『何故、人を殺してはいけないのか?』、個人の倫理と共同体の倫理の乖離と接近,『神の視点・自我意識(パーソン論)・共同体利益』と関係した倫理規範の根拠:生命肯定の倫理

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『神の視点・自我意識(パーソン論)・共同体利益』と関係した倫理規範の根拠:生命肯定の倫理


『集団・個人の内部と外部』を切り分ける『ヒトの認知モジュール』:愛の証明としての自己犠牲の元型


『同じ穴の狢コミュニケーション』と『尊厳保持のコミュニケーション』:人の本能と倫理の価値承認を巡って


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『何故、人を殺してはいけないのか?』、個人の倫理と共同体の倫理の乖離と接近

「琥珀色の戯言」に、「バーチャルな「勝ち組」に捧ぐ」という興味深い記事があり、『排他的な愛国心』『戦争行為の倫理性』について考えさせられました。戦争と平和、愛国心について考えたこと全てを言語化する余裕はありませんが、戦争と倫理を前提として考えた事柄について記録を残しておこうと思います。「はあちゅう主義。:小娘が何か言ってます」の記事で、「なんで人を殺しちゃいけないのか説明してください」と質問する高校生を取り上げ、そういった質問には論理的説明は不要であるとしています。

『そういったタブー(社会的禁忌)は、タブーのままにしておいたほうが良い』とする考え方もありますが、そこで終わってしまうと、話が、既存の社会通念を確認する道徳論として終わってしまうので、少し話を広げてみようと思います。『何故、人を殺してはいけないのか?』という問いは、人類の営みに対する普遍性の高い問いかけであり、本能を抑制できる人類だけにしか問い得ないという意味で固有の疑問と言えるでしょう。本能を抑制できるというのは、換言すれば、『自然の摂理』から意識的に離れられるということです。ライオンはシマウマを狩って食料にしますが、ライオンの殺傷行為に倫理的罪悪を感じるのは妥当なことではありません。

人間以外の動物には、明瞭な自我意識が存在しない為、自己の行為と行為の結果に付随する責任が結びつかず、行為に対する賞罰を与えるような仕組み(法・権力・国家・社会世間)が自然界には存在しないからです。基本的に、道徳的な罪悪や法的な責任は、人間理性・共感感情(同感感情)にその根拠を持つと考えることができ、その為、現代の民主主義国家は、自我意識や自己アイデンティティが確立している者のみに法的責任を追及する傾向があります。現実と空想、自我と他者の境界線を認識する人間理性のないものには、そもそも倫理的な善と悪を判断する精神機能が初めから存在していない為に、行為の結果を問わず法的責任を問うて処罰することは出来ないという考え方が法制の基本にあります。

『何故、人を殺してはいけないのか?』という問いは、自分自身の攻撃衝動や殺害欲求の有無と無縁に、考えることが好きな人は一度は考えてしまうことではないでしょうか。また、殺人にも、大きく分けて、動機(原因)に共感可能で了解可能な殺人もあれば、利己性や残虐性への怒りや義憤が湧き上がるようなものもあります。『殺人は悪であるという倫理判断』は、『そういう風に決まっているから、常識として直感的に分かる取り決めだから突き詰めてはいけない』という根拠で説明するだけでも、人間社会における殺人禁忌の原則は揺るがないでしょう。

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大部分の人は、『自分が生き続けていたい、愛する人に生き続けて欲しい、痛みや苦しみの感覚を味わいたくない』といった自然な生の欲求や本能的な死の恐怖を、他者に共感的に投射することによって、殺人や傷害を否定する倫理を形成していきます。反対に、あまりに生存淘汰の厳しい弱肉強食の環境や他者にいつ殺されるか傷つけられるか分からない危険な人間不信の状況で育った場合には、『敵と認知する他者』への殺人・傷害を肯定する倫理(正義を根拠とする攻撃性)を身につけてしまう場合もあるかもしれません。

『何故、人を殺してはいけないのか?』という問いを受けた大人はどう返すべきでしょう。そんな下らない質問を真顔でする少年を怒りつけて否定すべきだろうか?将来の犯罪者予備軍として要警戒の対象とすべきだろうか?不気味な思索を嗜好する者として共同体(仲間集団)から排除すべきだろうか?それとも、殺人は悪であると覚えて、人を殺さないようにしておけばそれでいいと諭すだろうか?

私はそういった倫理の根拠を言語で穿とうとする少年に対して、『あなたは、何故、人を殺してはいけないという倫理について興味を持ったのだろうか?』とまず問うてみたいなと思います。そして、『君は、具体的に人を殺したいと考えたことがあるから、そういう疑問を抱いたのか?それとも、純粋に人間の心理や社会、倫理といった事柄への知的要請によってそういう疑問を考えてみたくなったのか?』という事を聞いてみたいです。多くの人間にとって、切迫した殺人の必要性、抑えがたい殺人衝動、病理的な反社会性は日常生活と無関係なものだから、その少年に本当に殺人をしたいとする衝動や欲望があるのかを確認するのが先決だと思います。

真剣に倫理について考えようと思っての質問であれば、こちらも少し腰を据えて対話を通しながら善や悪の根本について話し合ってみたいと思うし、興味本位でとりあえず大人の反応を見ようとしてした質問であれば、無難な回答を与えてまだその問題について考えたいと思っているのかを見てみたいと思うでしょう。もし、そういった実際の殺人に結びつきかねない危険な衝動や猟奇的な欲求が強まっているのならば、強迫的な殺人衝動や他者への攻撃欲求を緩和する心理的ケアやカウンセリングを適切に行っていかなければならないと思います。

但し、行動や欲求と切り離された疑問や考察であるのなら、哲学的な思索や倫理学的な考究として受け止めるべき問題といえるかもしれません。こういった行動や実利と切り離された倫理学領域の疑問や問いかけというのは、大人になればなるほど常識や規範、社会の決まりごととして片付けたくなりますし、基本的に情緒でなく言語で深く考えるのは面倒な作業です。

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何故、殺人という行為を人類は禁止してきたにも関わらず、時に、集団としての人は、他者(外部にある他者)を殺してしまうのだろうかと考える事は、人類の歴史過程における国家と個人の倫理性を考究することにつながると思います。殺人を悪だとする倫理を伝承する価値は、本当の善悪の根拠について自分の頭で徹底的に考えてみた人でないと分からない部分もあると思います。倫理とは自己の内面にある規範であり、外部の常識に根ざす社会道徳や罰則による威圧で規制をかける法規範とは異なるものです。

社会道徳や社会通念として成立する善悪は、場の雰囲気や数の論理に呑み込まれる恐れがあり、「みんながやっているから正しい。この場では、周囲に合わせて置くほうが良い」という善悪の基準の揺らぎが生まれます。法規範は、個人の権利や生命を前提とした善悪ではなく、飽くまでも国家や集団の秩序維持を最優先事項とする善悪の判断基準で、法規範には労働行政上の意図や政治的な配慮といった倫理的善悪とは無関係な要素が多分に入り込みます。

また、法規範と政治・体制は切り離すことが出来ませんから、政治体制が絶えず倫理的な判断をし続ける幸運によってのみ、『法と倫理の一致度』は高まるという事になります。

■戦争のリアリティの欠如と共同体倫理:死なない指導者の戦略思考と確率論的に死ぬ私

『何故、人を殺してはいけないのか?』という問いかけそのものが、非常識である、犯罪の危険があるといった反論と共に押さえ込まれることはあまり望ましいことではない。常識や倫理に違背するどんな問題や疑問であっても、それを問いかける行為そのものを断罪してはならないとするのが、言論統制を行わない民主主義憲法の規定する言論・表現の自由や思想信条の自由を保持する鉄則であろうと考える。こういった人間社会の善悪の起源や根拠、規範を問う学問分野に、倫理学という哲学の一領域があり、人類は理性的営為の始まり以来、意識的にせよ無意識的にせよ『何が正しくて、何が間違っているのか?』『何が善で何が悪なのか?』を問い続けてきた。

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現代においても、『あなたは如何に生きるべきなのか?』という人生の進路選択とその人が持つ善悪の倫理規範は無関係ではありえないのだから、誰もが倫理の問題と無関係では済まされない。現時点における倫理規範の究極的根拠、実効性のある倫理の起源は、共同体の存続・発展に貢献する行為・判断を善とし、共同体の消滅・衰退をもたらす行為・判断を悪とするものである。そういう根底を考えなければ、単純に『死の恐怖と生の欲求という生物学的本能』を根拠として、互恵的な安全保障契約と考えることも出来る。いずれにしても、日常的な人間の倫理(善悪)の前提として『生命の肯定感覚』があることは確かなことである。

その例外として、『生命の肯定』を超えた『全体の利益・超越的な観念・宗教的政治的な権威』などがあるが、生命の肯定を前提とするほうがより普遍的な人間心理に基づく倫理観であるといえるのではないかと思う。個人と集団、俗世と来世、生命と観念の価値規範体系が逆転する倫理的な場が、国家やテロリストの戦争事態であり全体主義(ファシズム)であり、宗教的原理主義である。そういった『捩れた倫理が支配する場』では、日常的な普遍性のある生命を大切にする倫理判断が容易に逆転して、集団の決定が個人の生命よりも価値があるとされたり、来世の為に俗世の幸福を捨てろと言われたり、観念的な神や思想の為に自分の生命を捧げるように言われたりする。

『捩れた倫理の場』では、個の抵抗や反論などはあっさりと圧倒的な数量の強制力や公的な権力で捻じ伏せられてしまい、個人は恐怖と不安の為にそれまでの生命肯定の倫理を主張する勇気を持てなくなる。古代ギリシアのアテネやスパルタといった都市国家では、共同体の敗北と消滅は、個人の死や奴隷化と直結していた為に、生命を掛けた共同体の防衛が義務とされ誇りとされていた。そういった排他的な国家間闘争を前提とする共同体倫理、運命共同体以来の歴史を背負う集団主義の倫理を、私たちの社会は今のところ乗り越え切れたとはいえない。

倫理判断の究極的根拠という意味では、自由主義と個人主義を掲げるアメリカ合衆国が『戦争行為による殺人(民間人への誤爆)と自国民の戦死』を国益と国防で正当化するように、私たちの世界は古代ギリシアやローマ帝国の時代から全く前進しておらず、『敵・味方の二元論のパラダイム』に留まっているという解釈も成り立つのである。トマス・ホッブズの万人闘争の無秩序の世界観が私たちの無意識(生理学的な脳構造)には植え付けられており、心の奥底で『人は人に対してどんなに残酷で無慈悲なことをするか分かったものではない』という人間不信や闘争本能を抱き続けているのかもしれない。

異質な社会文化、思想宗教、価値観を持つ相手に対して、私たちは人間不信を抱きやすいし、誠意を尽くして真摯な議論を尽くしても相手にはどうせ伝わらないという諦観を持ちやすい。対話不可能と力を持つ側が判断したときに、力を持たない側は生存の危機の緊張が高まり暴発してしまう。政治的な挑発や気分を高揚させるプロパガンダによって危機意識や自衛本能を煽られると、それまで戦争に対して否定的であった人も『このままでは、自分や自分の愛する家族が、野蛮な外国の侵略によって傷つけられるのではないか?理性的思考の出来ない相手との交渉は無理だから、やられる前にやってしまうしかない』という倫理判断の麻痺や迷妄に陥ってしまう。

これは、アメリカ合衆国の国民とテロリストとの間の対立構図であるし、元来、理性的で倫理的な思考に基づく判断が出来るはずの知識人や指導者が嵌りこみやすい『戦争正当化のロジック』でもある。中には、国民の犠牲と自己の名誉とを計算して戦争行為に及ぶ確信犯の独裁的リーダーもいるかもしれないが、意外に、『本当に人殺しをし合う戦争でしか解決方法がないのだ』というロジックを複雑な思考の果てに構築してしまう知識人や政治家もいるのではないのだろうか?過去に書いた記事にある『同じ穴の狢的コミュニケーション』に負のフィードバックがかかると、『自国が相手の侵略や攻撃の前に裏をかいて先制攻撃をしようと企んでいるように、相手ももしかしたら「同じ穴の狢」で自分に先制攻撃をしかけてくるのではないか』『口では平和的解決だと言っているが、人間は所詮利己的なもので信じられたものじゃない』といった思考経路に容易に陥る。そして、ゲーム理論的な葛藤状態の中で相手を如何にして出し抜いてやろうかと画策し始める。

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もちろん、現実には、その予測や不安が的中することもあるが、少なくとも現在の世界では、国家間戦争で不意打ちを食らわせることは、国際社会の総スカンを食らう自滅的な行為と見なされる。その為、アルカイダなどのテロリズムが出てきて、国家に予測不能な奇襲攻撃のテロを仕掛けてくるまでは、国家による戦争行為に否定的な国際社会の空気が(一部の国家を除き)醸成されかけてきていた。倫理的善悪についていえば、共同体や国民国家の存続と発展が全ての価値や倫理の源泉であるという認識が、現在の日本における国民の大多数に浸透しているわけではないが、周辺国の軍事的膨張の危機によって国家主義が盛り返す可能性はあるだろう。

日本では、多くの人が、自分の子どもや愛する人が戦地に赴き戦闘行為をすることを回避したいと考えているが、それは「戦争放棄した国家に、隣国は戦争を仕掛けてくることはないだろう」という楽観的な予測を孕んだものである。

■戦争と平和にまつわる家庭と学校の教育の影響度

戦後教育で、『国家の利益のために個人の生命を犠牲にすること』を罪悪視する教育が行われきたこともあり、戦後は国家(厳密には政府と法制)の命令によって個人の生命を奪うことを正当化することが日本では難しくなった。前述した楽観的予測が平和ボケと非難される理由の一つは、日本の国家は国民に戦争を命令できないが、他国は命令することが出来るということにあるのだが……この抜本的解決は、戦争を命令できる国が命令できなくなる政治改革をするか、そういったリーダーを国民が支持するかしかないが現状では難しいだろう。

戦争否定の思想を、軍事的バックボーンのない政治は非現実的で、生存本能を弱める柔弱な教育だとして批判する人もいる。近代国家の正当性の根拠が、軍事力(実効的に民衆を抑止できる仕組み)にあるという事を前提にすれば、その現実志向の考え方にも一理ある。しかし、それは飽くまで為政者や軍幹部としての視点に立脚したものであることもまた確かだ。古代国家で、自ら戦場に赴き剣戟を交わした将軍は兎も角として、現代の政府で指揮を執る為政者の多くは、自分自身が戦場で銃殺されることもなければ、泥水をすすることもなく、敵を射殺したり、刺殺する経験もする必要がない。

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戦死者や死傷者の統計学的な数字を眺めながら、哀悼の念を捧げ、名誉を与える顕彰をするかもしれないが、為政者や幹部の目には個々人の実際的な生命の喪失や生活の終焉が映ることはない。出来るだけ被害を最小限度に抑えて勝利を収める為の戦略を練ったり、どの地域にどれだけの軍勢を出して制圧するのか、どの国と同盟の為の外交交渉を進め、どの国の裏をかいて電撃作戦を展開するのかといった命令を出す仕事にのみ従事できるのであれば、戦争をそれほど悪いものではないと認識する若者がいてもおかしくない。

シミュレーション・ゲームや世界情勢や国家戦略の雑談、エキサイティングな映像で展開される戦争映画で体験するバーチャルな戦争は、人間に心理的な高揚感や爽快感をもたらし、暴力衝動や支配欲の代理的満足を与えてくれることもある。人間は、脳の構造や生理においても動物的本能や原始的欲求を完全に捨て切っているわけではないので、暴力による支配や軍事的な栄光に対する潜在的な衝動のようなものを持っている。

フロイトの精神構造論でいうエスの心的装置は、そういった生命力の根源となる原始的本能を意味するもので、理性的な文明人であってもエスの影響から完全に自由にはなれない。刺激的な対話や美味しい食事、快楽を生む性行為、身体をフルに使うスポーツ、スピードで爽快感を得るドライブ、創造的な芸術活動などさまざまな行為・趣味で、その衝動を適切に満たして、他者を傷つけないようにするのが文明社会に生きる私たちのエスの発散方法(昇華)だといえる。

日本国憲法の説く平和主義の遵守は、人類の歴史的発展を一歩先取りした国家と国民の関係であるように思えるが、これを現実に反した理想論だと批判する人の意見は、その多くが為政者や戦略家の視点に根ざしたものである。しかし、現実に為政者や戦略家として戦争に関与できる人の数は非常に少ないので、本当に自分がその立場で戦争に参加できるのかといえばそれは絶望的であると言わざるを得ない。

「琥珀色の戯言」の記事にあるように、戦争肯定論を説く人は、戦争否定論を語る人に先駆けて真っ先に死ぬ覚悟があるのだろうかという事に対しては懐疑的である。(以下の引用部では読みやすいように、改行を入れさせて貰いました)

ちょっと脱線しますが、僕は常々ネットで「愛国心」とかを煽っている人たちに対して違和感を感じているのです。それはなぜかというと「じゃあ、そういう君たちは戦場に行く覚悟があるの?」という一点に尽きるのですよ。

国としての「日本」が「北朝鮮と戦って、拉致被害者を取り戻すべき」だという理論はわかるのですが、その一方で、もし戦争をやるとしたら、ひとりの人間としての「自分」は、北朝鮮の兵隊と血を流して戦って死ぬかもしれないのですよ。

「そんなの自衛隊がやってくれるさ」「アメリカ軍がやってくれるさ」って、本当に思っているとしたら、それは「平和ボケの人びと」と同義か、あるいはもっと無責任な人びとなのではないでしょうか。

いや、ブログとかネットって、「自分がオピニオンリーダーになったような気分に浸れるツール」ではあるんですけど、客観的にみれば、僕らなんて戦争になれば一兵卒でしかなくて、「プライベート・ライアン」の冒頭の海岸の戦闘シーンで腸をべろーんって出して死んでる人とか、ジオングと闘っているガンダムに「じゃまだ!」ってちょっと蹴られてやられちゃうザクとかそういう存在なわけですよ。

にもかかわらず、「天下国家の立場を代弁する」というのは、自分自身は偉くなった感じで爽快なのかもしれないけれど、リアルの自分の首を絞めまくっているということなのです。それでさ、そういう「愛国者」たちが増えていることで一番喜んでいるのは、紛れもなく為政者なんですよね。国の姿勢を語る前に、お前の心のなかはどうなんだ?他人に「死ね」と言うだけだったら、そんなにラクなことはないだろうけどさ。
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アメリカのブッシュ大統領やラムズフェルド国防長官は、曖昧な正義の根拠によってイラク戦争を主導したが、アメリカ国民が戦死しても彼らがその責任をとって死んだわけではないし、歴史的に見ても、戦勝国の将軍や王が戦争行為そのものの悪性の責任を追及された事例はないと思われる。彼らには、最終的なエクスキューズとして『私たちは国家防衛に必要な与えられた職務を果たしただけであり、その職務執行にあたって想定される「国民の死」について個人的責任を問われるものではない。それを認めるならば、政治指導者は犠牲を伴ういかなる政治判断も下せないことになる』といった主張が準備されている。

ナチスでホロコーストを主導した官僚も、『自分たちは個人の意志ではなく、国家機構の一員として割り振られた職務を忠実に遂行していただけですから、私には個人的責任はなく罰則を科される謂われはありません』というロジックを展開したが、これが通用しなかったのはナチスドイツが敗戦国になったからに過ぎないといえる。とするならば、それぞれの国家やテロ集団、暴力組織のリーダーに『国民・メンバー・部下に対する死を伴う命令には、自己の死を持って報いる責務』を負わせることで、ある程度戦争や紛争、テロの勃発を回避できるのもしれないという論理は成り立つ。

しかし、実際には、政治指導者やテロのリーダーは人格的崇拝を受けていたり、権威的な段階的支配システム(上位から下位に至る段階的な持ちつ持たれつの相互的利益関係)を持っているので、直接的に生命をかけた責任を問われるリスクは極めて低くなっている。そういった政府の指導者やテロ集団のリーダーが、容易に戦争を決断できない、決断するとすぐに側近の忠誠が離れるような制度設計を国民やメンバーが意識することが出来れば少しずつ戦争の決断やテロの実行は難しくなっていくかもしれない。

戦争を指揮した者が自害すれば済むという問題でもないし、その毅然たる決断が正しいとは言えないと思うが、世界規模で、国民の生命を軽視する指導者を選出しない仕組み作りが進むと戦争は起きにくくなるだろう。一国だけがそういった仕組みを取り入れると、他国の先制攻撃で出し抜かれる恐れはあるが、そういった戦争を起こしにくい仕組みを持った国と指導者があるということが世界に知れれば、国家やテログループの指導者の選出基準も変わるかもしれない。そもそも国民国家同士の正面衝突は、今後も中東やアフリカ、アジアの一部国家を除いて起こらないと思いますし、それを願っていますが。

『戦争をしてはいけない』という国民個々人の道徳心や倫理観に頼るよりも、そういった国民の生命を毀損する政治判断をし難い仕組みを、各国が同時に取り入れていくことのほうが有効性が高い。外国に対して不可侵を約束するよりも、自国民に対して戦争開始に対する大統領(首相・国家主席・総書記)へのペナルティを約束するほうが、開戦決断の敷居は恐らく格段に高くなる。無論、『私は戦争が遂行されれば真っ先に国家の為に生命を捨てるから、あなたも生命を捨てなければならない』というラディカルな国家主義者がいたとしても、他者にその価値判断や戦争参加を強制できる根拠にはならないだろう。

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『自分の死』を自分で選択して決断することは出来ても、『他人の死』を自分が選択して推奨することは出来ないのではないだろうか。また、平和主義の理想実現を放棄するという事は、『何故、人を殺してはいけないのですか?』という問いに『帰属共同体の存続発展のためであれば、あなたは人を殺してもよいし、あなたも死ななければならないことがある』という答えを返すことになる。しかし、その殺人禁忌の例外として国家の命令を上げる言説が有効性を持つ為には、『国家の利益』を『個人の生命』に優越させる教育が前段階になければならない。

『国家の利益(社会の秩序)』の為に、生存や表現と関わらない『個人の自由の一部(他者への危害・差別・搾取)』を制限するという教育であれば、まだ倫理的な確からしさを感じることが出来るが、個人の生命を差し出すことを了解させる教育であれば問題があるのではないだろうか。平和主義の教育による感化が可能であるように、戦争肯定の教育による感化も可能であるというのは当たり前のことだが、平和と戦争に関しては、教育者や親、社会環境、文化伝統によって必然的にどちらかに考えが偏る傾向がある。

ただ、『平和の尊重』と『戦争の必然』を教える思想や教育の影響度は、どちらかというと後者の『戦争の必然』を教える教育のほうが強いだろう。『戦争を肯定する論理』は、理性的というよりも情動的であり、人工的というよりも自然的であり、抑制的というよりも解放的であるから、より多くの人を、観念的な共同体の物語の世界に導き、感情的に高揚させて熱狂させやすい。『戦争を否定する論理』は、行動的というよりも認識的であり、実利的というよりも理想的であり、本能的というよりも抑圧的だから、旺盛な行動力や勇敢な振る舞いに魅惑されやすい人たちを盛り上げにくい。

また、『個人の自由』を『集団の統率』よりも優先する平和思想は、軍事・有事という集団の統率を重んじる戦争肯定論のような強制力を発揮しにくい。 本来、集団による強制力から逃れる選択を準備するのが平和主義であるとするならば、平和主義と戦争主義が正面からぶつかる事態になれば、余ほどの数的優位に恵まれていなければ戦争主義のほうが強い説得力と強制力を持つだろう。個々人の倫理や価値に差異が生まれるのは当然だと思うが、自分の頭で何が正しいか考えることすら許さない洗脳教育はすべきではないし、どの国や地域に生まれる子供達であっても、二元論的な価値観のどちら側からも物事を考えられるというメタ思考の重要性を教えて欲しいと思う。

■編集時に削った部分のメモ

殺人に対する法的処罰にも情状酌量が加えられるように、人を殺す行為には必ず人間の心理反応(情動生起)が起こります。被害者の悪性が際立っている共感可能な殺人では、加害者への怒りや攻撃の心理反応は起こりにくく、厳しすぎる判決が下された場合には同情さえ集まります。反対に、加害者の悪性が際立っていて同情の余地が乏しい共感不能な殺人では、加害者への復讐感情や懲罰欲求が高まり、死刑や終身刑という重い懲罰が科されて当然だという反応が多くなります。

精神の発達段階において、人はさまざまな人間関係や生活状況に出会いながら、『他者に対する基本的信頼感の程度』を調整していきますから、皆が皆、同じ程度に他者を信頼して安心できるわけでないことは確かでしょう。他者を信頼できないからお金を最高の価値の源泉と見なす人もいれば、他者を信頼できないから凶暴な性格を身につけて他者を威圧して安全を確保しようとする人もいます。基本的に、国家であれ個人であれ、他者を信頼できない人ほど、不安と裏あわせの凶暴性や攻撃性を先鋭化させていきます。『これだけの軍事力があれば他国は容易には自国を愚弄できないし、侵略しようなどとは夢にも思わないだろう』というのが、近代的な軍事力による政治力学であり、この基本は現代においても(悲しいことではありますが)通用しています。

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戦争は、勇敢さの横溢や強靭さの誇示、侵略の欲求、国家間戦略といったポジティブな動因によって開戦される場合もありますが、多くは、他国への基本的不信感に基づく先制攻撃(テロリズム含む)への不安や恐怖から起こるのではないでしょうか。個人の話に戻ると、切迫した殺人の必要性がない場合に、人を殺したいという欲求や感情が芽生えることは極めて稀であり、通常、怨恨や利害と無関係に、理由なく他者を殺そうと考える人はまずいません。

特別な理由なく、殺人衝動や傷害欲求に延々と悩まされ続けるなどの状態であれば、先天的・後天的因子によって精神の健康性や人格の安定性が障害されていると考えたほうがいいでしょう。どんなに理不尽で、一見、意味不明な殺人であっても、多くの殺人は、不幸の原因の責任転嫁や苦境の長期継続による社会憎悪、性的欲求の抑圧による一般的幸福の否定などによってある程度説明をつけることが出来ます。自己の不幸や苦境によって生起した憎悪や怒りといった情動は、自己に向けられたものであると同時に、環境や他者にも拡散的に向けられていく可能性があります 。ただ、そういった不遇の認知による怒りや怨恨を、全く無関係な他人に向けて行動化するという人は極めて少数派であり、特に、抑うつ状態による自殺者の多い日本人には、他者の責任よりも自分の努力不足や方法の誤りを責める人が多いのではないかと推測されます。

法は基本的に『現実従属的』ですが、倫理は『理想追求的』であるという特徴を持ちます。それを聞いて倫理は堅苦しくて面倒なものだという印象を持つかもしれませんが、倫理は絶えず自分の行為や実践の一歩先を行っているものです。倫理の普遍性や良心の葛藤は、内省的に意識することは出来ますが、誰もが内なる正しさや良心の声を実践出来るわけではないと思います。それでも、『普遍性が高いと感じる倫理判断』のイメージと具体的な根拠を自分なりに持っていて、『自分はこの一線を踏み越える悪しき行為には加担しないし協力もしない』という判断の基準があることは悪いことではないと思います。

その意味では、個々人の持つべき倫理とは、積極的な正義の押し付け型の倫理よりも、受容的に悪事を回避する倫理のほうが、他者との軋轢や対立を招きにくい倫理なのかもしれません。個々人が深く突き詰めて考えた結果として、『この一線は越えない』と考えて、最大限の努力をするだけでも危機の回避や生命保護の効果があるわけです。また、『この一線を越えない』という一線のレベルは、聖人君子のように模範的な振る舞いで禁欲生活を送れとかいったものではなく、事細かな礼儀作法や言葉遣いを改善するとかいった面倒なレベルでも全くないのです。確からしいと思える倫理判断は、他者にそれを強制すべきものというよりも、自己の内面で出来るだけ実践と結び付けようと心がけるもののように思います。

普遍的な倫理性をイメージすることは容易ですが、それを実行することは種々の現実的制約によって難しい。ただ、実践が伴わなくても現実に埋没しきらない程度に、自己への批判精神を持って少しずつ良い方向に行動が向かえば素晴らしいことだと思います。自己に対する理想追求としての鍛錬、そして、知行合一の研鑽をそれぞれが続けていくことが、倫理学を考えていくことの意義なのかもしれません。

■書籍紹介

戦争倫理学

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『神の視点・自我意識(パーソン論)・共同体利益』と関係した倫理規範の根拠:生命肯定の倫理

「哲学の初歩:事実から当為は導出できない」(趣味のWebデザイン)という記事を読み、倫理命題と事実命題の相関や倫理判断の根拠について考えさせられました。前回の記事に引き続いて「何故、人を殺してはいけないのか?」について、パーソン論概念などをかいつまみながらもう少し考えてみようと思います。「何故、人を殺してはいけないのか?」という問題意識につながってくる議論に、人工妊娠中絶の違法性を阻却する根拠として用いられるパーソン論を巡る議論があります。

パーソン論とは、私たちは何に生命の尊厳を見ているのかという疑問に対する一つの回答例であり、『理性的な自我意識である人格』に生命の尊厳が内在しているという倫理的立場を意味するものです。 簡単にいえば、『死にたくない、生きていたい』とする意志や感情、『痛みや苦しみを味わいたくない』という知覚や認知に生命の尊厳が宿り、そういった理性的な自我意識を所有する人格を傷つけたり殺したりしてはならないとする倫理観の表明です。

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私は、自我意識が明瞭でない心神喪失者や知的障害者、認知症の老人、出生以後の乳幼児にも生命の尊厳を積極的に認める立場なので、厳密にはパーソン論を全面的に肯定するわけではありません。しかし、生命の価値の源泉、生命の価値の認識主体という意味において、理性的な自己意識(アイデンティティ)を有するパーソン(人格)を重視した倫理学的根拠に説得力を感じる部分はあります。自我意識や知覚機能を所有しない人達の生命の尊厳を誰が守るのかと考えたときに、その答えは一つしかありません。倫理的な善悪を意識的に判断し、他者の苦痛や恐怖に共感する能力を持つパーソン(人格の所有者)である人間が、自我意識や知覚・言語機能を持たないパーソンでない人間を守るしかないのです。

生命の価値の認識主体として自己アイデンティティを持ち理性的な判断を行えるのがパーソンであり、パーソンは可能な限り、他者の生命や身体・精神を自己と同等に尊重することが必要であると考えます。 今、死にたくないと考えているパーソンであっても、いつ如何なる事由によって自我意識を喪失するような状態になるか分からない以上、また、自分の愛する人たちが事件・事故や病気によって自我意識を喪失する可能性が絶えずある以上、パーソンでない人達の生命や生活を最大限尊重すべきだと思います。理性的な自己アイデンティティの所有者が、倫理規範を認識して善悪を実践していくという意味において、パーソン論は普遍的な正しさ、事実世界の説明能力を持っています。

パーソン論において道徳的人格を所有しないとされる認知症の老人や精神病の心神喪失者の生命は保護されなければなりませんが、保護するように能動的に働きかけるのは絶えずパーソン(理性的人格の所有者)の側ということに違いはありません。出生以後の人間にパーソン論を適用すると、自我意識のない障害者や認知症の人達の生命の価値に優劣をつけることになるという意味の反論が起こってくる場合もあります。特に、人工妊娠中絶反対のSOL(無条件の生命の尊厳)の立場から、パーソン論は強く批判されることがありますが、私も、パーソン論を「殺しても良い人間(生命の尊厳のない人間)」と「殺してはいけない人間(生命の尊厳のある人間)」の境界の論理として用いることには反対です。

ただ、中絶者を犯罪者として権力が罰することが倫理的に正当なことだと思えないということ、中絶行為と殺人行為に同等の法的悪性を認めることは社会的不利益を招くということから、パーソン論を法的な違法性を阻却する根拠として用いたほうが現実的な問題を調整できると思います。キリスト教根本主義の倫理の影響が強いアメリカでは、胎児の生命にも出生以後の新生児の生命と同等の尊厳を認めよということで、一部の州で中絶が法的に禁止されています。生命の尊厳を巡る対立という意味では、宗教規範の影響を余り受けない日本よりも宗教規範が日常生活にも浸透していることの多い米国や欧州、中東で大きな問題になりやすいのかもしれません。日本では、他人の中絶に対して真剣に激怒してその中絶者や中絶医を処罰してやろうと考える人などはまずいませんが、米国や欧州では、過激な宗教的信念の持ち主の中に、胎児の生命を奪った人間に復讐感情を募らせている人などがいて穏やかならざる状況もあるようです。

そういった文化的宗教的背景があればこそ、アメリカでは、パーソン論の倫理が単なる言葉遊びに終わらず、社会問題や暴力事件にまで発展する恐れがあるのですが、アメリカの中絶問題と倫理規範についてはまた機会があれば考えてみたいです。基本的に、日本人は『まぁまぁ、それくらいいいじゃないか。実際に困ってる人や苦しんでいる人がいないのだから、そこまで厳格に処罰する必要はないだろう』という事なかれ主義で、誰も攻撃せず処罰しない方向で解決を探りますが、アメリカ人やヨーロッパ人、アラブ人といった一神教の宗教規範の影響を受けてきた人達は、人間同士の話し合いや妥協によって倫理問題を判断することに非常な抵抗があるのかもしれません。

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その厳格な善悪の峻別、そして、悪事を犯した人への処罰の要請の背景には、『人間が見逃してくれても、天上の神は人間の不正や悪を見逃してはくれない。神の定めた法に基づく罰則を、人間が勝手に曲げてはいけない』という意識があるのではないかと推測されます。日本には、そういった一神教の絶対的戒律みたいなものはないので、権力が人工妊娠中絶行為に干渉する事由を排除する為に、限定的にパーソン論を導入することに抵抗がある人は少ないと考えられます。そういった日本的な相対主義というか例外を容認する心的態度は、アメリカ的な二分法の倫理観からすると奇異なもの、いい加減なものと映ってしまうかもしれませんが、実際的な被害を最小限にして、感情の対立を緩和するという意味では、日本的な妥協の余地の広い倫理観は欧米的な融通の利かない倫理観よりも優れた部分があります。

融通の利かないSOL(無条件の生命の尊厳)に基づく倫理にも優れた部分が多くありますし、私は中絶問題と正当防衛、刑罰(死刑は廃止で終身刑としても良いと思いますが)を例外とするならば、SOLの倫理で善悪を判断することが妥当なケースも多いだろうと思います。ただ、一切の融通を利かさずにあらゆる倫理的根拠となる理論を原理主義的に適用することには、対立を激化させたり、問題を複雑にするデメリットがあるので、一切の例外を認めないという排他的な立場は取ることには多くのリスクがあります。

例えば、『パーソン論は、胎児の生命の価値を認めないのだから、自分自身の胎児を殺されてもいい事になりますね』という原理主義的適用は、問題を複雑にし、異なる価値観を持つ者同士の悪意を強めますから行うべきではないように思えます。『自分の胎児の生命の尊厳は無条件に承認されるが、他者の胎児の生命の尊厳は強制できない(他者に出産を強制できない)』とするのが、人工妊娠中絶問題において被害や危険を最小化できる「現実的な最適解」ではないかと思いますし、産みたいと思う女性が産む権利を行使でき、産みたくない女性が無理強いされないという常識感覚とも符号します。

性犯罪の被害による妊娠や産んで育てる意志のない女性の妊娠のケースを考えると、妊娠した女性は例外なく産まなければならないとする倫理は現実的なものではなく、天上の神が生命の尊厳を付与するという宗教的価値観に根ざしたものと考えられます。つまり、人間の理性や意識とは切り離された次元に、殺人を禁止する倫理が独立して存在するというのが宗教的な倫理観であり、現実世界に生きる道徳的人格を有する人間の苦痛や被害とは無関係に善悪を裁定する基準を設けるということになります。

人工妊娠中絶はしないで済むならばしないに越したことはありませんし、女性の心身の健康性と胎児の生命を保護するという意味でも、望まない時期に妊娠しないような最大限の配慮を男性も女性も持つべきだと思いますしかし、避妊に関する無知や性行為の自制心の不足、倫理的良心の不在といった問題に対しては、法的懲罰や非難で臨むよりも性教育や倫理的内省で臨むべきだと考えます。例外なく殺人や堕胎を禁止する宗教的倫理観は、一見、理想的に見えますが、宗教的倫理観は異なる倫理観を持つ他者・集団との共存を容認しない排他的特徴を持ちます。

話し合いによる妥協点の模索を放棄すれば、結果として、悪事に対して厳しすぎる制裁や懲罰を科すことになり、戦争や虐殺、私刑(リンチ)といった悲劇を生み出すことになりかねません。現世的な殺害や対立のリスクを排除する倫理観は、出生前の受精卵や胎児、他者を殺害した犯罪者を例外とするSOL(生命の尊厳)の倫理観を持つことではないかと思います。(厳密には、SOLは例外を認めずに人間の生命を無条件に神聖視する立場を意味しますが、ここでは例外を認めた人間生命の尊重という意味で使っています。)

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一切の例外を許さない厳格な倫理規範を主張することは容易ですが、実践することは極めて至難であり、大部分の人は現実社会での倫理判断において、多くの場合、臨機応変な倫理判断を行っています。生命に関係しない日常的な問題の大半では、『功利主義やQOLの向上』といった利害関係を中心として倫理問題を考えている人も少なくありませんし、善悪を共同体倫理に還元してしまうと、全ては功利主義(判断の結果としての利益と損失)の問題へと帰結してしまうでしょう。

パーソン論というのは、簡単に言えば、『私は、○○である』という自我意識『私は、苦痛や恐怖を感じる』という知覚機能を有する個体の生命と生存の選好に、尊厳があるとする理論です。私たちが『他者を殺してはいけない』という倫理判断は、率直に考えると、『死の恐怖と生の欲求という生物学的本能』を根拠としています。 私と私の愛する者を他者から殺されないようにする相互保障的な契約として『生命肯定の倫理』は機能してきたと考えられます。

倫理規範の根源にあるのは、程度の差こそあれ『自己から他者へと投影される生命の肯定感情』であろうと思います。また、歴史的な倫理規範の推移を見てみると、『自己や愛する者の生命・生活の維持』が『共同体の興亡』と一体化していた為に、『共同体の存立維持発展』と『倫理的な善悪』が同一視される時代が長く続きました。個人的な殺人は禁止するが、国家による戦争は例外として認めるという人は、敵・味方の二元論的世界観を持っていて、『共同体の倫理』を個人の生命や生活に優先させて物事の善悪を考えているという事になります。

無条件の生命の尊重ではない、最大多数の最大幸福という帰結的な功利主義で考えても、1人で1人を殺す殺人よりも数万人で数万人を殺す戦争のほうがより倫理的な悪性が強いことは明らかですが、戦争を肯定する倫理観では、『対話や妥協、相互理解が不可能な敵に皆殺しにされるよりは、戦争をしたほうがより良い結果が得られる』という考え方をします。しかし、こういった戦争肯定の倫理判断は、『個人の生命の唯一無二性を無視していること』から現代では余り確からしいものだとは思えません。

膨大な犠牲や戦費を出して戦争に勝利しても、自己や愛する者の生命を喪失すれば認識主体である『自我意識を持つ人格』を失うのですから、死後の世界か霊魂の存在でも信じていない限りは全ては無価値となります。敵も味方も『生きていたいという基本的欲求』を持っているならば、生命を奪い合わない方法で妥協点を探るのが倫理的な最適解という事になり、初めからお互いに潰しあい殺す合うことを前提とした万人闘争の世界観を捨象するところからスタートしなければならないでしょう。

自然世界には、自然の摂理や物理法則に従う事実命題のみがあり、それに善悪の価値判断を下す倫理命題は存在しません。という事は、『自分が何者であるかを認識し、死や痛みを恐怖すると同時に、その恐怖を共感し合う理性的人格』の存在がない世界には、倫理そのものが成立しないという事になります。共同体の存続発展へ貢献する行為も、個人の生命を相互に保障する行為も、パーソンに該当しない個人を保護する行為も、全ては『自分と自分の愛する者の生命を肯定したい欲求や感情』に源泉を持っていて、その倫理の具体的なルールや行動を設定していくのが、理性的人格の所有者としてのパーソン(人格)ではないかと思います。

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いずれにしても、パーソンの最も根源的な選好は『私が生き続けたい。私の愛する者に生き続けて欲しい』とする欲求にあり、その選好を相互的に尊重して保障することで、自分が他者を殺す可能性と他者が自分を殺害する危険性を低くする事が出来ます。その相互的な取り決めに同意しないケースとしては、『私は今すぐ死にたい。私には大切な人など誰一人としていないから、誰が死んでも構わない』とする選好を持っていて、なおかつ『今すぐ殺したい相手がいる。殺したい衝動が抑えきれないくらいに強い』という条件を必要としますから、現実問題として相互的な安全保障の『人を殺してはいけない』に同意しない人は極めて少数派であるという事になります。

哲学の初歩:事実から当為は導出できない

「殺人の絶対禁止」を掲げると、たいへん生きづらいはずです。例えば、正当防衛という概念が成立しなくなるし、死刑も当然にアウト。立て籠もり犯を狙撃することもできず、中絶だって不可能となる。とりあえず4つの「反論」を出したけれど、ひとつでも引っかかる人は、「殺人の禁止」より上位の倫理観を何か持っているということになります。

『殺人の絶対禁止』は、パーソン論を適用して『出生以後の殺人の絶対禁止』にするとより受け容れられやすいのではないかと思います。『出生以後の殺人の絶対禁止』は、殺人禁止の相互的契約に同意し、それを履行した者に対して例外なく適用するべき倫理規範だと考えられます。最初に能動的に他者危害(殺害)を企てた相手に対しては、自衛の為の反撃(正当防衛)は認められるべきでしょうし、逆に言えば、自分から他者に攻撃を仕掛けなければ反撃を受ける恐れもないわけです。

(この場合の攻撃は、物理的な暴力に限定されるべきで、合法的な政治的要求や議論での攻防は当然除外します。例えば、餓死が予想されるような絶対的困窮者に対しては、不満が爆発する前に余裕のある側が物資を贈与すべきであり、相手が絶対的困窮ゆえに暴力で反抗したから殲滅して良いという事にはならないと考えます。反対に、絶対的困窮者も、理性的な政治的要請を原則とすべきで、テロや暴動による反抗は控えるべきだと思います。とはいえ、暴力を行使しないと現実が動かないという側面は確かにありますので、なかなか理想通りには進まないでしょうね)

『殺人の絶対禁止という規範に違背しなければ決して殺されないという倫理原則』を理解できる理性の所有者(パーソン)が、法的な責任主体だと考えると私としてはしっくりきます。また、殺人の絶対禁止と合わせて、そのままだと、餓死や路上死という帰結しか予想できないような絶対的困窮者に対しては暴力や犯罪に走る前に、何らかの支援や保護が為されなければならないとも思います。『自分自身が努力しなかったから餓死するのもホームレスになるのも自業自得だ、犯罪を犯したなら犯したで処罰すれば良い』というような行き過ぎた自己責任論を貫徹すると、小規模であれば単発的な犯罪行為が起き、大規模であれば集団暴動のようなものが起きる可能性があります。

問題は、殺人に発展するような犯罪を犯すパーソンの経済的困窮や感情的興奮をどう制度的に緩和していけるかというところにあるのでしょうが、最低限度の生活を保護する社会福祉政策などと関係してくるのかもしれません。そういった意味では、人間社会はあらゆる非倫理的事態を未然に防止しようとするほどの意気込みはなく、確率論的に倫理に違背する犯罪者をその都度処罰していくといった対症療法的な方策を採っているといえるでしょう。

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あらゆる非倫理的事態を未然に防止しようとすれば、戦争のない全体主義国家か競争や落伍のない共産主義国家、あるいは全ての行動を完全にモニタリングされる完全管理社会の体制へ移行する以外にないでしょう。全ての人間の犯罪につながるような不幸や無知、堕落、怠惰、困窮を全て制度的に解決すれば必然的に自由や競争、個人間の差異が抑圧されますから、現代の自由主義社会は、制度から漏れ落ちた倫理的な逸脱者が日々出現することを前提としてシステムが構築されている面をもっています。

パーソン論と人工妊娠中絶の関係でもそうですが、徹底的に清浄な倫理的世界、一点の曇りもない完全に正しい社会では、自由を愛する人間(多数派を形成する自由主義者)は生き続けることが出来ないのかもしれません。全ての不幸を最小化しようとする福祉国家構想に反対が起きやすいのも『準備された安定した倫理的な生(人生を踏み外すリスクのない計画された予定調和の人生)』への抵抗みたいな部分もあるのかなと思います。ここでは、パーソン論概念を敷衍して倫理を語りましたが、パーソン論概念には『生命の価値を選別するという危険性』が内在しているという問題がありますので、全ての生命倫理の問題にパーソン論を適用することには大きな抵抗があります。

生命の価値そのものの基準というよりは、『理性的に生命を肯定し、殺害を否定する認識主体』の基準として考えるほうが、自分としては納得できる部分が多いですし、パーソン論の恣意的な優生学的流用を抑止することが出来るのではないかと思います。

■書籍紹介

宗教と生命倫理

『集団・個人の内部と外部』を切り分ける『ヒトの認知モジュール』:愛の証明としての自己犠牲の元型

過去に『何故、人を殺してはいけないのか?』、個人の倫理と共同体の倫理の乖離と接近という記事を書きましたが、それを補足する形で、愛国心と軍事外交、集団規律と個人の自由、観念的価値と生命の肯定などのキーワードを元に書いていた記事がある程度の分量になったので記録しておきます。自国の国民・領土・伝統・文化・風土・習俗を愛するという意味での愛国心を、近代国家の軍事的パラダイムの自明性の承認と結びつけるならば、日本国は核武装して外国から一切の軍事的干渉を受けないようにすることは合理的な政治判断の一つになるだろう。

核武装が究極的な戦争の抑止力になるならば、全ての国家が核兵器を持てば戦争がなくなるということになり、アメリカが目くじらを立てて他国の核武装を否定するのは、世界の平和というよりも自国の軍事的優位性を永続させたいがためのマッチポンプの様相がある。ただ、本来的に使用しないものをわざわざ所有する事が、各国の軍事コストを肥大させて財政悪化を導き、地球環境への負荷を高め、潜在的な大量破壊のリスクを孕むのであれば、合理的な戦争抑止力であっても賢明な抑止力ではないかもしれない。

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政治的な正義の根拠を軍事力(暴力)の大小で測ったり、倫理的な善性の根拠を共同体の存続発展と融合させたりすることは、いつ自分と自分の愛する者が集団の論理で殺されるか分からないという不安意識を常態化させることでもある。反対に考えれば、国民世論を軍事力の強化に肯定的な方向に動かすには、外部の国家や集団に対する不信や怒り、不安を常態化させると良い。監視社会を強化するには、治安悪化による市民生活の不安増大や子どもの生命の危険を強調した情報を普及させれば良いし、外国人に対する抵抗感を一般化させるには、外国人の犯罪率の高さや言語・文化・慣習の違いによる常識感覚の落差を強調すれば良いということになる。

敵意や攻撃といった人間の原始的本能は、精神分析では「エス」と呼ばれるが、それは自然界で決して強者ではなかったヒトの進化過程を振り返れば、『積極的な他者の傷害』というよりは、必要に迫られた『自衛の為の攻撃本能』だったように推測できる。認知心理学的に色々な先天的モジュール(物事・状況を判断する規格)を想像することは出来るが、進化心理学者コスミデスの『裏切り検知モジュール』のように、社会的動物であったヒトは、長い歴史を通して自集団の裏切り者を即座に認知する心的機能のモジュールを発達させてきた。

かつて共同体の繁栄や防衛を支えたもの、それは愛国心であり、自集団内部の義理人情、友情友愛、信頼感、永遠の愛、忠・孝・悌といった儒教的な道徳精神であっただろう。 それは絶えず、自集団の安全や繁栄を脅かす『外部』を設定して成り立つ道徳規範であり、『内部』の結束と信頼を確認しあう情緒の機微でもあった。仲間を大切にし信頼して決して裏切らず、団結して危険な外部の敵を打ち倒そうというユングの元型的な物語性が、私たちの精神の深奥には宿っていて、現代人であっても映画・小説・ドラマ・演劇・日常生活の中でこの認知モジュールは非常に強力な行動原理となっている。

『外部(他人・敵)ではなく内部(身内・仲間)を優先することが私の安全・利益につながる』、これは21世紀の現在に至るまでおよそ普遍的な人間社会の原理であって、人口流動が少なく、閉鎖的な文化慣習に覆われている地域であればあるほどこれは真理へと近づく。人口の移動や流入が乏しかった封建主義の時代には、小規模な村落が点在していたが、村は内部と外部を峻別して村人と流浪者の待遇に大きな差をつけた。文明の黎明期にあった古代ギリシア人達は、同じギリシア人でありながら、自分の所属するポリスは内部と認知して愛国心を抱けたが、外部と認知するギリシア全土には愛国心を抱けず、マケドニアのアレクサンドロスの侵攻の前に手痛い敗北を喫する事になった。

厳密な意味では、『裏切り検知モジュール(自集団に有害なものを探し出して排除・差別する認知モジュール)』『社会的交換モジュール(自集団に貢献するものを探し出して利益・協力を交換する認知モジュール)』から私たちは決して自由にはなれないと断言してもいいだろう。 何故なら、このモジュールは人間の生存維持と繁殖戦略と密接に不可分に結びついているだけでなく、個人間の関係では家族・恋愛・親愛といった個別的な特定の他者との関係性そのものの根拠だからである。

すべての地域とすべての人間を同時に平等に愛するという愛の形式は人間にはありえない、それは、神のみが有する博愛のアガペーであって、人間には、必ず特定の他者や特定の地域に特別な愛情や配慮、郷愁を抱くような先天的認知モジュールが組み込まれているのである。結婚生活での不倫が、大きな夫婦間対立を引き起こし離婚の原因にさえなるのは、『内部で自分だけを愛するべき配偶者が、自分を出し抜いて裏切った』という認知モジュールを発動させるからである。

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裏切り検知モジュールが強烈に働くと『裏切り者に対する憎悪と拒絶』がその人の精神を侵食するからであり、恋愛関係の絶頂期にあると信じている人が、恋人のちょっとした浮気心や魅力的な他の異性への関心に、制御困難な嫉妬の怒りを覚えるのは、無条件に信じていた関係が、条件付きの関係だと知らされて裏切りを瞬間的に検知してしまうからであろう。対人関係で強い絶望感を抱いて極度の抑うつ感を経験してしまう人、人間関係がこじれて長期にわたる執拗な憎悪を抱いてしまう人、そういった人が口にしやすい言葉として『あんなに信じていたのに、あの人は……。自分がこれだけしてあげたのに、無残に裏切られた……』といった言葉であり、内部の仲間と認知して無条件の協力や好意を向けていた相手から、突然、裏切られたときに人は対人関係における抑うつ感や激情を生起しやすくなる。

これは、古今東西を問わない人間の生物学的な適応の為の認知モジュールであり、物質文明や市場経済の発達で封建的なしがらみは衰退しても、個人間の「内部と外部の待遇の差」による葛藤は終わることがない。国家への愛国心や軍事外交の問題に話を戻すと、『数の論理』によって政策が決定する民主主義国家では、どんな平和主義者でも戦争に加担させられる恐れはある。日本国憲法の第9条の精神を保持する意義があるとするならば、『本人の意向や思想に反して戦争行為への加担や協力を強制されない法的根拠になり、「集団主義の排除機制や裏切り検知モジュールの圧力」に対する防波堤になるからだ』ということは言えるだろう。

日本国憲法の改正の可能性は認められるべきだが、9条の平和主義理念は継承する形での改正にして欲しいと思う。改正議論が本格的に高まり、国民投票の手続法が成立に近づいたときには、改正の可能性そのものを否定するのではなく、改正の内容を批判的に検討して投票することが必要になるだろう。政治的な意思決定がいったん成されてしまうと、間接民主主義では、国民の側からその決定に異議申し立てをして覆そうとしてもそう簡単に決定事項が覆せるわけではないことは経験則として自明なことであり、そうであればこそ、慎重な議論と検討が求められることになるのだろう。

個々人が、自分と他者の生命の尊厳と倫理判断に対して自覚的になり、観念的な形成物や権威的な上意下達のシステムに無条件に従属してしまいやすい集団心理に向き合えるようになること、つまり、『異質性を、裏切り(敵意)と認知しがちな人間心理の弱さ』に反省的になることが重要だが、これは日常生活レベルでもなかなか困難なことである。個人の情動や理性に頼った倫理的考察の結果は、不安定で状況に左右されやすいからこそ、憲法という最高法規で倫理基準を確認することに意義がある。その最高法規に、『普遍的な生命尊重の倫理性』が盛り込まれているという意味では、日本国憲法は世界でも稀有な存在である。

過去の法や倫理が、平和主義をうまく肯定できなかった背景には、キリスト教のような博愛を強調する宗教でも『敵・味方の二元論的世界観』を脱しきれていなかったことがあるし、現実的な利害に振り回されてしまう集団的な防衛本能がある。国際社会で、協力行動よりも非協力行動を取ることによって得られる利得が大きいとゲーム理論的に判断する国家が多いこともその一因かもしれない。

世界各国で通念として機能している法や倫理の精神は、究極的には個人の生命よりも宗教や共同体の存続を至上命題としてきた。場合と状況によっては、「文化・宗教・国家の外部にある人間」を殺しても構わないとする内部優先の倫理判断を潜在化させていたために、自国民と外国人の生命に対する価値認識に相対的な差が生じていたともいえる。無論、自分の身近にいる家族や恋人などの生命をそれ以外の生命よりも重視してしまう価値判断は普遍的なものであり、そういった自然な隣人愛は否定すべきではないが、「価値に差をつけること」と「価値そのものを否定すること」には大きな違いがある。

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他者(異文化・異質な存在・外国人)を、場合によっては殺害しても良いとする倫理が、人類の歴史過程で生まれたことは、ある意味で、歴史的必然(西欧中心主義や中華思想など外部文明の蔑視・外敵からの自衛の為の戦争)である。そのため、過去の時代において、人類は如何なる手段を持ってしても、『他者を殺す集団の決定』を完全に抑止することが出来なかった可能性は高い。『自己が帰属している共同体の外部にいる他者を攻撃することが正当化された歴史的条件』として以下の項目が考えられる。

『他者(異文化)を深く理解する為の情報が、決定的に不足していた事による相互不信』、『他者から資源を奪わなければ自己が生存できない物理的に貧困な環境』、『観念的な形成物を個人の生命や思想よりも重視する思考形態』という歴史的条件によって、過去に生きた人間は、罪悪感を感じずに他者を殺して共同体からの栄誉や賞賛を得ることが出来た。しかし、さまざまな情報にアクセス可能な現代の文明社会に生きる私たちは、罪悪感を感じずして他者(異質性を孕んだ外部の人間)を英雄的に殺害することが出来るのだろうか?自己欺瞞や偽善的な道徳心をもってすれば、英雄的に正当化された殺害を私たちは遂行できるかもしれないが、上記した歴史的条件を回避できる現代文明社会では、やはり、戦時下であっても殺害を欺瞞なく正当化することは難しい。

戦争は、個の思惑を超えた次元で強制的に遂行されるものだから回避できないとする考え方もあるけれど、民主主義国家の軍隊や警察というのは本来、誰の命令で動き、誰を守る為のものなのだろうか?多数派の国民の反戦運動によっても、民主国家の軍隊の戦争行為は止められないことが多いが、その場合には軍隊は国民の為ではなく、軍部や政府の為に動いているように見える。その時には、私たちが愛する国家と私たちに命令する政府が分離しているという事になる。愛国心を語る場合によく地理風土や文化伝統、国民への愛着や郷愁というものが典型的なものとして語られるが、同時に歴史を振り返り見ればギリシア、ローマ帝国、中華帝国、大英帝国といった国々における愛国心は戦争で生命を賭けられることと深く結びついていた。

愛国心に限らず、個人として人を愛する場合にも、『あなたは愛する者のために死ねるか?』という問いが想起されるほどに、人間が必死に何かを愛する事は、大いなる死の犠牲と結び付けて考えられやすい。そういった人間の認知モジュールや歴史過程を鑑みると、暴力や犠牲と結びつかない愛国心というものが成り立つのかどうか甚だ心もとないし、ある意味では愛国心や恋愛感情というものは自己破壊性を内在した熱狂や陶酔なのかもしれない。

それは、愛国心や恋愛感情は、ある一つの対象をそれ以外の対象から切り離して選択し、それに特別な愛着や配慮をすることであり、選択しなかった対象を差別的に取り扱ったり切り捨てたりすることと同義でもあるからだろう。悲哀の中の歓喜だとか、危機を乗り越えた栄光だとか、障害を跳ね除けた愛情の強さだとか、そこには『対立する外部・障害を破壊して、内部の幸福・安全を確立するというアーキタイプ(元型)のイメージ』が無数に魅惑的に鏤められている。

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全ての国々や集団がその愛憎のアーキタイプを意識化して、観念的な価値を人間の生命に優越させないという同意が成り立つならば、普遍的倫理としての平和主義の普及は絵空事としての領野から飛翔できるのではないかと思う。だが、ここまで述べてきたように、人間自らが、生物学的本能や認知機能の遺伝特性によって、平和主義を敢えて否定する可能性はやはりいつまでも残るだろう。上述した戦争肯定化を可能とする歴史的条件を現代社会が克服できると仮定すると、『他者を知る為の情報は十分に先進国に提供されているし、それは段階的にせよ途上国にも広まっていくだろう』『他者から簒奪しなければ生存できない貧困環境があるならば、先進国は相手が暴力による反抗に出る前に適切な支援や救済をしなければならない』『観念的な形成物にもかけがえのない価値は宿り、アイデンティティの基盤にもなるが、そうであるからといって宗教・国家・民族・思想を理由に他者を殺して良い理由にはならないという教育が必要だ』という事になるが、これは半ば夢想的なイデアリスムでもある。

観念的な物語や超越的な存在者は、無意味な世界に意味を与え、私たちの生に存在根拠を与えるから、宗教活動への没頭や集団行動の理念への陶酔は人間社会から消え去ることがない。 人は、現世や人間を超える究極の価値があると心から信じ込んでしまうと、簡単に人を殺せるようになる危険さえある。そういった現実世界の法や倫理を超えた理念や価値を提示するからこそ、宗教に無関心な日本の多数者層は、宗教に対して潜在的な恐怖や不安を感じている。同様に、国家や民族も悪用されれば、排外的な集団心理が社会の雰囲気を支配してしまう危険がある。

そのレベルの宗教的信念を信教の自由として容認する必要はないというのは正論であるが、特定宗教に帰依した人は、宗教の外部にいる人の論理的な言葉と宗教の内部にいる教祖や神の言葉を同じ次元のものとして聞かないことが多いので説得は非常に困難である。子どもに『何故、人を殺してはいけないのですか?』と問われるだけで激昂するような道徳家は、理屈で説得し尽くすよりも、人間の生命の尊さを実直に語ることを心がけるべきだと思う。愛国心や宗教教義を人間の生命否定(集団の為の自己犠牲の強要)の根拠に組み込まないようにする為には、真の愛国心や宗教を排他的な振る舞いに帰結させない工夫や教育が必要である。

子供に対する基本的な倫理の教育では、既存の常識観念や形式的な倫理を叩き込むことにも一定の効果はあるが、自分の頭で考え感情が揺らぐ経験を通して、人間の生命の価値を承認できる人格を形成することが大切だろう。『自分たちが愛するものがあるように、相手にも愛するものがあることを共感的に優先的に知ること』が、結果として相互的な利益を導くのだが、それを当たり前と思える環境を作るのは集団間でも個人間でも難しい。集団間の相互的な振る舞いにおいて、「非協力行動を取ることの利得」と「協力行動を取ることの利得」がどうすれば釣り合うようになるのだろうか。そのヒントは、どちらかというと、政治の駆け引きではなく経済行為の交渉やシステムにあるように思える。

■書籍紹介

デモクラシーの帝国―アメリカ・戦争・現代世界

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『同じ穴の狢コミュニケーション』と『尊厳保持のコミュニケーション』:人の本能と倫理の価値承認を巡って

『九尾のネコ鞭』の「体育会系ジョークとオタクジョーク、その間にある深い溝」という記事を興味深く拝読させて頂きました。この記事では、体育会系の人たちの自虐(本能)ネタ中心の相互的コミュニケーションとオタク系の人たちのマニアック(知識)ネタ中心の相互的コミュニケーションの比較論が実際の生活体験に基づいて分かりやすく述べられています。

私は、このコミュニケーション・ギャップを『相手の有能性を尊敬する事によって形成する人間関係』『相手の俗的欲求を暴露させる事で安心する人間関係』の違いに求めることが出来るのではないかと思います。両者のコミュニケーション形態の差異は、厳密には、体育会系とオタク系に限定されるものではなく、仲間意識醸成(同質性を保った共同体の形成)に必要な自己開示の種類と深さの違いであり、居心地の良さを感じる対人関係の距離感の違いに基づくと考えられます。

ですから、対人関係のバランス感覚のある個人は、両方のコミュニケーション形態にある程度適応することが可能であると思いますし、相手が望まないコミュニケーション形態を強制することはないと思います。多くの人は、時に知性的な会話を楽しみ、時にやや低劣な情欲の話題を楽しみますが、四六時中同じコミュニケーション形態を強いられる事には苦痛や不快を覚えるのではないかと思います。いずれにしても、対人スキル、コミュニケーションスキルの高低とは、TPOに適合した言動を臨機応変に取捨選択できることであり、相手の基本的コミュニケーション形態へ譲歩した言動や配慮が出来るという事です。

体育会系であってもオタク系であってもノーマル系であってもアカデミズム系であっても、多種多様な個性や価値観を持つ他者と良好な関係を維持し、自分のいない場所で陰口を叩かれないようにする(どんな人格者でもどんな面白い人でも陰口から完全に自由にはなれませんが)コミュニケーションの基本は、『相互的な欲求や関心を満足させること』を念頭に置くことです。『相手が選好し得意とする分野を話題にする時間』と『自分が選好し得意とする分野を話題にする時間』とを上手く均衡させて、相手の話題にどうにかして自分が言及できるポイントを模索することが必要になってきます。

その意味では、体育会系のコミュニケーションとして例示されている本能的欲望の暴露に適応するほうがオタク系のコミュニケーションとして例示されている知的欲望の相互承認に適応するよりも容易かもしれません。それは道徳的に高潔な人や性的羞恥心が強固な人が少数派であるという事もあるかもしれませんが、一番の理由は『前提知識や学習活動を必要とせず、(禁欲道徳や自尊心を除いて)会話への参加障壁が非常に低い』からという事に帰結するでしょう。

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ここで、俗的なコミュニケーションに触れたついでに、人が何故、猥談や下ネタを中心としたコミュニケーションを展開するのかについても考えてみます。行動主義心理学で一次性強化子と呼ばれる反射的に快の反応を生じる刺激は『性欲・食欲・貨幣』にまつわるものですが、体育会系のコミュニケーションとは正に一次性強化子を相互に与え合って脳の報酬系神経活動(ドーパミンやエンドルフィンなどの神経伝達活動)を活性化させることなのです。

一次性強化子を巡る話題をコミュニケーションの場で提示する事は、相手に何らかの情動的反応を起こす事を目的としています。恋愛や性愛の駆け引きの場で自分の予期した結果を得る為の刺激的なコミュニケーションが得意な人は、一次性強化子をウィットや知性に絡めて無意識的に自己開示しています。異性に不快感や嫌悪感を抱かせる低劣な度合いが行き過ぎた猥談は自分への評価を下げますが、親密な関係になった異性や性的倫理観が強固でない異性に対しては相互的に性への関心や欲求を確認しあうことが高い評価につながることがあります。

とはいっても、性全般の話題を嫌悪する女性や自分に何の好意も抱いていない異性に対して、突然、卑猥な性の話題を振るのはセクシャル・ハラスメントの問題が指摘される恐れもありますので、相手との関係性や相手の性的価値観に対して十分に慎重であらねばなりません。一般的に、一次性強化子に関する欲求を抑圧し過ぎると対人魅力を低く評価されるケースがありますが、これは男性・女性の性差に関係なくそれぞれが『自分が選好する一次性強化子の獲得戦略』を持っているからです。

完全に道徳律を遵守する禁欲主義者は、相手の卑俗な欲求に対する罪悪感を強める『心を反照する鏡』としての効果を果たすので、異性関係に限っては対人魅力を低下させる恐れが強くなります。それと同様に、俗物根性を丸出しにして性的快楽を道具化するような発言をする人も、人間の異性に対する独占欲求の否定につながり、ロマンティックな異性関係を台無しにするので対人評価を低くします。いずれにしても、禁欲が行き過ぎれば偽善や気取りを批判され、欲得が行き過ぎれば愚劣や浅薄を指摘されるというように、万人に好感を持たれて高く評価されるコミュニケーション形態はありませんので、適当に相手の欲望に関する基本姿勢を承認しながら、自分は自分として自己の立場をさり気なく主張していくしかありません。

正確には、人類の行動の最も根底的な動因は一次性強化子(知的欲求の快の報酬も含む)の獲得にあり、その事が関心事でないという人はまずいないのですが、あからさまに一次性強化子をちらつかせる事に対して人間の反応は『同調・迎合』『軽蔑・抵抗』の2つに分かれます。

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人間の動物的側面を相互承認する『同じ穴の狢コミュニケーション』

社会的場面では、文明社会の道徳規範や常識概念を受容して禁欲しているけれど、自分もあなたも一皮向けば『性・金・快楽』に溺れる俗物ですよねという事をお互いに承認して、道徳的堕落やフラストレーションを緩和する。お互いに本能的欲望を率直に暴露し合い、俗欲に通じる倫理的ないい加減さを認め合うことで『自分だけがこんな欲望に振り回されているわけではなく、皆、同じなんだ』という同質性の仲間意識を強めたいという意図がある。

相互の自尊心の防衛を撤去するような体育会系コミュニケーションもこの形態だが、集団生活の場で生活してプライベートの時間や空間を多く持たないことがこのコミュニケーションパターンを身につける土台となる。倫理的な自尊心や文明社会的な思慮深さは、ある程度のプライベート領域(他者の踏み込めない領域)を持つ事によって醸成される。その為、寝食を共にする部活や軍隊などの集団生活ではプライベート領域の保持が難しく、性を中心とした俗欲を隠蔽し続けることが困難になるため、『かくしてばれる羞恥』よりも『暴露し合って笑い飛ばす安心』をコミュニケーション戦略として選択するのである。

彼らは『自他の境界線』を意識的あるいは無意識的に曖昧化することで、『同じ釜の飯を食った仲間』『裸の付き合いを経た特別な親友』という意識を段階的に強化していく為、オタク系コミュニケーションに例示されたような『本心や本能を知や道徳で隠蔽しようとする態度』に違和感や不可思議を感じる。その違和感は、『何で自分がここまで自己開示して弱みを見せているのに、こいつは自分だけ頑なに善人ぶって自分の本性を隠そうとするのだ』という同質性を攪拌する異質性に対する違和感だと考えられる。

人間の倫理的側面を相互確認する『尊厳保持のコミュニケーション』

人間固有の尊厳は、動物と違って性行為・排泄行為・貪欲などの本能充足行為を隠蔽して行い、『俗欲の開示が許されるプライベート』『社会常識・倫理規範に従うべきパブリック』のけじめをつけるところにあると考えるコミュニケーション。体育会系の人たちは、友人知人との仲間意識は、同じ組織集団(会社・学校・部活)に所属することによって自動的に発生するものだと考えているが、この『尊厳保持のコミュニケーション』を好む人たちは仲間意識を持つ相手を厳選する傾向があり『同じ穴の狢コミュニケーション』には抵抗感を感じる。

つまり、同じ会社や学校に所属しているから仲間という認知形式に彼らは賛同せず、『自分と近似した価値観や趣味思考、一次性強化子に対する振る舞いを持つ者』のみに仲間意識を抱く傾向がある。 また、仲間であるからといって、自分固有のプライベートに土足で踏み込むような無作法な真似には我慢できず、体育会系特有の親近感や気安さに基づく暴露トークには不快感や厚かましさを感じる。所属組織は飽くまで学歴や生計の糧を得る為に通う場所であって、仲間を分類する基準ではないという認識があるので、裸の付き合いや包み隠さぬ自己開示を要求されるような部活や軍隊などの規律訓練組織への所属を回避しようとする傾向がある。

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『尊厳保持のコミュニケーション』は、全てを包み隠さず自己開示することは人間を低レベルな本能の次元に落とし込めるという前提を持ち、相手のプライベートな時間・空間に配慮しない自他の境界の曖昧な図々しさに憤りを覚える。今、不意に襲った着想だが、恋愛関係においても『恋人の事は細大漏らさず全て知っていないと気がすまない。秘密や隠蔽は自分を信頼していない証拠だ』という同じ穴の狢を求めるコミュニケーションと『自分にも相手にも話したくない秘密や過去の一つや二つがあって当然だし、幾ら恋人・夫婦でも自分固有のプライベートは絶対に必要だ』という尊厳保持のコミュニケーションのパターンに分かれるのではないかという気がする。

もう少し心理学的に踏み込めば、相互的な承認欲求を充足する為にはどのようなコミュニケーション戦略を取れば良いのかという認識の表れが、コミュニケーション形態の差異となって現れてくるのです。今までの人生体験で自分はどのような自己開示を行う事で人間関係を取り結んできたのか、今までの恋愛関係で自分はどのように相手への生理的欲求や性的趣味を伝達して成功してきたのか、といった極めて常識的な経験論的検証の積み重ねがその人が中心的に用いるコミュニケーション形態の原形を形成していきます。

最後に、性的欲求の自己開示や馬鹿さ加減の表明の体育会系コミュニケーションにどうしても順応できないという人への(ちょっと不謹慎な)アドバイスをするならば、性的欲求に関しては『リビドーを一般的性欲に強引に翻訳するような俗流精神分析の猥談応用』『脳科学や性淘汰理論を流用した性行為の科学的解釈(遺伝子保存から考える性衝動や繁殖戦略と性的な快反応の関係など)』などを面白おかしく会話に持ち込むことが効果的なのではないかと思います。あからさまな猥褻な言語を用いずして、自分のエロス(性的欲求・生の欲望)の存在をアピールして、その性的欲望の充足形式の複雑さや個性的な趣味を開示するという意味では、口愛期・肛門期・男根期・潜伏期・性器期などの精神分析用語をうまく現実的な性現象と結びつけて鹿爪らしく語る行為は、『こいつ、普段は真面目そうな感じなのに、頭の中では結構、複雑な性の欲望を抱えてるんだな』みたいな反応を惹起することが出来ます。

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『知性のオブラートで原始的な本能的欲望を包んでやる』というのは、体育会系コミュニケーションに限らず、異性との楽しい恋愛トークにも応用可能な意思疎通のテクニックでもあります。卑猥感や低俗感のある会話に抵抗を感じる人で、『その場の雰囲気』に合わせなければならない人は、『個人的体験から一般的原理(脳・心理学・精神分析・生物学)の方向へ話題を誘導』してみたり、『全ての行動の源泉は、リビドー(性的欲動)の不満足(による緊張)に還元されますからね』と何でも生理学的なリビドーで説明できる事(性一元主義)を主張すれば良いかもしれません。

毎回毎回そういった体育会系コミュニケーションへの適応に悩まされるという人は、『直接的な性欲の開示』を回避できるようなトピックが数多く収載された進化生物学や性淘汰理論の解説書が数多く出版されているので、何か面白そうな書籍を一冊購入してそういうトーク専用のネタを幾つか暗記しておいて機械的に提示するといった方法もあるでしょう。汎用性の高い性事象に絡むトピックとして、売買春禁忌の倫理学や性や金銭の欲求に関する倫理学、結婚制度と性的パートナー固定の歴史的意義、母権主義と父権主義と宗教の変遷など、一般的な雑談としても多くの人が興味を持ちやすいトピックは数多くありますので、このテーマなら何十分でも語れるというトピックを幾つか持っていると『体育会系コミュニケーションへの適応性』は高まるかもしれませんね。

セクシャリティと金銭に関係するあからさまな欲望の暴露と伝達というのは、最も根源的な人間の志向性と社会的な倫理観とが相克するものですから、どうしても快と不快の反応が複雑に交錯してしまう難しい話題ではあると思いますが。

■書籍紹介

恋人選びの心―性淘汰と人間性の進化 (1)

元記事の執筆日:2006/04/01

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