え難い不条理に曝されておらず、人生に絶望感や無力感を感じるはずなんてない。子どもは複雑な社会の仕組みや不条理を理解できないし、生きる事を全面的に肯定して、無邪気に遊んだり学んだりしながら過ごすものだ』という大人の無意識願望は、多くの場合、抑うつ状態に限らず子どもの精神的問題や情緒的葛藤を見過ごす原因となります。
私は、近代以降、過剰に肥大し複雑化した精神障害の病名のラベリングには基本的に反対ですが、同時に、子どもを精神構造の発達が不完全な存在と見て、大人の感じる種類の苦悩や悲しみを理解できない未熟な存在だと断定することにも大きな抵抗を感じます。子どもの範囲を思春期から青年期前期にまで拡大した場合、多くの反社会的問題行動や非社会的問題行動には、一人前の大人として真剣に自分と向き合ってくれない周囲の親や家族に対する鬱屈した思いやイラダチ、適当な応対による自尊心の傷つきが関与していることもあります。
日常生活では見られない態度・発言・表情・振る舞いを子どもが見せた場合、子どもらしくない深刻な気分の落ち込みや無気力感を見せて、人生全般に対する虚しさを語った場合、大人たちは子どもだからと適当な応対をして悩みを軽視するのではなく、その悩みを元に真剣に子どもと向き合ってその意見や気持ちをしっかり聴いてあげる必要があるのではないかと思います。
■参考文献
国立精神・神経センター小児神経学講義―臨床に役立つエッセンスと最新のエビデンス
『父・母・子どもの三者関係』を取り巻く幻想と現実のヴェール
エディプス・コンプレックスの時代制約性や社会規定性が、何故生まれるのか。また、人間の感情や行動や態度のメカニズムを探求する理論は、どうして客観性や一般性を保ち難いのかを考えてみる。人間が正に自分固有の主観的な感情を持ち、社会的な諸条件によって制限を加えられるという自明の前提を置いて考えると、純粋に物理的な運動・現象を検証して構築された自然科学理論でない限り、(人間関係の心理や行動を分析する理論は)理論負荷性による観察結果の偏向を免れ得ないということではないだろうか。
性愛を含む他者を求めてやまないという意味での愛(エロス)は、正に生命力の欲動であり、直接的あるいは想像的な経験によって充足される何かであり、恋愛や結婚に限定すれば、自然的で直接的な再生産の為の男女の結びつきであるといえる。何故、男性と女性が特別な学習や訓練がなくても、自然に魅力を感じて惹かれあうのかの究極的根拠は遺伝子保存を計画する遺伝情報にあるのだろうが、それが何処から飛来してくるのかを私たちは明確に解明できないゆえに、愛には様々な幻想やロマンス、物語性が付随して語られる。古代ギリシアのソフォクレスが哀切に紡いだ悲劇『オイディプス王』もそうした幻想的愛欲や禁忌を打ち破る衝動のようなものが、自然に悲惨と苦悩の調律をもった物語として結実したと考えると人間精神の不合理と非論理を感じるのである。
人は、自分自身の時代性や社会性を反映した感傷的な旋律に強く心を揺り動かされる。その感傷的な胸が押しつぶされるような悲哀の旋律こそが、私たちの涙を誘い、ある種の快楽さえ伴うカタルシス(情動の浄化)をもたらすのだとすると、科学技術が高度に発展した現代においてもかつての悲劇や喜劇の焼き直しである映画やテレビドラマが隆盛していることに納得がいくのである。
私たちの多くは、生きている事は楽しく幸せな事ばかりではないけれど、そうそう絶望するほど悪い事ばかりではないといった認知をもってこの複雑に制度化された世界に対峙している。この事から私が精神分析的に考えることは、『私たちは、自分を幾層にも取り巻いている社会経済的・心理的・身体的条件から完全に自由になれない代わりに、現実世界を肯定的に捉えられるような幻想的価値を創出する』ということである。
重症化したうつ病の方や過剰な虚無主義に犯された人は、よく現実世界の出来事や行動についてこういった批判をする……『私やあなたが行っている事柄や面白おかしく捉えている娯楽や遊びには、究極的な意味はないのではないですか?いかなる生き方をしても、全ては徒労に終わるのではないですか?』と。なるほど、客観的に私たちの生の始まりと終わりだけを見るならば、その言明にも一理あるが、私たちの生の意欲や希望を粉々に破砕してしまうには、そのニヒリズムでは甚だ強度がないと私は感じる。人生や世界に絶望して打ちひしがれ強迫的な希死念慮に追い立てられている時、人は幻想的な願望充足や想像的な主観的価値の創造を完全に忘れてしまう。
この世界を幾重にも覆った『心理的に構築された幻想や想像のベール』をはぎとって、丸裸の世界を淡々と眺め、それは自己欺瞞の喜びであり、本質的に無意味ではないかと切り捨ててしまう。面白くて感動できる映画でも、『単なる作り物の虚像じゃないか』という穿った認知をすれば途端に面白くなくなり、魅力的な異性と触れ合う時間も、『どうせ二人は老いて死ぬばかりじゃないか』と歪んだ認知をすれば全ての人間関係は空虚なものとなるのは必然である。
そこに着目した心理療法が、認知心理学の視点を取り入れたアーロン・ベックやデビッド・D・バーンズの認知療法なのだが、彼らが考えるように私たちの生の歓喜と充実は大きく認知(物事の捉え方と解釈)に影響されている。言い換えれば、『正に無機的な物質世界に、どのようにして想像的な心理的価値のラベル』を貼り付けて世界を見るかという点に、私たちの生の内実は(無意識的にせよ)依拠しているといえるのである。
私は、世界の客観的実在を疑うという徹底的な懐疑主義には賛同しないが、この世界の魅力や精彩が私の意識や考え方の持ち方で大きくその様相を変えてくるという認知的な世界観には大方賛同する。環境が良い方向に変わらなくても、自分自身の気分が上向いて楽しんだり喜んだりできるのは、確かに私たちの認識機能が世界に生きる意味を刻印しているという証左ではないかと感じるからである。
少し認知理論による肯定的な世界認識の必要性といった話に脱線したが、ここまで、ソフォクレスの『オイディプス王』やフロイトのエディプス・コンプレックスが、男性原理に基づく家父長制社会を前提とした時代制約的な物語であり概念であることを見てきた。私は、エディプス・コンプレックスの理論が『理論負荷性による観察結果の偏向』を免れ得ていないということを前述したが、これは男性中心主義をもっていたフロイトの主観的価値観の影響を受けてエディプス・コンプレックスの原型が考案されたということでもある。
例えば、フロイト自身が、小エディプスと渾名するほどに典型的なエディプス・コンプレックスの事例とされたハンス少年の症例を振り返ってみよう。ここでは、エーリッヒ・フロムがエディプス・コンプレックスを反証してハンス少年の症例が解釈の多様性へと開かれていることを示した論考『エディプス・コンプレックス』を題材として考察を進めていくこととする。
フロイトが治療した恐怖症症状を示すハンス少年は、母親との密接な身体接触を好み、一緒にベッドで寝たりお風呂に入ることを楽しみにする一方で、父親に激しい敵対心を燃やし恐怖心を感じていると診察された。エディプス・コンプレックスを前提としたフロイト解釈では、ハンスは母親への独占的性愛により父親をその障害と感じて敵対心を感じ、遂にはそれが父親の死の願望へと発展したとされる。ハンスの恐怖や馬に噛まれる悪夢の原因は、『父親の死の無意識的願望によって生まれた罪悪感』であり『強力な権威を持つ父親から去勢(復讐)されるという恐怖』であった。
しかし、綿密にハンスの少年時代の生活史を遡ってみると、父親からの去勢の威嚇や脅しはあまりなく、どちらかといえば母親から『そんな悪いことをしてると、お医者さんにおちんちんを切って貰いますよ』という去勢の脅迫を受けたり、『もう、あなたを捨てて、私は帰ってこないからね』という遺棄の圧力を受けていたということがわかってきた。
精神分析の基本にある親観である『幼く無力である幼児にとって、両親は最初の唯一の権威であり、またあらゆる信念の源である』という認識は、大方、正しいが、家父長制の家族構成をもっていた過去の時代に、全ての父親が恐れと尊敬の象徴であったというのは行き過ぎた普遍化であるように思える。現代社会にも、親の権威や罰則を恐れる子どもがいて、その反対に、親の尊厳を否定して軽蔑する子どもがいる。同じように、かつて父親の権威が絶対的なものであった時代にも、怖くて威厳のある父親が多数派である一方で、優しくてそれほど権威的な威圧を持たない父親もいたのである。
フロムは、ハンスと母親の濃密な結びつきをハンスの無意識的な近親相姦願望であるというのは間違いであるとし、どちらかといえば母親の側から積極的なスキンシップを図っていたと結論している。そして、ハンスの母親は親密で保護的である一方で、子どもを呑み込んでしまう自他の境界を侵す母としての脅威と明示的な言葉による去勢不安をハンスに対して与えていた。
ハンスの恐怖症の原因の一部は、エディプス・コンプレックスによる父親の与える恐怖や威圧にあるのではなくて、母親の自他未分離な距離感の近い愛着に付随する呑みこまれる恐怖と言葉による去勢不安にあったと考える方が妥当だと思える。確かに、大枠の社会構造や経済制度の中で、男性原理が採用されているか女性原理が採用されているかは子どもの精神発達に一定の影響は与えるが、父親と母親の子どもへのアプローチや感情表現、叱り方などが各家庭で違うということを考えると全てを母親への愛情と父親への憎悪で説明することは不可能である。
いずれにしても、子どもは3歳を過ぎた頃から、段階的に両親との物理的・心理的距離をとり始め、心理的離乳や生活の自立のための準備や試行錯誤をし始める。その過程において、子どもによって個人差はあるが、『自分の力で何か意味あることをやってみたい』という生産的な能動性の欲求が首をもたげ始めるのであり、その欲求の内部には『両親(父・母)のような力強い存在になりたい』という欲求と『両親の影響を超えでて自立的な生活を営みたい』という欲求が存在するように思える。
現代社会には確かにそれらの自然的発達が成り立っていないようにも思えるひきこもりやNEETといった非社会的問題行動と呼ばれるものも多く見られるが、そういった問題や悩みを抱えている人たち全てが『保護的環境からの自立と分離の欲求、人生を生き抜く力を持ちたい』という意志をもっていないというわけではないことに留意が必要だろう。
重篤な精神疾患などの問題と重複していない限りは、ひきこもって一切の社会活動を放棄している状態にあっても、過去の心的外傷や挫折・失敗経験によって一時的に自尊感情や自立欲求が疎外されていたり、自己の生活能力や職業活動に対する自信や確信が揺らいでいるだけであって、適切な心理的支援や社会的教育を行えばその問題が永続化するわけではない。最終的には、『自己の将来に対する明確な行動目標と行動意欲』を生起させるような親子関係の再生と心理学的な支援体制、社会環境や社会制度の整備調整が必要となってくると私は思う。
過去の家父長制の家族では、父親は絶対的な権威者として社会的に認知されそのように取り扱われてきた。そこにおいては、父親は小さな子どもが遭遇する初めての力と優越の象徴であったことは、ほぼ疑いない。 しかし、当時の標準的的家族観、一家の長としての父親とその父親を家庭で内助の功を発揮して助ける母親、その家庭環境の影響を受けて育つ子どもという図式に、エディプス・コンプレックスはその多くを規定されているために、現代社会における一般的妥当性は保証されがたいと言えるのである。
家父長制の弊害が指摘され、女性の種々の権利が拡大し、男女共同参画社会推進の大きな潮流の中にある現代社会では、エディプス情況といってもその現実的情況は実に多様であり、各家庭によって子育てを巡る環境や親子関係が大きく異なってきている。父親と母親が子どもにどのようなかかわり方をすればよいのかを一義的に呈示することが難しい時代であるが、小さな子どものいる家庭では絶えず『父・母・子という三者関係の情緒的葛藤』が見える部分、見えない部分で取り交わされているという事実は今も昔も変わりない。
現代の小エディプスは、衰退する伝統的父性と相対化する伝統的母性の間で、その心身の発達を成し遂げていくことになる。統一的あるいは標準的な理想の家族像というものに頼れない現代社会における育児は非常に難しい側面を持っているが、親自身が子どもの幸福な人生を願う中で、独自の魅力的な父性・母性を呈示していかなければならないのではないかと思う。
無論、社会的強制によって家族秩序を維持していてかつてのジェンダーに問題を感じる人であれば、セックス(生物学的性差)に基づく父性・母性にこだわらない育児観があってもよいのではないだろうか。ただ、極端に弱弱しさや依存性を強調した父親や極端に厳格さや冷淡さを強調した母親というかつての家父長制をカウンターで返したような形態の家族構造は、子どもの社会環境への適応性や自然な性同一性の獲得という観点からはあまり望ましいものではないように思える。
個別のジェンダーは、社会的価値観に隷属する必要はないが、社会的価値観を完全に無視するというのも行き過ぎだからである。子どもに学び・働き・遊ぶことの面白さを学習や体験を通して教え、他者とコミュニケーションしたり、一緒に何かの仕事を協力してやり遂げる達成感などをリアルに伝えられるような教育方針や親子観を柔軟にもって、次世代を生きる子ども達に生きる意欲を自然に与えていけるようなかかわり方が出来れば良いと思う。そして、相互的な自立と尊厳を受容しながらも、緊密な信頼感と愛情で結ばれた家庭を作り上げることが出来るならば、その家庭に生まれる子どもも無用な家族間の情緒的葛藤に振り回されることはないだろう。
エディプスの謎―近親相姦回避のメカニズム〈上〉
元記事の執筆日:2005/08/18