トランスパーソナル心理学と人生の意味論2:思い通りにならない人生と現代の物質主義に対する解釈の視点
トランスパーソナル心理学のオルタナティブな世界観と現代で増える孤独感・虚しさ
“個の確立・自己超越・意味の復権”を志向するトランスパーソナル心理学と宇宙論的な大きな物語との接続
スピリチュアルなトランスパーソナル心理学とケン・ウィルバーの定義した“心(意識)の三つの水準”
ケン・ウィルバーのトランスパーソナル心理学と『往還論(上昇⇔下降)』の精神発達モデル
ケン・ウィルバーの円環的なライフサイクル論と虚無主義・刹那主義を否定する“永遠の生命”
V.E.フランクルの『意味への意志』と科学的還元主義のニヒリズム:1
V.E.フランクルの『意味への意志』と自己超越的な『新しい人間性』:2
V.E.フランクルの収容所体験と人生からの問い(未来の意味):創造価値・体験価値・態度価値
V.E.フランクルと登山(ロッククライミング)1:ロゴセラピーにおける厳しい人生観とストレス
V.E.フランクルと登山(ロッククライミング)2:人はなぜ登山やスポーツをするのか?
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トランスパーソナル心理学と人生の意味論1:人生から“個人(私)”へと問いかけられる意味・使命
V.E.フランクルは個人が自分の人生の意味を問いかけるのではなく、人生の側から自分に人生の意味を問いかけてくる(使命感・義務感を与えてくる)という逆転の発想を示すことで、『実存的ニヒリズム』を克服しようとしました。フランクルのロゴセラピー(実存療法)の心理学は、『自己中心的な幸福の克服』という側面を持っており、従来のヒューマニスティック心理学の『自己実現的・幸福追求的な目的論』を転換させました。こういった人生や世界、無意識の側から『自分の生きる意味・価値』について呼びかけられ問いかけられるという心理学を、『個人としての自分を超越する心理学』ということで“トランスパーソナル心理学(transpersonal psychology)”と呼びます。
広義のトランスパーソナル心理学には、アドラー心理学(個人心理学)の他者と協調して居場所を見つける『共同体感覚』やユング心理学(分析心理学)の『集合無意識との対話』なども含まれますが、トランスパーソナル心理学とは『自分個人の意識可能な欲求・目標』よりも『人生の中で果たすことが自分に求められている使命・意味』を重視する心理学です。トランスパーソナル心理学は、自己実現・自己選択による『自分らしい人生の幸福』を否定するわけではなくそれを包摂しながらも、『自分個人を超えた世界・存在・人生(領域)からの呼びかけ』に応答する使命感や達成感、意味の充実を目指そうとします。
そこには『自力救済による幸福・世間一般の成功や幸せ』を超えた『他力(精神世界・超越的存在)による影響力』が想定されているため、トランスパーソナル心理学は科学的心理学というよりは、人間の実存性・精神的感受性を取り扱う“スピリチュアルな心理学”としての様相を持っています。科学的心理学(科学的精神医学)は『実験・観察』を通して仮説理論を検証することで、第三者の誰が見ても確認できる一般的な理論モデルを構築していき、精神疾患や心理的苦痛に対しても『脳内の神経伝達活動の分泌障害の原因仮説(生理学的・神経学的な原因仮説)』を立てることで、脳内ホルモンのバランスの崩れを改善する『向精神薬』を中心にしてエビデンスベースドな治療を行おうとします。
しかし科学的心理学(科学的精神医学)は、原則として客観的な観察や合理的な推論が可能な『脳内の電気的・化学的な異常』を改善すれば精神疾患や心理的な苦悩は良くなるという前提に立っているため、『人生をどのように生きるべきかの苦悩・自分はなぜこのような人生を送らなければならないかの意味・この人生や人間関係にどういった価値があるのかの葛藤』に対して有効な対処法を提示することは難しいという限界(患者・クライエントの納得のしにくさ)もあります。客観科学の範疇では、そういった内面的・人生論的な問題は『各人がそれなりに現実世界との折り合いをつけるべきこと(科学的根拠のある治療には馴染まない哲学・宗教・人生相談に見合うようなプライベートな苦悩・迷い)』という理解で済ませられてしまう事が多いからです。V.E.フランクルのロゴセラピーの人生観も含むトランスパーソナル心理学では、正にこういったプライベートかつ内面的な苦悩(絶望)にフォーカスしやすい心理学ですが、『人生で起こることには、どんなに苦痛で不快な出来事であっても、何らかの意味やメッセージ性がある』という基本哲学に立脚しています。
トランスパーソナル心理学と人生の意味論2:思い通りにならない人生と現代の物質主義に対する解釈の視点
深刻な病気の恐怖や人間関係のトラブル、慢性疾患の悩み、大切な相手との別離、仕事や学業の挫折といったネガティブな出来事は、一見すると『自分個人の欲求の充足を阻害(邪魔)する無意味な出来事』にしか見えないかもしれません。常識的に考えれば、『こんな病気にならなければ楽しかったはず・人間関係がスムーズなら悩みも消えるはず・大切な相手が戻ってきてくれたら絶望が癒されるのに・仕事や学業が全部成功すれば人生は安心なのに・思い通りにならない事が沢山あるから私はこんなにつらくて苦しいのだ』と思いがちなのですが、トランスパーソナル心理学は『運命の不可避性(人生の唯一性・一回性)』を前提としていますから、『もし何々さえ起こらなかったら良かったのに』という考え方は否定します。
『“起こってしまったこの出来事”は自分に対して何を呼びかけているのだろうか、自分の人生に対してどのような意味を訴えているのだろうか』という方向で、既に起こった出来事のメッセージ性(使命・意味の呼びかけ)を解釈していきます。その絶え間なき解釈の繰り返しと意識の高次化(メタ化)によって、“自分を超えた何か”とのつながりや使命の達成(苦悩に耐えて呼びかけに応えること)に『真の自己実現(人生の本質的意義)』を見出そうとするのです。そこには、この世界や人生の意味のすべてが『自分の意識・欲求・快楽がどうなるか(欲求・希望が満たされれば意味があるが、満たされなければ無意味であるという単純な二元論)』だけで決められてしまうわけではないという、自分を超えた世界・存在の想定が為されているわけです。
『自分を超えた世界や存在の何か』が自分が生きている(頑張って生きなければならない)人生に対して何か大切なこと、意味のあることを教えてくれているかもしれないという“謙虚さ・学びと発見の姿勢”があるために、自分の欲求や目標が満たされなくても、それだけで絶望しきってしまわないというメンタルタフネスが培われやすくなります。トランスパーソナル(transpersonal)というのは『個人を超えた』という意味ですが、そこには『自分自身への過度のこだわり』を和らげていくこと、『個人(個)を超えた他(人間・事物・精神・世界)とのつながり』を改めて意識して回復していくことという二つの目的意識が織り込まれています。
トランスパーソナル心理学は、自己の概念やアイデンティティを自分以外の他者・世界・宇宙にまで拡大していこうとする方向性を持つ神秘的かつ超越論的な心理学ですが、トランスパーソナル心理学の研究者であるロジャー・ウォルシュとフランシス・ヴォーンはトランスパーソナルな体験について、『アイデンティティや自己の感覚が、個人的なものを超えて拡がっていき、人類、生命そのもの、精神、宇宙といったより広い側面を含むようになっていく体験』という宗教的な深遠さや宇宙的なスペクタクルを感じさせる定義を与えています。『私・他者・人類』といった人間の価値観や利害関係が通用する範囲さえも超えて、『世界・自然・地球・宇宙』といった非人間的な生命や空間の全体までも包括するような体験・共感が重視されているわけですが、トランスパーソナルは現代の物質主義・消費文明・欲求肥大のアンチテーゼの理論としても機能しており、『オルタナティブな世界観・人生哲学』を体験的に認識して自己成長を進めていくことがひとつの目標になっています。
人間の精神的な苦悩や魂の衰弱化(生きている意味の実感の弱体化)といったものが、トランスパーソナル心理学では『現代社会の問題点』として取り上げられやすいのですが、現代で生きる人間が陥りやすい『孤独感・虚無感・絶望感』を回復するためには、『個を超えた他とのつながり』を再構築していくことが必要になります。トランスパーソナル心理学は『個を超えた心理学』であると同時に『自己変容・世界変容の心理学』ですが、自分の内面世界や意識(スピリチュアリティ)の持ち方を変容させていくことが、他者や世界とのつながりを変えていき、現実の物質主義的な社会・世界のあり方をも変革する可能性があるとされますが、その人生(世界)の意味・価値を考察する思想性の射程が非常に長いのも魅力になっています。
トランスパーソナル心理学のオルタナティブな世界観と現代で増える孤独感・虚しさ
現代の日本では『自己実現・自己選択・自己責任』などの個人単位の幸福や充実のための概念が建前として普及する一方で、周囲のみんなに合わせずには生きられない、自然な自分を表現して活かすことができないという『自己不全感・自己抑圧(自己欺瞞)のストレス』が非常に強くなりがちです。進学・就活・異性関係(婚活)などの競争を掻い潜っていくことで、『社会経済的なシステム(順風満帆とされる人生のキャリア)』に適応できるわけですが、頑張って何とか適応して学業や仕事、結婚生活などが上手くいっても、それでも十分な幸福や自己の充実、人生の生き甲斐が感じられないという人は増えているようです。
社会適応や経済的な安定、人間関係の適応(恋愛・結婚・友人関係・組織での付き合い・出産育児など)を成し遂げていてもなお、『虚しさ・寂しさ・無意味感』を感じてしまい、本当にこのままの人生や関係を続けていても良いのだろうかという深刻な葛藤・迷いに晒されてしまうわけです。その結果、どう生きれば良いのか迷いに迷って精神的に疲弊したり、物質・行為・性(恋愛)などの病的な依存症に逃避してしまう事もありますが、その根底には『競争社会における孤立・貧困・脱落に対する恐怖』があり、本当の自分自身を表現したり主張すれば『周囲(社会)からの拒絶・排除』に見舞われて困窮してしまうのではないかという不安があるのです。
競争と適応、同調圧力、安定志向などの複合要因によって、現代で生きる人たちは多かれ少なかれ、『自己抑圧・自己欺瞞・ストレス過剰』といったメンタルヘルスの問題を抱えやすくなります。こういった問題の弊害を和らげるためには『自己肯定感・自己効力感』を高めることで、必要に応じて『他者・社会に合わせない意思表示ができる自分の領域や強さ』を作り上げていくことが有効です。そのためには、『孤立・拒絶に対する恐怖』に耐えられるだけのメンタルタフネスが求められますが、トランスパーソナル心理学ではその精神的なタフさを『自我・自分の意思の強さ(他人や社会との対立)』ではなく『自分だけに囚われない柔軟さ(自分を超えた存在・意味・感覚とのつながり)』によって身につけていこうとする所に独自の特徴があります。
トランスパーソナル体験の入り口は、自分の人生にはどのような意味があるのだろうかという疑問、“モノ・カネ・地位・異性・権力・名声(見栄)”など世俗的欲求だけに突き動かされているような今の生き方のままで良いのだろうかという葛藤によって開かれるが、その体験は『オルタナティブ(代替的)な世界観・自己解放』につながる可能性を持っています。もう一つのオルタナティブな世界観(自己解放的・自己成長的な気づき)というのは端的に言えば、自分だけが幸せになりたいという“エゴイズム(利己主義・個人単位の認識)”や魅力的な成功している自分を自分で愛するという“ナルシシズム(自己愛・自己陶酔)”の束縛を超えていくことです。
それがトランスパーソナル心理学が“自己超越的な心理学”と呼ばれる所以でもありますが、自我への執着や自己愛の過剰を乗り越えて、『自分を超えた何らかの存在・意味・価値』につながって接近しようとする基本的な考え方は、“諸法無我・縁起と因縁”を説く仏教思想との親近性も持っています。科学至上主義の無機質的な世界観(要素還元主義で説明される生命)を否定するトランスパーソナル心理学は、仏教思想の『縁起・相依相即(つながりによって存在や自我が成り立つ相互依存性)』と同じように『全ての生命はひとつにつながっている』という世界観を提示しています。この他の生命とのつながりがあることによって自分(自我意識)の存在がはじめて可能になるという考え方は、自己責任原理・個人主義の副作用としての『孤独感・寂しさ(自分と他者は表面的にはふれあってもバラバラの別の存在に過ぎないという感覚)』を癒すような効果を持っているとも言えるでしょう。
“個の確立・自己超越・意味の復権”を志向するトランスパーソナル心理学と宇宙論的な大きな物語との接続
行動を客観的に理論化する行動主義心理学と無意識領域を考察する精神分析に続いて、『第三の心理学』と呼ばれたヒューマニスティック心理学(人間性心理学)では、社会に上手く適応するための“帰属欲求・承認欲求の充足”や自分らしい人生を生き生きと充実させて生きるための“自己実現の達成”が目標とされました。しかし、潜在的な自分の可能性を発揮して社会で活躍したり他人から認められたりする人生(自己実現の理想を達成するような輝いて見える人生)を送っていても、なぜか虚無感や孤独感、無力感を感じてしまうという人の苦悩や問題をヒューマニスティック心理学(人間性心理学)だけで解決することは困難です。『自分の欲求や夢(成功)に対するこだわり・自己実現に対する過度の執着心』によって、逆に自己不全感や私欲に覆われた人生の虚しさが際立ってしまう副作用が出てきたわけです。
このヒューマニスティック心理学(人間性心理学)の副作用を解消するために、エゴイズムや自己愛を超えてより多くのもの(より高次で本質的なもの)とつながることで、人間存在の可能性を拡大しようとする自己超越的な心理学が『第四の心理学』とも呼ばれるトランスパーソナル心理学なのです。トランスパーソナル心理学は、豊かで平和な現代社会に特有の閉塞感・空虚感・孤独感を癒すという目的性が強調されますが、その本質は『つながりの体験の拡大による自己解放・精神世界の拡大による自己成長・こだわりや差別、制限を乗り越える自己超越』といったことにあります。トランスパーソナル体験では『自分(私)を超えた人・モノ・世界とのつながり』といったことが強調されます。このつながりの拡大には、自分以外の人・モノ・世界と無差別的かつ横断的につながっていくという“水平的なつながり”と精神世界の集合無意識や超越者、真実の自己などにアクセスして気づきを拡張していくという“垂直的なつながり”の二つの次元があります。
水平的なつながりでは男女の性差・民族と国家・伝統と革新・家族と慣習などに見られる『差別・対立・因縁』を乗り越えながらつながっていくということが含意されており、垂直的なつながりでは『今の自分の意識・知識に制限されない新たな世界や気づき』があってそれにアクセスできるという前提に立ちます。トランスパーソナル心理学は、現代のバラバラな個人の孤独感・空虚感を癒すために、『自分を超えた他者・モノ・世界・精神とのつながり』を重視する“つながりの心理学”としての顔を持っています。しかし、トランスパーソナル心理学は『つながりの強制・自分を押し殺す同調性の思想(=全体主義と近似する同調圧力・個人の抑圧)』とは明らかに異なる体験的な自己超越の思想であり、『個(自分)の人格や目標を確立した人』が自発的に自分の限界・執着を乗り越えていくこと(自己超越してより普遍的な生の意味に触れて感じたり実践したりすること)を目標にしています。
トランスパーソナル心理学は、『みんなの意志・全体の利害』のために個人としての自分を押し殺して同調させようとするファシズムやナショナリズムを否定する一方で、『絶対的な価値観・普遍的な真理』がないという前提によって、個人をバラバラに孤立させるような副作用を生じやすいポストモダンの相対主義(多元主義)にも反対する立場を取っています。『個を確立した人のつながりの拡大・自己超越の志向性・真剣に生と向き合う姿勢』を特徴とするトランスパーソナル心理学は、人間の人生や存在には固有の意味などないのだから個人はそれぞれ自分なりの価値観に従って快楽志向(利益増大志向)で生きれば良いの帰結になりやすい『ポストモダンの相対主義(多元主義)』とも折り合わない思想だからです。
宇宙(コスモス)の自己進化や生命全体の相互的なつながり、自分を超える自己成長(生きることの普遍的な意味)といった『大きな物語の復権・共有』を目的にするところのあるトランスパーソナル心理学は、ポストモダンの相対主義や多元主義に対しては、『人間(生命体)の生きる意味・シリアスに真面目に生きようとする意欲』を剥奪する危険思想という認識をどうしても持ちやすくなります。絶対的な価値だとか規範だとかに縛られないバラバラの個人(現代を生きる人間)は自由で気楽だけれど、なぜか孤独感・虚無感・無力感に襲われて苦しみやすいという問題意識からトランスパーソナル心理学は始まっているので、『他者と共有可能な価値・真理の不在』を前提とするポストモダン思想や価値の差異がないフラットな世界観(人生は難しい事は考えずにとにかく楽しんだ者勝ち)とは両立が困難な部分があります。
トランスパーソナル心理学の研究者として著名なケン・ウィルバー(Kenneth Earl "Ken" Wilber Junior, 1949~)の宇宙の自己進化論やインテグラル理論にしても、人間存在(人の精神)と宇宙の生成発展が根底においてつながっている(人の一生と宇宙の一生とは相似形を為す)という『大きな物語』を再構築しようとする壮大な目的を持つものになっています。宇宙と人間の相互的関係を示唆する宇宙の自己進化論は、『複雑系』の現代科学の理論(オートポイエーシス,フラクタル,バタフライ効果,社会システム論など)を援用することによって、その普遍的というか神秘的な理論の物語性に説得力を増そうとしていますが……その大きな物語を孕んだK.ウィルバーの宇宙理論の科学的実証性はともかくとして、『意味のない世界』から『意味のある世界(しかしその世界観の強制はない世界)』へコペルニクス的転換を行おうとしたことがトランスパーソナル心理学が果たした歴史的役割の一つだと思います。
スピリチュアルなトランスパーソナル心理学とケン・ウィルバーの定義した“心(意識)の三つの水準”
トランスパーソナル心理学は『個人としての自己実現・自己成長』を超越しようとする心理学であり、自我(自分)の欲求や能力、目的を超えたところにある『世界の普遍的な真理(万物とのつながり・生命の根源的な感覚)』に近づいてつながろうとする思想的・神秘的な側面を持ちます。トランスパーソナル心理学は、現代の物質世界の世俗主義に対するカウンター的な価値観を内在しているので、『経済的な利益(欲しいモノとサービス)・家庭的な幸福(安心感や子供、世間体)・魅力的な異性(快楽的な恋愛や性交渉)』といった世俗的な承認・快楽・自尊心よりも高次の目的や意味を志向する特徴を持っています。
つまり、学校で勉強をして企業(官庁)に就職して収入を得たり、素敵な異性と恋愛や性を楽しんだり、結婚して家庭(子供)を持ったりするという『世俗的な幸福・喜び・責任』は大切なことですが、人間の生のあり方や精神の発達(自己成長)を考える時には、そういった『自我の満足と目的・社会(世俗)の要求と責任』だけでは人間は納得しきれないということがトランスパーソナル心理学では含意されています。『楽しくて面白ければそれで良いとする刹那的な快楽主義』だけではなく、『社会経済的にそれなりの生活ができればそれで良いとする世俗的な人生設計』や『自分(家族)の欲求が満たされて幸せならばそれで良いとする自己・家族(親しい身内)の外部への無関心』といったものを突き詰めていくと、人生の空虚感や無意味感に行き着きやすくなります。
それは究極的には、『自分と他者(世界)との決定的な断絶・孤独+死ねば全てが無に帰すという唯物論的な虚無・有限』を意識させられるからですが、これは西欧哲学や精神分析のセオリーであった“自我の確立と自己実現の限界”を示唆するものでもあります。トランスパーソナル心理学のケン・ウィルバー(Kenneth Earl "Ken" Wilber Junior, 1949~)は、心(意識)の三つの水準である『プレパーソナル(prepersonal)・パーソナル(personal)・トランスパーソナル(transpersonal)』を仮定して、パーソナル水準における自我の確立の限界を乗り越えていこうとしました。 トランスパーソナルな心(意識)の水準というのは、宗教的文脈で捉えれば『絶対者の合一・究極的な意識・悟り(解脱)の境位』に相当するものであり、トランスパーソナルな心は『自我(モノ)への執着・こだわり』を離れているとされます。
心・意識の三つの水準
プレパーソナル(prepersonal)……自我を確立する以前の未熟な心(意識)の水準で、精神発達理論における『自他未分離な乳幼児期』に該当する。
パーソナル(personal)……自我(自己アイデンティティ)を確立した成熟した心(意識)の水準で、精神発達理論における『自他を分別して合理的・実際的な判断ができる思春期から青年期以降の大人』に該当する。
トランスパーソナル(transpersonal)……社会(世俗)に適応して確立した自我(自己アイデンティティ)を超えていこうとする高次の心(意識)の水準で、自分(自我)の成長や幸福だけを求めるのではなく『究極的な真理・意識・悟り』に近づこうとする。自分と世界(他者)との境界線にこだわる刹那的なエゴイズムや執着的な自己愛を克服して、『自然・地球・宇宙の生命感覚やネットワーク感覚』と合一・溶融していく。
自分と他者との分別がないプレパーソナルな心は、母親と幻想的一体感の状態にある未熟な乳児の心でもあり、理性や経験に基づく『自我』が確立されていない状態です。人間の精神発達は一般的に『自我の確立・理性の獲得・適応的な行動原理(合理主義や功利主義)』を目標に進んでいきますが、自我の確立や理性の判断は『自分と他者(世界)の区別によるエゴイズムと孤独感』を生み出す原因にもなります。
ケン・ウィルバーのトランスパーソナル心理学と『往還論(上昇⇔下降)』の精神発達モデル
トランスパーソナル心理学では、自他を区別しない非自我的(非意図的)な心理状態として『プレパーソナル(前・自我)』と『トランスパーソナル(超・自我)』を想定していますが、原初的なプレパーソナルのほうは『自他の能力的な未分離=未熟・混沌』、自己超越的なトランスパーソナルのほうは『自他の無境界的な合一=達観と悟り・真の充実』といった特徴を持っています。プレパーソナルもトランスパーソナルも、自己と他者を明確に区別(分別)しない心理状態という点では共通性がありますが、プレパーソナルの心は初めから自我が確立しておらず理性的な判断能力を持っていないだけであり、いったんは自我の確立と理性の獲得を経験した上で、敢えて自他の境界線を消してしまったトランスパーソナルの達観した心とは異なるものです。ルネ・デカルトから始まる近代の西欧哲学では、他者(集団)や対象から区別される自我を科学的認識・責任原理の基盤に置くようになり、事物の存在を疑う懐疑主義を反駁するためにも自我の強化が重視されるようになりました。
S.フロイトの精神分析でも、『エス(本能的欲求)あるところに自我(理性)をあらしめよ』という原則があるように、性的精神発達過程を経て『自我の確立』をすることが精神の健全性の指標とされました。S.フロイトの精神分析では、理性を働かせず現実原則に適応していない『非自我的な心理状態』はすべて、未熟・野蛮・無責任で未開的な心性(病理的な心性)として否定されがちなのですが、ここでは自我を確立した後に敢えて非自我的な心理状態へと成長していく『トランスパーソナルな心(意識)』の視点が欠けています。C.G.ユングはエスを統制する自我の機能を重視せず、普遍的無意識(集合無意識)から湧き上がってくる元型(アーキタイプ)のメッセージから人生の方向性やホーリズム(全体主義)の指針を得ようとしました。しかし、ユング心理学では原始的なイメージや幼児的な自他未分離(未熟)な感受性まで含めて、『トランスパーソナルな価値』をもつものとして解釈しやすいので、トランスパーソナル心理学よりも定義的・イメージ的な曖昧さが多く残されています。
ケン・ウィルバーの三つの心(意識)の水準の概念は、『プレパーソナル→パーソナル→トランスパーソナル』という形で垂直的な発達理論として理解されることが多いですが、ウィルバーはスピリチュアル(精神的)なトランスパーソナルに向かう“上昇のプロセス”だけではなく、リアリスティック(現実的)なパーソナルや原初的なプレパーソナルに向かう“下降のプロセス”の重要性についても指摘しています。そのため、ウィルバーの発達理論は『上昇のプロセス⇔下降のプロセス』と『往道(行き道)⇔還道(帰り道)』の双方向性を持っているということになり、その輪廻転生(死と再生のモチーフ)を含んだ発達理論を『往還論』と呼ぶこともあります。
ケン・ウィルバーのトランスパーソナル心理学は、宗教的・神秘的な変性意識状態を生み出そうとする『ニューエイジ思想(スピリチュアル思想)』の一種に分類されますが、その円環的な死生観は、死後に生まれ変わるまでの魂である『中間生(バルド)』を想定するチベット仏教(『死者の書』)の輪廻転生などに影響を受けています。ニューエイジ思想(スピリチュアル思想)の特徴の一つは、科学主義的な唯物論の死生観を否定していることであり、肉体・脳が死ねばすべてが消滅して終わりになるという一回性の生命の捉え方(いわゆる永劫回帰を説くニーチェ主義)に反対することで、何らかの形で『生命(魂・精神)の永続性・普遍性』を訴えています。死ねば終わりという有限の生命観は、『一回限りの有限の人生だからこそ必死に生きようという動機づけ』にもなることがありますが、『いずれ死んで無になるのだから何をやっても無意味という虚無主義の諦観』に陥ってしまう恐れを孕んでいます。
ケン・ウィルバーの円環的なライフサイクル論と虚無主義・刹那主義を否定する“永遠の生命”
トランスパーソナル心理学の往還論を前提とする『円環的なライフサイクル論(仏教的な輪廻転生のアレンジ版)』では、『誕生→子供の成長→大人(自我の確立)→大人の老化→死=上昇(往道)のプロセス』と『死→魂の中間生(バルド)→肉体の獲得→転生=下降(還道)のプロセス』という双方向的で円環的なぐるぐると回り続けるライフサイクルが考えられているわけです。 ケン・ウィルバーは輪廻転生的な死からの生まれ変わりのプロセスを、ヒンドゥー教で自我の語感を持つ『アートマン・プロジェクト』という概念で説明しようとしました。この終わらない永続的な生命観を示唆する『円環的なライフサイクル論』は、現代的な刹那主義・快楽主義・虚無主義(死んだら全てが終わるのだから今さえ楽しければ良い)を否定するための理論でもあります。
往還論及び円環的な生命観(永続的な生命感覚)は、科学的な根拠や実証には馴染まない理論ですが、そこには永遠の生命の流れにおける一つの具現化(一時的な現れ)として『自我』があるに過ぎないのだという“自我超越志向の考え方”があります。つまり、“私”という自我意識(自己存在)が永遠の生命を持っているという『自我中心のエゴイスティックな生命観』ではなく、すべての人間・生命を包摂して永遠に流れ続けている生命の大いなる奔流(円環)の中に一時的に自我が生成して消滅するという『自我脱却のエコロジカルな生命観』になっているということです。他から区別される“私(自我)”が永遠にその意識と記憶を保持して生き続けるという意味ではなくて、すべての他の生命と渾然一体になってつながっている『生命のネットワーク』が永遠に終わることがないという意味であり、生命はすべて円環構造の中を循環し続けているというイメージがそこにはあります。
トランスパーソナルな心(意識)の状態になると、『私が生きている(私が生命を持っている)』という自我に執着する生命観が後退して、『生命の流れが私という形を取っているに過ぎない(大きな一つの生命のネットワークが私や他者や生物を生みだしている)』という自我を超越したり脱却したりする生命観へのシフトが起こってくるとされています。肉体を持つ自己、意識を持つ自我が『仮象』となるので、今、私が持っている肉体や意識が滅びたとしても、仮象の背景にある『生命・自分の本体=万物を結び合わせる生命・宇宙の無限のネットワーク』そのものは永遠に継続していくということになります。自我の超越や脱却というと、反射的に仏教的な『諸法無我・悟り(解脱)』が想起されますが、仏教思想をはじめとする非自我的・無境界的な東洋思想の影響も受けていたウィルバーは、世界のあらゆる宗教や思想で様々な概念(空・無・宇宙・ブラフマン・神など)を用いて想像されてきた『絶対者(永遠・無限の観念を持つ普遍的存在)との合一』を自我超越のイメージに重ね合わせています。
絶対者というのは『究極の実在・真理』というように理解することもできますが、“パーソナル(自我の確立)”から“トランスパーソナル(自我の超越)”へと向かう上昇(往道)のプロセスだけでは、現実的な日常生活・人間関係・職業生活といった“世俗社会の重要課題”に上手く適応することができなくなってしまいます。そこでウィルバーの往還論では、“トランスパーソナル(自我の超越)”から“パーソナル(自我の確立)”へと向かう下降(還道)のプロセスの大切さも強調されており、トランスパーソナルな心理状態で絶対者と合一した感覚を味わったり、変性意識状態の恍惚感を体験したり、究極の真理に接近したりすればそれで悟っておしまい(宗教的な世界観やスピリチュアルな神秘体験にだけ埋没していけばいい)という話にはならないのです。
トランスパーソナルな心理状態へと精神を発達(上昇)させて、非日常的な絶対者(普遍原理)との合一や貴重な変性意識状態を体験した後には、学んだり働いたり食べたり他者と付き合ったり、家庭生活を送ったり、集団・社会に貢献したりといった『日常的かつ実際的な世界(他者)に対する適応』へと再び戻っていく(下降する)必要があるというのが往還論の重要なポイントになっています。せっかく自我への執着を離れて世俗のしがらみから自由になれる上昇(精神発達)を遂げたのに、また自我の執着や世俗のルールに戻っていくのであればトランスパーソナルな心理状態になる意味がないではないかという見方もありますが、パーソナルとトランスパーソナルの間を行き来する双方向的な往還論では、『自我・理性を生かした現実的な生き方』も『自我を超えて利害や区別にこだわらない精神的な生き方』もどちらも使い分けができるということに精神的な成熟のあり方(独善性・排他性を避けて、実際的に生きる力もある包摂的な成熟)を見出しています。
更に、絶対者との合一や普遍的な真理(すべてを結びつけている生命ネットワークの流れ)への接近を経験することで、自分の自我・肉体が『普遍的な真理(無限の生命ネットワーク)の一部の現れ』であることを知ることができます。その結果、日常生活の些細な出来事や今まで気に食わなかった他者の存在をより肯定的かつ寛容に受け止められるようになり、『感動・感謝・意欲・貢献・慈愛・喜び』といったポジティブな感情と認知に覆われた毎日を過ごしやすくなるというメリットもあります。
V.E.フランクルの『意味への意志』と科学的還元主義のニヒリズム:1
精神分析の創始者であるジークムント・フロイトは、人間の精神活動のエネルギーを『快楽への意志』に求め、個人心理学を考案したアルフレッド・アドラーは『権力への意志』こそが人間の精神活動の源泉であると考えた。S.フロイトのいう快楽への意志は『性的エネルギーであるリビドー(性的欲動)の充足』を志向し、A.アドラーの権力への意志は『他者への優越欲求の充足』を志向するが、V.E.フランクル(Viktor Emil Frankl, 1905-1997)は『快楽(性)・権力(優位)』といったものは、人間にとって“一時的な喜び・慰めをもたらすもの”に過ぎず、精神活動の根本にあるエネルギーではないとした。
V.E.フランクルは、動物的本能に近い『快楽への意志』ばかりを充足させようとしたり、権力への意志を強めて他者に優越することで自尊心(自己価値感)を抱こうとするのは『時代精神の病理』の現れであると考えていた。F.ニーチェのいう“神の死(依拠すべき絶対的な価値基準の喪失)”を経験した合理的な近代人は、この刹那的な時代精神の病理に冒されることで、『意味への意志』が阻害されて『実存的空虚感(生き甲斐と目的意識の混乱)』に陥ってしまうのだとした。
ナチスドイツの強制収容所での過酷な体験を生き延びたフランクルにとって、人間の精神活動を支えるエネルギーと根本的欲求は、苦痛・絶望をはねのけるだけの生き甲斐をもたらすことさえできる『意味への意志』であった。意味への意志が衰弱したり阻害されることで、人は『ニヒリズム(虚無主義)』という無気力や無価値観の絶望にはまりこんでしまうが、ニヒリズムさえ超克できれば人は苦痛や悩みだけで死んでしまう事はないというのがフランクルの人生観である。フランクルにとっては苦痛・苦悩そのものが恐ろしいのではない、『意味のない苦痛・苦悩』こそが、人間をニヒリズム(無意味が覆う虚無主義)の絶望に突き落とす恐ろしい力を持っているのである。
その事を分かりやすい等式で示したのが、『絶望=苦悩マイナス意味(絶望とは意味なき苦悩である)』というフランクルの言葉であるが、この等式は『極限状況における苦悩をどのように解釈して受け止めるべきか(苦悩・苦難に直面していることの自分にとっての意味をどう見出していくか)』という認知療法の治療機序を誘発するような効果も併せ持っている。フランクルが自然科学が隆盛する近代社会におけるニヒリズムの要因として批判したのは『科学的ニヒリズム(科学的還元主義)』だったが、科学的ニヒリズムというのは、事象・事物の全体的意味を抽象的な部分(=理論的な構成要素)に還元してしまうことによって起こるニヒリズムである。
例えば、人間存在を内臓器官や組織・細胞にまで還元していき、人間もまた有機物から構成される物理的存在に過ぎないという科学的還元主義が典型的なものであるが、科学的ニヒリズムでは『全体性・人間性(ヒューマニズム)』を無機的な物質(元素)の構成要素に還元してしまうことで『事物・人生の無意味化』を引き起こすリスクがある。自分がどうしたいのかどうなりたいのかという『主観的な意味への意志』こそが、人生や事物の意味を生み出すはずなのに、科学的還元主義では『客観性・実証性』を重要視することで、意味の足場としての『主観(自我)』が骨抜きにされてしまうのである。
科学的還元主義による科学的ニヒリズムは、愛を『性衝動の転化したもの』にしてしまったり、人間を『進化したサル(類人猿)』にしてしまったり、人間の精神を『コンピューターに喩えた脳の電気的・化学的な情報伝達プロセス』にしてしまったりするが、そういった還元主義によって『愛・人間・精神の特殊的な価値』を多寡がその程度のものに過ぎないと否定しきってしまえば、人間の生の全体は空虚になり、人間の意識はニヒリズムの深淵に呑み込まれてしまうだろう。
V.E.フランクルの『意味への意志』と自己超越的な『新しい人間性』:2
科学的世界観は合理性と実証性を客観的真理の基準に据えるが、科学は豊かな経済や便利な生活のための道具にはなっても、中立的で客観的な科学そのものが『価値の判断基準』あるいは『人間の生きる意味』に取って代わることはできない。近代科学の実証主義が殺したとされる『神』に代わる超越的審級が見つけられないと、人は絶対的な超越的次元の価値の喪失によって、相対的な世俗的次元の損得や快不快の間を行ったり来たりする人生の中をさ迷い続けて最後にはニヒリズムに至る恐れが強くなってしまう。フリードリヒ・ニーチェは神は死んだと宣告したが、ヴィクトール・E・フランクルは神は死んだのではなく、人間の神(超越的価値・絶対的基準)に対する信仰の欠如と自己神格化(神を否定する人間原理主義)によって、『一時的に隠されている』に過ぎないという解釈を取った。
世俗の世界における快楽と不快の区別だけで行動を選択したり、利益と損失の比較だけで自分の人生に意味を与えようとしてもそれには限界がある。愛にせよ人生にせよ家族にせよ友情にせよ社会貢献にせよ、そこには科学的合理主義や世俗の損得勘定だけでは推し量れない『超越的・特殊的な意味(不快でも損失があっても変わることがない普遍的意味)』があるはずだという信念があって初めて、自分の人生を支えて自分の尊厳を確認させてくれる意味が生まれる。そして、その超越性・特殊性の背景にある『神的な観念』は、世俗や科学の価値観に影響されて一時的に隠れることはあっても、死んでしまうこと(完全に失われてしまうこと)はないということである。
実存的ニヒリズムは現代の時代精神の病理として、『物質的に豊かなのに心理的に虚しくて無意味だ』という空虚感・虚無感を生み出すのだが、この実存的ニヒリズムは『生きる目的』と『生きる手段』の転倒を引き起こす原因ともなる。フランクルは『意味への意志』を放棄して『快楽への意志・権力への意志』に従って生きることを時代精神の病理という風に認識したが、これは逆説的に『意味への意志』が満たされない空虚感の苦しみがあればこそ、その空虚な苦しみを補償的に癒すために『性的な快楽の充足・対人的な優越欲求の充足』を終わりなく追い求めてしまうことになるのである。 現代では科学技術と資本主義が相互作用することで、『快楽・利便・効率による満足』を求めようとする欲望を殆ど無限に拡大していくが、そういった科学の進歩や経済の発展と連動する欲望の充足は『意味への意志』を満たさないがために、『欲望のための欲望(手段が目的化した欲望)』を増大させて実存的ニヒリズムを深刻化させていきやすいのである。
『ニヒリズムを通り抜け、新しい人間性へ』というスローガンを掲げたフランクルは、人間が自分を超越した観念(神・自然のようなもの)を絶えず内面に抱えていて、その観念を他者(表象)に投影していくという『自己超越性』によってニヒリズムを超えて意味への意志を満たしていくことができると考えていた。ここでいう『新しい人間性』とは、いわゆるヒューマニズムの人道主義・人権感覚といったものではなく、人間の内面にある『自己を超越しようとする無意識的な作用=神・自然にもつながる精神の根源的作用』のことである。その具体的な観念化・表象化として愛や夢、倫理、良心、智慧といったものを想定することができるが、新しい人間性は『自分個人の損得・快感にこだわらない超越性の射程』を織り込んだものであり、神が隠れている科学主義の現代においても『意味への意志』に確かな実体を与えてくれるものなのである。
V.E.フランクルの収容所体験と人生からの問い(未来の意味):創造価値・体験価値・態度価値
フランクルの強制収容所体験は、誰もが耐え難いと感じる限界状況においてこそ、良くも悪くも『人間の本質』が現れることを教えてくれるものだったが、『限界状況での強さ・前向きさ・美しさ』をもたらすものは、その人にとっての苦難・苦痛の持つ意味の認識(意味の捉え方)であるように感じられた。今、目の前にある苦難に何の意味もないと諦めた人から先に死んでしまうか、人間性の醜さ・残酷さを剥き出しにしてしまった。『自分の未来の意味・目的』を信じられなくなった者から、生活面の自己放棄と内的な自己崩壊が進んでいき、最後には自分の食事・排泄・安全への興味関心も失って、(身体的に頑健・丈夫である者であっても)段階的に死に向かっていってしまった。
自分の未来の意味が分からず苦痛に耐える目的も見失ってしまえば、『耐え難い過酷な収容所の現実』にわずかな時間でも精神が耐え切れなくなり、『自己崩壊(生きる拠り所の喪失・生存の意志の希薄化)』のプロセスが進んでしまったのである。しかし、今直面している苦難にも何らかの意味があるはずだと信じられた人、未来の意味・目的といった精神の拠り所を失わなかった者は、極限状況においても生存の意志(感動の発見)を絶やすことなく、他者への配慮や優しさも完全に失うこと(パーソナリティの自己崩壊が進むこと)がなかった。絶望的なまでの収容所体験では、『この人生には生きる意味があるのか』という自分の利益だけを中心にした問いを立てた者は耐えきれないことが多く、『この人生は私に対して何を求めて何を期待しているのか』という人生の側から自己の意味を問うような問いを立てた者は耐えやすかったのだという。
人生を生きていくことは『人生からの問い』に責任を持って答え続けることに他ならないという義務感や使命感が、強制収容所の収容者たちの明暗を分けたのだが、この人生からの問いは『超越者からの呼びかけ』という宗教的なニュアンスで表現されることもある。そして、人間は超越者からの倫理的な呼びかけに責任を持って応答することで動物にはない『人格』を備えることができるのだともいう。これがフランクルのロゴセラピー(実存療法)の原点にあるとされる極限体験である。『致命的疾患の病者(健康には戻れないという苦悩・絶望に覆われた人)』までも対象とするロゴセラピー(実存療法)の射程範囲の広さの所以にもなっているが、人間はどのような苦境や困難にあっても『自分を超越した人生(超越者)の側からの問い』を想定することが可能というのが前提になっている。
意味への意志によって絶望にも打ち勝てるとするフランクルの人間観を分かりやすく示すのは、人間が実現できるとする以下の3つの価値である。
創造価値……自分の仕事や行動、アイデアによって、新たな製品・作品・サービスなどを創り出したり提供したりする生産的な価値。
体験価値……壮大な景色を見たり魅力的な人と付き合ったり、素敵な映画を見たり(小説を読んだり)、好きな音楽を聴いたりといった何かを体験してみて肯定的な感情・感動を享受できる価値。
態度価値……自分が直面している不可避な人生や運命に対して、自分がどのようにその意味を受け止め、最後まで諦めずにどのような態度を取ることができるのかという価値。
『態度価値』は絶望的な状況や体験をどのように受け止めるか、不可避な運命に対してどのような態度を取ることができるかという価値であり、『現実的な結果』がどのようなものであっても、自分の態度や解釈による価値の実現(意味の追加)が妨げられることはないとするものである。この態度価値の考え方は、『客観的な現実の出来事』によって自分の感情や気分が決められてしまうのではなく、その客観的な出来事をどのように受け止めて解釈するかという『認知(物事の捉え方)』によって、感情や気分が良い方向にも悪い方向にも変わってくるという認知療法のコンセプト(効果がでる仕組み)にもつながっている。
V.E.フランクルは10代の頃から既に、『我々が人生の意味を問うべきなのではなく、我々自身が人生から問われているのであり、人生が我々に問いかけることに責任を持って答えなければならない』と『人に起こることには全て何らかの究極的意味がある』という後年のロゴセラピーの人間観や人生哲学にも通じる基本的な信念を持つようになっていたという。人間は繰り返される日常生活の中で、日々の仕事や活動をしながら何らかの成果物(製品・サービス・作品)を創造してその価値を実感したり(創造価値)、余暇や趣味、人間関係を楽しみながら何らかの肯定的・感動的な体験を通して人生の価値を実感している(体験価値)。
それでは、身体・精神に深刻な障害を負ってしまったり、末期がんで余命宣告を受けたりして、『創造価値・体験価値の実現の限界』に直面してしまった時には、人間の生きている意味は失われ、今までの人生の価値も失われてしまうことになるのだろうか、V.E.フランクルはその究極的な問いかけに対して毅然として『ノーである(創造価値・体験価値の実現は、人生そのものの価値ではないのだ)』と言う。人間が自分自身の不可避な運命や苦悩に直面する時であっても、例え病気や怪我で身体を動かすことができずまともな思考能力を発揮することができなくても、『態度価値の実現可能性』は最期の最期まで失われることがないとする。そして、自分の人生や運命に対してどのような態度を見せるのかという態度価値こそが、人間の尊厳や意味への意志に直結する重要な価値なのだと主張するのである。
『結果としての苦痛・失敗・死』が確実なものとしてそこにあっても、そういった運命に対する自分なりの態度・覚悟を示したり、自分にとっての苦痛の意味の発見をしようとすることに、動物にはない意味への意志を持った人間ならではの尊厳が宿っているのである。フランクルは合理的・必然的な結果論などによって人間の存在や人生の価値が否定されることは有り得ないという信念を貫いたが、その最大の根拠は『人間存在の過去を無かったものにすることはできない(人間は個人の死によってその生のプロセスのすべてが無に帰してしまうわけではない)』ということにあった。フランクルはそれぞれの人の人生を、それがどんなプロセスで覆われたものであろうとも『不朽の記念碑(死んでも完全な無にはなり得ないもの)』であるとして賞賛し、ロゴセラピーの本質はクライエントを支持するために『あなたの人生には生きる意味がある』ことを伝え続けることだとした。
V.E.フランクルと登山(ロッククライミング)1:ロゴセラピーにおける厳しい人生観とストレス
V.E.フランクル(Viktor Emil Frankl, 1905-1997)というと、ナチスドイツの強制収容所での過酷な体験とその克服(意味への意志)を綴った『夜と霧』が有名だが、『現代思想 imago ヴィクトール・E・フランクル特集』に収載された『山の体験と意味の経験(V.E.フランクル,赤坂桃子訳)』で、フランクルがロッククライミング(岩登り)にも興味を持ち実際に岩山を登っていた事を初めて知った。人生の実存的な意味や価値を探究して実践しようとするV.E.フランクルの『ロゴセラピー(実存療法)』は、人間には生来的に不安や恐怖、絶望に立ち向かう『精神の反抗力(人生の運命と対決する強さ)』が備わっているとするどちらかというとスパルタンな厳しい精神療法である。
フランクルは実存主義的あるいは宗教的な人生観によって『自殺・逃避』を厳しく否定する人物であったが、フランクルにとっての人生とは『義務・責任に裏打ちされた使命感と達成感』によって充実させられるべきものであって、現代のカウンセリングや人間観においては主流の『何もしなくても生きているだけで意味や価値がある人生・ありのままの自分で良いという無条件の受容』という考え方に対してはむしろ批判的であった。キリスト教的な召命や天職(calling)のように、生きることは『人生の側からどのように生きるべきなのかと問われる義務』として認識されている。『この人生に生きる意味や価値があるのか』などという風に、人間の側から問いかけることは、フランクルにとっては語義矛盾であり価値観の転倒に過ぎない。『人生の意味や価値の問いかけ』は悩んでいる自分の側から問いかけるものではなく、不可避な人生(運命)の側から問いかけられるもの、その問いに対して自分(人間)が『応答する義務』を持つものだからである。
人生ではその都度終わることなく私たちに『問い』が突きつけられ、その問いは多くの場合において『試練・苦難・関門』のような障害物として作用するのだが、具体的な問いに対して『行動・制作(作品)』によって応答する繰り返しの営みこそが、フランクルにとっての人生そのものであった。不可避の人生が途切れずに突きつけてくる問い(課題)に、人間はただ自分にとっての最善と誠実を尽くして何とか答えようとすればそれでいい(人生そのものを自殺などで放棄することは許されないが)というのがフランクルの人生観であり、その人生観においては成功するか失敗するか、結果として生存するか死んでしまうか、幸せか不幸か裕福か貧しいかといった相対的な区別も意味を持たない。
ただその時々の人生の問いに応答すること、各個人の人生に課される具体的な義務を果たすこと(そのために働くこと)によって、自らの生を空虚にせずに充実させることが全てであり、『生の充実』には幸福や不幸の区別ではなく、自分が誠実にその行動に集中し没頭しているか否かのほうが重要なのである。人生は初めから何かであるのではなく、人生は何かをする機会であり、その機会を放棄することはルール違反だが、その機会と義務(課題)を認識して自分なりの方向性を持って取り組むことが生の充実につながるのだとした。V.E.フランクルがロッククライミングを始めたきっかけは、『不安の克服』であり『自分と自分との内的な戦い』であったという。僅かなミスをすれば岩山から転落して死ぬかもしれないという恐怖感を感じる時、フランクルは『臆病な弱気の自分(不安に負けようとしている自分)』との戦いを意識することができ、そういった臆病な弱気の自分に打ち勝てるもう一人の自分(精神的な抵抗力)があることを確信することができたと語る。
登山やロッククライミングとは『自分に対する要求』であると同時に『自分自身との戦い』であるが、ハンス・セリエの『ディストレス(病気になる悪いストレス)』と『ユーストレス(健康を保つ良いストレス)』の分類に従えば、登山やスポーツのストレスは人間の心身の健康を維持する上で役立つユーストレスということになる。ユーストレスは『人生の塩・スパイス』であるが、ストレス社会の弊害を前提とした現代のメンタルヘルスや教育手法では、『人々に対する要求・期待・圧力』を少なくすればするほど健康になり、『緊張の緩和(不安の緩和)・欲求の充足』という結果ばかりが追い求められた結果、余計に人間が脆弱になり病気になりやすくなっているのだという。
ディストレスではないユーストレスまで無くしてしまおうとすることで、人間のフラストレーション耐性(欲求不満耐性)が著しく低下したり、ストレスが皆無の心的な無重力状態における無意味感に迷いやすくなっているのだと主張する。フランクルのロゴセラピー(実存療法)やその思想的な人間観が、自己鍛錬(セルフ・トレーニング)を推奨するスパルタンな特徴を持つといわれる所以でもある。
V.E.フランクルと登山(ロッククライミング)2:人はなぜ登山やスポーツをするのか?
V.E.フランクルのロゴセラピーはカール・ロジャーズの『クライエント中心療法』のように人に共感的理解を示したり無条件の肯定的受容を与えれば自然に問題が解決されるという風には考えない。ある意味で人間をストレス(苦難・試練)に曝してでも鍛えようとする厳しいところがあり、自己憐憫を乗り越えたストイックな自己鍛錬や義務の遂行によって生き甲斐(生きる意味)を見出そうとする。苦難や窮地から人を救い出してストレスを無くすことが治療なのではなく、苦難や窮地を克服する力を自分が持っていると実感させるのが治療だという人間観がそこにある。一般的なカウンセリングや心理療法と比べれば、かなり厳格な自己鍛錬を期待しようとするものになっているが、現代の若者を中心として広がる『無意味感・生きる目的の希薄化』を改善するためには、ストレス全般の除去よりも『ユーストレス(健康や意欲を保つ適度な緊張感)の活用』のほうが効果的であるとした。
V.E.フランクルは現代の通俗的な『ゆとり教育批判・消費社会批判(生産者意識の欠如としての総お客様社会)』ではないけれど、『フラストレーション(欲求不満)に耐える力』を鍛えてつけることが、心身の健康を維持するための有効な方法だと捉えている。『まだ持っていないことを諦めること・既に持っている何かを犠牲にすること』ができないのが現代社会の精神的問題の淵源なのだと指摘してもいる。ストレスと緊張・不安をあらかじめ最大限に取り除いて快適で安心な環境を与えて守ってあげれば、知識・技術・ノウハウといった『生きる手段』を手に入れやすくはなるが、ストレス・緊張の欠如によって『生きる目的の喪失(理想に近づこうとする時に直面する苦難・面倒を乗り越える力の喪失)』という副作用も大きくなりやすい。フラストレーション耐性の低下は、ただ日常的な仕事や生活に適応しづらくなるというだけではなく、最終的には一定のフラストレーションに耐えて達成感・爽快感を味わえるという『人生の目的性・生の充実感』さえも失ってしまう恐れがあるというわけである。
最大限にストレスや緊張・疲労を無くしていきたい、できるだけ安全・安楽で負担のない生活を実現していきたいとする近代の消費文明社会(機械化・自動化文明)は、人間から『歩くこと・動くこと』さえも奪い取ろうとしているが、人間は自らの本能的な要請・健康維持の課題に応答するために登山(ロッククライミング)やジョギング、スポーツといった『意識的な運動(身体活用)の機会』を敢えて再発明して作り上げたのである。ドアからドアへ自動車に乗って殆ど自分の足で歩かない生活は楽で便利かもしれないが、それでは人間の身体・本能は満足できないし弱ってしまうのであり、場合によっては敢えてお金を支払ってまでジムに通って身体を動かしたり鍛えたりする。登山やクライミングだって、自宅で大人しくテレビを見たりネットをしたり美味しいものを食べて過ごしていれば、何の疲労も危険もなく完全な安全が保たれているのに、登山家(登山の好きな人)は敢えてきつくて大変な山に登ろうとする。
人によっては、転落(遭難)すれば死ぬような危険な場所や状況にさえ向かったりするのだが、それは人間が『高次の目的性・必要性・課題』を意図的にでも作り出さずにはいられない“意味への意志”を持つ特殊な自意識を持った存在だからである。更には、他の動物のように生存と生殖の必要条件さえ整えばそれですっかり満足して落ち着けるような存在(その安楽な何もしなくて良い状態が死ぬまで続けばそれで良いと割り切れる存在)でもないからである。フランクルは生存のために運動(歩行・登攀)する必要性が極端に低下した人類が、意識的に運動(歩行・登攀)する機会を作り始めたシニカルな事態を評して、『山の体験と意味の経験』の中で以下のように感想を述べている。
生物学的な負担が小さくなった人間は、自分にあえて要求を突きつけたり、何かを断念したりすることによって、人為的、意図的に高次の必要性をつくりだしています。満ち足りた生活をしているのに、わざと非常事態をつくりだし、物のありあまった消費社会の真ん中に、「禁欲の島」をつくろうとしているのです。そしてまさにそれがスポーツ一般、わけても登山の「使命」とは言わないまでも、「機能」だとわたしは思っています。それは現代の世俗化した禁欲の形態なのです。V.E.フランクル本人も、登攀難易度におけるグレイドⅢの岩壁を登攀するロッククライミングの技術・体力を持っていたようであるが、グレードⅢかⅣであっても『野生のサルの必要性』を越えている。野生のサルが身体能力をギリギリまで使えばそれ以上のグレードの壁をも登れる可能性があるだろうが、野生のサルは生存や逃走の必要性もないのに(まさに天敵の豹から逃走の必要性があるゲラダヒヒなどは断崖絶壁を行き来したりもする)、敢えてそんな危険な岩壁に登ろうとする動機づけを持ち得ない。
しかし人間には、常識的な人が見上げれば、『絶対に人間が素手で登れるはずがないように見える危険極まりない断崖絶壁』にさえもフリークライミングで挑戦する人がいるように、『人間の可能性の限界点』にまで生存・生殖の必要性を越えて自分の身体能力や精神力を押し上げていこうとするある種の本性がある。その本性は大半の人にとっては実際の行動にまでは至らないが、それでも一流のスポーツ選手の勝負や演技を見たり、相当な危険が予測される高山(バリエーションルート,アルパインスタイル,無酸素)や極地(南極,ジャングル,深海,宇宙)にチャレンジする登山家・冒険家・宇宙飛行士を見たりすると、『人間の可能性の限界すれすれのレベル』に心が振るえて感動したり賞賛したくなったりする。
フランクルが登山家(クライマー)の事例を上げて言っているのは、『人類全体の最高レベルに近い特別なチャレンジやトップアスリート』だけに価値があるというような話では無論ない、『自分がチャレンジ可能なレベルの中で最も難しいもの』に挑んで乗り越えようとする姿勢こそが、人間の生きる意味や人生の価値を支えているということであり、『これまでの自分を超えていく取り組み』をやめないことが生を充実させていくというのである。それでも結局、人は時間(寿命)との戦いには勝てないでないか、人生の有限性や身体の老化に対して人は絶望すべきなのか、過去にできていたことがどんどんできなくなっていくことをどう受け止めれば良いのかという問いに対して、この講演を行った時の80代のV.E.フランクルは『過去の存在はどのようにしても無くせず元に戻すこともできない最も確実な存在である』と答えている。
老人となった自分(フランクル)は、もうかつて登った山や絶壁、尾根に自分の足と腕の力で登ることが出来なくなりそれはそれで悲しむべき事かもしれないがと前置きしつつも、過去の存在(自分にとって望ましい事実の集積)が消えてしまうことは永遠にないということに意味を見出している。『山の体験と意味の経験』の小文は、クリスティアン・ハンドルの写真とヴィクトール・E・フランクルの文章で構成された山の写真集(2008年)に掲載されていたもので、このフランクルの文章そのものは『オーストリア山岳協会の創立125周年記念行事』における基調講演の原稿が原案で、フランクルが82歳(1987年)の時に行われた講演だという。
元記事の執筆日:2014/05
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