『大学教育』に何が期待されているのか?1:大学全入時代で揺らぐ“学問の府”
『大学教育』に何が期待されているのか?2:G型大学とL型大学の分離案と職業教育のニーズ
尊厳死・安楽死に示される『死の自己決定権』と医療の関与1:米国のB.メイナードさんの尊厳死の事例
尊厳死・安楽死に示される『死の自己決定権』と安楽死法制化の議論2:優生思想・高齢化社会の影
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なぜ『日本人の幸福度』は先進国の中で低いのか?:経済成長期の中流階層の人生設計を標準とする自己評価
日本人の主観的幸福度が先進国で最下位というニュースで、日本は世界第3位のGDPを誇る経済大国なのに、なぜ国民は幸福を実感できないのかという疑問が提示されている。
日本人の「幸福度」は先進国で最下位 「幸せはお金で買えない」国民性なのか
タイトルには『日本人は幸せをお金で買えない国民性なのか』とあり、本文中にも『幸せを感じられないお金持ちの皮肉に当てはまる日本人』という表現があるが、この記事ではお金を十分に持っている日本人でも幸福を実感できないという前提が置かれているようだ。だが、日本の一人当たりGDPは『24位(約38000ドル)』であり、日本全体のGDPが3位であることからはかけ離れているし、約400万円という一人当たりのGDPにも多くの国民(特に30代以下の非正規雇用を中心とする若年層や年金受給額が少ない高齢者)は届いておらず、日々の経済生活が楽であるわけでは当然ない。
日本人は経済大国の国民としての自覚は強いが、その自覚と労働環境・所得・生活状況のギャップが大きくなってきている。近年はGDPで中国にこそ抜かれたものの、それでも直感的な印象として『世界で二番目(三番目)に裕福な国で生きていて、国際水準で見れば世界有数の豊かな生活をしている』という知識は半ば常識的に刷り込まれている。その経済大国ならではの前提知識(豊かな国に生まれた世界水準では豊かなはずの国民としての意識)と自分自身の生活実感の食い違いが、国家レベルのGDPの大きさと比較して、『国民の幸福度』が低くなってしまっている一つの理由ではないかと思う。
そもそも、日本人の大多数は『幸せを感じられないお金持ち』などではないだろう。仕事で成功してお金が有り余るほどあるのに、人間関係に恵まれないとか楽しいこと(やりたいこと)が見つからないなどという贅沢な不平不満によって主観的な幸福度が下がっているわけでは恐らくない。一日の大部分を特に好きでもないフルタイムの仕事(正社員)で頑張って働いても、世界有数の豊かな国に生きているという豊かさ・楽しさの実感を得られないということに不遇感を感じているということのほうが近いのではないかと思う。
あるいは、派遣社員やフリーター、無職者など再チャレンジが困難な格差社会における不満・諦め・孤独(対人関係・社会保障とのつながりの弱さ)といった心理も推察されるが、日本の経済や人口動態、社会保障の見通しの暗さ(今よりも経済状態や生活状況が良くなる可能性が小さい見通し)が、幸福感を実感しにくくしているとも言える。むしろ、『現役時代に高所得で年金給付額も高く財産もあるような高齢者』であれば、自分自身の人生や子孫の繁栄(孫の多さ)などに満足して自分は十分に幸せと実感していることも少なくないはずで、『日本人は幸せをお金で買えない国民性なのか』という問いかけそのものが、日本社会の現実を見据えたものではないのではないかと思う。
お金で直接的に幸せが買えるわけではないし、幸福を実感できる要因や体験には『お金』そのものよりも『良好で持続的な人間関係(愛情・承認・安心を感じられる家族や異性、友人とのつながり)』『自由な時間や活動の確保(拘束されずにやりたいことをする時間)』が大きく関係している。だが、低所得であるほど未婚率が高かったり知人との交際費を捻出しにくかったりするし、非正規雇用・失業者のほうが社会的(対人関係的)に孤立しやすいといった問題もあり、雇用・所得は『良好で持続的な人間関係・本音の結婚条件(家庭生活)』などと間接的に関係している部分も多い。
日本の労働環境や社会状況では、金銭(仕事)や人並みなライフプラン(結婚・育児)を重視して働けば、長時間労働や教育・住宅のローンの負債などで、がちがちに人生全体が束縛されてしまう割には、それほど豊かな暮らしができるわけではない。趣味・文化・娯楽・交遊などを自由に楽しめる時間も殆ど確保できなくなってしまうが、フルタイムの正社員で働いても将来の長期的な雇用・所得の保障がかつてよりは無くなってきている。長時間労働の仕事を回避して時間(自由)ややりたいことを重視しても、金銭面で大きな苦労や不安を強いられやすく、対人関係で孤立しやすかったり将来の見通しが立たなかったりといった別種の問題は当然生じてくる。
『お金・良い仕事(好きな仕事)』がなくても、健康や愛情、人間関係、やりたいこと(のめり込めること)があれば十分に幸せではないかというのも一理あるが、お金や仕事の面で躓いてしまうとそれ以外の人間関係・健康・やりたいことなども『上手くいかない状況』が広がってきやすいとは言える。日本人の幸福感が先進国で最下位の理由は、『世界有数の経済大国の一員という自負心』と照らしてみて『それに見合うだけの仕事状況・経済生活・人間関係の充実感が乏しい』ということもあるが、幸福実感は同じ集団内での他者との相対比較に左右される部分が大きいので、それだけ日本国内の格差が広がっていたり、隣の芝生が青く見える人が増えてきていたりすること(実際には自分より幸せかは分からないが何となく他の人のほうが楽しそうに見えるという事も含めて)の現れなのかもしれない。
世界有数の先進国の割には自分の仕事や生活は豊かではないというギャップ、社会格差(世代間格差)の拡大による相対的幸福感の低下、お金が絡まない持続的で共感的な安心できる人間関係の減少、超高齢化社会による将来の見通しの悪さ、お金(ハードな仕事)か自由(将来不安と交換の時間)かの極端な選択肢しかなくやり直しが効きにくい現実などが、日本の幸福感の低さに影響しているのではないかと思う。日本は特に『旧来的な価値観・常識からの過渡期(一定の年齢になれば然るべき地位・収入・家庭・子供などを持って人並みに暮らしていなければならないという同調圧力や成功挫折の感覚の緩やかな弱体化)』に差し掛かっているので、混乱・不安による幸福感の低下が大きくなりやすいのかもしれない。
男性が終身雇用・年功賃金の企業(官庁)に支えられた平均所得程度(一人当たりGDPの400~500ドル前後)は稼げるサラリーマンとなって、20~30代前半の適齢期に派遣・パート・専業主婦になる女性(現在ではフルタイムの正社員・専門職の女性も含め)と結婚して子供を持つ。その上で、住宅・車などの耐久消費財を長期ローンで購入して、子供を何とか大学にまで進学させるといった『世間体が悪くない中流階級のライフプラン』へのこだわりは今なおその親世代を中心にして強いものがあり、結婚・家庭生活の条件としてそういったライフプランをイメージする女性も多い。そこから外れることを不幸・恥(能力不足)・貧しさと受け取ってしまう常識感覚や他者との比較が、『中流社会の崩壊プロセス(過半の人がそういった中流階級の消費レベルの道を歩みにくくなっている過程)』や『従来の中流的な結婚・家庭生活の基本条件を満たせない若年層(働き方)の増加』にかかっている日本社会全体の幸福度を押し下げている影響は大きい。
高度経済成長期のような『一億総中流社会・老後はみんなが年金暮らし』の再建が望めない以上、先進国の成熟・自分の境遇などに見合った等身大の『自分なりの幸福実感・経済に左右されにくい他者との親密なつながり・やりたいことを続けられる環境』などを探していかなければならないのかもしれない。その意味では、労働条件・企業福祉や社会保障制度に大幅に依存してきた人間関係や人生設計の見直し、地域社会の再建や情的な人間関係のつながりの立て直しといったものが『幸福実感の引き上げ』につながる可能性があるだろう。
しかし、現代では個々人が置かれている立場や収入源、関係性、考え方などがバラバラになっているため、広義の経済活動(雇用・職場・市場・家計・サービス業)を介さない『共同体的かつ持続的なつながり(何気ない対話・相互承認・相互扶助の空間や気持ち)』をゼロから作り上げることはかなり困難になっている。逆に、日本よりもGDPが小さくて一人当たりの平均所得が低い国で、日本より幸福な人が多いこともある理由は、市場経済や企業労働が社会の隅々にまで浸透していないことにより、お金に左右されにくい所与の『共同体的かつ持続的なつながり(何気ない対話・相互承認・相互扶助の空間や気持ち)』が残されている割合が高いのかもしれない。
途上国ではインターネットを中心にした情報環境の充実度が低かったり、外国にまで旅行や仕事に出かける人が少ないために、『自国以外の生活・商品・仕事の情報』があまり入ってこないとか、『自国民の大半が貧しいために平等感覚・連帯感が強くて格差感(嫉妬・やっかみ)が少ない』とかいった理由も考えることができると思う。
『大学教育』に何が期待されているのか?1:大学全入時代で揺らぐ“学問の府”
文部科学省が進めようとしている大学教育改革の有識者会議で、経営共創基盤の代表で経営コンサルタントの冨山和彦氏が、トップレベルの大学をグローバルに通用する人材育成を行う『G(グローバル)型大学』、それ以外の大学を実務的な職業訓練を行う『L(ローカル)型大学』をすべきだという提案をして話題になっていた。
非エリート大学の「職業訓練校化」に賛成の声 「良く分からん大学多すぎ」「Fラン潰せ」
明治時代の『大学令(東京帝国大学の設立)』に始まる日本の大学教育は元々、省庁の官僚育成や大企業のリーダー養成、医師・法曹など専門家教育(難関国家資格)を目的としたエリート教育の拠点であり、ペーパーテストによる社会的選別の機能を果たし続けてきた。ナンバースクールを起源とする国立大学やそれ以外の私大の数が少なく、多くの家計が子供の進学を支援できないほど苦しかったため、トップレベルの学力があり家計にも余裕のある生徒しか進学することが出来なかった。昭和中期までは大学進学率が低かったこともあり、大学生は大学生という身分であるだけで『将来のエリート候補』のように見られていたが(現実には明治期~昭和初期にも学士以上の学生の就職難、モラトリアム遷延の時代は少なからずあったとも言われるが)、1980年代頃から大学進学率が上昇して、特別に優れた学力を持っていなくてもどこかの大学には進学が可能になってきた。
大学進学率は現在50%程度だが、進学を希望する人の殆どが大学に入学可能になっている事から『大学全入時代』と呼ばれ、学生の教育水準・向学心(知的欲求)や研究教育機関としての大学の機能が低下してきたとの批判もある。大学は『学問の府』として知識・情報・思考の方法を教授する“教育”と各分野において研究者を選別・育成する“研究”の役割を持っているとされてきたが、自然科学・社会科学・人文学などの諸分野で、参照する価値のある論文を執筆したり専門的な思考・弁論を展開(啓蒙)したりできるような学生が育ちにくくなっている。
あるいは基礎学力が十分に備わっていない学生が多い大学では、中学・高校で習う学習単元レベルの内容を復習するような講義が行われたり、元々知識の習得や学問の研鑽に無関心であるか適性が大きく欠けた学生も増えている。実質的な選抜試験の競争なしに入学できる大学がFランと呼ばれて否定的に評価されたりもするが、日本もアメリカと同様に『大卒資格のコモディティ化』と『大学のビジネス化(大学教育関連の雇用維持)』によって、とりあえず大学までは出ておかないとという意識から進学する人の割合が増加していることも影響している。
大学全入時代では『学力競争の結果としての大学』と『形式上の大卒資格を得るための大学』とに分離する傾向はあるが、特に後者では大学で習うような諸学問の素養・教養や思考方法には無関心なことが多く、無難に大学を卒業してそれなりに納得できる企業・役所などに就職することだけが目的になりやすい。大学教育の性格が『就職予備校(就職の条件としての卒業資格+アルファの資格の取得)+就職までのモラトリアム(自由な思考・行動の選択や多様な経験・関係に開かれた時期)』に偏ってきていることを考えれば、入学者やその親、企業の人材採用のニーズに応えた『L型大学』の設置・増加にシフトしても良いのではないかという話になってくる。
だが、そうなるとアカデミックな大学と専門学校(職業訓練・資格取得に特化した学校)との境界線が弱くなるだけではなく、最低限の職業能力や資格取得を支援するための専門学校のような位置づけになり、必ずしも『大学』の名前を冠して高等教育の実施機関という体裁を取る必要がなくなるのではないだろうか。結果、『学力選抜のプロセスの必要性』が殆ど無くなり、年齢不問の失業者を含む『就職・転職のために有利な資格・技術・教育履歴』を必要とする人たち全般に門戸を開くべき職業訓練学校(雇用支援の教育インフラ)のようになっていくとも考えられる。
G型大学とL型大学の分離案は『大学教育の実質的な内容・成果の再検討』によって大学と職業訓練学校を分けることに他ならないようにも感じるが、これは文部科学省が長年にわたって新設大学の設置要件やその教育の実質を精査してこなかったツケが回ってきたとも言える。先進国では大卒の履歴書上のコモディティ化によって大学の名前と実質(内容)が乖離しやすいが、それでも多くの人が大学に行くことで自分も行かなければ不利になってしまうという同調圧力は高く、大手企業も採用の最低条件(パスポート)にするので、より就職のためだけに大学に行かなければならない(学力にこだわらない新しい大学が増える)傾向は強くなる。
現在の日本では『子供の学力格差・教育格差』が、向学心があり受験競争でも有利な層と義務教育の段階から勉強を放棄する層とで二極化しているとも言われるが、その原因は『本人の能力・意欲』だけではなく『家庭の教育環境や経済状況(親の教養・趣味・支援)』も関係している。一時期あった『子供の教育熱』が階層分化して、教育・教養・文化・国際化(外国語)・スポーツにこだわりが強く世帯所得も高い家庭では、子供の知的好奇心や学力が伸びやすくなる一方、はじめから子供の教育や学力、文化的事象(教養趣味)に興味がなかったり教育・文化・スポーツの分野にお金を回す余裕がない親も増えているという。
『大学教育』に何が期待されているのか?2:G型大学とL型大学の分離案と職業教育のニーズ
1970~1980年代以降は大学教育(高等教育)が普及化する一方で、進学塾・中高一貫校・(都心部の進学に有利な)私立校が増加して『教育にお金のかかる時代』となっていったが、バブル崩壊までは『一億総中流社会(持続的な経済成長)』によって、子供の大学卒業までの費用を親が負担することがそれほど難しくなかった。大学教育が本格的に大衆化するまでは、勉強が得意で学問(大卒資格が必要な専門職)にも興味があれば大学に進学するが、そうでなければ無理してまで大学に行く必要はないとする価値観も強くあり、大学に行かずに高卒で就職したり専門学校に進学する人も多かった。
1970~1980年代は、国立大学が私立大学よりも極端に入学金・学費が安いのは不公平(国立大学生の特権)だとする世論の反発を受けたこともあり、国公立大学の入学金・授業料が高騰する変化が起こった時代でもある。ヨーロッパの公的な大学教育の無償化(入学者の学力の査定厳格化)とは対照的に、日本の国公立大学では『高等教育の私費負担・受益者負担』という米国的な自己責任(自分のための教育の自己負担)の教育観が強まってしまった。日本は一般国民のレベルでも『市民社会の発展・成熟のための大学教育の公共性(社会全体のための教育だから能力・意欲ある学生の費用の無償化を原則とすべき)』を意識した考え方は弱く、『企業経済の発展や個人のキャリアのための大学教育の私益性(自分の将来・仕事のための教育だから受益者負担を原則とすべき)』に納得する人のほうが多いだろう。
それは義務教育以上の教育は余剰・贅沢なもので、経済的余裕がない家庭や個人であれば大学進学は諦めるかお金を自己責任で借金するなどして行くべきだという考え方にも接続しているが、現在の『家庭環境による教育機会格差・奨学金返済問題(奨学金が有利子の借金として学生の卒業後の人生の重圧となる問題)』の原因の一端にもなっている。来年は今年よりも給料が高くなるという経済成長期の日本では、子供が高校を卒業する頃には大学の学費・一人暮らしの生活費を支援できるくらいの給料になっているだろうという楽観的な見通しも立っていたが、現在では家計の所得水準が低下したことで、大学の進学費用・生活費の大半を自己責任や自己負担(将来の借金)で賄わなければならない学生の比率が増えている。ブラックバイトの長時間労働などで本来やるべき勉強・学問に割ける時間が大幅に減ったり、女子学生が風俗業のアルバイトで精神的に傷つきながら大学に何とか通うなど、新たな問題も出てきている。
『高等教育の公共性・社会性(その成果の社会還元)』を軽視する考え方は、日本のGDPに対する教育予算の比率の低さ(OECD先進加盟国で最低水準)にも反映している。司法試験に合格した司法修習生に対する(公務員初任給に準じる)給与支給制度を廃止したことや各種専門資格の取得までの年限の長期化(大学院修了・六年制の条件化による教育費高等)などにもつながっている。親世代の経済格差が拡大する社会において、高等教育費の高騰と自己責任化(受益者負担)を支持することは『教育費を負担できない家庭の子供』の教育機会が著しく狭められる弊害にもなるが、お金ばかりがかかる『形式的(履歴書的)な大学教育のコモディティ化』の風潮を是正する意味で、『L型大学』のような実務的・職能的な教育機関を増やすことは一つの対応策ではあると思う。
専門的技能(理系のテクノロジー)にまで結びつかない理論的・抽象的・文系的なアカデミックな学問は、確かに実社会や企業労働では役に立たないことが多いかもしれないが、大学は『産官学連携による個人の雇用の確保+市場経済の発展』のためだけに存在する受益者負担が当たり前の教育機関ではないという原点の確認も大切である。日本の大学の歴史は、欧米の市民社会の成熟やリベラルアーツの普及を基盤とした大学教育をある程度は意識して始まったはずだが、遅れてきた近代国家であった日本の大学は『富国強兵・殖産興業の国策的で官僚的(制度設計的)な教育』に偏り過ぎていたために、『大学教育の公共性・市民性・理念性(実利的には無駄な知識や社会分析を通した文化・知性・精神の文明化や洗練化)』の部分にはかなり無頓着でもあった。
近代市民社会の成熟や政治参加意識の高度化、リベラルアーツ(基礎教養)の習得による人格・知性の向上といった大学の担ってきた他の教育機関にはない固有の理念・存在意義が軽視されたことで、古代ギリシアの余暇(スコラ)を語源とする学問が『経済社会の末節(雇用・技術・ビジネスと無関係な余計な知識や理屈)』や『怠惰・放埒なだけのモラトリアム(勤勉精神に逆行する大学のレジャー施設化)』のように扱われてきた。 だが、先進国の文化的・精神的な豊かさや政治的・社会的(科学的)なクリティカルシンキングを感受できる態度や知識(広義の文明社会・情報社会のリテラシーの材料)を、大学教育の一見すると経済的に無駄に見える授業や知識が間接的に補強してきた部分もある。
確かに大学で学んだり研究したりする文系的なアカデミズムの学問の多くは、個人の職業能力の向上(就職活動)やビジネスの利益、市場経済の成長のためには役に立たないものであるが、『個人の人生の豊かさや視点の拡大・近代市民社会の成熟や歴史的な前提知識・政治参加の意識やクリティカルシンキング・市場経済や流行現象とも関係する文化的教養的な基盤』とも直接的・間接的に関係しているリテラシーや興味関心を高めてくれている可能性が高い。そういったアカデミックな知識・思考方法・知的態度は、いちいち大学の教養課程で学ぶのではなくて、カルチャースクールや勉強会、読書、ウェブなどで個人的に学びたい人だけが学べば良いではないか(就職・就職に役立つ技能を第一の目標にして大学に行こうとする人たちのニーズや経済社会全体の利益とは何の関係もないじゃないか)という意見もある。
だが、『コモディティ化するみんなが行く大学』で『本来は学問や教養に興味がない人たち』に向けても、一通り現代の学問や社会の見方の基礎教養を教えられる(そういった知的空気や後になって調べたくなるかもしれないキーワードに触れる機会が少しでもある)ということに意味があるように思う。 文明社会全体の底上げや所与の前提(仕組み)に従属するだけではない人間の自律的な尊厳、公共的・理論的な興味関心の喚起といった効果を期待できるし、『テキストや討論を通した人間・社会・国家・世界の多面的な見方』に触れられることは、自分なりの社会(世界)の見取り図のつくり方や多様な他者(自分と違う価値観を持つ他者)との関わり方の工夫といったものに役立つ側面はある。
文学・哲学・歴史よりも『観光業で使う英語・観光地の説明能力と前提知識』、経営学・戦略理論よりも『簿記・会計(会計ソフトの習得)』、憲法・刑法など法学の理論よりも『道路交通法の実務知識・大型免許取得』、機械工学・流体力学よりも『トヨタの最新工作機械のオペレーションの習得』を優先すべきとするL型大学の構想は、大学を卒業しても就職がなかなか見つからないという人にとっては福音であるし社会全体の生産性・効率性を上げる可能性も高いが、職業訓練教育を従来の大学のカテゴリーの中で行うべきかは慎重な判断が必要だと思う。仮に、各種の運転免許や技能免許を取得させたり、特定のソフトウェアや工作機械の使い方だけを学んだり、接客スキルや観光業に必要な知識・語学を学んだりすることに重点を置く『L型大学』の比率を増やすとしても、大学という名前を冠する以上は、最低限のリベラルアーツや学問的態度を養成する程度の基礎教養課程は残すべき(講義の時間数をかなり削減するにしても)ではないかと思うが。
グローバルなビジネスの環境や人材需要に適応可能な優秀な人材を育成する『G型大学』とローカルな職業・雇用に堅実に適応する人材を育成する『L型大学』の分離は、かつては高校・専門学校の段階で学力によって分岐(選択)していた教育・実習の内容を、大学進学後の段階で分岐させるという違いに過ぎないようにも見える。従来の大学教育の内容が実務的・実利的ではないとして切り捨てるL型大学の構想は、『産官学の連携による大学の市場化(企業・国家のための大学+学費の受益者負担という新自由主義化)』と『国内の雇用や所得、経済成長が減少する先進国の労働市場の苦境(市民社会・文化や教養の価値に目を向ける余裕が失われてきた事情)』から要請されてきた流れでもある。
『L型大学』のような実際の就職・転職に役立つ技能や知識、免許(資格)を得られる教育機関のニーズそのものは今後も高まり続けると予測されるが、『年齢不問の学校環境(簡易な試験を受けた求職者で必要限度の学力・適性・意欲があれば入学可能)・新卒採用主義の是正・安価な授業料の設定・従来の大学教育課程との分離』などをセットにして考えたほうが、(無理に大学教育を二分化・格差化させるよりも)大学教育の原理・理念・自治との違背もなくなり、社会全体の広範な職業教育・技能習得のニーズにも応えやすくなるのではないだろうか。
尊厳死・安楽死に示される『死の自己決定権』と医療の関与1:米国のB.メイナードさんの尊厳死の事例
近代社会が成熟したことで人間の生命に“QOL(人生の質)・苦痛回避の安楽死”が求められるようになり、古代から“ヒポクラテスの誓い”によって定められてきた生命至上主義の『医の倫理』が変質を迫られるような動きが起こってきている。ヒポクラテスの誓いには『私は自分の力の限り病人を助けるために治療に当たります。また、病人にとって有害無益なことは決してしません。私は誰に対しても、たとえ求められても、決して毒薬を与えずその使用を勧めることはありません』とあるが、11月初めに末期の致死的な脳腫瘍と宣告された米オレゴン州のブリタニー・メイナードさん(29)が医師から処方された薬物を服用する形で『尊厳死』の最期を迎えた。
アメリカではオレゴン州をはじめ幾つかの州で、医師が致死性薬物を処方する積極的安楽死が合法化されている。自らの尊厳死実行の宣言の通りに、家族に看取られて安らかに亡くなったというブリタニー・メイナードさんに対して、米国や世界各国のウェブを通した世論は概ね同情的・共感的なものであった。B.メイナードさんの薬物を用いた尊厳死は、日本の安楽死・尊厳死の定義に基づけば、『人工心肺の延命治療を中止するタイプの尊厳死』ではなく『積極的に致死性薬物を処方・服用するタイプの安楽死(医師の自殺幇助の要素を含む安楽死)』になる。
米国では『(治癒する可能性がなく時間経過によって死亡することが医学的観点において確実である)末期患者本人の自由意思に基づいた人為的な死』を尊厳死として定義しているようである。医師が『患者本人の病状の深刻さ及び自由意思に基づく要請』に基づいて致死性薬物を処方すること、実質的に自殺幇助をする行為も合法的な尊厳死に含まれている。脳腫瘍の苦痛が耐えがたいほどに激しくなること、脳機能障害の進行によって記憶や自意識が混乱すること(自分や夫・家族が誰だか分からなくなること)をB.メイナードさんは恐れていたというが、『病気の苦痛の増大・死の確実性(治癒不能性)』や『自我意識の崩壊・記憶の喪失(自分が誰でどういった人生や関係を送ってきたかの記憶の崩壊)』というのは、多くの人にとって“尊厳死・安楽死”を肯定的に受け止める要因になりやすい。
尊厳死には、無意味な延命治療を中止するという視点だけではなく、『本人の自意識に根ざした尊厳』を守るという視点もあり、『死の自己決定権・QOD(死の質)』とも関わっている。近年の『ホスピス医療(末期医療)・尊厳死・安楽死』の議論の文脈では、人間には自分がどのような最期を迎えるのかを選択的に決めることができる『死の自己決定権』があるということや、“QOL(Quolity Of Life)”だけではなく“QOD(Quolity Of Death)”も尊重されなければならないという意見が出されたりしている。
B.メイナードさんの尊厳死(安楽死)のケースでは、本人が自ら『尊厳死を選択したいという意思』を明晰な自我意識が保たれている状況で宣言していたことから、尊厳死・安楽死に伴う倫理的問題(間接的強制の感覚)が生じなかったが、医療行為が関係する尊厳死の難しさは『自律性・自発性の確実な確認』にあるとも言われる。本人の明晰な意思確認ができる自律的かつ自発的な尊厳死であれば、『死の自己決定権』の範疇の問題として考えることも可能な部分があるが、そこに『他律的(査定的)・制度的・経済的・道徳的な要因』が加わることになると、尊厳死(安楽死)に生命の価値を選別する優生学的あるいは経済合理的な“半強制の圧力”がかかってしまう恐れがある。
尊厳死・安楽死に示される『死の自己決定権』と安楽死法制化の議論2:優生思想・高齢化社会の影
日本でも近年、高齢者医療の末期患者や植物状態の患者を対象に含んだ形で『尊厳死・安楽死の法制化議論』が有志の国会議員や医療関係者の間で行われていることもあるが、1970年代にも重度障害者(重度障害の新生児)の安楽死問題などを嚆矢として医師・太田典礼らの『安楽死法制化運動』が起こったことがあり、その時には障害者団体の激しい抗議や倫理的な問題点の指摘などを受けて法制化の動きは頓挫している。1960年代のベルギーで、サリドマイドの副作用によるアザラシ状奇形児(サリドマイド奇形の新生児)を殺害した親が無罪判決を受けるという事件が起こり、その後に類似の重症心身障害児(重症脳性マヒなどの子)を親が絶望・慈悲・悲観などから殺害する事件が続いて起こったという。そのことで、回復の可能性がない重症心身障害児の安楽死法制化の議論が喚起されたのだが、この問題は新生児の安楽死の問題であると同時に、現代では『出生前診断』によるダウン症胎児の堕胎の問題などにもつながっている。
重症心身障害・重度奇形を持つ新生児の殺害は殺人であるが、現代の日本でも出生前診断を通した染色体異常児の中絶に対しては、出生後の親・子の苦労を考えれば仕方がない(もし自分でもその選択をするしかない所に追い込まれる)という肯定的な意見が多く見られる。重症身体障害・知的障害などのハンディキャップを抱えた子の養育の大変さは、当事者以外が現実味を持って語ることは難しいしその資格があるとも思いにくい。実際、中高年になった自立困難な重症障害者の子を持つ高齢の親の肉体的な介護の負担、自分の死後に子がどうなるのかの不安は非常に大きい。1970年代には、社会の少子高齢化が進んでいなかったこともあり、尊厳死・安楽死の議論の対象は、植物状態・寝たきりの高齢者や致命的な末期がんの大人ではなく、重症心身障害を持つ新生児だったことは特徴的であるが、ここではやはり『他律的な安楽死・査定的な生命の価値の判断』が安楽死反対の要因として取り上げられることが多かったようである。
生まれたばかりの意思表示できない重度の障害・奇形・遺伝子異常のある新生児(あるいは母体内の胎児)に対して、生きている価値がない(生きていたほうがより苦しんで不幸になる)という判断を下して安楽死(堕胎)することは倫理的に許されないという障害者団体などの反論は正論であり、重度障害・奇形などを理由とする安楽死は『殺す側(面倒な負担を背負い込みたくない健常者の側)の論理』なのだという。この重症障害児(胎児)の安楽死・堕胎の反対論に対する反論としては、『苦痛の大きな重度障害を持つ当事者の中にも安楽死を認めて欲しいという意見があること・どうして重度障害があるとわかっているのに生んだのかという生まれてこない権利を巡る裁判も起こされていること・自分が苦労してほぼ終身にわたって監護養育するわけではない第三者(傍観者)としての立場から重度障害児の堕胎を完全否定するのは無責任であること』などもあり、当事者性を持つ障害者やその家族の意見も一枚岩とは言えない状況があるようだ。
尊厳死・安楽死の法制化の問題は、『死の自己決定権』と『無益な医療の拒絶』の背後に、生命の価値を生産性・知的能力(明晰な自意識)・財政負担の有無によって査定しようとするナチスドイツのような『優生思想(生命選別思想)の影』も見え隠れしやすい。安楽死を法制化してその意思確認や要件の設定までするようになると、当事者性を持つ人たちは『間接的な安楽死の強制』を感じてしまう危険性も強いし、近年では超高齢化社会の財政負担(医療・介護の費用)の増加により、植物状態・寝たきり・重度認知症の高齢者の“事前の意思表示”による尊厳死の法制化といった提案も出ていたりする。
安楽死を選択しようとする人間の自発的・主体的な心理は『尊厳を守ろうとする働き・死の自己決定権(自分らしさを保ったまま死にたいという願い)』を確かに含んでいるが、そこには間接的・道徳的に安楽死を選択させようとする『社会全体の生命選別の価値観(生産性・有益性に基づく生命の価値づけ)』が混入しやすい。また、自分自身が安楽死をしたいと思って決めた人でも、社会全体の風潮・価値規範に知らず知らずのうちに影響されてしまっていることもあるだろうし、自分の身体や生命をどのように扱っても自分の自由の範囲であるという『自己の所有権』の観念(権利意識)そのものも比較的新しいものである。
安楽死・尊厳死は現代の日本では『エンディングノート』や『リビングウィル』といった方法の延長線上で、『生前の明晰な自分の意識に基づく意思表示』であれば安楽死・尊厳死を認めても良いのではないかという意見が多くなってきている。だが、『死に勝る苦痛』や『自分にとって価値を失った生命』を理由にする安楽死をどこまで法制化・医療化していくべきなのか、欧米社会の安楽死合法化の流れに追随していっても良いのかは、慎重な倫理的議論を必要とする問題である。安楽死・尊厳死には、『確実な死の苦痛・恐怖・絶望』によって自分にとっての価値や質感を失いつつある生命を諦めるという意味合いがあるが、それと合わせて『そこまで苦痛と絶望を感じている愛する人(家族・恋人・親友)を見るのは忍びない』という生き残る側の『慈悲・憐れみに基づく殺害(mercy killing)の正当化』といった意味合いもあるだろう。
近代社会の成熟と人間の理性の高度化(自分の生死をコントロールしたい欲求)、近代医学の限界が接合する領域において『安楽死・尊厳死』が問題になってくるが、ここに『安楽死を希望する本人以外からの要請・社会全体(国家的な財政危機)からの圧力』が加わってくる危険性についても、『超高齢化社会における安楽死法制化の議論』では自覚的でなければならないように思う。安楽死を法制化しようとする議論は短絡化すれば、身体・生命の自己所有権を前提にして『何度確認しても本人がどうしても死にたいと望んでいるのだから、周囲はそれ以上は止めることはできない』という論理になってくるが、高齢化の重度障害・認知症・寝たきりによる安楽死の自発的な希望は『周囲に迷惑・手間・費用を掛けたくないという配慮』と常に隣り合わせのものになると想定される。
正式に安楽死が法制化されて、高齢化社会の社会保障費による財政危機が喧伝されて周囲の高齢者の多くが希望するようになれば、自分だけが末期状態になっても安楽死を希望しないということは心理的に難しくなり、道徳的・経済的な同調圧力によって半強制されるような気分に陥るリスクも出てくる。そうなると安楽死・尊厳死が持つべき、本来の自分らしく生きて自分らしい死に方を選ぶという『死の自己決定権の主体性・近代的な自意識の理性的な統制感覚』が損なわれて、社会全体の趨勢や家族の思惑(家族への遠慮)によって死に方を半ば他律的に選ばされる形の安楽死制度に変質する恐れも出てくる。結局、厳密に考えていくと『自分で選ぶこと=自律的な主体性』と『周囲の諸条件から選ばされること=環境要因の規定性』の境界線は曖昧で脆いものでもあるだろう。
医療者が合法的に自殺幇助をするという欧米の一部で認められる安楽死は、古来からのヒポクラテスの誓いの医療倫理を逸脱して変容させるものであるが、『真に患者の利益となること』と『患者が自由意思に基づいて希望すること』をどこまで一致させるべきなのか、医師はあくまで生命を救って延命すべきだという生命至上主義の原理原則の例外をどこまで認めるべきなのか。今後の超高齢化社会や自己所有権に基づく理性が先鋭化する時代(死ぬ権利・安楽死施設の設置を福祉的課題として主張する声も強まる抑うつ的な時代)において、再びこういった安楽死関連の法制化議論が喚起される可能性が高まっているが、『本人の身体・生命なのだからどういった死に方・死ぬ時期を選んでも自由』という極端な自己所有権だけで答えを導くには深刻な問題点(他律的・空気的な強制圧力,死生観に関わるモラルハザードなど)を孕んだ議論のように思う。
超高齢化社会における社会保障制度の持続性と財政赤字の拡大1:国民皆保険制度の前提が変化した
日本の財政危機や世代間格差の要因として上げられるものに『公的医療保険(国民健康保険)・公的年金』があるが、これらは戦後日本(1961年以降)の“国民皆保険制度”の中核にあり長年にわたって、日本国民の人生設計や健康管理、老後資金の安心感を担保してきたものであった。国民皆保険制度がない自己責任の強いアメリカと比較して、日本では誰もが病気や怪我をすれば3割負担で病院に通院することができるというのは、大多数の日本人によって支持されてきた制度でもある。アメリカでは細かく保険適用対象の医療行為が分けられた割高な民間保険(歯科医療やがん治療、高度な外科手術は別保険が必要など一つの保険だけで全ての医療が賄えるものではない民間保険)に加入しないと病院に行けないか、高額な自己負担を請求されるため、経済力による医療格差が大きいと言われる。そのため、日本では今まで多少高い毎月の保険料を支払ってでも、すべての医療行為に適用可能な公的医療保険(国保・社保)が支持されてきた。
だが、『超高齢化社会・人口減少社会の到来』で年齢別人口階層の人口ピラミッドが崩れてきたこと(社会保障受給の高齢者が増加しているのに保険料を負担する現役層の人口が減少を続けること)によって、『年金・医療・介護』といった社会保障の費用が年々1兆円増以上のペースで急増するようになり、それを賄うだけの財源の確保が困難になっている。日本では社会保障制度を介した『再分配後の格差・貧困』がより悪化する傾向も見られ、社会保障制度を維持するための保険料を支払っている生活の厳しい若年層にとっては、特に社会保障制度による給付のメリット(将来の給付のメリットの見込み)が乏しくなっている。
厚生・共済年金は給与から源泉徴収され、国民年金には年収に応じた段階的な免除制度も整備されているが、所得の約10%に相当する国民健康保険の負担率はかなり大きなものであり、滞納すれば即座に未納者であることを示す『資格証明書』(いったん医療費を全額自己負担して保険料を納めた後で保険適用分が戻ってくるという証明書)が発行されて健康保険を使えなくなる。健康保険も年金も『世代間の相互扶助(現役層が老年層を支える)の理念』があるとはいえ、殆ど病院に行かない低所得の若年者が毎月数万円の保険料を負担するのはなかなか大変だし、雇用・所得の不安定化によって『前年の所得に応じた支払額の算定(去年はある程度稼げたが今年は収入減・失業に見舞われたなどの所得状況の変化)』をより厳しいものに感じる個人も増えているだろう。
失業・減収などで年金保険料を支払えないという理由で国民年金の免除申請率も高まってきている。国民年金の納付率として出てくる60%などの数字は、『実際に約1万5千円の保険料を支払っている人の正確な率』ではないことに注意も必要だ。社会保障の収入が減っている理由の一つは、『労働力人口(現役層)の減少』であり、政府はこの労働力人口の減少によるGDPの低下や社会保障費の負担増に対処するため、『女性・高齢者の潜在労働力の活用促進策』を矢継ぎ早に打ち出してきている。しかし、女性の社会参加の促進や職業キャリアの意識化(女性からの税金・保険料の収入の増加)には、女性の平均初婚年齢や出産年齢を引き上げる副作用もある。女性の労働力をフルに活用しても、(結婚・出産だけでもその負担に迷いを感じたり一昔前の性別役割分担を支持したりする若年の未婚者も多いことから)家事・育児と仕事を両立させられる女性は現状ではそれほど多くないと見積もられる。女性の社会進出と労働参加だけでは、『少子化・人口減少社会のトレンド』は変わらないため、中長期的には社会保障財源は改善しないかもしれない。
高齢者にできるだけ長く働いてもらうという形の潜在労働力の活用(シルバー人材雇用の促進)には、若年層の雇用の縮小や年金給付開始年齢の引き上げ(最期まで働き続けなければならないといったリタイアできない拘束感)に対する反発といった副作用がある。高齢者の健康状態や体力にはかなり大きな個人差があるので、みんなが65~70歳以上の老年期にどれくらい働けるか分からないという前提も当然ある。今までの標準的なライフスタイルのあり方とされてきた『年金給付が始まれば仕事を引退できる(現役時代に苦労して働いても老後には一定の見返り・安楽があるはず)』という考え方が通用しなくなると、その反動として『老後もどうせ働かなければならないなら負担額の大きな公的年金に意味はあるのか・企業に長期雇用で我慢して勤め続ける必要があるのか』といった勤勉道徳・企業への忠誠心のある帰属そのものを疑う主張が強まる恐れもあるだろう。
若年層になるほど公的年金制度に対する反対・不満の声は多くなるが、それは自分の所得水準に照らせば比較的高額になる『年金保険料』を約40年間にわたって支払い続けても、自分が受給する65歳に近づくにつれて『年金給付開始年齢の引き上げ・年金給付水準(年金の金額)の引き下げ』といった制度改悪が不可避な財源上の理由によって断行される恐れが強いからである。少子高齢化の人口動態や赤字肥大の国家財政が急激に数十年のスパンで改善する見込みは乏しい。それを無理にでも改善しようとすれば、『外国人の移民政策・新自由主義的な市場原理の強化と企業の多国籍化・金融経済(株式市場)中心の経済政策・医療や介護の自己責任化』といった荒治療しかなく、そういった荒治療の弊害や副作用は現在の弱者ほど激しいものになる危険性がある。
超高齢化社会における社会保障制度の持続性と団塊世代の2025年問題2:後期高齢者医療制度の特例廃止
最も人口の大きい“団塊世代(1940年代後半~1950年生まれ,1947~1949年生まれ)”が75歳の後期高齢者に到達するのが2025年であり、2025年以降に社会保障財源がより逼迫すると予測されている。社会保障制度そのものが財政的に維持できるのかどうかが厳しく問われることになる『2025年問題』が控えているわけだが、団塊世代が乳幼児期だった1950年頃と2020年の人口動態の予測を比較すると、70歳以上の人口は約234万人から約2800万人へと12倍以上にも急増(65歳以上の高齢化率も約4.9%から約29.1%に急増)、それに伴って社会保障給付費も約1261億円から約134兆円へと爆発的に増加することになる。『国民皆保険・国民皆年金』を前提とする社会保障制度は確かに理念的には素晴らしいものであり、負担と給付のバランスが取れていて財源が確保できるのであれば永続的に守っていくものと言えるが、社会保障費が約70年間で“約1000倍以上”にも跳ね上がる(当時と現在の貨幣価値の違いを考慮しても)というのは政府・厚生官僚の人口動態や社会保障財源の予測を遥かに超えていたのではないかと思う。2015年度の一般会計の概算要求は初めて100兆円を超える見通しだが、2025年には社会保障費の急激な増額分を100兆円の財政規模では殆ど賄うことができないだろう。
現行の社会保障制度の持続性を担保するためには、社会保障財源の収入を増やして支出を減らす、すなわち『社会保険料の増額』か『社会保障費の抑制』というのがオーソドックスな対処法である。それ以外にも、景気対策や企業支援、産業振興、雇用促進などによって、『経済成長によって税収・保険料納付率を増やす』という間接的な対処法もあるが、『高齢・病気になる人(年金・医療・介護の費用がかかる人)が増えるという人口動態の構造』があるため、経済成長だけで社会保障費の増額を支えるのは難しいだろう。将来の若年層の給付が大幅に減額されるか行き詰まる恐れがある『国民皆保険・国民皆年金制度』を廃止したほうが良いというラディカルな意見もあるが、現状では廃止した後に無保険や無年金になる人の社会保障をどうするのかの具体的な対応がない。先進国では社会保障を放棄して完全に経済原理の自己責任に任せる(実質的な放置・棄民)ということは現実的ではないため、それらの人を生活保護で代替するのであれば余計に社会保障コストが嵩んでしまうことになる。
現行の社会保障制度の構造的問題は、『人口の増加・経済と所得の成長・景気の好況・安定した雇用と給与・若者の比率の高さ・高齢者の比率の小ささ(働く人の多さと病気になる人の少なさ)・高齢者が現役よりも貧しい』といった国民皆保険制度が継続して成り立つ前提条件が軒並み崩れてきているのにも関わらず、昔ながらの賦課方式の社会保障制度を維持して『高齢者への所得移転・再配分』を続けていることにある。端的には、相対的に貧しい若年層から保険料を徴収して、金融資産がある裕福な人もかなり含まれる高齢者層に所得を移転していることによって、『社会保障による再分配後の格差・貧困率』が余計に悪化してしまっている。そういった世代間格差を不満に思う人が増えていて、社会保障制度の持続性や現状並みの将来の給付水準が疑われているということが、無理をしてまで年金を払わない(払えないも含む)という年金未納の心理などにもつながっている。
65歳以上の高齢者は日本の金融資産の約6割を保有するが、一方で長年の所得の違いや退職金の有無、年金給付額の差が生み出してくる『高齢者間の格差』も非常に大きくなっている。数千万円以上の資産を持っていて厚生・共済の年金額も大きい裕福な高齢者もいれば、資産ゼロで国民年金さえ満額受け取ることができない貧困な高齢者もいるので、高齢者が一概に経済的に余裕があるとは言えないが、現行の社会保障制度では現役時の平均年収が高いほど年金も高くなるので、『高齢者間の格差』も再配分後に拡大しやすくなっている。厚生労働省は、75歳以上を対象とする『後期高齢者医療制度』で、低所得者・被扶養者などの保険料負担を本来より軽減している特例措置を2016年度から見直す方針を示したが、健康保険料のうち『均等割』部分を最大で9割軽減するという特例の廃止である。公的健康保険を維持するために、支払える余力のある高齢者にも応分の負担を求める方向性での制度改革であるが、この特例措置は『保険料の実質無料化』に近い減額だったので、無収入など極端に貧困な高齢者を除いて、一定の負担増をお願いするのは仕方ない側面もある。
後期高齢者医療制度の特例の対象者は、全加入者の過半数に当たる865万人で、最大の9割削減を受けている人は485万人だという。その保険料額は全国平均で月370円とかなり安い金額になっており、特例措置のための予算は811億円の規模になっているが、本来、所得が低いことによる軽減措置は『均等割』部分を最大7割まで削減するというものだった。1割負担が3割負担になる、つまり健康保険料の負担額が3倍になるというとかなり厳しく感じるが、370円の3倍なら1110円、地域差もあるので1000~2000円の範囲内の金額になるのだろう。低所得の具体的な金額がいくらか、金融資産があるかないかにもよるが、75歳を境界線にして急に年金給付額が減額されるわけではないので、『74歳の国民健康保険』と『75歳以上の後期高齢者保険』との間に、約3倍の保険料の負担の差がある合理的な説明は難しいだろう。
現役世代であれば年収100万円台の収入が少ない人の国保でも、月額1万円以上の健康保険料がかかってくるので、75歳以上の人の特例措置を廃止して月額1000円程度の保険料がかかることになっても、(本当に無年金で健康面で働けないであれば生活保護にならざるを得ないことも合わせると)極端に負担が重いとまでは言えないのではないかとは思う。高齢者が受けられる公的年金の所得控除は、一般の給与所得控除よりも金額が大きくなるので、元々、年金生活の高齢者のほうが税金・保険料が安くなるように配慮がされていることもある。夫婦世帯で夫の年金収入が年間168万円以下の人が、後期高齢者医療の保険料の軽減特例の対象とされているが、168万円に妻の基礎年金(国民年金)が加わる世帯も多いので、年収にして200万円前後の水準になることも多い。
来年の消費増税や年金の給付抑制策で、高齢者世帯の生活も厳しくなることが予想されるので、急激な特例廃止は望ましくないが、今後も後期高齢者の人口が一貫して増えることを考えると、段階的に7割削減の本来の軽減措置に戻していく必要はあるだろう。健康保険の保険料をどのくらい負担すべきかを、単純な年齢だけで区別することには無理がきているし、健康保険をドライな『受益者負担の応益負担』にしてしまえば皆保険の意義(貧困でも医療が受けられる)が失われてしまう。同じ後期高齢者でも支払い能力の格差は大きいことから、ある程度までは支払い能力や金融資産の水準に応じた『応能負担の原則』を採用することについて考えていく必要があるのではないだろうか。
将来的に公的年金や公的健康保険がどのような制度に変わっていくのか心配・不信も大きいが、2012年8月に安倍政権が提出した『社会保障制度改革推進法』では、『公助(社会保障制度の給付)の縮小』と『自助・共助(自分の努力・家族や地域住民との相互扶助)の拡大』の方針が明確化されたこともあり、年金・医療・介護の分野で国家財政が果たすべき役割(財政支出)を縮小させたい思惑が見え隠れする。個人の自己責任と家族・地域・知人との相互扶助によって、老後生活や健康維持、介護の互助のかなりの部分を賄えるようになれば『公助の社会保障支出』を大幅に抑制して財政危機を回避することができるというビジョンだが、現実には『未婚化や少子化・離婚増加・雇用の不安定化・核家族化を超えた単身世帯化・無縁社会化』などによって自助や共助は更に機能しづらくなる恐れも強い。
共助すべき家族や他者の数が減っているにも関わらず、つまりは老年期になって帰るべき家族や家がなくなっている人が増えているにも関わらず、安倍政権下では医療費抑制のために施設介護や長期入院を禁止する『在宅医療・在宅介護(施設・病院ではなく家族が老後の面倒を見なさいという在宅での医療・介護)の方向性』を強く打ち出しており、それを支える家族や個人の負担は今以上に大きくなると推測される。今の段階でさえも、一世帯あたりの構成人数が相当に少なくなっており、高齢者の多くが単身世帯になっていて、老年の夫(妻)が寝たきりの配偶者を介護して介護しきれずに殺害したりする事件が発生しているにも関わらず、数十年後の日本において『大勢の大家族がいるかのような共助(家族間の相互扶助)を前提にした在宅医療・在宅介護』を国が当てにしているというのはかなり非現実的な想定としか思えないのだが。
更に、『医療・介護を受けられる判定基準や入院入所が可能な日数』は今よりも厳格化されて公助を受けにくくなる改革が進められており、特別養護老人ホームをはじめとする比較的安価な料金で最期まで入居することができる介護施設(終の棲家)は、『要介護度3以上』の実質寝たきりで意思表示もできないような重症の高齢者しか入居できなくなるのである。確かに、地域包括支援制度や地域包括ケアシステムには、民間企業が多く参入しているので、公的な老人福祉施設にこだわらなければ、いくらでも部屋・環境・人員・サービスの条件が良い『有料老人ホーム・介護付き高齢者住宅』があるのだが、これらの民間企業が運営している老人福祉施設や介護・看護つきの高齢者向け住宅というのは、一時金と毎月の入居費がかなり高い。
特養の老人ホームなら上限があるので月額10万円程度で入居可能だが、民間の有料老人ホームだと一時金数百万円を納付した上で、月額15万円以上くらいの負担が出来る人でないと入居することができない。高額な退職金や金融資産のある裕福な高齢者であるか、持ち家を売却するなどしてまとまったお金を作った人でないと、ほとんど待たずに入居できる快適な有料老人ホームには入れないという意味では、『高齢者福祉のビジネス化・市場化(はじめから公助・公的施設に期待しなくても良い民間営利企業のサービス)』によって、老後の医療・介護・住環境の格差が更に拡大しやすくなっていると見ることもできる。公助の縮小と自助の困難、共助すべき相手の不足などといった悪条件が重なった時に、個人の老後生活や健康管理、介護事情はいったいどのようなものになるのかという不安は極めて大きい。社会保障制度の給付水準が縮小した時、自分の稼得能力や健康状態が崩れた時に個人単位や知り合いの範囲でどのようなリスク管理や助け合いができるのかについて、若い世代ほど今から少しずつ考えて備えておいたほうが良いのかもしれない。
元記事の執筆日:2014/11
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