モラハラやDVが起こりやすい男女関係と相手に過剰に合わせすぎることの弊害,“ダメンズ(ダメな男・女)”に対する自己犠牲的な献身・支援と一緒に頑張るという意識の有無

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“ダメンズ(ダメな男・女)”に対する自己犠牲的な献身・支援と一緒に頑張るという意識の有無


モラルハラスメントに本人はなぜ気づけないのか?1:三船美佳と高橋ジョージの離婚訴訟


モラルハラスメントはなぜ周囲に気づかれないのか?2:モラハラの加害者と被害者の心理


なぜ男女(夫婦)は相手を異性として見れない『母子関係の反復・転移』に陥りやすいのか?:1


相手を異性(男・女)として見れない『母子関係の反復・子供扱い』に陥らないためにどうすれば良いか?:2


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モラハラやDVが起こりやすい男女関係と相手に過剰に合わせすぎることの弊害

精神的虐待である“モラルハラスメント”や肉体的暴力を伴う“DV”、お互いの欠点・問題を悪化させる“共依存”などの問題では、カップル(夫婦・恋人)の間に『実質的な上下関係・身分(立場)の極端な違い』が作られていることが多い。モラハラやDVの被害を受けやすい人の特徴として、相手から好かれるための懸命の努力や相手から嫌われないための自己犠牲が過剰になりやすく、あまりに相手に献身して(下手に出て)尽くし過ぎることで『自分が相手よりも下に見られる(何でも言うことを聞く人として扱われやすくなる)』ということがある。

男女の恋愛関係や結婚生活では確かに『惚れた側の弱み』というのが無いわけではないし、自分が好きになった相手の性格・価値観・趣味にある程度合わせることで、お互いが気持ちの良い交際や生活、コミュニケーションを楽しめるメリットもある。しかし、自分本来のパーソナリティー構造(性格特性)や趣味・嗜好・好き嫌いを完全に曲げて否定してまで、相手の要求や希望、都合に完全に合わせるというのは行き過ぎであり、自分の人間性や価値観、趣味を否定しきってしまうと、相手と対等に向き合うための『自我・自尊心』まで無くなってしまう。

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ずっと生活を共有する結婚相手として最も相応しいのは『楽に一緒にいられる人・ありのままの自分でいられる人』と言われたりもするが、カップル間の精神的・物理的な暴力は『どちらかが相手のために自分を殺して合わせすぎる関係・相手の機嫌や気分を気にして嫌われないように過度に奉仕する関係』などで起こりやすくなる。『自分よりも配偶者(恋人)を大切にしたり優先する』というのが悪いわけではないのだが、そのことと『本来の自分のパーソナリティー・価値観・好き嫌い・生き方をすべて捨ててしまうこと』とはイコールではない。

自分のすべてを捨ててまで(何でも相手の言うことを聞いたり無理な要求に合わせたりしてまで)、配偶者(恋人)のために尽くして献身するというのは、逆に『相手からの愛情・思いやり』を失ってしまうリスクがあるだけではなく、自分の意志・意見を持たない存在として次第に『不当な待遇・暴力的な言動』に近づいてしまう恐れも出てくる。自分が本当にやりたかったこと、興味関心を持っていたこと、自分にとって大切な配偶者(恋人)以外の相手との人間関係などの全てが、その相手と付き合うことによって失われるのであれば、その恋愛関係・結婚生活は結果として自分自身を幸福にはしない可能性(自分自身が何者であるかの自己アイデンティティを拡散させる可能性)があるように思う。

異性に対する独占欲・支配欲が過度に強い人の中には、浮気・不倫などの可能性がない付き合い(同性との付き合い)であっても、『自分以外の他者との付き合い全般』を快く思わず、自分以外の他者と会ったり付き合ったりしないように要求するようなケースがある。時には実家の両親・きょうだいと定期的に会うことさえも嫌うような相手もいるかもしれないが、『自分と相手だけの閉鎖的な二者関係(外部と隔絶した二人だけの世界)』を作り上げることには、外部の社会や他者の常識的な価値観・善悪から遠ざけられるという一定のリスクもある。

うちはうち、よそはよそといった『家庭・夫婦のルール』があること自体は良いのだが、その『ローカルなルールの基準・善悪』が『社会一般の常識・暴力暴言を否定する倫理』からかけ離れてしまっている場合もある。そういった状況で、二人だけの世界に閉じこもっていると共依存や洗脳効果などによって、『相手からの暴言・暴力・尊厳の否定・無理な命令』などを間違っていると思うこと自体ができなくなることがある。そして、相手からの暴力・暴言を『自分のことを愛してくれている証拠(自分の悪い所を直してあげようと思って怒ったり罰したりしてくれている)』というように自己否定的に解釈してしまい、ますます暴力的な相手への依存度を深めていく。結果、外部の常識感覚から切り離されて、暴力暴言の度合いが激しくなってしまうのである。

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“ダメンズ(ダメな男・女)”に対する自己犠牲的な献身・支援と一緒に頑張るという意識の有無

異性に対する軽い嫉妬・やきもちによる独占欲くらいならともかく、相手の実家の家族・きょうだいや昔からの親しい親友・友人との付き合いまで、できるだけやめさせようとするような支配的干渉は明らかに行き過ぎだと思われる。相手を社会的・対人的に孤立させて自分だけに依存させよう(自分以外の誰の影響も受けないようにしよう)という危険なレベルの独占欲を反映している恐れもあるからだが、『自分の好きな人のことを気にかけてくれて支えてくれている家族・きょうだい・親友』などからも引き離そうとするような独占欲・支配欲からくる干渉は、二人の関係性そのものを『上下関係(指示・命令)のある歪んだ関係』へと導きやすい。

二人の付き合いや未来のためという理由があっても、どちらかが『自我・自意識・自尊心』をすべて捨てて、相手のためにすべてを捧げるような自己犠牲を払い、相手よりも下位の立場で尽くすという付き合い方は健全なものにはなりにくい。何より、自分の価値・立場が相手から侮られやすくなって(自分の価値が不当に相手から低く見積もられたり足元を見られたりして)、『自分が期待しているような相手からの愛情・思いやり・敬意』といったものが逆に得られにくくなるということに注意すべきだろう。

相手のための献身や自己犠牲が、一時的なものであったり部分的なものであったりすれば関係が歪ませられる問題(自分が粗末・不当に扱われるような問題)はないし、相手からも献身や自己犠牲が受けられているようなバランス感覚が保たれていれば良いが……自分自身のアイデンティティや存在意義を空虚にしてしまうような『自分の切り売り(相手を常に上位者として仰ぐようなご機嫌を伺うような付き合い方)』はできるだけやめておいたほうが良いのである。少し前に“ダメンズ”という言葉が流行したこともあったが、困っていたり弱っていたりする異性を敢えて探して、その人を支えたり癒したり応援したりするために、『自分の時間・労力・お金』を過度に注ぎ込むような尽くし方をする人も少なからずいる。

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こういった献身や自己犠牲は、モラハラとかDVとかの暴力・暴言の問題にはつながりにくいが、『自分自身の人生の目標・課題・夢』と向き合わないで済むという心理的メリットの代わりに、『自分の人生の貴重な時間・エネルギー』を浪費しやすいというリスクを抱えている。客観的に見て人間的にも社会経済的にもダメであることが明らかな相手にのめり込んで過度に支援するというのは、『その相手の潜在的な可能性・成長力・自己変革力』に期待しているということなのだが、これは言い換えれば『自分自身の人生・運命への期待の低さの現れ』でもある。

過干渉な親が自分の子供に『自分の果たせなかった夢・理想』を押し付けることがあるように、ダメンズ(ダメな女性も)に執着して時間・労力を注ぎ続ける人も、『自分の代わりに人生を成功してくれる男・女,今はダメだがいずれは自分を幸せにしてくれるはずの男・女』といったイメージへのこだわりが非常に強いのである。また客観的に見てどこも良い部分がないような相手に尽くすことによって、『自分自身の愛情深さ・慈悲深さ・思いやり・寛容さ・忍耐強さ・健気さ』が周囲に分かりやすくアピールされるという心理的メリットもある。

自分ひとりだけでは取り立てて生きがいや自分の長所を実感できない人の場合には、その相手と一緒にいることで多少の苦労や不利益があったとしても『愛情・思いやり・忍耐強さを兼ね備えた魅力的な自己イメージ』を維持できる(周囲にも伝えられる)という部分だけでも、その相手に献身的に尽くす価値があると感じやすいのである。自分自身を不幸にしたり不利益にしたりする相手と付き合う時には、『認知的・自我防衛機制的な自己正当化』が図られることが多い。

例えば、『もう少しの時間と運さえあればこの人はものすごい成功をするはず・この人は小さな頃から誰にも愛されなかったから愛情表現が苦手なだけで可哀想な人だ・自分だけがこの人の本当の性格や優しさを知っている・自分がいなければこの人はまともに生きていくことができないから見捨てることはできない・分かりやすい愛情や自立、良い部分がなくてもただこの人が一緒にいてくれるだけで価値がある』といった認知的な自己正当化によって、現在の苦労や負担の多い付き合いに納得しやすい心理状態になっている。現時点で客観的にはダメな人であっても、将来は今よりも良い人間性(愛情・思いやりのある性格)や生活状況、経済状態(仕事上の成長)へと変われる可能性は確かにあるし、そういった方向に向かえるように好きな人を応援すること自体は悪いことではない。

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だが、その際に注意すべきことは『自分ひとりだけが尽くしてボロボロになる状態』ではなく『二人一緒にお互いの責任や役割を果たしながら協力して頑張る状態』に持っていくことである。そこで、自分だけが尽くして相手がそれに見合うだけの努力や変化を全くしてくれない状況が続くのであれば、その一方的な奉仕の関係を長期的に続けても、自分が期待しているような二人の関係・生活に近づくことは難しいのではないかと思う。

モラルハラスメントに本人はなぜ気づけないのか?1:三船美佳と高橋ジョージの離婚訴訟

女優の三船美佳さん(32)と歌手・タレントの高橋ジョージさん(56)の離婚裁判で、高橋さんから三船さんが受けたとされる『モラルハラスメント(モラハラ)』が問題になっている。モラルハラスメント(以下モラハラ)は、1990年代後半にフランスの精神科医マリー=フランス・イルゴイエンヌによって提唱された概念で、目に見えない言葉や態度による『精神的暴力・虐待(精神的嫌がらせ)』と訳されている。従来、近代社会や犯罪を罰する法律は『目に見える・証拠が残りやすい肉体的な暴力』に対しては厳しかったが、『目に見えない・証拠が残りにくい精神的な暴力』に対しては甘かったり見過ごしたりしてきた。精神的暴力・虐待・嫌がらせはその頻度や強度、持続期間が長ければ、人によっては自殺や精神病に追い込まれるリスクもあることから、イルゴイエンヌは『肉体的暴力と同等以上の悪事(犯罪)』としてモラルハラスメント(精神的暴力)を認識することの必要性を説いた初めての精神科医である。

三船美佳さんは自分の人格・存在の価値を否定される『長期のモラルハラスメント』を受けて、心身共に深く傷つけられたことを離婚事由としていて、裁判所に『モラハラ関連の本(2冊)』を証拠として提出した。報道によると提出した関連書籍は、『モラル・ハラスメントのすべて 夫の支配から逃れるための実践ガイド(講談社)』と『カウンセラーが語るモラルハラスメント(晶文社)』のようで、自身のつらい体験と重なる部分に付箋・メモ書きを貼ってあるという。しかし、高橋ジョージさんは『スポーツ新聞にモラルハラスメントって書いてあったけど、流石にそりれはないな(原文ママ)』とツイッターで語り、裁判の出廷後にも『モラハラは身に覚えがない・関係修復を諦めていないのできちんと話し合いたい』と再び自身のモラハラ疑惑を否定している。

三船さんが受けた具体的なモラハラについては、常識の範囲を超えた外出禁止を命令されたり、『お前は人間としての価値もない・お前は妾の子だから仕方ない・生きていく資格もない・お前が生きているのは、オレのおかげ』などの人格や存在、出自の価値を根底から否定したり侮蔑したりする暴言を相当な期間にわたってぶつけられてきたと本人は語っている。高橋さんはそういったモラハラに類する暴言や態度については全面否定しているが、三船さん本人がそういった夫婦関係やコミュニケーションについての極端に悪い記憶・印象・傷つきを持っている以上は、夫婦関係の修復や離婚回避は極めて難しい。無理やりに離婚を回避して一緒に暮らしたとしても、高橋さん本人にモラハラや精神的支配の自覚がない以上は、再び同じようなモラハラの苦しみや虐待が繰り返される恐れが高い。

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三船さんは『120%戻る意思はない』という離婚の決意を固めているが、高橋さんの側は『モラハラをした覚えがない・もう一度話し合えば分かってもらえる・まだ離婚の申し出に納得できない』というスタンスであり、『深刻なモラルハラスメントの認識に対する温度差と自覚の違い』が相当に顕著である。一般的にモラハラの加害者でも被害者でも、『二人の関係性に基づく役割分担(支配‐従属)や共依存が受け容れられている状況』や『相手の価値を貶めたり気持ちを傷つけたりするモラハラが当たり前になっている環境』においては、二人の間で交わされている相手を傷つけたり支配したりする言葉・態度が『モラハラに当てはまるという自覚』を持つことができない。

モラハラは『愛情・倫理(善悪)・常識』の装いを持って仕掛けられることが多く、『相手の人格・存在・尊厳を否定する暴力的な言葉や態度』であっても、支配‐従属の役割分担に基づく共依存の心理状態にある限りは、『相手のためを思ってのルール・叱責・批判』『自分のためを思ってくれるが故のルール・厳しさ・指示指導(叱責)』として解釈されるからである。モラハラの加害者は『相手が間違ったことをしているから注意した・自分との関係をより良いものにするために怒った・自分を不機嫌(不愉快)にする行動をした相手が悪い・自分の常識や善悪に照らせば相手が間違っている』といった認知に基づいて、暴力的な言葉や態度、無視を投げかけている。

それに対して、モラハラの被害者は『自分が間違っているのだから注意されても当然だ・自分が相手を不機嫌(不愉快)にさせるような悪いことをした・自分が二人の間での約束やルールを破ったのだから厳しく怒られても仕方ない』といった認知を持ちやすくなり、相手の暴力的な言葉や態度を『自分の間違った行為・発言の責任』として受け止めてしまう(我慢して耐えてしまう)のである。モラハラの加害者は、自分自身の行動や態度、内面がどんなに暴力的で醜いものであっても、表面上は『正義・理想・思いやり・常識を大切にしている好ましい人物』を演じており、被害者に対して皮肉・嫌味・中傷・侮辱の言葉を言いながらも、『あるべき人間の正しさや理想、思いやり(あなたが間違っているから正しい道に戻してあげたいから、私は不本意ながらもこうせざるを得ないのだ)』といった内容を厚顔無恥にも説教じみた口調で説いたりもする。

モラルハラスメントはなぜ周囲に気づかれないのか?2:モラハラの加害者と被害者の心理

モラハラという精神的虐待は、本人たちにも自覚されにくいのだが、周囲にいる親族や友人知人といった人たちも気づくことが難しい問題である。モラハラが容認される異常な共依存関係にある二人は、プライベートでは『自分たちだけの世界』に閉じこもっており、その自分たちだけの世界で通用するルールや常識、善悪・罰則の基準などが『(外に知られてはならない)秘密・恥』として囲い込まれている。 そのため、モラハラが被害者の証言によって外部に漏れることはほとんどないし、物理的な暴力で殴られたり蹴られたりしているわけでもないので、すぐに暴力を受けていると分かる怪我・傷口・あざなども無い。

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恋人・配偶者からモラハラ(精神的暴力)を受けているという話が、被害者の口から語られる時は、『加害者から受けていた自己否定及び劣位・従属の洗脳(暗示)が解除された時=外部世界の常識や倫理を理解できるようになり加害者との不健全な関係性を終わらせたいと思った時』である。モラハラの加害者から言葉・態度を通して何度も何度も繰り返し、『自分はダメな人間(価値のない人間)である・自分は相手がいなければ生きていけない弱い人間である・自分は相手に返しても返しきれない恩がある(相手のおかげで自分はなんとか生きていられた)・自分は社会では通用しない無能な存在である・経済的にも社会的にも一人前として扱われないダメな奴である・粗末な冷たい扱いを受けてもしょうがない価値のない人間である・自分を見捨てずに付き合ってくれている相手に感謝するしかない』といった自己否定につながるメッセージを刷り込まれた被害者の多くは、ぎりぎりの心身状態に追い込まれるまでモラハラの存在に気づくことができない。

『二人の関係や二人の世界(常識)が何かおかしい・このままでは自分の人間性や人生がむちゃくちゃなままで終わってしまう・この相手と付き合いだしてから自分が自分ではなくなっている(以前のような明るさ・楽しさを感じられなくなった)』と気づくきっかけとしては、『長年にわたる原因不明の体調不良・第三者からの客観的なアドバイスと現状分析・相手と離れていられる時間が作れた時の心身の調子の回復・書籍やネットなどでモラハラの情報に偶然に触れる』などを考えることができる。モラハラの加害者の多くは、被害者をできるだけ『外部の社会・一般的な情報・会話ができる第三者』から遠ざけて、自分たち二人だけの世界の価値観やルール、常識を刷り込もうとするが、自分がもしかしてモラハラを受けているのではないかという気づきは『二人だけの世界の外部の人や情報+自分自身の慢性的かつ長期的な心身の不調(心身の調子が悪化した原因探索の内省における自分の人生・関係の見つめ直し)』からやってくるものである。

モラハラの被害者に選ばれやすい人は、『他人の不幸・苦痛・寂しさに過度に共感しやすい優しい人(そういった不幸な人を自分の力で何とか助けてあげたいという利他性・援助性が強い人)』や『几帳面・生真面目でいったん関わった人とのつながりを簡単には切れない責任感の強い人(他人からあなたが絶対に必要だとかすがりつかれるとどうしてもその人から離れられなくなる人)』である。つまりは、いったんある程度の深い関わりを持った他者に対する優しさや思いやり、情の深さ、感情移入の強さといったものを逆手に取られてしまい、自分が甚大な被害(精神疾患を発症したり自殺を思い悩むなど)を被っていても義務感・責任感・洗脳のされやすさ(自分が悪いから相手も悪くなるという思い込み)などから離れられなくなるのである。

モラハラをする加害者の性格構造や心理状態の根底にあるのは、『孤独感・不安感・支配欲・嫉妬と束縛・対外的な承認欲求』であり、そういったネガティブで自己否定的・他者操作的な感情は『私は自分ひとりでは生きていけない不完全な存在である(私には常に側にいてくれて自分の思い通りに振る舞ってくれる他者が必要だ)』という核心的認知を生み出す。その結果、『自分の自尊心や孤独感を満たしてくれる他者(無条件に自分のすべてを受け容れてくれるモラハラの被害者)』を強く求めることになるのだが、モラハラの加害者の多くは『外面が良い・コミュニケーションが上手い・一定の対人魅力がある』などの特徴を併せ持っているので、第一印象や浅い付き合いの段階ではむしろ他人から好かれやすいのである。

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そういった加害者は、モラハラをしている相手以外には、外面が良くて仕事もできて対人魅力もあるので、『被害者のほうが悪者にされてしまうケース・被害者が自分のほうが悪いから仕方ないと思い込まされてしまうケース・モラハラの嫌がらせや暴言について話しても信じてもらえないケース』も増えやすくなる。モラハラを受けている被害者の側が逆に、相手に対する申し訳なさや罪悪感、謝罪の必要などを感じさせられてしまい、『加害者による人格や言動の支配制御(お前が悪いからこういう厳しい言葉を言わなければならない・お前のためを思って自分はこういう暴言を言っているの暗示)』を洗脳的に受け容れやすい心理状態になってしまう。

モラハラの加害者の持っている『自分ひとりだけでは生きていけないという孤独感』は、クラスターBのパーソナリティー障害(人格障害)である境界性パーソナリティー障害の“見捨てられ不安・狂気的なしがみつき”と類似したところのある性格構造である。だがモラハラの場合には、加害者が潜在的に持つ『自分が見捨てられたくないという心理(自分の思い通りにしてくれるパートナーがいないと精神の安定を保てないという弱さ)』は巧みに隠蔽されており、被害者に対して逆に『お前は自分がいなければ生きていくことができない弱くて無能な存在だ』という暗示を繰り返しかけようとする傾向がある。

モラハラの加害者が最も恐れているのは、自分よりも劣位(弱い立場)にある存在として見下して支配・制御している被害者(パートナー)がいなくなってしまうことであり、被害者が自分を見捨てようとする兆候を感じ取ると即座に激しい罵倒・暴言・非難・侮蔑で責め立てて、『被害者の自尊心・自立心』を必死にへし折って自分の元に引きとめようとする。どんなに激しい暴言や非難、罵倒を浴びせても、『自分と別れるという相手の決心』が変わらないことが分かると、途端に態度を急変させて『自分を見捨てないで欲しいという懇願や泣き落とし・今までしてあげた恩を忘れて冷たく裏切るのかという恩義や無慈悲さの強調・お前がいないと自分は生きていくことができない(野垂れ死にや自殺をするかもしれない)という間接的な脅し』を用い始めることもある。

基本的に、モラハラをする人は『相手が自分を必要にしているという暗示』をかけていることとは裏腹に『自分が相手を必要にしている部分』が大きいので、いざ本当に別れるという話になると、諦めの悪さや未練がましさ、恩知らず(冷たい奴)だと訴える恨み節、元気の無さ(落胆の大きさ)が目立ちやすくなることも多いだろう。モラハラの加害者も、幼少期からの健全なパーソナリティー構造の形成に失敗している可能性は高く、発達早期の母子関係の問題や自尊心・安心感の傷つきなどによって、『無条件に自分を受け容れてくれる他者・絶対に自分から離れないと確約してくれる他者=母性的な元型像の理想化や執着的な追求』に妄想的に囚われてしまっているところがある。

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その結果、加害者になってしまう人は、自己と他者との間で好意や援助を与え合うようなコミュニケーションをしたくてもできないとか、他人の愛情や約束を心から信じることができないとか、相手を支配・制御するような関係を築かないと安心(満足)できないとかいった対人関係の悩みを抱え込んでいるとも言える。しかし、長期的なモラハラの被害者は、うつ病やPTSD(心的外傷後ストレス障害)、心身症をはじめとして重症度の高い精神疾患を発症するリスクが高くなり、自分の人間性や存在、尊厳を繰り返し何度も強く否定されてきた場面がフラッシュバックして苦しみ続けることもあるので、加害者の性格構造やコミュニケーションの矯正プログラムを優先させるという訳にもいきにくい。

モラハラの被害や悪影響を自覚できるきっかけがあれば、被害者の方はできるだけ速やかに加害者との洗脳的(共依存的)な共同生活やコミュニケーションから距離を置いたほうが良い。その上で、自分の人生や相手との付き合い方を冷静に見つめ直せるような環境・心理状態を整え直して、客観的な立場に立てる第三者にも間に入ってもらって次善策(その後の自分の人生・人間関係のあり方)を検討すべきである。

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安定した関係や家庭を求める男性に“家庭的な女性”は好かれやすく、特に結婚を目的とする恋愛においては家庭的な女性(家事育児に意欲・適性があって男性の生活面の世話を焼いてくれるような女性)のほうが“本命”になりやすいと言うのは定説のようになっている。現代では男性の平均所得の低下や共働きの必要性から、かつてほどには家庭的な女性が良いとする女性ジェンダーは絶対的なものではないが、家事育児を手伝う男性が増えたといっても、現実の家庭生活(共同生活)では今でも女性が大半の家事育児を担当していて、共働きでも女性の家事育児の負担割合が圧倒的に多いという調査結果もある。

また男性(夫)が女性(妻)の家事育児を手伝うという言葉や発想そのものが、『家事育児が男性本来の仕事ではない・空いている時間や体力に余裕がある時には手伝う(あくまで補助的なお手伝いとしての位置づけに留まる)』といった男性ジェンダーに影響されているという批判的な見方がされたりもする。日本では特に性別役割分担の影響は今でも色濃く残っているし、経済的に余裕があれば女性に家事・料理や身の回りの世話、気配りのあるメンタルケアをしてもらいたいという男性は多数派だろう。逆に女性の側も、ハードに長く働く必要性がないのであれば、家庭に入って短時間労働などをしながら家事・食事・ケアなどの面で夫や子供の面倒を見るようなライフスタイルが嫌ではない(むしろハードな正規雇用の長時間労働よりも向いていてストレスも少ない)という人も多くいるように思う。

日本の家庭は子供が産まれると『夫婦中心のライフスタイル』ではなく『子供中心のライフスタイル』になるが、結婚していないカップル(恋人)であっても男性の世話を焼いたり生活面の面倒を見たり、ケアをしてあげたいという女性は少なからずいる。男性を生活・食事・メンタル(会話)・性などの部分で支えるという『補助的・支持的(応援的)な役割』を担う女性ジェンダーは伝統的なものだが、男女共同参画社会やフェミニズムの視点では、女性を社会の主役にしない旧弊的な偏見として批判されたりもした。

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伝統的ジェンダーは男女の偏見の要素を含みながらも、現在でも男性と女性のニーズの相補性(お互いが求めるものを満たし合うこと)に合致する可能性があるが、あまりにも女性が男性の世話を焼きすぎてあれこれ先回りして面倒を見すぎると、『対等な男女としての意識・異性としての魅力を感じる部分』が段階的になくなっていってしまう危険性も出てくる。夫(彼氏)が妻(彼女)を『母親』のように扱うことに対して、苦情や不満を言う女性は少なからずいるが、妻(彼女)を完全に『女性(配偶者)』としてではなく『母親(保護者・監督者)』として扱うという場合には、夫(男性)だけではなく妻(女性)も『自分に生活・家事の部分で依存するような付き合い方やコミュニケーション』を続けてきた可能性が高い。

妻(女性)が行う『自分に生活・家事の部分で依存するような付き合い方やコミュニケーション』というのは、夫(男性)を、仕事以外の部分では自分ひとりで満足に身の回りの世話やでかけるための準備・支度をできない子供のように扱うことである。男性(夫)を『子供扱い』して、自分で準備や支度、作業をする前に先回りして、着替えの服一式を準備したり食事の準備・食べこぼしの処理・後片付けをしたり、忘れ物がないか次にやるべきことは何かを念押ししたり、生活の細かな面を母親口調で注意したりしていると、いつの間にか男性(夫)の側も『子供としての自意識・面倒を見てもらう役回り』に適応していってしまう。

男性は特別なマザコンを抱えていなくても、『母子関係』を理想の安心できる関係のように感じる原体験・想像力を持っていることが多い。恋愛関係においては『対等な男女としての振る舞い・立場(異性として女性を愛して守っていく等)』を意識していても、共同生活が始まるなどして色々な生活面で世話や面倒を受けていると、母子関係の原体験に向けられていた感情が『現在の夫婦関係・恋愛関係』に転移してしまうことがある。女性も『自分の両親の夫婦生活』などからの影響を受けやすく、母親が父親の生活の細々とした面倒を見たり世話を焼いたりしているのを見て、『男性への愛情の表現の仕方・理想的な夫婦関係のあり方』として、母親のような包み込む立場に立って夫(男性)の面倒を見たり、その人生を補助していく役割を無意識的に身につけてしまいやすい。

実際の親密な共同生活が始まる前には、“男性の母親代わりのジェンダー役割”“大きな息子(夫)がいる家庭生活”を嫌っている女性は多い。だが、『自分が男性にとって無くてはならない存在になるため』『自分の家庭から無意識的に学んだ男性(夫)の愛し方を実践してしまう』といった理由によって、いつの間にか『男性の転移感情・依存的な擬似的母子関係の居心地の良さ+女性の愛情表現・自分の必要性の強調=母子関係の反復』になりやすいというのはある。

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女性(妻)が、必要以上に男性(夫)の生活の面倒を見てあげたり世話を焼いてあげることには、男性と女性が早期発達関係の居心地の良い状態に退行(固着)するといった意味合いがあり、『相互依存の母子関係の反復』は男女の関係を安定させるという働きもある。発達早期の母親に向けられていた感情が、現在の妻(恋人)に向け変えられるという男性(夫)の転移感情は、マザーコンプレックスの現れではあるが『恋愛関係(デート・遊びの非日常性)』から『家庭生活(衣食住・繰り返しの日常性)』への移行において、ある程度は自然に起き得る転移(transference)とも考えることができる。

現在は共働きの夫婦も増えて、男女の家事育児の均等な納得のいく分担が模索される傾向が強まってはいるが、一方で現実的には難しいとしても『男性が仕事の収入・女性が家事育児の近代の一時期の伝統的ジェンダー(性別役割分担)』を希望する人も少なからずいる。男性(夫)を“子供扱い”して日常的な生活面で依存しても良いという態度を示すことは、女性(妻)の分かりやすい愛情表現であり、男性(夫)にとっての女性(妻)の必要性の強調でもあるが、そういった献身・世話焼きが過度になってしまうと二人の関係は『男と女の関係や自意識』からどんどん離れていくことになる。

擬似的な母子関係の反復によって、家庭生活(共同生活)でお互いが果たすべきと感じる役割が固定化されてしまうので、次第に『相手からしてもらっていることへの感謝』が弱くなったり、『甘え・依存』『無礼(慢心)・わがまま』にエスカレートしてしまう問題もある。お互いのパーソナリティー(人格特性)や価値観によっても変わってくるが、『相手からしてもらえることを当たり前と受け取ってしまう認知(考え方)』や『相手を自分よりも下位の存在として位置づける上下関係の認知(考え方)』が生まれてくると、モラルハラスメントやDVといった心身の暴力被害の問題に発展しやすくもなる。

夫(男性)の擬似的な母親のように振る舞うことによって、それまでの関係が悪い方向に変化するリスクとしては以下のようなものを考えることができる。

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1.夫(男性)の自尊心や自立心の引き下げ

男性(夫)を何もできない子供のように扱えば、夫は次第に本当に自分自身の生活や身の回りのことを、自分でできないと思い込むようになり、有能感や自尊心(自己評価)が下がってしまう。夫(男性)の有能感が高まれば自尊心が高まり、自分で自分のことをやり遂げられると思えば自立心が高まる。反対に、『あなたは自分で自分のことができないのだから手伝ってあげる』というメッセージを常に出していると、夫(男性)の有能感や自尊心が低下するだけでなく、自分自身で日常生活や雑事をやってみようという意識そのものがなくなって、本当に仕事以外の部分で無能・無気力な人になってしまうこともある。

自尊心・自己評価の低下は、『他者に愛情を表現する余裕・他者のために役に立とうとする自己イメージ』を阻害することが多いので、あまりに自尊心・自立心をスポイルする過保護や甘やかしをしていると、逆にあなたへの愛情表現や思いやりのある行動は減っていってしまう。至れり尽くせりで良くして上げれば上げるほど、相手からの愛情や思いやりが返ってくるというのは一般的には成り立ちにくく、『それだけして貰るのは当たり前という意識・相手がそれをするのは決まった役割であるという役割分担の考え』に傾きやすいという点に注意が必要である。

更に、いくら母親代わりのように振る舞っている女性でも、本心から魅力を感じるのは『有能な男性・自立心のある男性(頼りがいのある男性)・愛情表現のできる男性』であることが多いことから、甘やかしで自尊心や自立心を引き下げてしまうと、今まで好きだった相手の魅力もどんどん減っていきやすいという問題もある。

2.擬似的母子関係からの“自立の反発”と“外部の女性”への目移り

男性は『母親的な存在』として認識し始めた相手には、安心感や感謝を感じるが、異性としての興味や愛情は感じにくくなるので、『関係の安定性・静態性(二人の状況が止まっていてずっとこのまま続いていく感覚)』と引き換えに『関係の刺激性・動態性(二人の状況が動いていて新たな楽しいことが起きるという感覚)』を失うことになる。結婚(同棲)した後に『擬似的母子関係』が成立してくると、男性は『実家にいるような感覚・独身に戻ったような自意識』を感じやすくなり、妻(恋人)を決定的に裏切ることはないにしても、『帰るべき家から外に遊びに出かけるような感覚』で他の新たな女性・若い女性に目移りしてしまうリスクが高くなることがある。

色々と面倒を見てもらえる至れり尽くせりの衣食住の家庭生活(共同生活)には十分満足しているのに、不倫(浮気)の問題を抱えてしまうことがある理由は、本人の浮気性・新規性追求のパーソナリティーもあるが、二人の関係性が『擬似的母子関係』に近づいてしまい、『異性として求めるのではなく、外に出た後に安心して帰れる相手』のようになってしまうことも影響している。母親的な役割を過剰に果たしすぎると、妻が『実家の母親』のようになり、家庭が『遊んだ後に帰ってくる実家(子供時代の精神的な安全基地)』のようになってしまい、それまで『安らぎ・楽しみ・心地よさの象徴だった女性としての妻の側面』がスポイルされてしまうのである。

反対に、あまりに細々と生活面・時間面に干渉していると、『管理されている・自由を奪われている・家が息苦しい』といったネガティブなイメージにまで発展してしまう恐れもある。そうなると、かつて自分の面倒をあれこれ見てくれながらも人生の指示・助言・管理をしていたまとわりつく母親のイメージが想起されて、『母親から自立したい・自分の自由な生き方を得たい・あれこれ管理されたくない』といった『青年期の発達課題の反復』のような状況になって、妻(女性)からの自立・自由の欲求によって、家よりも外にいることを好むようなメンタリティになってしまうこともある。

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3.相手を異性(男・女)として見ることができなくなり情熱が弱まる

母親のように振る舞う女性(妻)に対して、男性(夫)は『安心感・感謝・居心地の良さ』は感じるかもしれないが、そういった至れり尽くせりの世話をしてくれて細かな注意・指示をして生活を管理してくれる女性(妻)を、次第に『女(性的対象)』としては見づらくなってしまう。恋人から家族(父母)になっていくのだから、そういった心理の変化は当たり前という部分もあるが、いくら結婚して夫婦・父母になったからといって完全なレスや異性としての無関心、情熱の終焉になってしまうのは、やはり物足りないし寂しいと感じる人は多いだろう。

中には、家族としての機能や父母としての役割を果たすための役割分担ができていれば、家庭内で必要以上な恋愛的感情や性的関心は必要ないという人もいるだろうが、そういった家族機能(生活・育児の円滑な遂行)だけを中心とした夫婦観は双方の価値観・生き方が一致していないと、夫婦不和・不倫(浮気)・離婚の原因にもなってしまいやすい。男性(夫)を子供扱いして何もできない人のように見ることによって、女性(妻)は更に夫を『魅力ある男性』として認識することができなくなり、夫は自分を生活面・家庭面で無能な存在のように認識させられることで、妻の前で『魅力ある男性』として振る舞い続けたいという意識や努力を失ってしまうことが多い。

そういった自分が相手にどのように見えているかを全く気にしなくなっていく変化を、『緊張せずに気楽に付き合えるから良い・何もかっこつけずに全てをさらけ出せるから良い・家族なんだから異性としての魅力や意識なんて必要ない』とする受け止め方もあるけれど、女性には『親しき仲にも礼儀ありで最低限の魅力や礼節の維持はあったほうが良い・中高年になっても完全に家の中でだらけてしまうのではなくて少しは魅力的な男性に見えるように自覚や努力をしてくれたほうが良い』とする意見も多い。

結婚生活(同棲・共同生活)において、『母親代わり・子供扱い』の振る舞いをして、世話を焼きすぎたり管理し過ぎたりすることのデメリットには上記のようなことがあるが、相手を『全く異性として見れなくなる問題』を改善するためには以下のようなポイントを注意してみると良いかもしれない。これらのポイントに共通するのは、『擬似的・依存的な母子関係』から『自律的(自立的)・協力的(責任履行)な夫婦関係や男女関係』への適度な移行である。

1.基本的に、夫・恋人(男性)を有能で自立した大人として扱うようにする。

夫・恋人(男性)のスケジュール管理や用事・忘れ物のチェック、身支度などについて、『何でも先回りしてやって上げたり念押しのチェックをする』のを少しやめて、『自分のことは自分でできるという自立心』を高めて上げるようにする。彼の代わりに何でもやって上げたいという気持ちがあっても、基本的に彼を『無能・依存的な子供のような存在』に押し込めれば、自分にとっての彼の魅力も落ちていくことになるし、彼もあなたに対する依存性を強めて何でも先回りしてやってくれる役割分担を当たり前のものと感じやすくなってしまう。

自分で自分の生活・準備・予約やスケジュールの管理をすることができる『有能で自立した大人』として彼を扱い、本当にフォローや手伝いをすべき場面を見極めて手伝って上げることで、二人の関係に程よい役割分担と相手への配慮が生まれやすくなる。相手の異性や人間としての魅力も、今までより高いものとして感じやすくなる。

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2.夫・恋人(男性)の自己管理能力や自分への責任感を高める

今まで出かける前の服装一式をすべて準備して上げて、髪型・身だしなみの完全なチェックまでして上げていた妻(女性)が、急に世話や面倒をすることを控えると、夫(男性)は不機嫌・不愉快な態度を取ったり、ちぐはぐの服装や乱れた髪型のままで出かけていってしまうかもしれない。しかし、服装・髪型・身だしなみ・後片付け(脱いだものの整理)などは、本来『自分で自分のことをやるという最低限の自己管理能力』に含まれるもので、そのすべてを至れり尽くせりで代行してして上げるというのは、夫(男性)を『未熟・無能な子供扱い』をして、余計に自己管理能力や自分の生活への責任感を落とすことにもなる。

もちろん、特別な会合やパーティーなどで着ていく服を品定めして上げたり、『どちらの服のほうがいいかな?どっちの色やデザインのほうが似合うかな?』といった質問や助言の求めには丁寧に応じて上げるべきだが、『日常的に着ていく概ね決まった型の服装の選定』まですべて干渉して世話を焼く(着替えなどまで手伝う)というのは、やり過ぎになってしまう恐れがある。脱ぎっぱなし、開けっぱなし、汚しっぱなし、出しっぱなしといった『何かの行為をした後にきちんと後片付けをしない問題(~ぱなし問題)』についても、代わりにして上げたり怒ったり叱責したりするのではなく、本人が学習して自分で後片付けをできるようになるまで『脱いだらここにたたんで片付けてね・ドアを開けたらちゃんと閉めてから行ってね・汚しものは綺麗にしていってね』といった柔らかい指摘をして気づきと学びを促していったほうが良い。

3.お互いが納得のいく役割分担をして、夫・恋人(男性)の役割や責任に口出ししない

料理・洗濯・掃除(ごみ捨て)でも後片付けでも、何かの予約・準備でも良いが、二人の間でどちらがいつ何をするのかの『納得のいく役割分担』をしたら、『相手がすべき仕事・役割の遂行』に対してできるだけ干渉や世話焼きをしないようにする。相手がノロノロと料理をしていたり、グズグズと後片付けをしていたりすると、『こんなやり方じゃいつまで経ってもラチが開かない・相手にやらせるより自分がやって上げたほうが早くてマシ・あんまりとろいと見ているだけでイライラしてくる』と思って、相手からその仕事や役割を取り上げて自分でやってしまうという人は多い。

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初めからまったくやる気がなかったりわざとトロトロやっているような場合は別だが、本人が本人なりに頑張って自分に割り当てられた仕事・役割をこなそうとしているのであれば、横から過剰な口出しや批判をしたり、自分が代わりにやって上げるべきではない。『相手をいたずらに子供扱いしない,一人前の有能な大人として接する』という目的に照らすと逆説的ではあるが、子育てと同じように『自分でできることを増やして上げようという見守りの姿勢・途中で自分が手伝ってあげては本人の自信や能力の向上にはつながらないという学習支援の態度』が必要になってくる場面は多い。

夫婦・恋人の関係では、お互いに協力したりいたわったり、助け合っていくことが必要である。しかし、『やろうと思えば自分でできる身の回りのこと・お互いに納得した役割分担の遂行や責任・相手に対する尊敬や関心を失わないでいられる自立心や有能感』については、お互いが過度な甘えや依存をしないこと(相手を無能で未熟な子供のように見なさないこと)によって、相手の異性としての魅力や自分にとっての必要性(相手の好意や愛情に基づいて何かをやってもらえることのありがたみ)を高めていくことができる部分がある。

元記事の執筆日:2015/02

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