J.ラカンの言語とイメージ1:シニフィアンの言語が持つ意味の流動性(文脈依存性)
J.ラカンの言語とイメージ2:“言葉にしないと分からない”か“言葉にしなくても察して欲しい”か
ジャック・ラカンの言語中心主義的な人間観と『失錯・機知・夢・症状』に反映される無意識
ジャック・ラカンの言語主義的な人間観と自然の摂理:言葉・イメージを超えた現実(不可能性)
ジャック・ラカンの精神分析における“現実界(トラウマ)の回帰・反復”としての神経症症状
人間の『欲求(need)・要求(demand)・欲望(desire)』を区別するラカンの精神分析
ラカンの『欲望』と科学技術・市場経済・仮想現実がもたらす他者回避:“愛する事・働く事”による幸福追求
『対象の欠如(自分にないもの)』を他者が埋めてくれる幻想と愛情の欲求1:ラカンの精神分析
『対象の欠如(自分にないもの)』を他者が埋めてくれる幻想と不完全な私の欲望2:ラカンの精神分析
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ジャック・ラカンが示したイマージュ(視覚の刺激・想像)に影響される人間像と“無知の知の前提”
カウンセリングでは『言語』と『イメージ(イマージュ)』の相互作用が使われることも多いが、視覚的あるいは想像的なイメージ(心像)は、言語よりも直感的であり本能的でもある。構造主義の精神分析家ジャック・ラカンは、動物行動学者コンラッド・ローレンツの『刷り込み』の概念からの着想で、アヒルが孵化して初めて見た『親のイメージ(視覚刺激)』に行動を本能的に束縛されるように(それが同種のアヒルの親でなく人間であっても親と勘違いしてついていくように)、人間も発達早期に刷り込まれた『強い感情を伴うイメージ』にかなり反応を左右されるところがある。
例えば、父親(母親)に何となく似た雰囲気を持つ異性に惹かれるとか、自分の外見と似た感じを持つ異性を好きになりやすいとかいった無意識的な傾向も、『慣れ親しんだイメージ』に選好を左右されている可能性がある。また幼少期や児童期といった子供時代に、親からの虐待やクラスメイトからのいじめを受けていたりすると、『自分に危害・脅威を加えた他者のイメージ』によって、そのイメージを思い出させる似た外見・声の感じ(喋り方)・雰囲気を持つ人に対して、反射的かつ本能的な苦手意識・嫌悪感を持つことは少なくない。
女性が性的に受け容れられない男性に対して『生理的嫌悪感』といったキーワードを使う場合には、理不尽さや不公平さといった反発を覚える人もいるだろうが、生理的嫌悪感という言葉を用いなくても『何となくイメージや話し方などから受け容れにくい相手・嫌なことをされたわけではないがなぜか自分と合わない感じの他者』というのは誰にでも存在するものではある。生理的嫌悪感の多くも、言語的(説明的な理屈や意味)というよりはイメージ的(視覚からの直接の刺激・間接の想像)なものであり、生物学的本能だけではなく『自分自身の過去の楽しかった体験(嫌だった体験)』や『帰属する社会集団が共有する人間的・性的魅力のモデル』などから好き嫌いや評価軸のイメージが形成されてしまっているのである。
こういったイメージ(イマージュ)が、人間の好き嫌いや反応、気分を左右する力はかなり強力であり、そのことがカウンセリングや精神分析で『イメージや視覚的な記憶を思い浮かべることやその感覚を言葉に置き換えてみることの効果(イメージ療法的な方法論)』にもつながっている。『意識的・意図的に思い浮かべるイメージ』が、実際に何らかの気分・感情・感覚・行動を引き起こすことは少なくないが、それはマスメディアや芸能界・映画・アニメ・漫画など『ブラッシュアップされた魅力的なイメージを商品化する業界』に対する凄まじいまでの需要やそういったイメージ群のファン(信者)の多さからも明らかである。
オタク文化やアイドル文化などのサブカルチャーも突き詰めれば『快感・美しさ・楽しさを感じやすいイメージ(イマージュ)の文化』であり、人によっては自分のお気に入りのイメージ(人物・ライブ・映像作品・イラストなど)に囲まれているだけで、現実世界の諸問題・人間関係から切り離されたかのような非日常的な幸福感や高揚感を感じることができる。S.フロイトから始まりジャック・ラカンにおいて高度に抽象化・記号化された精神分析は、他の心理療法やカウンセリングと比較しても『知識の体系化・複雑化』が進んだ学問であり、ラカンの構造主義的な独自の概念を縦横に駆使した理論なども一般の人にとってはかなり難解である。
故に、ラカンの『セミネール』『エクリ』などを頑張って読んでみても、大半の人は自分の現実生活の悩みや苦しみと結びつけて考えることは難しいのだが、ラカンは逆説的に『知識を専有する分析家』というイマージュを破壊する形で、古代ギリシアのソクラテスの『無知の知(ソクラテスより知恵のある者はいない)』について言及している。ジャック・ラカン本人は『エクリチュール(文章)』よりも『パロール(話し言葉)』を重視した精神分析家であり、本人はまとまった自分の理論の体系化や書籍化に殆ど関心がなかったとされる。
それはあれほど複雑かつ難解な概念体系を構築していてもなお、『精神分析家はクライエントの内的世界に対して無知である(人の精神について権威的かつ網羅的な知を専有してどうすれば良いかを指示できる分析家は存在しない)』という基本信念を持っていたことも影響している。ラカンは『分析家は人生や自分の問題を簡単に解決できる特別な知を持っているはず』というクライエントの思い込みと分析家の自負心について、(自分自身が自分の真実に気づき、その原因も含めた自分のあり方や生き方にある程度まで納得することができなければ)どうすれば良いかの指示だけではそう簡単に問題は無くならないという『現実とのギャップ(権威者への無条件の従属の表層性)』を直視している。
精神分析が臨床的に用いられることが減ってからは特に文学的・哲学的な人間理解の方法論としての性格も強まってきたが、ラカンの『イマージュ』は人間の感情や気分を無意識的に規定する要因を示し、『無知の知(分析家の特権的・支配的な知の保有の否定・人生をどうすれば良いかの具体的な指示の無効性)』は、クライエント自身が自分の問題や真実を洞察して行動に変えていく他に解決の道筋がない(分析家・カウンセラーは問いかけと分析・共感・助言でその自己洞察をバックアップする)という心理療法全般の原則にもつながっている。
J.ラカンの言語とイメージ1:シニフィアンの言語が持つ意味の流動性(文脈依存性)
言語やイメージとは『意味の体系』であり、精神分析とは『クライエントが語る言葉の意味』を解釈しようとする学問である。一方、実社会では『言葉は表層的なもの・言葉(口)で言うだけなら何とでも言える』というような言語を軽視する見方も多い。だが、『言葉を話さなければ考えや思いが他者に伝わらない・言語が使えないと自己認識や他者との意味の共有が進まない・言語による相互理解や自己表現を放棄すれば暴力(否定)に傾きやすい』という意味で、言語活動は人間の精神と生活、関係性をある程度以上に支配していることは疑い得ない。
『フロイト(原点)への還帰』を模索したジャック・ラカンは、古代ギリシアの哲学者プラトンが唱えた『イデア説』のような『普遍的かつ固定的な意味』が言語(単語)の背景に変わりなくあるとする考え方を否定した。例えば、『夢分析』において夢にでてくる事物の意味を辞書的に定義すること(ステッキが男性器・洞窟が女性器・ダンスが性的行為の象徴というような一対一の固定的な意味の参照)、あるいは辞書的な固定された意味を多く覚えている人が『言語の意味(精神活動の意味の解釈)の権威』であるように振る舞うことはナンセンスだとした。
『可変的かつ流動的な言葉の意味』によって、人間の心理状態や言葉の解釈が左右されていることは、『同じ言葉(単語)』を用いていても、『発話者の心理状態・生活背景・帰属する集団・相手との関係性・その場のシチュエーション』によって相当に大きくその言葉の持つ意味合いやニュアンスが変化してくるということでもある。上品・知的な集団と下品・野卑な集団とでは、隠語や俗語、比喩をはじめとする『同じ言葉に対する意味の付与の仕方』が異なっていることもある。その人の精神状態や過去のトラウマによっては『何でもない言葉』が自分を強く否定したり攻撃したりするような意味を持っているものとして受け取られてしまうこともあるだろう。
分かりやすい例で言えば、やる気が出ないという人や疲れていてだるいという人に対して『もう少し頑張ってみて』というのは珍しくない声かけだが、うつ病のように精神状態が悪化して自己評価(活動力・意欲)が落ち込んでいたり脳内の情報伝達プロセスに問題が起こっている人にとっては、『頑張ってという言葉の意味』が、『今の自分では頑張りが足りなくてダメだ(これ以上頑張れないのにもっと頑張れと急かされている)』と強く批判・叱責されているように感じてしまう可能性が低くない。ラカンは『語用論・文脈性(他者との関係)』を重視した流動的な言語観を持つ。構造主義者のフェルディナン・ド・ソシュールが用いた『シニフィアン(記号表現・指示するもの)』という概念があるが、ラカンは『シニフィアン(端的には言語活動)が人間・主体を代理表象する』と考えて、『話す・書く・夢を語るといった言語活動』によってのみ、人間は主体として他者に自分自身を表現することができるとした。
『言語を介在しない自分そのもの(存在自体)』を、他者に主体的に伝達する方法はないというのは、改めて考えると恐ろしい指摘のようにも思える。特に日本文化では『他人の内面を察すること(何も話さずに外部の様子や表情、雰囲気から推測すること)』によって、『他人が言いたいこと・求めていること』がお互いに分かったような感じになるのが当たり前とされているので、言葉を話したり書いたりしなくても『自分の存在そのもの(密かに内面に抱えているもの)』でも相手に伝わるのではないかと期待しがちだからである。
だが、それは『受け手の察し方・推測の仕方次第』であって、『それまでに築いてきた相手との信頼感・関係性』にも大きく左右される。また、相手がちょうど良い具合に自分の考えていることや感じていることを察してくれて対応してくれても、それは『自分自身が主体として能動的に自己表現している(自分以外の第三者に等しく伝わるように自分というものを代理表象している)』わけではないというのは厳然たる事実である。
J.ラカンの言語とイメージ2:“言葉にしないと分からない”か“言葉にしなくても察して欲しい”か
『言葉にしなくても察して欲しい』と『言葉にしなければ分からない』は、実際にはどちらも場合によって『真』に成り得るのだが、『人間主体の自己表現の手段』としての言語がなければ、一般的には自分が何を考え感じていて誰にどうして欲しいのかといったことを代理表象することはできない。何も言葉を話さない人間が延々と黙ってそこにいても、それがよほど親しい相手(家族・恋人・親友)でもない限り、他者はその人が何を考えて感じているのか(悩んでいるのか)を親切にずっと推測して察し続けてくれるわけはないからである。更に『物言わぬ人間主体の正確な推測・洞察』などできる他人はまずいないからであり、人間は常に『自分自身=主体』を『言語』によって代理的あるいは代表的に表現する他ない構造の中を生きているのである。
シニフィアン(言語)はまるで『人間主体(私)の分身』のようにして、社会生活や対人関係の中で機能するのだが、そこには『人間主体(私)に対する印象形成・好き嫌い』の要素も関係してくる。二人以上の人間主体が向かい合って話したり聴いたりするこの構造を俯瞰すると、『自分を代理表象する言語』をお互いに相手に提示することで、『自分というもの(考え・感情・要求・悩み)』を表現して理解してもらおうとしている図式になる。だが、“人間主体(私)”と“言語活動”は完全に同一化することがないものであり、『私の話す言葉の持つ意味』が私が想定している通りに、相手(他者)に伝わるということまでは望めない。言語は飽くまで私(主体)の『代理表象』であり『私そのもの』ではないからである。
『私そのものを直接的かつ全体的に伝える方法・手段』は原理的に存在しないから、『言語的コミュニケーション+非言語的コミュニケーション(スキンシップ含め)+印象形成(好き嫌い)』によって、お互いに相手の主体がこういった存在なのだろう(こういった感情・思考・性格特性を持っているのだろう)という推測を、できるだけ正確なものにしようと努めることしかできない。『私のことを分かってくれない(もっと分かってくれたらいいのに)という悲しみ・落胆・要求』は、“私”という人間主体そのものを正確かつ全体的にストレートに伝える方法がないこと(言語活動の代理性に根ざす不完全性・不正確さ)を考えれば、ある意味では誰もが生きざるを得ない『現実』を客観視し過ぎることによって生まれいづる悩みというか『他者との構造的な距離感』のようなものである。
多くの人たちはこの『他者との構造的な距離感』を、『言語的コミュニケーションの反復+付き合いの長さ+一緒に活動すること+家族や恋人や友達といった関係性のカテゴリー化(特別な相手という定義化)』などで埋め合わせることによって意識化することがなくなっている。だが、『親しい他者との付き合いの断絶・言語的コミュニケーションの停滞(話し相手がいない状況)・孤独な環境の長期化』などの条件の変化が起こると、人間主体が逃れることのできない言語活動の不完全性に基づく『他者との構造的な距離感(相手そのものに直接アクセスすることは不可能であること・自分と他者との世界の隔絶)』が意識されやすくなる。その結果、自分と他者との距離感がどんどん遠くなっていくように感じて、『孤独感・疎外感・人と分かり合えない感覚』に落ち込んでしまいやすくなるのである。
人間主体の原理的な孤独と疎外は、ラカンの理論的枠組みでは『人間主体(S,Subject)の言語活動(シニフィアン)からの疎外』に由来している。ラカンは人間主体を意味する“S(Subject)”に打ち消しの斜め線を引いて、『人間主体が言語活動によって不完全かつ断片的なものとして分断されていること』を示した。言語活動は自己主体と他者とのコミュニケーション(共同体性・共感感情の実感)を可能にさせる恩恵をもたらすと同時に、人間主体を『不完全な代理表象(他者との分かり合えなさ・誤解の発生)』によって疎外する副作用ももたらしているのである。
ジャック・ラカンは『無意識は根源的に言語活動として構造化されている』というテーゼを語ることで、ジークムント・フロイトが無意識の形成物とした『神経症症状・夢・錯誤行為(言い間違え)・ユーモア(機知)』などの精神現象の動因を言語活動の戯れの産物として説明している。こういったラカンの言語活動に焦点を合わせた無意識の解明の仕方は、『元型(アーキタイプ)』という人類全体に共通する集合的なイメージが、非言語的な形で無意識に出現してくるとしたカール・グスタフ・ユングの『普遍的無意識(集合無意識)』のアイデアとは対極的な無意識観に根ざしているように感じられる。
ジャック・ラカンの言語中心主義的な人間観と『失錯・機知・夢・症状』に反映される無意識
ジャック・ラカンの精神分析は、ジークムント・フロイトの原点に回帰しようとするベクトルを持っている。J.ラカンは言語活動に現れてくる『無意識の形成物』として、S.フロイトが重視した『失錯行為(言い間違え)・機知(ユーモア)・夢・症状』を取り上げ、これら4つの形成物をクライエントの無意識を理解するための有力な通路と見なした。“失錯行為(言い間違え・度忘れ・聞き間違え・書き損じ)”とは、本人が自覚していない時についうっかり出てしまう言い間違えであり、その言い間違えには『無意識の欲望』が投影されているとフロイトは考えていた。
無意識の欲望にはエスの性的衝動が関係していることが多いので、失錯行為には『性的なニュアンスの含まれる言い間違え』が多くなりやすいともされるが、性的衝動だけではなく『怒り・不満・悲しみ・復讐心・浮かれた気持ち』なども失錯行為の原因となる。例えば、Aさんと呼びかける場面でBさんという違う人(どこか気になっている人)の名前を呼んでしまったり、マナーや礼儀作法が要求されるフォーマルな場面で反射的に下品・卑猥な話題(単語)を出してしまったり、相手の話している単語と類似した音を持つ別の単語を聞き間違えてしまったりするのが失錯行為である。
自分が本当に好きな人ややりたいことを、自分でも知らないうちに無意識領域に抑圧し過ぎている事によって、思いがけない失錯行為の言い間違えや聞き間違え、度忘れが生じることがある。反射的なユーモアやジョークとして思いがけず飛び出してくることのある『機知』についても、フロイトは無意識的な願望・葛藤(こだわり)が投影されやすいものだという。S.フロイトの精神分析の技法は、クライエントが思いついたことを何でも話して良いとする『自由連想法』と、クライエントが見た夢の内容を聴いて“夢の検閲”を解除しながら無意識的心理を分析していく『夢分析(夢判断)』から成り立っている。夢分析で『検閲(夢の仕事の抑圧・置き換え・圧縮・象徴)』を排除した解釈の対象となる『夢』は、精神分析では無意識への王道とも呼ばれている。
『夢』ではエスの性衝動や好きな相手との関係欲求が、闘争やダンス、スポーツなどに置き換えられたり、特徴的な動物や風景、建築物などに無意識を反映した象徴的な意味が与えられていたりするが、精神分析では『夢』と『神経症の症状』は無意識的内容を解釈するための王道的な材料になっている。精神分析の談話療法の始点となったブロイラーのO.アンナ嬢の神経症症状に限らず、ルーシーやエリザベスなど社会的・道徳的に容認されない異性への欲求が、神経症(ヒステリー)の症状に転換されたとする症例が精神分析には多く見られる。精神分析の歴史は、自分自身の内面では処理しきれない感情・欲求の『無意識への抑圧』を、症状形成のメカニズムとする『神経症症状の精神病理学』から始まったと見ることもできる。
ジャック・ラカンの精神分析の思想の独自性は、『失錯行為(言い間違え)・機知(ユーモア)・夢・症状』といった無意識の形成物を、『言葉・文字の運動』という言語の機能性で捉えていたことにある。これは精神分析の治療方略である『無意識の言語化(意識化)』にも結びついている着眼点であるが、ラカンは夢を主観的に見たり、自分自身の体験としての症状に苦しんでいたりすることそのものに意味があるのではなく、『無意識の形成物について語られること(書かれること)』に意味があるというように考えていた。
ラカンの精神分析は言語中心主義に偏ったところがあるが、言語(言葉・文字)は有限の生命(内面を持つ主体)よりも長く持続するということも重視していた。言語中心主義は、『人間(言語的動物)』と『動物(非言語的動物)』とを区別する境界線としても機能している。つまり、人間は一つの刺激に対する反応(意味づけ)が“1対1”で固定的に決定されている動物とは異なる『多義的かつ解釈的な存在(=言語的動物)』としての特徴を持っている。
ジャック・ラカンの言語主義的な人間観と自然の摂理:言葉・イメージを超えた現実(不可能性)
ジャック・ラカンの言語主義的な人間観は、『自然界の進化』を『人間社会の進化』のアレゴリー(寓喩)やアナロジー(類推)と見なす社会生物学的な世界観を否定するものである。人間の善悪の判断基準や道徳的な規範を語る時に、『自然界の摂理』や『生物学的な意味(生存・繁殖・種の保存)』を持ち出して、自然・生物の仕組みに沿っているほうが正しくて善だと語りたがる人は多い。だが、ラカンは『人間的かつ言語的な無意識の形成物がない自然』は、人間の目指すべき善・理想・正義とは本質的に関係がないものであるという。人間は言語活動による『世界の分節化・多義化・構造化』によって、自分の生存の維持や生殖で子を増やす価値だけでは、その行動を説明することができない『独自の言語的な世界観+自己の生の意味を多義的に解釈する心理』を手に入れたのである。
人間の生の意味や苦悩は、『自然界の摂理(生存・生殖・進化・自然淘汰など)』だけを元にして語り尽くしたり判断したりすることができるものではなく、言語が持つ多義性・可変性がもたらす『流動的な意味』によって、人間の心理は絶えず揺さぶられたり迷わされたりしている。自然界・動物を客観的に観察したり、自然法則・生物の仕組みを理解するために実験したりして、自らが置かれている環境を改変して情報量(物事の知識)を増加させるという『人間の知性とメタレベルの視点・人間社会の発展のあり方』そのものが、既にして『自然の摂理(自然界内部における従属的な存在・本能の発現)』からかなり外れているという見方をすることもできる。
人間がいわゆる自然の摂理や生物学的な存在価値に一義的(反射的)に従うだけの非言語的動物であったならば、日本を筆頭として現在の先進国で問題化している『自殺問題(生存の否定)・少子化問題(生殖の否定)』などは起こり得ない類の問題ということになるが、実際には人間社会から自殺や少子化、自意識(プライド)の拡張などが完全に無くなることはないだろう。ラカンは人間の精神領域を『想像界』『象徴界』『現実界』の3つの領域に分類したが、簡単に言えば想像界は心的表象が織り成すイメージの世界、象徴界は言語(記号)が構築して変化していく言語の世界であり、現実界は『想像界のイメージでも象徴界の言語でも表現することができない不可能性の世界』である。
ラカンのいう現実界・現実は、一般的な意味での他者と共有したり確認したりできる『客観的な現実』といったものではなく、『言葉で語ることもできず、イメージで表象することもできないもの・世界』のことである。個人の生にあるそれぞれの固有の現実といえば、現実界に近いところもある。個人それぞれの現実の内的・感覚的な実感というものは、『同じ言葉で指示する対象・同じイメージとされるもので共有する感覚』であっても、厳密に突き詰めていけば『他人が見て他人が感じている現実』が『自分が見て自分が感じている現実』とどれだけ一致しているのかは確認しようがないからである。
“緑色”という単純な色彩の概念一つ取っても、色覚障害でなければ赤色と緑色の区別は明確ではあるが、『自分が認識している緑色』と『他者が認識している緑色』がどのくらい内面の感覚や色の捉え方において一致しているのかは、どうやっても確認しようがない。そこに、緑色の自然豊かな感じやエコロジーのイメージ、穏やかで癒されるような色見といった『言語的な色の質感の表現・比喩・連想』まで加えられてくると、『言語レベル・常識レベルでの色彩の一致度』はあっても、『客観的・実証的な色彩の一致度を確認する方法』は殆どないということになる。ある言葉で表現される『概念の意味』は、辞書を引いて調べてみても『それとは異なるより簡単で一般的な言葉(概念)』によって説明されるしかないものであり、『意味の意味の…』という無限退行のような形で個人が用いている言葉の意味を調べていけば、最後にはそれ以上簡単な言葉では説明することができない『現実』に突き当たってしまう。
私が便宜的に言葉(概念)を用いて表現している私に固有の『現実』は、究極的には他人に誤解や思い込み、偏見のない形でストレートに伝達して理解してもらうことが不可能な『内面にある意味解釈・実感』であるから、それぞれの個人が抱えている私に固有の現実は究極的には『不可能性を持つ現実(言語でもイメージでも表現しきれないもの)』なのである。ラカンの現実界は『不可能性』というキーワードで説明されることが多いが、現実界は私たち個人がどのように工夫して努力しても足掻いてみても変えることができないある種の『不可避な運命の世界』でもある。
例えば、男・女として生まれてくるとか、白人・黒人・黄色人種として生まれてくるとか、日本人やアメリカ人として生まれてくるとか、何らかの治癒しない障害を持っているとかいった不可避な運命もまた、なぜそうなのか(それ以外のものではないのか)を言語やイメージで説明することができない実存主義の『投企』にも似た『現実(それ以外では有り得ない不可能性=運命性)』として機能している。
ジャック・ラカンの精神分析における“現実界(トラウマ)の回帰・反復”としての神経症症状
ジャック・ラカンは、フロイト的な原点回帰と言語中心主義の精神分析によって、『それ以外では有り得ない不可能性(各人に固有の運命)』として“現実”を再定義した。ラカンの現実の定義は、常識的な『現実』のあり方とは正反対のものであり、一般的には『他者と共有・確認が可能なもの=現実』と呼ぶが、ラカンは『他者と共有・確認が不可能なもの=現実』と呼んだのである。
『現実』は自分と他者が一緒になって、『今見ているもの、今話していることは確かに現実だよね?(あなたにもこれがちゃんと見えているよね?あなたにもこの言葉の意味がわかるよね?)』という形で、間主観的に確認できるものではないというのが、ラカンの理論の独自性である。現実はそれぞれの個人ごとに固有のものとしてあり、各人が体験したり表象したり意味を感じたりしているものの全てを『言語化(他者との共有化)』することはできない。言語中心主義の精神分析では、『現実の不可能性』は『内的世界の言語化(意識化)の不可能性』という精神分析の治療メカニズムにも重なってくるものである。
更に、現実(各人固有の現実)の言語化の不可能性について言えば、『言葉(シニフィアン)によって指示されるもの』を『もっとも簡単で端的な言葉以上で説明・共有すること』はできないということである。例えば、『犬・猫・赤・白の共通理解』も、『犬・猫・赤・白の言葉と概念+視覚的な情報の擬似的な共通感覚』によってお互いに分かった(それ以上相手がどのような形や表象で理解しているのかは確認しようがない)ような気持ちになって同意しているに過ぎない。他者からは完全に理解することができない現実、その現実が象徴的に出現したものが、精神分析が治療対象とした『症状(神経症症状)』なのだという。言語化できない現実としての症状の典型が『トラウマ(trauma,心的外傷)』であり、トラウマは本人でさえも十分に想起(イメージ)できず語り出せない曖昧模糊とした傷つきの痕跡、あるいは苦悩の背後にある重石として意識されている。
現実界の領域にあるトラウマそのものを、忠実かつ正確に言語化することは不可能だが、『トラウマに関連する断片的な記憶・感情・イメージ』を思い出したりつなぎ合わせたりして言語化することは可能である。しかし、そのように不完全かつ恣意的な形で語り始められるトラウマは、『原体験のトラウマそのもの』では有り得ず、必然的に『象徴化・置き換え・断片の組み合わせ・意味の再解釈(光景の再構成)』といった変形を加えられる。トラウマは言語化・意識化することによって変形することになるわけだが、S.フロイトが考案した精神分析とは、本来であれば他者が立ち入ることのできない『現実界の領域(その領域にある原体験のトラウマ)』に何とかして操作的に介入しようとする試みとして考えることができるだろう。
トラウマは改めて『言葉』にして語られることによって、本人のみが漠然と苦悩していた『現実界』から断片的あるいは結合的な形で引きずり出されて、他者にも伝えることが可能なものとして変形させられるのだが、これが対話療法(精神の煙突掃除)から始まる精神分析の治療メカニズムにもなっているのである。ラカンの神経症症状に関わる精神分析を、構造主義的な観点から見ると、『言語化できない現実界(トラウマ)』が、常に何度でも回帰して戻ってくるということになる。不可能性の現実界は、過去の強烈なショックや傷つきを『あるパターンの回帰・反復』として繰り返し戻ってくるが、本人にはそれが『現実界のトラウマ』に由来するパターンの回帰・反復(繰り返し)だということが分からないのである。
フロイトの精神分析の原点にある神経症の理解と同様に、ラカンも『無意識領域(現実界)に抑圧された内容の回帰』として神経症症状の発症と維持を説明している。トラウマ化された主体は、『原点にあるトラウマの強烈なショック・耐え難い脅威』に向き合わないで済むように、それを言語化できず想起できないものとして抑圧し続けているのだが、その抑圧されたものは様々な心的現象・精神症状に形を変えて回帰し反復することになる。抑圧を続ける限りは、精神症状や問題状況のパターンが無くなることはない。
話すと体調が悪くなるくらいに特別に苦手なタイプの人がいたり、あともう少しで勉強や仕事が終わるという段になって急にやる気がなくなったり、恋愛が順調に進んで結婚しそうになると自ら破局するような振る舞いを取ったり、特定の場所や状況において突然パニック発作や強い不安感に襲われたり、同じような種類のケアレスミスや言い間違いをいつも繰り返したりといった様々な形で、抑圧されたものは本人も気づかないうちに回帰・反復(変形や偽装を加えられた回帰)を繰り返し続けている。原体験としてのトラウマの苦悩は、『失錯行為・夢・機知・症状』によって緩和されて誤魔化されているのだが、そういった緩和は一時的なその場凌ぎの対処であり、抜本的な神経症的な症状を改善・治癒するためには『抑圧されている現実界(トラウマ)』を想起して言語化することによって、ポジティブな変形や再解釈を加えていかなければならない。
言語中心主義と神経症症状のつながりでは、『欲求』と『要求』と『欲望』の意味論的なカテゴリーの違い、神経症症状の苦痛の代償(疾病利得)として得られている『享楽(jouissance)』なども関係してくる。
人間の『欲求(need)・要求(demand)・欲望(desire)』を区別するラカンの精神分析
精神分析家ジャック・ラカンは、人間の『欲求(need)』と『要求(demand)』と『欲望(desire)』を区別することによって、永遠に完全には満足することのできない人間の精神活動の特性を明らかにした。
欲求(need)……お腹が空いたから食べたい、寒いから暖かい場所にいたい、体が疲れたから寝たいなど、生理的・感覚的な求めで、『完全に満たされる可能性があるもの』である。『他者の存在や反応』に左右されることのない自己完結的な求めである。
要求(demand)……他者に何かをしてもらいたいという求めであり、端的には『愛情・信頼・支援』などの自分の価値を再認識させてくれるような他者の肯定的かつ持続的な態度・反応を求めている。要求は、『他者が与えてくれない可能性があるもの=不可能性』である。
欲望(desire)……『他者の欲望を欲望する』という精神構造によって規定される求めで、『手が届く可能性がある対象(他者)』に対して向けられているが、手が届いた(これで満足した)と思った時点で、更に次の欲望が芽生えてくるという無限循環的な性質を併せ持つ。欲望は、『自分が手に入れられるかもしれない可能性があるもの=希望・絶望の源泉』である。
人間は本質的に他者と共有できない各人に固有の『現実界』を持たざるを得ないために“孤独”であり、自己と他者との『完全な相互理解(要求・欲望の完全な充足)』は原理的に“不可能”だと考えられている。しかし、人間は逆説的に『不可知な他者との関係性』において、孤独であり不可能な事態が多いからこそ、『他者に何かを求めて、他者に何かを与えたいと思うこと』ができるのではないかと思う。
満たされ切ることのない要求・欲望を持つ結果として、生産的・共感的な活動や複雑な人間関係、社会システム(共同体システム)の確立・維持が可能になっている面は無視できない。人間の精神はその構造や機能、志向性の上で『完全なスタンドアローン状態(孤独状態)』では満足しきれないという特性を強く持っている。だから、大多数の人間は、社会・他者に自ら関わろうとして満足したり傷ついたりせざるを得ない存在であり、傷つくことや否定されることを恐れて『社会・他者からの撤退(ひきこもり・非社会的状態)』にはまりこめば、生理的な欲求以外の要求・欲望が満たされない苦悩も同時に味あわされることになりやすい。
人間の精神活動の求めが『完全に満たされるもの』であるならば、人間は個別バラバラに『自己完結的かつ永続的な満足の世界』に入り浸ってしまってもおかしくない。だが、本当に他者・社会が不要だと感じて自分だけの内面世界に閉じこもれるとすれば、それは『人間の動物化(他者のいない世界で欲求充足・仮想現実・間接的関係のみで満たされる人間)』と呼ばれる事態に合致することになってくる。一方で、現代社会ではインターネット(ウェブコミュニケーション)の普及やサブカルチャーの増加、膨大な知識・情報の氾濫、観念的な世界認識、間接的・分人的な人間関係(状況によって複層的に使い分けられる自意識・関係性)などによって、『他者との相互関係・社会的な生産活動』を通してしか満たされないとラカンが考えていた『要求・欲望のレベル』が低くなっているという別種の社会問題が生じているようにも感じる。
ラカンの『欲望』と科学技術・市場経済・仮想現実がもたらす他者回避:“愛する事・働く事”による幸福追求
現代思想のキーワードでは、『個人の島宇宙化(他者との共有領域の縮小)・自己完結型の欲望・欲望充足のバーチャル化(仮想現実経由の欲望充足)・人を軽視する資本主義(拝金主義)』などに当てはまるような人間関係や生活様式、価値観が増大しているとも言える。それらは突き詰めれば、科学技術主義や資本主義経済、仮想現実(VR)・生命工学・ロボットの技術的可能性に裏打ちされた『人間の欲望充足のテクニカル化・バーチャル化』でもあるだろう。どこまでも要求や欲望を満たしたいとする人間の本性が、『科学技術・市場経済・インターネット・それらによる価値観の変容』の後押しを受けながら、できるだけ『思い通りにならない他者・社会』を介在させずに欲望を満たすことができるような市場や仕組み、間接的な人間関係、仮想現実を拡大させようとしているようにも見える。
完全かつ確実には満たせないはずの『要求・欲望』を、技術や環境、価値観を変容させることによって、完全かつ確実に満たそうとする『不可能性への抵抗』のようなものがそこにはある。『思い通りにならない他者・社会』を省略しようとする志向性は、『他者の人権・自由・感情(内面)を軽視したい衝動』にもつながる危うさと紙一重のものだろう。例えば、店員はお客に絶対に逆らってはならないというお客様至上主義(役割関係の絶対化)が傲慢なモンスタークレーマーを生み出し、子供(生徒)の権利が教師の注意・学校の規範よりも優越するという子供の過保護化がモンスターペアレントを生み出すというような現象にも、『思い通りにならない他者・社会』をできるだけ省略(抑圧)しようとする志向性が見て取れる。
そういった極端な事例に限らず、リアルの愚痴・不満でもネット上の暴言・非難(中傷)でも、その中心軸にあるのは、いつも『思い通りにならない他者・社会(そこには非常識・乱暴・無礼・無知無教養・社会的コストがかかる・厄介者・役立たず・不公平・ずるい・面倒臭い奴などあらゆる思い通りになっていない感覚が含まれる)』に向けられたネガティブな感情である。科学技術や市場経済は近代初期においては、主に衣食住に関わる部分の『欲求の充足』を促進し、それに続いて家電製品・コンビニ・サービス業などによって“他者にしてもらいたい作業的な部分”をお金を払ったり商品を購入したりして満たしてもらう『要求の充足』を進めてきた。
他者から自分をもっと欲望されたいという『他者の欲望の欲望』についてだけは、科学技術や市場経済も容易には手をつけられないヒューマニスティック(人間的・倫理的)で特殊な領域として残されている。その典型的な人間的活動として、大多数の人から承認されているのが『恋愛・性愛・結婚・家族・親子関係・友人関係』などであり、好きな人に愛されたり認められたり肉体関係を求められたりするために、人は膨大かつ持続的な『労力・感情・経済のコスト』を費やし続けてきた。
人は特定の他者から『あなたは他の人とは違う特別な価値や位置づけにある人間』だと認められてそのように手厚く処遇されるために、自分の不利益やリスクをほとんど顧みることなく『他者への貢献・献身・援助』をすることがある。それが端的には人間固有の『欲望(他者の欲望の欲望)』の形式であり、恋愛や結婚、家族(親子)ではそういった損得感情・自己愛・自己完結を超越した『欲望のあり方(他者に愛されるために愛する・その愛情の具体的な現れとしての貢献や役割を示す)』こそが理想的とされてきた。
だが、現代では若年層の草食化や恋愛の低迷(恋人がいない率の上昇)、社会全体の未婚化・晩婚化・少子化などの諸現象に見られるように、『他者の欲望の欲望』の典型的な現れとしての恋愛・結婚・家族などが、『それ以外の自己防衛的あるいは自己完結的なライフスタイル』よりも必ずしも優越するとは言えない事態が起こってきている。他者から自分を『特別な他者』として認められたり愛されたりするために、なりふり構わずあらゆる犠牲やコストを支払っても構わないとする価値観は最早一般的な欲望の精神作用としては機能しづらくなっているのかもしれない。
さまざまな情報・知識・経験談・実体験などから『条件つきの承認・愛情』や『関係の背後にある損得感情(保身)』が見透かされてしまい、ある種の関係性への不信や諦めに覆われてしまった人もいるのだろうか。『他者の欲望の欲望(孤独・虚しさ・不可能性を起点とする欲望)』が『科学技術・市場経済・仮想現実(ウェブ)』などによって部分的・暫時的であっても代替されやすくなっていて、他者・社会から認めてもらおうとする欲望を燃料にした『愛すること・働くこと』のエネルギーが落ちやすくなっている。
ジャック・ラカンが原点回帰を目指したS.フロイトは、人間の幸福の条件が『愛すること・働くこと』といった欲望充足の無限追求にあると語ったが、現代人は他者の欲望の欲望のために自分が費やすコストをある程度削っても、『生身の他者以外の科学技術・経済・仮想現実(刹那的・匿名的な関係性)』などによって、欲望を部分的あるいは暫時的に満たしやすい現代社会のシステムの恩恵を受けやすくなった。そのため、かつては『働くことの原動力』として強く作用していた『他者(社会)から愛されたい・認められたい欲望』が強まらない人は、社会参加や職業意識の部分で不適応に陥りやすくなる。また、『生きていくための最低限の生理的な欲求充足(他者を必要としない欲求レベル)』に留まるために、仕事上・経済上の野心が小さくなって、無理せずに働いてそこそこ暮らせる程度に稼ぐという安定志向になりやすくもなる。
生身の他者に対する『要求(自分がしてもらいたいこと)』をお互いに持たないのであれば、愛することも働くこともままならないのだが、それは『要求(自分がしてもらいたいこと)の不可能性』を知ることによって、『欲望の追求(他者に認められるための努力・献身の追求)』が起こるという、今までの常識的な精神発達・行動様式の変化のプロセスが変形させられやすい(=自己完結的・仮想現実的・技術活用的・金銭至上主義的になりやすい)ということを示唆しているのだろう。
東洋の仏教思想でいうところの『煩悩熾盛(ぼんのうしじょう)・五蘊盛苦(ごうんじょうく)』や『求不得苦(ぐふとくく)・愛別離苦(あいべつりく)』の精神分析的な理論化として『欲求・要求・欲望』について考えても面白い。人間の欲望は『他者の欲望の欲望』である限りはどこまで満たしても、それで完全に満たされ切るということが原理的に有り得ない欲深いものだが、現代では『生身の他者から欲望されるという形式以外の仮想的・技術的な欲望充足』がさまざまな形で追求されることが有り得るという意味で、近代という時代(人間の欲望のあり方)の転換期・歪曲期であるのかもしれない。
ラカンは人間は自分の欲望に忠実に行動できず、愛の要求や無意識の欲望といった『自分の本当の欲望』を正直に話すことは難しいとして、そういった欲望の抑圧が神経症的な症状に転換されるとした。神経症症状を経由する“享楽”(刹那的・性的・代理的な快楽)は『自分で自分に与える代償物(本当の欲望が満たされないから代わりに差し出されているもの)』であるとも言う。そして、『生身の思い通りにならない他者』をできるだけ回避したり技術的・経済的に置き換えたり抑圧したり(職業上の役割・地位に従わせたり)しようとする現代の技術社会のトレンドが、『無理のある代償物』なのか『時代・人間精神の変容』なのかは、中長期の歴史のジャッジメントを見なければ分からないのかもしれない。
『対象の欠如(自分にないもの)』を他者が埋めてくれる幻想と愛情の欲求1:ラカンの精神分析
精神分析では、クライエントが精神分析家に向ける特別な愛情・好意や憎悪・敵対心を『転移(transference)』と呼び、反対に精神分析家がクライエントの転移に影響されて向ける愛情(親近感)や憎悪(抵抗感)を『逆転移(counter-transference)』と呼んでいる。愛情(性的関心)や好意(愛着)のようなポジティブな感情を『陽性感情転移』、憎悪(嫌悪)や敵対心(反発心)のようなネガティブな感情を『陰性感情転移』といったりもするが、転移の防衛機制の本質は『本来その強い感情を向けるべき対象ではない、別の対象に向け変えていること』である。
転移とは『過去に親に向けていた強烈な感情(愛情・好意・憎悪・嫌悪など)』を、児童機・思春期・青年期以降になってから『現在の重要な人間関係(現在の自分にとって大切な他者)』に向け変えることである。転移は『本来の愛情・憎悪の対象』から『別の誰か』にその強い感情を投射するというタイプの防衛機制であるが、親への愛情(憎悪)を誰かに『転移』(投射)した後には、その愛情(憎悪)が新たな相手に向けられるべきものとして『翻訳』されることもある。別の他者(現在の自分にとって大切な他者)へと転移されて翻訳までされた愛情や憎悪は、その元々の起源である『親に対する愛情(憎悪)』とは完全に切り離された『新たな感情』として体験されることになるだろう。
ジャック・ラカンは『愛の起源』には必ずこの『転移』があると考え、愛がある時には必ず『本来の愛情を向けるべき対象』とは異なる『別の対象』があり、『間違った同一化(過去の親に向けられていた愛情の転移)』があると考えた。愛情は神が持つような“アガペー(無償の博愛)”でない限りは、『他者への要求(need)』を併せ持つものであるが、この他者への要求というのはラカンの理論の中では『他者から与えてもらえないもの(あるいは原理的に存在し得ないもの)』である。
J.ラカンは人間の愛情関係の原型(プロトタイプ)として、マーガレット・マーラーや対象関係論の精神分析家と同じように『発達早期の母子関係(幻想的な母子一体感を感じられる母子関係)』を想定していた。そして、発達早期の母子関係を経験している無力な乳幼児は、『力のある母親』と『力のない自分(乳幼児)』との一体感のある関係性を維持してくれている特別な対象の存在を『虚構の幻想』の中で信じているのだという。乳児期以降に人間が経験したり欲望したりすることになるすべての愛情関係は、発達早期の母子関係の実体験や幻想(理想化されたイメージ)のバリエーションであるというのは、精神分析の基本的な考え方である。J.ラカンはこの前提を踏まえて、精神分析の“対象(object)”を『人間に欠如しているもの・ある対象が欠如した状態』として捉え直した。
ジャック・ラカンの精神分析における対象は、メラニー・クラインらの対象関係論と同じくペンや車だとかカバンだとかの『物理的対象』ではなく、主体の欲望にとっての特別な意味や重要性を持つ『内的対象』である。主体(私)がその欲望を向ける対象の数は無数にあるが、それらの主体にとって重要な意味を持つ対象をいくら手に入れても集めても、『完全な不満のない主体』というものは出来上がらない。なぜなら、主体あるいは主体性とは『対象の欠如・不在の対象』から作り上げられているものであって、自分にとって特別な意味や重要性を持つその対象が不在であり欠けているからこそ、『対象への欲望』を掻き立てられて、自分にとって意味があると信じることができる生存(人生)を続けていくことが出来るからである。
誰もが知っているように、人間の欲望には終わりがない。終わりがない欲望は常に『自分には大事な何かが欠けているという感覚(発達早期の母子関係を支えてくれていたはずの特別な対象が不在であるという感覚)』から生み出されている。これは分かりやすい主体の認知としては、『自分に欠けている大切なその不在の対象を、他の誰かがきっと持っているはず(他の誰かなら自分に与えてくれるはず)』という確信によって支えられている。
『対象の欠如(自分にないもの)』を他者が埋めてくれる幻想と不完全な私の欲望2:ラカンの精神分析
人間は常に『対象の不在』を不安に思ったり恋焦がれたりしているのだが、上記した『自分に欠けている大切なその不在の対象を、他の誰かがきっと持っているはず(他の誰かなら自分に与えてくれるはず)』という確信が、『他者への欲望』や『他者の欲望の欲望』を生み出す構造主義的な仕組みになっているのである。一般的な愛情関係(恋愛関係)では、『あなたに会いたいという思い』や『あなたに会えなくて寂しかったという思い』が語られるが、これは『自分にとっての対象の欠如』と『相手(恋人)にとっての対象の欠如』が相互に共鳴して共感し合っていることを意味する。
この人間にとって可能な共鳴・共感を得ることによって、大多数の人はこの上ない幸せや充実の一時を体験することができるだろう。これらの他者との共鳴・共感によって、『対象の欠如・不在の対象』が埋められるわけではないのだが、相手にとって自分が重要な対象として認知されたり失われたりしているという認識は、『自分の欲望・幻想』が『他者の欲望・幻想』に相互的に関係していることの証明にはなっているわけである。主体にとって重要な意味のある『失われた対象(不在の対象)』を持っているように見える“あなた(他者)”の欲望や幻想に自分が関係していることによって、私は『完全な主体・全体的な主体』になれるかもしれないという予感や期待が、人間の欲望(他者の欲望の欲望)を支え続けている。
実際には、自己と他者は同一化することはないので、『失われた対象(重要な何か)』は決して満たされず、自分自身も『欠如のない完全な主体』になどなれるはずはないのだが、『他者を欲望して失望するという循環構造』が人間の欲望と生存(生殖)をぐるぐると終わりなく駆動し続けているからこそ、人間や人間が織り成す社会も基本的に終わらないのである。自己(主体)と他者は究極的には別々の存在であり、相互の内面・体験を『同一化』することはできないという現実は、自己(主体)と他者とのコミュニケーションが『他者のイメージ(イマージュ)』や『他者の語る(書く)シニフィアン』を介在しなければならないことを意味している。
私たちは『全体的かつ直接的な他者そのもの』とアクセスしてコミュニケーションすることができない、最も密接に接近して関係して交わろうとしても、精々が性行為で擬似的な一体感を感じるくらいが限界である。だから基本的には、『他者のイメージ(イマージュ)』や『他者の語る(書く)シニフィアン』を介してしか、他者とのコミュニケーションを進めることができない仕組みの中に私たちは置かれていると考えられるのである。どんなに愛情や好意、親近感を抱いている他者であっても、性行為をしたり婚姻関係を結んだり、法律上の親子関係があっても、自己(主体)と他者の間に横たわる言語活動(シニフィアン)とも関係した『決定的な差異』は消すことができないし、この差異があるからこそ前述したように人間の生存(生殖)と欲望は終わりなく循環を続けることができるのである。
人間は言語活動によって分節されているが、自己(主体)と他者もまた語られたり書かれたりする『シニフィアン』の相互的な関係性の中に回収される。自己(主体)と他者との関係性を規定する『同一化』や『差異化』も、相互のイメージ(イマージュ)やシニフィアン(言語活動)といった対象関係を経由して生み出され続けていると考えることができる。ジャック・ラカンはそれら欲望の原因となるものについて、“対象a”という概念を与えたが、対象aとは自己(主体)が知覚できる『他者の要求・欲望・その兆候』であり、自己(主体)と他者は『声の調子・まなざし・態度・感情表現』などによってお互いに相手の欲望に気づいたり、自分の欲望に気づかせようとしたりしているのである。
それが意識的であれ無意識的であれ、欲望の原因となる“対象a”と無関係に人生を生きられる自己(主体)はこの世界に存在しないということになる。人間の欲望、すなわち『人間関係にまつわる悩み(アルフレッド・アドラーが全ての人間関係の悩みと呼んだもの)』に終わりがないのは、“対象a”が常に自己(主体)と他者の周りを取り巻いているからであり、他者と相互作用する『社会』で生きている限りは、対象aをまったく知覚せずに生きることが不可能だからである。
元記事の執筆日:2015/02
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