電車・バスの中における携帯電話の通話はどうして迷惑に感じるのか?儀礼的無関心とマナー違反,中学生・高校生のヘアスタイルや制服はなぜ規制されるのか?“外観の自由”と“生徒の自己管理能力”

スポンサーリンク

中学生・高校生のヘアスタイルや制服はなぜ規制されるのか?“外観の自由”と“生徒の自己管理能力”


現代社会における自己アイデンティティの複層性・断片化が生む自由と孤独:G.ジンメルの社会形成の思想


現代社会における自己アイデンティティの複層性・断片化が生む自由と孤独:G.ジンメルの社会形成の思想


なぜ人は“性”と“金銭”に対して特別な『両価性(尊重・侮蔑)』を感じるのか?銭ゲバと売買春の道徳判断


“モデルとしての人間”には客観的な生きる意味はないが、“実在する私(主観)”は生きる意味を経験する


“生きる意味”がないと判断する人間理性の問題点と“世俗の雑事・所用”を煩わしく感じる遁世・脱俗の欲求


適応的な精神機能が低下する“精神衰弱”と完全主義欲求・自己不確実感によって持続する“強迫性障害”


旧ブログの記事一覧

電車・バスの中における携帯電話の通話はどうして迷惑に感じるのか?儀礼的無関心とマナー違反

前回の記事で書いた『迷惑』というのも、『自分がして欲しくないことを、他人にしてはいけない』という風に理解するだけでは、『自分がされても構わないこと』『相手にとっての迷惑行為』になる可能性がある。こういった迷惑行為に対する認識の違いというのは、知らない他者が集まって形成する『公共空間(道路・電車・バス・公園・図書館・病院の待合室など)』において良く見られるが、大半の人が迷惑と感じる行為にも『実際的な被害・他人の行動の妨害』が殆どないというものは意外に多い。電車・バスの中で、携帯電話で通話をすることや女性が化粧をすること、公共の道路でカップルがキスをしたりいちゃつくことは『迷惑行為』と認識されることが多いが、それらの行為が他人の行動の自由を制限したり、受忍限度を越えた不快感を与えているとまでは言えないようにも感じる。『自意識過剰で他人の行動を気にし過ぎているだけだ』と反論されれば、その通りかもしれないとふと思わせられる部分もあるが、大抵の人は公共空間で携帯電話で通話をされたり化粧をされたりすると『話し声がうるさい』というレベルとは別の違和感や不快感を感じる傾向がある。個人的には女性が電車内で化粧をするのはそれほど気にならないが、やはり携帯電話で通話をされていると、声の大きさが普通であっても何となく不快感を感じることはある。

電車・バスなど狭い公共空間における『携帯電話の通話』がマナー違反や迷惑行為と認識されているのは、静かに本を読む場所である図書館で携帯電話の通話が禁止されていることとは意味合いが異なってくる。公共空間ですべての人は、『特定の個人』としては認識されずに『不特定多数の中の一人(匿名者)』として認識されることになるが、そこでは周囲の他人に特別な興味関心がないことを示す『儀礼的無関心』の態度が取られることになる。社会学者アーヴィング・ゴフマン(Erving Goffman, 1922-1982)が提起した『儀礼的無関心』とは、公共空間において自分の心理的なパーソナルスペースを確保する態度であり、相手に気づいていても相互に無関心を装うことで相手のパーソナルスペースを尊重する姿勢を示す効果もある。人間は通常、公共空間において自分が知らない他者が一定以上の距離(半径45センチの密接距離)に近づいてくることを警戒する本能を持つが、満員の電車・バス・映画館などの公共空間では他人と密接して時間を過ごさざるを得ないので、儀礼的無関心によって仮想的に安心できるパーソナルスペースを作り、お互いにできるだけ干渉しないようにする傾向がある。

楽天AD

電車・バスで携帯電話の通話がマナー違反とされる理由は二つの側面から捉えることができるが、一つは話し声によって儀礼的無関心の態度が取りにくくなり『公共空間』の中に『相手の私的空間の広がり』を持ち込まれるという不快感であり、もう一つは携帯電話で話している人が儀礼的無関心のレベルを越えた『完全な無関心』の態度を取って自分や周囲を無視しているように感じられる不快感である。これは客観的な被害や迷惑とまでは言えないが、神経質に気にするか気にしないかは別にして(我慢しようと思えば我慢することはできる)、ほぼすべての人がうっすらとは感じる違和感であり不快感であるため、電車・バスなど狭い公共空間における携帯電話の通話はマナー違反として禁止されることになる。アーヴィング・ゴフマンは公共空間における暗黙の了解や儀礼的無関心の相互作用から逸脱することを『離脱』と呼んでいるが、離脱とは周囲の他者の行動規範から外れて、自分だけの世界や用事に没頭するようなことを意味している。集団社会や公共空間における『離脱』は儀礼的無関心のレベルを越えて、周囲の他者への関心をシャットアウトすること(他人から見てシャットアウトしているように見えること)であるが、簡単に言えば周囲から浮き上がっている行動パターン(周囲の他者の存在を無視する行動パターン)を意図的に取っているように見られるというのに近いだろう。

『離脱』は周囲にいる他者に『疎外感』や『自己の無視』といった感覚を潜在的に与える効果があるのだが、離脱には様々なパターンがあり必ずしもその全てがマナー違反や迷惑行為に該当するわけではない。小中学校のいじめでは、大人しくてクラスに馴染めないような生徒がいじめの対象にされることもあるが、その場合にもいじめられている生徒が『離脱』していることによって、クラスの調和や秩序を乱す存在として攻撃されることがある。この場合には、一人で静かに本を読んだり絵を描くなどして離脱している生徒に落ち度や責任はないのだが、集団生活で『何となくあいつは気に食わない』というケースでは、かなりの比率で『離脱』の要素が関係していることがある。『離脱に対する非難・排除の気持ち』は、いじめられる生徒のような弱い立場にある者に向かうだけではなく、学校で力を持っているグループなどが少人数で大声で笑ったりふざけたりして馬鹿騒ぎをしている時なども、かなりの数の生徒が内面ではそのグループの離脱に対する不快感・違和感を感じていることがある。『離脱』の中には、自分の優位性や楽しんでいる雰囲気を周囲にそれとなくアピールしようとする無意識的欲求が内在していることもあるが、そういった顕示的アピールの感覚を感じることによる不快感というのもあるだろう。

しかし、『相手の離脱による不快感』は他人との間だけではなく、家族や恋人などの親密な相手との間でも頻繁に起こり得るのであり、父親が妻や子どもに食事中にはテレビを見るなというようなことにも『離脱(自分の存在の無視・疎外)』の不快感が関係している。恋人が食事中に自分のほうもまともに見ずに携帯電話でメールばかりしていると不快感を感じるといったようなことや、子どもがゲームばかりして自分にまるで関心がないように振る舞うといったことにも離脱の影響を見ることができる。公共空間における離脱は、所詮は自分と何の関係もない他人なのだから、他人が完全に無視していようが私的空間を拡張して閉じこもろうが気にしなければ良いという意見はもっともなものであるし、大半の人は実際に多少気になる離脱(マナー違反)があっても気にならない振りをしているだろう。しかし、そういった疎外感や不快感を半ば本能的・反射的に感じてしまうこと自体は否定できないことであり、普段は周囲を気にせずに『公共空間』を『私的空間』に変質させて自由気ままに利用する人であっても、自分の周りで他人が同様の行為をすればやはり何となく気になってしまうものなのである。

公共空間における儀礼的無関心というのは『相手の存在に気づいているが敢えて気づかない振りをすることで、お互いのパーソナルスペースの尊重を暗黙の了解として確認する』といった態度であるが、携帯電話で周囲に遠慮せずに通話したり集団で大声で騒いだり、黙々と人前で化粧をするという行為は『相手の存在がそこに初めから無かったかのように私的空間の拡張を図る』といった印象を周囲に与える。しかし、そういった行為が不快感を与える原因の一つは、『周囲の他者のパーソナルスペースを尊重していないように見られること(周囲の他者をモノ化・風景化して認知していること)』であるから、公共空間で携帯電話で話をするにしても『ちょっとすいません。すぐに終わりますから』と声を掛けたり小さな声で手短に話を終わらせたりすれば、周囲の人の不快感や迷惑感はそれほど強くはならないだろう。バス・電車の中での携帯電話の通話に限らず、心理的不快感を与えるだけの多くの迷惑行為(人の行動をいちいち気にする相手のほうが自意識過剰なだけという反論もできそうな迷惑行為)は、『公共空間で何の遠慮もせずに、周囲の他人がそこにいないかのように振る舞うこと(儀礼的無関心の暗黙の了解を破ること)』に対して違和感・不快感を感じることが多いのであって、行為そのものの被害や迷惑が必ずしも問題にされているわけではない。

スポンサーリンク

中学生・高校生のヘアスタイルや制服はなぜ規制されるのか?“外観の自由”と“生徒の自己管理能力”

ヘアスタイルや服装などを画一化する『学校の校則』が何のために存在するのかという理由については、『工場労働者やサラリーマンとしての社会適応(集団協調のための規律訓練)』という観点から、過去に『でたらめな仕組みで動く社会』の正当性や根拠にまつわる考察という記事を書いた。最近、学校の校則にまつわるニュースとして、鹿児島県の公立中学の『中学生に丸刈りを強制する校則』を廃止すべきか否かというニュースや、高校入試で試験の点数とは別に『髪型や服装に関する非公開の基準』を設けて髪を染めている生徒や服装違反をしている生徒を不合格にしたというニュースを見た。

学生の丸刈り強制は『義務教育』『軍隊教育』の擬制と見なしていた近代教育制度の名残と言ってよいが、構造主義の哲学者ミシェル・フーコーが学校を軍隊と同じ規律訓練システムと見なしているように、近代の学校とは基本的に既存の社会的権威(上下関係のヒエラルキー)に従順な『管理される身体(規範を内面化した身体)』を作り上げる社会装置として位置づけられていた。 『ヒエラルキー(所属組織)の上位者』『集団で共有されるルール』に自発的・道徳的に従う“社会人(組織人)”を育成するのが、近代的な学校教育の主要な役割であることは今も昔も大差ない。一般社会でも少数の例外的な職業を除けば、まっとうな社会人・常識人として評価されるのは、“ヒエラルキー(公的な上下関係)”“ルール(法律・慣習)”を遵守する人たちであるし、そういった人たちが多数派でなければ規則正しい企業生活や安定した社会秩序を維持することは難しくなるかもしれない。

髪型や服装の逸脱を理由にして、高校入試で合格ラインの点数を取っていた生徒を不合格にするというのは、『髪型・服装の合格基準』を事前に呈示して、入学後もその基準を守れない生徒は入学・在学を認めないという通知をしていなければ、『生徒の学習権・入試合格のための努力』を不当に侵害することにつながるとは思う。髪型や服装を『合否判定の基準』に利用することそのものが問題なのではなく、事前にそういった基準や校則が存在することを受験者に通知せず、不合格理由を曖昧にしていたことが問題なのであり、『情報公開に基づく入学試験の公正性』の観点から髪型・服装の基準は事前に公開することが望ましいとは言えるだろう。茶髪や制服の改造で卒業式に出られず、教師に対する暴行事件を起こした女子中学生についての以下の記事を読んだ。女子生徒の刃物を用いた脅迫・暴行はもちろん許されない犯罪行為であるが、どうして中学や高校では『髪型・髪の色・制服・パーマ』などを細かく規制することが多いのかについて少し考えてみたい。

茶髪の何がいけないのでしょうか/意味のない校内ローカルルールには断固として反対する
楽天AD

大半の中学・高校には、茶髪(染髪)やパーマ、制服の改造を禁止する校則があるものだが、そういった校則が存在する理由は『近代的な労働・企業に適応性の高い学生』を育成するためであり、『勉強・授業に集中しやすい学校環境』を整備するためである。逆に言えば、『学習意欲の向上・真面目な授業態度・社会規範や礼儀作法の習得』などの学校教育の目的が達成されるのであれば、茶髪金髪にしようがパーマをかけようが、制服をミニスカートやボンタンに改造しようが、校則で厳しく禁止するほどの問題ではないと言える。しかし、学校教育の過去の歴史的経緯から『服装や髪型による個性の主張』が『生活の乱れや学習意欲の低下』につながりやすいというイメージ(固定観念)が持たれていて、『生徒の自己規律・学習態度』に対する大人の側の信頼性が十分に担保されていないという問題は依然として残っている。

つまり、『服装の乱れが生活の乱れ』という紋切り型の標語が今でも説得力を持っているように、ヘアスタイルや服装、化粧を完全に自由化すると『非行・遊興・過度のおしゃれ・異性関係』に流される生徒が増えて、学校の秩序や学習環境を安定的に維持することが困難になるのではないかという『学校側(大人側)の懸念』が拭えないということである。この懸念は『生徒が何のために髪を染めたり個性的な服装をしたいのか?』という心理的要因に基づくものである。生徒が『学業とおしゃれの両立』の意志を持って、最低限のルールやマナーを守れるのであれば問題はないが、『学業放棄の結果としてのおしゃれ・反社会的な荒れた価値観や非行の反映』であっては学校教育の目的の根本が揺らぐことになる。学校が生徒のヘアスタイルや服装を監視して禁止する大きな理由の一つは、『学業に興味がなく反社会的な非行行為を行う不良(ヤンキー)』『茶髪・金髪・違反の制服』のイメージが余りに強く結びついていて、真面目に授業を受けて教師の適切な指導を受け容れる生徒と茶髪や制服の改造のイメージが殆ど結びついてこないからだと言える。髪型や服装を完全に自由化すると、生徒が勉強しなくなったり非行に走ったりするリスクが高くなると推測しているため、学校はそれらを画一的に校則で規制しようとするのである。

茶髪にするために髪を染めたり、制服を自分の好きな形に改造したりする行為自体には『良い・悪い』の価値判断はないが、少なくとも茶髪にしたり服装を改造することが『学校教育の目的・生徒の生活指導(授業態度の管理)』に役立つとまでは言えないだろう。仮に、髪を染めたりミニスカートにすることが、生徒の学習意欲や学力を向上させて生徒指導を容易にするのであれば、学校は全面的にそれらを認可するはずである(服装髪型の検査など非生産的で非本質的な管理コストも省ける)が、現段階では偏見や先入観も含め『学習意欲の低下・教師の生活指導への反発』を招くマイナス要因として『服装・髪型の自由化』が見なされているためにそうなっていない。茶髪の女子生徒がはさみで暴行事件を起こしてしまったという事例などは、『髪型・服装の校則違反をする生徒は、学校教育の目的や教師の生活指導を阻害しやすい』という傍証になる恐れもあるが、校則で染髪や服装違反が禁止されている理由の何割かは『過去のヤンキー文化(暴走族文化)・校内暴力・性非行(援助交際)』などによって補強されているとも考えられる。

過去には学校教育に適応できず教師の指導も受け容れない生徒が、反社会性や暴力性を示威的にアピールしたり授業・生徒指導を妨害するために、髪を染めたり服装を改造していたりしたことがあるので、『若者の服装の乱れは生活(心)の乱れ』という標語が社会全般においてかなりの説得力を持ってしまっている。『人間を外見だけで判断してはいけない』というのは普遍性の高い命題ではあるが、それと同時に大人の社会でもTPOに合わせた『ドレスコード』というものがあり、『外見や服装から中身・地位・職業が推測される経験』というのはそれほど珍しいことでもない。丸坊主に制服は中学生では『健全な青少年のドレスコード』として機能しやすいが、丸坊主(スキンヘッド)にダークスーツを着て威圧的な雰囲気の大人は『反社会的集団の構成員のドレスコード』として機能することもあり、一定以上の年齢では『外見から中身を推測されること』を前提にして髪形や服装をセレクトしているのである。『自分が相手にどのように見られたいか』という意図を抜きにして、ファッションやヘアスタイルの選択は通常ありえないように、『他者(社会)が自分をどのように見ているか』という社会一般のファッションに対する通念(パターナリスティックな観念)も個人のファッション選択に大きな影響を与えているのである。

スポンサーリンク

公教育における髪型・服装の自由化のためには『個性的で派手な外見』が反社会性や学業の放棄(学力の低下)とつながっていないことが確認されなければならないが、現在では『非行行為・ヤンキー文化』とは無関係に『純粋なおしゃれ・ファッション』を目的にして茶髪や制服の改造をしたいという生徒が多くなっていることも考慮する必要はあるだろう。髪を何色に染めようがどんな服装をしていようが、真面目に授業を受けて学力向上に努め、粗暴ではない礼儀正しいコミュニケーション(良好な友人関係の維持)ができ、学校の基本的秩序(他の生徒が授業を受ける権利)を脅かさないのであれば、それは『個人の自由』だとは思う。『茶髪にして制服を改造しても、学習意欲・生活態度・性格傾向に悪い変化が起こらない』ということを生徒側が何らかの形で立証できれば、それらに関連する校則を廃止する実証的根拠が生まれる。反対に、ヘアスタイルや服装を自由化することで、学校の秩序を維持できなくなり非行事実が増加して、学習意欲や規範意識の低下が起こるのであれば、髪型や服装を規制する校則の必要性が再認されることになる。

どうすれば学校・大人が『髪型・服装の自由化』に納得してくれるかというのは実際には難しい課題だが、『入学時点での学力による生徒の選別+卒業時の学力・進学率の維持』か『在学中の生徒の学力・態度・規律などの定期的評価』などの方法を採用して、『外観の自由化』が学習態度や学業成績、礼節・秩序に悪影響を与えないことが証明されれば校則は緩和される可能性があると思う。生徒が自分で自分の学習行動や生活態度、礼儀作法を自己管理できるという信頼があれば、学校・大人は必要以上にファッションや外見の規制をする必要性がなく、実際に偏差値が高い進学校の一部では『生徒の学習・生活行動の自律性』に対する信頼から服装・髪型の自由化に踏み切っている学校も存在している。中学生・高校生の精神発達や人格成熟の水準を考えると茶髪や服装の改造が『教育目的の遂行の阻害要因(学習意欲の低下や非行の誘発要因)』となる可能性は否定できないが、最終的には『生徒の自己管理能力の実証性(おしゃれと学生の本業の両立)』が問題になってくると思う。

中学・高校を卒業すれば、派手な金髪はともかくとしておしゃれ目的の茶髪は、企業のオフィスでも認められているところのほうが多いので、さまざまな不利益や圧力を受けてまで学生時代に無理して茶髪にしなくてもと思ってしまったりもするが……学校で禁止されているからこそ『個性の演出』のために余計に髪を染めたくなるというのもあるかもしれず、禁止事項のない大学生・社会人になって暫くすると大半が無難な髪型(それほど目立たない髪色とヘアスタイル)にまとまるのだろう。学校教育(特に義務教育)は『組織・仕事・上下関係』に適応するための基礎訓練を提供する場としての役割も持っているので、好むと好まざるとに関わらず『個人の欲求・個性の発揮』よりも『組織の論理・集団のルール』によって運営されることが多くなる。そして現実的にも、大多数の学校卒業者は“フリーランス(組織に属さない個人)”として個人の技量・魅力・営業で仕事をすることは少なく、“サラリーマン(組織の一員)”として給料を得る職業生活を送ることになるので、学校教育の目的が殊更に的外れというわけでもないことは認識しておく必要はあるだろう。

楽天AD

社会人の場合でも、個性的な目立つ外見と中身・能力のギャップが逆説的に『良いイメージ・高い評価・人物の魅力』につながる可能性は確かにあるが、その為には『外見から推測されているイメージ』を良い意味で裏切るだけの能力や実績の裏づけ、あるいは、職業アイデンティティと外見のイメージの一致が必要になってくる。同時に、『学校教育の目的・校則の遵守』『社会適応(職業活動)の能力』は必ずしも一致しているわけではなく、学校教育の機能不全(規律訓練システムの形骸化)という問題も大きくなってきている。『生徒の自己管理能力』というものを長期的スパンで見ると、髪型や服装の規定といった些細な問題を超えて『自分なりの社会適応・経済能力を獲得できるか否か(自分の個性を社会的自立や人格的魅力と統合できるか)』という問題へとつながることになる。

そして、外観や振る舞いも含めて自らが信じる『個性』を、社会的な有能性や他者からの人格評価、経済的な所得、適度な自尊心へと結び付けていくプロセスこそが、学校を卒業した社会人の仕事や人生、人間関係が上手く発展していくかどうかの鍵を握っているとも言える。

現代社会における自己アイデンティティの複層性・断片化が生む自由と孤独:G.ジンメルの社会形成の思想

前回の記事の続きですが、社会行動や他者との関係性が一切無い個人を仮定するならば、“私(自我)”は『観察(認識)する精神の視点・延長としての世界をただ認識し続けるもの』に過ぎないということになります。こういった生活実態やコミュニケーション、社会活動のない抽象的個人(精神)の仮定では、どう考えても現実に存在する個人の人生や人間関係の実情を説明することは不可能であるように思います。知の根本原理(明晰かつ確実な知の根拠)に強くこだわったデカルトが『精神(自我)』『神の擬制』として捉えている節もあるわけですが、『人間の精神(自我)』は世界理解のための明晰な知識を得るためだけに存在しているわけではないというのが一般的な自己認識でしょう。すべての人間が哲学者や科学者のように『普遍的な知・一般的な法則』のストイックな探求に人生の大半を費やすという仮定は非現実的なものであり、大半の人間は『社会・他者との相互作用による自己実現(幸福追求)』に知の探求以上の価値を見出します。

現実社会の中で、他者との相互行為(コミュニケーション・仕事・恋愛・結婚)を経験して、『自己アイデンティティ』を確立しながらより充実した人生を目指すためには、『他者による自我の評価・役割期待』が必ず必要となってきます。『自己による自己の言動の評価』という内省や再帰性も、自己の行動選択にとって大きな役割を果たしているのですが、こういった自分で自分のことを意識できる『自己意識』も他者との相互行為の経験の中で形成されてくるものです。S.フロイトの精神分析理論では自己の言動の善悪を判断する『超自我(スーパーエゴ)』は、エディプス・コンプレックスの経験によって段階的に発達していきますが、超自我の発達は『社会性の獲得・親(社会)の規範意識の内面化』と深い関係があります。自分で自分の言動を内省的に評価(査定)できる『自己意識』も過去の人間関係やコミュニケーションの経験によって培われるものであり、自己意識の形成プロセスでは『一般化された他者(社会)の態度や常識』が内面化されています。

一般化された他者の態度(規範・価値・常識)が内面化されると、『実際に行動する自己』『メタレベルで観察する自己(自己意識)』との分離が起こってくるのですが……社会学者のG.H.ミード(1863-1921)は行動する自己を“I(現時点の行動する私)”、観察する自己を“me(過去の経験を蓄積して自己規制する私)”という風に区別して、自己認識の二重構造(いつも自分で自分を観察している自己意識があるという構造)を整理しています。精神(自我)と延長によって世界の構造を自己完結的に説明するデカルトのモデルでは、精神(自我)は『他者の実在』を懐疑することによって自己アイデンティティを持てないという限界がありますが、現実的な社会生活においては『会社員・職業人としての私,父・母としての私,子としての私,友人としての私,恋人としての私,学生としての私,思索者としての私』など他者との相互行為によって半ば必然的に自己規定が行われ自己アイデンティティが立ち上がってきます。

スポンサーリンク

社会学者のG.ジンメル(1858-1918)は人間が他者とコミュニケーションして相互行為をすることによって、『個人化(個人形成)』『社会化(社会形成)』が同時進行するというアイデアを持っていましたが、個人は社会環境の中で他者とコミュニケーションすることによって『関係性・属性・役割・評価』などを獲得することができ、『ある人にとっての何ものか(=部分的アイデンティティを持つ者)』になっていきます。すべての社会活動やコミュニケーションから切断されている個人は、『他者から固有名で認識される経験』『社会的な属性(職業・役割・立場・性格)』を持つことができないので、他者に対して『自分が何ものであるのか』という自己アイデンティティを確立しにくくなります。ゲオルグ・ジンメルの言う『個人化(個人形成)』と『社会化(社会形成)』のプロセスは、閉鎖的な共同体では相互補完的に機能しますが、現代社会のような人間関係・役割期待が固定されない流動性の高い社会では『個人のアイデンティティが形成されるプロセス』と『社会集団が形成されるプロセス』とが対立的になる場面が増えてきます。

現代社会に生きる私たちの自己アイデンティティは『単一的・固定的な特徴』を持たず『複層的・多面的な特徴』を持っているので、『所属している集団・果たしている役割・自己と相手との関係性・行動の自由度』などによって私たちの自己アイデンティティはある程度の可変性と流動性を持っています。社会や組織の一員として自分の欲求・意志を抑制して働くことを『社会の歯車になる』という風に表現することがありますが、現代人の大半は『社会の歯車としてのアイデンティティ』を全人生・全生活時間を通して単一のアイデンティティにしたいとまでは思っておらず、どんな人でも『働いている時のアイデンティティ(公的領域における自己)』『働いていない時のアイデンティティ(私的領域における自己)』との間に一定以上の分離が見られます。

流動性が高く変化の速い社会で生きている人間は、『複数の集団への所属・複数の人間関係における立場・状況適応的な自己呈示の使い分け』を前提として社会環境の中で相互行為を繰り返しているわけですが、この事が『多重役割(multiple role)による自由度とストレス』を生み出しています。近代以前の農村共同体では『単一の集団と職業への帰属・固定的な人間関係・定型的な自己呈示』によって、単一的な自己アイデンティティの確立を行うことができましたが、社会経済システムと人間関係が複雑化した近代社会では『自分が何ものであるのか?』という自己アイデンティティが、その時々の場面や状況・役割によって大きく変化することになります。

なぜなら、近代以降の社会では『生活する場所・働く場所・遊ぶ場所・相互行為する他者』がそれぞれ分離しており、『各種の状況における自分の断片的アイデンティティのすべてを知る他者』が殆どいないからです。家族関係の中にあっても『働いている時の自己アイデンティティ』は家族に十分理解されていないことは多くあるでしょうし、夫婦間に不倫問題などを抱えていればますます『断片的な自己アイデンティティの拡散(相手の知らない私の一面の増加)』が起こって相手に対する全体的な相互理解が難しくなります。どんなに親しい家族や恋人、親友であっても『その相手が直接確認できない断片的アイデンティティ』を持っているということが、複雑化・細分化する現代社会の自己アイデンティティの特徴の一つですが、『相互の秘密を織り込んだ信頼関係(相手を裏切るような秘密を持たないと確信できる人格上・経験上の信頼)』を構築できるかどうかということが円滑な人間関係を保つために重要になってきます。断片化した自己アイデンティティの使い分けが増えれば増えるほど、特定の帰属集団や人間関係に束縛されない『行動・生活の自由度』は高まりますが、安定したアイデンティティを持続できないという意味で『心理的な孤独感・他者からの疎外感』が強まりやすいというデメリットもあります。

楽天AD

青年期のモラトリアムや中年期のアイデンティティの危機と関連するアパシー・シンドローム(選択的退却)

仕事・学問といった『本業』に対する意欲(やる気)が大幅に低下しているのに、趣味・アルバイトといった『副業』に対してだけは活動的に振る舞えるという“選択的退却”の問題があります。退却神経症とアパシーについては『仕事中だけ鬱になる“新型うつ病”』の記事で詳しく考察しましたが、退却神経症は発達段階(年齢・社会的役割)によって『青年期のモラトリアム(スチューデントアパシー)』『中年期の危機(自己アイデンティティの回顧と人生への懐疑)』に分けることができます。選択的退却の特徴を示すアパシー・シンドローム(意欲減退症候群)や退却神経症というのは、『適応障害やアイデンティティ拡散の結果』であり、統合失調症やうつ病、解離性障害(離人症)といった精神疾患とは異なります。出社拒否・登校拒否・職場放棄(学業放棄)など“アブセンティズム(欠席・欠勤の常態化)”の問題が起こってくると、外見的な状態像としてはひきこもりやニートに近くなってくることもありますが、本業以外の適応能力やコミュニケーション能力、遊びに出かける活力は維持されていることが多いため、単なる怠けや無気力、生活習慣の乱れの問題と見なされることも多いでしょう。

成人でも未成年でも、アパシーや選択的退却の問題の中核は『今まで学校・職場にそれなりに適応できているように見えた人(ある程度優れた成績や勤務実績を上げているように見えた人)』が突然、大きな理由もなく本業に対する意欲(やる気)や責任感を失ってしまうということにあります。ひきこもりでは不適応状態が長期的に遷延していて外向的な活動性・他者との係わり合いを失っていることが多いですが、退却神経症(アパシー)では不適応状態の領域は限定的であり、本業以外の活動やコミュニケーションに対しては積極的に取り組んだりもします。少し前までは学業や仕事にも熱心に取り組んでいてある程度の結果も残せていたことから、『本気でやればできる・一時的にやる気を無くしているだけ』という認識を周囲から持たれていることが多く、何となく本業を疎かにして放置しているままに数年以上の時間が過ぎ去っていくことも少なくありません。学生ではスチューデント・アパシーの結果として『モラトリアムの長期化・留年・中退』などの不適応が起こってくることがあり、社会人やサラリーマンでは退却神経症の結果として『休職‐自発的失業‐求職意欲の低下・生活圏からの失踪(遁走)』などの深刻な問題が起こってくることがあります。

退却神経症のアパシーには『理由が分かりにくい適応状態から不適応状態の転換』が目立ちやすいという特徴がありますが、本業への関心や意欲、責任意識を無くす理由には大きく分けて『環境適応の障害(過剰な精神的ストレスや自己批判的な責任感)』『自己アイデンティティの拡散(自己承認と役割意識のバランスの失調)』があります。社会適応上の挫折(自尊心の傷つき・本業を頑張る意味の喪失)やストレス耐性の限界からくる『逃避願望(ストレス回避行動)』によって、『学校の欠席・職場の欠勤』が起こりやすくなり、『逃避する安心感・ストレスの無い気楽さ』の経験を重ねることによって選択的退却(本業からの遠ざかり)が固着してきます。

表向きは普通に問題なく働いているように見えた新入社員(新規のアルバイト・パート)が、翌日、急に無断欠勤してそのまま仕事を辞めてしまうケースなどでは、『ストレス耐性や環境適応の限界』が原因になっていることが多いのですが、『無理している素振り・不満を抱えている様子』を職場の同僚の前では見せないというのが退却神経症やアパシーの特徴でもあります。無理してギリギリのレベルで何とか適応していることや、仕事を辞めたいと考えていることを過度に恥ずかしい(自分は仕事が続かないダメな人間である証拠)と感じて隠し通そうとすることで、『精神的ストレスが蓄積していくプロセス・仕事を辞めたいと思うほどの悩んでいる様子』が周囲にいる他人からは殆ど見えないことが多いのです。

事情が飲み込めない周囲の人からすると『何で急に辞めてしまったのか分からない・なぜ欠勤して電話にさえ出ないのかが分からない』ということになってきますが、勤務期間の短い社員・アルバイトが突然、何の前触れもなく辞職してしまう不適応問題では『建前として見せる意欲(採用段階でのやる気の演出とアピール)』『内面における意欲(日常的なやる気の実践と持続)』とのギャップの大きさも関係しています。スチューデント・アパシーでも、基礎学力が高くて一回限りの『入学試験』に合格することには何の問題もないが、大学の講義を毎日受けることには上手く適応できないという学生がいますが、新卒者の職場不適応の問題でも、その場限りの試験・面接を上手くやり過ごす『採用面接』では高い評価を得られるものの、実際の仕事になると遅刻・欠勤などを繰り返して意欲が無くなっていき、サラリーマン生活に上手く適応できないという人がいます。

スポンサーリンク

『本業の入り口(選別採用段階・能力試験)』をパスする能力を持っていても、『本業の持続性(日常の業務遂行・生活規律)』に何らかの困難や障害を抱えているということですが、アパシーや退却神経症の問題では『本業への意欲を持続できないようにする自己アイデンティティや価値認識の拡散』が起こっていることが多いのです。本業(仕事・職業)に対する意欲・関心を失う退却神経症を持つ人の中には、平均よりも優れた特定分野の才能や短期的な課題達成の能力、センスの持ち主も少なからずいますが、仕事が安定しない原因として『持続的な意欲・規則正しい生活リズム・長い拘束時間・階層的な人間関係』などに対しての適応能力を欠くという問題が指摘されます。こういった不適応に陥りやすい性格行動パターンの類型は、難関資格をいくつも取得しているのに職場適応が難しいという資格マニアの問題や、学生時代の『学校適応(学業成績)』は良かったのに社会人になってからの『職場適応(経済生活)』が困難になっているペーパーテスト(一時的な試験)に特化した能力の問題にも見ることができます。これらの性格行動パターンでは、自己完結型の課題解決(学習活動)に過度に偏っている問題があり、十分な準備をしてから他人に干渉されずスムーズに結果(成果)を出してしまいたいという自尊心の高さ(ミスや面倒・時間拘束を嫌う完全主義)があるので、職場で他人と協調して仕事を進めることが困難になりやすいのです。

ただし、退却神経症やアパシーの問題に共通する特徴として、『主観的苦悩や迷いが意識化されにくい(何となく意欲や気力が起きないという自覚に留まる)』ということがあるので、こういった本業に対する適応困難の問題を抱えているとしても、本人は十分な苦悩や葛藤を感じていないケースも多いと言えます。アパシー・シンドロームによって『本業への不適応・無気力』を起こしやすい性格行動パターンの主な特徴としては以下の5つを考えることができます。

1.完全主義欲求と要求水準(目標設定)の高さ……わずかなミスや失敗も許せない潔癖な完全主義によって、自分の思い通りに状況が推移しなかったり理想的な計画の変更を余儀なくされた場合には挫折しやすくなる。自分の能力を大きく超えた高度な要求水準を持つことによって、実際に取り掛かる前から敗北感や挫折感が強まりやすい。

2.持続性・耐久力・ストレス対処の弱さ……一つの物事や課題に対して粘り強く集中力を注いで取り組むことが苦手で、規則正しい生活や職務を持続することが困難である。長時間の作業によって持続力・耐久力が限界に近づきやすく、小さなストレス状況にも上手く対処することができなくなる。

3.自尊心(プライド)と自己愛の強さ……自尊心(プライド)の過剰によって分からないことを他人に質問したり教えてもらったりすることが難しく、自己完結的な学習課題以外の遂行が難しくなる。他人に批判されて傷つけられることや他人が自分の上位に立つことが許せない自己愛の強さによって、協調性を求められる集団生活や序列のある職場の人間関係に適応しにくい。

4.非社交的な内向性・孤立性……他人とコミュニケーションしたり触れ合ったりすることを基本的に好まないので、学校・職場の人間関係から孤立しやすくなり、内向的な能力・活動が高く評価される場面(分野)でないと実力を発揮しにくい。

5.感情表現と協調性(相互扶助)の乏しさ……他人から支援してもらったりフォローしてもらうことを好まず、自分ひとりで何でもやり終えようとするので、相互扶助のチームワークを上手く機能させることができず仕事に支障を来たしやすい。率直な意思疎通や感情表現を行うことが苦手で、内面に不満や葛藤を静かに溜め込むことによって、フラストレーションが不適切な形(職場放棄・攻撃的言動・突然の辞職)で爆発する恐れがある。

楽天AD

職場不適応の問題は仕事や人間関係に慣れていない『新入社員(勤続年数の短い人材)』だけではなくて、既に一定以上の職務キャリアを積んでいる『中堅以上の社員(勤続年数の長い人材)』にも起こることがあります。学生から社会人になるプロセスでは、自分の社会的アイデンティティ(進路・職業)を選択せずに曖昧な立場を維持する『青年期のモラトリアム』の問題がありますが、長い期間にわたって社会人(サラリーマン)として働いてきた人にも、自分の人生のプロセスや仕事の意味に疑念を感じて、今まで安定して築いていた自己アイデンティティが拡散する『中年期の危機』の問題があります。

同じアパシー・シンドローム(意欲減退症候群)や選択的退却(本業への無気力)の問題を呈していても、青年期のモラトリアムでは『何も選択しないことによる“選択肢の確保(何ものにも成り得るという万能感の幻想)”』に重点があり、中年期の危機では『既に選択してしまった自己アイデンティティに対する“方向転換の欲求・逃避願望”』に重点があります。青年期のモラトリアムでは『社会的アイデンティティが確定することへの不安・抵抗』が根底にあるので、自分の興味関心・適性・能力を現実的に把握しながら『理想自我』『現実自我』のギャップを段階的に埋めていくことが課題となります。まずは、何かの職業や仕事にチャレンジしてみないことには自己アイデンティティの拡散を改善できないのですが、その為には優勝劣敗(勝ち負け・自己防衛)にこだわり過ぎずに、実際の職業活動や対人関係の中で改めて自尊心(自信)や自己肯定感を積み上げていくという意識の転換が必要です。

中年期の危機は『自分の人生の全体像・職業キャリアの最終的な到達点』が大まかに見えてくることによって起こりやすくなりますが、過去の人生設計や仕事のマイナスの部分(後悔している部分)ばかりに注意を向けるのではなく、『自分で自分を評価できるポイント・仕事と家庭生活で満足できる事柄・現実状況に見合った向上心(方向転換の可能性)』に注意を向けることが大切になってきます。中年期以降に人生の方向性(意義)を見失って現実の生活(家庭)や仕事から反射的に逃避(退却)しても、新たな自己アイデンティティを望ましい形で再構築することは困難ですから、『今ある人間関係・現実的なチャンス』を生かしながらアイデンティティの再構築を進められるか否かが現実適応のキーになります。

青年期においても中年期においても、本業から逃避するアパシー・シンドロームや選択的退却を経験した後には、いずれ『主観的な苦悩・葛藤』を伴う自己選択(自己決断)の試練に直面せざるを得ない状況が訪れると推測されます。そこに至って、適応的レベルの『本業に対する意欲・気力・関心』を取り戻していくためには、自尊心や現実認識(人生設計)、対人関係(協調的な社会性)に対応する『段階的な自己アイデンティティの修正・再編』が求められますが、そこで重要になってくるのが『失敗や批判を過度に恐れないメンタルタフネス・完全主義思考の抑制による実現可能な目標設定』であると言えます。

なぜ人は“性”と“金銭”に対して特別な『両価性(尊重・侮蔑)』を感じるのか?銭ゲバと売買春の道徳判断

まなめはうすのニュースで、『売春がいけない理由』という記事を読んだが、売買春がどうして道徳的に否定されやすいかの理由には大きく分けて4つの観点があると考える。いずれにしても売春は被害者のない犯罪と称されることがあるように、個人対個人の関係性においては『道徳的な悪性・生理的な嫌悪』を必ずしも生じさせるものではなく、“社会的な評価・他者のまなざし・内面の規範意識”がそこに加わることによって初めて善悪の価値判断が下されることになる。

1.“社会秩序”を形成する婚姻制度・家族秩序に対する違反。

2.“性・人格”の内在的価値を生み出す神聖性・秘匿性に対する違反。

3.人間の普遍的な欲望の対象である“金銭”と“性”の直接的な等価交換。

4.性感染症(STD)の流行など公衆衛生上のリスクを高める問題。

スポンサーリンク

まずリンクした匿名ダイアリーの記事にある『女性はすべて売春婦である』という仮定は、家父長制の男性中心社会における女性の経済的地位に対する悪意あるメタファーに過ぎず、通常は、生計を一にする『婚姻関係による扶養』と『性行為と等価交換の金銭授受』は区別されるべきである。現代社会では専業主婦にならない既婚者の女性や経済的に自立した未婚者の女性も多く存在することから、女性がすべて売春婦という『性』と『財』の交換のメタファーは現実的な事象とも一致しない。この偏ったメタファーから売春問題を語るとすれば、男性が女性を所有していた時代の家父長制の家族道徳の焼き直しに陥って、女性の過剰な性的抑圧(イエ制度下の貞潔道徳)を招来することになる。また、『婚姻による扶養』という経済的メリットだけでは売春の差別・悪性の根拠を十分に説明することはできないし、仮にこれだけが理由であれば売春が批判・規制されることはなく、専業主婦の役割を望む女性個人の単なる損得勘定の話に過ぎないということになる。もちろん、売春は売春する女性自身が人生の中盤以降に『経済的損失』が大きくなるからタブーになっているわけではなく、『婚姻・家族・恋愛』といった固定的な男女関係から生み出される『社会全体の利益・秩序』に違背するから道徳的に好ましくないものという認識が一般化していると考えられる。

社会秩序や生産力(労働意欲)、子孫、安らいだ精神の『再生産の場』としては、一般的に、金銭でその都度契約する『バラバラの個人』よりも情緒的な絆でつながる『安定した家族(夫婦)』のほうが相当に有利である。そのため、『固定的な男女関係(婚姻関係)』を相互扶助の義務を負う家族(夫婦)として社会制度(集団の掟)に取り込むことは、社会全体(共同体)の利益に概ね適ってきたと言えるし、異性に対して『排他的な独占欲求(嫉妬心)』を持ちやすい人間の本能に馴染みやすかったこともあるのだろう。更に言えば、『金銭的な対価』よりも『情緒的な愛情(無償の贈与)』のほうが、人間の行動選択を極めて強く拘束することが多く、婚姻を単なる『性』と『財』の等価交換と解釈すれば人間関係を規定する本質を見失うことになる。ここでは詳細に論じないが、恋愛・結婚は『経済的な等価交換を超えた絆・負債』を男女双方に作り出せる部分に売春との決定的な違いがあるように感じる。

それはセックスをしたからお返しに経済的な責任を取るといった等価交換の性格を持つものではなく(現代日本ではそういった合意の上の何回かの性関係にそこまでの責任意識が付随するわけではない)、『相手の無形の愛情・支援・恩恵』に対して返しても返しきれないほどの“ありがたみ(感謝)”を感じるということに由来している。無論、“ありがたみ(感謝)”の強度には個人差があるし、どれくらい長く続くのかも予測できないところがあるが、本当に好きになった異性に対しては『即物的・金銭的な返済』を越えたレベルで相手を喜ばせたい、大切にしたいという感情が生起することがある。“性・人格”の内在的価値というのは、性行為や人格には『目に見えない特別な価値・卑猥な振る舞いによって貶められる価値』が内在しているはずだという慣習的な信念であり、そこに客観的根拠があるわけではないが、大多数の人がそういった価値認識から自由になることができない。性は『愛情・恋愛・婚姻』によって神聖化され、性は『売春・遊び・露出』によって卑賤化(わいせつ化)されるという『両価性(アンビバレンツ)』を有していて、神聖な秘匿(隠匿)すべき『性』を商品にしたり気軽に露出したりする者は『人格的価値』を値引きされるという社会的差別・蔑視の構造がある。

楽天AD

『性』はプライベートな個人的領域にすっぽりと収まりきるものではなく、『自分の性的身体の見せ方・使い方』が他者の感情や欲望を動揺させるという『公的な性格(社会性)』を帯びている。だから、性にまつわる行動の多くは各種の道徳規範や禁欲・貞潔によって縛られており、性を完全に個人の自由の領域の問題として認識することは難しいのである。『人間の性』はそれが密室で行われるものであっても、絶えずその人を気にかける誰かの欲望や価値判断のまなざしに晒されることになる、(自分と無関係な)芸能人の下半身のスキャンダルやゴシップを好き好んで読む人口の大きさを考えてもそれは首肯できることである。そういった性愛にまつわる『聖俗の二面性』は、『自分にだけ性的身体を開示する異性』という排他的独占欲を基底に持っているが、『誰にでも性的身体を開示する異性(売春の事実)』の存在はそうした排他的独占欲に基づく男女関係の幻想・陶酔(男女の秩序生成の社会的ルール)を打ち砕く作用を持つ。『自分の性愛(関係性)』だけはイデア的な本物であると思い込みたいという欲望によって、『特定の異性とだけ関係を持つ』という性規範から逸脱した性愛は『卑俗・わいせつなもの(神聖な価値ある性愛とは区別されるもの)』として低い道徳的価値を付与されやすくなる。また、性の慎み深さを感じさせる隠蔽性・秘匿性は、性愛を非日常化させることによって『性の希少価値』を向上させ、性的興奮の陶酔を長く持続させるという効果も持っている。

人間の普遍的な欲望の対象である“金銭”と“性”には『希少価値』がなければならない。売春が道徳的に差別・蔑視されやすい本質的な理由は、売春が性の隠蔽性(貞潔性)の幻想に基づく希少価値を毀損してしまうからということも大きいだろう。およそ全ての人間は“金銭”と“性”への欲望を無視して生きることはできず、“金銭”と“性”を手に入れるための競争は他のモノを手に入れる競争よりも過酷なものであり、“金銭”と“性”を社会的に容認されない『不正な手段』で手に入れれば嫉妬・非難・侮蔑・断罪などネガティブな評価を受ける恐れは極めて高い。あらゆる商品・サービスとの交換価値を持つ“金銭”と誰もが魅力・欲求を感じるような“異性”は常識的に考えれば『誰もが欲しがるもの(嫌うはずがないもの)』であるが、それは多くの人が必死に努力・競争(労働やコミュニケーション)した結果何とか手に入れられるものだけに、『手に入れるための正式の手順・ルールを守ること』が強く要請される。

だから、同じ金でも『汗水流して稼いだ10万円』『詐欺で騙し取った1000万円』は通常、額面の金額の大きさだけで価値判断されることは有り得ないし、犯罪をして得た金でなくても『楽して稼いだように見える金』については泡銭(あぶくぜに)、悪銭身に付かずというように道徳的に低い価値を付与されることもある。『苦労して稼いだ金』と『楽して稼いだ金』には、金銭そのものの交換価値には何の差異もないが両者には聖俗の両価的な判断が為されることになる。性愛も『恋愛・婚姻における性行為』と『売買春における性行為』の間には行為としての大きな差異は認められないが、聖俗の両価的な判断が下される。万人が『欲望の対象とするもの』を手に入れるためには『社会的に承認される手段・ルール』を尊重しなければならないという道徳規範が、社会全体の健全な労働意欲と家族の形成、遵法精神を支えている部分は意外に大きい。性にせよ金銭にせよ、それが余りに簡単に手に入って欲望が充足してしまうと、大多数の人の労働意欲が低下するリスクがあり、家族・子どもの育児などの根源的なモチベーションが低下する恐れがある。そういった事態は、生産力のある社会の持続可能性を脅かすことになるため、『性・金銭を取得するための労働や勤勉さ(誠実さ)』に物理的快楽以外の道徳的価値(社会的承認)が付け加えられることになる。

社会・家族と個人の存続可能性を担保するために、大多数の人はその道徳を慣習的に受容していくことになるが、売春を否定する道徳規範には『自分だけを愛してくれる異性』を理想化するという人間の排他的独占欲(本能的欲求)の裏書きもある。売春の禁忌は『父親アイデンティティ・母親アイデンティティ』を持続させる効果を持ち、安定した家族関係(親と子のアイデンティティ)を保つという意味でも、子に情緒的な混乱を与える売春は社会的に容認されにくい行為であると言える。故に、性と金銭には『正しい性(純粋な性)・間違った性(わいせつな性)』『価値のある金(綺麗な金)・価値のない金(汚い金)』の二元論的な価値認識が自然発生的に生まれることになる。苦労して働いているのに裕福になれない人や性的欲求を配偶者だけに留めて誠実に生きる人に対して、性と金銭に対する禁欲道徳は『自尊心・人格的価値』を与えるという大きな役割も持っている。

数量や快楽に還元されない『目に見えない価値・人倫』の共有によって、多少の不満や苦しいことがあっても『自分は他者に恥じるような行為はしておらずまっとうに生きている』という自尊心・モチベーションを持つことができる。こういった『人生の正しい生き方(として社会一般で共通認識されるもの)』を暗黙裡に規定する禁欲道徳が、社会的な生産活動・労働意欲を根底において支えているという事実は、『その正しさ・間違いの基準』を個人単位で認めても認めなくてもそう簡単には揺らがないのではないかと感じる。個人として『自分は売春を容認するし、特別に悪いイメージを持たない』と主張することは有り得るし、公娼制度やセックスワークの自由化によって『法的に売春が合法化される』ということも有り得るが、『金銭が介在する性』と『金銭が介在しない性(恋愛や婚姻)』を無意識的に区別してしまう人間の認知・感受性の傾向というのは容易には変更できない(差別感情がなくても差異の認知まで消去することは難しい)。

スポンサーリンク

金銭と性を『直接的に要求すること・あからさまに誇示すること』は下品ではしたない振る舞い、浅ましい行為だとして非難されることが多いが、金銭と性が社会的に承認されたルール・慣習に従って『間接的に要求されること(労働・投資・結婚・恋愛を経由すること)』によって公序良俗や労働規範が守られると言い換えることもできる。故に、金銭と性にまつわるタブーや道徳は個人単位で否定することはできても、社会全体(共同体全体)では否定することができないはずである。昨夜、松山ケンイチ主演の『銭ゲバ』というテレビドラマを見たのだが、銭のためなら手段を選ばず何でもやる“銭ゲバ”は仮に犯罪を犯していないとしても、社会道徳の見地から否定されることになる存在である。人を騙したり傷つけたりして手に入れた金銭は、大多数の人から『汚い金(価値の低い金)』と見なされることになり、金銭の獲得手段が世間に露見せずに普通に使えたとしても『金銭の交換価値』とは別に『心理的な罪悪感』を密かにもたらす。

松山ケンイチ演じる銭ゲバの蒲郡風太郎は、『(俺の生き方を道徳的に軽蔑する)お前らも所詮は金が欲しいんだろう』とばかりに哄笑しながらビルの屋上から大量の札束を撒き散らし、万札を浅ましく拾い回る大衆を眺めて自虐的な涙を流した。しかし、幾ら風太郎のような成金が万札をばら撒こうが燃やし尽くそうが、風太郎が否定しようとした『金銭の出自を問う禁欲道徳』そのものを根底から破壊することは不可能である。『汚い金(価値のない金)』と世間が見なす金を『世間に無差別にばら撒く行為』によって、道徳次元におけるマネー・ロンダリングを企てても、道徳規範を内面化した人間の多くは、マネー・ロンダリングを抑止するために汚れていると見なす金を拾わずに『非難・侮蔑の言葉』を投げかけてくる可能性が高い。金銭を物理的にばら撒けば一時的に『直接的に要求する人間の化けの皮』を剥ぐことはできるかもしれないが、その中には必ず『拾った金を警察に届けようとする良識人(正当な対価以外は受け取らない人物)』が少なからずいて、風太郎の人間の本性を暴きたてようとする目論見は手痛い挫折を強いられるだろう。禁欲道徳・勤勉道徳は表層的な見せ掛けの慣習のようにも見えるが、かなりの人(社会化された人間)はそういった道徳観を自らの自尊心や存在意義と直結させているため、あからさまに“銭ゲバ”になって自尊心(人生における信念の軸)を捨てることはないからである。

金銭に苦しみ抜いて地獄の底から不法行為で這い上がってきたような“成金”にも、風太郎のように金銭に対して『フェチシズム(守銭奴)』『憎悪(ばら撒き)』の相反する感情を感じる人は少なくないと思うが、泡銭を夜の繁華街や自分に追従する取り巻きにばら撒くことに刹那的な快感を感じる人もいる。それは『今まで自分を苦しめてきた金銭』の社会における交換価値を認めながらも、徹底的に金銭を侮蔑(否定)したいというアンビバレンツな葛藤であり、『社会的に容認されない稼ぎ方』に対する贖罪の願望を『他人の貪欲な金銭欲』を実感することで成就したいという試みでもある。多くの人が程度の差こそあれ、金銭の出自(稼ぎ方)に執着(綺麗)と侮蔑(汚い)の両価性を感じ取っているように、性に対しても聖性(美しさ)と卑俗(醜さ)の両価性が生まれることが多いのだが、『自分の今までの人生の努力・苦労を肯定したい』という自己正当化の承認欲求によって売春や銭ゲバを蔑視する禁欲的な道徳はより一層強化されると言える。そういった『個別的な自尊心・人格性』を高めようとする勤勉な労働や誠実な異性関係などによって、社会全体の生産力や家族秩序、労働規範が自発的に維持されているという構造にはかなりの普遍性がある。

“モデルとしての人間”には客観的な生きる意味はないが、“実在する私(主観)”は生きる意味を経験する

人生哲学では『生きる意味や価値』について考える価値命題がテーマにされることがありますが、理性的・科学的にマクロ(巨視的)なレベルで生きる意味の解答を見出そうとすれば『客観的な生きる意味など無い』という悲観的なペシミズムか虚無的なニヒリズムに行き着きます。人間全般に通用する生きる意味について殊更に意識する人は、『客観的な根拠・目標』『普遍的な存在原因』のようなものがこの世界にないのであれば、人間には生きている意味がないという判断基準を持ちやすくなります。

楽天AD

しかし、『“モデルとしての人間”に生きる意味がない』ということと『“実存する私”に生きる意味がない』ということは命題としてイコールではなく、ここが生きる意味について客観的に考えようとする人が陥りやすい落とし穴だと思います。“モデルとしての人間”は感情的な苦悩も選択される人間関係もない『観察・分析される客体』に過ぎないのですが、“実在する私(自我意識)”には『思考・感情・意志といった主観』が備わっています。

生きている意味が圧倒的にわからない

生きている意味がわからない。

ミクロ的にはわからないこともない。

* 自分の幸せのため

* 自分を愛してくれている人の為

* 子供のため

* 社会の為

* 種の保存の為

でもそれがなんだと言うんだろう?

* 自分はいずれ死んでしまうし、自分を愛してくれている人も死んでしまうし、子供も死んでしまうし、人類だって滅びてしまう。

* そもそも、この宇宙だっていずれは停止する運命にある。

* 要するに自分が何をやったとしても、もしくは何もやらなかったとしてもはっきりいって無意味だし無価値だ。

圧倒的な無意味の中でどうやって生きていけばいいんだ?

どうすれば、自分の人生が価値あるものだと思えるんだ?

理性的な思考や科学的な検証、結果(死)からの推測、超長期的視点に立つ宇宙の寿命などによって、『人間には客観的な生きる意味など無い・この世界の必然的な存在意義は無い』と判断した人は、現代にも過去の時代にも無数に存在したと思います。そういった虚無主義の思想の持ち主は今も昔も無数に存在している(していた)のですが、実際にその思想に従って自ら生命を絶ったという人は無視して良いほどの少数派に留まり続けています。恐らく誰もが人生の過程で何度かは、『人間(自分)が生きていることに特別の意味や価値など無い』というニヒリズムの思索を通過すると思うのですが、その人がどれくらい深くニヒリズムの思想にのめり込むかは生活経験や性格傾向、価値観、人間関係、メンタルヘルスなどによって個人差が生まれてきます。社会的アイデンティティが確定しない思春期~青年期に限らず、中高年期のアイデンティティの危機や社会的役割・健康を失いやすい老年期においても、『自分の人生には意味がない(今までの人生には意味がなかった)』というニヒリズムに誘惑されるリスクは高くなりやすいのですが、それでも大多数の人は自殺を選ばず生きることを選ぶことになります。

多くの人は、『客観的・普遍的な生きる意味』がないことを頭で分かっていても実際には死のうとまでしないし、分かっていても自分なりの目標や楽しみ(安らぎ)を感じ取ったり見つけ出したりしていくことになります。自分なりの人生の目標や楽しみを、意識しなくても自然な人生経験(人間関係)の中で見つけ出せる『感覚的・感情的なタイプ』の人というのは一般的に社会適応(生活適応)が良いと言えます。一方で、意識して物事の価値や本質をじっくりと吟味しながらでないと、なかなか人生の目標・楽しみを見つけ出せない『思考的・観念的なタイプ』の人もいます。このタイプの人は『日常生活・人間関係の中での小さな楽しみの発見』を意識しないと、思想的な生きづらさ、人生の虚無感(無意味さ)を感じることが多くなるかもしれません。“生きる意味”を必要以上に問題視する人は、ありふれた日常生活や周囲の人間関係の価値を軽視する傾向があるのですが、そういった人の場合には“考え続けるために生きる・知的好奇心を探求し続ける・考えた内容を他者と語り合う”というのも十分に生きる意味に成り得るのではないかと考えています。

“客観的な生きる意味・人生の絶対的な価値”が無いと分かっていても、自分なりの小さな目的意識や日常の楽しみを見つけて生きていく、これが現実社会において観察される人間の人生なのですが、これは人間がどのような人生のあり方でも自由に選ぶことができるという“自由意志”の存在を示唆しています。なぜ、人生が無意味であると理性的判断を下すことができる人間が、その後の人生に絶望せずに生きていけるのかといえば、『“観念的な思考・客観的な根拠”の影響力』よりも『“実際的な生活経験・感情的な人間関係”の影響力』のほうがどうしても一般的に強くなりやすいからです。事象の本質に向かう“理性的思考”だけを絶えずフルスロットルで開放し続けて、一切の社会活動(生活・仕事)と人間関係(家族・恋人・友人)を断ち切ったような隠棲生活を延々と続けていれば、“実際的な生活経験・感情的な人間関係”の影響力が小さくなって、観念的な思考の結果をそのまま受け容れやすくなる可能性はありますが、実際には現実原則に従わないと生存が維持できないのでそうはならないでしょう。

スポンサーリンク

大半の人は学校・仕事・人間関係といった『世俗の縁・社会的な活動』のすべてを捨て去ることが不可能なので、世俗から離れた理性的思考だけに時間を費やすことは難しいという事情もあります。人里離れた山奥で、時間だけがただ静かに流れていくような厭世孤高の哲学者(遁世者)のような生活を続けることは通常困難であり、好むと好まざるとに関わらず、『快不快の感覚』『喜怒哀楽の感情』が機能するような生活世界(俗な仕事や人間関係のある世界)に投げ込まれることになります。そう考えると、『人生を生きる意味』というのは、理性的な内的思索から自然に浮かび上がってくるという部分よりも、感情的な外的生活(生活世界における経験)から半ば強制的に植え付けられるといった部分のほうが大きいのではないかと思います。

何も行動せず他者と関わらずに『頭の中で考えるレベル・知識情報として処理するレベル』であれば、『自分にとっての生きる意味』というのはいつまで経っても自然に浮かび上がってこないのですが、逆に考えれば、『客観的な生きる意味』に過剰にこだわるということは、実際的な行動をせず他者・俗事と関わり合いにならずに、延々と静かに理性的思考だけを巡らしたいという『遁世の欲求』の転換である可能性も指摘することができます。『遁世・脱俗の欲求』というと鎌倉時代以降の日本の隠棲文化(鴨長明・吉田兼好など)をイメージする時代がかった印象がありますが、『煩わしい俗事・雑用・生活行動』をできるだけ避けて思考や読書(学問)に遊びたいという欲求はある意味で人間にとって普遍的な側面を持ちます。

洋の東西を問わず、長い人類の歴史を通して『余暇・学問(スコラ)』『遁世・脱俗(出家)』は貴族階級や神聖階級(僧侶階級)の特権的な人生の過ごし方でしたが、人生の意味や価値について観念的に考え続けるためには、最低でも一定以上の余暇がなければなりません。『客観的な生きる意味』がないから生きていても仕方がない、何もしたくないということは、『生きるための行動・苦労』『その行動・苦労から得られる結果』に見合っていないという悲観的な認知につながります。人間が生きるということは、世俗社会で働いて生活するということがまず第一の基盤にあるわけですが、『客観的な生きる意味が無い・意味がないから何もする気力が起きない』というニヒリズムの価値判断は、人間が生きる上で一番煩わしくて大変な『仕事・生活・人間関係のプロセスと行動』をショートカット(矮小化)してしまうというある種の魔力を持っています。世俗の人生の中心はいずれにせよ、『仕事・生活・人間関係のプロセスと行動』になるのであり、人生の意味のかなりの部分はこの領域から『自己の欲望』として引き出してくるしかないわけです。

世の中の事柄すべてが意味がなくて馬鹿馬鹿しいと感じても、面倒臭くてやりたくないことばかりでも、『仕事・生活・人間関係のすべて』を捨て去って隠棲するような場所(脱俗の聖域)は現代には基本的にないのですから(期間限定のひきこもり・モラトリアムの無職などの状況はあるにしても)、『日常生活・人間関係の営み』から自分なりの意味や喜びを引き出せなければ人生のプロセスは非常に苦しくて苛酷なものになる恐れがあります。自分の極端な信念によって、苦しくて苛酷な人生を長く送り続けることは誰にとっても避けたいことですから、多くの人は『日常生活・人間関係の営み』の中に自分なりの目的意識や楽しみ、価値をそれなりに見つけ出していくことになります。

“生きる意味”がないと判断する人間理性の問題点と“世俗の雑事・所用”を煩わしく感じる遁世・脱俗の欲求

前回の記事の人間がなぜ生きるのかという問いには、『観念的・客観的な人生の意味』以前の問題として、『生物学的な生存本能・死の恐怖』があるはずであり、大半の人はこの生存本能(死の恐怖)に頭の中で合理的に考えたニヒリズムだけで逆らうことができないので、面白みがなくて意味のない人生(本質的な意味が不在の人生)という風に認知しているとしても、とりあえずは生きるために何らかの行動をすることになるでしょう。あるいは、人生のどこかの時点で『面白みがなくて意味のない人生』という信念を緩やかに修正して、多少、自己欺瞞的な部分があっても『自分なりの面白さ・意味』を見つけ出したほうが得だということに気づくことになります。

楽天AD

死の恐怖という生存本能がベースにあるとしても、勉強したり働いたり他者と関わったりしている内に、人間の内面には何らかの目的や欲望が形成されるものであり、『(主観的な感情・欲望をもたない)無欲な客観的観察者』の脱俗的スタンス(社会・世間と関わらない立場)に徹して人生を生き抜くことはなかなかできません。仏教の唯識論では私たちが現実と信じる世界は、私たちの意識が生み出した幻想(かりそめの像)に過ぎないと説くわけですが、そうは言っても食事をしなければ腹が減って苦痛を感じ、世俗で生活すれば他者との関係性の中で何らかの欲望が生まれるわけですから、『世界=意識が生む幻想』であると考えても、生きるために行動しなければならないという必要性(現実)が無くなるわけではありません。世俗で人と人との欲望(プライド)のぶつかり合いに揉まれて、世間のしきたりに従って生きていくことの煩わしさや気苦労の多さについては、鎌倉時代の鴨長明『方丈記』吉田兼好『徒然草』にも以下のような記述があります。

世に随えば(したがえば)身苦し。随はねば狂せるに似たり。いづれの所を占めて、如何なる事(わざ)をしてか、暫しも此の身を宿し、たまゆらも心を休むべき……事を知り、世を知れば、欲わず(ねがわず)、趨らず(はしらず)、ただ静かなるを望みとし、憂えなきを楽しみとす。

鴨長明『方丈記』より

人間の儀式、いづれの事か去り難からぬ。世俗の黙しがたきに随ひてこれを必ずとせば、願ひも多く、身も苦しく、心の暇(いとま)もなく、一生は雑事の小節にさへられて、空しく暮れなん。日暮れ、道遠し。吾が生(しょう)、既に蹉陀(さだ)たり。諸縁を放下(ほうげ)すべき時なり。信をも守らじ。礼儀をも思はじ。この心をも得ざらん人は、物狂ひとも言へ。うつつなし、情けなしとも思へ。毀る(そしる)とも苦しまじ。誉むとも聞き入れじ。

吉田兼好『徒然草』より

鴨長明は自分は『世俗・俗事における人生の意味(欲望の充足)』についてはもう十分に理解し尽くしたので、世俗に留まって満たしたいという欲望も世俗で心が安らぐようなポジションも既に無くなったと語っています。だから、自分は俗な欲望の絡む事柄を離れて、日野山の草庵にひきこもるという人生に隠遁の理想を見出すというわけですが……中世の昔よりも世知辛い現代社会では、いくら『自分は人生の意味が無いことについて十分に理解したので、世俗の生活はもう十分である』と主張しても誰もいない山奥の草庵に隠棲するというわけにはいかないでしょう。吉田兼好も『煩わしい世俗の雑事(仕事や生活の行動)』だけで人生の時間が過ぎ去っていくことは虚しいと語り、世俗の生活や人生を『意味のないもの』と見なしているわけですが、現代社会では吉田兼好のように『すべての人間関係と義理・礼儀を捨て去って隠棲する自分を、お前らが狂人と呼びたいならば呼べ、俺は狂人(社会不適合者)呼ばわりされても何ら苦しまない』と嘯いても、『それは分かりましたが、今月の家賃をまずはお支払いください。あなたが早期リタイアすると熱く語るのはご勝手ですが、まずはレジ籠に入れている食品の料金を払ってからにしてもらえますか』という現実原則からそう簡単に逃れられるものではありません。

『世の無常・無意味を知ること』『自分の欲望を捨て去ること』が隠棲生活(草庵を結ぶ生活)の免罪符になる時代は近世で終わったのですが、『世の無常・無意味を十分に知ったから世俗から隠棲したい(自分が消え去りたい)という欲求』そのものは現代社会にまで引き継がれているというか、世俗生活や日常のストレスに疲れた人間の持つ欲望のパターンの一つであるといっても良いと思います。日常生活の雑事・諸事というのは、『手や顔を洗う・歯磨きをする・身だしなみを整える・風呂に入って清潔にする・ご飯を炊く・必要な連絡をする・メールの返事を書く・ルーチンワークをこなす・決められた仕事をする・付き合いで食事をする・知人と雑談をする・寝支度を整える』など、それ単体では『マクロな人生の意味』などとは全く無縁な瑣末なことに過ぎません。しかし、そういった生活上の雑事・約束事をおざなりにしていては、自分の生存・生計を維持していくことも難しくなります。伝統宗教や知的優位の絡む隠遁思想が有効だった時代であれば、『世の無常・無意味を知ること』『自分の欲望を捨て去ること』によって俗世の煩わしい事柄を大幅に免除される『無欲をベースとする生活形式(草庵の隠棲生活)』もあったわけですが、現代ではそういったわけにはなかなかいかず、50~60代よりも前のセミリタイア(隠退生活)というのはかなり贅沢なことだと考えられています。

スポンサーリンク

また、最終的な“結論(死)”が分かっていても現実の死に至るまでのプロセスは長く、『頭の中で一瞬で想像できる100年間』『実際に生活していく過程の100年間』には余りにも大きな時間感覚のズレがありますから、客観的な生きる意味が無いと理解しても、数十年以上の時間がそう簡単に流れ去ってくれるわけではないですね。頭の中で一気に結論(臨終の寸前)までたどり着いても、自分の実年齢が10代~30代くらいであれば、まだまだ自然な寿命が尽きる時点は遥かに遠いのであり、そこから全てを諦めて“世捨て人・遁世者”のように生きることは現実的に無理であり苦痛なのです。その一方で、『身体の制約がない永遠普遍の観察する視点(俗事と無縁な純粋理性)』として心惑わされることなく安定して存在し続けるというのは、古代・中世に生きた理性主義的な哲学者の一つの理想の極地でした。

人生に誰もが納得できるような『客観的な人生の意味がない』ということは、『人生を面白くできない・楽しくできない』ということとは違うので、大半の人はどうせ死ぬんだったら、そのプロセスをできるだけストレスの小さい楽しく実りの多いものにしようと考えやすくなります。『人生に意味などない・すべての活動は馬鹿馬鹿しい・表層的な問題に浮かれる人たちは愚かだ』と極端にネガティブな信念を持ちながら、数十年間の時間を過ごすのでは余りにも心理的苦痛や実際的不利益が大きくなってしまうからです。宇宙科学の仮説では100~130億年後に宇宙が熱的死を迎えると言われたり、それよりも数十億年早い段階で太陽が核爆発して太陽系が消滅すると言われたりしますが、『頭の中で一瞬で想像できる数十億年後の宇宙』にはどう逆立ちしても自分は生き続けていられそうにありませんから、『宇宙の寿命』というのは個人が生きる意味とは余り現実味のある相関を持たないのではないでしょうか。『個人の寿命』や『宇宙の寿命』が有限であるから、最終的には遠い時間軸の先ですべてが消滅するというのはその通りなのですが、生きる意味・価値というのは『物理的に残る何か(消えない永続的な結果)』というよりは『主観的な欲望の形式』の元に生み出されるものだと感じています。

“モデルとしての人間”が生きる意味は、生物学の知見や観察される現象から合理的に推測すれば『自己遺伝子の保存(DNAの複製)』になりますが、“実存としての私”が生きる意味は、生活経験や人間関係、学習行動の中から『主観的な自分固有の欲望の形式(自己アイデンティティの形式)』として浮かび上がってくるものなのです。『生きる意味がある』ということの最も簡単な定義は、『“私(主観)”が自分固有の欲望やアイデンティティを持つ』ということに他なりません。『生きる意味がない』ということは、『“私(主観)”はプライベートな思考や欲望を持たず、人生のすべてを“一般論(客体)”として解釈する』ということに等しいということになります。“自分にとっての生きる意味”を語る時に問題にされるべきなのは、人間一般の欲望や結果(死)というよりも、“私”の欲望や生活、関係性だと思いますが、『一般論としての人間観やニヒリズムの思想』も生きる意味につながる部分が全く無いわけではないでしょう。さまざまな思考実験や考察内容を提示しながら『人間には生きる意味など無い』と他者に語り掛け、他者が『なるほど、確かに人間には特別な生きる意味など無いという風にも考えられる。いつかはみんな死ぬんだから、日々あくせくし過ぎるのも良くないな』と共感する時には、厳しくつらい人生に対する一種のアイロニーや諧謔精神のユーモアが生まれるからです。

本当に難しい課題や逃れられないつらい状況に対して、メタ視線からアイロニー(風刺)や相対化の思考を加えることによって精神がリラックスするということもありますから、『生きる意味がないという主張』には『生きる意味があるという主張』を対立的にぶつけるよりも、『客観的に突き詰めれば生きる意味はないことには同意だが、それでもそう簡単に死ねるわけでも無し、何とか自分なりの意味や楽しみを見つけて生きていかなきゃならないからな』という風に返すとそこに“アイロニーの逆説的な癒し”が形成されることがあります。 『人生には生きる意味がない』と断定してしまう時に起こしやすい誤謬は、『生活・仕事・人間関係の切り捨て』であり『無気力・無関心・無感動な主体(極度に達観した自分)の仮定』なのですが、“私(主体)の人生の欲望・プロセス”“一般論としてのモデル的な人間の本質”とを混同し過ぎると生きる意欲や気力が削がれて衰えやすくなります。

楽天AD

毎日四六時中、『客観的・科学的な視点』しか持てずプライベートな生活の刺激がない人で、一切の『主観的な欲望や感情』を超越した機械的人格であれば、『“私”には生きる意味が完全にない』と断言することにも違和感を感じませんが……人が『“私”には生きる意味がない』と言う時の心理には、現時点の自分の人生や人間関係が思い通りに進まない(自己価値を他者に承認される体験が不足している)、日々の生活に楽しいことや面白いことが極端に少ないということが関係していることもあるでしょう。人生には生きる意味や価値がないという信念は、どうせ最後には死ぬのだから途中で楽しくても苦しくても大差はないという自己慰撫(慰め)の側面を持ち、『人生における不幸・苦悩・ストレスを一時的に緩和する効果(人生全般を無意味とすることによる主観的な苦しみの相対化・他者の人生に対する結果平等の実現)』を内在しているからです。しかし、人生を無意味と考えることによる心理効果は飽くまで一時的な緩和や気晴らしに過ぎません。数十年以上の個人の人生のプロセスは長期戦になってくるので、『絶対的な無』に自分の日常の苦悩を投げ込んで相対化するニヒリズムによって、人生の苦しみや無力感を紛らわすのには自ずから限界が出てくると思います。

世界のすべてがいずれは消滅する無意味さの塊なのだから、自分ひとりの人生が幸福であろうと不幸であろうと大差がないというのは、客観的な次元では正しい可能性もありますが、人間には主観的な自我意識がありますから、無意味と思っているからといって喜びや苦しみと無縁の人生が送れるわけではないからです。世界全体や人間一般がどのような構造・本質を持っているかという問題よりも、自分自身が『自分の意識・身体』から原理的に離れることができないという『所与の条件』のほうが“私(個人)”にとってはより切迫した現実的問題であることが多いのです。そのことは、自分が死にそうな吐き気や苦痛と戦っている時には、世界がどうであるかとか人間一般がどのような存在であるかとか意識することさえできなくなる『思考に対する身体感覚の優位(強制的な理性的思考の遮断)』によっても明らかです。すぐに消えてしまう『一時的な快楽・喜び』などには何の価値もなく、かっちりとした『永続的な存在・普遍的な意味』だけにしか価値を認められないという人もいるのかもしれませんが、まずは自分にとって下らないと感じても『一時的な快楽・喜び・満足』を得るために行動してみること、他者と関わってみること、感覚的な刺激に意識を向けてみることで“見える世界の風景(価値のフィールドの広さ)”が変わってくるかもしれません。

私的な感情・欲望を一切持たないことが『隠棲・遁世』につながるような社会であれば『人生には生きる意味がない』という信念を悲観的に持って生きることのメリットも多少はありますが、大半の人が俗世の役割や関係性の中で生きなければならない現代では、現時点の自分の主観的な感情・認知や欲望をベースにして『生きる意味・目的』を積極的に創り出していくという意識的な作業が必要なことも多いと思います。

適応的な精神機能が低下する“精神衰弱”と完全主義欲求・自己不確実感によって持続する“強迫性障害”

古典的な神経症(neurosis)とは『不安症状・恐怖症状・強迫観念・ヒステリー(心因性の心身症状)・心気症(病気発症の非現実的な不安)』の総称ですが、フランスの精神科医ピエール・ジャネ(1859-1947)は内因・性格要因を重視した『精神衰弱』という概念で神経症症状を理解しました。精神衰弱とは、対象が特定されない“不安感”が強くて自分の判断や行動の正しさに“自信(確信)”が持てないために『社会環境・人間関係の適応力』が著しく低下している状態のことです。精神衰弱では『常識的に考えて悩む必要性が乏しい問題・悩み続けても仕方がない種類の問題』について悩む心理状態を抜け出せないということが起こってきますが、そういった非現実的な馬鹿馬鹿しい考え(強迫観念)やイメージに取り付かれる精神疾患が強迫性障害(強迫神経症)です。

精神衰弱では現実適応的な精神機能が衰弱しますが、それは健常者が心配しないような問題や気に掛けない事柄に対して『過剰な精神力・思考力』を費やした結果としての“衰弱”と言えます。『将来に対する漠然とした不安・考えたくないのに考えてしまう強迫観念』などに過剰に意識が囚われることによって、現実的な問題や生活への適応に割ける精神的リソースが無くなってしまうわけですから、精神衰弱を回復するためには『自分にとっての現実適応的な事象(必要なもの)』『自分にとっての内面的なこだわり(必要とまではいえないもの)』を区別する認知の修正が求められてきます。

自分にとって現実的ではない悩みや優先度の低い課題に『過剰な精神的リソース』を浪費しない生活態度や認知傾向を身に付けることによって、『精神の休養』を取ることができ衰弱状態が回復しやすくなります。かつての強迫神経症や不安神経症に代表された精神衰弱の本質は『自己不確実感に基づく完全主義欲求』にありますが、『完璧に一切のリスクやミスを事前に無くしておきたいという確認・保証の欲求』に囚われ過ぎると精神衰弱の状態に陥りやすい認知傾向の素地ができます。人間の判断や行動に『絶対確実の保証(すべてのミスや危険を事前に排除できる確認方法)』というのはありませんが、健康な精神状態にある時には『何度かの確認・思考によるある程度の保証』によって現実的な行動の選択に移していくことができるので、特別な環境不適応(適応障害)や心理的な苦悩は生じてこないのです。

スポンサーリンク

テストの解答用紙にケアレスミスや間違いがないか2~3回確認するというのは強迫観念とは言えませんが、数十回確認してもミスをしているのではないかという不安感が和らがなかったり、僅かな文字の形のズレなど“些細な部分”が異常に気になって不確実感を感じるというのであれば、強迫的な確認行為の傾向が出ていると言えるでしょう。手の汚れや細菌・ウイルスの感染などが異常に気になって、何かにちょっと触れる度に手を念入りに洗わなければ気が済まない、他人が触れたものは何でも汚いという『不潔恐怖(洗浄強迫)』も強迫行為の代表的なものですが、不潔恐怖は細菌感染のリスクと生理的嫌悪感を無くすことで『生命の危険(病気のリスク)』をゼロにしたいとする完全主義欲求の現れでもあります。

強迫性障害(強迫神経症)には『確認行為・不潔恐怖(洗浄強迫)・儀式行為(ジンクスへの固執)』など色々な症状がありますが、その症状を引き起こす心理的・認知的な動因は『行為の結果や周囲の環境を確実にコントロールして不安を緩和したい・反復的な強迫行為によって状況をコントロールできる』という生存欲求に根ざした秩序志向性であると解釈できます。この状況や未来のコントロール願望というのは、自分自身で内面的なルールを形成して、そのルールに従う内的秩序を守ることで、将来の不安やミスの可能性が減るという『魔術的な思考・呪術的な認識』に分類されるものです。こういった『人間の思考』で『世界の因果関係』に直接影響を与えることができるという魔術的な思考が、社会(一定以上の数の人)で共有されるようになると『縁起・厄除け・ジンクス・まじない・慣習・宗教』といったものに格上げされることがありますが、個人単位で魔術的な思考を信じて強迫観念や強迫行動を繰り返すようになると強迫性障害の不利益(社会適応・対人関係の困難)が大きくなってきます。

S.フロイトは強烈な感情・願望の抑圧を『神経症の原因』と推論しましたが、精神分析では強迫神経症の不潔恐怖(洗浄強迫)を、性道徳に違背する不倫行為などの罪悪感や良心の呵責が『身体的な潔癖性・表面的な清潔感』に転換されたものと解釈しました。精神分析の初期には、全ての神経症を『抑圧・転移』の自我防衛機制の過剰によって説明しようとしたのですが、『抑圧』の防衛の強さが不完全で『抑圧したはずの心的内容(情動・記憶・性的欲求)』が意識に流れ込んできた時に、強迫神経症や不安神経症の問題が『内的葛藤(二つ以上の欲求の対立)』と共に現れると考えました。その後は、エディプス・コンプレックスや幼児性欲(リビドー発達論)、早期トラウマの理論、自我構造論(エス・自我・超自我の局所論)などによって、精神分析の病理学はより複雑な体系化が施され、発達早期の家族関係や自我の適応機能を重視するものへと変化していきます。

性行為や性的身体を“不潔・心の穢れのイメージ”と結びつけることが殆ど無くなった現代社会では、『性的欲求に絡む罪悪感や自己嫌悪の抑圧』がそのまま強迫性の精神症状に転換するケースは減っていると思いますが、『不快な情動・記憶の抑圧(過去のトラウマ記憶の回避欲求)』『反復的な強迫行為(ストレスや不安を一時的に解消できる強迫行為)』とが結びつくケースは今でも少なからずあります。罪悪感や自責感、自己不確実感が前面に出てくる強迫症状では、『軽度の関連妄想・被害妄想』へと遷延することがありますが、現実検討能力と病識(自分の病気・精神状態の自覚)が保たれていて関連妄想の原因となった『挫折・失敗・非道徳的な行為』などの記憶が明確である点が統合失調症の妄想症状とは異なります。関連妄想・被害妄想の症状の本質は『自分の外部(他者・状況)に、自分を苦しめる悪意や謀略がある』と誤認することにありますが、他罰傾向や強い猜疑心、過度の被害者意識が見られる妄想症状には『投影・否認・陰性転移』の防衛機制が過剰に機能していることが多くあります。

強迫性障害を含む精神衰弱の病前性格としては『神経質・刺激過敏性・劣等感・内向性(内省的)・自信の欠如』などがありますが、この病前性格に『挫折や屈辱の体験・トラウマ体験』が加わったり『劣等感(自信欠如)と優越感(仮想的有能感)の葛藤』が加わったりすることで、強迫観念や不安感の基盤となる“内的なこだわり・自己の不確実感(現実的な問題への関心低下)”が形成されやすくなります。神経質な自己不確実感のある精神衰弱(不安障害)の問題を改善していくために有効な方法として、自分が不安を感じる状況や苦手意識(劣等感)を感じる対象に対して段階的に向き合っていく『曝露療法(行動療法の一種)』があります。現実状況に直面できないほどに不安感・恐怖感が強い場合には、『適応的認知を作り上げる認知療法』や『イメージ療法による不安状況への曝露』を適切に組み合わせて行っていくことになりますが、自分の内面で『重要な課題(現実的な事象)』と『重要ではない課題(観念的な事象)』を区別していく意識的な注意の向け方、自分を苦しめるノイズ情報の切り捨てがポイントになると思います。

元記事の執筆日:2009/02

Copyright(C) 2022- Es Discovery All Rights Reserved