青年期のアイデンティティ拡散と非社会性の問題:搾取から保護への子どもの権利獲得の歴史、自立心と依存心の葛藤によって表出する思春期~青年期の『家庭内暴力・怒りの感情』の問題

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自立心と依存心の葛藤によって表出する思春期~青年期の『家庭内暴力・怒りの感情』の問題


『採用面接で語られる苦労体験』と『一般社会で求められる共感体験』:企業コミュニティへの適応性


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青年期のアイデンティティ拡散と非社会性の問題:搾取から保護への子どもの権利獲得の歴史

現代社会では、身体的・精神的な児童虐待によって傷つけられる子どもの存在がある一方で、大多数の子どもは親から愛情を受けて幸福に健康になるようにと大切に育てられます。日々のニュースの中では、子どもを虐待して殺害してしまった親やパチンコや異性関係などの遊興に耽溺して育児を放棄する親が取り上げられたりする機会が多くありますが、それでもやはり大部分の親は子どもが元気に幸せに成長してくれることを願って自分の子どもの生命や権利を大切にしています。

自分の子どもを叱り付けて体罰を科した先生に苦情を言い立てたり、自分の子どもの犯した暴力や犯罪が認められずに『これは何かの間違いで、うちの子は絶対にそんなことはしない』といった考え方などは、典型的な過保護な教育方針の例ですが、そこまで極端ではなくても一般的に自分の子どもを外部の有害な環境や危険な誘惑から守らなければならないといった親が多数派であるといって良いでしょう。

『子どもへの強い愛情による保護的な育児観』は、市場経済が発達して学校教育が普及した先進国ではほぼ普遍的に見られる育児観であるといっていいですし、『社会的な自立のモラトリアムが遷延する青年期特有のアイデンティティの問題』も職業選択の自由とモラトリアムを維持できる家庭の経済力がある先進国(青年という概念が一般化した近代国家)に特有なものといえます。人類の文明の発達段階の途上では、狩猟採集・農耕牧畜の段階の社会において子どもは貴重な即戦力のある労働力であり、乳幼児死亡率の高さもあって母親は多産の傾向がありました。

説明を簡単にするために、便宜的に文明の発達段階の史観を取りますが、特別に文明文化間の優劣といった価値判断を意識するものではありません。文化相対主義の観点では、文化相互の間に優劣や高低はないとされますが、ここでは「産業社会の複雑化や自由度の増大」といった観点から文明の発達段階を前提として考えてみます。この人類の初期の狩猟採集の文明の段階から脱した古代ギリシアやローマの文明社会でも、王族貴族や豪商など特権階級の子弟を除いて、親が子どもに学術的な教育や技術的な訓練を投資することはありませんでしたし、またその経済的余裕もありませんでした。

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封建的な社会制度の下では人は生まれながらにしてその身分や職業が規定されていることも多かったので、基本的に青年期における職業選択の葛藤やモラトリアムの遷延などの問題は起こりようがありませんでした。また、両親は人並みに自分の息子や娘に愛情を注いだでしょうが、現代の親のように成人した子どもを長期間養うような経済力を持っていませんでしたし、地域社会の相互干渉的なコミュニティではそういった非社会的生活状況を長期間維持することは極めて困難だったと考えられます。

イギリスで産業革命が勃発してからも暫くの間は社会的分業はそれほど多様化しませんでしたし、階層間の人口移動も微々たるものでまだまだ生まれ落ちた環境によって身分や職業が規定されてしまう時代が続いていました。こういった生まれた環境の初期条件によってその後の人生の過程が大部分決まってしまう自由の乏しい社会では、基本的に、青年期特有の心理的問題やアイデンティティ拡散は起こる余地がほとんどありません。 その意味で、青年期の発達課題であるアイデンティティ確立は、一定以上の文明の発達段階を成し遂げた社会(共同体)でしか生起しない心理発達的な問題だと言えます。

職業が多様化しておらず、村の住民全員が狩猟や牧畜といった同じ仕事に従事している遊牧民などでは、自分がどういった職業に従事すべきなのか、自分にはどういった社会的役割をこなせるのかといった青年期特有のアイデンティティ確立や拡散の問題はほとんど発生しません。この事は言い換えれば、『社会的アイデンティティが、他者との差異や比較に基づく自己規定の問題』であることを意味しています。例えば、同じ共同体内部で選択できる職業や地位の数が極端に少なく、それぞれが得られる報酬や評価がほぼ平等なのであれば、即ち、『結果平等的な社会の場合』には青年期のアイデンティティの苦悩は大きく低下するということが言えます。

但し、過去の単純で平等な未開社会や身分が固定された封建社会で生きる子どもには、アイデンティティの葛藤が少ない代わりに、未来の可能性(職業・地位・仕事内容)を自由に選択することが出来ない、個人として十分に尊重されないという問題があるので、青年期の葛藤の有無だけを判断基準としてどういった文化文明が好ましいかを決めることは出来ません。また、18~19世紀の段階のヨーロッパやアメリカ、あるいは、太平洋戦争の時代から戦後間もなくの日本では、まだまだ『子ども優位・子ども中心の家庭』よりも『親(年長者)優位の家庭』のほうが多数派でした。

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日本で優勢だった儒教道徳では、明らかな祖先崇拝の原則があり、社会一般でも目上の者には敬意を払い反抗してはならないという『長幼の序』の雰囲気が満ちていました。現在の臨床心理学や児童福祉の領域では、『子どもが子どもらしい文化的生活や有意義な経験をできる家庭環境や社会制度の重要性』が強調されますが、こういった『子どもの幸福と可能性を保障する権利』が発見され重視されてきたのは、歴史的にはつい最近のこと(20世紀の末頃)であるといって過言ではないでしょう。

工業化の発展途上にあった近代社会では、子どもは重要な労働力であり、10代前半などまだ十分に心身が発達していない段階で、工場や商家などに丁稚奉公に出されるのは極々当たり前のことでしたし、それに対して子どもが『行きたくない、やりたくない、勉強をしてから他の仕事をしたい』という異論を言う余地はありませんでした。基本的に、近代以前~近代初期までの時代では、特別な上流階級の子弟を除いて、子どもは労働資源であり親の所有物のような扱いを受け、子ども固有の人権や尊厳のようなものを社会的に法認して保護するといったような動きはあまりありませんでした。

18世紀後半には、先鋭的な思想家であるジャン・ジャック・ルソーが出て『エミール』などの著作で子ども固有の権利の尊重や子どもの創造性を開花させる教育環境の重要性を社会に向けて啓蒙しましたが、多くの大人達は、子ども全員に学校教育を与えてその才能を伸ばしてあげるというような発想は理想的だが現実的ではないと考えていました。そういった子どもにとっての暗黒時代は産業革命を終えた単純労働者の需要が最も多い時代に一層その闇を濃くしていったのですが、結果的には、産業社会の発展による単純労働者の需要減少や子どもを守ろうとするフェミニズムや啓蒙思想の影響などもあって子どもに対する不当労働は次第に減少に転じていきます。

もちろん、その背景には工場労働者達の経済力向上による中流階級の勃興や社会の産業構造の高度化・複雑化による専門家育成の必要性などの影響もありました。国際的に子どもの権利を保障しようとする運動が明確な形になったのは、20世紀も終わりに近づいた1989年でした。1989年に開催された第44回国連総会で『子どもの権利条約』が採択され、90年9月2日に国際条約として発効されたことにより、とりあえず、建前の上では子どもは全て教育や保護、医療を受ける権利を所有し、その権利を行使できることが確認されました。

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しかし、子どもは実際には身体的に未熟で、精神的にも脆弱な存在ですから、大人が本気で傷つけたり搾取しようと思えば極めて無力な存在です。国際的なレベルではまだまだ『子どもが教育を受け保護される権利を有する尊重されるべき人格』であるという認識は十分にいきわたっているとは言えない現状です。子どもが権利を所有しているのだから、それを自由に行使すればいいという考え方ではなく、その生まれながらの所与の権利を大人達が暖かく見守りながら行使できるように手助けしてあげなければならないということが言えると思います。

『子どもの権利条約』は、子どものいる親御さんだけではなく、これから子どもを持ちたいと思っている若い人たちや今、学校に通っている子どもたち、もしかしたら子どもを傷つけてしまいそうな大人たちも読むべき価値のある条約ですから、是非、時間のある時に以下のUNICEF(ユニセフ)のリンクを読んでみてください。

子どもの権利条約-日本ユニセフ協会抄訳-

1989年、世界中の子どもたちを守る大きな味方ができました!

子どもの権利条約

この条約は次の4つの子どもの権利を守ることを定めています。そして子どもにとって一番いいことは何かということを考えなければならないとうたっているのです。日本も1994年にこの条約を批准しました。

子どもには以下の権利が所与のものとしてあります。

1.生きる権利

防げる病気などで命を奪われないこと。病気やけがをしたら治療を受けられることなど。

2.育つ権利 教育を受け、休んだり遊んだりできること。考えや信じることの自由が守られ、自分らしく育つことができることなど。

3.守られる権利

あらゆる種類の虐待や搾取などから守られること。障害のある子どもや少数民族の子どもなどは特別に守られることなど。

4.参加する権利

自由に意見を表したり、集まってグループを作ったり自由な活動を行ったりできることなど。

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私たちの住んでいる日本は世界でも有数の『子どもの権利が手厚く保障された国』の一つですし、過去の歴史でも子どもを優しく大切に扱う文化伝統を大切にしてきました。NEETやひきこもりの問題などで過保護や甘やかしなどの親の養育態度が批判されたりもしますが、成人以後の子どもでも責任を持って面倒を見ようとする親、経済的に困窮して子どもがホームレスや犯罪者になるのではないかと心配する親を持つような国はそうそうあるものではありません。

その観点から言えば、日本は非常に母性原理の強い家庭が多く、子どもをギリギリまで見捨てない親が多数であるといえるでしょう。先進国でも個人主義の浸透した文化圏では、いくら自分の子どもであっても一定年齢を超えれば養う義務などないといって家庭の外へ放り出して後はどうなろうとしらないという親も少なくありませんし、途上国では子どもの夢や希望など関係なく基本的な読み書きの教育も受けさせて貰えず労働に従事させられている子どもが数多くいるのです。

その意味では、NEETやひきこもりであっても、子どもはある一定水準以上の親からの保護や支援を受けているということが言え、少なくとも子どもが『自分は親から愛されておらず、粗末に扱われている』といった非難を行うことは正しくないと言えます。過保護や過干渉は結果として子どもの適応力や自立性を低下させますが、親が子どもを不幸にしようとしてそういった愛情表現や育児方法を行っているわけでないことだけは確かです。

少なくとも、子どもを完全に見捨ててはおらず、何とかして子どもを自立させてあげたい(子どもに生き生きと楽しい人生を送って欲しい)という愛情があるからこそ、親は子どもの社会環境への不適応に悩み苦しむのです。そうでなく愛情や優しさなどない親もいるかもしれませんが、非社会的な生活状況を支えているという意味で、最低限の経済的支援を子どもに与えていることには変わりがありません。

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日本にも育児環境を巡る家庭や政治や経済、社会の問題は確かにありますが、それでも、18歳未満の子どもが人身売買されたり、売春を強要されたり、過酷な肉体労働を強制されたりする状況はほとんどありません。 極めて稀なケースでそういった悲惨な状況に置かれる子どももいるかもしれませんが、社会一般でもそういった子どもの不当な搾取や労働への使用は許さないといった子どもを守る雰囲気が強くあります。 基本的な教育を与えずに即座に労働力として利用して家計を支えさせるといったような価値観も日本では少数派でしょうし、多くの親は出来うる限りの教育支援や能力開発の援助を子どもにしてあげたいと考えています。

最後に、日本の家庭の今と昔を簡単にモデル的に振り返って、家族関係から生じる社会的自立や心理的葛藤の問題を見てみます。かつての儒教道徳と家父長制によって営まれる家庭生活では、子どもは親に一身を捨ててでも忠孝を尽くさなければならないというような価値観があり、親に心配や迷惑を掛ける不孝は最大の不徳の一つと考えられていました。

現代の日本でも、親を尊敬して孝行しなさいというような道徳規範は残っていますが、家父長制のような厳格な親の権威性は存在せず、親の命令に服従する子どもというような考え方はありません。もちろん、個人としての子どもの幸福や権利を十分に尊重しない過去の家庭観が正しいわけではありませんし、「家系(一族・家督・血統)存続の為の子孫」といった道具化された子どものあり方が望ましいわけではありません。ただ、現代社会の家族関係によって生まれる子どもの問題の多くにかつての親子には見られにくかった「力関係の逆転」があることを指摘することは出来るでしょう。

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親と子の上下関係や役割意識というものは基本的に現代では希薄化していますから、必然的に友達のような対等な立場の親子関係が多くなってきます。これが十分に自立した子ども(青年期の子ども)との対等な関係であれば、一緒にお酒を飲みながら会話を楽しんだりする良い親子になれるのですが……いったん、家庭内暴力やひきこもりなどの問題が起こってくると、親が子どもの自立を促進するようなコミュニケーションや指導を行うことが難しくなってきます。

親が、子どもに対する上下関係や権威性を打ち立てる必要は必ずしもありませんが、最低限、子どもから軽蔑されない馬鹿にされない程度の存在感を保持しておくほうが青年期の子育てにおける問題は解決しやすくなるでしょう。また、思春期や青年期の心理学的問題や青年期の行動選択と社会構造との相関などについてもう少し考えてみようかなと思います。

自立心と依存心の葛藤によって表出する思春期~青年期の『家庭内暴力・怒りの感情』の問題

前回、『個別的な多様性を見せるトラウマの影響』という記事を書き、トラウマとなる外傷体験の個別的な心身への悪影響と、性的逸脱など自傷的な意味合いを持つ行動の心因について考えて見ました。反社会的な粗暴行為や逸脱集団での非行、家庭内暴力については、トラウマやアダルト・チルドレンと完全に無関係とは言えませんが、どちらかといえば発達心理学的な諸問題に分類されるべき問題ですので機会を改めて書きます。

余り詳細を掘り下げていませんが、以下に、家庭内暴力について力動的心理学の観点からその概略だけ書いておきます。青年期前期(思春期:12~18歳頃)の第二次反抗期に見られる親への暴力的言動や社会的権威への反抗に関しては、その暴力や反発の程度や期間が常識的に了解可能なレベルであれば特別な心理学的問題として取り上げる必要はないと考えます。

但し、青年期前期の家庭内暴力について適切な対応をする為に、『本能変遷』という概念と『家庭内暴力の2つの分類』を理解しておくと良いと思います。本能変遷というのは、フロイトのリビドー発達論やエリク・エリクソンの心理社会的発達論に見られるような『リビドーの本能的欲望の変遷』のことで、一般的に、『家庭内の家族構成員』から『社会内の対象』へとリビドー(性的関心・関係欲求)の方向性が向け変えられます。

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精神分析的なコンテキストにおける正常な精神発達ラインとは、『発達早期の自他未分離な自己愛』から『エディプス期の近親相姦的な欲求(エディプス期は現代的な精神発達の過程では「性的欲求」を重視しないことが多く「関係欲求」という解釈をしたほうが分かりやすいです)』を経て『対象愛』へと向かうラインです。対象愛とは、具体的には『家族関係の外部の他者への対象愛』であり、性的欲動(リビドー)は『家族関係の内部』から『社会関係という外部』へと変遷していくことを意味します。

最近では、友達感覚の親密な親子関係が増えてきたこともあって、『自己愛から対象愛への移行過程の曖昧化』や『厳格な父性の衰退による社会規範の内面化の欠如』が指摘されることもありますが、精神の発達過程においては、一般的に欲求や関心の向かう先は家族内部から家族外部の人間に向けられていきます。精神の発達過程における『自己愛から対象愛への移行=本能変遷』の典型的な現れが、『児童期から青年期早期に見られる同性の親友との親密な関係』『青年期に見られる特定の異性との親密な恋愛関係・性的な関係』であるということになります。

自己愛の発達過程と対象愛への移行などについて詳しく知りたい方は、当ブログの『自己愛と対象愛によって満たされる私』『 傷ついた自己愛の防衛と補償のメカニズムと母子一体感からの脱却』の記事に目を通されてみると良いと思います。家庭内暴力は『自立と依存にまつわる心理的葛藤』『家庭外の社会生活でのフラストレーションの発散』の規範逸脱的な行動化として理解することが出来ます。

そして、家庭内暴力を二つの精神的な力動の見地から分類すると、『家族関係からの離脱としての家庭内暴力』『家族関係への依存としての家庭内暴力』の2種類に分類することが出来ます。家族関係から離脱しようとする心理的力動が働いた暴力は、心理社会的に自立したいという欲求とその自立がなかなか達成できないという現実の葛藤の問題ということが出来ます。自分の心理社会的自立の障壁として認知される『両親の保護・監視・指導』が非常にわずらわしく面倒に思えて、その言動が反抗的になりそれが亢進すると暴力行動になってしまうことがあります。

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家族関係からの離脱としての家庭内暴力……親からの束縛や指示の影響を低下させる為に、規範逸脱的な暴力や暴言の行動化を示すものである。

一般的に、『家族外部への人間関係への移行を含む精神的自立の一過程』として理解できるが、暴力の程度が常軌を逸している場合や、家庭外での反社会的な行動が目立ってきた場合には一定の注意や対処が必要である。

男子の場合であれば、反社会的な逸脱集団・暴力組織(暴走族や暴力団など)への加入や違法薬物の使用がないかに留意し、女子の場合であれば、反社会的な属性を持つ男性との交際や売買春や援助交際などの性的逸脱行為がないかの注意が必要である。

家族関係からの離脱をして心理社会的に自立する過程で、多少の家庭内暴力や社会規範からの逸脱が見られることはあるが、それが行き過ぎて通常の仕事や学業を完全に放棄した逸脱行為にいかないかの配慮はしたほうが良い。逸脱行為の典型的な徴候としては、家出や薬物使用、アルコール依存、性的逸脱などが分かりやすい行動化の例である。

生命や健康に危険が及んだり、人生全体のキャリアが侵害されるような逸脱行為でなければ可逆性が高いのでそれほど心配いらないが、青年期前期の子どもが暴力団や窃盗グループ、薬物販売グループ、詐欺商法、売買春グループなどに加入して反社会的なアイデンティティを獲得してしまわないような注意は必要といえるだろう。

家族関係に留まり続けたいという心理的力動が働いた家庭内暴力は、心理的・経済的に家族(両親)に依存したいとする欲求といつまでも依存し続けることは出来ないという現実の葛藤の問題といえます。現実的な生活における心理社会的な自立の必要性を自覚していながら、その自立の時期を出来るだけ延期してモラトリアムを遷延したいという意図が働いている状態であり、青年期前期(思春期)では不登校や家庭内暴力の問題となって表面化しやすくなります。

青年期後期(20代前半)において社会的アイデンティティの確立に失敗した場合にも、自立と依存の精神的葛藤の問題が起こり、その葛藤が依存欲求の方向に強く傾いた場合には、ひきこもりやアパシーなどの意欲減退と結びついた非社会的問題が顕在化してくることがあります。

『家族関係への依存としての家庭内暴力』……親からの保護や愛情を得る為に、反抗的な態度や暴力的な言動を取り、自分にまだ心理社会的な自立の準備が十分に整っていない事を理解してもらおうとするものである。

一般的に、『家族外部への人間関係への移行が上手くいかず、青年期以前の保護的な生活状況を維持しようとする欲求』として理解することが出来る。暴力の程度が常軌を逸してきた場合や家庭外部での社会的活動(学校・仕事・職業訓練・友人関係・恋愛関係)に全く興味を見せなくなったときには一定の注意や対処が必要である。

自立欲求よりも依存欲求のほうが勝っている状態なので、突然、家出をしたり反社会的な逸脱集団・暴力組織(暴走族や暴力団など)へ加入したりするケースは極めて少ない。 女子の場合も異性関係に積極的でないケースが多いので、反社会的な属性を持つ男性との交際や売買春や援助交際などの性的逸脱行為などに走る恐れも低くなる。

反社会性という観点では、妄想幻覚や無為自閉を伴うような精神障害を発症したり、いじめや失恋などに伴う特定個人への怨恨などがあったりしない限りは、上記した『家族関係からの離脱としての家庭内暴力』よりも反社会的行動を行う可能性は低いといえるだろう。

反対に、非社会性の観点から子どもの生活状況を見守る必要があり、家庭内部に人間関係が閉じられていないか、社会的活動の一切を放棄していないか、適度な外部との接触はあるか、ある程度の友人関係(異性関係)への欲求があるかなどに配慮して『将来の自立促進につながる対応』を心がけていくと良いだろう。
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結局、どちらの家庭内暴力のケースでも『家族間の人間関係の距離と依存』『家族外部の人間関係の距離と社会性』『反社会的な逸脱行動と非社会的な逸脱行動』のバランスの問題になってくるが、一定の家庭内暴力の期間をモラトリアムとして、通常の精神発達過程を踏み社会的自立へと進んでいくことになるケースのほうが多い。但し、病院での治療が必要となるような激しい暴力や深刻な犯罪行為や自滅的行動となるような逸脱の習慣化が見られる場合には、専門機関や専門家の助力を得たほうが良いだろう。

幼児虐待や幼少期の暴力や侮辱のトラウマの影響として『他者への暴力性・攻撃性の連鎖とトラウマ体験の再現性』について前回の記事で説明しましたが、それ以上に深刻なトラウマの問題となりやすいものとして『自己嫌悪や自己否定の感情と結びついた自己への攻撃性・破壊衝動』の問題がありますので、その問題については記事を分けて書きます。

『採用面接で語られる苦労体験』と『一般社会で求められる共感体験』:企業コミュニティへの適応性

朝日新聞で「「苦労」語れなくて、若者のノンプア・コンプレックスの壁」という特集記事を読み、現代社会における青年期の生活経験や心理学的な発達段階について考えさせられた。この記事では、企業の採用担当者が就職希望者に「今までの人生における苦労体験」を聞くことで、新卒学生の人生経験の多様さや困難を乗り越える向上心、職場での不快なストレスに対する耐性を探ろうとする話が紹介されている。

ここでいう集団の場で共感可能な苦労体験や貧乏自慢というのは、『明るく楽しく話せる』という括弧つきだから、不幸な苦労体験や圧倒的な貧乏経験、絶望的な疎外状況といった深刻度の高いものではない。つまり、最後のオチにあるように面接場面や上司や年配の顧客との雑談で求められる苦労話というのは、『克服可能性に開かれた苦労』である。

更に言えば、克服可能な苦労とは、その苦労が『意欲・関心・気力・集中力・情動の安定といった仕事に要請される精神機能』に長期的な障害をもたらす種類の外傷的なものであってはならないということであり、機能不全家族での成育歴や虐待歴、うつ病等の精神疾患の既往といったその話を聞く者に過剰な心理的負担を強いるものであってはならないという事である。

機能不全家族の文脈でいえば、家族成員に犯罪履歴があったり、アルコールや薬物、ギャンブルなどの嗜癖傾向があったり、禁治産者や自己破産の経験者がいるというのも、確かに大きな苦労や困難に関わる話であるが、聞く者がカウンセラーでもない限り共感的な返答を返しにくく、気分が重たくなる話であるから基本的に企業の面接場面に限らず多くの対人関係の場でタブーな話題に属してしまうことになるだろう。その意味では、『本格的に生命・経済生活・精神の健康を根底から揺らがすような苦労体験』は一般的な社会環境では『共感的に話す場』は用意されていないといってもいいし、その『圧倒的な苦労や困難を話す場の不在』が臨床的面接を行う精神医療やカウンセリングなどの心理臨床が必要とされる所以なのであろう。

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精神疾患の既往歴や精神的不調の主訴が、就職や仕事、人間関係でマイナスに評価されやすいという冷厳な現実というのは依然多くの企業の風土として残っているし、その為に精神神経科を受診することに苦悩し、カウンセリングを利用することを断念する会社員は少なからずいる。精神疾患に関する誤解や無知に基づく差別的対応を是正するようにしようという啓蒙活動は、うつ病罹患者の急増に伴って精神科医や心理臨床家などを中心に盛んになってきてはいるが、精神的問題に対して道徳的な理解や認識を持つことと実際の判断や行動に移すことの間には埋めがたい深い亀裂が走っているし、特に直接的な利害得失に関わってくる経済活動の場合にはその傾向が顕著である。

精神疾患の水準に至るほど深刻な心理的不調でなくても、『気分が重たい・なんとなく元気がでない・やる気が起きない・今日は調子が悪い』といった表現以上の精神的な不調や問題を率直に打ち明けることは、親しい知人であってもなかなか難しいものだろう。その理由としては、努力して手に入れた仕事や職場を失いたくない、あるいは家計を支える為に仕事を失うことができないというものが一番多いだろうし、それに次いで、親密な人間関係を壊したくない、友人知人に面倒な人間、慎重に気を遣う必要のある人間だと思われて疎遠にされたくない、自分の周囲にいる家族や友人に迷惑や心配は掛けたくないといったものがある。

クライアントの心情に寄り添って心理的に支持するカウンセラーの基本的態度として、過去の記事で「カール・ロジャースの来談者中心療法(クライアント中心療法)の面接技法」について書いた。そこで説明したロジャーズの語る『共感的理解=相手と立場を置換して、相手の心的過程における感情・記憶・認知・判断を理解すること』は、新聞の記事中にある『明るく盛り上がれる共感』とは異なるものである。

あらゆる種類の対人コミュニケーションにおいて『共感的理解』は欠かすことは出来ないが、他者の経験や価値観に対して共感するという場合には『賛同や同意を示す“経験的な共感”』『尊重や受容を示す“想像的な共感”』の二つを想定することができる。 これをもう少し厳密に考えてみると、『経験的な共感』『想像的な共感』を以下のような概念の枠組みとして定義することができる。

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一般的な対人関係における経験的な共感

特殊的な対人関係における想像的な共感

カウンセリングの話に逸れたついでに、もう少し『対人関係の共感にまつわる心理学的な話』を続けてみる。 企業の採用試験の話に限れば、企業価値を上昇させ利潤を拡大することを目的とする企業活動の原則からすると、その目的の達成に貢献しないと予想される人材を雇用しないこと自体は致し方ないことともいえる。企業は経済活動の継続と利潤の拡大、企業価値の上昇をその目的とする為、採用場面における共感は『経験的な共感』を用いるべきなのは当然だし、多くの対人関係における共感もよほど深い関係、苦楽を共にすることを厭わない関係でない限りは上記した『経験的な共感』の枠組みを大きく超えることはないだろう。

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一般的には、親子、夫婦、恋人、親友、兄弟姉妹といった特別に深い関係にある相手としか『特殊な対人関係に基づく想像的な共感』は働かせにくいし、下手をすればそういった親密な相手でもその種類の共感を敬遠して自分への不快や重圧を避け、相手との距離を開いていくことも少なくない。恋愛関連の相談でも、『自分が不幸や困難な時に限って、好きな相手が自分を助けてくれない、自分のもとを離れてしまう』という悩みを聞くことがあるが、これは言い換えれば、不幸の深刻度が高い時や精神疾患などの困難が長期化した場合にこそ、夫婦や恋人との本当の信頼関係や愛情の深度が測られると考えることができるということでもある。

お互いに楽しくて幸福な時の『明るい前向きな共感』はある意味では誰にでもその状況に置かれれば出来るものであるが、苦しくて不幸な時の『自己犠牲的な共感』は人によってはそれを長期間行うことが不可能であることがある。相手さえいなければ自分がその状況から逃れて新たな幸福を追求する可能性があるという時、人はひどく『外部からの誘惑』や『逃走への欲求』に対して心理的に脆弱になりやすい。

ただ、私は自分のカウンセリングの体験を踏まえて言えば、二人が結婚しておらず、お互いが年齢的に若く、片一方だけが幸福で健康である場合には、なんらかの理由(経済的困窮・抑うつを主訴とする疾患・家庭環境の悪化・重篤な難治性疾患など)で相手が圧倒的な苦労や抜け出す目処の立たない困難に見舞われた時に、相手が次第に疎遠になっていくことを非難するのは非常に酷だという思いがないわけでもない。もちろん、そういった好ましくない状況の変化や絶望的な相手の苦境によって自分の態度や愛情を変えることに対して倫理的批判や感情的反論を行うことはできるし、カウンセリング場面であればそういった批判や非難を肯定的に受容することにはカタルシス(感情浄化)や再決断促進の効果があるだろう。

疎遠になることを押しとどめようとする側から見れば『薄情な裏切り行為』であるのだが、疎遠になろうと意図する側から見れば『過重な責任から逃れようとする幸福追求の試み』と見ることができ、結婚する前の段階であれば相手の明確な同意を得ずに離れてしまうことを無理やり押しとどめることは極めて難しいといわざるを得ない。そういった感情や欲求のすれ違いが顕在化してしまうと、そこから元通りの信頼関係や愛情交流を取り戻すことは非常に難しくなるし、年齢的に若かったり、付き合いが浅い場合には別の相手へと関心を移してしまう恐れも高くなるが、そういったケースではその場その場を何とか取り繕っていっても最終的には良い関係を維持することが不可能になることが多い。

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基本的には、結婚にせよ恋愛にせよ相手との関係から幸福や喜びを得ることを前提として行われることの多い対人関係である。その為、二人の関係から得られるものが『一方的な心理的経済的負担』だけになってしまうと『利害得失を無視して相手の存在そのものを肯定的に受容できる段階の愛情』に至っていないと関係を長期的に維持することが困難になってくるのである。企業の採用面接における苦労話の必要性から恋愛関係における苦労や困難といった話になってしまったが、『人材採用の基準としての職場適応性』の話を少しして終わりにしたい。

採用担当者の側からすれば、同一レベルの知識教養や技術・経験を持っている二人の人物の採用を検討する場合、『良好な人間関係に基づく職場コミュニティ』の形成を促進する連帯感や協調性のある人材に魅力を感じやすいであろう。新聞記事に書かれていたような面接構造や質問内容で、本当に対人スキルやストレス・トレランスの高い人材、交渉能力や集団適応性に優れた人材を雇用できるかどうかは分からないが、一般論として『帰属集団への順応性や職場の対人関係が良ければ、職業能力やコミュニケーション・スキルを発揮しやすく、その仕事を短期間で辞める可能性が低い』ということは言えるだろう。

採用を希望する会社の社風や企業風土にも拠るのだろうが、一般に体育会系的な部活動の経験の有無を採用時に聞こうとする人は、『社会適応の下準備となる規律訓練型環境(集団生活)の体験』を重視しているといえる。フィジカルな能力を厳しい練習によって鍛錬するスポーツと大勢の人間が参加する部活動での対人関係調整の経験(先輩後輩の役割関係)というのは、(業種や企業によって大きな差はあるといえど)一般的な企業活動で要請される『社会的常識や自分の立場をわきまえた対人スキル』として評価されやすい傾向があるかもしれない。

それは換言すれば、目に見える経験的な身体の鍛錬や実際的なコミュニケーションの積み重ねといったものが企業の環境に適応的に作用することが多いということであり、目に見えない観念的な思索の練磨や深度や内容にこだわったコミュニケーションといったものは採用場面ではそれほど重要視されないということでもあろう。ただ、新聞の記事に例示されていた採用担当者の趣味嗜好がフィジカルでマテリアルな領域に偏向しているという指摘は一応しておくことが出来るだろう。

採用担当者の中には、英米文学を専攻していた人や哲学的な思索を好む人もいるだろうし、そういう担当者の場合には逆に、『あなたは今までどのような本を読み、人間や社会についてどのような思索をめぐらし意味づけを為してきましたか?その結果を、企業活動や経済行動にどのように応用できると考えていますか?』といった質問が為されるかもしれない。穿った見方をすれば、記事に例示されている、出身地が東京と聞けば「ふーん」と言い、専攻が英文学といえば「あっ、そう」とだけ返す取引先の上司は『会話内容を楽しく広げて、共通の話題を探すというコミュニケーション能力に乏しく、極端に経験的世界に自閉している』という見方もできる。

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新入社員で記事に挙げられたような面接に違和感を感じた人がいるのであれば、自分が上の立場に立つまでに理想的な対人スキルである『状況即応的なトピック創出能力』や『他者共感的な豊かな想像力と幅広い興味』を磨く必要があるのかもしれない。『主観的経験に束縛されない興味関心の幅広さ』という意味では、インターネットが普及した現代の情報化社会に生きる若者は有利な面も多いのではないかと思うし、無理にお金を使って外観だけの苦労話をこさえるよりもネット内で見られるようなさまざまな話題に積極的に言及していこうとする姿勢を現実社会でも維持していったほうが良いのではないか。そういったさまざまな事象や出来事に対する関心を、仕事での対人場面における話題作りや必要な専門知識の学習などに応用していけば良いのではないかと思う。

今回の記事は、採用面接における苦労話の話から他者への共感のあり方、対人関係と人生の苦難の相関、経済活動における対人スキルの必要性といった雑多な話題を扱うものになったが、はじめ書こうと考えていた青年期の心理的問題や社会的自立の遅延化について触れることが出来なかった。時間のある時に、現代社会における『青年期の社会的アイデンティティ確立とモラトリアムの遷延の問題』を心身の発達や社会構造の歴史的変化と絡めて考えてみたいと思う。

青年期(adolescence)という発達心理学的な年代区分、子どもと大人の発達的な中間領域が意識されるようになったのは産業文明社会の発展と学校教育の普及が進められた19世紀以降であると言われるが、その年代における発達的課題の本質は『与えられた自由を主体的な役割選択と如何に結び付けられるか?』ということではないかと考えている。つまり、青年期が存在しなかった、あるいは、明確に意識されることのなかった時代というのは、身分制度の残る封建社会や社会的役割が分化していない未開社会であり『社会的な職業・役割を自分自身で主体的に選択する権利のなかった時代』だった為に現代のような青年期特有のモラトリアム遷延(職業選択をしない期間の長期化)などの社会参加に関わる問題が生まれようがなかったということができる。

その意味では、与えられた自由をどのように使うかといった問題は、自由主義の進展と共に多様化し個別化していくと考えることが出来る。現代は、自由主義の浸透と選択肢の多岐化によって「決められた人生の路線」というものが見え難くなっている時代であるが、最近では、社会的格差による階層の固定化が強調されることが多くなっている。そういった「職業選択の自由」と「経済階層の固定」という概念が現実社会を正確に説明しているのかは定かでないし、大規模な社会調査による根拠があるのかというと疑問な部分もあるが、非日常的な高額消費を賛美するメディア報道や貧困の拡大を主張するセンセーショナルな啓蒙書によって一般社会にそういった経済格差の拡大や不可逆的な階層分化を信じる風潮が生まれているといった感触はある。

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経済格差の拡大や階層社会化の懸念というのは、一部の社会科学研究などによる学問的な根拠付けも確かにあるが、日常で見かける光景や情報で感じられる衣食住や車、旅行、贅沢品など生活格差の実感に基づいたものなのではないだろうか。あるいは、景気回復で平均所得におけるボーナスが最高額に上がっていて、海外旅行者が急速に増加と報道されているにも関わらず、自分のボーナスが格段に低いとか海外旅行には行ったことがないとかそういった生活場面での相対的な貧困感が格差問題の根底にあるのかもしれない。

「自由という建前はあるが実際に選択できる項目はそう多くない。なんとなく自分の将来の可能性に早い段階で限界が見えてしまう」というジレンマを抱えている若者が多くなっていることと、社会的な職業選択によるアイデンティティ確立に無関心な層があることとは無関係ではないだろうが、それでもなお、自由主義社会では自分の幸福や生存の為に自由な選択を繰り返していかなければならないという厳しさがあるという認識は必要だろう。

元記事の執筆日:2005/12/26

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