ジャン・ピアジェの発生的構造主義と思考機能の発達仮説,ユングの『外向性・内向性』の区分と精神的危機へ対処しやすい性格類型

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『ユングの類型的な性格理論』の思考形態と『価値判断のスキーマの複層化』の心理的効果


ユングの『外向性・内向性』の区分と精神的危機へ対処しやすい性格類型


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ジャン・ピアジェの発生的構造主義と思考機能の発達仮説

前回、認知療法と他の技法の異同と特性についての記事を書きましたが、認知療法の実際的な構造化面接についても少しずつ説明していこうと思います。今回は、認知療法の具体的な内容に入る前のピアジェの理論や世界観の説明が長くなってしまったので、ジャン・ピアジェの発達段階説や構造主義の概観を示すことで、『スキーマの主体的な変容の可能性』について考えてみます。

認知療法は、認知心理学を前提とした心理療法であり、その究極的な目的は『自己否定的かつ将来悲観的なスキーマを環境適応的な方向』へと変容させることです。ここでいうスキーマ(図式)とは、“過去の記憶・経験・知識の集積”として形成された『(行動決定・感情生起の基盤にある)知的枠組み・解釈の枠組み』とでもいうべきものです。

発達心理学の分野で著名なスイスの児童心理学者ジャン・ピアジェは、シェマ(スキーマ)を発達の各時期(ピリオド)で主体的に形成する『認識の基本枠組み・発展的な行動様式』としました。 その意味で、シェマ(スキーマ)は受動的な『環境依存の基本図式』ではなく、主体(個人)の能動的な働きかけによって発展・変化することの出来る『基本的行動図式(情報処理・知的理解の枠組み)』だということが出来ます。

外部にある情報に「万人共通の客観的真理」というものは存在せず、通常、人間は「自分固有のスキーマと社会通念などの常識感覚」を通して外部情報を取り込みます。自分のスキーマのフィルターを通過した情報を処理して、自分にとって適応的と思える行動の選択につなげていくことになります。他人から見て、一見不合理で無意味と思える情報の解釈や行動の選択もありますが、それも本人のスキーマ(過去の成否経験や知識学習、多様な記憶の集積から形成される枠組み)による解釈では合理的で適応的な判断なのです。

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その為、表層的な論理的説明や利害比較(功利)の説得によっては、なかなかその人の価値判断や行動選択を変えることは出来ません。それは、知的な思考レベルで理解することが出来ても、過去の経験知によって成り立つスキーマの内容に『その行動(対人関係・社会活動)を取ることはリスクが高く、過去にその行動が原因となって大きな不利益(屈辱・失敗・挫折・落胆・裏切り)を受けた』というような枠組みがあり、容易にはそのスキーマ(認知傾向)を変容させることが出来ないからです。

また、ピアジェの心理発達論で用いられるシェマ概念は知能(思考)に重点が置かれたもので、情動・気分・行動と密接に関連した認知療法のスキーマ(シェマ)概念よりもやや狭義の概念といえるかもしれません。 ピアジェは子どもの精神構造を知的側面から理論化し、『子どもの世界観や因果関係の認識』をシェマ概念を用いた思考(知能)の発達段階論で分かりやすくまとめました。

未熟な自己中心的世界観を持つ子どもは、具体的な事物を取り扱うのみの反射的な行動様式から、抽象的(形式的)な思考・知識・記憶を操作して現実世界に働きかけるように発達していきます。 「感覚運動(前操作段階)→具体的操作→形式的操作」の発展過程を経て社会適応的な行動様式を獲得することが出来るというのがピアジェの思考発達段階論の基本的な発達観ということが出来ます。

以下に、ピアジェの思考発達段階説と構造主義について簡単に説明します。また、ピアジェの発達仮説に関する概略について触れたウェブサイトの過去記事も掲載しておきますので興味のある方は読んでみてください。

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ピアジェの発生構造主義の思考形態

ピアジェは、心理学領野で認知心理学へとつながっていく認識発達理論の功績が最もよく知られているが、科学的方法論を構造的に解釈した構造主義者としても知られる。学問全体への影響という意味では“発生構造主義者としてのピアジェ”の果たした功績も無視できない。この思考・知能の発達段階説もミクロな構造の順序性と統合性という特徴を持っているが、発生構造主義の射程はもっと壮大なもので、認識構造の発達段階の持つ「社会と個人の発生に通底する普遍性」と「その現れの多様性」を把握しようとするものである。

つまり、一般的な教育環境のもとで知的発達と言語発達を遂げる人間は、時代や個性、微細な文化や環境の違いを問わず『数概念』『空間概念』『時間概念』『主体と客体の認識機能』などの認識構造を獲得できるのである。人格・社会の発達に通底する構造(一定の枠組み)、そして、誰もが共通理解することが可能な構造があるというのが、ピアジェの発生構造主義的な世界観であり、この必然的な構造の発生変化に全て(個人・社会・世界)は準拠するという思考形態が構造主義なのである。

そのため、ピアジェの発達段階説は普遍性と必然性を強調するもので、発達の早さに個人差はあっても発達によって獲得される認識構造の順序は変わる事がなく、「前段階の構造に後段階の構造が積み重なる形で」発展すると考えられているのである。

このピアジェの構造主義の思考形態の重要な点は、『誰もが辿る普遍的な認識の発達段階』が存在し、『共通理解が可能な定義された概念と検証された法則によって世界を解釈できる』という点である。 この構造主義の思考形態を突き詰めていくと、自然現象や社会事象を科学的な方法論によって説明することができるという自然科学主義に行き着く可能性がある。

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元々、この世界はそういった普遍的一般性のある必然的な構造によって組み立てられているとするピアジェの構造主義は、世界の偶然性と権力の恣意性を前提とするミシェル・フーコーなどの構造主義とはかなり色合いの違うものである。しかし、異なる文化圏(位相)にある伝統・言語・習慣・宗教・倫理を「同一構造のバリエーション」として説明する思考形態は、ピアジェにもフーコーにもソシュールにも見られるものである。

一見、無関係に見える精神現象と社会事象に『共通する構造』を探し出し、歴史的に変遷する価値規範などに『共通する構造』を見つけ出そうとする態度は構造主義に特徴的なものである。異なる領域にある複数の事象に共通する構造を、文献学的・文化人類学的・科学的・論理的に指摘する調査研究方法を重視するという意味で、ピアジェもフーコーも紛うことなき構造主義者といえるだろう。

ピアジェの思考の発達段階説

ピアジェの発達段階説には、以下の4つの時期(period)がある。 スキーマは、図式・枠組みという意味だが、ここではピアジェの発達理論の概念的理解を容易にするために基本的行動様式という訳語を採用することにする。

1.感覚運動期(sensory-moter period)0-2歳

自己と他者の区別が未分離な乳児は、対象の認知を感覚と運動に頼って体感的に行う発達段階にある。 この段階の「自己中心性」とは、外界の事物の認知を刺激として感じるほかなく、自己の身体と外部の事物との関係の中でしか認知できないという意味である。自分の身体こそがあらゆる活動と認識の根拠なのであり、この段階の発達で課題となってくるのは「脱中心化」即ち「主体・客体の分化」であるといえよう。

1歳頃(8-12ヶ月頃)になってくると、単純な快刺激を求めるような目標を設定して、目標達成の為の手段としてシェマ(基本的行動様式)を利用するようになる。

2歳に近づく段階では、不完全ではあるが、対象恒常性の獲得も行われ、実際に眼の前に存在しない事物についても記憶やイメージをもてるようになる。これは、次の発達段階である表象期(前操作期と操作期といった内面心理に形成する心像・概念・イメージ・記憶を利用する段階)の準備でもある

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2.前操作期(preoperational period)2-7歳

前操作期は、表象期の前半期であり、心の内面に表象(イメージ・概念・言語の意味・記憶)を思い浮かべることはできるが、それらを十分に操作することができず自己中心性(身体性による認知)を完全には脱却できていない段階である。この時期には、外部の事物や出来事を内面化する機能(同化)が発達し、実際に眼の前にはない対象と内面的な関係をもったり、言語的な表現を行ったりすることが出来るようになる。

この時期によく見られる遊びである、社会的な役割イメージを再現する『ごっこ遊び(ままごと・お医者さんごっこ・買い物ごっこ)』は、前操作期で獲得した概念化と同化の心理機能をうまく活用した遊びだといえる。 言語機能も急速に発達してきて、大人と通常の日常会話を交わすことも可能になってくるが、抽象的な思考や実際的に具体的な効果を現す思考を持つことはまだ難しい段階である。

事物や状況に即応した心理機能の発達が中心で、内面操作もシンボル(イメージ)の再現などに限定されるため、記憶の長期保存や可逆性のある論理思考などといった操作的な思考がまだできないために「前操作期」といった呼称になっている。一般性と論理性のある操作的な「シェマ」が獲得できていないために、この段階の子どもは個別的で経験的な一般性の乏しい「シェマ」に活動を依存していると考えられる。

3.具体的操作期(concrete operational period)7-12歳

表象期の後半期が操作期であり、その操作期は更に「具体的操作期」と「形式的操作期」に分類される。 具体的な外界の物質を利用することで、操作的な精神活動をする時期が具体的操作期で、外部の事物の助けを借りずに「頭の中で執り行う論理的(数理的)かつ抽象的な思考」はまだ十分に行うことができない。対象恒常性が確立することで、表象の保存(比較的長期の保存)ができるようになり、自分の思考を可逆的(ある思考をもったり、それを考えるのをやめたりする思考)に柔軟性をもって操作できるようになる。

脱中心化によって自己中心性も大方脱してくる段階で、自分の活動が他者に与える影響を考慮することも可能になり、社会的な相互作用を理解する基礎が形成されてくる。この「社会的な相互作用を実際の集団生活の中で経験的に深く理解していく」のが、学校教育の現場であり、多様な他者と取り結ぶ友人関係である。故に、基礎的な学校教育(7-12,15歳)を受ける時期は、『規範意識や道徳観念といった社会適応の心理機能を獲得する社会化の過程』と考えることができる。

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フーコーなどはこの近代的な学校教育の社会化の過程を個人の多様性の疎外や社会的価値観の普及につながると批判的に考察したわけだが、一般に常識的感覚のある人間というのはこの学校教育や家庭の躾(過度に歪んでいない虐待ではない躾)が与える価値観を素直に受容してきた人間であるといえる。この時期には思考内容を具体的な事物に応じて操作することができるし、それを簡単な行動に移すこともできるが、複雑な思考や抽象的な論理展開を行うことができず、具体的な対象へ与える作用は非常に弱いものである。

4.形式的操作期(formal operational period)12歳以降

ピアジェの理論で、人の思考・知能の発達段階としての到達地点が、形式的操作期である。およそ12歳でその形式的操作の精神機能を獲得するとされている。人間は、個別的な知識や経験を一生涯積み重ねていくことはできるが、基本的な思考方法や認識構造として「形式的操作期以上の超越的な枠組み」から物事を考察したり計算したりすることは出来ない。その発達段階の構造に人間の精神機能は従属するというのが、ピアジェの発生構造論的な思考方法でもある。

この思春期前期に完成する思考の発達段階は、他者と共通理解可能な形式的操作と抽象的な論理的思考の操作を特徴とするものである。極端に言えば、自然科学的な世界観に基づく合理的な思考の遂行が可能になる発達段階といえば分かり易いかもしれない。

自然科学とは実験や観察に基づいて仮説の妥当性を検証することによって確からしい知見を積み重ねていく学問であるが、この形式的操作期では、現実に観察される出来事以外に「もし~であれば、どうなるだろうか?」という仮説を立てる思考形態が確立される。科学的思考方法に欠かすことのできない、「仮説を打ち立てて、それを現実の出来事に当てはめて確認する」という仮説演繹法の思考が可能になる。

それと同時に「現実の個別の出来事を経験しながら、そこに共通する特徴を取り上げ法則性を明らかにする」という妥当な推論に基づく帰納法の思考も可能になってくる。形式的操作期の特徴は、『自由に概念・知識・イメージを頭の中で操作して創造的活動を行うことが可能になること』であり、『現実的な事柄の正しさを仮説演繹的に検証することが可能になること』である。

形式的操作期に獲得する精神機能によって、私たちはいつも『現在よりも前へと成長・発展・進歩を遂げていくことができる』とするのがピアジェの必然的でポジティブな世界観だといえるが、やや科学的な理論や技術の進歩に偏った発達観だという批判もあるかもしれない。

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発達段階と発達理論

ピアジェ(Piaget.J. 1896-1980)という心理学者は、認知主義の立場から、個人の持つ認知的な枠組みシェーマ(スキーマ)を用いて、人間が外界と心理的にどのように相互作用し合うかを考えました。 ピアジェの発達論は、内的世界と外的世界の相互的作用を中核として考えられていて、発達は『内界と外界の同化と調節の作用による均衡化』の過程として定義されます。これを『均衡化説』といいます。

『同化』とは、内界にある認知の枠組みシェーマを使用して外界にあるものを取り入れる心的作用を意味しています。『調節』とは、外界の条件や制約に適応する形で内界にある認知の枠組みシェーマを変容させていく心的作用を意味します。 ピアジェによると、2歳頃までを感覚と運動の機能によって外界と相互的に関わる『感覚運動期』といい、2歳以降になると、直接目で見る対象だけでなく過去に見た内容をイメージとして保持する表象(イメージ)や象徴を用いて外界と相互作用するようになるので『表象期』と呼びます。

表象期は、7歳以降になると、表象をある程度自由に操作できるようになるので『操作期』といい、それ以前を表象の内容や影響を操作できない自己中心的な段階として『前操作期』といいます。 自己中心的という言葉は、我がままで他人のことを考えず利己的に振る舞うという意味で一般的には用いられますが、ピアジェがここで『前操作期の自己中心性』という場合にはそういった悪い価値判断はされていません。

ピアジェの考えた自己中心性は、自己と他者の境界線が曖昧であり、内界と外界が未分離である為に、自分だけの考えである主観と、他者にも共通する考えである客観の区別がうまくできず混沌としている状態のことを意味します。 こういった自己中心性は乳幼児期に顕著に見られる世界観で、無機的な自然世界に生命や魂の存在を認めるアニミズム、考えや観念そのものが実在しているとする実念論などとも密接な関係のある世界観であると言えます。

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自己中心性を発達的に乗り越えることを、脱中心化といい、前操作期に続く操作期で脱中心化が起こります。 また、操作期は大きく二つに分けられます。一つは、7~12歳頃の具体的な物質の助けを借りて表象を操作する『具体的操作期』であり、もう一つは、12歳以降からの抽象的な思考が発展して、論理的な考え方も出来るようになる『形式的操作期』です。

成長的な認知システムやスキーマの構造は、固定的で普遍的なものではなく、絶えず経験的に修正されていくものです。過去の経験や記憶を適切に利用して、認知構造を変容できるならば、適応度を高めるだけでなく生活世界を彩り豊かなものへと変えていくことが可能です。

今回は、認知療法の実際場面でのテクニカルな事柄について書こうと思ったのですが、上記に敢えて古典的なピアジェの思考発達段階論を挙げたのは、スキーマは受動的に形成されるものではなく、能動的な働きかけによって段階的に形成されていくものだということの理論的根拠を示したかったからです。ピアジェの一般性のあるシェマは、思考形態の枠組みそのものを指すので、認知療法のスキーマや認知傾向とはやや概念が指示する内容が異なりますが、能動的に形成していくことのできるものという意味では共通性があります。

認知の図式や情報処理の枠組みとして人間の行動選択を自動的に規定するスキーマは、主体が能動的に構成し変容させるものですから、適切な方法論に基づいて意欲的にスキーマを変容させようとすれば、後天的な性格要因なども含めてある程度の変容を達成することが出来ます。『物事の考え方や価値観を変えることは出来ない』という過去から継続している固定観念や先入観を適応的に変容させることは生易しいことではありませんが、意識して認知改善の試みを継続すれば必ず一定以上の抑うつ改善や悲観的な人生観の変更といった効果を得ることが出来ます。

カウンセリングの基本の一つは確かに『ありのままの自分を受け容れること(無条件の肯定的受容)』ではありますが、もう一つの軸は『困難・苦痛・悲哀を緩和する方向へ自分を変化させること(意欲的な適応的変容)』です。変わらない現在のままの自分や生活の中で将来もこのままで良いと思える部分と、現在の自分や生活状況の中で将来的にはここを変えていきたいと考える部分を区別して、自分の出来る範囲で段階的な目標を立てて自己の認知傾向やスキーマの変容を促進していくことが認知療法の実際だと言えるでしょう。

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『自己・世界・他者』を率直に肯定できる認知を獲得し、自己の内面的考察と外界の他者や環境との相互交渉から幸福感や安心感、程よい刺激による精神的高揚や興奮を得られるようになるというのが認知療法の理想的な着地点といえるかもしれません。それ以前と比べて、格段に気分が明るく改善し、不快な感情の起伏が小さくなり、肯定的で受容的な気分や感情を「適応的な行動」へと反映させることが出来るようになった時には、意識的に認知療法を行う必要性もなくなってきますが、認知が気分や感情に大きな影響を与えることを経験的に理解することが出来ればその後の人生にとっても大きな精神的財産となるでしょう。

『ユングの類型的な性格理論』の思考形態と『価値判断のスキーマの複層化』の心理的効果

うつ病など精神運動の抑制を伴う気分障害、不安・恐怖・強迫観念など情緒の制御不能を生じる情緒障害、これらを未然に予防するような認知的技法として、私は『価値判断のスキーマの複層化』を考えています。『価値判断のスキーマの複層化』というと少し難しい感じがしますが、簡潔な表現に直せば『生きる意欲の根源を一つではなく複数持つこと』ということが出来ます。

一本足の一輪車より、二つの車輪を持つ自転車やバイクのほうが安定感があり速いスピードがでるように、更に、4つの車輪を持つ自動車のほうが転倒する危険が小さく居住性が良いように、人間の興味や喜びを生み出す認知の価値判断の対象も複数であるほうが人生に余裕や安定感を生み出します。

外界の事象や出来事をどのように受け止めて解釈するかといった基本図式がスキーマですが、そのスキーマが硬直的で独善的である場合には、拙劣なストレス・コーピングしかできなくなり、各種精神疾患の発症リスクが高まります。友好的な人間関係や好意的な異性関係の維持といった側面においても、様々な状況や相手の言動に柔軟に適切に対応できるスキーマを持っておいたほうが良いでしょう。

それとは別に、『自己存在の価値判断』の基準を複層化させるという事が、メンタルヘルスを良い水準で維持する為にとても役立ちます。『あなたの生きる意義は何ですか?』というレゾンデートル(存在意義)にまつわる問いに対して、絶えず複数の選択肢から最適なものを一つ選び出せるという『価値判断のスキーマの重層化・複層化』こそが、破局的な結末や圧倒的な落胆からあなたの精神を守ってくれます。

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これは、現在では一般的用語として使用されている、ユングの『外向性・内向性』の概念を用いた性格理論に当てはめて説明する事も出来ます。以下に、ユングの性格理論であるタイプ論の概略を示しながら、人生の『心理学的危機に対して強い性格』とはどのようなものであるかを考えてみます。心理学的危機とは、具体的には『私たちの健康に悪影響を与えるストレスの種類と強度について』の記事に書いた「ホームズとレイの社会適応尺度」を参照してください。

心理学的危機を簡潔にまとめて言えば、『大切な他者や家族を失う対象喪失・経済的安定や社会的地位を失う絶望感・人生の重要な課題や競争で失敗する挫折体験・生きる意味や意欲を喪失するようなショックなイベント』などに相当します。出会いがあれば別れがあり、自分に対して肯定的な人もいれば批判的な人もいて、成功の陰には失敗があり、栄光の裏には挫折があり、喜びの後には悲しみがある……。これは、人生を生きていく上でのある種の真理ですので、どんなに優秀な卓越した能力の持ち主でも、裕福で何不自由ない環境に生まれた者でも、一切の心理学的危機を回避し続けて逃げ切ることは出来ません。

こういった心理学的危機にいつ、何処で、如何なる条件が揃ったときに遭遇するのかを事前に予測することはできず、私たちはいつ何時、心理学的危機の影響によって現れる『不快・苦痛・悲哀・恐怖・悲観・絶望といった感情体験』をしてしまうかは分かりません。しかし、『生きる意欲の根源を一つではなく複数持つこと』や『生きる価値の源泉を一つではなく複数持つこと』によって、あるいはそういった柔軟性と対応性の高い問題解決志向の基本的性格を形成することによって、私たちは絶望的な心境からより短期間で抜け出し、破局的な結末をうまく回避することが出来ます。

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いつか機会があれば、『単一の生存意義に依存し過ぎることの危険性』についても詳述したいと思いますが、簡単に言えば『自分はこれを失ってしまったら生きていく意欲の全てを失ってしまうだろう』『自分はこの事柄に失敗してしまったらもう死ぬしか選択肢はないだろう』『自分はこれを実現したことのみによって価値ある人間になることが出来るのである』という極端な盲目的信念や二分法思考(全か無か思考)が、人間の精神状態を究極的な絶望や圧倒的な悲嘆に追いやってしまうのです。

伝統的な類型論による性格理解とユングのタイプ論(性格類型論)に基づく『外向性・内向性の区別』は、経験則や臨床事例に基づいて幾つかのタイプ(分類類型)を準備して、そこに個人を当てはめていくという類似した思考形態を持っています。ただ、同じ類型論であっても血液型性格診断と心理学的な類型論には若干の違いがあります。

血液型による性格分類は『本人によって変更不可な血液学的指標である血液型によって、行動・思考・人間関係のパターンが規定される』としていますので、遺伝子決定論的に『自然的事実が人格的特性を決定するという人間観』がその背後にあります。ユングのような心理学的類型論の場合には、先天的素因も重視されていますが、先天的素因が具体的に何であるのかを特定しておらず、はじめから自然科学的理論としての実証性を放棄している部分があります。

その為、血液型性格診断が原理的に(原理的にであって、実際的に血液型と性格の相関を実証するのは至難だと思いますが)検証可能であるのに対して、ユングのタイプ論やエニアグラム、シュナイダーの性格分類などは科学的な検証可能性を持たず、はじめから準備されている類型の何処に自分(他者)が当て嵌まるのかを推測するだけの役割しか果たしていません。

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更に分かりやすく言えば、心理学的な性格論は(クレッチマーの理論など例外はありますが)『あなたは~の性格ですか?頻繁に友人と遊びに出かけますか?経済活動は人間関係よりも重要だと思いますか?他人の意見に反対することが苦手ですか?』など必要な質問(あるいはロールシャッハやP-Fスタディなどの投影検査)をしてからどの類型に当て嵌まるのかを考えていくという部分が、血液型性格診断と決定的に違います。

つまり、心理学的な性格論は、基本的に自己開示や客観的な観察、質問紙への回答から、どのタイプや傾向に当て嵌まるかを考えていくのに対して、血液型性格診断は先天的な血液型によって『あなたはA型だから、几帳面で清潔好きで集団への協調性がある性格ですね。あなたは、B型だから自由奔放で、ちょっといい加減なところがあって、協調性に欠ける性格ですね』という風に性格類型を決定していきます。 つまり、観察される事実との相違や本人の『自分はそんな性格ではない』という反対意見があっても、血液型性格診断の枠組みに沿って考える限り、血液型と性格の結びつきを否定することが出来ないという部分が心理学的な性格論とは異なると考えられます。

生理学的な分類指標である血液型と先天的気質の間に何らかの相関がある可能性を完全に否定することは出来ませんが、実際に社会で生活する個人を見ていても、同じ血液型で全く異なる自己顕示行動や思考活動、対人関係パターンを示す人がいるように、血液型のみを指標にして個人の性格を指摘することには大きな困難があるのではないかと思います。血液型に対応する先天的気質の大雑把な特性があって、それが後天的な環境や学習によって修正変化を受けていくという考え方も出来ないではないですが、その為には血液型の抗体の違いがどのように人間の社会行動や精神活動に影響を与えるのかという生理学的機序が明らかにされないといけないでしょうね。

進化生物学としての妥当性は兎も角として竹内久美子さんの著作などでは、血液型性格診断の進化論的根拠を推論的に書いていますね。詳細は忘れましたが、各地の原住民の血液型の人口比率を調べて、血液型と免疫能(感染症に対する生存率)の相関を考えてみるといった内容だったような記憶があります。科学的な客観性や実証性がどうこうと言われてしまうのも竹内久美子さん自身が動物行動学者としてのキャリアを持っていることが災いしている部分がありますが、おそらく普通の作家がこういった生物学をネタにした教養書(娯楽書)を書いてもあまり批判はないのだと思います。

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間違った科学知識の啓蒙につながるのではないかという批判ももっともだと思う事はあるものの、本当に生物学等の自然科学方面の研究者を目指す人は、最終的には正しい科学知識とエンターテイメントとしての科学エッセイとの区分を自然につけていくのではないでしょうか。専門家でなければ科学的に間違った認識をしても問題ないというわけではないですが、個人の趣味として読む本としては、科学的知見を踏まえた独創的仮説を中心とした本も面白いものですよね。

もちろん、血液型性格診断を、企業の採用面接で使用したり、人事考課の項目で血液型を考慮したりするといった社会的差別待遇につながったりするのであれば、大きな弊害や問題があると思いますが…。俗流科学の問題点というのは、科学的根拠が確証されていない事柄によって、個人を独断的に価値判断したり、社会的待遇を悪くしたりすることにあるといえるでしょう。特に、実生活において個人の直接的な評価につながってくる個人の人格性や知的能力、社会適応に関する科学的判断には慎重を期する必要があります。

こういった科学エッセイとか科学の知見を利用したエンターテイメントや自由な思索といったものの場合には、『私は~ではないかと考える。こういう考え方もなかなか面白いのではないか』といった論調を主軸にしていくと、『これが科学的に妥当な見解であるといった誤解』を生み出す余地がなくて良いのではないかと思ったりします。

とはいえ、仮説段階では、自由な想像を巡らしながら色々な根拠やシステムを仮構してみる自由はあるのだから、ある程度荒唐無稽(読者の常識的思考がついていける範囲の内容)でも構わないとする考え方もあるでしょうし、文学と科学がごちゃまぜになったような本というのも無数にありますね。科学的な厳密性や正確性に配慮し過ぎると、内容に娯楽性や軽快さがなくなって一般人の読者の購買意欲を掻き立てないという商業的意図も大きいでしょうが、タイトルや紹介文などで学問的な科学領域と一線を引いていることが明瞭であれば問題はないのではないでしょうか。

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科学関連書籍の話に脱線しましたが、ユングの類型論の話に戻りたいと思います。分析心理学の創始者カール・グスタフ・ユングは、人間の性格傾向の基盤は、先天的気質によって大部分を規定される「内向性と外向性」に分類することが出来ると考えた。ユングのタイプ論は、後天的な環境要因や学習効果よりもどちらかというと先天的な気質や遺伝要因を重視した趣きがあります。

性格類型や体質気質の理論には様々なものがありますが、類型論の特徴を最もよく表している古典的仮説として、中世医学の基盤におかれた体液理論というものがあります。精神医学分野では、クレッチマーの『細長型・肥満型・闘士型(筋肉質)・不定形型』に分類して分裂病質や循環気質、粘着気質などを当てはめる「体型性格理論」も有名です。現在では、十分な統計学的根拠や発症しやすい精神疾患の予測性が認められているわけではありませんが、精神医学史の中では重要な気質類型論といえるでしょう。

(一般に、「経験則(臨床経験や行動観察など)に基づく類型論」には、自然科学的な客観性や厳密な意味での実証性は殆どないと考えたほうが良いと思いますが、人間の行動・思考・感情表現・価値判断の大まかなパターンを分類するといった意義が類型論・タイプ論にはあります。)気質(性格)類型論は、古代ギリシアの医聖ヒポクラテス(B.C.468~377)や古代ローマでマルクス・アウレリウスに重用された医学者ガレノス(A.D.131-199)が提唱した体液理論(体液病理学:humoral pathology)がその原型とされます。

4大体液説とは、4つの体液『血液・粘液・黄胆汁・黒胆汁』のバランスによって気質が変化し、特定疾患の発症リスクが高まるという類型論による病理学ですが、その基本的な思考形態は古代ギリシアの哲学者エンペドクレスの4大元素説(地・水・火・風と乾・湿・冷・熱の相関)にあります。

ユングの『外向性・内向性』の区分と精神的危機へ対処しやすい性格類型

ユングの性格理論は、前の記事で説明してきたような古代ギリシアからの医学や伝統的な哲学、中世的な錬金術の仮説理論に頻繁に見られる類型論の歴史的流れを汲んでいます。

『内向性・外向性』の基本的なリビドーの志向性に『思考・感情・感覚・直観』の主要な精神機能を組み合わせて、人間の性格傾向を8つのタイプ(類型)としてまとめた仮説がユングの性格理論となっています。このリビドーの志向性に基づく二元論的分類は、完全にどちらかに当て嵌まるというものではなく、どちらかといえば外向性(内向性)の傾向を持つ性格に近いといった感じで見ていったほうが分かり易いと思います。

但し、『外向性・内向性の区別』については、外部観察による区別と自己評価による区別が一致することが多く、一般的に社交性が高くて活動的かつエネルギッシュな行動パターンを持つ人は他人からも自分からも「外向性の性格」に当て嵌まると認識されています。それに対して、他人と関係しているよりも自分一人で過ごす時間のほうが有意義だと感じ、社会的活動に対してもどちらかといえば消極的な人に対して「内向性の性格」のイメージを持ちやすくなります。

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ユングの外向性性格と内向性性格の区分

外向性の性格類型……生きる意欲の源泉であるリビドーが『自己の外部にある客体』に向いている性格行動パターン。人生における主要な価値判断の基準として『公的地位・経済的利得・社会的名誉』などを採用しやすい性格で、意識のベクトルが絶えず自己の外部を志向していて社会適応は一般に良い。

自分の価値を『他者がどのように評価しているか?』や『自分は何を成し遂げることができるのか?』という外部評価に委ねやすく、成功・失敗や勝利・敗北といった二元論的な価値判断を持ちやすい。 自分の利益になるか否かという功利判断に優れているものの、功利と情緒的関係が衝突した場合には、深刻な葛藤に沈むこともある。外向性が亢進すると、功利(損得)と情緒(関係性)の葛藤が高まった場合には、反動形成を起こして、直面したくない感情(好意・信頼・同情)を徹底的に抑圧したりする。その典型的なものが、人間関係を軽視したワーカホリック(仕事中毒)やビジネスライクな人間関係しか持てない人、家庭を顧みないギャンブルなどへの異常耽溺(現実逃避)などである。

内向性の性格類型……生きる意欲の源泉であるリビドーが『精神の内部にある表象』に向いている性格行動パターン。人生における主要な価値判断の基準として『主観的信念・感情的満足・想像的(創造的)快楽』などを採用しやすい性格で、意識のベクトルが絶えず自己の内部を志向していて、芸術文学などへの適性はあるが社会適応は一般にあまり良くない。

自分の価値を『自分がどのように評価しているか?』や『自分は何を意味付けすることができるのか?』という自己の内面的評価に委ねやすく、『自分は自分、他人は他人』といった相対的な価値判断を持ちやすい。 その一方で、自分の価値観をいたずらに否定しようとしたり、信念を強引に覆そうとしてくる相手には、強烈な反発や粘り強い抵抗を示すこともある。

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フラストレーション・トレランス(欲求不満耐性)の高い性格類型……過度に外向性でなく、極端に内向性ではない性格類型で、「自分の外部にある対象を欲求すること」と「自分の内部にある信念や観念を味わうこと」のバランスが取れている人が「重層化されたストレスや対象喪失に強いスキーマ」を獲得できる。つまり、精神の健康性を維持しやすい性格類型(柔軟性と重層性のあるスキーマ)を持った人というのは、『外部にある地位・評価・財産の喪失という危機』に対しては内向性の価値指標を用いてそれを乗り越えることができ、『内部にある理想・信念・感情の挫折という危機』に対しては外向性の価値指標を用いてその悲しみに耐えられる人なのである。

今回は、ユングのタイプ論の具体的な内容には触れていませんが、ユングは師のシグムンド・フロイトや同僚のアルフレッド・アドラーなどの『対照的(二項対立的)な精神構造』を分析することによって、リビドーの内向と外向の二元論的分類の着想を得ました。そこから古代ギリシアやローマの歴史的人物や神話上の人物の性格分析へと対象を拡大して、『時代や環境に限定されない普遍性ある性格類型』を特定しようとしたのです。

心理学的危機に対する脆弱性や抑うつ感を高める性格(スキーマ)というのは、『単一の価値判断基準によって全ての物事を判断しようとする硬直的な性格』あるいは『自分の感情・気分は外部に起こった出来事によって完全に決定されてしまうとする固定的スキーマ』です。それに対処する認知的技法とは、『私の存在意義は、単一の価値判断基準によって推し量れるほど単純なものではない』というスキーマの複層化を前提とした認知の獲得です。

それに加えて大切なことは、『自分の感情や気分は、外部の客観的な出来事によって一義的に決定されるものではなく、自分がその出来事をどのように解釈するかによって気分・感情の状態は変わってくるのである』という気分感情に対するヘゲモニー(主導権)の回復です。私たちは物理的衝撃や客観的条件によってその身体的生命を奪われることはありますが、末期の癌患者が能動的に意欲的に生活し続けることが出来るように客観的条件のみによって精神の健康性を永続的に奪われることはないのです。

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『複数の生存意義の根拠』を持って精神的危機に備え、『認知の主体的な変容可能性』に従って適切に自分の心身をコントロールすることによって、苦痛で不快な心理状態が継続する時間を短縮することが出来ます。大切な他者を失えば悲しみ嘆くことは自然な心因反応で何も問題はないのですが、大切な他者を喪失したことによって絶望的な落胆を感じて自殺してしまったり、5年10年も重篤な抑うつ状態が続いて一切の活動に興味が持てず楽しめないというのでは病理的な心因反応になってしまいます。

自然な不快感情や悲哀の心情を無理矢理にコントロールすることが不適切な感情鈍麻や欲求の抑圧をもたらすように、自然に緩和すべき不快感情や悲哀反応の強度が全く弱まらないことも病的な帰結をもたらします。『価値判断のスキーマの複層化』は、軽微な心理的問題から深刻な精神的危機まで、不快気分の持続時間を短縮し、生きる意欲や精神運動の活力の回復を早めてくれます。また、それだけでなく、あなたの親密な人間関係をより円滑にし、毎日の生活状況をより良い方向へと改善するきっかけになるのではないかと思います。

元記事の執筆日:2005/11/18

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