斎藤環『関係する女 所有する男』の書評1:ジェンダー・フリーとジェンダー・センシティブ,斎藤環『関係する女 所有する男』の書評2:“性別に関する知識・社会的な共有認識”としてのジェンダー

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斎藤環『関係する女 所有する男』の書評2:“性別に関する知識・社会的な共有認識”としてのジェンダー


斎藤環『関係する女 所有する男』の書評3:“男女の性差・性別役割”を科学的事実で語る誤謬


斎藤環『関係する女 所有する男』の書評4:なぜ現代の若者は結婚しなくなったのか?結婚の選択性


斎藤環『関係する女 所有する男』の書評5:恋愛・結婚の偶有性と男女のカップリングの仕組み


斎藤環『関係する女 所有する男』の書評6:結婚生活に対する男性の欲望と女性の欲望の違い


斎藤環『関係する女 所有する男』の書評7:男性のひきこもり・女性の摂食障害とジェンダーの規範性 旧ブログの記事一覧

斎藤環『関係する女 所有する男』の書評1:ジェンダー・フリーとジェンダー・センシティブ

人間の男と女の違いが何に由来するのかという説いは、歴史的にも意識的にも常に普遍的な問いである。近代社会は『男女同権社会』を志向するプロセスの中にあるが、それでも『ヘテロセクシャル(異性愛)』によって多くの男女の行動が規定される限り、男と女の考え方や価値基準が全くフラットな同じようなものになるとは考えられない。『法律的な権利・自由』の上では男女は平等であるべきだが、イデオロギーとしての“ジェンダーフリー”には、男が女に好かれたいと思い、女が男に好かれたいと思う以上、一定の限界がある。

本書は、生物学的性差としての“セックス(sex)”ではなく、社会的・文化的性差である“ジェンダー(gender)”が影響する範囲について書かれた本である。ジェンダーの取り扱い方についても、従来のフェミニズム(女権拡張主義)の影響を受けた原理的な“ジェンダー・フリー”を退けて、男女の社会的性差の差異や不公正に自覚的(鋭敏)であることを説く“ジェンダー・センシティブ”という立場を掲げているのが特徴的である。

ジェンダーフリーを巡っては時に反対派から、『男女平等で男と女に何の違いもないというなら、トイレも風呂も男女を分けなくて良いし、男性が女性を守るというような観念も無くすべきだ』という意図的に短絡さや無邪気な原理主義を装った揶揄が装われることもあるが、人間の男女関係に働くヘテロセクシャルの欲望がある限り、こういった四角四面な形式的平等主義は現実には通用しない。なぜなら、大半の男は女に好かれたいと思って行動するからであり、大半の女もそういった男の行動を肯定的に受け止めるからで、反自然的なイデオロギーは自然な男女間の欲望(生殖適応度を生む欲望)の前には無力だからである。

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そうである以上、『原理主義的なジェンダーフリーによる自然な男女関係(ヘテロセクシャル)を否定するような制度・価値観』というのは、社会一般に通用するほどの強度を持たない。男女平等というなら、男女で何から何まで機械的に同じにすればいいじゃないか(男女が相互に気に入られようとするような意識・役割を無くせばいいじゃないか)というような確信犯の極論は、現実の男女がそのように行動するわけがないという意味で“言葉遊びの域”を出ないのである。『自然に還れ』という啓蒙思想のジャン・ジャック・ルソーのような自然回帰主義は素朴で非現実的だし、『男女の自然な役割分担・行為規範』のようなものを持ち出すと男女平等を根底から否定する“バックラッシュ(男女平等の反動)の主張”に傾くことがある。バックラッシュは男女の生物学的性差による行動の規定性に注目して、その大まかな傾向を『自然的事実に基づく社会規範』にまで高めてしまうので、『個人の多様性・男女の振る舞い方の自由度』を認めなくなるという副作用の多いものである。

そのため、上記した自然な男女間の欲望というのは『男が女を求め、女が男を求める欲望(両性がそれぞれ異性に好かれたいという欲望)』という原点的なものに過ぎないものであり、それ以上のレベルの振る舞いや考え方における『自然な身体性』というのは人工的な文脈や制度、時代の価値観に影響されたものになってしまう。その一方で、男女間に働くその性的・関係的(情緒的)な欲望の傾向性を、全否定して生きている人間というのもまた滅多にいないのであり、男と女の関係が完全にフラットになって、あらゆる異性としての振る舞い方がなくなるような極端なジェンダーフリー社会というのは成立しないというか、(ジェンダー消滅は男女間の欲望消滅につながるので)その社会を継続できないだろう。

第一章『「ジェンダー・センシティブ」とは何か』では、女性は女性らしく生きて結婚して子供を産むべきでそれが女性としての幸福に至る選択であるという保守反動のバックラッシュとして、西尾幹二・八木秀次『新・国民の油断』三砂ちづる『オニババ化する女たち』の著作における主張が取り上げられているが、これらはいずれも男らしさや女らしさが生物学的(遺伝的)かつ身体的に規定されているので、それらに逆らう生き方は基本的に間違っているという内容になっている。保守反動のバックラッシュ(男女平等の理念に対する批判)というのは、人間もまた自然の一部であり、利己的遺伝子の繁殖戦略に行動を支配される動物であるから、その『身体性・遺伝性』には従うべきであり、それに従った結果として結婚して子どもを生みやすいジェンダーが形成されるという論になっているが、そこには『身体性に対する無条件の信念(個人の多様性・環境条件の軽視)』も含まれている。

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斎藤環『関係する女 所有する男』の書評2:“性別に関する知識・社会的な共有認識”としてのジェンダー

斎藤環が前書きで書いているように、『ジェンダー否定・男女平等主義の機械的な極論』というのは、自分が自分の持つ自然な欲望に傷つけられないようにしようとするシニシズム(冷笑主義)の態度に根ざしており、何とか異性を無価値化しようとする認知的不協和による虚しい努力に近いものである。しかし、シニシズムの対極にある男性と女性がとにかく性的に結びつけば良いというような“デカダンな快楽主義・享楽趣味”というのも反道徳的であり、それが集団化すればカルト宗教のような異様な外観を呈してしまう。そこで求められるのが、男女の社会的性差を理解しながら男女の権利(自由)の平等性を尊重するという『ジェンダー・センシティブ(gender sensitive)』の立場だが、この概念そのものはアメリカの教育学者のジェーン・マーティンバーバラ・ヒューストンが提唱したものだという。

“センシティブ(鋭敏・敏感)”というのは、ジェンダーに基づく差別や格差に敏感という意味であり、ジェンダーを無くしたりその性差に気づかないままでいるというジェンダーフリーよりも現実的で実用的な概念になっている。本書では、精神分析的な考察や理論化を行いながら、『イメージ(幻想)としての男女の違い』を取り出してみせ、それを『男性の所有原理と女性の関係原理』によって解体していく試みが各分野で展開されている。“男根期(エディプス期)の男根羨望・去勢不安”や“全ての心理現象をリビドーの充足・不足(緊張)で解釈する汎性欲説”などで、フェミニストから男性主義的(家父長制度的)だと批判されることもあるS.フロイトの精神分析を、男女どちらの立場かだけに偏ることなく『現代社会の諸問題』に応用している手際は鮮やかである。

心理学の『氏か育ちか論争』においても、人間の性格構造を決定する要因が遺伝要因なのか環境要因なのかをはっきり区別することができないように、『ジェンダー論』においても男女の性差についてどこまでが生物学的要因で決まるセックスなのか、どこからが社会的・文化的要因で決まるジェンダーなのかを明確に区別することはできない。“ジェンダー(gender)”というのは、人間の男女の性別に関する認識の全体を包摂しており、フェミニストのジュディス・バトラーが指摘するように、人の自我意識が『人間の性別』を動物的な性行為に拠らずに定義的に認識したりその認識の上で行動するには、『性別に関する知識・社会的な共有認識』が必要だからである。バーバラ・ヒューストンが書いている『私はジェンダーは人の性質としてではなく、様々な方法で作り出される人々の間の関係性であると捉えるのが重要だと考えています』という言葉は、正にそのジェンダーの定義を正面から述べたものだろう。

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そして、この『性別に関する知識・社会的な共有認識』というのが、そのままジェンダーになるのであり、セックスとジェンダーはその絶えざる相互作用によって常に境界線が曖昧に揺れているのである。同性愛の行為・存在を道徳的に認めるか否かさえ、古代ギリシアや日本の戦国時代・中世寺社勢力と近代社会、現代社会では全く異なる『社会的な共有認識』を持っており、ヘテロセクシャル(異性愛)やホモセクシャル(同性愛)、婚姻規範、自由恋愛(性の自由化)を巡って、『男らしさ・女らしさ・性的関係のあり方の価値観』は絶えず移り変わってきた。

斎藤環『関係する女 所有する男』の書評3:“男女の性差・性別役割”を科学的事実で語る誤謬

第二章『男女格差本はなぜトンデモ化するのか』では、アラン・ピーズバーバラ・ピーズのベストセラー『話を聞かない男、地図が読めない女』などを例に挙げながら、『自然主義的な誤謬』『疑似科学的な男女の性格行動の違いの説明』を問題として取り上げている。自然主義的な誤謬というのは、『事実命題と倫理命題が異なるという事』の指摘であるが、簡単に言えば『客観的な事実として~であるという認識から、あなたは~すべきであるという倫理規範を導き出すことはできない』ということである。この章で斎藤環が疑似科学のトンデモ理論として批判しているのは、『男女の脳・ホルモンの器質的性差から男女がこのように生きるべきとする倫理規範(行為規範)を導き出そうとする理論』であり、『自然な役割・本性』という言葉が持つ直観的な強制力や同調性を危惧している。

原始時代から前近代社会に至るまで、人間には男性が戦ったり狩りをしたり働いたりして家族を守り養う役割を引き受け、女性が家庭の中に入って子どもを生み育てる役割を引き受けるという『自然で本能的な役割』があったのだから、現代社会においてもこの自然で本能的な役割を引き受けるのが当然であり、それが動物の一種である人間の幸福感にもつながるというような理論であり、この種の『進化生物学的な背景を持つ理論(伝統的な役割分担の生物学的な出自めいた根拠)』は一般にもかなりの影響力を持っていることは確かである。生物学的な脳科学の実験結果や新たな知見を用いて『男女の性差』を説明しようとする本は少なからずあり、その中にはまともな脳科学の研究結果を慎重に男女の性差に応用しているものもあるが、アラン・ピーズ&バーバラ・ピーズの『話を聞かない男、地図が読めない女』では、男女の睡眠時の脳波に違いがあるとか、男女の色覚を司る錐体細胞の機能に違いがあるとか(X染色体に由来する錐体細胞の機能は、性染色体がXXの女性のほうが優れているとか)、女性の皮膚の触覚が男性の10倍も敏感であるとかいった明らかな科学的な間違い(事実レベルの誤認)も含まれている。

しかし一般的な読者は、脳科学の事実レベルの知識を正確に持っているわけではないので、こういった脳科学の実験結果や知識の裏づけが書籍に書かれていると、それを信じ込んで『科学的根拠のある主張』という風に受け取ってしまいやすい。第二章で主張されていることの本質は、その理論や知識が『科学的に正しいのか否か』ということではなく、『科学的・自然的な事実であってもそれが規範・価値とイコールではない』という自然主義の誤謬の指摘であり、男女の生物学的な構造・機能の差異があるとしても、それを理由にしてそれぞれの男女がこのように生きなければならない、それから外れれば間違いであり不幸であるとまでは言うことができないということである。

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本書では、ロジャー・スペリーの分離脳研究を応用した『男女の右脳・左脳の機能差の俗論』についても丁寧に反駁しているが、『男性は右脳(空間認識のイメージ)が発達している・女性は左脳(言語能力)が発達している』という右脳・左脳の働きの性別による違いには科学的根拠はない。脳梁を切断したてんかん患者を用いたロジャー・スペリーの分離脳(分割脳)の実験で分かったことは、右脳と左脳がそれぞれ独立的な意識やそれぞれの機能の分担を持っているという事だけであり、男女の脳の右脳・左脳の機能に明確な性差があるという事が確実に確認されている統計的研究はないのである。女性のほうが脳梁が太いから感情的になりやすいという俗説も科学的には実証されておらず、脳梁の太さが情動を生み出す神経線維の数と直接に相関している事が確認されたことがない。人間の心理を進化的適応の結果として捉える進化心理学に対しては、『生存・生殖の適応のためだけの心理メカニズムの形成』が事実なのかどうかは分からず、“適応の状況や目的の解釈”次第でどうにでもなるという観点から反論している。

また、仮に男性と女性の右脳・左脳の働きに違いがあるという『自然的事実』が確認されたとしても、それを根拠にして男性と女性の倫理規範(行為規範)や役割・権利の違いを語ることは自然主義の誤謬である。倫理規範や価値判断を『脳の器質的特徴(自然的事実)』に還元することはできないというのは、原理的には身体的・事実的な能力が劣っていて生産性がないのであれば、その権利も少なくなるのが当然であるというナチスドイツの『優生思想(障害者差別・人種差別)』にまでつながる恐れがあるからであり、人間社会の人権や男女観、規範性は『自然的な事実・能力』とイコールにすべきではないからである。

斎藤環『関係する女 所有する男』の書評4:なぜ現代の若者は結婚しなくなったのか?結婚の選択性

本書『関係する女 所有する男』の本題である、“男性の所有原理”“女性の関係原理”から生み出される心理や行動、考え方の違いについては、『第三章 すべての結婚はなぜ不幸なのか』『第四章 食べ過ぎる女 ひきこもる男』から本格的に語られていき、読み物としても第三章以降のほうが面白くなる。第一章の“ジェンダー・センシティブ”や第二章の“自然主義の誤謬(疑似科学問題)”の話は、社会学や生物学周辺の学術的な内容・主張が多くなっているので読み手を選ぶが、第三章の“現代の恋愛・結婚における男女の意識の違い”や第四章の“男性のひきこもりの多さ・女性の摂食障害の多さ”はより日常的な生活文脈に則した内容になっているからである。

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『第三章 すべての結婚はなぜ不幸なのか』では、20代後半~30代前半になっても5割近くの男女が結婚しなくなっている未婚化の現代社会の趨勢や、1000万人以上の規模になっている両親と共に経済依存的な同居をしているパラサイトシングルの増加の現状を見据えながら、『就労(労働)・結婚の規範性の弱化』をまず提示している。30代後半以降に結婚するカップルが増えた“晩婚化の原因”は、社会の高学歴化と学卒後にある程度稼げるようになるまでの時間(職業キャリア)の長さが関係しているが、それは飽くまで高学歴・知識労働をしている人たちの話であり、全ての男女に共通する要因ではない。なぜ現代の若者が結婚しなくなったのかという未婚化の最大の理由は、“雇用形態・給与水準・継続勤務の安定性”などに関係した社会経済的要因にあると推測されるが、より決定的な理由は『一定の年齢になったら絶対に結婚しなければならないという社会規範の強度』が相当に落ちてしまい、結婚がかつてのように生活・出産のためにする当たり前のものではなく、“思索・判断・選択の対象”になってしまったことにある。

現在でも現時点で物凄く好きな恋人がいて、結婚しなければ別れるしかないという状況になったのであれば、大半の人は一定の仕事・収入が確保されていれば結婚に踏み切るだろうが、恋人がいなかったり、将来もずっと一緒に協力して暮らしたいという意味での恋愛感情が曖昧であったりすれば、『結婚(出産)するかしないかの選択』に迷いや躊躇が生じやすくなっている。もちろん、結婚したいと思っていても『男女それぞれの条件』が折り合わなかったり、好きになった相手から拒絶されたり付き合っても別れてしまったりして、結果的に結婚にまで辿り着かないという問題もあり、未婚化・非婚化が進んでいるとされる現代においても、『いつかは結婚したいという男女』のほうが圧倒的多数派である。

しかし、今すぐではなくいつかは結婚したいという意見には、“今すぐに結婚するための最大限の努力をしてその責任を負うという覚悟”までは含まれておらず、よほど離したくないという恋人などができない限りは、『自分の時間と収入を家族に分け与えて生活する自己犠牲・安楽(気楽)で自由な現在の生活を結婚のために捨てても良いという決断』ができないのではないかと思われる。現代の未婚化の問題は、相手と子どものためにどんな苦労や負担をしてでも、今の生活を180度変えてでも結婚したいと思うほどの結婚願望が薄れており、好きな相手ができてそれなりに納得できる条件や環境が揃っていれば結婚してもいいかなという程度の願望の人も多いので、よほど幸運な出会いや展開がない限りは、無理してまで結婚しないという人が増えていると推測される。

そのため、現時点で『結婚する選択』をしても良い(ずっと一緒にいるためには遠からずその責任を負う選択をしなければならない)とする“好きな恋人”がいない状況で結婚しようとすると、どうしても『婚活』のように条件面を前提とする功利主義的な選択をするか、『偶然の良い出会い』を期待して受け身のままに年齢を重ねるという事態になりやすいのである。本書にある『第三章 すべての結婚はなぜ不幸なのか』と『第四章 食べ過ぎる女 ひきこもる男』以降の部分については、また時間のある時にそれぞれの内容と主張を振り返りながら感想をまとめていきたいと思います。

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斎藤環『関係する女 所有する男』の書評5:恋愛・結婚の偶有性と男女のカップリングの仕組み

インターネットでは『悲観的な結果を予測する結婚の格言(偉人・作家の名言)』が出回っていたりもするが、斎藤環もそういった結婚の格言を幾つか紹介したり自身の離婚経験を語ったりしながら、既婚者であればこういった格言に納得したり共感したりする部分は少なからずあると述べている。しかし、人間は幾ら結婚の失敗事例や離婚のトラブルの事例を目の当たりにしても、基本的には好きな異性がいればずっと一緒にいたいと思うようになり、その異性との関係を社会制度的に保証(税制的・社会保障的な支援も)して貰うための結婚をする可能性も高くなる。

○あらゆる人智の中で結婚に関する知識が一番遅れている オノレ・ド・バルザック

○正しい結婚の基礎は相互の誤解にある オスカー・ワイルド

○夫が妻にとって大事なのは、ただ夫が留守の時だけである ドストエフスキー

○正しい結婚生活を送るのはよい。しかし、それよりもさらによいのは、全然結婚をしないことだ。そういうことのできる人はまれにしかいない。が、そういうことのできる人は実に幸せだ トルストイ

○結婚――いかなる羅針盤もかつて航路を発見したことのない荒海 ハインリヒ・ハイネ

○結婚をしばしば宝くじにたとえるが、それは誤りだ。宝くじなら当たることもあるのだから ジョージ・バーナード・ショー

○結婚したまえ、君は後悔するだろう。結婚しないでいたまえ、君は後悔するだろう セーレン・キルケゴール

日本では非嫡出子やシングルマザーに対する法的不利益や社会の偏見も大きいことから、子どもを持ちたければ原則として結婚するしかない状況になるが、そういった条件を除いても、人間は結婚に関しては『失敗から学ぶ学習』が成立しにくい存在である。また当然ながら、すべての結婚が不幸感や虚しさ、後悔に行き着くわけではなく、特別に大きな幸福や経済的な成功はないにしても、安定した毎日の穏やかな家庭生活を幸せに感じたり、子どもの成長を見守る楽しみに十分満足しているという夫婦も数多くいるのである。客観的に考えれば理不尽で不合理な部分のほうが多い結婚を、人はなぜするのかの理由について、本書では無意識的な幸福のイメージとしてある『男女の夫婦としての結合・子どものいる暮らし』を上げており、それらがずっと無いままに終わる人生はやはり寂しくて孤独なように感じられる人のほうが多いという事が影響しているだろう。更に、この相手(恋人)と偶然知り合って恋に落ちたという事から、ある種の運命性(必然性)を感じ取ってしまう『ロマンティック・ラブの偶有性』も人が結婚してしまう理由の一つになっている。

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現実的な結婚をする理由としては、契約社員やアルバイトをしている女性(男性)だと、生涯にわたって安定した収入を得られるかどうか分からないという不安があり、『扶養や社会保険に入れてくれる夫(妻)・経済生活を支え合える伴侶』が必要になるということもあるだろう。精神的に孤独で寂しくて一人では生きていけないという心細さも結婚する理由になるが、経済的に不安で今の仕事でずっと収入を得られるか分からないという心細さも同様に結婚する理由になるのであり、昭和期までの義務的な結婚の多くも、『会社員・公務員の夫による妻子の扶養(最後まで面倒を見る生活保障)』という部分を抜きにしては語れないものであった。

厳密には男女共同参画社会の推進政策によって、『女性の高学歴化・社会進出』が進んだとされる現代においても、女性の過半は職業キャリアを段階的に築いていける正規雇用・専門職ではないので、男性が『主要な家計の稼得者としての責任(妻の補助も得ながら自分の能力で経済的に家族を守っていくとする責任)』を果たしくれるという意志表示をしないと、現実的理由から結婚できないことが多いとは言えるだろう。昭和期には『男は甲斐性・女は愛嬌』というジェンダー的な規範性が影響力を振るったが、現在においてもなお男性は稼がなければ自尊心を保ちづらく、女性は可愛らしくなければ好かれにくいというジェンダーの影響を引きずってはいる。

これが『男女のカップリングのミスマッチ』による結婚できない原因にもなっているが、近年は、男性にも女性と同じように『外見の魅力・容姿の良さ(イケメン志向)』を求める女性が増えている傾向があるとされる。男性にも『自分の容姿・見た目』が良くない(女性に好かれにくい顔立ち・スタイルである)という事で悩む人が少なからず出てきていて、男性向けの美容やエステの市場も拡大しているようである。戦後から昭和後期くらいまでは、『男は顔(見た目)ではなく、真面目に家族のために働くかどうかに価値がある』とする意見が多数派であり一般的であったが、バブル崩壊の前後から男性の雇用情勢が悪化したり(非正規雇用の比率が高まったり)平均所得が低下したりといった経済成長期にはなかった変化が起こったこともあり、男性にそれほど強く『経済力(全面的な扶養能力)』を求めないという女性も出てきた。その代わりに、ある程度苦労してでも一緒に協力して頑張っていきたいと思える『容姿・外見を含めた異性としての分かりやすい魅力(自分の外見的な好み)』のほうを求める若い女性が増えてきたのかもしれない。

しかし、容姿の良し悪しによる評価の多くは、10~20代前半の若い時期における恋愛の格差につながることが大半であり、それ以降の結婚を前提とした恋愛・交際においては『雇用形態・給与水準・将来の見通し・扶養の責任感』といったものが影響してくることがやはり多い。恋愛・性愛の重要性よりも結婚だけを目的化した婚活においては特に『最低限の経済条件ありき』の話になってくるが、現代の結婚では“実生活・経済・扶養力”を重視するプラグマの軸と“恋愛・容姿・性”を重視するロマンティックラブの軸を巡って、異性選択が多様化している。

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斎藤環『関係する女 所有する男』の書評6:結婚生活に対する男性の欲望と女性の欲望の違い

結婚生活における男女の根本的なすれ違いの原因として、斎藤環は『男性の所有原理』『女性の関係原理』の違いを上げるが、これは男女の意識の上で男性にとっては結婚が“ゴール”になりやすく、女性にとっては結婚が“スタート”になりやすい事を意味する。男性の所有原理では、好きな女性を自分の独占的なパートナー(恋人・配偶者)として手に入れるまでが目的となりやすく、結婚してしまうと『完全に相手を所有したという感覚(社会的・法律的にも他の男性が手を出しにくいという感覚)』から、それ以前ほど熱心な愛情表現や援助行動(思いやりを行動で示すこと)、プレゼントをしなくなる傾向がある。

結婚してもそれ以前と変わらない男性も確かにいるが、総じて男性は結婚後には妻に十分な感情的メンテナンスや思いやりのある援助行動をしなくなりがちであり、いったん結婚までしてしまえばよほどの事がない限り、夫婦関係が壊れることはないという根拠のない確信を持ちやすい。夫婦の間で子どもが産まれても『密接な母子関係』を前にして、男性は自分の居場所がないように感じてしまい孤独感や嫉妬感情を感じてしまう人もいる。そして、『妻と一緒に子育てを協力して頑張るという意識』を持てずに、妻から自分が愛される事(何かしてもらう事)ばかりを望んだり、自分は家計を支えるために仕事さえしていれば良いと考えるようになると、夫婦間の感情的な距離感が開いて夫婦関係がギクシャクしやすくなる。

女性は結婚を『新しい協力関係』のスタート(始まり)と認識しやすく、男性が好きな女性と結婚したことによって安心して気を抜きやすいのとは対照的に、女性のほうはこれから二人で頑張っていかなければならないという人生の緊張感や覚悟のほうを感じやすい。所有原理に基づく男性の求愛行動は、好きな異性を確実に手に入れた(失恋・別離の不安が小さくなった)という実感をもたらす『結婚』によって一つのピーク(喜びの頂点)に達する。だが、関係原理に基づく女性の価値判断は、新しい生活や関係がスタートすることになる『結婚』によって、男性の働きや協力、コミュニケーションに対してよりシビアな判断をするようになりやすい。今までと同じようなラブラブで楽しい生活をしていこうというような考えを持ちやすい男性に対して、女性は男性に『今まで以上の家族のための責任・貢献・思いやり(愛情表現)』を求めるようになり、“所有原理を持つ男性(夫)”“関係原理を持つ女性(妻)”との間で対立点が増えてきやすいのである。本書では男性にとっては『結婚した時点の妻』に最高の価値があり、女性にとっては『結婚した時点の夫』にはそれほどの価値がなくまだ完成途上であり、女性は男性よりも『これからの結婚生活における良い変化』を期待する度合いが強いのである。

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男性は妻に結婚したばかりの頃の外見や性格、忠実さ(素直さ)のままでいて欲しいと願い、女性は夫に結婚したばかりの頃よりももっと家族や自分のために頑張って欲しい(人間性・経済力・貢献度を高めて欲しい)と願いやすいというのは、結婚をゴールと捉えやすいかスタートと捉えやすいかの違いともつながっている。母親と子どもの親子関係は“コミュニケーション(会話)”を媒介とした密接なものになりやすいが、父親と子どもの親子関係は“所有原理”に基づく会話の乏しいもの(規範的・指示的・放任的なもの)になりやすいという違いも指摘されている。この違いは平均的な男性は『共感性・配慮性を前提にした情緒的コミュニケーション』がそれほど得意ではない事と相関しているのかもしれないが、そもそも仕事をしている父親と育児をメインに生活している母親では『子どもと接する時間の絶対量』が大きく異なることの影響もある。

本書では結婚生活における男女の根本的なすれ違いを『ジェンダーの差異と時代的な変化』に求めているが、『第五章 「おたく」のジェンダー格差』では“結婚”という関係の形式を、ジェンダーの違いを無視しても実現できる優れた人類の発明という風に位置づけている。これは男性と女性の埋めがたいセクシュアリティ(性的欲望)の違いを『結婚という制度』が埋め合わせてくれるという事だが、そういった男女のセクシャリティの微妙なニュアンスの違いを乗り越えてでも性的に結合する(男女が結びつき続ける)ためには、『恋愛・性愛・結婚・家族(子ども)といった制度(イデオロギー)』の助けが必要というわけである。

その意味では、男性と女性が惹かれ合って結びつくという事態は、自然的というよりは制度的・イデオロギー的な側面もあるのだろう。『男と遊んでいるほうが気楽という男性・女と一緒にいるほうが楽しいという女性』が少なからずいることも、男女関係の制度的・イデオロギー的な側面を反映しているのだが、『結婚や家族(イエ)という社会制度・恋愛という時代的価値観・セックスという身体的欲望』が無ければ、男女が惹かれ合って結びつくというのはそれほど自然なことではない可能性もある。

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斎藤環『関係する女 所有する男』の書評7:男性のひきこもり・女性の摂食障害とジェンダーの規範性

『第五章 「おたく」のジェンダー格差』では、虚構のキャラクターに性的に興奮できるおたくのファンタジーが分析されているが、男性のおたくだけではなく女性の腐女子も考察の対象にされているのが興味深い。そしてそのおたく論に関する性的な興奮形式の分析でも、斎藤環氏は男性おたくの欲望は『所有』に向かい、腐女子(女性おたく)の欲望は『関係』に向かうと結論づけており、男性は創作物(アニメ・漫画)の虚構・幻想に興奮しようとする場合でも“ファルス(男根)の主体性(位置・方向)”が無ければ興奮できないと述べている。

男性の欲望はリアル志向であってもおたくであっても、ヘテロセクシャリズム(異性愛主義)の欲望の主体として自分を位置づけなければ興奮しにくく、そういった男性特有のセクシャリティの幻想を支えるジェンダー(男らしさ)には『ホモフォビア(同性愛恐怖)』『ミソジニー(女性嫌悪)』が付いてきやすいというのはなるほどと思わせられる。著者は精神分析家のジャック・ラカンの言葉を引いて、欲望主体の立場を定位する男性の享楽を『ファルス的な享楽』、欲望主体の立場を抹消して比較と差異を楽しむ女性の享楽を『他者の享楽』という風に分類しているが、腐女子の欲望の形式が『位相差・攻×受(SMの力関係がある差異)』に還元されるという見方は面白く説得的である。

『第六章 男と女の「愛のかたち」』では、過去の恋人(恋愛)の記憶について『男はフォルダ保存(名前をつけて保存)・女は上書き保存』という格言から、男性と女性の性的欲望の本質の違いを論じたり、なぜ男の浮気は大目に見られやすく女の浮気は誹謗中傷されやすいのかについて分析している。『性愛の価値規範』『ジェンダー』との相互補完的な循環性を取り上げながら、円満な夫婦関係とセックスの結合が規範化している欧米社会とセックスレスでも良好な夫婦関係が成り立ちやすい日本・韓国との社会文化的な違いも論じている。

『終章 「ジェンダー」の精神分析』では、男性の所有原理の始点を“エディプス・コンプレックス”における父親による去勢(社会化)とし、女性の関係原理の始点を“エディプス・コンプレックス”における男根羨望からペニスの受動的享受・将来の出産への転換としているが、精神分析や哲学(現代思想)の理論を参照しながら『女性とは何かという問い』を深く掘り下げようとしている。精神分析や現代思想に興味がある人であれば、どこかで聞いたことがある一つ一つの概念・解釈を読み解きながら、各論のテーマを読み進められるという面白さがあると思う。

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カウンセリングや臨床心理学と関係があるのは『第四章 食べ過ぎる女、ひきこもる男』であり、この章ではなぜ女性に摂食障害が多く、男性にひきこもりや対人恐怖(社交不安)が多いのかという疑問に対して、男女のジェンダーの差異の視点から答えようとしている。男性のひきこもり(対人恐怖)、女性の摂食障害という違いには、『男女がそれぞれ何を主な自己評価の拠り所にしているのか』というジェンダーの違いが影響しているという。つまり、男性は『社会的・経済的なスペック(本質的・機能的な能力)』によって自己評価が決まりやすいので、学業に挫折したり仕事に適応できなかったりした時に『他者から自分の能力が低く見られるのではないか(誰からも自分の価値を認めてもらえないのではないか)』という不安が強くなり、社会活動や人間関係から退避するひきこもりの問題が起こりやすくなるのである。

それに対して、女性は『外見的・身体的なスペック(視覚的・外見的な要因)』によって自己評価が左右されやすいので、ファッションセンスやヘアスタイルを否定されたり体重が増加したり肌が荒れたりした時に『他者から自分の魅力を低く見られるのではないか(誰からも自分の価値を認めてもらえないのではないか)』という不安が強くなり、ボディイメージや体重の増減、美貌の評価に異常にこだわる摂食障害が発症しやすくなるのである。男性のひきこもり(対人恐怖)の多さ、女性の摂食障害の多さというのは、『男は仕事と能力・女は美貌と愛嬌』というジェンダーや社会的価値観の影響を強く受けた結果であるが、このジェンダーは斎藤環が本書の主題にしている『男性の所有原理・女性の関係原理』にも直結している。

『男は仕事・女は家庭』といった伝統ジェンダーというのは、確かに男女共同参画社会の進展によってある程度古臭さを感じるものにはなっているが、そうであっても男女のセクシャリティや魅力の自己アピールとも重なっている『男は能力・女は美貌』というジェンダーを完全に無にしてしまう事は恐らくできない。男性に対して仕事ができなくたってお金が稼げなくたって無職だって別にいいじゃないか(それ以外の分野で頑張ればいいじゃないか)というのは殆ど何の慰めにもならないし、男女関係において『男性の最低限度の社会的・経済的な能力(自立的生活が可能な能力)がないこと』はかなりのマイナス評価になってしまう現実は女性よりも相当に重いものである。それと同様に、女性に対して体重が重くたって外見の魅力がいまいちだって別にいいじゃないか(それ以外の事柄で頑張ればいいじゃないか)というのは殆ど何の励ましにもならないし、男女関係において『女性の最低限度の外見的・容姿的な魅力』というのは男性の外見以上に重要視されやすいものである。

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男性に『社会的・機能的な能力』がより強く求められやすい事が、人間関係や職業活動から逃避しようとするひきこもりの非社会的問題を生み出し、女性に『外見的・視覚的な魅力』がより強く求められやすい事が、体重の増減やボディイメージにネガティブに固執したり女性的成熟を拒否する摂食障害を生み出している。『機能的な能力』によって地位・金銭・異性などをより多く所有しようとする男性、『外観的な魅力』によって他者・社会・異性などとより円滑に関係し続けようとする女性のそれぞれの行動理念や価値観の違いが説かれているが……そういった『男女のジェンダー(所有する男・関係する女)』は、セクシャリティ(生殖戦略)や異性の好み(カップリングの基準)、歴史的な社会構造とも密接に関係しているので、“思想・教育(しつけ)”などでジェンダーの差異の影響を無くしてしまうことは恐らく出来ないだろう。

元記事の執筆日:2012/06

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