自分一人の力だけでやり遂げようとする自律性の限界と他人との付き合い方の問題:2
“他人と一緒に楽しむ体験の欠如”と“他人との距離感の分かりにくさ(嫌われたくない思い)”
几帳面・生真面目な融通の効かない執着性格と“相手の内面・感情”に対する想像力の大切さ
“優柔不断・拒絶恐怖・完全主義”の他者配慮型性格が感じやすい人間関係の慢性的ストレス
なぜ他人との人間関係で疲れきってしまうのか?1:人に嫌われたくない心理
なぜ他人との人間関係で疲れきってしまうのか?2:人からの頼み・誘いを断れない葛藤
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自分一人の力だけでやり遂げようとする自律性の限界と他人との付き合い方の問題:1
自己を確立して“自立的”な人生を生きるということは、自分のやるべきことだけを他人の助けを借りずに“自律的”にこなすということとは違うわけで、『自分と他人を含む社会的関係性の中での協力・安らぎ・役割分担』のような関係性への適応や他者への関心も含めた総合的な行動方略として“自立”があると考えるべきなのかもしれません。確かに現代社会では、他人との人間関係やコミュニケーションが殆どなくても、企業・役所などに就職してやるべき仕事をきちんとこなして経済生活の上で自立していれば、人格的・社会的に自立していると見なされる向きはありますが、『他者との関係性・助け合いにおける適応(過去の抑圧された感情とも絡む関係性の欲求の充足)』が全くできていないと、長期的には精神の健康を崩したり人生を生きる虚しさに囚われやすくなるというリスクが潜んでいます。
自分の独力だけで上手くやろうと必死に努力する人は多いが、『自分の能力・努力・適性』だけに頼る生き方というのは、社会環境に適応しているように見えても、実際は自分一人だけの世界でアウトプットをし続けているような孤立感に陥りやすい。何かで大きな失敗をした時には、他者からの助言や支援を受けられないのでリカバリーしにくくなってしまうが、『自分の力だけでとにかく何でもやろうとする・他人の助けや協力は一切要らないと思ってしまう』というのは他人を信頼したり他人と協力したりするための能力を獲得する機会を逸してしまったと見ることもできます。他人を信頼できないと『自分の本当の感情・考え』を言葉にすることが難しくなりストレスが溜まりますが、その根本的な原因は『子供時代の母子関係における愛情欠損』にあります。いつも孤独感が強くて誰にも頼ることができなかったという心細さや怒りが鬱積して、『他罰的な価値観・他人の甘えに対する厳しさ(他人に対する協力や助けの少なさ)』に傾きやすくなります。自分自身が誰にも頼らずに独力で必死で生き抜いてきた人は、概ね自律できない他人や甘えてくる他人に対しても厳しくなり、『他人の弱みを受け容れる態度』にはなりにくくなります。
成長してから自分の親子関係や成育環境を振り返った場合に、それを嫌いだとか憎いとか思ってしまうようになると、つまりアダルトチルドレンのような自己アイデンティティを確立してしまうことになると、『誰にも頼らずに何でも自分ひとりでやり遂げなければならないという気持ち』が非常に強くなります。無意識領域に怒りや憎しみ、悔しさ、不満を鬱積させながら、『自分ひとりでやりたいからやる』のではなく『自分ひとりでやらざるを得ないからやるしかない』という気持ちになるわけですが、この表面的な自立心は無意識に憎しみ・怒りを持っているために、『他人との人間関係』でその敵意や反発心が見透かされて上手くいかないことも多い。子供時代の親子関係から『助けたり助けられたりの感覚』を学ぶことができなかったため、『頼れるのは自分だけ・周囲にいるのはみんな頼りにならない他人ばかり』という人間観が形成されるからですが、そこに『過去の親子関係のコンプレックス(親が子を自分の思い通りに動かそうとする育て方)』が加わると人間不信や閉じこもり(非社会的なひきこもり)の心理は余計に強くなります。
子供が親の思い通りの人生を歩んでいる時には賞賛(自慢)したりご褒美を上げたりしていたのに、途中で『親の思い描いていた理想のコース』から外れたり挫折すると、途端に冷たくなったり侮辱・否定してきたりするというような『親の利己主義に基づく子育て・身勝手な賞賛と否定の切り替え』があると、子供の人格形成が歪められて人間不信やアパシー(意欲減退)、虚無主義になりやすくなる問題があります。自分の人生のプロセスや今までの人間関係(親子関係)のすべてが嫌い、憎い、どうして自分だけがこんな目に遭わなければいけないのかと思っていれば、どうしても人間全般(すべての他人)が自分と合わない存在、自分とは違う世界で楽しくやっている存在のように思われて、自分と他人との間に『深い感情・考え方の溝』ができてしまう。
どうせ自分なんかという思い、どうせ他人は頼りにならないし傷つけられるだけという不信感がありつつも、他人から見捨てられたくないとか孤独になりたくないとかいう子供時代からの不安感が強いので、『表面的な奉仕・善意(仲良くなるための努力)』を必死に見せたりもするが、本心からの他人への興味関心(あるいは他人と一緒に過ごしている時の楽しい感情)が起こらないので、やはり他人と打ち解けた深い人間関係は作りにくくなってしまうのです。
自分一人の力だけでやり遂げようとする自律性の限界と他人との付き合い方の問題:2
表面的な社会適応(自立能力)は良いが、他者に対する不信感・拒否感が強いパーソナリティについて、精神分析家のD.W.ウィニコットは『真実の自己』ではない『偽りの自己』だとして定義していますが、『偽りの自己』は子供時代から現在まで『本当に楽しいと思える人間関係(親子関係)の体験や記憶』がないということが影響しています。本当に楽しいと思えることや関係がないために、『表面的な適応(社会人として無難にしっかりとして見えるような振る舞い)+自分ひとりだけでの自立』に必死になるのですが、『無意識領域にある他者への不信・嫌悪』の影響によって人間関係のトラブルが増えたり、人生の生きづらさや虚しさの感覚に悩みやすくなります。
つまり、『やらなければいけないからやるという行動原理』や『社会人としての義務だからやるという規範意識』以外に、自分がそれをやりたいからやる、その相手と付き合いたいから付き合うといった『自発的なモチベーション』や『行為そのものに内在する喜び』を感じにくいということです。打ち解けた深い人間関係や付き合いが持てないという悩みの場合でも、『感情の交流・本音のふれあい』ができないということが第一の問題であって、自分自身が『人と付き合って本当に楽しいという経験』や『もう一度あの人と会いたいから自分から連絡するという行動(動機づけ)』ができていないから親しい付き合いが続かないということが多いのです。
几帳面・生真面目で良い人なのに人間関係が苦手で上手くいかない(親密な付き合いには至らない)というケースでも、『他人が自分をどのように見ているのか』ばかりが気になりすぎて、過剰な配慮や親切(いい子としてのオーバーな自己呈示)を示すのだけれど『本音の交流・リラックスした会話の楽しみ』を得られていないということになります。子供時代からの親子間の楽しい体験の共有がなかったり、友達との本音の交流、ふれあいの楽しさがなかったことなどが、『自分の魅力・面白さに対する自信の無さ』につながり、他人との心理的距離を開かせてしまうことがあります。そこには無意識領域にある子供時代から引きずっている『他者に対する不信感・憎悪』を隠そうとして、過剰に敵意のないいい子(善人)をオーバーに演じているという側面もありますが、『自己評価・自信の低さ』や『本当に楽しい経験がどんなものか分からないという自己不確実感』も影響しています。周囲の他人を信用できないというレベルを超えて、自分に危害や屈辱、劣等感を与えてくる『敵』のような形で認識してしまうこともあり、その敵に対して身構えることで『自分の本音・弱点』を覆い隠した消極的な楽しくないコミュニケーションしかできなくなったりもするのです。
人から嫌われたくない好かれたいという欲求、しかし他人をどうしても信じられないとかどこか憎んだり疎ましい気持ちもある(自分と他人が仲間になれるような存在だと感じられない)という反発心が、『深刻な葛藤・認知の分裂』を生み出しているわけです。W.ライヒのいう自分を外界や他者の脅威から守るための『性格の鎧』が強すぎるとも言えますが、そこには潜在的な他者を敵と見なす警戒感と不信感があり、そのために実際に他人と付き合う前から警戒心でエネルギーを浪費してしまい疲れきってしまうのです。広義のコミュニケーション能力だとか集団適応力だとかいうものの根底にあるのは、『他者に対する基本的信頼感・他者への興味関心と共同行為の体験』です。他人とどうしても打ち解けられないとか人間関係がいつも苦痛で堪らない(どんな相手でも早く一人になりたい)というケースでは、『気の合う他人と一緒に何かをしているという喜びの感覚・相手と共に共通の活動や体験をしているという連帯感』を得られなかったり、そういった過去の体験の記憶がないことが多いのです。
ここでいう集団適応力は『共同体的な帰属感・連帯感』のようなものも含んでいますが、他人との人間関係がいつも苦痛という人のケースでは、『心理的に損得勘定を超えて帰属できる共同体・仲間関係(親子関係)』が欠落していることが多く、女性精神分析家のカレン・ホーナイが劣等コンプレックスや孤立感の原因と指摘した『帰属意識の欠如』に苦しんでいたりもします。
“他人と一緒に楽しむ体験の欠如”と“他人との距離感の分かりにくさ(嫌われたくない思い)”
一緒にいるだけで楽しくて気持ちが明るくなる(もっとその人と長く一緒にいたい)、あるいは共に過ごしているだけで傷ついた気持ちや不安な感情が癒されるという共同体的な帰属感の原点は、子供時代の『打ち解けた良好な母子関係』にあります。心身の虐待を受けていたり親の前でいつも良い子を演じなければならなかったり、堅苦しくて砕けた所のない親(冗談や雑談、笑いがほとんどないような親)だったりすると、損得勘定を超えたただ一緒にいるだけで楽しいとか落ち着くとかいった『共同体的な帰属感の体験』ができなくなり、『一人でいるほうが落ち着くし気楽だ(相手に傷つけられたりあれこれ要求や期待をされなくて済むから一人が良い)』という考え方になりやすくなります。
他人と一緒に過ごしたり活動したりすることは、誰にとっても多かれ少なかれストレスにはなりますが、子供時代から『(親を含めた他人と)一緒に楽しくリラックスして過ごす体験』ができないと、他人との親しい付き合いや他人と共に過ごす人間関係は『喜び・楽しさ』よりも『負担・苦痛』になってしまいがちではあります。どの年代であっても誰か気の置けない相手と楽しい時間・活動を共有する体験を重ねることによって、『人間関係の煩わしさ・ストレス』を『人間関係の喜び・楽しさ』が上回るようになってきます。
他人と上手くコミュニケーションできないという問題を解決する対応では、イメージ療法を用いたメンタルトレーニングで想像上の練習をすることにも効果がありますが、やはり一番効果的なのは『取るに足らない雑談ができる相手・何でも不安なく話しかけられる相手』を見つけて(あるいはカウンセリング的な状況での練習から始めて見ても良いですが)実際に話してみること、会話が楽しいという実感を得ることでしょう。『自分にとって大切な相手の見極め』においても、自分を苦しめたり不幸にしたりする相手の場合には『外見的・条件的な魅力』があっても、どこか『打ち解けられない感じ・リラックスできない空気(居心地の悪さだとか相手に気を遣わなければいけない感じ)』があることが多いのですが、その時には相手の分かりやすい魅力や個性のほうに惹きつけられやすかったりもします。
自分のほうが一方的に尽くしたり我慢したりしてでも、その相手と付き合うだけの価値があるように感じるのですが、実際に付き合ってみると『心と心の本音の交流・会話の楽しさや一緒にいる安らぎ』が得られないので、やはり人間関係の価値や意味を学び取ることができないという結果になりやすいのです。あるいは、人との付き合いにおいて、『極端な理想主義』に傾いて失望したり、『自分を良い人間だと思われたいという承認欲求』によって偽りの自己ばかりを演出しているうちに、人間関係に楽しさを感じるどころか疲れきってしまうということになります。他人に嫌われたくないとか自分の弱点やミスを見せたくないとかいう、『人間関係の楽しさ・魅力の本質とは余り関係しない部分』に自分のエネルギーを使い過ぎてしまうのも、アダルトチルドレンやうつ病になりやすい几帳面な病前性格(メランコリー親和型性格)の特徴の一つでしょう。そういった歪んだ人間関係のあり方が悪化していくと、『人間に対する好き嫌いの感覚』が混乱してしまって、本当は嫌いなタイプの人間であっても、その人に嫌われたくないとかなんとかして好意をもたれたいという無意味な努力・緊張に追われてしまいやすくなるのです。
『本来の自分の感情・気持ち・考え』を構えずに出せる相手、多少おかしなことや言い間違えをしたとしても笑って受け入れるような人、良いところばかりを見せようと構えなくても良いような人というのが、『一緒にいて自分が楽しい気持ちになれる相手』なのですが、自分自身に過去のわだかまりや感情的コンプレックスがあると、そういった自分にとっての大切な相手の見極めが上手くいかなかったりもします。他人と打ち解けた付き合いをしたり、他人のために無意識的に行動することによって、自分と相手との間の『してあげた・してもらったの損得勘定』を超えた『共同体的な信頼感や安らぎ』が形成されてくるのです。
しかし現代では、自分一人の自己責任で生きていく(誰の助けも借りず心理的な借りを作らずに自分は自分で生きていきたい)という自我中心思考が強くなり過ぎて、『他人と一緒に生きる・活動する(自分を帰属させて献身できる共同体・仲間意識を持つ)』ということが、プライベートでもパブリック(仕事)でも難しくなりつつあるのかもしれません。
几帳面・生真面目な融通の効かない執着性格と“相手の内面・感情”に対する想像力の大切さ
うつ病(気分障害)になりやすいメランコリー親和型性格や執着性格の特徴として、『几帳面・生真面目な秩序志向性(責任感の強さ)』や『本音の自分の感情や意見を出せない他者配慮性』が上げられますが、これらは真面目に頑張っているけれど職場の雰囲気や周囲の人間関係に馴染めないという問題にもつながっています。自分のやるべき業務や役割に対して粉骨砕身の努力をし続けてはいるが、他者に興味関心を持ちにくいために『相手が自分に何を求めているのか(自分がどうすれば相手が喜んでくれるか)』が分からなかったり、逆に過剰に気配りをしたり四角四面の堅苦しい対応になって疲れきってしまったりする。
心から安らげて自分らしさを見せられる相手や環境があるかどうかというのが、憂鬱感や気分の落ち込み、疲労困憊感が回復しやすいかどうかの鍵にもなるのだが、自らの言動でそういった相手や環境から遠ざかってしまうことも少なくない。うつ病や不安障害になりやすい神経質な人は、『心からのリラックス・本音での砕けた交流・構えなくても良い相手との他愛ないコミュニケーション』が余り得意(好き)でなかったり、逆に生産的ではない遊びや雑談を『単なる無駄(無意味な時間)』として切り捨ててしまいがちである。いつも緊張して全力でやるべき課題と向き合い、ミスをしないように最大限の成果を上げなければならないと意気込んでいるような人は、『仕事の持続性・気力と意欲の充実』が続かないことが多く、無理に無理を重ねれば『燃え尽き症候群(burnout syndrome)』に陥って気分・感情・意欲が疲憊しきってしまう。
他人を頼ることなく自分一人だけで体力と精神力の限界まで頑張り続けるというのは、性格上の長所というより対人関係上の短所になりやすい。自分に対して極端にストイックで厳しい人は、『他者との双方向的なコミュニケーション』を上手く取り入れていかない限り、自分同様に他人の行動や責任感にも厳しくなりがちである。そのため、他人との親密な関係に発展しにくく、他人の小さなミスや怠慢、いい加減さがどうしても我慢できなくなり(自分だけが真面目に一生懸命にやっていて損をしているという被害感に囚われやすくなり)、絶えずピリピリとした緊張感を出したり不快なストレスを溜め込んだりする。『相手が何を望んでいるか、何を話したがっているか』ということについての共感性と想像力がなければ、双方向的なコミュニケーションはスムーズに進みにくいし、『相手が何を嫌がっているか、何をコンプレックスに感じているか』ということについての配慮や思いやりを働かせられない鈍感な人は、他人の嫌がる事(聞きたくない種類の話題・自慢など)を無意識的に繰り返して煙たがられたり嫌われたりすることもある。
相手のために良かれと思って善意でしていることが裏目に出ると、『自分がこれだけ相手のために尽くしているのに全く応えてくれない』という被害感や対人不信を感じることにもなる。その結果、余計に今まで以上に他人に対して厳しい態度を取ったり、皮肉・辛辣な口調で相手の嫌がる話をしてしまったりするようになってしまうのだが、『間違った方向性ややり方での努力』を幾ら続けても人間関係や相互尊重は上手くいかないのは道理である。相手と自分がお互いに相手をどう思っているか、相手の望んでいることや喜びそうなことは何かということにちょっとした想像力(思いやり)を巡らせて機転を利かせることで、『この人と一緒にいると楽しい(気持ちがリラックスして癒される)・もっと話をしたくなる・相手の話を聞きたくなる』といった関係になりやすくなってくる。
“優柔不断・拒絶恐怖・完全主義”の他者配慮型性格が感じやすい人間関係の慢性的ストレス
他者への配慮や気配りが過剰な人の場合には、『人間関係の愚痴・不満・憤り』を溜め込みすぎて、『人間関係の慢性的ストレス』によって心身のバランス(自律神経系)を崩して睡眠障害を起こしたり、うつ病・社交不安障害(対人恐怖症)のような状態にはまりこんでしまうことがある。人間関係の慢性的ストレスを引き起こす原因は、大別すると以下のような感じになるだろう。
1.相手からいじめられたり侮蔑されたりしているのに言い返せない(やり返せない)ままでいる=気弱・小心な性格傾向
2.相手から無理なお願い事をされてしまい、本当は断りたいのに断れないでいる(どう答えるべきか迷い続けている)=優柔不断・承認欲求の強い性格傾向。
3.自分の好意や奉仕を相手が当たり前のように受け取って感謝もせず、自分だけが良いように使われていると感じる=被害感・敵対心のある性格傾向
自分が思っていることが伝えられない、自分の言いたいことが上手く言えない、本当の感情を押し殺して表面的な温厚・協調を演じているなどの不快な状況が続くと、S.フロイトの精神分析でいう『抑圧・合理化・反動形成』の防衛機制が働いて、無意識領域に自分の感情・欲求・意思が無理矢理に抑え込まれてしまうことになる。抑圧された感情・欲求が、『抑うつ感・無力感・イライラ・不眠』など各種の精神症状に転換される心的メカニズムが指摘できるが、本質的な問題は『すべての人に嫌われたくない・自分の良いイメージをどんな時も壊したくない』という承認欲求の過剰や完全主義的な傾向である。他人と殊更に衝突したり相手の意見を否定したりする必要まではないが、『相手からのお願い・要求・交渉・誘い』にすべて笑顔で愛想良く答えてイエス(いいよ)と受け入れていれば、誰でも心身が疲れきって自分の時間・活動が持てないことへのストレスも蓄積されてくる。
現実問題として、自分に関わってくるすべての他人に対して良い顔はできないし、またする必要もないのだが、他者配慮性が過剰で自分を良い人だと思われたい人(良い人のイメージを壊したくない人)は、実に些細な誘いかけやお願い事に対してそれを受け入れるか断るかで散々迷い悩んだ挙句、最終的には受け入れざるを得ないという結論に渋々たどり着いてしまう。例えば、自分が何週間も前から楽しみにしていた『アウトドアの予定』が先にあったのに、それほど親しくもない知人から『自分が出演する演劇に来てくれないか(チケットを購入してほしい)との誘い』を受けて、行くべきか断るべきかずっと悶々と悩み続けてしまう。あれこれ悩みながらも、相手から冷たい人と思われたくない(共通の友人から悪く思われたくない)ことから断ることができないだろうことも薄々分かっている、その体裁の繕い方(イメージづくり)に自分で自分に腹が立ちながらも、『何でそれほど親しくしてもいないのに、あの人は自分をわざわざ誘ってきたんだ』などと逆に憤ったりもする。
それでも、最終的には愛想笑いを浮かべて『興味があるので演劇を見に行かせてもらうよ』と何の迷いもなかったかのように返事してしまい、本当に行きたかったほうのキャンプなり登山なりを諦めて、自分の本来の欲求を抑圧してしまう。自分としては何晩も行こうか行くまいか悩んだのに、その葛藤・迷いは当然ながら、誘ってきた相手には伝わるはずもないし(気軽に軽いフットワークでOKしてくれたとしか思わないし)、相手のほうは『他に用事ややりたかったことがあれば別に断ってもらっても構わないのに』と思っている可能性のほうが高い。そのことは実は本人にも分かっているだけに、『相手にとっての些細な誘い・頼みごと』が『自分にとっての大きな迷い・葛藤』になってしまっている現状が更に許せなかったり、自分の優柔不断(自分の意志をはっきり言えない性格)を情けなく思ってしまうのである。
この一件だけを見れば誰にでも起こり得る些細なことなのだが、他者配慮性や承認欲求の強い執着性格では、『一事が万事』となって次から次に『対人関係から発生してくるしがらみ・拘束・不自由』が発生してくるため、人と表層的に軽くつきあっているだけのつもりでも、色々な付き合いや義理に自分から絡み取られていって疲れきってしまう。他者に対する不信感・被害感(他者からあれこれ何かを求められたり誘われたりして意欲・エネルギーが吸い取られるような被害感)が強まってしまい、結果として、他人と関わりを持ってコミュニケーションすること自体が苦手・苦痛になっていく。
大して親しくもない相手の用事に一方的に付き合わされる、感謝も優しさもないような相手からの頼みごとをついつい受け容れてしまう、共通点や楽しさのない相手とばかり関係を持ってしまうというのは、いわゆる『八方美人の性格傾向』が損な方向に出てしまっているとも解釈できる。それを突き詰めれば、『誰からも嫌われたくない、自分の良いイメージを守りたいという臆病な完全主義』あるいは『自分が本当に言いたいことをはっきり言えない、迷いに迷った挙句に本心とは違う選択をしてしまう優柔不断』に行き着くだろう。
なぜ他人との人間関係で疲れきってしまうのか?1:人に嫌われたくない心理
全ての人に好かれたり良い人のイメージを持たれる必要がないにも関わらず、完全主義的な執着性格の人は『自分が大切にすべき親密な信頼できる相手』と『それなりに無難に対応すれば良いあまり親しくない相手(合わない相手)』との区別をつけられないために、人間関係やコミュニケーションで過剰に気を遣ったり相手に合わせてしまって心身の調子を崩してしまうことになる。そればかりか、人間関係に人並み以上のエネルギー(配慮)と時間を注いでいるにも関わらず、『自分が大切にすべき信頼できる相手』を見定められずにエネルギーが分散してしまう。そして、優柔不断でどうしようかあれこれ迷ったり、どうでもいい相手との付き合い(最終的に深く付き合っても意味がない相手)に必要以上に気配りしている間に、『自分を大切にしてくれそうな相手との関係』をみすみす逃してしまうことにもなる。
相手の気分を一切害さないようにしたい、付き合いの悪い人だと思われたくない、せっかくの誘い(厚意)を無駄にしてはいけないという考えに固まっていれば、『他人からのアプローチ(要求・誘い・交渉)』にことごとく丁寧に応対して『応諾・同意の返事』ばかりを返さなければならない。最悪の場合には、八方美人どころかお人好し(のカモ)の位置づけになってしまい、振り込め詐欺・押し売りだとかデート商法などの悪質商法だとかに騙されてしまう恐れさえも出てくるが、本人は自分が『断れないお人好し・押しや強引さに弱いカモ』だという自覚が半ばあるだけに、余計に悔しくて頭に来て自分で自分を追い込んでしまうのである。
自分が本心では乗り気ではない誘いかけ、大して親密でもない相手(今後も親しくしたいとは思えないタイプ)からのお願い、他人からのちょっとした揶揄や侮辱などに対して、『お断りします・それは要りません(買うつもりはありません)・興味がありません・不愉快なのでやめて下さい』などのはっきりした意思表示や感情表現ができないということが、『八方美人・優柔不断・完全主義・他者配慮の過剰』の最大の問題である。更に言えば、煮え切らない自分が自分でも嫌いになって自己評価が低下することになり、うつ病になりやすい執着性格・メランコリー親和型性格(うつ病の病前性格)の対人関係パターンの原因を生み出すことになる。
人間関係のストレスや悩みによって抑うつ感・無力感・イライラが強まったり、夜になっても悩んでいる相手とのやり取りが頭に浮かんで眠れなくなったりするのは、『相手の強引な態度・乗り気ではないイベントへの誘い・厚かましい度重なるお願い事・無礼で意地悪な言動』などが原因ではあるのだが、それ以上に『相手の不快な言動・煩わしい要求にきっぱりと対応(返答)できない自分自身』に苛立っていたり迷っていたりするのである。直接の危害や報復、制裁の心配があるケース(いじめ・パワハラ・犯罪事態など)であれば、自分の本音や意見を言えないというのは仕方がないと納得もつくのだが、そうではないケースのほうが多いから(相手が自分をどう思うかという想像に自分が束縛されてしまうから)、執着性格の人はそれほど親しくもなく別れても良いような相手に『必要以上の迎合・遠慮』をしてしまいがちな優柔不断な自分に対して憤り・不満が溜まってしまう。
エネルギーと時間を非生産的に浪費してしまう『他者配慮の過剰・優柔不断・自己イメージへの固執』を振り切るためには、人間関係をすべて円満に営んでみんなに好かれよう(嫌われまい)として必死になるのではなく、『本当に大切にするだけの価値・関係がある相手』と『それなりに対応すれば良い知り合いのような相手(そんなに自分と合うわけではない相手)』とに区切りをつけなければならない。そして、自分にとって深い付き合いがない後者からのアプローチに対しては、『自分の本音・用事や予定(やりたいこと)』のほうをまず優先する(余裕があればOKしても良いかくらいの気持ちを持つ)と決めてしまえば気分は随分と楽になるだろう。
なぜ他人との人間関係で疲れきってしまうのか?2:人からの頼み・誘いを断れない葛藤
相手との『本音と本音の交流(心のふれあい)』や『好意・援助の返報性(互酬性)』ができていないにも関わらず、相手の要求や誘いに対していつも良い顔をしてOKしていると、親しくもない相手や自分を甘く見る相手から『都合の良い人物(お人好し・扱いやすい相手)』として利用されやすくなる。そういった対人関係の経験を積み重ねることで、他者配慮の過剰や几帳面な完全主義がある執着性格のような人は、『他者に対する不信感・被害感(他人と関わると損な役回りや嫌な思いをさせられるという先入観)』を強めてしまい、他人との人間関係で悩みや迷い、孤独感(分かり合えなさ)を抱え込むリスクが格段に高くなる。
『すべての人から嫌われずに認められたいという欲望の過剰(自己イメージへの固執)』がこういった人間関係の悩みや苦しみ、悔しさを生むのだとしたら、その解決方法は『その人からは嫌われても仕方ない・その相手からは認められなくても大丈夫(みんなに合わせても自分を押し殺し過ぎて心の病気になれば意味がない)』という自分なりの腹の括り方、決断の仕方をするしかないだろう。自分の本当の意見・感情・欲求を抑えて我慢しなければならない相手や場面も確かにあるが、概ね知り合いのすべてに対して『本当の自分の抑圧・隠蔽』をしていれば、精神的な閉塞感や自己評価の低下が起こるのはある意味で当たり前であり、『人間関係の取捨選択・濃淡のある付き合い方』を意識して心がけるくらいでちょうど良いのかもしれない。
それほど親しくもない相手(ただの知り合いに近い相手)、あるいは、お人好しな人を利用しようとする計算高い相手などに対して、自分のエネルギーと時間を最大限に割いてまで、『相手の呼びかけ(要求・頼み・誘いかけ)』にいつまでも悩み続けながらOKする必要はない。そういった状況で、人間関係の濃淡(過去の関係の深さ・信頼)に応じた取捨選択や労力・負担の配分をするというのは、『思いやりのない冷淡な性格』などではなくて『常識的な価値判断のできる性格』に過ぎず、一方的なお願いや誘いをきっぱり断ったとしても悪いことでも何でもないのである。
突然の無理なお願いだとか一方的な誘い(お金の貸し借りの要求)だとかを、それほど親しくもない相手に気軽にできる人というのは、お人好しな他者配慮型の執着性格の人(人間関係であれこれずっと悩み続けて最後には自分が折れて悔しがる人)が思うほどに、『必死のお願い・誘いかけ』をしているわけでもないし、そのお願いを無理して聞いてあげたとしても、『逆の立場』になれば恐らく自分が本当に困っていても助けてくれない可能性のほうが高いだろう。あの時に自分は必死にあなたのために頑張ってして上げたことなどを訴えても、知らぬ顔の半兵衛で逃げられてしまうことのほうが多い。執着性格やメランコリー親和型性格のようなうつ病の病前性格では、自分だけがいつも損な役回りになっているとか、いつも他人のために必死に尽くしているのに感謝されない(自分が困った時には何もしてもらったことがない)とかいうことを延々と終わりなく悩んで憤りを感じていることもあるが、これは『利己的なずるい他人への怒り』である以上に『はっきり拒否・反対の意思表示ができない自分への怒り』でもある。
S.フロイトのうつ病の精神分析では、これを『他者に対する怒り・敵意』を他者にそのまま向けることができないので、自分の不甲斐なさ(迷い続ける優柔不断)に向け変えてしまう投影の防衛機制として説明しているが、『誰かに向けている強いネガティブな感情』を自分や違う人に向け変えているままでは(自己批判の葛藤や終わりのない愚痴の形のままでは)、抑うつ感・無気力・空虚感などのうつ病的な症状は改善しにくい。この対人関係のストレスや不満(憤り)を巡る心理機制を前提にすると、『ありのままの自分』の感情や意志、欲求と向き合って、『自己欺瞞のない自己表現・意思伝達』をすることが症状や悩みの改善につながるというカウンセリングの基本原則(自己一致の純粋性)に立ち戻ることの重要性が感じられることにもなる。
元記事の執筆日:2013/09
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