権威と社会1~4:何故、北朝鮮国内の独裁体制は維持され続けているのか?

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権威と社会2:宗教的権威と禁欲的道徳の密接な関係

権威と社会3:何故、北朝鮮国内の独裁体制は維持され続けているのか?

権威と社会4:自由意志の世界と決定論の世界

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権威と社会1:間接民主制と政治的意思決定に関する論考

『でたらめな仕組みで動く社会』の考察を過去記事で行いましたが、その最後に『規範を守らせる権威について。どういった態度や認知を取るのかの問題』について言及しました。社会内の法・慣習にせよ、学校内の校則・指導にせよ、その論理的な根拠や合理的な理由を万人に納得させられるものばかりでないことを私たちは経験的に知っていますが、それらのルールの正当性や強制についてさほど疑問に思うことはありません。

一定のルールや常識判断が特定の集団内に普及する現象は、良い意味でも悪い意味でもある種の権威(authority)が内面化された結果であるということが出来ます。勿論、人間社会全般に通用するであろう社会秩序維持のためのルールとして『殺人禁忌・窃盗強盗の禁止・暴力傷害の禁止・公共圏での猥褻行為の禁止・侮辱罵倒の禁止など』がありますが、それらは倫理的次元において普遍的な建前を取りながらも、政治的な権力や公的な権威によって建前があっさりと打ち崩され人間の功利的な本音に取って代わられることがあります。

殺人はおよそあらゆる文化圏において禁止され処罰の対象となりますが、非民主主義国家では独裁者の政治に反旗を翻せば殺されても文句は言えず、国家間の戦争行為になれば敵国の相手を殺すことは犯罪ではなくある種の名誉として認識されます。広島・長崎に原子爆弾を投下したアメリカの戦略行為は、人道的には許されない犯罪ですが、それが戦勝国であるアメリカの国益であったということを持ってその倫理的責任や人道的罪悪は捨象されます。

爆弾を投下したパイロットや投下を命令したアメリカ大統領ハリー・トルーマンは、最期まで自らの行為を恥じることなく、ある種の名誉や栄光といった感情さえ抱いていた事でしょう。トルーマンとパイロットは、その政治階層の位相や立場は異なっていますが、両者とも個人の意志や判断を超越した権威(国家・大統領・国民大衆の支持・戦争)による支持を得て、自らの行為を正当化し罪悪感を消去しているという心理構造は類似したものです。

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個人的な意思決定が、多くの場合において、集団的な意思決定に優越しないことは、数々の歴史的事象が立証しています。自身の倫理判断に違背する悪しき行為を強制される究極的な状況において、集団的合意や政治的権力を背景に持つ権威的命令に反抗できる人は、極少数の例外を除いてまずいません。現在の日本のように、戦争反対の平和主義を中心に置く意見が大多数を占める民主主義国家であっても、仮に徴兵制や集団自衛権が法律で制定されればそれに従わなければなりません。

間接民主制の制度的な欠陥は、『総論としての政党の政治方針への賛同が、各論としての立法判断への賛同』とほぼ同一のものと見做されることだと思います。つまり、一つの政策(例えば児童福祉行政や経済復興政策)が素晴らしいからある政党を支持した場合、その支持した理由とは異なる政策(軍事費増強や課税制度改正)などにも自動的に賛成したことと見做されてしまうという事です。

政党政治や間接民主制は、現在考えられる最善の政治制度の一つではありますが、有権者の各個別政策に対する意見や賛否をうまく反映できないという欠点を併せ持っています。例えば、間接民主制における二大政党制を日本を例に考えてみますと、『自民党の社会保障の改革案には賛同できるけど、自民党の国家安全保障の改革案には反対である有権者』がいる場合に、自民党と民主党の国家安全保障の基本方針がほぼ同じものであれば、投票の前から安全保障政策に関する選択肢が閉ざされていることとなります。

二大政党制には、政局の安定や政策の一貫性、国会決議の効率化などのメリットも多くありますが、その最大の短所は『国民が、二つの政党の政策や公約のどちらにも賛同できない場合に選択の余地がなくなる』ということでしょう。ナチス政権下にあったドイツの軍人・官僚・市民は、自分自身の判断や良心とは無関係に、機械的にユダヤ人の集団殺戮に加担し、人道的犯罪に手を染めたと言われます。

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こういった権威への盲従状態による非人道的行為は、ドイツ人に特有の権威主義であると片付けることの出来ない集団心理の一般性のあるメカニズムを示すものです。人間は多かれ少なかれ権威主義者としての性格特性をもち、基本的に、公的に承認された権威に従属することは、社会秩序や規範遵守の観点から悪いことではなく望ましいことであると考えられます。

あらゆる権威を無視してそれを否定したり超越することは、ホッブズの説く自然状態である『万人の万人に対する闘争』を招来し、『実質的な力による支配の正当化』を承認することになるため、反権威も行き過ぎれば有害な思想や態度となるでしょう。

また、日本のような自由主義と民主主義の理念がある程度行き渡った先進国では、正式の立法過程に準拠した手続きを経なければ、法や制度による権威を発動できませんから、個人の人権が不当に侵害される権威は通常確立されません。とはいえ、現在、日本のマスメディアで伝えられる報道には、『親米国家へのテロ活動の激化や北朝鮮による核ミサイル攻撃の不安、国際貢献に対する諸外国の要請圧力、青少年の犯罪増加、教育現場の荒廃、経済格差の拡大と雇用情勢の厳しさ、個人情報の流出、インターネットの危険性』など日本国民の将来不安を増大させる情報が数多く伝えられているため、法や制度が必ずしも所与の人権を保護する方向に制定されるとは断定できません。

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即ち、国家安全保障や国内治安、経済情勢に対する国民の不安を鎮静させるという合目的的な理由を元に、国民の権利や自由の一部分を制限する立法が新たになされる可能性は絶えずあるということです。国家や政治は、基本的に国民の権利や自由を制限して秩序・安全・公正を維持するという機能を果たすのですから、権利や自由の制限そのものが悪いわけではありません。

問題となるのは、『権利の制限によって得られる安全・利益・豊かさ』『権利の制限によって失われる自由・利益』よりも小さい場合であり、政治は絶えず前者を後者よりも大きくするバランス感覚を持って立法や行政を行っていかなければならないと思います。

■参考文献

私たち一市民が持つ『政治的な自由』というものをどう捉えるべきなのかについて考察したエーリッヒ・フロムの珠玉の論考『自由からの逃走』をお薦めします。私たち先進民主主義社会に生きる個人は、本当に自由な生活を送っていますが、その自由が『真に選び取った自由』なのか『選ばされた自由』なのかを考えることは、この社会のあり方を真剣に考えることでもあります。

今、精神的・経済的に混迷している時代だからこそ、自由に行動できる私たちは、改めて自由とは何かの本質を問い直す必要があるのです。そして、多くの若者が『自由からの逃走』を企てずにいられないような『閉塞した社会構造』にこそ改革の鬼手を振るわねばならないのではないでしょうか?

自由からの逃走 新版

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権威と社会2:宗教的権威と禁欲的道徳の密接な関係

『政治判断による権利の制限』について前述しましたが、ここからは『人間社会に見られる権威現象とその心理』についての考察を推し進めていきたいと思います。人間の権威の起源は、家庭内における親と子の非対称な関係性にあり、知識・経験・社会的能力に勝る親が子に対して『親の言うことは素直に聞きなさい。私の言う事にごちゃごちゃ口答えせずに黙って聞きなさい』という躾目的の教育的権威がその原型となっています。

従来の家父長制社会では父親が絶対的な権威として子どもの精神世界に内在化させられ、社会的権威の前段階の権威として配置されていましたが、現代社会では父性原理はどちらかというと衰退していますので、父性的な威圧や脅威の権威は先進国では弱まっています。

権威の起源が、親に対して無力であった幼児期の親子関係にあると考えると、権威関係の中核にある愛情と反発の半ばするアンビバレント(両価的・矛盾的)な心理をより良く理解することが出来ます。 しかし、全ての人間が何らかの権威による強制を受けざるを得ないとはいえ、権威主義には表層的なものと本質的なものの区別があります。

そして、多くの人は『表層的な権威主義と本質的な権威主義のマージナル(中間的)な領域を無意識的にふわふわと漂流してその場その場で臨機応変な判断をしている』と言えるでしょう。『表層的な権威主義者』は、自らの保身と利益のために権威に従属するが、『本質的な権威主義者』は自らの幸福と満足のために権威に従属するという違いがあることも指摘しておかなければならないでしょう。

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表層的な権威主義者が、権威に従属する最大の理由は『義務や規則に違反した際に与えられる処罰への恐怖と社会秩序維持への貢献意識』です。一方、本質的な権威主義者が、権威に従属する最大の理由は『義務や規則を遵守する事によって集団に同一化し、階層構造の上位者に承認される喜びと満足』です。

権威者から承認され褒められることには、多くの場合、『精神的な快楽』と『自尊心の充実』、そして、『物理的な恩恵』が伴います。また、そういった物心両面の恩恵があることを私たちは幼少期からの親子関係、教師との関係、先輩との関係を通して知らず知らずのうちに学び取っていきます。多くの伝統的道徳観や価値規範は、儒教、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教など洋の東西を問わず権威主義を前提していますが、これは社会秩序の維持や階層構造の正当化のために必要なものですから当然のことです。

権威主義者というと、一般的には『自分の意見や判断に依拠せず、“社会的・歴史的・政治的に高い価値や実力が認められた組織・集団・知識・人物”に服従して行動する人物』『柔軟性のない硬直化した思考や判断を、社会的・歴史的に優勢な基準に基づいて下し、権威に対して盲目的に従順である人物』を意味しており、一般的に極端な権威主義者は、弱者や少数者に対して厳しい態度を取る為、敬遠される傾向があります。

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極端な権威主義者は嫌悪や抵抗をもたれやすいとはいえ、善良な市民である限り、私たちは広義の権威主義者の枠外に出ることはできません。あらゆる権威的システムを否定している存在として、テロリストやアナーキスト、反政府運動家、革命主義者が想定されますが、彼らとて一般市民とは異なる権威『神・指導者・思想・新体制・自然の摂理・運命・来世』を盲信しているという意味において、極端な権威主義者であることに違いはありません

自由主義世界の日常生活の中では平等性と公平性が前面にだされていて、権威性や階層性は背景に退いているため、私たちは日常的に権威や階層を意識することは非常に少なくなっています。最近、社会学領域において経済格差や教育格差の問題が大きく取りざたされている為、ある程度そういった経済システムや社会現象に興味がある人であれば、日本にも潜在的な階層社会と権威構造が確かに存在しているといつも認識しているかもしれません。しかし、大部分の日本人は自分自身に直接の支配や強制が及ばない限りそういった階層性や権威性に対して、一様に無関心であるか無自覚です。

人類や民族の歴史を古代まで遡っていくと、その権威構造の元型は『神と人間の支配服従の構造』から次第に発展してきたものといえるでしょう。アニミズム(精霊崇拝)や多神教の宗教が中心であった時代には、神とは即ち自然界の事物であり現象でしたから、人間は、豊かさと災厄の源である自然を最高権威として崇め奉りました。

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人類は、近代の自然科学の長足の進歩によって自然現象を予測しコントロールできるときが来るまで、自然に対して畏敬と恐怖の念を持ち続け、アンビバレントな愛情と無力感の感情を抱き続けてきました。悠遠な時間を静かに生き延びてきた巨木・巨岩・動物に不可侵の神性を見出し、広大な海や峻厳な山々、清らかな河の流れにも神の畏敬すべき力や霊的な神秘を感じました。

それらを傷つけたり、汚したりすることは『倫理的なタブー』とされましたが、時代が下ると牧歌的な多神教やアニミズムはその勢力を衰えさせ、それに代わってユダヤ教を始祖とする父性的な一神教が西欧世界に広がりだしました。一神教宗教に見られる『神と人間』あるいは『聖職者と信者』の権威構造を支える人間観は、『生まれながらに原罪を背負った罪深い人間観』です。 一般庶民の心の不安や苦痛、恐怖の根源には、人間が生まれながらに背負っている原罪があり、それを免罪して心の平安と幸福を得るためには、一神教の神への絶対的帰依と敬虔な信仰が必要であるというのが一神教の信仰の基本形態です。

つまり、一神教の聖職者階級(司祭者階級)が歴史上の長い期間において特権階級であり得たのは、罪悪感による恐怖とその免罪による安堵感という心理メカニズムを巧みに応用したからであると考えられます。神学論争に明確な回答を出すのは難しいので、ここでは、実際に『神が存在するのかしないのか』という形而上学的議論を行わずに、人間の精神機能と心理特性のみに焦点を絞って話を展開していきます。キリスト教のカトリックの神父は妻帯を禁じられ、性的快楽を得ることも禁止されていました。同様に、仏教の修行僧も、基本的に異性に対する恋心や色欲を持つことが禁じられ、妻帯やセックス、肉食が戒律によって禁止されていました。

この『禁欲的な宗教の戒律』も、かつての聖職者の特権性や権威性を維持する重要な役割を果たしていました。キリスト教やイスラム教には、旧約聖書の十戒に姦淫を戒める項目があるように、(それが建前に過ぎない聖職者が実際にいたとしても)基本的に性欲を衝動的に満たすことは罪悪であるという性規範があります。

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性を敵視するモラルの自我制約的な機能の原因は、われわれが先に、不安の役割は自我抑制的因子だといったことと関係がある。なるほど、どの社会(筆者注:19世紀末~20世紀初頭の西欧文化圏における社会)も性器性欲の充足を、生殖に必要な最小限まで許さなければならない。しかし、キリスト教文化のように性器性欲に多かれ少なかれ敵意を持っている文化では、性的願望とその充足は、それ自体悪しきもの、罪あるものと見られ、一夫一婦婚で子どもを作りたいという願望のように一定の条件のもとでだけ、罪の性格を失う。

しかし、人間の生理学的な体制のために、性は社会的に認められている最小限を越えて作用を及ぼす刺激源になるから、それを厳禁すると、不安と罪悪感が自動的に発生する。このようにして絶えず生まれるこの不安は、自我を威嚇したり、麻痺させるように働き、そのため、個人に対する超自我と権威の役割の意義は強まる。 しかし権威は、社会の中で、次の理由からも性の強い厳禁で強化される。

その理由とは、権威は、特に宗教的な形で、人間の罪悪感の一部を再び取り除く可能性を持っているということである。この軽減はもちろん、権威に対する強化された屈服と愛着に必然的に結びついている。

エーリッヒ・フロム『権威と抑圧』(『権威と家族』青土社)より引用

一神教の性規範を前提とすれば、世俗世界では最高の快楽である性欲を、出来るだけ抑圧して信仰に昇華できる人間がより道徳的であるという人間観が確立されることとなります。 よって、結婚しなければ自由な性生活を楽しむことが難しかった中世の時代において、妻帯を禁じられているキリスト教の聖職者は、世俗の信者から隔絶した高い道徳性を有する人格者として尊敬や敬愛を寄せられる対象となりました。

つまり、禁欲的な倫理観を掲げる一神教(キリスト教)の基本的な権威構造は、自分の我慢できない性欲や食欲、物欲といった欲望を、『強靭な神への信仰と博愛に根ざした行動』によって抑制している聖職者に高い道徳性と人間性を認めることによって支えられていたと考えることが出来ます。

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この宗教的な権威構造は、基本的に支配と従属の関係が逆転し難い関係ですが、もちろん、世俗化された現代社会に見られる権威構造の多くはこの宗教的な権威構造ではありません。現代社会で中心的な権威構造は、『自らの理想を投射した権威に対する愛情と従属』であり『自らの利益や幸福を得る手段としての権威への愛情と従属』になっています。

そして、権威関係の第一の特徴は、ある時は外的な力によって抑圧的に強制されているという『不快感情』を感じ、ある時は内面的な自発性によって進んで従属しているという『快感情』を感じるという『アンビバレンス(両価性)』にあります。

一定期間以上、存続している権威構造や権威関係には、必ずアンビバレンスな感情の相互的なやり取りが観察され推測されるはずです。そうでなければ、少数の権威者が多数の従属者を従える権威関係は、クーデターや下からの抵抗によって短期間のうちに打ち倒されてしまいます。

古い権威関係が新しい権威関係によって取って代わられないということは、最高権威者に従属している部下や民衆がアンビバレンスな感情を抱えながらも、その権威に反抗して得られる利益よりも不利益のほうが大きいと総体的に判断している状態にあると推測することが出来ます。

■書籍紹介

『権威と社会1』で紹介したエーリッヒ・フロム『自由からの逃走』の読みやすく理解しやすい現代版として、斎藤貴男の『安心のファシズム』という本があります。自由主義と個人主義が普及する現代社会に生きる私たちは、権威的な管理や支配などとは無縁だと考えがちですが、最新のIT機器や行政による個人識別システムによって極めてメカニカルな管理監視網が広げられつつあるという斎藤氏の指摘は興味深いです。

権威によって保護される安心感や安全な環境を求めるために一定の自由(解放感)を手放さざるを得ないのか、それとも、多少のリスクや不確定性を受容して自らの自由を守ると同時に変化や事件のある社会を望むのか……。

センセーショナルなタイトルを冠した本書には賛否両論ありますが、自発的な服従契機が無数に散らばる現代社会を俯瞰的に考える一つの契機にはなるのではないでしょうか。

安心のファシズム―支配されたがる人びと

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権威と社会3:何故、北朝鮮国内の独裁体制は維持され続けているのか?

例えば、人権保護や経済情勢悪化、核兵器開発など数多くの問題を抱えた独裁国家として注目されることの多い北朝鮮を題材にして考えてみても、北朝鮮は金正日という独裁者一人によって完全支配されている国家ではありません。どのように強力な権力者であっても、彼(彼女)一人で全国民を完全に掌握し支配することは不可能であり、必ず彼の命令を忠実に伝達して実行する直属の部下(重臣)がいて、その重臣の命令を機械的に実行する官僚組織や軍事機構が存在しています。

独裁国家や専制主義政治機構の命令系統は、『最高権力者→内閣に相当する最高幹部の集団→各最高幹部が管掌する機関のリーダー→機関のリーダーが指揮する官僚組織→官僚組織が指導する各地域のリーダー→地域の小集団→国民個人』といった段階を経て、国民個人を管理監督して体制維持の行動を取るシステムを構築しているわけですが、『最高権力者と最高幹部』『最高幹部と各機関のリーダー』など直接的に命令・指示をやり取りする関係では、複雑な感情コンプレックスが生まれます。

(民主主義国家の命令系統もトップダウンの側面はありますが、独裁国家の場合にはその命令が、民主的な立法趣旨の範囲を逸脱して人格的自由(言論報道・思想信条・日常生活の行動・宗教)の領域にまで広範に及ぼされること、立法過程に民意が反映される選挙がないこと、独裁者個人の裁量権が大きくそれを監視して是正を求める監査機関がないことなどの違いがあります。)

複雑な感情コンプレックス(感情複合体)の内容は、『畏敬・尊敬・崇拝・讃美・信頼・愛情といった肯定的な感情』『恐れ・恐怖・憎悪・反発・嫌悪・敵意といった否定的な感情』が複雑に入り混じって葛藤しあっている状態です。

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そして、『実力を備えた公的権威に対する態度』は、肯定的な感情と否定的な感情のせめぎ合いでどちらが優勢になるかによって決定されてきます。一般的に、最高権威に近い社会的地位や立場に居る人ほど、『権威に従属するインセンティブ(誘因としての利益)』が大きくなってきますから、権威に対する反発や抵抗は弱くなり、自分自身を最高権威を分有する存在として見做し、次第に権威との同一視の心理機制が働いていきます。

反対に、最高権威から遠い社会的地位や立場に居る人ほど、『権威からの制限や規制を受けないことによるインセンティブ(誘因としての利益)』が大きくなってきますから、どちらかといえば反権威的な価値判断や行動を取り易くなっていきます。先進国のマスメディアは、金正日総書記は、表面上は処分を恐れる人民から崇拝されているが、本当は北朝鮮人民の全てから嫌悪され憎まれているといった論調で、北朝鮮の政治体制を非難しますが、現在の金王朝ともいわれる独裁政権が現在まで維持されている現状から特権階級に所属する人々からは一定の支持を得ているとは言えるでしょう。

本当に特権を享受する階層を含む全ての人々から嫌われ恨まれた場合、独裁者はクーデターにあって殺害されるか国外に亡命せざるを得ない状況に追い込まれます。その場合のクーデターや反逆には、実際的な軍事力さえ必要ないでしょう。周囲を取り巻く全ての側近と各行政機関のリーダーが『あなたの命令を聞く意志はありません。あなたは独裁者として国民を苦しめたので然るべき処分を下させて貰います』と宣言するだけで、彼は全ての権力を失います。

よく中国や北朝鮮のような一党独裁体制では、軍隊を誰が掌握しているのかということが問題となりますが、私兵としての趣きを持つ軍隊の無力化という意味でも、兵士一人一人が『上官の命令に従うつもりはありません。戦いたければあなた一人で戦ってください』と宣言すれば、どんなに強力な軍隊も無力化します。

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しかし、多くの独裁国家においてそういった事態(独裁者に対する一斉無視や一斉蜂起)はまず起こりません。独裁者として国家を専制的に統治する人は、そういった人間の権威関係にまつわる感情の機微に対して敏感ですので、自分に対して忠誠や服従を誓えばそれに報いる十分な権力と財産を与えることを約束し、自分に対して謀反や反逆の気配を見せれば容赦なく粛清するという威圧を効かせています。

行動心理学の文脈でいえば、従属者が反発せずに自発的に喜んで従うだけの『十分な正の強化子(快の刺激を感じる利益・地位・賞讃)』を与え、従属者が恐怖を抱いて反抗できないようにする『十分な負の強化子(不快の刺激を感じる脅威・処罰・粛清)』をちらつかせて徹底的なオペラント条件付けを施しています。

また、経済学のゲーム理論の文脈でいえば、独裁国家の人々の多くは『囚人のジレンマ』状況に陥っています。多くの従属者は相互監視体制に置かれていて、『自分と同等の階層・地位・立場にある者が、最高権威に批判的で反抗的であることを上位者に密告すれば、インセンティブが得られる制度的仕組み』が整備されているのです。

その為、独裁者に従属している圧倒的多数の国民個々人は心理的に『協力行動を取り難く、非協力的行動を取りやすい不安定な囚人のジレンマ状態』に置かれているということが言えます。日本の封建主義体制を維持する為につくられた江戸時代の五人組の制度や身分階層間の対立意識をうまく利用した士農工商の制度も、ゲーム理論的な葛藤状況を利用した制度的枠組みだということが出来ます。

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『囚人のジレンマ』というのは、最も有名な利得を争うゲームで、『二人で共犯した犯罪者が刑務所に留置された場合に、別室で尋問され、相手を裏切って犯行を自白すれば、自分にとって最も大きな利得が得られると説得される葛藤状況』です。この場合に自分が得られる利得獲得のパターンには、次の利得表で示される4つのケースが考えられます。(『協力行動』とは『黙秘して共犯者と協力すること』、『非協力行動』とは『共犯者を裏切って警察に自白すること』を意味します。利得得点は便宜的なものですが、相対的な利得の大きさを表します。)

1.自分が協力行動・相手が協力行動(自分の利得:5、共犯者の利得:5)

2.自分が非協力行動・相手が協力行動(自分の利得:6、共犯者の利得:-1)

3.自分が協力行動・相手が非協力行動(自分の利得:-1、共犯者の利得:6)

4.自分が非協力行動・相手が非協力行動(自分の利得:0、共犯者の利得:0)

この利得表を見て、大勢の人は協力行動と非協力行動のどちらを選択しやすいでしょうか。相手との信頼関係が強固なものであれば、お互いに協力行動を取る『1』の行動選択が最適反応(最適解)であるように思えるかもしれませんが、経済学の平均的人間観である将来の利得を最大化しようとして合理的な判断をするという経済人(ホモ・エコノミクス)を前提とすれば、多くの人は相手の誠実さを信頼せずに非協力行動を選択することが多くなるように思えます。

故に見知らぬ不特定多数の人々が生活する独裁主義国家の社会においても、自分と家族の利得を最大化するために、見知らぬ他者を信頼して『権威に対する非協力行動』を選択するよりも、見知らぬ他者を懐疑して『権威に対する協力行動』を選択する可能性が高くなります。また、独裁主義国家や恐怖政治が行われているような専制国家では、『権威に対する非協力行動を密告摘発することに対する十分なインセンティブ』が制度的に用意されていることが多いので、ほとんどの人は功利主義的判断から権威に対する従属と貢献を選択することとなります。

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何故なら、同じ階層の人を裏切って得られるインセンティブは確実に得られるものであるのに対して、同じ階層の人と協力して権威(体制)を裏切って得られるインセンティブは、極めて不確実で曖昧なものであり、相手に出し抜かれて先に裏切られれば自分と家族の破滅を直接的に意味するからです。精神分析学の文脈で、権威を分析すれば、生まれながらに洗脳教育的に指導者の権威性や神聖性を刷り込まれることによって、内面的良心や善悪判断の基準としてその指導者が取り込まれ超自我の一部となることを指摘することができるでしょう。

もしくは、先進国のアイドルやスポーツ選手をカリスマとして強く崇めて深く愛する人々がいるように、自我防衛機制の一つである投影同一視や投射の機制が働いて、それらの人々の持つ栄光や幸福、他者への影響力、経済的豊かさが増すことを心から歓迎して喜ぶといった心理状態になることも多くあります。 その場合には、カリスマとしての魅力を備えた人物の幸福や権威の上昇が、自分自身の自我の強化や拡大と投影同一視され、気分の高揚や充足を伴う理想自我に近づく体験として感じられることとなります。

権威の起源は、家族関係で経験される権威的関係の内在化にありますが、家族関係も社会的環境から切り離して考えることは出来ず、『内在化された権威=超自我』は社会的階層関係を投影した趣きを帯びることとなります。

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超自我と権威との必然的な同質性は、超自我が現実の強力な権威から絶えず新しく投射されねばならないということにもとづいているのではなくて、超自我自体が自分に命じられた使命をやり遂げるほど十分に強くもなければ安定もしていないことに基づいている。

なるほど正常者から病的な強迫性格者にいたるまでのパーソナリティ・タイプがあるが(強迫性格者の超自我は強いので、この超自我が現実の権力と人によって具体的な形が与えられないときでも、彼の行動と衝動を完全に支配できるほどである)、強迫性格をもったロビンソン・クルーソーのような人だけが、難破の前に彼がいつもしてきたように、島でも彼の超自我に従い続けるだろう。

しかし、平均的な人では、心の中の法廷(筆者注・内面の良心や道徳あるいは倫理的判断基準としての超自我)は強くないので、権威から否認されるという恐れだけで十分である。権力をもった現実の権威に対する恐れ、物質的な利益の希望、権威から愛され、ほめられたいという願望、そして(表彰や昇進等によって)この願望が実現されたことによって生まれる満足、更にこの権威に対する性的、特に同性愛的な(無意識的なものであっても、実現されたものであっても)対象関係の可能性は、超自我に対する自我の恐れより少なくとも強い因子である。

それゆえ、超自我と権威との関係は複雑である。ある時は、超自我は内化された権威であり、権威は人格化された超自我である。しかし他のときには、両者の共同作用は、自発的な服従と隷属を作る。そして、これは社会的な行為を驚くほど特徴づける。

エーリッヒ・フロム『権威と超自我 それらが発達する際の家族の役割』(『権威と家族』青土社)より引用

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私たちは、『外的な実体のある権威』と『内的な実体のない権威(超自我)』との相互的な作用の狭間にあって生活しているわけですが、それらの影響や強制力から完全に解き放たれることは、人間が社会的な存在である限りありません。そして、権威との距離感や関係は、人間の人格形成過程やコミュニケーション能力、対人関係パターンと密接に関わってきます。

どういった距離感や関係がベストなのかは、社会的属性や立場を無視して断言することはできず、その関係は、社会的経済的歴史的に外部から規定されてくるという特質を併せ持っています。つまり、個人の信念・欲望・価値観といった主観的な内面心理を超えた部分で、自動的に無意識的に規定されてくる側面を必ず持っているということです。

罪悪感、倫理的満足感、強制力、実際的利害と密接に結びついたそれらの力や感情とどのような関係を持ちながら自分の行動や判断を選択していくのかによって、その人のパーソナリティや人生の過程が緩やかに規定されていくわけです。その事から、この愛情と敵意が交差する権威構造のダイナミズムこそ、社会的アイデンティティを背負って生きなければならない私たちの幸福と苦悩の源泉に他ならないといえるのではないでしょうか。

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■注記

この記事では、北朝鮮を典型例として題材にしていますが、専制主義国家の権威維持に関する心理学的考察が主となっているため、北朝鮮という国家の存続が可能な国際情勢には触れていません。 各国とのパワーバランスおよび外交交渉、隣国との国益関係、独裁国家の歴史的民族的文脈による存在意義などを綿密に考証する必要があると思います。

■書籍紹介

北朝鮮の独裁体制の歴史的ルーツを、李氏朝鮮時代や儒教道徳にまで遡って解き明かそうとする書物としては『韓国人から見た北朝鮮―独裁国家のルーツ』(呉 善花 ,PHP出版) があるので興味のある方は是非、読んでみられることをお薦めします。

ここで、紹介する書籍は、ナチスドイツの独裁体制を成立させた大衆のメンタリズムと当時の時代状況、全体主義国家の社会構造について詳細に論述した、シグムンド・ノイマンの不朽の古典『大衆国家と独裁-恒久の革命』です。

ノイマン自身がナチスドイツの迫害を逃れて亡命した人物であり、実体験も踏まえた全体主義(ファシズム)の社会構造の分析は説得力とリアリズムに富むものですので、歴史や政治の情勢を動かす大衆心理と構造などについての論説を読みたい人には読む価値のある書物だと思います。

大衆国家と独裁―恒久の革命

権威と社会4:自由意志の世界と決定論の世界

権威主義の内面は、絶えず権威に対する畏敬・敬愛・驚嘆という肯定感情と権威に反した場合に加えられる制裁への恐怖・不安・憎悪という否定感情が入り乱れて葛藤する両価性(アンビバレンス)の状態に置かれている。故に、権力への敬愛を批判的に捉える不安や憎悪は、絶えず抑圧されて意識化されないか、もしくは、権威を『良い権威』と『悪い権威』という形に極端に分割するスプリッティング(分裂)という原始的な防衛機制を発動する。

スプリッティングによって生まれた『悪い権威』に対する鬱積した怒りや憎悪は、直接的に上位者に対して向けられるのではなく、絶対に抵抗できない自分よりも低い立場や弱い状況にあるものに転換されるのだが、これが良く批判的に捉えられる『強い者には弱く異常にへりくだるが、弱い者には強く苛烈な八つ当たりをする』という極端な権威主義者の典型像ということもできよう。

しかし、強者への追随や弱者への冷淡は程度の強弱はあれ、誰もが社会適応上少なからず持たざるを得ない性質であるかもしれない。また、多くの人が自分が生きていくことだけで精一杯であるという厳しい現状もある。 確かに、日本の社会は相対的に見て経済的に豊かな社会だが、楽をしながら豊かさを手に入れられるほどに甘い社会ではない。

大多数の社会人は生活を維持するために、子ども時代から青年期にかけて勉学や技術訓練など一定の努力をした上で、更に一日の大半を働いて過ごさなければならない。更に、自分の大切な相手や家族のために消費するお金や時間を必要としていて、見ず知らずの弱者を最優先に生活を送ることは考え難い。また、誰もが懸命に幸福を求めながら努力をし続ける中で、(環境要因の影響も受けながら)自然に様々な格差や差異が産まれてくるのであって、強者が必ずしも倫理的に間違っているわけではないし、弱者が弱者であるがゆえに正義を担っているということも真ではない。

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相手が自分よりも優勢か劣勢かを判断して、自分の取る行動を選択するのは、極めて合理的で適応的な行動であることも事実であり、それが行き過ぎた強者讃美・弱者虐待でない限りは特別な問題は生じてこないだろう。 身分制の存続する階級社会ではない個人の人格的平等を前提とする市場経済社会でも、絶えず置かれた社会的立ち位置に応じた人間関係が求められるし、その社会的状況に相応しいコミュニケーションが取れなければ、様々な不利益やペナルティを受けることになってしまう。

ここまで通常のヒューマニスティックなカウンセリングや心理学の立場からやや離れた見解を提示してきたが、人が真に社会に適応し自分らしい生のあり方を実現する為には、こういった種類の厳しい現実を見据える勇気を持たなければならないことがある。絶えず多種多様な他者と出会って、相互作用を繰り返し、社会的属性に対応した振る舞いや行動を取るというのは確かに大きな精神的ストレスだが、万人が皆、社会的役割規範に従属してばかりいるわけではないという柔軟な社会観や人間観を持てばストレスを幾分か緩和することが出来るのではないかと思う。

ゲゼルシャフト(利害共同体)として他者と機能的に結びつきながら生産性や競争力を維持しているのが現在の国民国家の実情であるということは、私たちは否応なしに『優位者と劣位者への相互依存体系』に組み込まれていることを意味する。起業・企画立案・製造・流通・販売・マーケティングなどにわたる経済活動のどの部分が欠落しても、現在ある便利で豊かな経済生活は成り立たない仕組みになっているのだが、そのことを『でたらめな仕組みだから参加しない』と考えればNEETなどの非社会的問題行動が生じてくる。

この非社会的問題行動を単純に悪いと切り捨てるつもりは毛頭ないが、やはり自分自身が生きていかなければ社会改革も思うように進まないし、何より最低限度の自活可能な経済力は必要であろう。『相互依存的な社会システムの中でどのように生きていくべきか』を考えるとき、権威主義者は逃れられない運命の見地からその運命に唯々諾々と従おうとするし、非社会的行動傾向者は、初めからその社会システムに組み込まれることからひたすら逃避し義務的状況を回避し続けようと試みる。

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行き過ぎた権威主義による自己滅却も反骨精神からくる非社会的な不適応行動も、どちらも自分自身の心身の健康を障害するか、経済的に困窮するかという大きなリスクを抱えていることに変わりはない。一般に、人間の生活全般を支配していると考えられる社会的経済的諸条件は、個人の努力や才能では如何ともし難いほどに強固な相互依存的社会システムによって維持されているので、そのシステムに精神まで完全に飲み込まれない程度に、自分が必要な収入や人間関係をシステムからうまく汲み取るのが適応的な社会技能のあり方ではないかと思う。

しかし、どのような人であってもこの社会にある差異を理由にして絶望するには及ばないだろう。青年期の自己アイデンティティの確立の課題をうまく達成したときには、日々の仕事や職業を通じてこの社会システムの構造や諸条件の仕組みが何となく漠然と見えてくると同時に、自分自身の生と世界のあり方が妙に調和してくると感じられてくる瞬間がある。

それは、どんなにピラミッド型の権威主義階層構造を上り詰めても、その先にある主観的な幸福体験が圧倒的に他者よりも高いわけではなく、個人が様々な喜びや感動を経験するための時間はどのような社会的位相にあっても等しく分配されているということだ。ある事柄を選択すれば、他の事柄を選択することを断念しなければならないと考えるとき、金銭や権威では購うことの出来ない貴重な時間の配分を意識することが出来る。

どのように絶大な権力や圧倒的な財力を有していても、その人が商談をするとき、商談以外の行動を選択することは出来ないし、12時間の労働をすれば残された一日の時間は12時間しかないという現実を変更することは出来ない。こういった認知の柔軟な転換はほんの一例にしか過ぎないが、現在、精神療法の分野でもその有効性と実践性に注目が集まっている認知療法とは、このように現実にある出来事の解釈を自由自在に自己肯定へと変容させるところに最大のポイントがある。

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強固な権威主義は、多くの場合『抵抗できない過去の力に規定される保守主義』として立ち上がることとなるが、それは『普遍的な自然法則に従属する自然主義』や『客観的な事実に服従する現実主義』と同じ地平上にあるもので、基本的には個人の信念や価値判断に依存するものだ。

過去の記憶・血統・諸条件・対立に現在が規定されていて、戦争や差別などはある種の必然であると考える『懐古的な伝統主義』、自然世界の運動や現象を普遍的に説明する理論に人間も従うべきだとする『自然主義』、目に見える事象で社会的に承認されている客観的事実のみを重視せよとする『現実主義』、伝統的な宗教教義や慣習・掟には無条件で従うべきだとする『義務主義』、これら4つは全く異なる内容を指し示しているようでいてそれを貫く精神性は共通している。

人間の存在や営為を超越した『大いなる権威や力あるものに対する諦めに特徴づけられる運命主義』である。このニヒリスティックな自由意志による現状変革を否定する運命主義は、私たち人間の人生の過程において、幾多の苦難や葛藤として姿を現すものであるが、時に、運命に従い、時に、運命に抗うようなそういった自由無碍な心性による認知や行動を取れれば私たちは決定論的な運命の重圧に脆弱に押し流されることはないのではないかと思うのである。

■書籍紹介

フーコー―知と権力

元記事の執筆日:2005/08/30

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