山岸俊男『心でっかちな日本人―集団主義文化という幻想』の書評:行動に結びつき難い人の心,頻度依存行動として発生するいじめ現象:『望ましい行動』を取るコスト・リスクによる葛藤

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頻度依存行動として発生するいじめ現象:『望ましい行動』を取るコスト・リスクによる葛藤


子ども社会のいじめの心理と大人社会のモラル・ハラスメント:集団内での示威と防衛の葛藤


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山岸俊男『心でっかちな日本人―集団主義文化という幻想』の書評:行動に結びつき難い人の心

社会心理学の知見をもとにして書かれた山岸俊男氏の『心でっかちな日本人』では、アメリカ人の個人主義と日本人の集団主義のステレオタイプの欺瞞を幾つかの実験を元に反駁し、いじめ現象の心理学的還元に対して『人間は集団内で自分の心(判断)に従った行動を必ずしも取るわけではない』ということを“頻度依存行動と相補均衡”の概念を元にして説得力のある考えが展開されます。日本経済の雇用慣行であった終身雇用制や年功序列制が何故、かつてほど企業で採用されなくなったのかということを『外部労働市場の拡大により関係特殊的投資(その企業内だけで通用するスキル・知識・人脈への投資)をするメリットが小さくなった』という観点から説明し、『人間は、何故、自分の所属する内集団をひいきするのか?』という人類誕生以来の疑問をゲーム理論を用いて解説していきます。扉書きには、以下のような読書子の興味をそそる引用がなされています。

「思いやりの心を持っていれば、いじめはしないはずである。だから、いじめを続けている子どもたちは、他人に対する思いやりや共感性に欠けた子どもたちにちがいない」

この主張は正しくありません。 なぜ正しくないのかわからない人は、「心でっかち」の罠にはまり、現実を見る目が曇ってしまっているのです。

会社が変われない、いじめがなくならない、構造改革が進まない、……

「心でっかち」は、私たちが抱える問題の本当の姿を見えなくしてしまいます。 そして実は、「日本人は集団主義だ」という一般的な理解も「心でっかち」が生んだ幻想だったのです。

この本で言う『心でっかち』とは、全ての社会問題や人間関係の原因を『個人の心理へと還元してしまおうとする原因帰属の誤謬』のことを指しています。 厳密には、人間は、内面で考えている善悪判断やこうすべきであるという倫理感を持っているという心理学的解釈は正しいのですが、社会環境の要因や集団での数の論理によって『自分の心とは異なる行動を取っているケース』が非常に多いということです。外部から観察する限りでは『その人はそうしたいと考えているからその行動を主体的に選択して取っているのだ』と推測されることが多いのですが、『内面に秘められた本心と観察される行動』には落差があるということです。

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『本音の心』と『建前の行動』は違うということは、改めて考えると当たり前のことなのですが、日常生活では意外に、『物事の原因』を人の心に還元する認知のスキーマ(枠組み)を使って判断してしまうことがあります。例えば、残酷無比な犯罪者を目にすると『彼は元々残酷な性格の素因があり、人を傷つけることを自分で選択したのだ』と判断し、いじめを制止しない傍観者の我が子に対して『お前はいじめが悪いと思っていないから、いじめをしている奴らを止めないのか?』と悲観し、ナショナリズムの熱狂で攻撃的な人々に対して『冷静な理性による判断が出来ないから、全体主義の雰囲気に流されている』といった考え方をしてしまうことがあります。

これを『原因帰属の誤謬』といい、本書では『帰属の基本的エラー』という概念を用いて、原因を人間個人の心理だけに還元する誤謬と危険を実験結果などを踏まえながら述べています。第一章の「日本人は集団主義ではなかった」では、日本社会にも一般論として流通している『日本人は、個人の利益よりも集団の利益を優先する集団主義者が多い』という考えが間違っていることを、アメリカ人と比較して必ずしも集団主義的でないという実験結果を示して語ります。現代日本では、それほど集団主義行動を重視する個人が多くないという印象があるので、この実験結果にはそれほど違和感はありませんが、個人主義と集団主義の定義でどこに重点を置くかによって日本人が集団主義的であるかどうかというのは変わってくる可能性があると思います。

この章で示されている実験は、どれもお金という一次性強化子を用いた実験なので、日常的な利害の絡まない生活文脈で個人主義的な振る舞いをするのか、集団主義的な振る舞いをするのかというところまでは明らかに出来ていないかもしれません。例えば、グループで共同作業をして得られる報酬を平等分配する行動が、集団主義的と定義され、作業能率の悪い仲間と一緒に行動することを嫌ってグループを離脱し「一匹狼としての行動」を取る人が個人主義的と定義されています。

この実験では「一匹狼での行動に、高コストのペナルティを与えた条件」で、日本人のほうがアメリカ人よりも多くグループから離脱したことから、日本人は必ずしも、集団主義的心理特性を持たず、『相互監視・相互制裁の社会環境』によって集団主義の振る舞いをせざるを得なくなっているのだと結論されています。この結論が示す重要なことは、人間の行動は、環境条件に対して最適化されているということだと私は考えます。この本全体から提示される人間の行動原理は、人間は自らが置かれている環境において、獲得利益を最大化できるような行動を、心理とは無関係に取りやすいという事です。

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かつて日本人が集団主義的であると国際的に認知されていたのは、日本人が元々集団の利益に滅私奉公する先天的傾向を持っているからではなく、同調圧力に合わせた集団主義的な行動を取ることが環境適応的であったという事になります。しかし、環境適応的な集団主義と自己実現的な個人主義とを比較した場合に、どちらがより本当の自分の心理を反映したものなのかは結局判断することが出来ないものでもあります。

例えば、『会社の発展の為(家族の幸せの為)に一生懸命、自分を犠牲にして働いてきたのだ』とある人が述懐する時、その人は『本当は仕事をしたくないのに、会社(家庭)の為に無理して働いたのだ』という本心を吐露していることになりますが、実際に働くことを選択して行動したということは『働かない事によるデメリットを回避して、苦労や不快はあっても働く事のメリットを得たいと考えたのが本心ではないか』と逆説的に考えることが出来ます。後で、いじめ問題の社会心理学的な考察の部分にも触れますが、人類の大多数の行動原理は『心理的な快・納得の報酬』よりも『生物学的な生存・繁殖の可能性』に従う傾向があるというおよそ自明な直感的結論と実験結果は一致しています。

ただ、現代社会で増加していると言われる非社会的な問題行動や意欲喪失の精神症状の最大の特徴が、その『生物学的な生存・繁殖を目的とする行動原理』から逸脱している部分にあることには留意が必要でしょう。例えば、今、マスメディアなどで頻繁に取り沙汰されるNEETやアパシー(意欲減退症候群)などの問題行動の根底には、『生物学的な生存・繁殖よりも心理的な快楽・了解を重視した行動原理』が働いていることが多くあります。

俗な表現でいえば、生物としての本能が壊れているといった雰囲気も察知できるのですが、過去の人類の歴史においておよそ自明だった『生存維持のための快楽原則の放棄』というのがNEETの青年の心理だけでなく、自殺問題の深刻化の流れとも関係していると考えられます。がむしゃらになって何が何でも生き抜いてやろう、様々な苦労や困難があるとしても子孫を残しておきたいというような生物学的本能というのは、フィジカルな作業の減る文明社会の成熟につれて脆弱化する傾向はあるかと思いますが、『観念的な自我の確立』が先鋭化し過ぎた結果、精神分析でいう快楽原則から現実原則への切り替えがうまくいかないケースが増えたのかもしれません。

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自分の気持ちの通りに行動せず、周囲や環境の圧力(制約)に従属するという事(現実原則の受容)は、欺瞞的で抑圧的な人生を生きているというイメージを私たちに与えますが、現実社会において自分の気持ちの通りにしか行動しないという事(快楽原則の保持)は、余ほど卓越した才能か的確な人生戦略を持っていないと不可能なことでもあります。しかし、自由と華やかさが横溢する現代社会では『本当になりたい自分になる・自己実現の人生を貫く・クリエイティブな職業に従事する・クールにスマートな人生計画を立てる』といった快楽原則をアイデンティティ確立の基盤に置こうとする自己啓発や進路選択が主流になっています。

飽くなき理想的な生の追求は、各人の自由が容認された民主社会の望ましい風潮であると同時に、現実原則に阻まれながらも心理的な要請に応えたい人たちの精神的閉塞感をもたらす一因にもなっていると考えられます。第二章以下でも、「いじめ行動の生起と抑止を起こす頻度依存行為」や「タジュフェルの社会的アイデンティティ理論の反駁」「ゲーム理論による内集団ひいきの解説」など興味深いテーマについて実証的な研究結果と共に斬新な解釈が加えられていくのですが、また時間を見つけてもう少し感想を書くかもしれません。

頻度依存行動として発生するいじめ現象:『望ましい行動』を取るコスト・リスクによる葛藤

前回の記事で書いた『心でっかちな日本人―集団主義文化の幻想―』の感想の続きを書きながら、集団の中で起こる個人の相互作用について考えてみます。この書籍は社会心理学の教養書のジャンルに分類されると思いますが、社会心理学とは、複数の他者によって形成される社会的場面での『個人・集団の相互作用』を科学的手法を用いて研究する学問です。複数の他者がコミュニケーションをすれば相互作用が生まれ、個人で判断して行動する場合とは違う行動のアウトプットが為されます。社会経済的な環境要因によって行動は変化し、帰属する共同体の文化慣習によっても行動は変わってきます。

しかし、個人間の相互作用で最も重要になってくるのは、対人コミュニケーションの要因であり、通常、私たちは自分の取った行動が、相手にどのような影響を与えどういった反応を返してくるのかという事を半ば自動的に判断して行動を選択しています。厳密には、自分の取った行動や態度とは無関係な反応が相手から返ってくることもありますが、人間の行動原則として、好意には好意が返され、悪意には悪意が返されるという返報性は多くの人が経験的に理解していると思います。集団内の社会的序列は、最近の自由を重視する時代風潮では煙たがられたり、敬遠されることが多くなりましたが、上司・部下の関係や先輩・後輩の関係を典型とした序列関係にも社会的有用性があります。

社会的序列は、『相手に対してどのように振る舞うべきか』という思考を節約して、社会文化的に規定された役割を敢えて選択することで対人関係の複雑性を縮減します。利害を同じくする集団に帰属する序列関係では、相互作用のパターンが固定的になるので、どのような行動や態度をとればいいのかという事についてあまり迷わなくてよくなるので、規律ある集団活動への適応が良い人などは、返って、そういった固定的対人関係のパターンを気楽に感じることもあります。ただ、ヒンズー教のカースト制度や江戸時代の士農工商のように階層移動が不可能か困難な制度の場合には、対人関係の振る舞いに関する複雑性は縮減されますが、一方で、人権侵害の問題が生じたり、個人の人生の進路が生まれながらに規定される不利益が生まれます。

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階層移動を許さない身分制度には問題がありますが、現代社会でも『社会的属性に付与された役割規範』は生き続けていて、社会学者のアーヴィング・ゴフマンが構想した共在論の秩序も、社会で各個人が役割規範から大きく踏み外さない事によって成り立っています。社会的状況の中で、私たちは、ある程度自動的に自分の演じるべき役割に従って行動しているわけですが、その事自体は、人間が社会的動物である以上、乗り越えられない規則として認識されています。現在の自分の属性と結びついた役割や他者から期待される働きを担うことは、最適化された生存戦略の一つだと考えられるからです。

前置きが長くなってしまいましたが、本の内容の『いじめ現象の発生維持のメカニズム』の話に戻ります。著者の山岸俊男氏は、『いじめがなくならないのは心の問題か』という問題提起を行い、いじめ問題を心理的原因のみに還元することの過ちを明らかにしていこうとします。つまり、一般的ないじめの原因とされる子どもの心の荒廃や思いやりの欠如といった心理学的解釈とは異なる視点でいじめを捉えるということです。具体的には、『頻度依存行動』『相補均衡』の観点から調査データをもとにいじめ問題を考えていきます。

ただ一つ留意する必要があるのは、このいじめ問題の研究は、『いじめの発生原因・いじめる生徒の個人的要因』を明らかにするものではなく、『発生したいじめの存続原因・いじめの傍観者問題』を明らかにするものだということです。クラスという集団内で、他の生徒の反対を許さない程度の権力を持った『いじめる生徒・いじめる生徒の側近(積極的協力者)』の存在がなければ、いじめという集団現象そのものが発生しないという事は自明なことですが、ここでは、いじめる生徒の発生そのものを抑止する方法などが述べられているわけではありません。

いじめる子どもにも、多くの場合、いじめ行動を取りたいと思うようになった個人的要因(気質性格・精神的ストレス・学業不振・情緒不安定・親子夫婦関係の不和・偏った権力志向)がありますが、この書籍では、積極的にいじめる子どもの要因やその教育指導ではなく、傍観者となる子どもの心理・行動に焦点が置かれています。

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■頻度依存行動・相補均衡の帰結としてのいじめ

第二章の『心でっかちの落とし穴』では、いじめの傍観者問題が実証的に考察されます。その前提に、『悪いことだと認識していて被害者への思いやりがあっても、悪い行為に対する制止行動が取れない場合がある』ということがあり、その事例として、ベトナム戦争下における民間人虐殺や暴力団風の男たちの女性への暴行が上げられています。この2つの事例は、厳密にはいじめ現象と異なるポイントが多くありますが、『自分一人が抵抗しても無駄であり、抵抗する事によるリスクと不利益が大きい』という認知がある点で共通性があると考えられます。

戦争時の集団行動への異議申し立てに関する問題はともかくとして、暴力団や暴走族といった集団に対して、個人で正しいことを主張し行動できるかどうかというのは、いじめ集団内で、傍観者が『いじめ反対』を表明し行動できるかということと、精神状態として類似している部分があるといえるでしょう。簡単に言えば、『個人(自分)の自己犠牲によって得られる状況の改善効果が殆ど望めない』という悲観的な認知を抱く時に、人は善悪の判断が出来ていても行動を起こすまでの閾値が非常に高くなり、『見て見ぬ振りをする行動』を選択する確率が高くなります。

『大きなリスクを取って、間違っている事を正す行動』を取る勇気には敬意を払うべきですが、やはり現実問題として、集団内で圧倒的な力関係の差がある時には、『数の論理』による一定の優位性がなければ状況を改善できないことが殆どです。いじめ問題においても、『数の論理』がいじめを止められるか止められないかの閾値を左右するというのがこの章のテーマであり、『頻度依存行動としてのいじめ』とは、『クラスの権力者のいじめに対して協力・傍観・否定の行動』を取っているクラスの生徒の数(頻度)に依存した現象であるということを意味しています。

学校教育では、一般に『みんながしているからしていいというわけじゃない』といった指導が為されますが、これは倫理的に正しい言説であっても、自分が正しい行動を取ることによって受けるコスト(不利益・被害・損失)があまりに大きい場合には現実味のない言説であるという事になります。大人社会であっても、政治・経済・地域活動など様々な場面で頻度依存行動が見られ、何かに反対することで、自分ひとりだけに責任やコストが覆いかぶさってくるような行動は大多数の人がとりません。

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匿名でインターネットを利用している場合には、極端なスタンスで正論を述べることも出来ますが、実際的な利害や暴力の脅威がある場面では、なかなか、正論の理念に『コスト(脅威・危険・不利益)の大きな行動』を一致させるのが難しいというのは誰もが常識として感じていることです。子ども社会でも同様に、いじめを制止する行動が自分ひとりの不利益やいじめを招くのであれば、多くの傍観者(中立的立場をとる子ども)は動かないと考えることが出来るのですが、反対に、ある程度以上の生徒が反対するのであれば、反対の立場をとってもいいという傍観者の生徒が多くいるということでもあります。

これは、集団内の適応戦略としての認知モジュールとして、ある程度生得的に備わっている認知傾向であり、個人の倫理観や善悪判断も関係してくるものの、『望ましい行為』『大きなコスト』がセットになっている場合には、ある程度の賛同者や協力者がいないと人は行動を起こさないという現実を説明するものでもあります。いじめ阻止行動は、自分以外の人の行動の頻度(数)と相互作用する行動であり、いじめを阻止するリスクを大人数で分担できるようになればなるほど、その行動を取れる生徒が増えていきます。

いじめの積極的賛同者で強力な影響力を持った生徒が3人いても、30人クラスで3人だけが孤立すればその影響力を以前のように行使していじめを継続できないということですが、無論、これは飽くまでモデルですから実際のいじめ状況では更に多様なパターンが考えられます。質問紙のような調査法によるいじめのモデル状況では、何人以上がいじめ阻止の行動をとればいじめが終わるかの閾値(限界質量)があることが示されています。調査結果によって作成されたグラフでは、ある人数以上がいじめを阻止すればいじめのない状況へと均衡し、ある人数以下しかいじめに反対しなければいじめ状況の継続で均衡するということが読み取れるわけです。

いじめ阻止行動を取る人数を「横軸」、X人がいじめ阻止すれば自分もいじめを阻止するという人数を「縦軸」においた調査結果のグラフでは、30人クラスで15人がいじめ阻止行動を取れば加速度的に阻止に回る側の人数が増えていじめのない状態で均衡するようになっています。この頻度依存行為を取る生徒達の数が、一定ラインである15人を閾値(限界質量)として、最終的な結果(均衡)が変わってきます。この他者の行動頻度との相互作用で生まれる集団の均衡を、山岸俊男氏は『相補均衡』という用語で定義しています。

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何人の友人が協力していじめを阻止すればいいのかというのは、調査段階での回答ですから実際のいじめ状況で、子ども達がどちらの行動を選択するのかは微妙な部分がありますが、横軸の阻止者を多くする働きかけや状況の変化が有効ないじめの解決法であることは確かだと思います。いじめを指揮するボスの生徒そのものを厳しく指導したり、他者を思いやる倫理を指導したりする方法もありますが、指導や教育がうまく効果を発揮しない場合には逆効果となって更に隠蔽された場所での分かりにくいいじめが行われる場合もあるので難しい部分があります。いじめを指揮する生徒が人望を集めていたり人気が高い場合などには、更に、いじめ阻止行動の頻度を高めることが難しくなりますし、いじめられている生徒をその状況から助けてあげたいと考えている生徒が潜在的にどれだけいるのかにも大きく左右されるでしょう。

頻度依存行動としていじめを理解する視点から分かる事は、いじめを積極的に止めない子どもであっても、本心では止めたいと考えていていじめは絶対許せないという判断をしているかもしれないというところまでであり、それ以上の事柄は、目で確認できるいじめ状況の変遷から類推するか個別に子ども達に面談するかしか方法はないという事になります。頻度依存行動は、大多数の人が承認して賛同する行動や基準に従ったほうが、利益を大きくして損失を減らせることが多いというプラグマティックな要因によって支えられていて、社会で見られる行動の多くが頻度依存行動の観点から解釈することが可能です。今回は、書籍にあるいじめの頻度依存性を下敷きにしていじめ現象を見ましたが、いじめの心理学的な理解についてもまた改めて書きたいと考えています。

子ども社会のいじめの心理と大人社会のモラル・ハラスメント:集団内での示威と防衛の葛藤

以前の『いじめの頻度依存性に関する記事』の補足で、傍観者のいじめに対する行動選択の話とは別に、心理的問題に原因を帰属する観点での記事を書きかけていました。ある程度、内容がまとまったので記事をアップしておきます。いじめをする子どもに直接的に、『何故、○○君をいじめるの?』と質問をぶつけても、大抵は明確に言語化された原因が語られることはなく、『学校が面白くないから、暇つぶしにやってるだけ。うじうじとして何となくむかつく奴だからいじめてしまう。みんなの注目を集めるのが快感だった。』といった返答が返ってくるだけでしょう。

いじめをする子どもの原因は、家庭・学校での精神的ストレスや劣等コンプレックス、家庭環境の問題、成育歴における外傷体験、幼少期のしつけの誤り、共感的コミュニケーション能力の欠如など様々なものを想定することが出来ますが、どんなに家庭環境や個人の性格要因を探求しても明確な原因が出てこないほうが多いと思います。何故なら、いじめの原因の多くは、子ども同士で形成される社会的な場で、周囲の友人から一目置かれる優位な地位につきたいとか、周囲の関心や注目を集め続けたいという単純な理由であり、半ば本能的なものだからです。

大人社会でもいじめ現象がないわけではなく、一定の社会常識や倫理の修得が期待される中高年齢層、老年層の集団などでも、いじめ現象が起こることがあります。この場合にも、その人の精神的不遇感や生活状況への不満感は指摘できるにせよ、基本的には、自分が職場でのイニシアチブを維持し続けたいだとか、新入りのアルバイトに大きな態度を取らせたくないとか、周囲の承認や関心を自分に惹きつけておきたいだとかいった些細な理由が原因になっています。

他者の欠点や弱みをネタにして『価値の引き下げ』で笑いを取り快感を得るというコミュニケーション形態が支配している場というのが、いじめが常態化している環境といえます。また、他者の価値の引き下げであるバッシングや人格攻撃でしか共通の話題を提供できない人について、最近では、モラル・ハラスメント(精神的いやがらせ)などの用語で説明されることもあります。そういったモラル・ハラスメントの刺激と優越感の快楽反応が結合すると行動主義的ないじめ行動の条件付けが成り立ちやすくなりますが、モラルハラスメントの要因には個人の気質・性格要因や同調圧力、社会的ストレスなどの環境要因が考えられます。

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あまりに苛烈な心身に障害を与えるレベルのいじめや陰湿さや執念深さの限度を越えたモラルハラスメントを嬉々として行える人の場合には、人格構造の歪曲や性格傾向の偏倚の問題を指摘できることもあります。 多くのいじめは、一過性で頻度依存的なものが多いと思われるので、生涯にわたって加虐行動や嗜虐嗜癖を見せる個人は少ないと考えられます。積極的にいじめ行動を取っていた人であっても、進学・就職・結婚・出産などのライフイベントを機会にして共感性や道徳感情を発達させていき、社会環境への適応を高めていきます。

一定数の人数が集まる必要があるという意味では、大人のいじめも『頻度依存行動』であり、幾らいじめが好きな個人やモラル・ハラスメントで気晴らしする個人がいても、ある程度の賛同者や協力者がいないといじめ行為は継続することが出来なくなるでしょう。とはいえ、集団の閉鎖性と固定性の高さや精神発達の未熟性を考えると、小学生や中学生のいじめの問題のほうがより深刻化しやすく、場合によっては、重篤な結末をもたらすこともあるので、周囲の大人たちによる適切な対応の緊急性が高いといえます。

子ども社会では、中学生くらいの年代までは、明瞭な力関係の階層構造が築かれていて、誰もが自由に自分の意見を発言できるわけではなく、殆どの子どもが集団内の相手の立場によって話し方や態度、振る舞いを使い分けています。クラス全体の雰囲気を左右する影響力を持った子どもがいじめを開始して悪い方向にクラスを誘導すると、特定個人へのいじめが発生し、傍観者は反対の声を上げることが難しいのでいじめが維持されやすくなります。特別な反社会性を伴う危険性の高いいじめを執拗に行い続ける子どもであれば、何らかの精神発達上の問題や人格形成の偏倚を指摘できるかもしれませんが、高校生くらいまでの年代であれば人格形成や精神発達に十分な可塑性があるので、いじめが何故悪いのか分からないといった子どもでも普通はある程度の年齢で理解が出来るようになります。

そういった意味では、いじめる側の生徒が長期的観点での反社会性や犯罪履歴を示す恐れは低いのですが、その一方で、いじめられる側は長期的な精神的不調や適応性の低下を示すことがあり不利益は大きいです。発達心理学的には、小学生くらいの年代から、自分と友人との相対的な力関係やさまざまな基準による優劣の区別に子ども達は敏感になってきます。いじめの根底にある心理も、集団内で優位なポジショニングを得るための示威行動であったり、周囲から排除されないための自我防衛機制の現れであったりします。

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義務教育の段階では、子ども達は自由に自分の所属する集団(クラス)を選択できない為に、重要な発達課題の一つとして『クラス内の友人関係への適応・集団内での能力発揮と自己主張』が非常に大きな意義を持ってきます。エリクソンは、ライフサイクル論で、児童期の発達課題を勤勉性に置き、その獲得に失敗すると劣等感を持つと簡潔に説明しました。児童期は、精神分析では潜伏期といわれるリビドーが抑圧される時期で、親の子育ては意外に楽な時期なのですが、子ども社会での対人関係への適応や調整は意外に難しい時期でもあります。

また、幼児期に抱いていた自己の全能感が去勢されて、友人同士の関係の中で自分の欲求や願望が実現出来ないケースが多くあることを学習する時期でもあります。子ども達は、学校で思い通りにいかない友人関係を経験し、自分よりも強い他者や賢い他者との出会いを通して、自分の相対的な位置づけというものを意識し出します。とはいえ、どんなに腕力が強い子どもであっても、どんなに優秀な知能を持つ子どもであっても、相互的な利益を与え合わなければなかなか良好な対人関係は維持できません。多くの子どもは、自分の欲求充足を延長する学校生活の中で、どのように振る舞えば相手の好意や協力を得られるか、どのような行動を取ると相手の攻撃や反発を受けるのかという人間関係の基礎を体験的に習得していくことになります。

大人社会でも、モラルハラスメントやパワーハラスメントの問題は絶えず集団活動の中で生起する可能性があるわけですが、その根本にあるのは最適な生態学的地位を手に入れたいという動物的本能であり、集団環境に適応する為の行動が、排他的攻撃性や価値の引き下げの要素を帯びる時にそういった精神的被害の問題が起こってくると考えられます。その意味では、自己の肯定と他者の尊重というアサーティブな自己主張の精神発達は成人以降も続き、自己の利益と他者の協力とを同時に得る集団内での対人スキルの習得は生涯の課題なのかもしれません。

■書籍紹介

モラル・ハラスメント―人を傷つけずにはいられない

元記事の執筆日:2006/03/30

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