性的人間(ホモ・セクシュアリス)と経済人(ホモ・エコノミクス)の画一的な欲望充足の人間観:人は何故、神(超越者)になれないのか?高貴なる精神の限界と実存主義

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人は何故、神(超越者)になれないのか?高貴なる精神の限界と実存主義

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性的人間(ホモ・セクシュアリス)と経済人(ホモ・エコノミクス)の画一的な欲望充足の人間観

私が恋愛心理や恋愛感情を理論的に分析し、その生理心理学的メカニズムについて語る事にアクチュアルな意義があると感じる理由の一つは、現代社会の『若年層~中年層の心理的問題や精神障害の遠因』として恋愛関係の困難や恋愛と結婚の境界の曖昧化の問題があるからである。

『恋愛関係の困難・結婚関係に対する意識』『社会的アイデンティティ確立の困難』とは、一見無関係なように見えて、実は『他者との関わりの欲求や食う為だけの仕事へのモチベーション』という意味でかなり深い部分でつながっていると考えられる。

フロイトは、『あなたが考える精神的に健康な人間像とはどのようなものであるか?』という問いに対して、『働くことと愛することの出来る人間だ』と極めて常識的なシンプルな回答をしたが、フロイトの精神分析学における愛の概念の定義と理論の発展は、甚だ不完全なものとして終わってしまった。

フロイトの構築した精神分析体系の限界は、社会構造や政治情勢が人間の精神や人格に与える影響を過小評価し、あるいは、ほぼ完全に無視したところにある。以下、かなり現代の恋愛関係の問題や苦悩から脱線するが、精神分析が、個人の精神に影響する社会文化的要因をどのように考えてきたのかを概説したいと思う。

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例えば、フロイトの指摘した神経症症状の主要原因である『性的欲求の抑圧と性的関心の隠蔽』は、ヴィクトリア王朝当時の行き過ぎた厳格な性道徳と密接に関わっているが、彼がヴィクトリア王朝の政治体制や文化風潮そのものに対して批判的な考察を加えたことはない。ユダヤ人であったフロイトは、自分自身がナチスドイツによる迫害を受けて、マリー・ボナパルトやルーズベルトらの援助を受けてオーストリアからイギリスへと亡命する悲運を辿り、大切な姉妹も強制収容所で失っている。

その為、人間個人が、政治体制や歴史状況の変化から如何に致命的な影響を受けることがあるのかについて、フロイトは経験的に深く実感していたはずである。また、経済制度や帰属社会で中心的な文化によって、個人の生活状況が規定される事についても十分に認識していただろう。それでもなおフロイトは、自らが死を迎えるまで、自身の治療体系である精神分析に『社会的・文化的・経済的要因による精神活動への影響』を具体的に盛り込む事はなかったのである。

確かに、フロイトの精神分析の理論的概念を利用した論考の中には、『歴史・民族・文学・芸術・宗教・教育』を取り扱ったものはあるが、それらは飽くまで彼の創造的な思想として語られたものであり、神経症や精神疾患の治療体系としての精神分析の理論とは明確に切り離されていたと私は考える。当時、十分に成熟した文明社会と考えられていたヨーロッパが、戦争に急速に傾倒していく世相を冷徹に眺めた彼は、戦争や迫害の原因を社会構造・経済制度といった人間の外部要因に求めなかったということである。

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彼にとって、戦争とは飽くまで、人間精神の無意識的な死の本能(タナトス)が原因となり、タナトスが破壊や攻撃の衝動となって世界を欲望のままに蹂躙する力動的な状況なのであった。人類は、悠久の歴史を通して建設的な文明と破壊的な野蛮の間を絶えず往還する、それが『良心としての超自我・合理的な理性としての自我・欲望としてのエス』を自我構造として持つ人間の宿命なのだというのが彼一流の人間認識だったのではないか。

しかし、フロイトは社会現象や政治情勢の根本原因を人間の精神に求めた事によって自由主義者でいられたとも言える。フロイトから離反した弟子の幾人か(エーリッヒ・フロム,マルクーゼ,ウィルヘルム・ライヒなど)は、精神分析を社会現象に積極的に適用することによって、革命的な思想へと傾倒し、マルクス主義と深く連帯していくこととなった。

つまり、無意識の決定論者であったフロイトは、『無意識が意識を決定すると考えたが、社会が意識を規定するとは考えなかった』のであり、反対にフロムやマルクーゼは『意識が存在を規定するのではなく、存在が意識を規定する』というマルクス主義的な人間観を採用して『社会・文化・経済特にその物質的基盤が精神・人格を規定する』という環境決定論的な社会主義的立場へと移行することになるのである。

フロイトは少なくとも人間の人格特性や精神機能が、社会的経済的に決定されてしまうとするマルクス的な人間観を否定していたと考えられる。フロイトが人間の精神を駆動する本質的エネルギーと考えたのは、社会的階級でもなければ経済的条件でもなく、人間が進化の初期段階から持っていたと考えられる『自己保存本能』『種の保存本能としての性衝動』であった。彼は、生命を維持する自己保存本能や種を保存する性的衝動の根底に流れるエネルギーを“リビドー”という仮説概念で表現し、そのリビドーを熱力学のエネルギー保存の法則のアナロジーとして意識していたのである。

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科学的な思索者としてのアイデンティティを最後まで持ち続けた彼は、生物学的な基盤を持つ人間個人の精神を主要な研究対象としたのであって、社会的な存在としての個人の生活状況・政治権力・経済情勢にまでその精神分析療法を拡大することはなかった。言い換えれば、フロイトは、マルクーゼやライヒのような精神分析学を理論的根拠におく革命家ではなく、飽くまで神経症を中心とする精神的問題を改善治癒させる心理療法や精神医学の専門家としての自己認識を持っていたように思える。

現代の医師が、社会制度や政治体制・文化について直接的な影響力を行使することがないように、フロイトも医師であった以上、その第一の目的は患者の治療であり社会の変革ではなかったということであろう。今まで述べてきたことを踏まえると、古典的な精神分析の人間観は、社会的人間観というよりは、『家庭的人間観』であり『個に閉じた人間観』であると言えよう。

言葉を換えて哲学的に表現してみれば、デカルトの機械論的自然観に似た“機械論的人間観”とも言える。古典的な精神分析の人間観は、生理学的基盤を持つ心的エネルギー(リビドー)が循環する『外部環境(社会)に開かれていない個人』を想定している。 『リビドーの快楽原則に基づく欲求』が満たされない時に、緊張と不快が増大し、その緊張を緩和する為に、『快楽を伴うリビドーの充足』を求めて人間は行動するというのが基本的な人間観であり、この快楽原則に基づく心理行動メカニズムを『一次過程』と呼ぶこともある。

フロイトが、他者を愛すると語る時、それは混沌としたエスの領域で荒々しく燃え盛るリビドー(性的衝動)のベクトルを自己から他者に向けて充足することを意味する。私が先ほど古典的な精神分析には『他者・社会に開かれた人間観』をもっていないと述べたのは、ここに原因がある。即ち、『主観的なリビドー(性衝動)の充足』を『延期された性的快楽の充足としての恋愛』と読み込む時、そこに『愛するかけがえのない他者(恋人)』は実在しないのではないかということである。

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そこには、飽くまでリビドー充足の条件や道具としての対象(他者)しか存在しないのではないか。 優しさや思いやりや親愛感が、リビドーの神経生理学的な反応や興奮の偽装であると考える立場を取るならば、そこに人間的な他者の実在は望みがたいし成立し難い。

だから、『相互的な幸福を願う恋愛』という発想は、フロイト個人の生活実感としてはあっても、学説として採用する価値をほとんど見出していなかったように思える。人間固有の関係性である恋愛の精神性を、フロイトが精神の健康と安定にとって重大なものとして深く考察することなく、リビドー充足の延期に過ぎないと喝破したことは、一部の人たちにとっては真理であるかもしれないし、観察される恋愛事象のある側面をうまく説明しているかもしれない。

しかし、おそらく大部分の人たちにとって『愛するかけがえのない他者の実在』は議論の余地のない自明の前提であって、『自分は自分の欲望充足のためだけに他者と付き合い仕事をしている』という利己主義の自覚ある者は少数派に過ぎないだろう。それを、科学的な感情を排した理論で反駁することに有意性や実効性は乏しい。 『全ての行動の動因には、自己保存や性的欲求・承認欲求の充足があるから、全ての人間は利己的である』という意見は確かに正しいが、利己的な行動の中にも利他性が付随するという視点も忘れてはならないだろう。

行動の意図や動機を遡れば、確かにほとんど全ての行為は、何らかの報酬や利益を期待して行われている可能性が高いが、『あなたの愛情やあなたとの性愛を得たいから、あなたと付き合いたい』という自然な恋愛の欲求を否定することは原理的に出来ないはずだ。つまり、恋愛や結婚において『あなたの愛情や性的魅力は要らないから、あなたと関係を持ちたい』という無償の関係性は成り立たない。自分を必要としない、自分を求めない人間と親密な関係性を結ぶ意味が多くの人には理解できない。

特に、恋愛関係は、『相手に精神的にせよ身体的にせよ求められること』によって幸福感や充足感を感じる関係である。人間の“他者との関係性から快楽を感じる心理機序”を前提とすると、恋愛にせよ結婚にせよ、利己性と利他性が調和する地点において、双方が幸福や快楽を感じるようになっているのである。

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また、自分の為に自分で行動するというのは利己的でもあるが自律的でもあり、自己責任の遂行にも関与する行動の形成である。その為、無条件に利己性を倫理的に容認できないと断じることは出来ない。生活を維持するための金銭を得る事を前提として多くの人は働くわけだが、だからといってあらゆる仕事が利己的であり道徳的に悪しき行為であると断じることが出来ないのは、市場経済の仕組みを考えれば当然のことだ。

他者を自己の欲望充足の対象としてのみ捉える人間観は、突き詰めていけば自我意識に閉じ込められた独我論の誤謬に陥るだけである。過去に『孤独なる独我論的世界からの解放と社会的な責任意識の萌芽』という記事を書いたが、相互的に関連しあった経済社会を虚無感に沈まずに生きていく為には、独我論的世界から自身を解放しなければならないし、恋愛・結婚・就職といった社会的関係性はその端緒となることも多いのである。

ただし、フロイト本人も本心から個人を社会から切り離された存在と認識していたわけではなく、精神分析の理論体系における理想的モデルとして考えた場合に社会経済的要因を最小限に留めたに過ぎないとも言える。 学問的に仮説された個人には、社会から孤立し、実在する他者と無関係に自足している個人が多い。

リビドー充足を全ての行動の動因とする“性的人間(ホモ・セクシャリス)”が反論の余地の大きい仮説的モデルに過ぎないように、古典的な経済学で前提された将来の利益の獲得を目的にして、損失や無駄を省き合理的に行動する“経済人(ホモ・エコノミクス)”も実際に観察される人間の非合理的な行動をうまく説明することが出来ない。

また、ゲーム理論に代表される典型的な戦略を持ってより多くの利益を得ようとする“利得獲得ゲームに参加するプレイヤーとしての人間観”も、理論の説明力や説得性を向上させる為に前提された仮説的モデルに過ぎず、人間の行動特性のある一面をうまく説明するに過ぎないのではないかと思う。人間には、セックスや性的関係のみを目的とする異性へのアプローチも確かにあるだろうが、性的充足以外にも、精神的な幸福や時空を共有する事の安らぎを求める異性との関係も無数に見られる。

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人間は、理性に基づく合理的な目的達成の行動を取ることも多くあるが、時に情動に支配されて不合理な利益を逸失する行動を取ってしまうこともある。合理性を意識に、非合理性を無意識に対応させたフロイトの着想は独創的で意義深いものだったが、論理・理性・計算・意志が通用しない無意識の圧倒的衝動を仮定することで、晩年のフロイトが戦争の悲惨や残虐を人間の原始的本性へと還元してしまい、オプティミズムを失いペシミズムに溺れて具体的対応策を放棄したのは残念であった。

心理学、精神分析、社会学、経済学、政治学などの諸学問分野は、現在に至るまで様々な“普遍的人間観”を構想し提示し続けてきたが、未だあらゆる人間の行動原理・心的過程を包括的に説明し得る普遍的人間観は登場していないし、また例外なく人間を説明する人間観が登場することが望ましいと断言することも出来ないと思う。現代科学の趨勢では、遺伝子解析によって人間の全てが遺伝情報に還元できるとする立場も強くなってきているが、全体は部分に還元できないとする創発性の概念を主張する立場もあり、これから生命科学分野の動向は気になるところである。

性愛と資本主義

人は何故、神(超越者)になれないのか?高貴なる精神の限界と実存主義

現代社会は、中心的価値観が不在の時代と言われたり、普遍的規範が相対化された時代だと言われたりします。現代社会に生きる私たちの不安や憂鬱、その対極にある自由と幸福は、この相対的な価値観と流動的な規範性によって生み出されています。絶対的な価値基準や倫理規範がないために自由な行動を選択できるが、自明な絶対的価値観がないためにある行動や思考の選択が正しいかどうかを確実に保証できる権威がありません。

また、あらゆる自由意志による選択が可能である一方で、何事も選択しないという無為の自由は、現代の自由主義世界には基本的にありません。絶対的な価値によってある行動を取るように強制はされないが、主体的な意志によって自らの生存を確保し、存在意義を創造していかなければならないというのが現代社会の行動原則なのです。

こういった自由主義世界における人間のあり方を『自由の鉄鎖につながれた人間』というメタファーでサルトルが表現しましたが、私たちは宗教への帰依や指導者への服従といった『自発的隷属』を選択しない限り、この自由の鎖から逃れることは出来ません。

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現代社会を『生き難い』と感じる人の大部分は、不自由な状況で何かを強制されているから行き難いと感じているのではありません。彼らは、自由な選択肢の前にあるリスクや不名誉という障壁に阻まれて身動きが取れなくなっていたり、憂鬱な精神運動抑制によって『意欲や気力が著しく低下』していたりします。その結果、『何も選択したくない・何も行動したくない』という暗澹とした気分に陥ったり、自由な選択の可能性を押し付けられる社会活動や人間関係を回避してひきこもったりします。

『生き難さという認知の根底』を突き詰めていくと、『自由の鉄鎖につながれた無気力に覆われた人』の姿が浮かび上がってくることが多くありますが、この生き難さを改善するためには『自由に選択する事による喜びや達成感』を多く経験していく必要があります。初めは失敗したり諦めたりしても、大きなリスクや不利益のない簡単な行動や安心できる相手との人間関係から、自由な選択を行っていき、少しずつ高度で難しい自由な選択を段階的に積み重ねていく方法(行動療法の系統的脱感作)を用いることが有効です。

いずれにしても、現代社会において『あらゆる自由の鎖を無視して、一切の選択を拒絶すること』は通常できませんから、『自由を有効活用すること・選択の機会を楽しむこと・選択のための情報収集と戦略的対処を行うこと』を念頭において自由の鉄鎖から自己を解き放っていく必要があります。

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■プラトンのイデア論と実在

かつて、人類は真理の存在を自明のものとし、ある者は理性的な思索の積み重ねによって真理に到達できると考え、ある者は敬虔な信仰でエゴイズムを捨てることによって真理を実現できると考えました。古代ギリシアの哲学者であり、あらゆる哲学的思索の原点とも言われるプラトン(Platon, B.C.427-347)の哲学は、私たちが知覚する現象世界(物理的世界)を『洞窟に映し出されるイデアの影』に過ぎないと断じました。

私たち人類が、長い歴史を通して苦悩や恐怖を避ける為に信じ続けたのは、『目に見えない真理の世界=イデア界』であり、キリスト教やイスラム教の説く天国も、仏教の説く西方極楽浄土も、プラトンのイデア論に極めて近い思考形態を取っています。哲学の主要な命題の一つは『何がこの世に実在するのか?』という根本命題です。

プラトン以来の哲学では『私たちの知覚できる世界=現象界』は、相対的に生成消滅する仮象の世界に過ぎないという考え方がなされていました。私たちは通常、目に見えて、耳に聞こえる感覚機能で知覚できる世界を現実世界であると判断して生活しています。しかし、伝統的な哲学では、生活の舞台である現象界(感覚世界)は、絶えず変化するために仮初めの世界に過ぎないと考えられました。

イデア論を前提とすれば、人間理性のみが接近できる永遠普遍の実在の世界であるイデア界こそが、真実の世界であるとされたのです。イデアとは、私たちの精神内界にある『理想的な元型』のことであり、『不完全に生成消滅する現象界へのアンチテーゼ(否定)』でもあります。 人類史の長きにわたって信奉されたイデアとは畢竟、心的現実性として生起する主観的観念であり、実体のない真・善・美の理念を明確化する働きをしてきました。

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善や正義のイデアを信じるということは、現象界を超えた権威を信奉することにつながり、人類はイデアによって、社会秩序を維持する道徳規範に実効性を持たせてきたという側面があります。中東を起源とする一神教が普及した西欧世界では、プラトンの言うイデアは、最高権威である神として結実しました。

全知全能である神は、物理的実体をもたないが故に、人間が想起可能なあらゆる『良い属性』を付与することのできる実在で有り得ると言い換える事も出来ます。どのようなカリスマ的魅力を持つ人間個人でも神を超越した『あらゆる良い属性』をその一身に集めることは出来ません。

それは、個人は飽くまで物理的実体と有限の生命を持つ『個物』としてこの世界に存在しているため、『普遍』としての良い属性をその身体に纏い続けることが不可能だからです。如何に、狂信的でカリスマ的な指導者が、『自己の永遠不滅の価値』を説き続けようとも、その指導者は、いずれ『有限の生の宿命』に従い死を迎えるでしょう。

また、真・善・美というイデアを実現する為の精力・魅力・知性は、加齢現象と共に衰退するのが普通であり、永遠不朽の価値の源泉として個人が振る舞い続けることは原理的に無理だといえます。『全知全能・永遠不滅・完全無欠・絶対普遍』という概念が神の属性を端的に示すものですが、こういった概念はイデア的な理想の元型に根拠づけられています。

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そして、19世紀末に登場した実存主義の潮流とイデア論の古典哲学・伝統宗教は衝突することとなります。 特に、『ツァラトゥストラはかく語りき』を著したフリードリッヒ・ニーチェは、背後世界(イデア・神・天国地獄)を価値の源泉とする道徳的世界観を否定し、『神の死』を宣言することによって伝統宗教による道徳規範の相対性(曖昧さ・不条理)を主張しました。

力への意志を人間の生命力と看破したニーチェは、宗教・道徳・倫理に内在するルサンチマン(弱者の強者に対する怨恨)を指弾して、ありのままの現実を直視してなお背後世界に逃げない『超人』を目指すことを自らの哲学の指標としたのです。

■イデア・天国・神という「背後世界」を否定する「実存主義」

19世紀末から20世紀にかけて、キルケゴール(1813-1855)を嚆矢として、ニーチェやハイデガー、サルトルへと続く『実存主義(existentialism)』が、人間固有の“実存”という存在形式に着目して、近代の科学主義に依拠する合理主義的な人間観、実証主義的な人間理解を無効化しました。つまり、客観的に観察して分析する自然科学的な人間理解では、人間の本質的なあり方である実存には差し迫ることが出来ないという事の啓蒙が、実存主義と呼ばれる思想なのです。

実存主義の影響には、『人間の生を活性化する側面』と、『人間の生を孤立化する側面』があります。どのような価値体系であっても、どのような社会システムであっても、物事には必ずメリットとデメリットがあるものですが、実存主義の思想に準拠してこの生を生き抜くためには『個としての強さ』が最低限必要となってきます。

あなたが個としての強さがあるならば、『生への意志』『力への意志』を語る実存主義によって生の活力を向上させることができるでしょう。あなたが背後世界に救済や癒しを求めるならば、『神のいない世界』『主体として自由に選択しなければならない私』を説く実存主義によって生の無常や虚無を感じてしまうかもしれません。

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実存主義の語りかける生き方は極めて単純明快なものであり、『今、ここにいる私』はどのように生きるべきなのかを考え続けながら、自分の意志と感情によって自由な選択を繰り返しながら生きるということです。実存主義は、現実を徹底的に直視することによって、『人間個人としての私』は、神からも他者からも社会からも疎外された『剥き出しの裸の生』を根本において生きなければならないという人間観を内在しています。

機械化された近代産業社会の中で、生産と消費のメカニズムを自由に利用する快楽によって、人々は『敬虔な禁欲的信仰の世界』に背を向けることとなりました。背後世界の実在を疑いだした人間は、神(超越的絶対者)の命令・戒律としての道徳規範の絶対性も相対化し始め、最早、この世界に絶対的な価値判断基準として万人に通用する尺度はなくなりました。

高度資本主義社会にあっては、ホリエモンのように絶対的な価値指標として『金銭』を説く人もあるでしょうが、金銭は飽くまで経済の交換システムを支える道具、人間の欲望を実現化するツールに過ぎません。金銭は、確かに、貨幣経済に生きるほぼ全ての人々の欲望の対象、あるいは、生存を維持するために不可欠な道具であり続けますが、神(イデア)のような相対的比較を許さない絶対的価値指標とはなり得ないのです。

金銭は、その所有量や投資額、費用対効果、経済規模、市場価値、年収年商、債権債務といった形で『相対的な数量化された値』として表現されますから、基本的に個人・企業・国家が保有する金銭は、その利益・負債の大小によってその価値が相対的に判定されているといえます。

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こういった近代経済社会の消費にまつわる興味深い思索として、ジャン・ボードリヤールの『消費社会の神話と構造』があります。ボードリヤールの思想に深く踏み込む余裕はありませんが、『市場経済の等価な交換機能の消滅・生産と消費のシステムへの取り込み』と『記号としての商品の消費による個性化・他者との差異への価値付け』を説く思想はラディカルで説得力のあるものです。

私たちが生きざるを得ない、お金と何かの商品やサービスを交換するという消費社会、その消費社会における快楽と苦悩、究極的な生の意味の喪失、社会システムの中で機能する部分としての私、そういったポストモダン的な思索が好きな人には、ジャン・ボードリヤールの著作は全てお薦めできます。

■人間の抱える宿命的な弱さと向き合う高貴なる精神

実存主義について中途半端になりましたが、またの機会にニーチェの思想哲学について掘り下げてみたいと思います。最後に、神の死への漠然とした恐れを抱いていたブレーズ・パスカル(1623-1662)の言葉を引用して終わります。

実存主義的な『世界と分かち合えない個』としての人間像をパスカルは提示しましたが、それでもなお神の実在性が深く信仰されていた17世紀フランスの哲学者パスカルは、何とか神の恩寵や実在を信じる精神性を持ち続けたようです。

人間は自然のうちでもっとも弱い一茎の葦にすぎない。しかしそれは考える葦である

私の生涯の短い期間が、その前と後の永遠の中に没し、私の満たしている小さな空間が、私の知らない、そして私を知らない空間の無限の広がりの中に投げ出されていることを考えるとき、私は自分があそこではなくてここにあるのを見て恐れ驚く。何故なら、どうしてあそこではなくして、ここにあり、あの時ではなくして、今あるのかという理由が何もないからである。誰が私をここに置いたのか

パスカル『パンセ』より

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パスカルから200年余りを経過した時代に、ニーチェが誕生し『神の死』を宣言しますが、これは自己欺瞞による道徳規範やイデア的観念による願望充足をルサンチマンと見る徹底的な現実主義による伝統哲学批判でもありました。自分自身の精神と誠実に向き合ったときには、必然的に『自身の弱さ・醜さ・無力さ』を実感することが多くなりますが、その時に際して、私たちは如何にこの困難な生を力強く生き抜くことができるのかを問うのがニーチェの哲学ではないかと考えています。

人間として持たざるを得ない宿命的な弱さを、私たちは恐らく超えられないでしょう。 歴史上のニーチェもまた、その高貴さと強靭さを追求した超人思想とは裏腹の淋しく悲しい人生を歩み、その生を狂気のうちにひっそりと終えました。『自らの人間としての弱さ』と向き合い、それを超克する強靭な意志と行動力を持つことは、確かに高貴なる精神の強さを体現する『超人への道』なのかもしれません。

しかし、その弱さを柔軟に認めて受け容れられる人間、他者の弱さを思いやれる人間というのも素晴らしい魅力を持った存在だと私は思います。弱さや苦しさの相互補完が許される寛容な社会では、強い人も弱い人もそれぞれの人生を充実させていけるはずですし、人間として抱える本質的な弱さを見せられる『特別な相手』は誰もが必要としているのではないでしょうか。

消費社会の神話と構造 普及版

元記事の執筆日:2005/08/25

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