客観的分析を志向したキャッテルの特性因子論:量的な性格理解の有効性とその限界、確定記述の束に還元し切れない「余剰」を内包する固有名:言語による世界(存在)の写像

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確定記述の束に還元し切れない「余剰」を内包する固有名:言語による世界(存在)の写像


『社会的認知のある属性による人物評価』と『個別的な人間関係による人物評価』


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客観的分析を志向したキャッテルの特性因子論:量的な性格理解の有効性とその限界

心理学では、人格(personality)を『特性(属性)の束』として解釈する特性因子論のような立場があるが、その一方で人格を複数の有限の因子に還元し切ってしまうことの危険性を示唆するソフィスティケイトな存在の固有性を重視する立場もある。特性因子論による因子分析そのものは特別な人格理解の手法というわけではなく、個人の人格の特性を客観的なデータによって記述しようとする場合に避けては通れない手法で、心理アセスメントの性格検査の質問紙などでよく用いられる。

ここでは、特性因子論を説明するにあたって人格と性格を厳密に区別しないが、一般的には人格は性格の上位概念として取り扱われることが多く、道徳的特性や社会的評価、存在意義などを含んだ全体的な人間性といった意味合いが込められている。性格(character)を人格と区別する場合には、対人関係における情緒的・感情的特性や行動様式、生活特性に注目することが多く、『その人を特徴付ける一貫性と連続性のある行動・思考・感情・認知のパターン』というように理解することが出来る。

心理学史の流れではG.W.オルポートからR.B.キャッテル(1905-1998)の研究成果によって特性因子論による性格理解の骨子が打ち立てられたといって良い。厳密には、オルポートは因子分析(factor analysis)による特性を構成する因子(要素)の抽出の手法を確立していないので、特性因子論ではなく特性論の創始者というべきである。16因子を因子分析によって抽出したキャッテルから特性因子論への発展を遂げた。キャッテルが分類した特性の種類と因子分析によって抽出した因子による質問紙は、以下のようなものである。

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共通特性(common trait)……数量化できる他者と共通する人の一般的な特性。量的特性。

独自特性(unique trait)……数量化できない個別的な固有の特性。質的特性。

表面的特性(surface trait)……客観的に外部から観察できる行動・発言・動作・表情などの表面的な特性。意識的過程から行動に変換される量的特性。

根源的特性(source trait)……表面的特性を根底において規定する価値観・遺伝因子・環境要因などの内面的な特性。外部からの観察は不可能で因子分析などの技術によって抽出される。無意識的過程から表面的特性(観察可能な行動)へと変換される質的特性。

上記の4つの特性は相互作用を及ぼしあっていて、その相互作用の結果として全体的な人格特徴や行動様式が形成されていくことになる。

『根源的特性』は、更に生得的な遺伝要因などの影響を強く受ける『体質特性』や後天的な成育環境などの影響を強く受ける『環境形成特性』に分類することが出来る。 『体質特性』と『環境形成』の下位の特性として、『気質特性』『能力特性』『力動特性』などがあり、力動特性は更に、『エルグ(先天的遺伝要因・気質体質的要因)』『メタネルグ(後天的環境要因・社会文化的因子)』という独特なテクニカルタームの要素で構成されている。

キャッテルが作成した質問紙で最も完成度が高いものは、キャッテル16因子質問紙(Cattell Sixteen Personality Factor Questionnaire)であり、オルポートとオドバードの言語的人格世界を元に因子分析を施して得られたものである。言語的人格世界とは、人間の性格の特性を表現する心理的意味づけを持つ語彙(言語)を辞書から出来るだけ多く選び出し、類義語を排除して『性格特性を表現する全ての言語』を抽出したものである。

1936年にオルポートらが、辞書に収載された『心理的意味づけの出来る言語』を徹底的に調査して、17953個の性格特性を記述する言語を選び出した。そこから類義語や重複的解釈のできる言語を排除して、結果として4505語の独立した性格特性言語を抽出したのである。しかし、4505種類の性格特性の組み合わせで性格を記述しても、あまりにデータが煩雑すぎて実用性や応用性に乏しく、個人の性格特性を理解するという性格検査の目的を達成することが出来ない。

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そこで、キャッテルはこの4505種類の性格特性に因子分析を行って、心理検査(性格検査)の目的を達成する為に適切な数量である16の変数を抽出した。人間の性格の概観を統計的分布や他者との比較で理解するに当たって、16個くらいの変数であれば比較的その概観を掴んで実際的な人間理解に役立てやすい。

キャッテル16因子質問紙(Cattell Sixteen Personality Factor Questionnaire)の16個の因子

知能

情感

自我強度

自己充足

支配性

衝動性

大胆さ

繊細さ

空想性

抗争性

不安の抑制

浮動的不安

公共心

猜疑心

狡猾

罪悪感

質問紙の回答結果から、上記16因子の尺度得点が計算されるが、更に二次的因子である以下の因子の尺度得点も計算され、大まかな性格特性と量的な程度を測定することが出来る。それに、印象操作・検証尺度と呼ばれる尺度得点を加えることで、キャッテル16因子質問紙の検査結果が出ることになる。

外向性

不安傾向

意志の強靭性

独立性

自己統制

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特性因子論については、やや専門的な性格心理学関連の成書であれば、詳細な説明がなされていると思うが、簡単に説明すれば、ユングやクレッチマー、エニアグラムなどの類型論による性格理解と対照的な性格理解といえるだろう。臨床経験やカウンセリング事例を踏まえて幾つかの典型的な特徴を備えるタイプ(類型)を抽出し、性格検査をしたい対象者がどのタイプに当てはまるのかを考えるというのが類型論の基本である。ユングのタイプ論であれば、『外向・内向』『思考・感情・感覚・直感』を組み合わせた8つのタイプのどれかに必ず対象者は分類されてしまうことになる。科学的妥当性は兎も角として、原理的には血液型性格診断も、オーソドックスな類型論による性格検査ということが出来るだろう。

一般的に類型論は、その理論の考案者の主観的人間観や直感的認識の影響を強く受ける理論の枠組みであり、人間の性格を数量化して分析したりすることが不可能であるという前提を取る。その為、人間の性格に関して客観的な科学性や統計学的な優位性を検証しようとする為に、比較可能な個人データ(数量的なデータ)を収集するような研究スタイルを取ることはあまりない。

類型論やそれに基づく心理アセスメント(心理臨床)は、個別的な事例研究をベースとして、類型論の枠組みを参考にしながらも、他者とは質的に異なる『固有名詞の個性』と向き合うのが基本である。故に、類型論によって安易なラベリングをしたり、主観的な偏見に基づく対処を行うことは本義ではなく、類型論に基づく性格検査というのは、『質的な差異を持つ個人と向き合う為の参照項』に過ぎないと私は考えている。

それに対して、特性因子論というのは、人格(性格)を構成する特性の組み合わせと程度(量化された数値データ)によって人間の性格を理解しようとする理論である。類型論が質的研究の特徴を持ちやすいのに対して、特性論は量的研究の特徴を顕著に持ち、研究者の主観によって前提される一般的類型へ個人の性格を割り当てることに批判的である。類型論の提唱者が一般的な分類であると主張する『類型』には、全ての人間がその類型に当てはまるとする客観的根拠や統計学的保証がないではないか、人間の複雑で微妙な性格を検査するのに単純な限られた類型(主観的傾向の強い類型)に分類するだけでは正確性に欠けるのではないかという科学的立場からの批判が特性論の始まりといっていいだろう。

よく実施される特性因子論に基づいた心理検査では、調査者が回答者について知りたい内容の特性(価値観の特性・感情特性・行動特性・態度特性……)に関する質問項目を作成する。そして回答結果に対して数理的な因子分析の処理を行い、調査対象の特性を構成する要素(因子)を抽出する。抽出された各因子の量的データの高低や統計分布における偏りを比較して、客観的に個性を理解しようとするのである。

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因子分析の技術論的な部分は、その多くを統計学の多変量解析(statistical multivariate analysis)に拠っていて心理学では心理統計学などの分野に位置づけられることになるが、一般的にイメージされやすい『質的研究に基づく心理学』とは異なる数学を用いたデータ処理を中心に行う量的研究による心理学分野である。多変量解析は、複数の心理学的な変数(測定項目)を同時に分析することのできる解析手法であり、キャッテル以降の多変量実験において頻繁に利用されるようになった。単変量解析では一つの特性の変数しか扱えないので、比較調査や統計的分析に向いていないので当然といえば当然の移行といえる。

性格心理学における特性因子論の基本理念は、人間の性格を数量化可能な因子(変数のデータ)にして客観的・科学的に理解することにある。量的な研究理論である特性因子論は、「心理アセスメント制作・解釈・査定などの心理臨床応用」が可能であり、「研究者・実践家モデル」の臨床家であれば一通りの理解を持っていることが望ましい人間理解の方法である。

基本的には、客観的なデータによる検証性の高い心理アセスメントの作成、心理アセスメントの結果による研究目的の個人データの収集整理や統計学的な解析に大きな貢献をしてきた理論であるといえる。 特性因子論の短所としては、検査項目に収まらない人格の統合的理解の困難や心理検査を受けた本人の主観的な訴えとのズレによるデータ偏重主義の弊害を挙げることが出来るだろう。

一般的に、心理アセスメントの実施・分析に偏重すれば、クライアントとの距離感を開くことができ、カウンセラー(精神科医など臨床家)の精神的負担を軽減することが出来るカウンセラー側のメリットもある。標準化された心理テストの実施と解釈には一定の時間がかかるので、直接言葉を交わす面接時間は短縮される傾向がある。テスト結果を元にした定式化された報告の時間は、一般的にカウンセラー側が知的優位の専門家としての発言に終始できるので緊張感が和らぎやすいが、クライアントによっては構造化されたアセスメント重視の面談を好まない人もいるので個別的配慮も必要だろう。

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カウンセリングなのか心理療法なのかの違いや当該事例の内容の質にもよるが、頻繁に膨大な質問項目に答えなければならないような心理アセスメントを行うことによって、クライアントを心理的に疲弊させることもあるという認識は必要である。また、『話したいと考えている内容を話せないフラストレーション』『(こまめな効果測定と状態把握の必要な精神障害・発達障害を除いて)頻回のアセスメント実施による時間不足による焦燥感』を蓄積させることは好ましくないと考える。

『心理アセスメントの合目的性と実戦への応用性』を考慮に入れて行う事によって客観的にクライアントの状態を把握できるところに特性因子論の有益性があるといえるのではないかと思う。計画性を持って定期的に行う心理アセスメント(心理検査)の大きな意義は、目に見える数量化されたデータでクライアントの状態の変化や推移を見ることができ、今後のカウンセリング方針(治療計画)の参考とすることができるということだろう。

ただ、表情の微妙な変化や言葉の話し方の抑揚などによって心理状態や体調をリアルタイムに推測できるという意味では、主観的な面接場面での質問と応答も非常に重要なものであるし、治療効果や改善作用という意味ではこちらのほうが大きいと言える。

■書籍紹介 ここで紹介した古典的なキャッテルの特性論や質問紙ではなく、現代の性格心理学のアセスメントでも用いられるビッグ・ファイブ(特性5因子理論)について総合的な理解を得たいならば以下の書籍をお勧めします。

「情緒不安定性」「外向性」「経験への開放」「協調性」「勤勉性」という5つの特性因子のバランスと偏差から人の性格の概略を理解しようとするシンプルな性格理論ですが、簡潔でありながら重要な性格特性の因子を包括しているのでカウンセリングや人間理解へ応用可能な性格検査としては実用性の高いものだと思います。 この書籍では、特性因子論そのものの歴史的発展や基本概念の説明、実際の測定方法、統計学的な操作についてもまとまりよく述べられていますので、特性因子論自体の概観を勉強したい方にも向いているといえるでしょう。

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確定記述の束に還元し切れない「余剰」を内包する固有名:言語による世界(存在)の写像

伝統的な哲学では、ルネ・デカルトが事物の本質を『延長』と『精神』の2つの属性で表現したように、事物の存在は属性なくして成立せず、『存在(固有名詞)を成り立たせる全ての属性の集合』が存在(固有名詞)であるとされる。しかし、『固有名詞(存在)の特徴・性質・属性』を一つ一つ余すところなく列挙したとして、それが固有名詞(存在)そのものになり得るかといえばならないだろう。 属性の集合は、どこまでいっても固有名詞の本質そのものではなく、固有名詞の部分的な特徴や性質を示すに過ぎない。

固有名詞の持つ属性は、定冠詞の付いた述語を用いた『確定記述』によって表現される。日本語の場合には、定冠詞の付いた述語というものを意識しなくてもよいが、簡単にいえばその固有名詞にしか通用しない特有の述語が確定記述ということになる。

織田信長は、今川義元を桶狭間の戦い(1560年)で破った戦国武将である。

プラトンは、ソクラテスの弟子でアカデメイアを開設した哲学者である。

小泉純一郎は、郵政民営化を断行した首相である。

こういった固有名詞に、特定的に当てはまる述語が確定記述であり、確定記述は固有名詞に備わっている属性(特徴・特性・性質)を表現することが出来る。言い換えれば固有名詞を名指すことの出来る述語『ソクラテスの弟子でアカデメイアを開設した哲学者である→プラトン』などが確定記述である。固有名詞という全体は、確定記述という部分に還元することができる。その反対に、確定記述という部分を集めて、全体としての固有名詞を構築できるかというと構築できない。

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また、固有名詞の認知は、必ず確定記述の前になければならない。固有名詞の認知のない段階で、幾ら属性の記述を並べても、個別的な対象を特定するような確定記述にはならないのである。特定の存在に関する説明は、当たり前のことだが、説明の前段階において特定の存在がなければ、その説明は確定記述になり得ないということである。

上記の例でいえば、織田信長という固有名詞を誰一人認知している人がいなければ、『1536年に尾張大名の織田信秀の子として生誕する』『1571年に比叡山延暦寺を焼き討ちする』『1575年に長篠の戦いで3000丁の鉄砲を三段構えの陣で連続射撃し、武田勝頼を破る』などの過去の記述だけを並べても、その歴史的事績の主語が誰なのかを固有名で名指すことはできません。固有名詞の属性を確定記述によって指示したり説明することは出来ますが、固有名詞の存在そのものを属性記述の束(集合)によって名指したり構築したりすることは原理的に出来ないということがいえます。

歴史的な価値の高い勅撰和歌集に収載された歌で誰もが知っている歌であっても、詠み手が特定されていなければ『その歌を詠んだ人=詠み人知らず』として名指す以上のことは出来ないのです。言語哲学のように厳密な論理的思考を持って固有名詞を確定記述とイコールのものとして考察しようとするとすぐに困難に行き当たります。固有名詞は飽くまで『個別的な唯一の事物』を指示するに留まるのに対して、確定記述(あるいは普通名詞)は『複数の事物に共通する一般性のある概念』を意味する為に完全に同一性を持つわけでないことは明確なのです。

固有名詞の本質は、素朴な実在論の立場では『現実世界に存在する事物の指示』ということになりますが、これは実際の固有名詞でも仮想の事物を名指しするドラえもんや名探偵コナンなどがいるように反証可能な誤りであるといえます。固有名詞イコール現実に存在する事物ではないのですが、固有名詞は、『精神内界で特定可能な表象を含む存在である』とは言えると思います。

バートランド・ラッセルは、指示代名詞(あれ・これ・それ)を論理的固有名と読んで、そういった論理的固有名こそが固有名詞に先行する特定事物の本質であるとしましたが、これは『固有名は現実存在と結びついていなければならない』とする素朴実在論の前提を徹底した際に行き着く一つの解答でしょう。特定の事物の存在を経験的に確認する為には、指示代名詞で指差せるような自分の生きている同時代に存在する事物(モノ)でなければなりませんが、それを認めると一般的な言語認識である『織田信長など歴史的人物を固有名とする常識』などが通用しなくなってしまいます。

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そういったラッセルの存在論への固執は前述したように一般的な言語認識からすると間違いですから、固有名詞は必ずしも現実に存在する事物を指示していなくても良いのです。固有名詞は、物理的な現実世界もしくは精神的な仮想世界の中に存在する事物(モノ)を名指す品詞(言語分類)であると同時に、必然的に確定記述によって特定される対象です。固有名Aだけで孤立して一切の確定記述を伴わないという状況はこの世界では考えられません。固有名Aは、必然的にAの属性(特徴・特性・性質)を説明する確定記述を持ち、その確定記述によって『他者に対する意味・価値・役割』が生まれてきます。

暫定的な解として固有名Aの本質を考えると、『Aは、~~である』という論理形式で確定記述される固有の存在であり、『確定記述を生み出す機能を持つ始点』であると言えるのではないかと思います。固有名そのものに特別な意味や価値を見出すということは、『確定記述の束以上の余剰(何か)』が固有名に内在していることを認めるということですが、その余剰とは何かの解釈は人それぞれではないかと思います。自分の一番愛する他者Aの何処が好きかと問われた時、一定程度の人は、部分的説明である確定記述に還元して好きな理由を語ることに抵抗を感じますが、これは表象不可能な他者Aの全体性を欲望していることを意味します。

大切なかけがえのない固有名の対象に対して『確定記述+α』を人はいつも欲望するのですが、そのプラスαを具体的に認識し把握することは非常に困難です。このコンテクストにおける+αの余剰とは、ジャック・ラカンの言うシニフィエ(指示される対象)なきシニフィアン(指示する記号)のようなものなのかもしれませんし、世界の全てを言語で表象しようとする理性的人間の無謀な野心の挫折を暗示するものなのかもしれません。

『社会的認知のある属性による人物評価』と『個別的な人間関係による人物評価』

前回書いた記事『客観的分析を志向したキャッテルの特性因子論』ですが、私は冒頭で人格を『特性(属性)の束』として解釈する理論的立場について触れました。キャッテルの特性因子論に関する記事を書く前に『Zopeジャンキー日記』 の『私は属性を信じない 私が信じるのは固有名詞だ』という記事を読んでいたのですが、『性格心理学における特性の束』とは別の次元で固有名詞と属性について考えてみようと思います。

『Zopeジャンキー日記』では、属性を『受動的な評価につながりやすい属性=学歴・肩書き・資格・地位・役割分類・家柄・出身地・生物学的指標』といった意味合いで使用しているようですので、まず、この社会的属性の定義で固有名詞と属性の関係を見ていきます。受動的な評価とは、『外部から属性に関する情報を受けただけで、反応的(受動的)に下される評価』といった意味合いで用いています。

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属性とは、簡単にいえば『その対象に備わっている特長・特性・性質』のことであり、基本的にはその対象そのものに備わっている固有の特徴や性質のことを指示します。属性には大きく分けて『先天的属性=対象の努力や意志によって変更不可な属性』『後天的属性=対象の努力や意志によって変更可能』がありますが、属性主義を否定的な意味で使う場合には先天的属性を強調していることが多いですね。

国語辞典では、属性主義の対義語として業績主義を挙げているものが多いですが、近代以前の身分制度や門地主義との差異に着目するときには、業績主義は近代産業社会の特徴の一つであるとされます。属性主義という場合の属性で代表的なものとしては、『性別・家柄・身分・地位・年齢』といったものがあり、いずれも先天的属性であることが特徴です。

Zopeジャンキー日記でいう属性は、これよりもやや広範な範疇を示すものではないかなと私は考え、後天的属性の一部も含めた『先入観(固定観念)につながる社会的属性』という風に解釈しました。先ほどは『受動的な評価につながりやすい属性』と言いましたが、この場合の属性とは一定の社会的認知や帰属集団の公的認可と結びついた属性ではないかと思います。一定の社会的認知を獲得した権威・価値・希少性をまとった属性は、それが決まった反応を生み出す刺激となり、『刺激に対する反応としての受動的な評価や行動』を生み出しやすくなります。

行動科学による機械的な行動理解であるS-R理論に類似したものと見なすことも出来ますが、一般に、ある社会的文脈に入れ込まれれば人は役割規範に従順に従う傾向があります。経済活動を含む社会的行動でも、ある程度は刺激に対する反応として行動を理解できる部分もあるでしょう。行政機関における手続きや受付の対応などは、役所に行く市民も役所で手続きをする公務員も、ほぼ定式通りの行動パターンを示しますし、その枠組から外れることもありません。

医師や患者、カウンセラーとクライアントなどの医療分野や対人援助の分野でも、基本的には、会話内容や治療方法の多様性はあれど定式通りの行動パターンを示すことが多いです。血液型による人物評価というのは、ある程度、血液学や性格理解にまつわる素養のある人であれば論外なのでしょうけれど、『A型=几帳面、B型=自由奔放、O型=温厚で親分肌、AB型=風変わりで二重人格』というようなステレオタイプな性格理解は一応、それを信じるかどうかは別として社会的認知を得ていますね。

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故に、血液型性格診断を信じている集団内部においては、相手の血液型を聞くだけで受動的な評価を無意識的に下しているかもしれませんし、それが科学的根拠に基いているものでなければ合理的な反論によって相手の受動的な判断を覆すことは難しいかもしれません。出身地や門地による受動的な評価というのは、歴史的な地域固有の差別問題などと関わっていたり、身分血統を重視する伝統的な家風と関わっていたりするのかもしれませんが、これも相手の出身地や門地家柄を聞いた瞬間に受動的な判断が起きる例でしょう。

血液型と出身地に関していえば、『対象者に反論や弁解の余地が乏しい思い込みや偏見感情』に根ざした受動的な反応といえるかもしれません。少なくとも、血液型の性格分類に関する気楽なおしゃべりをディベートで真偽をはっきりしようとする人は通常いませんし、出身地による対応の違いを議論や人権思想の啓蒙によって転換させようとしてもなかなか難しい部分があります。それらは合理的な判断や客観的な根拠に基づく考察をすることを初めから度外視していて、自らの信念体系に則してほぼ受動的に判断するところに特徴があるからです。

学歴や社名による人物評価というのは、血液型や出身地に比較すれば後天的な要因に左右される部分が大きいのですが、出身大学や所属企業の名前を聞いただけで受動的な反応を返すという場合の根拠の一つは『思考の節約による確率論的な判断』ということが出来るのではないかと思います。東京大学をはじめとする入学に要する偏差値の高い大学、偉人を多く輩出している海外の著名な大学を卒業している人を受動的に高く評価するという場合には、膨大な対象者の中から確率論的に大雑把に有能な人を選抜したいという動機が強いと考えられます。

対象者の数が多い場合、一人一人の能力を厳密に詳細に比較したり審査したりするのには非常に長時間の観察や質問、思考の時間が必要とされ、それだけ時間的・精神的コストが高くなっていきます。有名大学卒業の学歴を重視する場合には、『現在の能力・意欲・人柄を重視するというよりも、過去の学力競争をトップレベルで勝ち抜いた実績を評価している』ということが出来るでしょう。

もしかしたら、無名の大学卒業者や高卒者に、有名大学卒業者以上の成果や業績を上げられる者もいるかもしれない可能性はあるが、過去の競争で勝った者のほうがより高い能力を持っている可能性が高いと推測されるから高く重み付けして評価しておこうという事でしょう。それ以外にも、社内に特定大学出身者の学閥があるとか、出身大学による権威主義が集団内にあるとか色々な事情はあるでしょうが、そういった個別の事項は除いて考えます。『属性による受動的な評価』とは突き詰めれば、個別的に一人一人の人間と向き合ってその能力や意欲、魅力を審査する思考・時間・労力を節約する受動的評価方法であると言うことが出来ると思います。

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これは社会人になってからの『経歴・実績・業績』にこだわるのとも共通してきますが、『過去にこれだけ立派な経歴を踏んできたのだから、これから先も良い成果や仕事をすることが、そうでない人よりも期待できる』という『過去志向の評価軸』ということが出来ます。過去志向ではありますが、原理的には経験主義の評価基準ともいえますので、その評価方法が拙劣であるとか不合理であるとかいうわけではありません。例えば、工場労働であってもNC旋盤や天井クレーンなどある程度の熟練を要するものは『経験者のみ採用』というような制限があることが多いですが、もしかしたら一度もそれらの作業をしたことのない未経験者であっても経験者以上の適性と能力を持った人がいるかもしれません。

しかし、熟練の技術者や運転手と比較して全く経験のない技術者や運転手が勝っている可能性というのは、確率論的にはかなり低いものと見なされますし、その事自体は合理的な判断といえるでしょう。それ以外の各種の専門的技能や知識に関しても、社会的属性による受動的な評価はそれほど的を外していないことが多く、これが『スタンダードな能力・代替可能な能力』の典型的なものといえるでしょう。『過去に積み重ねてきた経験や努力の成果を分かりやすく示す指標としての属性』は、学校・資格・業績・表彰などに示される社会的要素を持つ経歴的属性としてまとめることが出来ます。

その過去の経歴的属性に収まりきらない個性や能力が『ユニークな能力・代替不可な能力』であり、その能力を適正に評価する為には一人一人の人間と向き合う時間や労力を必要とします。Zopeジャンキー日記では、それに加えて『自分自身が直接的に相手を観察して、能力・適性・人間性を判断する』という主観的な経験による審査の必要性が重視されているように感じました。心理臨床に置き換えると、量的研究による統計学的なデータを重視してクライアントの心理状態や適用技法を確率論的に判断するか、質的研究のように個別的なケースを重視して一つ一つの事例に知的先入観を余り入れずに臨むのかの違いに当たるのかもしれません。

この場合にも、一般的には専門知による前提や統計学的データを用いてクライアントと向き合ったほうが『思考・時間・労力の節約』が出来ることが多く、専門家らしい客観的で妥当な判断を下せることが多いですね。ただ、専門的な知識や傾向と対策を読むデータに依拠し過ぎると、心理アセスメントや方法論の部分では妥当であっても、カウンセリング(心理療法)の効果発現の基盤である良好な信頼関係や情的な相互理解の構築の部分で躓くことがあります。

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■書籍紹介

世界的に著名な経営思想家チャールズ・ハンディが、資本主義社会の中で、自分の生きがいや生きる意味を満たすライフスタイルと不自由な企業生活を両立させることは出来るのかを楽しく考える内容の本。

資本主義システムに取り込まれてしまうのではなく、そのシステムを自分の人生の幸福や喜びを実現する為の手段として利用することをハンディは説きながら、現段階の資本主義の抱える限界や欠点を分析的に思考していく。資本主義システムは従属すべき自明の前提なのではなく、私たち個人個人の意志や働きかけによってよりよいものへと変化させられる道具的なシステムなのであるという視点が斬新でなかなか面白い。

極端なアンチテーゼとしての共産主義や社会主義に走るのではなくて、今ある資本主義の現実の中でより充実した人生を営む為にはどうすればいいのだろう、よりよい資本主義とはどういったものなのかといった前向きな意志と軽快な文章に満ちた書籍なので、日々の仕事に疲れた人が気晴らしで読むにはいいかもしれません。

もっといい会社、もっといい人生―新しい資本主義社会のかたち

元記事の執筆日:2006/01/07

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