心理学分野の『発達概念』と『社会的価値観』:自我アイデンティティの固有性と社会性,青年期危機説と青年期平穏説:学校・企業・家庭の環境への適応と社会的自立の問題

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青年期危機説と青年期平穏説:学校・企業・家庭の環境への適応と社会的自立の問題


生態(人間の心)と環境(外部の事象)をつなぐアフォーダンス:情動機能の肯定的な側面について


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心理学分野の『発達概念』と『社会的価値観』:自我アイデンティティの固有性と社会性

発達心理学など心理学分野でいう発達とは、生物学的な身体の発達過程を研究するものではなく、『個体の身体・心理・行動』『個体が所属する社会環境』との相互作用によってもたらされる環境適応的な成長を伴う発達のことを指示します。社会環境に適応しない人生や既存の秩序体制に反抗する活動の選択もあり得ますが、臨床心理学の一領域である異常心理学では、環境への不適応や社会規範からの逸脱行為は本人の不利益を招くとして問題行動として扱うことが多くなります。

無論、カウンセリングや心理療法の場面では、反社会的な言動や既存の社会構造に対する不満などを頭ごなしに否定することはなく、積極的に受容して理解する為の努力はしていくのですが、同時に、クライエントの反社会性や規範からの逸脱行為を適応的なものへと変化させようともします。カウンセラーの基本的態度として『多様な価値観の肯定的受容』と『個別的な人格特性の積極的尊重』というのは大切なことですが、社会環境への適応や反社会的行為の矯正を目的としてカウンセリングを進めていくという前提も無視することは出来ません。 その意味では、臨床心理学には『今ある環境への適応を促進することがクライエントの利益や幸福に通じる』という基本的価値観が内在しているといえるでしょう。

あらゆる価値観や選好を全て平等に取り扱い、その価値判断を行動と結びつけることを容認することは、クライエントの社会経済的利益を損ない、結果として個人にも社会にも好ましくない帰結をもたらしますから、臨床心理学的アプローチの原則を『既存の社会環境や経済制度への適応による日常生活の安定』に持ってくることは悪いことではないと思います。『今ある社会のルールや経済のシステム』に適応して精神的な安心感と経済的な安定感を得る事を目的としたほうが、クライエントの生活内容の質や心理的な満足度は高まりますから、まずは自立的な生活を営むという最低限のラインで適応を達成することは必要だと言えるでしょう。

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エリクソンによると、自我アイデンティティには、過去から現在までの『自我意識の時間的連続性』があり、記憶を持ち始めてからの自分(幼児期の自分)と現在の自分が同一の人間であるという『記憶の一貫性』によってその連続性が支えられているといいます。この時間的連続性や記憶の保持によって、自分は自分以外の何者でもないという『自己の一貫性』が保障され、他者と相互的な関係を取り結ぶ社会の構成員としての責任が生まれてきます。正常な精神機能である『自己の一貫性に基づくアイデンティティ』が、自分の行為の結果に対して責任を持つという社会的価値観(順法精神や倫理感覚)の根底にあります。

『固有名と結び付けられた自己の一貫性』は、「昨日の私」や「数年前の私」が、「今日の私」と同一の自己であるという一貫性のあるアイデンティティを支えていて、社会での人間関係や契約関係の有効性を担保しています。正常な精神が持つ法的責任能力というのも、「一年前に犯罪を犯した自己」と「今日、普通に生活している自己」とが同一の名前と自我を持っているというアイデンティティによって支えられています。ヒト以外の動物のように『連続性を保持する記憶によって成り立つ一貫性のある自己』というアイデンティティがなければ、ある行為の責任はその行為の瞬間にしか生起しないことになりますが、人間は、『固有名・社会的記録(戸籍,契約書)・帰属集団・他者との関係性に結びついた記憶・感情』によって行為の責任(法的責任の追及・経済的な契約行為)が長期にわたって継続します。

個人間の出来事であれば一度した行為をなかったこととして許しあう事も出来ますが、法的責任が伴う犯罪行為などの場合には、固有名と結びついたアイデンティティと行為の法的責任が結び付けられてしまい、裁判の結果(有罪・無罪)を受け容れるか時効が到来するまではその責任を無効化することが出来ません。罪悪感の起源には、『他者の苦痛・悲哀に共感する不安や不快という倫理的な起源』『懲罰される可能性を思う不安や恐怖という法的な起源』を推測することが出来ます。他者を傷つける行為や法に違背する行為をした人が、罪悪感から自由になることが難しい理由の一つとして、連続性・一貫性を持つアイデンティティを考えることが出来ます。

一般的に、自立した社会人に責任と自覚のある行為を求めるという場合には、『自分のした行為の帰結に対して、自分で適切な対処・反応・補償をすること』という意味を含んでいます。家庭環境における親の保護や学校環境における先生の管理を離れる青年期後期からは、社会的責任を自覚した行動が期待されます。ヒトは、生活史全健忘や解離性障害、統合失調症、認知障害などのアイデンティティが混乱する精神疾患を負わない限りは『私は私以外の何者でもないという自己認識』を喪失することがありませんから、自我意識が芽生えてから死ぬ直前まで、程度の差はあれ、自我アイデンティティに付随する責任感や自尊心を持ち続ける事になります。

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エリクソンのいうアイデンティティの確立は、自分は他の誰でもなく自分として生きる他はないとする『自己の固有性(唯一性)』と自分は他者との関係性や社会的な役割の中で人生を生きているという『自己の帰属感(社会性)』とのバランスを取っていく過程において成り立ってくるものです。固有名としての自己(実存的アイデンティティ)は、連続的で一貫しているのですが、『社会環境において、自分はどのような役割意識や帰属感覚を持った存在なのか』という社会的アイデンティティは、生活状況の変化や職業活動の変遷によって絶えず流動的に変化し続けていると考えられます。

また、社会的アイデンティティは、そのかなりの部分が、社会活動(経済行為・職業選択)と人間関係(配偶者・親族家族・友人・同僚・異性との関係)、居住地域の政治経済状況によって規定されてきますので、その時その時に、自分が置かれた立場と関係によって社会的アイデンティティの安定感や内実は変わってくるでしょう。そういった意味では、アイデンティティで不変の部分とは『自己の一貫性と意識の連続性』だけであり、それ以外の環境・時代・価値観に由来するアイデンティティ要素は絶えず可変的で浮動的だという事が出来るかもしれません。

青年期危機説と青年期平穏説:学校・企業・家庭の環境への適応と社会的自立の問題

心理学者のエリクソン(E.H.Erikson 1902-1994)は、ライフサイクル理論において、青年期の発達段階を『自我アイデンティティの確立』におきました。自我アイデンティティの確立の概念が意味する内容は、その人が置かれている時代・社会構造・経済状況・政治体制によって異なってきますが、通常、発達のスキーマでアイデンティティを考える場合には、『社会環境において自分が何者であるかを自己認識して、心理社会的自立を達成すること』と解釈されます。

ライフ・サイクル理論

【発達段階】―【発達課題の成功・失敗】―【獲得される心理特性】

1.乳児期(0歳~1歳半ごろ)―基本的信頼感・基本的不信感―希望

2.幼児期前期(1歳半~3歳ごろ)―自律性・恥や疑惑―意志力

3.幼児期後期(3歳~6歳ごろ)―積極性・罪悪感―何かをしようとする目的を持つこと

4.学童期(6~13歳ごろ)―勤勉性・劣等感―自分は物事をできるという自己効力感

5.青年期(13歳~22歳ごろ)―自我同一性(アイデンティティ)の確立・アイデンティティの拡散―帰属集団への忠誠心や社会への帰属感

6.成人期初期(22歳~40歳ごろ)―親密性・孤立―幸福感を感じる愛の獲得と実感

7.成人期(壮年期)―世代性(生殖性)・自己停滞―世話

8.老年期(60代以降)―自我の統合・絶望―叡智の体現

科学的な心理学では、特定の政治イデオロギーや社会システムにコミットせずに『価値判断の中立性』を保持することが望ましいですが、発達心理学における発達過程や臨床心理学におけるカウンセリングでは『既存の社会的価値観(職業活動・社会集団)への適応と個人の心理社会的自立の結びつき』から完全に自由になることは出来ません。また、既存の社会体制や経済活動と全く結びつかない自我アイデンティティの確立というのは、通常の形で社会生活を営む個人には確立することの出来ないアイデンティティですから、学問としての発達心理学が取り扱う領域の外部(宗教・政治・哲学・思想・イデオロギー)にあるといえます。

『児童期(学童期:6-12歳)』の後に続く『青年期(13-20代)』の期間は長く、一口に青年期といっても、その発達段階が指す「期間の長さ」には非常に大きな個別差があります。 青年期は、『大人(成人)と子どもの中間領域』にある発達段階であり、個人によってその主要な生活領域が変わってくる時でもあります。青年期を過ごす若者は、その人生の進路や生活状況によって『学校・会社・家庭・外部で過ごす時間配分』が大きく変わってくるので、同じ青年期にある若者でも、進学・就職・フリーター・モラトリアムなどの進路選択の違いによって置かれている状況と心理に違いが見られます。

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学生である青年は、学校に通って教養や専門の科目の勉強をし、サークルや部活に所属して自分の好きなスポーツや文化活動に打ち込んだりするでしょう。サラリーマンである青年は、会社に通って仕事をしながら職業上のキャリアを積み重ねスキルを向上させながら、自分の将来の人生計画を模索しているかもしれません。自分で独立して事業を興そうとする野心的な起業家精神に溢れた若者もいるでしょうし、なかなか自分の将来の進路を選択できず、仕事や学業にも打ち込めないモラトリアム(社会的選択の猶予期間)やアパシー(意欲減退症候群)にはまり込んでしまっている青年もいるでしょう。また、どんな生活空間で青年期の時間を過ごしていても、それぞれの個人は、青年期に友人・異性・家族と複雑な対人関係の変遷を経験します。

特定の恋人を作って親密な心身の関係を取り結ぶ人もいれば、自分にとって大切な異性を失って落胆する人もいて、特別な親友と生涯続くような友情を築く人もいれば、なかなか自分の本心を打ち明けられるような親友に出会えない人もいます。青年期前期(思春期:10-18歳頃)の対人関係では、『身体の性的成熟(第二次性徴期)』『性的欲求・恋愛欲求の自覚』によって異性に対する関心や自己の性的魅力に関する意識が強まってきますが、『異性との心身の関係』は、成人して以降も人間を歓喜させ苦悩させる要因になることが多いものです。

過去に、『青年期のアイデンティティ拡散と非社会性の問題』という記事でも書きましたが、子どもの幸福と健康を保護する権利意識が芽生えてからまだ人類の歴史は浅く、青年期(adolescence)という発達段階の認識が誕生したのも産業革命以後のことです。青年期特有の心理的問題として指摘されることの多いアイデンティティ拡散症候群モラトリアムの遷延による無業者問題は、産業文明が成熟してある程度の経済力を蓄えた民主的な現代社会に特有のものであるともいえます。

エリクソンの語る青年期の発達課題である『アイデンティティの確立とモラトリアムの遷延』が大きな問題となる社会は、『個人の自由を尊重する政治体制・子供を単純労働に徴収しない児童期の学校教育の普及・社会の労働の多様化と専門化の進展・仕事の専門化に合わせた高度な教育の普及(高学歴化)・国力を高める産業経済の成熟・青年の子供を養う親の経済力』などの条件を兼ね備えた相対的に豊かで自由な社会だけなのです。産業社会が複雑化し、自由度が増大した現代社会では、青年達は、膨大無限な選択肢が社会には用意されていることを就職の段階で知っています。

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しかし、自分の能力・技術・人脈・意欲と照らし合わせた場合に、現実的な選択肢というものはある程度限られてきますので、理想的な人生の進路と現実的な職業の選択の間にギャップが大きいほど強い葛藤や苦悩が生まれてきます。自分の社会的アイデンティティを確定することに躊躇や不安を抱くモラトリアムの遷延というのは、『社会的経済的な自立につながる職業選択』『理想自我が要求する水準の職業選択』との間に大きな落差がある場合に生じる強いフラストレーションによって起こってきます。

それ以外のモラトリアムの要因としては、社会適応能力全般の低下による就業困難、他者との人間関係に不安や苦痛を感じるコミュニケーション・スキル低下の問題、新しい知識や技術を習得して準備を整えたいとする本来の猶予期間などが考えられます。自分の主体的な判断で、敢えて社会的役割を選択しないのであればまだ良いのですが、本人に就業や労働の意欲があるのに、精神的不調や対人関係の不安によって選択不能のモラトリアムに置かれているのであれば心理学的対処が必要なこともあると思います。

先ほど述べたように青年期(adolescence)という精神発達段階は、幾つかの歴史的社会的条件が揃った時にしか認識されない『大人と子供の境界領域』にある発達段階です。アリストテレスの書籍にある人間の年齢区分の青年期が、中年期(30代以降)までを包括していたように、人生の重要な進路選択に迷い、性的な異性関係に懊悩する『現代的な青年像』は古代社会には存在しませんでした。『保護や教育が必要な子供(children)』という発達区分の概念さえ、中世の14世紀頃までは明確に意識されておらず、乳幼児期が終わればすぐに家事労働の重要な戦力として用いられ、一定の年齢になると、身分制度や職業区分に応じた仕事に自動的に従事していました。

そういった職業選択だとか自己実現だとかいった心理的な問題を省みる余裕のない時代は、大部分の国において、20世紀半ばくらいまで続きましたし、現段階においても、子供の教育や保護が社会的に保障されていない地域や国は無数に存在します。子供の生活の地域差に踏み込むと政治的な話題にずれ込むので、子供の生活の時代差の話に戻すと、子供という概念の誕生する以前の中世くらいの時代までは、子供は小さな大人、大人のミニチュア版として取り扱われ、不完全で能力の低い大人というような認識が為されていたと考えられます。

無論、狩猟や採集によって成り立つ未開社会においても大人と子供の区分はありますが、学校教育がない地域では大人と子供の区分は明瞭ではなく、比較的低い年齢で大人の仲間入りをするイニシエーションが執り行われます。歴史的な青年期の概念の形成の話をひとまず終わらせて、青年期を前期の『思春期(pre-adolescence)』と後期の『青年期(adolescence)』に分けて発達心理学的な観点から考えてみると、青年期というのは、始まりは明瞭ですが、終わりが不明瞭という特徴を持ちます。

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思春期(青年期前期)の始まりは、第二次性徴期の身体的変化によって示されるので分かりやすいのですが、青年期後期の終結が何によって示されるかはっきりせず曖昧だという事が言われます。思春期の始まりは、食生活や文化の変化によって早熟化(acceleration)の傾向があり、思春期の終わりは、高学歴化・晩婚化や家計の生活水準の向上、労働規範の変化によって延期されるモラトリアムの傾向があります。一応、青年期終結の目安は、『家庭からの心理的自立と職業選択(生計手段の獲得)による経済的自立』に置かれていますが、現代では就職してから後も両親との同居を希望する青年が多く、結婚も晩婚化していたり非婚を選択する人も増えているので心理的自立の境界線は揺らいでいます。

適齢期という言葉が現実味を持ち、親族や友人など周囲からの結婚圧力が強かった時代には、恋愛の異性関係から結婚の夫婦関係への移行が標準的な男女関係の発展の型としてあり、結婚という通過儀礼を青年期終焉の区切りとする見方もありました。今でも、高齢者や中高年世代の人たちには、結婚して家庭を築いて一人前の社会人であるとする価値観は残っていますし、結婚して子供を作るという大きなライフイベントを経験することは、生物として次世代を残すという意味や社会的責任感を強めるという効果はあると考えられます。反社会的な逸脱集団に加入していた少年や青年の場合には、結婚というライフイベントを通して、勤勉な労働意欲を高めたり、社会規範を遵守する意識を持てるようになるケースが少なからずあります。

結婚の選択や育児の経験は、自分以外の人間の生活や幸福に一定以上の責任を持つという体験につながってきますから、人によっては、他の人生経験では得られないような非常に大きな人生の転回点になったり、真剣に人生を生きる良い転機になることがあります。現代の精神発達段階において、結婚を青年期終焉のメルクマールとする見方はあまり普遍的なものではなくなってきていますが、恋愛にせよ結婚にせよ異性とどのような関係をもっていくのか、将来において子供を持つのか持たないのかといった性的成熟と世代継承に絡んだ選択は、個人の人生において非常に大きな意味を持ち、精神的な成熟や健康とも密接に関係してきます。

現代社会では、30代、40代の人でも新たな活躍の場とキャリアの上昇を目指して意欲的な転職をしたり、チャレンジ精神に充ちた起業をする人がいるように、青年期の終結である心理社会的自立は、必ずしも安定した生活を定める終着点ではなくなってきている観があります。青年期は、第二次性徴期における急激な身体の形態の変化と性的な機能の成熟といった思春期によって幕を開け、とりあえずの目標である心理社会的自立に向かって進行していきますが、その過程には恋愛・失恋・就職・失業・結婚・離婚・病気・アパシーなどメンタルヘルスに大きな影響を与えるライフイベントが幾つも起こってきます。

身体の性的成熟にセクシャリティに関する精神の発達や関心が追いつかない場合、あるいは、自分の性的身体に違和感を感じて性的同一性を獲得できない場合には、さまざまな精神的葛藤やセクシャリティに関する精神障害が発症してくる可能性があります。精神医学の分野では、自意識過剰になりやすく外部評価の影響を受けやすい青年期は、異性との恋愛関係や将来の進路選択に苦悩しやすい時期であり、精神的健康が崩れやすい発達段階だと考えられてきました。この青年期を統合失調症などの好発年齢や自殺のリスクが高い世代だと考えるような立場を、青年期危機説といい、体型で分類する気質類型理論(細長型-分裂気質-精神分裂病・肥満型-循環気質-躁鬱病・闘士型-粘着気質-てんかん)などで著名なエルンスト・クレッチマーがこの青年期危機説の立場を取りました。

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この体型気質論は、クレッチマーの臨床経験に基づく統計データから考案されたものですが、現在では、統計処理のサンプル(実験群)が臨床場面の患者に偏っていることなどから、必ずしも体型と気質が結びつくとは言えないと考えられています。しかし、私たちが自分自身に中学時代や高校時代を振り返ると、思春期にある子ども達が必ずしも繊細な感受性を持ち、他者との優劣に敏感で傷つきやすいメンタリティを持っているわけではないことに気づくと思います。

かつて思春期には、破瓜型精神分裂病(ヘベフレニー)が発症しやすいと考えられましたが、実際に自分の周囲で精神病を発症した友人が多数であったかといえば恐らく殆どの人はそういった経験がないのではないかと思います。統計学的にも思春期の精神疾患発症率が他の年代に比べて極めて高いわけではなく、自殺者数も中高年世代よりもかなり少なくなっていますから、青年期は他の発達段階に比べて精神的に危険な状態にはなりにくい世代だとする立場もあります。青年期危機説と対立するこの立場を青年期平穏説といい、アメリカの心理学者オウファーや投影心理検査のロールシャッハの研究で著名なワイナーはこの青年期平穏説の立場を取りました。

青年期が危機的な発達段階なのか平穏無事な発達段階なのかについては、とても大きな個人差があると思いますが、精神障害を発症したり、重篤な犯罪行為を犯して鑑別所や少年院に送致されるような精神的危機が起こる確率はそれほど高いものではないと考えられます。ただ、青年期は、身体の発達は早熟化しているのに、精神の発達や家庭からの自立がそれについていけていないケースが多く、家庭内部での人間関係がこじれていたり、学校環境でのいじめや強い劣等感を感じる体験があったりすると、思春期の子供の精神は容易に危機的な状態に陥り反社会的な逸脱行為や非社会的な不登校・ひきこもりを起こしてしまうことがあります。思春期の育児に関しては、自立を促そうとして完全な放任をすれば愛情不足を感じて反社会性を強めやすくなる恐れがありますし、過度な干渉や甘やかしをしてしまうと家庭からの自立過程に時間がかかってしまったり、社会適応に困難をきたしてしまうケースがあります。

子供の自立心と依存心の程度を見ながら、バランスの取れた適度な刺激のあるコミュニケーションを親子でしていくことが大切だと思います。また、時間を見つけて、思春期~青年期におけるセクシャリティと結婚・家族の問題についての記事を書こうかと思っています。

生態(人間の心)と環境(外部の事象)をつなぐアフォーダンス:情動機能の肯定的な側面について

生物学的な個体としての人間は、絶えず外部環境と相互作用し、外部で生起する事物や現象から意味や使用方法をアフォード(提供・付与)されます。ギブソンの知覚理論が提起したアフォーダンス(affordance)概念では、環境世界に普遍的な意味や価値がちらばっていて、人間の知覚機能はその意味や価値を自動的にピックアップすることが出来るのです。

アフォーダンスとは、環境世界にある事物の自然的特性(物理的特徴)ではなく、「火」が身体を温め、「椅子」に腰を下ろせるというように「環境世界を知覚する生体(主観)」と「環境世界にある事象(客体)」との相互作用なのです。しかし、アフォーダンス(環境が生体に付与する意味・価値・機能)は、主観的で個別的なものではなく、一般的で普遍的なものであることに注意する必要があります。もちろん、生体の進化論的発達段階や知能水準、認識機能の違いによって、環境が生体にアフォードするものは変わってきますが、水は「飲むもの・冷やすもの」といった環境側からのアフォーダンスには一般性・普遍性があります。

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知覚する生体に環境世界にある事象の意味・機能を教えるアフォーダンスは、情報工学や人間工学のインターフェイス開発などとも深く関わっていますし、普遍的な人間のユーザビリティを追求するユニバーサル・デザインにもつながっていく鍵概念なのです。アフォーダンスとユニバーサル・デザインの話も興味深いのですが、情動障害の問題に関する話題に戻ります。人間の情動表現は、その人の性格傾向や行動パターンを予測するのに役立ち、怒りの情動は攻撃行動の準備体制を知らせ、悲しみの情動は行動力低下や抑うつ状態への移行過程を教えてくれます。

認知行動療法では、認知の肯定的変容によって不適応な情動を制御しようとしますが、認知あるいは知覚は、基本的に環境世界の情報を私達に伝え、情動あるいは感情は、基本的に生体内部(内面心理)の情報を私達に伝えてくれます。その差異を理解することによって、私達は『情動の肯定的側面』『情動の否定的側面』をバランス良く認識することができ、情動にも社会生活や人間関係への適応を高める機能が多くあることに気づくことが出来ます。

情動の適応的な機能の一例を、『怒りの情動』をもとにして示してみましょう。情動の中でその表出が最も歓迎されず社会的に禁圧されるのが『怒りの情動』です。怒りは原始的な人間の動物的本能を呼び覚まし、憎むべき他者を殺害しよう傷つけようという攻撃行動の発動を促します。しかし、他者から自分が物理的に傷害されようとする時の、緊急的な自己防衛として怒りの情動が役に立つこともあれば、社会的な不正義に対する怒りを表明することで法的な制裁や社会制度の改善といった目的を達することが出来ます。

いじめや虐待などの不当な攻撃を他者から受けた時にも、適切な怒りの情動を示すことで相手への攻撃行動の準備を伝える事が出来ますが、この場合には実際に行動を起こせば相手を圧倒できるというフィジカルな実力の後ろ盾がないとかえって自分を追い詰めるケースもあるかもしれません。しかし、一方的に他者から傷害されたり侮辱されたり馬鹿にされたりし続けることを、嫌々ながらも笑顔で受け容れ続ければその不当な自己への攻撃や毀損が継続する恐れがあります。

適切な行動(直接的な暴力を伴わない行動・批判精神に満ちた行動)と共に、怒りを表明することが、危機的状況からの離脱や心身両面の自己防衛に役立つことがあります。また、他者に直接的に表明しない怒りの情動であっても、怒りの鬱憤を愚痴として吐き出すことにはカタルシスの心理的安定効果があります。対人関係や情緒不安定にまつわる心理的問題の多くが、適切な情動体験を十分に経験することが出来ないというストレスマネージメントの拙劣さ、情動表現の抑圧と関係していますが、『怒りの情動』の例示だけに限らず情動には『自分がどう行動したいのかを知らせてくれる精神状態のアラームとしての適応的機能』があります。

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情動には効果的な行動を動機づけるアラーム機能と一緒に、『反射的な行動の優先順位を確定する機能』があります。その典型例は、恋愛にまつわる好意の情動です。冷静な合理的判断をすればその相手と付き合うことが自分にとって不利益であることが分かっていても、『その異性が好きだ』という情動的価値判断に従ってその人に接近する行動を優先する場合などです。一般的に、『情動評価による行動の優先順位』は、『理屈よりもまず行動をせよ』という形で私達の行動を動機づけます。

自分の現在の精神状態を情動は敏感に察知して私達に教えてくれます。これを、一般的には生理的嫌悪感や感情的不快感といった言葉で表現することもありますが、『情動のアラーム機能』は、相手との対人関係をどのような方向に推移させれば良いのかの一つの指標になるのです。相手との人間関係の中で、怒りや屈辱の情動が生じれば、その人間関係から遠ざかりたい、出来れば絶縁して二度と会いたくないという行動の動機付けを強化します。反対に、相手との人間関係の中で、喜びや心地よい興奮の情動が生じれば、その人間関係をもっと親密なものにしたい、頻繁にその人と会いたいという行動の動機付けを強化するのです。

一人でいて孤独感や退屈感を感じれば、誰かと一緒に会話を楽しみたい、暇な時間を過ごす娯楽や趣味を見つけたいという動機付けを促すでしょう。不安という掴み所のない抽象的な恐れの感情は、『迫ってくる危険や破滅に対する自己の無力感』のメタファーとして作用します。しかし、不安の対象が漠然としていて特定できないときには、私達はどのような行動や対処を取ればいいのか分からずにより強い不安に襲われやすくなります。全般性不安障害やパニック障害を含む不安障害や強迫性障害という精神疾患が、各種情動障害の中でも特に発症率が高いのは、不安や強迫観念という情動が適切なアラームとして機能しないからです。

対象が定まらない不安感情は、私達にどのような行動を取ればよいのかを動機付けしてくれませんし、無意味な思考や不合理な信念が侵入してくる強迫観念は、私達にどのように対処すれば良いのかを知らせてくれないのです。その為、情動や感情のアラーム機能が効果的に機能しない場合には、専門的なカウンセリングや改善効果の見込める心理療法を適用していく必要が出てきます。また、『情動による価値判断』は、基本的に、遺伝的利益や自己防衛を達成する為の生得的な価値判断なので、文明社会における職業活動や人間関係では、必ずしも適応的な効果を発揮するわけではありません。

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『情動のアラーム機能』『情動の示す行動の優先順位』に従うことが、経済的損失や社会的不利益につながることもあるので注意が必要です。世間知としての『感情的な振る舞いは慎め』というのは相互的な利益実現による社会秩序維持の目的を前提としたものといえるでしょう。また、情動のアラームや情動の指し示す効果的な行動は、万人共通のものではなく、後天的な対人関係の経験に基づく『情動表現の効果の予測』の影響を強く受けます。つまり、笑顔で明るく楽しくしていることで多くの対人的利益を受けてきた子どもは、大人になっても肯定的感情を示して仲間を増やす行動が多くなり、不快感情をあらわにして他者に攻撃や侮辱を与えることで自己防衛の目的を達してきた人は、大人になっても否定的感情で他者を攻撃し屈服させることで利益を得ようとする傾向が生まれやすくなります。

悲哀感情や依存感情にしてもそれを積極的に表現することで、他者から侮辱されて傷つけられたり、愛する人から見捨てられたりする経験をすることがあります。そうした経験を積み重ねると、悲しみや弱みを他者に見せることを回避する行動が生まれやすくなってきます。情動表出は、発達初期の非言語的な一次的コミュニケーションとしての側面も持っていますから、私達は声の調子や表情、態度、視線などによって無意識的に他者と情的なコミュニケーションを取り交わし続けていると考えることもでき、その意味では、言語以上に情動の表出と受容は重要なコミュニケーション手段となっている可能性もあります。

この情的なコミュニケーションを他者の行動を操作する為に用いると、交流分析でいうゲームという不快な状況が展開されたり、演技的で大袈裟な感情表現と自己主張を特徴とする特異な人格像を提示することがあります。

元記事の執筆日:2006/03/18

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