大屋洋子『いま20代女性はなぜ40代男性に惹かれるのか』の書評:男女の世代論と仕事・恋愛・結婚の壁,人はなぜ自分を傷つける“気質・性格が好ましくない人”と関わりを持ってしまうのか?:人間不信と優劣感情

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人はなぜ自分を傷つける“気質・性格が好ましくない人”と関わりを持ってしまうのか?:人間不信と優劣感情


甘えられる“子供らしい子供時代”を過ごせる事の精神発達上の価値:甘えの否定と虐待


甘えられなかった人たちの表層的な自立心・愛情飢餓:他人を甘えさせられる人への成長


“大人の甘え”の間接的な伝え方の問題:“優越感・虚栄心”によって上手くいかない人間関係


“他人から好かれたい欲求”と“他人を羨ましがらせたい欲求”の混同:一人の時間を楽しめる心理


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大屋洋子『いま20代女性はなぜ40代男性に惹かれるのか』の書評:男女の世代論と仕事・恋愛・結婚の壁

恋愛関係も婚姻関係も統計的には、年齢差が5歳以内の『同世代の異性』と結ばれることの方が多いが、20代の若い女性が一回り以上年上の40代男性と交際するケースが、社内恋愛・不倫関係などで見られることがある。話題・流行の相性や価値観の近さという面では同世代かやや上の世代くらいのほうが合いそうだが、『世代間の経済力の格差・恋愛や性への積極性の違い・結婚とセックスとの一致度・結婚を考えなくても良い気楽さ』などによって、バブル世代に入社した世代で、経済力や影響力で“女性に対する包容力・もてなし・お得感”を演出することが当然と思える40代男性(肉食系タイプ)に惹かれる若い女性もいるという話である。

20代女性のどのくらいの割合が40代男性を好むのかの統計的根拠は無いし、一般的には20代の若い女性は同世代の男性かやや年上くらい(上限10歳以内程度)の男性を好むものなので、飽くまで恋愛・交際から得られるメリットを勘案して年上の40代男性を好む人も中にはいるといった感じになるとは思うが。この本の出版年は2009年でそれから6年が経過しているが、今の20代女性は結婚願望が強くて男女の性別役割分担(男性の扶養義務や女性の専業主婦願望など含め)に肯定的など、好きな男性に生活・人生をできれば守って欲しいといったベクトルでの保守化が進んでいるといった報道もしばしば為されている。

裏返せば、そういった保守的な結婚生活観に応えられるほどの雇用条件や所得水準を持つ同世代男性の数が圧倒的に少ないので、情熱的な恋愛の勢いで結婚できる人を除いては結婚相手を選ぶマッチングが上手くいかずに、『未婚化晩婚化・少子化』が進んでいるといったシニカルな見方もできるのだろう。若い世代ほど男女平等の価値観が浸透していて、更に雇用形態・所得水準の格差が開いているので、大多数の20代男性は『恋愛関係で女性をもてなすための経済的コスト』を現実的に負担することが難しくなっており、基本的に若い人同士の恋愛ほど『容姿・性格・コミュニケーションの相性』の重要度が高まっている。

10代後半~20代前半くらいの本当に若い世代の恋愛であれば、女性が相手の職業や経済力、将来性(安定した結婚生活や育児環境の整備ができそうな相手かどうか)を気にして付き合うか否かを判断するケースはかなり少なく、基本的には『容姿やスタイルの好き嫌い・性格や会話や遊びの相性』によって相手を選んでいるだろう。20~30代以下の世代だと大半の人がそこまでの経済力はないし、30代は就職氷河期の影響で不安定雇用に陥っている人が多かったり、20代はそもそもの給与水準が低かったり超高齢社会・増税負担の到来予測でネガティブな認識が強かったりもする。

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そのためこの世代では特に、『経済力(雇用・所得・貯蓄)以外の容姿・性格・スタイル・雰囲気・会話などの魅力』によって異性の選択が行われやすくなり、自分の外見やトーク、経済状況に自信がない男性だと『ただしイケメンに限る』のような愚痴や女性不信につながりやすくもなる。また若い世代ほど、経済的なメリットや能力をちらつかせながら女性をもてなしたり気に入られたりしても、自分自身が本当に愛されているわけではなくただ職業・金銭・能力が好かれているだけで虚しいという見方が強く、『経済的能力と恋愛関係の切り離し(純粋で誠実な愛情の希求)』が見られやすい。

本書で20代女性を積極的に口説くような40代のおじさん世代の肉食系の人は、『経済的能力も自分の魅力・売りの一つという認識』が強いために(昔の男女関係においては男性の甲斐性としての経済力は当たり前に魅力的なものとされていたために)、若い女性に美味しい食事をおごったり珍しい場所に連れて行ったり、困っていることの解決のために出費したり高級品をプレゼントしたりすることに対しても『自分がカネ目当てで利用されているだけという卑屈な自己評価』とは無縁であるという点も大きな違いだろう。ネットスラングでは、お金のためだけの結婚相手になることを『ATM男』と卑屈な自己定義で呼んでいたりもするが、40代以上の世代では妻(配偶者)や家族のための必要経費を支払うことが『結婚の自明な前提(扶養義務の責任)』のように認識されていることも多く、稼ぎが良いから結婚したと言われてもATM云々のような自己蔑視の認識には至りにくいし、経済的に余裕があれば自分の出費で女性や誰かが喜んでくれればそれが嬉しいという人(自分が遊びたくて、話をしたくて誘ったのだから来てくれただけで嬉しいという人)も少なからずいる。

40代以上の世代のほうが『性的関係と結婚の責任の一致度』は高かったはずなのだが、若い世代は『セックスをしても結婚するわけではないというリベラルな自由恋愛の価値観』を持つ一方で、『職業・お金・気前の良さといった女性のメリットになる能力面で評価されること=不純で利己的な動機づけ』というネガティブな見方をしやすくなっている。この傾向は、日本の経済状況や雇用待遇の悪化とも密接な関係があるだろうが、若い世代ほど自分自身の生活や将来設計もおぼつかないような所得水準の中で、結婚するかどうかも分からない女性に対して、一時的な娯楽・遊び・贈り物に供するお金を使うような付き合いはできるだけしたくないという吝嗇というか自己防衛的な思いが強くなっているのかもしれない。

20代の男女には、男女平等思想やジェンダーフリー、(結婚と結びつくか分からない)自由恋愛、共働きの相互扶助の結婚といった価値観が浸透している一方、男女がお互いを求め合う恋愛関係では『完全な男女平等の役割分担』が原理的に難しいという矛盾にも晒されている。男女平等であるべきだから、女性との交際で男性だけが金銭を一方的に多く使わせられるのは理不尽だ、すべてにおいて割り勘にすべきと考えるような若者の男性もいる。しかし、大半の若い男性は女性よりも付き合いたい欲求や性欲が強いにも関わらず、外見的魅力は女性よりも劣っている傾向があるため(若い女性のほうが男性よりも多くの人に求められたり言い寄られたりするため)、完全にフラット(対等)な負担の付き合いというのは成り立ちにくいという生物学的性差(男女の性的存在としての差異)とも関わる現実がある。

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『第二章 オトコの壁とオンナの壁』では、20代女性が職業キャリア(仕事をどこまで続けるか・フルタイムかパートか)と結婚・出産、若さ・明るさの限界(ちやほやされにくくなる30代の接近)を巡って葛藤する壁に直面することが示される。特に『結婚につながりそうにない恋愛(彼氏を嫌いになったわけではないがこの彼氏とでは結婚・育児ができそうにないか相手にその意思や覚悟がない付き合い)』をどうするかという決断を迫られ、生涯にわたって連れ添って助けてくれるようなパートナーが見つからないのではないか(かといって今の仕事で人生を最後まで乗り切れるのか、ずっと何十年も雇用してもらえるのか転職先を確保できるのか)という『おひとりさまの不安』にも襲われやすくなる。

それに対して、それなりに経済的・外見的・性格的に魅力のある40代独身男性が直面する壁は、今まで頑張って勤めてきたこの会社・仕事に本当に一生を捧げるべきなのか、転職をするなら最後のチャンスなのではないか、独身の気楽さや恋愛の楽しみを謳歌してきたが自分も結婚しなければ最後は孤独になるのではないかといった『今までの自分の職業人生・男女関係を振り返って新たな選択をすべきではないのかという葛藤』である。それまで頑固に独身主義の気楽さや自由人の享楽を貫いてきた男性でも、40代というまもなく中年期の終わりに差し掛かる自分の年齢や年齢相応の体力気力の衰えも自覚せざるを得なくなり、人生や関係性を固めようとする結婚に意識が向きやすくなる。

こういった20代女性と40代男性が直面しやすい『人生の大きな転換期にそびえる壁』が、“結婚しやすい相手の可能性”として認識された時に20代女性と40代男性のカップリングが起こりやすくなるというわけである。一方で、よほど外見や話術に秀でた魅力溢れる中年男性でもなければ、婚活における条件面のマッチングに近いような結びつきの側面もあるだろうし、『20~30代男性の恋愛・結婚面でのバイタリティの低下』の反動によって、エネルギッシュな型の40代男性(20代女性から見たかなり年上の男性)が目立ちやすくなるのもあるだろう。45ページに示されている『図表1 恋愛観の世代間ギャップ』を見れば、本書『いま20代女性はなぜ40代男性に惹かれるのか』で書かれている内容の殆どの論点と要素を把握できるといっても過言ではない。

『義務としての結婚の認識の低下』と『セックスと結婚の一致度の低下(恋愛と結婚の一致度の低下)』によって、20代の若い世代ほど恋愛をしてもその恋愛が必ずしも結婚に結びつくものではなくなっているので、『恋愛の即時的なメリット(満足や快楽)』を求める人ほど経済力や気持ちに余裕のある40代男性を求めやすくなる傾向があるのだろうか。第三章以降は『受け入れられたい20代女性』『安らぎたい40代男性』『いつまでも女でいたい40代女性』『傷つきやすい20代男性』『恋愛市場にいない30代男性』といった各世代の男女のメンタリティや恋愛・結婚の見方や欲求の持ち方を『類型的な世代論』としてまとめている。

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就職氷河期におけるキャリア形成不全や非正規雇用率の高さなどの問題を抱える30代男性の扱いは、“ロストジェネレーション”の文脈で語られていてかなりネガティブなのだが……過重労働のストレス解消のために若い女性に不倫も含めた癒しを求めざるを得ないという40代男性肉食系の扱いもまた、過労死も少なくない日本の労働社会の暗部の照り返しのようにも思える。

人はなぜ自分を傷つける“気質・性格が好ましくない人”と関わりを持ってしまうのか?:人間不信と優劣感情

他人からどうしても認められたい“愛情飢餓”が強かったり、他人の率直な好意・言葉を信じられない“人間不信+劣等コンプレックス”に陥っていたりすると、『不健全な人間関係』に取り込まれやすいという話を前回の記事ではした。相手に上手く取り入ろうとしてご機嫌取りや一方的な奉仕で阿ったり、相手の言葉や態度の裏を読みすぎて共感的なコミュニケーションができなかったり、上下関係や立場の優劣にこだわって相手との対立意識(相手の価値観・能力・趣味などを認めない意識)が言動の節々に現れたりするためである。

他人に見捨てられる不安や相手から自分の存在を認めてもらえない不安というのは、『幼少期の親子関係の歪み(虐待やネグレクト・親の夫婦不和)』に起源があることも多いが、そういった不安感によってひたすら相手の機嫌を取ったり尽くしたりすれば、逆に『双方向的なコミュニケーションや共感的な感情交流を好むまっとうな人』が遠ざかってしまうリスクが高まる。自分が卑屈になって相手の機嫌を取れば取るほど、『ご機嫌取りされることを好むような、自分を利用しようとする性格の良くない人たち』が集まってくる。自分だけが一方的に相手に尽くしたり返ってこないお金を貸したりすればするほど、『どれだけ尽くしてもらってもどんなにお金を借りて返さなくても、心理的な負担や罪悪感を感じないような厚かましい人たち』が寄ってきやすくなる。

あるいは、あまりに過剰に機嫌を取ってあげたり一方的に尽くし続けたり、簡単にお金を貸し与えたりすることによって、『頼めば何でもしてくれる都合の良い相手』として位置づけられやすくなり、『常識的な要求水準』を超えた厚かましいお願いや批判(人間性の否定・人生のダメだし)を浴びせてくる人になりやすくなる。普段は、自分が下手に出たり卑屈な態度を取ったりしている反動として、『自分よりも劣位にいるように見える相手・自分よりも弱気で従属的に見える相手』に対しては、逆に威圧的・支配的な意地悪な態度や攻撃的な言葉を向けてしまうこともある。

人間不信や自己嫌悪が高まることの弊害として、基本的に『フラット(平等)で率直な人間関係の存在』というものを信じられなくなり、みんなが自分に対して優劣の区別を感じていて競争し合っているような偏った人間関係のイメージに余りに囚われ過ぎてしまうのである。相手も自分より優位に立って貶めようとしているのだから、自分のほうも『争えば勝てそうな与しやすい相手』であれば少し示威的で支配的な態度で臨んでも良いと感じてしまい、競争意識や優劣感情のない『自然な感情交流・時間の共有を楽しむような人間関係』から遠ざかってしまう弊害がでる。

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これは、シニカル(皮肉)な逆説である。自分の感情や主張に正直になれない人ほど、相手の機嫌や評価を気にしすぎて必要以上に配慮・サービスをする人ほど、『本心では望んでいない型の不健全な人間関係』にはまりこみやすくなってしまうということを意味しているからである。人間不信の強い人や優劣感情にこだわる人は、正直に自分の人間性を表現したり感情・考えを伝えたりしたら、自分はまず受け容れられないだろうし、下手をすれば批判・非難・中傷といった厳しい反応を招きかねないという認知(人間関係の捉え方のフレームワーク)からなかなか自由になれない。

この人間不信や優劣感情の競争意識を支えている『人間関係の認知的フレームワーク(ネガティブな認知の枠組み)』は、大多数の人間は本心では他人を嫌っていて他人の不幸や苦痛、劣等感を喜ぶところがある(人の不幸は蜜の味)というネガティブな価値観で構成されている。人間不信や優劣感情を生み出すこれらの認知的フレームワークは、ネガティブな価値観や性悪説的な人間観に見合わない『心の温かい人や笑顔の多い人・他人のことを共感的に考えられる人(=本来であれば自分が幸福や充実を味わうために付き合うべき価値のある人間性に優れた他者)』を自ら寄せ付けなくする障壁のように作用してしまう恐れがあるのである。

自分自身が本当に望んでいる『他者からの愛情や共感・フラットな立場でやり取りする自然な楽しい会話』をストレートに求めることができない認知の歪みや過去のトラウマの影響がある時、人間は『他者への依存・おもねり』や『他者との対決・優劣感情の競争』などを通して防衛的に遠回りをしながら『他者からの関心』を求めやすくなる。これが『自己欺瞞=人間関係の選択の過ち』を生んで、悪い意味での『類は友を呼ぶ』といった事態を引き起こしやすい。ネガティブなマインドを持つ者同士の引き寄せ合いや意地悪・優劣競争・悪感情の相互作用(悪循環)が起こりやすくなってしまうわけである。

しかし、『自分自身の本当の感情や動機づけ』を見つめ直して、『依存・執着・優越欲求・過剰防衛』に流されずに、自分のストレートな感情や要求、考えを伝えられる相手・環境を見定めていくことによって対人状況は改善する可能性がある。愛情飢餓や人間不信、劣等コンプレックスがもたらす悪影響の一つは、『付き合うべき価値のある心の温かい人と付き合うべきではない心の冷たい人との区別』が上手くつかなくなったり、あるいは敢えて自分の心の傷つきや人間不信を深めるような好ましくない相手のほうを選んでしまうということだろう。

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甘えられる“子供らしい子供時代”を過ごせる事の精神発達上の価値:甘えの否定と虐待

大人になってからも根強く残る“幼稚さ・未熟さ・依存性”は、子供時代に満たされなかった“甘えの欲求(愛されている実感)”“保護の欲求(受け容れられている実感)”と相関していることが多い。子供時代に十分に親(大人)に甘えたり守られたりした人は、『自己存在の受容感+自然な自己肯定感』『分離不安の克服+独りでも楽しめる能力』を獲得しやすくなる。親が小さな子供に対して無条件の愛情を注いで、危険や不安から守ってあげる意思を示すことによって、子供は『自分がここにいてもいいという存在の受容感』と『自分には愛される価値があるという自己肯定感』を感じることができる。

エリク・H・エリクソンが『社会的精神発達理論』で定義した、他者に対する“基本的信頼感”や自分のことを自分でしようとする“自律性”を確立するという『乳幼児期の発達課題』も達成しやすくなる。乳幼児期や児童期に『甘えの欲求(愛されている実感)』が満たされないということは、年齢的にも感情的・能力的にもまだ甘えたり拗ねたり求めたりすることが当たり前な未熟な子供時代に、『子供としての扱い』をして貰えなかったということである。親子間の『虐待の連鎖』という問題はよく指摘されるが、この問題にも『子供時代に甘えることが許されなかった親の価値観の歪み(広義のアダルトチルドレンの成育歴)』が深く関係している。

虐待をする親の多くは、自分自身が甘えたり守られたり拗ねたり(いじけたり)する子供時代を送ることができなかったために、自分の子供に対しても『当たり前の子供扱いをする必要性』が分からないことが多い。『子供の年齢に応じた能力・感情・弱さ』などに対する想像力や共感性を働かせることができずに、小さな子供であっても言ったことはきちんと守らなければならないとか、痛い思い(苦しい思い)をさせることが躾につながるとかいった『大人と同じような扱い』『過度の懲罰(心身をひどく傷つける罰)による行動支配』をしてしまうのである。まだ言葉もまともに理解できない3歳未満の幼児に対して、『言葉で注意しても分からないから躾のために殴ったり蹴ったりした』とか『何度言っても約束を守らないから食事を抜いて飢えさせた(押入れに閉じ込めたり真冬に部屋から叩き出した)』とかいった理由にならない理由を語って、虐待を正当化しようとするのは一つのパターン化された認知(自分が育てられた境遇が反映された子供の育て方についての歪んだ考え方)である。

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自分が甘えられなかった人は、自分の子供であっても甘えさせてあげることができず、厳密に言えば『自分と子供(他者)との甘えの張り合い』をしてしまう精神発達上の未熟さを強く残していることが多いのである。少し前に、3歳男児をうさぎ飼育用の狭いケージに閉じ込めてまともに食事も与えず虐待死させた夫婦がニュースで取り上げられていたが、この夫婦もまた『小さな子供を小さな子供として扱いながら育てるという方法・常識(言葉での注意・指導はしても心身を傷つけるようなひどい罰を与えてはならず、子供らしい甘えや欲求にも配慮をして上げなければならない)』を知らず、自分たち大人と3歳の子供の理解力(自己制御)を無理やりに対等なものと見なしていたように思える。

言う事を聞かないのが当たり前、お腹が空いたら目の前にあれば何でも食べてしまうのが当たり前の3歳児に対して、『勝手に食べ物を食べたから罰を与えたという理由』は通用するものではないが、児童虐待をする親の多くが『子供の年齢に相応しい甘え・わがまま・要求』を暴力を用いてでも無理やりに押さえつけるべき悪事のように捉えている。その場での適度な注意・指導の範囲を越えて、子供に恐怖や飢え、痛みを与えることで子供の親に対する自然な甘えを“悪”として断罪し、『親の思い通りになる子供(大人と同レベルの理解力をもって一回言われたら必ず守る子供)』でなければ、その存在を許さずに厳しく痛めつけて罰するという態度(子供の精神発達プロセスにおいて深刻な自己否定や将来悲観、人間不信を植え付けてしまうような養育態度)を取り続けているのである。

子供が甘えてくることを『子供らしい可愛らしさ・当たり前の親への情緒的欲求の現れ』として受け止めてあげることができずに、自分の子供時代と重ね合わせるような投影同一視の防衛機制が働いて、『自分は一切甘えられなかったのにこの子だけが甘えられる子供時代を過ごすのはずるい(→甘えられる環境を無くして厳しく大人と同じように罰して接することが子供の将来のためになるという合理化)』と思ってしまう。

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甘えられなかった人たちの表層的な自立心・愛情飢餓:他人を甘えさせられる人への成長

発達早期において“甘え”を抑圧されて“愛情”を剥奪されるという体験は、強烈な『愛情飢餓(優しさ・思いやり・甘やかしへの飢え)』を生み出す原因となる。しかし、そのことを直接的に認めてしまうことは、自分の過去の親子関係(家庭環境)や今までの人生の価値観そのものを全否定することにつながるので、『愛情飢餓があること(甘えたり受け容れられたりしたいこと)』は無意識の領域に抑圧されて本人にも気づかれない事が多い。この愛情飢餓は実年齢とは関係なく残り続けることが多く、中年期のおじさんやおばさんになってもあるいは高齢者になっても、『愛情飢餓・甘えの欲求の抑圧』によって人間関係を通した真の満足や安心を得られなかったりする。

子供時代に甘えやわがままが全く許されなかったという人は、表面的には『人よりも早い自立(人よりも強い自立心)』を見せることが多く、仕事や結婚などの社会適応もそれなりにこなしていくこともある。その一方で、『他人の甘え・弱さを許さない過度の厳しさや冷たさ』といったパーソナリティーの特性が出ることによって、他者との人間関係がぎくしゃくしやすくなったり居心地が悪くなったりする。本音・本心の部分で『他者に対する不満(自分の存在が十分に受容・理解されていないという満たされない思い)』を抱え続けているわけだが、その心理メカニズムには『自分を受け容れて欲しいという甘えの欲求』『他者を受け容れることができないという嫉妬(張り合い)の感情』の抑圧や葛藤が関係している。

自分が子供時代に十分な愛情を受け取ることができたり、甘えの欲求を素直に表現して受け容れて貰ったりした人は、『他者に対する基本的信頼感』を得ることができて、『他者の甘え・愛情の欲求』に対しても理解や共感の範囲が広がるので、一緒にいて居心地の良い人(自分の存在を心地良く受け容れて機嫌よく接してくれそうな人)というように感じられやすくなる。こういった人は、心理的成長のベクトルが『甘えていた子供』から『甘えさせることのできる大人(他者を見守りながら育てようとする大人の態度)』へと向かって伸びていきやすい。

反対に、子供時代に子供として受け入れられる経験や子供らしく甘えられる親子関係を持てなかった人(子供なのに大人扱いされて威圧されて罰せられたり役割・責任を求められたりした人)は、心理的成長のベクトルが『甘えられなかった子供』『甘えさせることのできない大人(年下や子供であっても自分と相手との損得・幸不幸を無意識的に比較して常に処罰的・不機嫌な態度を取る大人)』との間を行ったり来たりして停滞(固着)したり、退行的な心理状態に陥りやすくなる。甘えの欲求が残存している大人は、表面的には『甘えるな(甘やかすな)・自立しろ・自己責任だ・世の中では誰も助けてくれない』という言葉を好んで用いるが、それは本心から出ているというよりも、自分が誰にも甘えることができずにすべてを自分のせいにされてきた事に対する反動形成(みんなが甘えられなければ自分も相手も平等になることができるの発想)といった側面がある。

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自分が発達早期から『仮りそめの自立心(子供時代から逆に親の要求・わがままを受け容れる子供らしくない役割)』を強制されたことに対して本心から納得できていないということもあって、甘えの欲求が『他者への要求・不満・否定の多さ』に変換されて表現されることが多い。大人になってからの甘えの欲求は、『自分がこうしたら相手はこう反応することが当たり前である』という考え方に変換されることもあるが、近年、社会問題としてクローズアップされている『モンスタークレーマーの無理難題な要求』『少しでも思い通りの反応(対応)をしなかった店員に対する土下座の強制』といったものも、大人の甘えの心理と密接に関係しているだろう。

大人の甘えの欲求というものは、必ずしも子供のように可愛らしい仕草や弱々しい態度をしながら『自分にはできないから~してよ』と相手の善意や優しさを期待してお願いするような形で現れるとは限らないのである。むしろ、大人の甘えの欲求は、“わずかな間違いも許さない厳格で批判的なパーソナリティー”“少しでも気に障ることをしたら激怒する不機嫌なパーソナリティー”といったおよそ甘えとは正反対に見える外観を通して表現されることのほうが多いとも言える。これらのパーソナリティー特性は、社会一般の価値観や立場上の上下関係などをもっともらしく利用しながら、『自分がこういう態度を取った時には、周囲はこう反応することが当たり前』という考え方を間接的に強制しているわけだが、これは形を変えた『甘え(優しさ・配慮の要求)』として解釈することができる。

自分の思い通りにならない時に怒る、暴れるというのが典型的な分かりやすい『甘え』であるが、さすがに大人になると同じ甘える場合でも直接的に『思い通りにならないから怒る・暴れる』という表現をするわけには行かない。だから、『社会一般の価値観・立場上の上下関係(お店とお客)・形式上の礼儀やマナー』などを引き合いに出して、わずかでも相手に落ち度やミスがあればそれを理由にして『お前が悪いから不機嫌になっている・文句や非難を言う(それを察して自分の思い通りにお前は動くべきだ)』という形で甘えの欲求を間接的に訴えてくる。

“大人の甘え”の間接的な伝え方の問題:“優越感・虚栄心”によって上手くいかない人間関係

みんなに優しくしてもらいたい、褒めてもらいたい、チヤホヤしてもらいたい、もっと自分の価値(存在)を認めて欲しいなど『直接的な甘えの欲求』は非常に分かりやすいものだが、大人になればそういった直接的な甘えを誰彼構わず表現すれば、あまりに幼稚で未熟な人間(要求の多い面倒な人間)だと思われ、逆に他者からの愛情や尊敬、支援は得られにくくなってしまう。 しかし、誰しもが大人になっても、こういった他者に愛されたい認められたい大切にされたいという『甘えの欲求』を多かれ少なかれ持っているものである。その欲求を伝える相手の範囲やその欲求のレベルの高低は人それぞれ違っているが、『甘えても良い相手・場面・状況』を適切に判断できなくなっている人が、周囲に迷惑を掛けたり不快感を与えたりしながら『大人の甘え』を間接的に表現してしまうことになる。

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大人の甘えの間接的な表現というのは、上記したように直接的にああして欲しいこうして欲しいというのではなく、『あなたは社会常識(立場・役割・義務・マナーなど)に照らし合わせれば間違っているのだから、私の言う通りにしなければならない』という間接的な否定や強制の形を取って示される。あるいは、かつてパーソナリティー障害の一類型として取りざたされることのあった『受動的攻撃性(passive aggression)』という不機嫌さ・無視・サボタージュの形で示されることになる。受動的攻撃性とは『私を不機嫌にさせているのはあなただという態度』や『私が無視(サボタージュ)しているのはあなたが原因であるという態度』によって、相手に罪悪感・責任感を抱かせ、結果として相手を思い通りにコントロールしようという受け身な攻撃性のことである。この受動的攻撃性についても、相手からの愛情や優しさ、思いやり、尊敬、承認をもっと得たいという『大人の甘えの欲求』が変換された間接的な表現形式として考えることができるだろう。

家族や恋人、親友などの親密な相手に対して『甘えたい(もっと優しくして欲しい・もっと構って欲しい・もっと認めて欲しい)』という欲求をストレートに表現できる人は、受動的攻撃性やほのめかしなどの間接的な甘えの表現をする必要性がないので、精神的に安定していて健全であることが多い。しかし、親密な相手がいなかったり作りづらかったり、親しい相手がいても甘えの感情を伝えられなかったりする人は、子供時代の『愛情飢餓(過度の甘えの欲求)』を解消できないままに引きずっていることが多く、『他者に対する基本的信頼感(内面にあって自分を見守ってくれている内的な対象恒常性)』も形成できていないので、他者に直接的にストレートに甘えの欲求を表すことができないのである。

直接的に甘えられる親密な相手がいなかったり、直接的な甘えのコミュニケーションができなかったりすると、人は何とかして他人(不特定多数)の注目・賞賛・評価を集めて自分の存在価値を分かりやすく誇示しようとする『自己愛的・演技的・虚栄的な承認欲求』に囚われてしまいやすくなる。間接的な甘えの欲求は、強い自己愛や自己顕示欲(虚栄心)となって表現されやすくなり、誰かから『凄い人物(抜きん出た価値のある人物)として認めてもらうこと』ばかりに腐心して、社会的地位や名誉、財産、財物、異性、成功体験などを駆使して『自分が他人よりも優れている証拠(存在価値の高い人間であることの証拠)』をできるだけ示そうとする。

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こういった自己顕示欲や自慢話、見栄っぱりといった行動の根本にある直接的な欲求・感情は、実際にはただ単に『他者からもっと優しくされたい・もっと大切に扱われたい・もっと自分を受け容れて欲しい』という子供時代から満たされずに続いている甘えであることが多い。過去の愛情飢餓(愛情剥奪)や共感欠如の経験によって、他者とのパーソナルな信頼感や安心感を築きにくくなっている人は、そのシンプルな甘えの欲求を満たすために『自分の凄さ(他人より優れているポイント・持っている金やモノ)を強烈にアピールしなければならない』と思い込みがちになってしまう。

しかし、他人と親密になろうとする時や他人から認められたいと思う時に、『自分と他人との競争(優劣)の図式』を自慢話や見栄の強調のような手法で持ち込めば、逆に他人から嫌われたり敬遠されたりしてしまう。他人と親しくなろうと思えば、一般的に『自分の凄さや優位のアピール』をすることは逆効果であり、『相手の魅力や話題、経験に対する共感・同意』を示すことのほうが格段に有効だからである。

“他人から好かれたい欲求”と“他人を羨ましがらせたい欲求”の混同:一人の時間を楽しめる心理

『聞き上手が好かれる』というのは、端的には『相手への好意的な興味を持つということ』とほぼ同義である。聞き上手というのは、ただひたすら一方的に相手に話させれば良いというのとは少し違っていて、『相手の話したいと思っている話題・感情・体験』などを気持ちよく引き出して上げるような好意的な関心を示すことであり、会話の途中で良いタイミングで効果的な質問・意見を加えていくことなのである。 しかし、他人より優れている立派な自分の虚像をアピールしなければ、自分は他人から認めてもらえない、受け容れてもらえないと思い込んでいる人は、思われている以上に多いものだ。そういった人は、誰も『他人の自慢話・見栄の誇示』だけを従順に聞くだけのつまらない役回りなど引き受けたくないという当たり前の事実に気づけない、自分が逆に相手から自慢話や自画自賛の話ばかりを聞かされたら嫌なくせに、自分がそれをする時には相手が心から喜んで聞き続けていると思ってしまうのである。

この心理の根本にある本音は『他人から優しくされたい・認められたい・受け容れられたい』というシンプルな甘えなのだが、ありのままの自然体の自分では気に入られるはずがないという他者不信や自己否定によって、その甘えの欲求が『他人が羨ましいと思うような成功・財物・地位などの強調(逆に他者を遠ざけるリスクのある仮りそめの優越感)』に転換されてしまいやすいのである。 『他人から好かれること』『他人を羨ましがらせること(私はあなたとは違って優秀で幸福だと自己顕示すること)』が混同されてしまった結果、人に好かれたいのになかなか好かれない悪循環にはまってしまい、更に自己顕示や自慢に駆り立てられてしまう。

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優越感や虚栄心、自慢などは誰でも思わず見せてしまうことのある『他者に対する競争心・優越願望の現れ』であるが、そればかりがコミュニケーションや生き方の中心になってしまうと人間関係で孤立・疎外を覚えやすくなったり、いくら成功してもいくら地位・財物を手に入れて自慢しても満足できない病的な愛情・承認の飢餓感に苛まれてしまう。これはモノの例えではなく、実際に人間は『他人から優れた立派な人間だと見られたいという優越感・虚栄心・世間体』ばかりに支配されてしまうと、分相応の暮らしができなくなって借金を重ねて行き詰まったり、その他人よりも優れた立派な自己の虚像を何らかの理由(失業・破産・失敗・貧窮・孤立など)で維持できなくなれば失踪や自殺をしてしまうことすら珍しくないのである。

甘えの欲求が転換された優越感や虚栄心の過剰は、『一人で生きることの困難・一人で活動することの満足感の無さ』といった他者の評価的反応への過度の依存性として現れることが多く、健全なパーソナリティーのメルクマールの一つとして『一人の時間も楽しむことができる』ということを意識しておいても良いかと思う。ずっと一人で活動するというのは偏っているが、逆にいつも誰かと一緒でないと何をしていても退屈で面白くない、一人では何もできないし無気力になる、数日間であっても一人だと寂しくてつらくて耐えられないというのは『甘えの欲求(他者の反応・同調・承認など)』に振り回され過ぎているという意味で病的である。

一人で静かに読書(映画鑑賞)をしたり思考を巡らしたりする喜び、一人で山に登ったり自然を観賞したりする安らぎ、一人で知らない土地を旅する自由な開放感、一人でカフェでまったりと過ごすくつろぎなどは、他者に対する甘えの欲求が適度なレベルで調整できているか、人間関係の距離観や自分の生き方の指針が確立できているのかの分かりやすいメルクマールではある。『そういった一人の時間の魅力や安らぎが全く理解できない=常に誰かと一緒であるか誰かから反応して貰っていないと人生がつまらなくて苦痛である』というのは、自分の人生や言動の価値を常に評価したり保証したりしてくれる他者を渇望している愛情飢餓がかなり強まっている状態だと言える。

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元記事の執筆日:2015/04

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