自己評価が低すぎる人と自己評価が高すぎる人の人間関係の特徴1:自他の魅力のバランス感覚の歪み、“何でもしてあげる無条件の愛”と“何でもしてもらいたい無条件の愛の要求”による満足できない男女関係

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自己評価が低すぎる人はなぜ“自分を軽視する相手”を選びやすいのか2:自己無価値感と虚無感の影響


“何でもしてあげる無条件の愛”と“何でもしてもらいたい無条件の愛の要求”による満足できない男女関係


“オープンで気楽な関係”と“愛情と義務に規定される閉じた関係”:一人の孤独+他者といるつらさ


“愛情”と“依存心・執着心”の混同がもたらすもの1:エゴイスティックな愛


“愛情”と“依存心・執着心”の混同がもたらすもの2:理想化された他者・母を求める退行と精神的成長


“ナルシシズムとしての自己愛”と“セルフラブとしての自己愛”:無条件の愛の要求と対等な人間関係の困難


“自己愛・依存心・執着心”によって歪められやすい対象愛(他者への愛)と見返りを求める心理


“自分がやりたいこと・欲しいもの”と“相手がやりたいこと・欲しいもの”の混同による愛情のすれ違い


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自己評価が低すぎる人と自己評価が高すぎる人の人間関係の特徴1:自他の魅力のバランス感覚の歪み

恋愛関係や友人関係では、必ずしも『自分を大切にしてくれる人(自分を肯定したり支持してくれたりする人)・一緒にいて自分に自信が持てたり元気になるような人』ばかりを選んで付き合うとは限らないというのは、誰しも人生の中で一度は経験することではないかと思う。自分を大切にしてくれそうな人には惹かれないで、むしろ自分を上から目線で粗末に扱ったり、理不尽な注意をしたり押し付けがましい要求をしたりするような人のほうに惹かれてしまい、付き合いが深まるにつれて『恋愛関係の苦悩・対人関係のストレス』に疲れ果ててしまう人は少なくない。

自分を好きになってくれる良い人のことは好きになれず、自分が好きになった人に惹かれるのだがそういった相手には良い人がなかなかいないというケースでは、“容姿・外見の好き嫌い”や“相手のリード(積極的な指導性)の強弱”の影響も大きいが、もう一つの要因として“自己評価の高低の再確認”が関係していることもある。自己評価があまりに高すぎても低すぎても、恋愛・結婚を含む人間関係における相手の選択の基準や理由が歪められることがあるからである。自己評価が高すぎる人も低すぎる人も、社会的バランス理論からすると、『自分の魅力とのバランスが取れる相手(自分で思う自分の価値と釣り合っていると感じる相手)』を探して求める傾向がある。

自己評価が高すぎると、『向こうから好き(付き合いをして欲しい)と言ってくる相手の魅力・価値』を実際よりも低く見積もる傾向が生じやすい。向こうからこちらのOKを求めてくるくらいだから、自分の本来の魅力とは釣り合わない(自分から好みの人を探していったほうがもっと良い相手がいるはず)と思い込んでしまうことになる。自己評価が低すぎると、『向こうから自分の魅力や価値を評価して近寄ってきてくれる相手』に対して、『本当の自分にはそんな魅力や価値などないのに申し訳ない(勘違いされて過大評価されているのでその期待に自分ではとても応えきれない)』と思い込んでしまいやすい。

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向こうから自分のことを高く評価して近づいてくる相手に対して、自己評価が高すぎると『自分の本来の魅力(潜在価値)>相手の魅力・価値』と判断しやすく、自己評価が低すぎると『自分の本来の魅力(潜在価値)<相手の魅力・価値』と判断しやすいので、相互の魅力のバランス感覚が崩れて上手く結びつかないのである。自己評価が実際の自分とはかけ離れて高すぎるという人も、高望みしすぎて相手が見つからないといった弊害はあるが、特に問題なのは自己評価が低すぎるために、『自分を適切に評価してくれない相手・自分を軽視してバカにしたり否定するような相手』を選んでしまう人だろう。

こういった自己評価が低すぎる人は、『実際の自分の客観的な価値・魅力』がほとんど見えておらず、“自分を大切にして肯定してくれる相手”に苦手意識や期待の重さを感じて、“自分を軽視して否定してくるような相手”に付き合いやすさや気楽さを感じてしまいやすい。なぜかDVやモラハラ、ストーカーなどの被害に遭いやすいという人も、自己評価が低すぎるために『自分に対して批判的・攻撃的で自分の価値を否定しがちなタイプの相手』を、半ば無意識的に“自分の低い自己評価に釣り合う相手”として選んでしまっていることがある。

一般的には、自分の存在や魅力を高く評価してくれて好きと言ってくれるような『自分を肯定してくれる相手・自分の価値を高く見積もってくれる相手』を選ぶことが多いはずだが、自己評価が低すぎる人の場合には逆に『肯定されたり褒められたり好意を伝えられたりすること=過大評価に基づく大きな期待や虚言』のように感じてしまう。その結果、その人と付き合えば(親しくなれば)自分が幸せになりそうな異性や知人を無意識的に回避しやすくなって、逆に付き合うと(親しくなると)DV・モラハラの被害に遭いやすくなるような『自分の存在や魅力を不当に低く評価して支配的(侮蔑的)に振る舞う相手』のほうに、居心地の良さを感じて惹かれやすいのである。

自己評価が低すぎる人はなぜ“自分を軽視する相手”を選びやすいのか2:自己無価値感と虚無感の影響

自己評価が低すぎて自分に価値がないと思っている人の根本にある確信的認知は、『自分には愛される資格がない・自分はここに存在していてはいけない・自分が一緒にいると他人に迷惑や不快を与える』といった自分についてのネガティブな見方である。幼少期の親子関係や虐待環境、いじめ被害、疎外感(孤立感)などを通じて、自分は他人から愛されない・好かれないとかここにいてはいけないとかいった“ネガティブなメッセージ”を言葉・態度・雰囲気から植えつけられて信じ込んでしまうことの弊害がそこにある。

このネガティブな見方に合った『自分を否定してくるような相手(自分を軽視したり非難したりする攻撃的な相手)』のほうに、居心地の良さを感じやすくなるという問題があるわけだが、これは『自己イメージ(自己評価)の認知に見合った反応をしてくる相手のほうが居心地が良い』という一般的な傾向性として考えることもできるだろう。自分に価値や魅力など全くないと思っている人は『自責感・自罰感(自己懲罰の願望)』が強くなりやすいが、こういった自分で自分を責めたり処罰しようとしたりする“自己非難”は、時として“自己無価値感・空虚感・孤独感の癒しや緩和”として作用することがある。

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幼少期からの親子関係をはじめとする様々な体験や感情を通して、『自分には全く価値・魅力がない』という確信的認知が形成された場合には、『中途半端な評価・肯定・慰め』は逆に自分の無価値感や無力感、虚しさを増強させてしまうのであり、『ネガティブな自己イメージに見合った自責感・自罰感を含む自己非難』のほうにしっくりとくる感じや居心地の良さを感じてしまうのである。この自己非難が他者(異性)との人間関係に向け変えられた時に、『自分を軽視して批判や否定をしてくる相手』のほうにしっくりとくる感じや居心地の良さを感じやすくなり、『自分を中途半端に価値がある人間のように扱おうとする相手』に不信感や苦手意識を感じて遠ざかるということになる。

自分に価値や魅力がないという確信的認知に支えられた『自己無価値感』は、一般的にいって『性格が悪いと思われるような相手(他人を尊重することがなく攻撃的・否定的な相手)』を惹きつけるリスクを生むことがあるのだが、『傲慢不遜・攻撃性・皮肉屋・差別感情・他者蔑視』などの性格特性に対して“ネガティブな自己イメージ・世界観との親和性(ぴったりときて居心地の良い感覚)”を感じてしまう。自己無価値感や世界の空虚感(無意味さ)を長らく抱えて苦悩している人は、『明るく楽しい世界観・思いやりがあって優しい人間性』に無邪気に素直に適応することが極めて難しく、そういった世界観や人間性を無条件で肯定しているような人たちに対して、どこか苦手意識や軽蔑の意識(浅薄な物事の見方に過ぎないという意識)を持ちやすい。

傲慢不遜で差別感情(優劣の意識)を隠さず、他人や社会に対して文句・皮肉ばかりを言っているような人は、一般的には好かれることがなく敬遠されやすい。だが、自己無価値感や空虚感に苦しんでいる人にとっては、『他人や社会を軽蔑・軽視して攻撃的に非難している人』が『自分の持っている自分や世界は無価値なものに過ぎないというひねくれた価値観を理解してくれそうな人(自分の本音の暗い感情や考え方を吐露しても引かずに受け容れてくれそうなタイプの人)』に見えやすいのである。明るく楽しい世界観や愛情・努力は報われるという価値観を信じている人たちは、自分の表層的な魅力や価値を認めて元気づけてくれるかもしれないが、所詮は『自分とは違う側の世界』にいる人=棲む世界が違う人といった認識に傾いてしまう。

自分の抱える自己無価値感や虚無感を理解してくれそうな『自分と同じ側の世界』にいると思える人を求めれば、皮肉なことに『他人や社会を軽蔑・軽視して文句の多い人=自分のことも大切にしてくれず軽視して扱う人』に行き着きやすい。これは『ポジティブ(楽観・明るさ・素直さ)』『ネガティブ(悲観・暗さ・ひねくれ)』の二元論における類は友を呼ぶの“類似性の原理”ともつながっている。人間関係を通して本当の幸福や居心地の良さを手に入れたければ、できるだけ『自分の存在や価値を肯定してくれるポジティブな世界の側にいる人』に近づいたほうが良いのだが、自己無価値感・虚無感に支配されているとそういったポジティブな相手への苦手意識や拒絶感(単純すぎて自分の複雑な世界認識や成育歴とは合わない等)が無意識的に強まって、敢えて自分を不幸にするような対人関係の選択をしてしまいやすいのである。

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自信や自己肯定感が低くなっている状態だと、『表層的な力強さ・尊大さ・支配性』に魅了されて従うことになりやすいという心理は、社会派の精神分析家エーリッヒ・フロムが『自由からの逃走』の中で『強大な権力・権威に対する一体化(自己放棄)の願望=権威主義的パーソナリティー』として指摘している。一般的な人間関係においても粗暴さや尊大さを“本当の強さ(頼れるような力強さ)”と勘違いしてしまってその尊大な相手への一体化や依存化が進み、自分の幸福・安全を半ば放棄してしまうような従属的でマゾヒスティックな人間関係が作られることはある。

サディズムとマゾヒズムの相補性の力学は、“自己非難する自信のない人”と“他者否定する尊大な人”との間で働きやすいが、一見すると強気で自信満々に見えるサディスティックな人もまた、誰かに構われていないと安心できない『孤独耐性の低さ』や自分の弱点を直視できない『自分の弱さの抑圧』といった心理的問題を抱えている。この『自分を否定・軽蔑して不幸にしやすい相手との付き合い』を回避するためには、自己無価値感の根本にある愛情飢餓と孤独の不安(見捨てられ不安)、自分の弱さからの逃げを、ありのままの自分の強みと弱みを直視するような自己分析の体験+自己イメージの再構築を通して段階的に克服していかなければならないのだろう。

“何でもしてあげる無条件の愛”と“何でもしてもらいたい無条件の愛の要求”による満足できない男女関係

幼少期の親子関係の歪み(甘やかし)や成育途中の人間関係における傷つき(自惚れ)によって、自分をどのくらい好きか、自分をどのくらい肯定的に見るかという『自己愛』の強度は変化しやすい。自己愛が強いか弱いかという違いは、自分の価値をどう見積もるかの『自己評価』とも関係してくるが、『自己愛+自己評価』が過度に高すぎても低すぎても、対人関係のトラブルや満足感の低下を生み出しやすい。幼少期の親子関係や成育過程の人間関係で、自分の存在価値を否定されたり外見・態度をバカにされたり、拒絶的・差別的・虐待的な言動で傷つけられたりした人たちは、自己愛が異常に弱くなったり自己評価が過度に低くなりやすい。

その結果、『自分には他者に愛される価値(大切に扱われる価値)がない』という自己定義に基づく過度に低い自己評価によって、その後の対等な人間関係やコミュニケーションの構築・維持が難しくなってしまう。反対に、幼少期の親子関係や成育過程の人間関係で、自分の存在価値を過剰に持ち上げられて甘やかされたり他人の外見・態度をバカにしたり、学校生活や人間関係で自分のわがまま・一方的な都合要求を押し通してきた人たち(本人の実力や周囲の配慮でそういった他者軽視のわがままが容認されてきた人たち)は、自己愛が異常に強くなったり自己評価が過度に高くなりやすい。

その結果、『自分には何もしなくても他者に十分に愛される価値(十分に大切に扱われる価値)がある』という自己定義に基づく過度に高い自己評価によって、その後の対等な人間関係やコミュニケーションの構築・維持が難しくなってしまう。自己愛性パーソナリティー障害の水準に到達するほどの自己愛の肥大は、幼少期の“甘やかし・溺愛・過保護”だけではなくて“虐待・無視・過干渉”によっても生じることがあるので、単純に甘やかしたから自己愛が病的に強くなったり傲慢になったりするというわけではない。特定の子供が傷ついたり落ち込んだりした状況における、『子供に安心感・被保護感・励ましを与えるような型の気持ちのこもった甘やかし』は、逆にバランスの取れた性格形成(弱っている相手への思いやり・共感性)や精神的傷つきからの回復・安定に役立つ部分も多いはずである。

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“虐待・無視・過干渉”によって自己愛が肥大するケースでは、小さな頃から誰からも愛されないからこそ、自分で自分の存在価値を想像上で誇大に評価しなければならない(自分が特別に優れた魅力的な人間だという虚勢・見栄によって自我を守らなければならない)という自我防衛機制の側面が強くなっている。空想的な誇大自己の内的イメージが形成されることによって、『実際の自分以上の虚勢的な自己イメージ』に性格行動パターンが支配されやすくなるのだ。

そして、他人よりも自分のほうが優れていること、みんなから特権的な扱いをされて当然だということを分かりやすく示すために、『他人の人格・尊厳を軽視した傍若無人な振る舞い(自己愛パーソナリティー障害における他者への共感性の欠如や他者の一方的な利用)』が見られやすくなるという流れがある。“自己愛・自己評価”が過度に強かったり弱かったりすることが、人間関係(異性関係)に引き起こす問題は、『無条件の愛』をキーワードにした『対等な人間関係+率直なコミュニケーション』を構築したり維持したりすることができなくなるということである。対等な人間関係が作れないということは、『人間関係に優劣・上下(優劣のある役割分担)がいつもついて回る』ということである。率直なコミュニケーションができないということは、『自分のありのままの意見・感情・要求』を相手に伝えられなくなり一緒に会話をしていても満足感・楽しみがなくなってしまうということである。

“自己愛・自己評価”が過度に低く(弱く)なってしまっている人は、『自分には他者に愛される価値(大切に扱われる価値)がない』という自己定義があるから、『相手との関係を維持するためには、自分は相手の望むことを何でもして上げなければならない』という自己犠牲や完全な奉仕に凝り固まってしまう。反対に“自己愛・自己評価”が過度に高く(強く)なってしまっている人は、『自分には何もしなくても他者に十分に愛される価値(十分に大切に扱われる価値)がある』という自己定義があるから、『自分は相手のために尽くしたり愛したりしなくても、相手は自分が望むことをしてくれて当たり前である』という相手の道具化(一方的な利用)や傲慢な態度で凝り固まってしまう。

自己愛が弱くて尽くし過ぎる人と自己愛が強くて尽くされる人は、一見すると『割れ鍋に綴じ蓋・需要と供給』でバランスの取れたカップルの人間関係に落ち着きそうに見える。しかし、自分の都合や利益を投げ打って相手のために一方的に尽くしている人だけが不幸になりやすいのではなく、極端に亭主関白な夫がいつも不機嫌で満足感が低いように、常に相手から一方的に愛されて尽くしてもらう立場の人もまた不幸になりやすい(満足感が落ち込みやすい)傾向がある。人間関係特に異性関係においては、『愛するだけ・尽くすだけの立場(役割)』になっても『愛されるだけ・尽くされるだけの立場(役割)』になっても、初期の頃にはそういった役割分担の関係に満足できることはあるかもしれないが、最終的にはお互いを傷つけ合って相手に対する不満・怒りばかりが募ってダメになってしまうことが多い。

『愛するだけ・尽くすだけの立場(役割)』の人は、相手から愛情や優しさが返ってこないことに不満を抱くだけではなく、それだけ尽くしても相手の愛情・信用を実感できず自分に自信も持てないので、常に『相手から見捨てられる不安・別れを切り出される恐れ』から自由になることができない。『愛されるだけ・尽くされるだけの立場(役割)』は、一見すると何でも思い通りになって良さそうだが、何を言っても『はい、分かりました』とOKして自分の意見も感情も表現してこない相手は、従順あるいは無機的な人形のような存在となり、常に『相互的コミュニケーションの飢え・感情や気持ちが重なり合わない面白みのなさ』を抱えることになってしまう。

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“何でもしてあげる無条件の愛”“何でもしてもらいたい無条件の愛の要求”というのは、『無条件の愛に対する認知の歪み』を伴っていて、上記したような二人の関係性に対する不満・怒り・虚しさ・面白みのなさを溜め込む副作用のほうが強い。自分が何も努力しなくても相手のために何もしてあげなくても、ただそこにいるだけで愛されて大切にされて当たり前というある種の“お客様気分”には、主体性や責任感、能動性が欠如していて、小さな子供に戻ってちやほやされて守られたいという『退行の非適応的な防衛機制』が働いたりしている。

こういった退行の防衛機制が悪循環を起こすことによって、『いくら愛されても、いくら尽くされても、満足できない、まだ足りない』という乳幼児期・児童期のような終わりのない愛情要求や依存心に逆に苦しめられやすくなる。更に、そういった受け身だけの何かしてもらう役割に押し込められた自分(対等な相手とのコミュニケーションの面白さ+一緒に何かに向かって頑張っていく協力の機会を奪われている自分)に情けなさや虚しさ=関係性の無意味感を感じてしまうのである。どちらかといえば、『無条件の愛』よりも『相互的な愛(お互いに言いたいことを言い合いながらも、どこかで妥協したり思いやったりして調整できる愛)』のほうが現実的だし、相手への満足度や感情的な思い入れも強くなりやすいものなのかもしれない。

恋愛にせよ家族にせよ友人にせよ、二人の関係が上手くいっていてお互いが満足感や楽しみを感じやすくなっている時には、『対等な人間関係+率直なコミュニケーション+お互いの意見・感情・思いへの配慮や共鳴』などの要素が無意識のうちに影響していることが多いからである。

“オープンで気楽な関係”と“愛情と義務に規定される閉じた関係”:一人の孤独+他者といるつらさ

会いたい時に会って会いたくない時には会わなくも良いという関係、二人以外にも第三者がオープンに介入しやすい関係は『オープンで気楽な関係』である。オープンで気楽な関係には『何かをしなければならない負担感・責任感の重圧』はないが、その代わりに『相手との付き合いの持続性・相手との実際的な生活上の相互扶助』に何らの保障・安心といったものがない。相手に対して何かの行為を義務的に要求したり、裏切り・落ち度に対する責任の履行を求めたりできないということは、お互いに相手を『(他の人とは区別される意味での)特別扱い』していないということも意味する。

ちょっとした友人知人との付き合い、昔馴染みとの関係といったものが『オープンで気楽な関係』に当てはまるが、このオープンという語感には『その人以外の別の相手を選んで付き合っても良い(その人からの誘い掛けに対して断る選択肢もある)』という交換可能性も含意されている。オープンで気楽な関係の対局にあるのが、夫婦・親子・恋人などの『愛情と義務に規定される閉じた関係』である。夫婦・親子・恋人などの関係では、相手をお互いに愛情を向けるべき対象として特別扱いしているが、特別扱いしているが故に『会いたい時に会って会いたくない時には会わなくても良い気楽さ』や『相手が困っている時に深く関わらずに放っておいても良い責任の弱さ』は認められにくい。

夫婦や恋人では、お互いに果たすことや守ることが当たり前とされる一定のルール・義務責任(役割規範)があり、仮に相手への愛情・関心が薄れていたとしても、自分の気持ち・都合だけで一方的に関係を解消して無かったことにすることはできない。相手に対して守るべきとされる最低限のルールや義務を一方的に無視すれば、例えば夫婦間で愛情が冷え切っているからといって身勝手に別の相手と浮気をすれば、婚姻規範に反する不貞行為として自分を不利な立場に追い込む離婚事由にされてしまう。

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夫婦の間に子供がいれば、子供の成長や環境、気持ちを第一に考えるべきという規範・良心は強力であり、よほど相手に酷い暴力・モラハラ・不貞などがない限りは、夫婦二人だけの好き嫌い(性格・価値観の対立)や自分の幸福追求の問題だけでは収まらないことも多いだろう。恋人であれば別れるのは自由といえば自由であるが、通常はいったん恋人としての関係になって自分に良くしてくれた相手であれば(よほど相手に問題や責任があって嫌いになったのでなければ)、自分側の都合だけで理不尽に別れを伝えたり音信不通にしたりすることには、かなりの良心の呵責や相手を見捨てるような疚しさに駆られることにもなる。

『愛情と義務に規定される閉じた関係』では、二人だけの共同生活(感情生活)やコミュニケーションが、外部の世界・他者から切り離されて閉じているので、『二人だけにしか分からない事情・感情・問題』が多くなりやすい。その結果、二人の関係性が大きくこじれて喧嘩や怨恨が生じても、外部の第三者が仲裁・調停の積極的介入をすることが難しく、『DV・モラハラ・人格否定・共依存』などの悪循環のループにはまり込んでしまうこともある。『愛情と義務に規定される閉じた関係』は、人間が人間を最も好きになって相手を大切にする関係であると同時に、人間が人間を最も嫌いになって相手を強く否定(非難)する関係にもなり得るという『アンビバレンツ(両価性)』の特徴を持っているのである。

夫婦間・家族間・恋人間では、経済的苦境や感情的対立(価値観・生き方の食い違い)、あるいは恋愛感情の独占欲(嫉妬・怨恨)によって暴力事件が発生しやすいとも言われる。それは『二人だけ(固定メンバーだけ)の閉じた関係』では、愛情をこれだけ注いで上げたのに(ずっと尽くし続けてきたのに)何もしてくれないという不公平感と要求の強さ、夫(妻・子)であればこれくらいしてくれて当たり前という義務感・責任感の押し付け、他の家(世間一般)ではこうするのが当たり前でできないのは恥ずかしいという世間体(常識・平均の押し付け)などの影響が強くなりやすいからである。

『愛情と義務に規定される閉じた関係』について、人は時に一人だけの孤独のつらさ・淋しさよりも、誰かとつながっていて離れられないがためのつらさ・苦しさに懊悩し絶望してしまうと言われたりする。自分の愛情や思いやりが受け容れてもらえないつらさ、心が通い合わなくなったかつては好きだった相手から冷たい反応や無視するような態度が返ってくる淋しさ、自分ではなく別の相手を選んで去っていく時の絶望感といったものは、自分ひとりだけの孤独・つらさとはまた質の違った人生の耐え難い苦悩として、人の精神にのしかかってくることがある。

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“愛情”と“依存心・執着心”の混同がもたらすもの1:エゴイスティックな愛

夫婦でも恋人でも、愛されるよりも愛したいと思わなければ関係が上手くいかなくなることが多く、相手と一緒になることで楽になりたいと思うよりも、相手と一緒ならどんな苦労や困窮も乗り越えていけると思えなければわずかな挫折・貧苦によって別れることになってしまう。究極的には、人間は自力・努力のみによって他人の人生を幸福なものにすることなどはできないのだが、『好きな相手の幸福』を願って自分のできる限りのことをする、そのできる限りの愛情や思いやりの現れである行為を相手から善意・感謝を持って受け容れてもらえるということが、自分にとっての喜び・幸せにもなるのである。

相手に愛してもらうこと、相手から何かをもらうことよりも、自分が相手を愛することができること、相手に何かを与えることができることそのものを、自分の喜び・楽しみとして感謝できるような気持ちにならないと、『愛情・思いやり』はそれに見合う見返り(お返し)を求めてエゴイスティックなものになりやすい。『相手の性格・信念・生き方』などの是非善悪をきちんと見抜いて一方的に利用されすぎないように注意することも必要であるが、自分ばかりが尽くして損をさせられている、相手から自分は軽視されているといった疑心暗鬼が強まれば、遠からずその関係は破綻するだろうし、相手に対してのネガティブな感情ばかりが強まってしまうことにもなるだろう。

『愛情』は、相手に必死にしがみついて頼り切る“依存・保護の求め”とは異なるし、相手を自分だけのものにしたいとか他の誰にも渡したくないとかいった“執着・独占欲”とも異なるが、愛情は往々にして依存や執着と混同され『自分自身の幸福追求の手段』として利用されてしまうことも多い。愛情を依存や執着と混同してしまうと、『共依存的な悪循環』の中で自分の自立心・自尊心も相手の自立心・自尊心も奪われやすくなる。その結果、『自分自身の人生に対する責任・向上心』をお互いに放棄してしまって、相手に精神的あるいは経済的にしがみついて利己的に貪るだけの偽物の愛に落ち込みやすい。

本当に他者を愛するということは自分が幸せか楽しいかとは別に(相手によって幸せにしてもらえるかどうかとは別に)、『相手の幸福・支えに役立てるような自分自身の人生や能力』を自立的かつ利他的に創造して改善していくこと(相手の求めているものを何か一つでも与えられるほどに強い自分を目指していくこと)に他ならないという側面がある。愛情のエゴイスティックな変形としてあるのが、『ロマンティックな恋に恋する自分・相手のために頑張っている自分への自己陶酔』であり、エゴイスティックな愛とは、『他人を愛する対象愛』ではなく『自分を愛する自己愛』なのである。

自分ひとりの世界で自己完結的に『理想的な異性・最高のロマンス・献身的な恋愛』を思い描いているだけのエゴイスティックな愛(自己愛)には、『独自の人格・感情・要求を持った他者』が存在していない。エゴイスティックな愛の欲求が求めているのは、究極的には『自分の思い通りに動いてくれる他者(自分が献身的に尽くしているように見えてもその献身的な愛を最大級の賛辞と承認で受け容れてくれる他者)』だけであり、自分が主役になっている華やかな恋愛・結婚の舞台で、自分を褒め立てて価値を高めてくれるオーディエンスのような役割を最終的に相手に求めてしまうことになる。

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“愛情”と“依存心・執着心”の混同がもたらすもの2:理想化された他者・母を求める退行と精神的成長

“愛すること”や“愛されること”は『愛情と義務に規定される閉じた関係』において人間を不幸・苦悩に追いやってしまうことがあるが、それは『自己完結的な自分の都合だけの愛情・思いやり』を相手に一方的に押し付けて、自分が主役になって幸せになっていくという物語性に自己陶酔してしまいやすい(その自己陶酔は必ず思い通りにはならない相手によって失望・虚しさに変わってしまう)からである。言い換えれば、エゴイスティックな愛(自己愛の変形した愛)とは『完全主義的な幻想・甘え』であり、『相手の理想化による相手への依存(結果として相手に失望することになる一方的な理想像の押し付け)』である。

そして、自分自身が相手のために努力して変わろうとしない型の恋愛・結婚の多くは、『完全主義的な甘え・依存の挫折』や『理想像の押し付けに従わない他者』によって最後は苦い失望や憎悪、破綻を味あわせられることになりやすい。愛情を依存・執着と混同してしまうということは、何歳になっても『自分が絶対に傷つけられない(一方的に守ってもらえて幸せにしてもらえる)親子関係のような関係』を反復しようとするようなものであり、精神分析的には発達早期の精神状態・人間関係に固着していてそこに神経症的に退行しているということでもある。

人間の精神的成長とは『他者に拒絶・批判されても傷つかない自立性』を確立することでもあるが、発達早期に見られる『無償の愛情関係(母親的な愛情・保護)』への固着は強固なものであり、精神的に健康な人であっても『閉じた関係』においてはそういった母親的なものへの固着・退行によって依存や執着の問題をこじらせてしまうことがある。何から何まで無条件に自分を肯定して賞賛してくれる配偶者・恋人というのは、『甘やかし・過保護』によって、『自立・責任感』へと向かうその人の精神的成長の機会をスポイルしてしまう副作用を及ぼすことがある。

『自分で解決すべき人生の問題・責任』『配偶者(恋人)の存在・援助』によって代替的に解決しようとすれば、それが上手くいかない時にすべての責任を配偶者(恋人)に転嫁して憎悪・攻撃するという別種の問題が生じやすくなる。自分の解決すべき問題を、配偶者(恋人)に依存したり依頼したりして代わりに解決して貰えるという考え方は、『他者の過剰な理想化とその理想化の挫折による失望』にもつながりやすい。

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自分の『退行・依存の欲求(相手によって救ってもらいたいという欲求)』に打ち勝って、『精神的成長のつらさ(相手のために自分が何かできるようになる精神的成長へのチャレンジ)』を引き受けた時に、『理想化されていない等身大の他者(自分と同じ程度には弱さ・欠点を持っていて助け合いを必要としている他者)』と共に人生を支えあって生きていける準備が整いやすくなるのだろう。

“ナルシシズムとしての自己愛”と“セルフラブとしての自己愛”:無条件の愛の要求と対等な人間関係の困難

自分で自分を愛する“自己愛”には『自己肯定感・自信』につながる良い側面もあれば、『他者の軽視・共感性の欠如』につながる悪い側面もある。自己愛性パーソナリティー障害のような他者との人間関係を破壊しかねない過度の自己愛の高まりは“narcissism(ナルシシズム)”と呼ばれることが多く、適度な自己肯定感や自信を高めてくれる“self-love(セルフラブ)”の語感よりもエゴイスティックで支配的(他者利用的)な響きを感じる。ナルシシズムの自己愛は、『自分は初めから特別な価値や魅力のある人間である(自分は他人とは違った特別な存在)+特別な人間だから他者は自分を賞賛して自分のために動かなければならない』という自己中心的な世界観を作り上げる。

セルフラブの自己愛は、『自分は努力やコミュニケーションを積み重ねながら価値や魅力を高めていける人間である(自分も捨てたものじゃない)+他者の価値を認めて自分の価値も認めてもらえるように努力や工夫をしなければならない』という自他共生的な世界観を作り上げる。ナルシシズムの自己愛に根ざした自己中心的(他者軽視的)な世界観は、一般に他者から受け容れられにくいが、その自己中心性に一定以上のリーダーシップや能力・実績・プレゼン(自己呈示)が伴った時には、『権威主義的(強権的)なカリスマ』として他者を従えるような影響力を振るうこともある。

人間心理には『自分よりも劣位な他者の上に立ちたい・他者に指示命令を出したい』というナルシスティックでサディスティックな支配性・嗜虐性だけではなく、それと相補的に作用する『自分よりも優秀な他者の下につきたい・有能な人から指示命令を出されたい』という責任や決定の重圧を回避したいというマゾヒスティックな従属性・被虐性もある。強烈なナルシシズムと指導的なリーダーシップが組み合わされると、他人の上に立って指示・命令をしたがったり賞賛・評価を受けたがったりする自己中心的なパーソナリティー特性が前面に出てきて、一般的には敬遠されたり嫌悪されやすい。

だが一方で、『自分で自分の人生の責任や決断を全面的に請け負いたくない人(自分の能力や選択に自信を失っていたり無力感を感じていたりする人)』や『自分の進むべき方向性を指し示してくれたり、企業の経営者のように自分の基本的な生活面(給与の支払等)の面倒を見てくれる上位者を求めている人』にとっては、自己愛や支配性の強いナルシストは、リーダーシップに抜きん出たカリスマとして高く評価されやすくなり、その人に重要な決断を任せてついていきたいという人も出て来るのである。セルフラブとしての自己愛を持つ人とは『対等な立場での人間関係』を築いて維持していくことができるが、ナルシシズムとしての自己愛を持つ人とは『上下関係(支配‐従属の役割関係)のある人間関係』しか築けないことが多く、その関係を維持しようとすれば自分の側が少しへりくだった立場に立たざるを得ないだろう。

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強烈なナルシシズムを持つ相手に対して、『対等な立場』から評価や意見をすれば、『自尊心(自己愛)の傷つき』を覚えた相手が強い反発や怒りを感じて、急に不機嫌になったり正論を含んだ愚痴を言い始めたりすることになる。自分の特別視と他者の軽視が前提になっているナルシストは、究極的には『自分と同じ目線・地位に立って意見をする相手の存在』を認めないので、自分の周囲を無条件で賞賛したり評価したりする“イエスマン”で固める傾向が顕著であり、周囲にいる人間が成長したり意識が変わったりして『自分と対等な立場』を求めてくると、その相手を遠ざけたり否定することが多くなるだろう。

自己愛性パーソナリティー障害の典型的な特徴の一つは『際限のない愛や成功、権力、評価を求める』というものであるが、こういった種類のナルシシズムは精神分析的には『退行(幼児退行)』の自我防衛機制の変形として解釈される。『無条件の愛・賞賛の幻想的な原型』として、『理想的な母子関係(お腹が空いて泣けばすぐにミルクを与えてくれ、不機嫌になってぐずつけば機嫌を取って遊んでくれる)』が無意識的に配置されているわけだが、恋愛関係や夫婦関係、社会的関係などにおける生身の人間が、そんな無条件な愛・賞賛を与える母親のような存在として肩代わりすることはできないので、ナルシシズムが過剰に強い自己愛性格の人は概ね人間関係全般において慢性的な不満感・要求の多さを抱え続けることになる。

伝統的な日本の恋愛や結婚生活では、妻(恋人)に対して、『母親代わりの役割』が部分的に求められる傾向があった。それは『男を立てる(男のプライド・自尊心を傷つけない)』というフレーズに分かりやすく現れているように、社会一般の権力・上下関係で劣位(従属する側)に立って自己愛を傷つけられやすい男性を、せめて家庭内においては『ナルシシズムの全能感・退行的な無条件の愛と甘え』を女性が演技的であるにしても認めて上げれば上手くいくという処世術のようなものであった。しかし、男女・家族を取り巻く時代状況や社会構造と関連したジェンダーの意識が大きく変化していき、かつての男を立てる文化に象徴される『男性(夫)のナルシシズム+経済的な保護』『女性(妻)の無条件の愛・承認+経済的な依存』という性別役割分担に基づく男性のナルシシズムの家庭内での充足が難しくなっていった。

特に、若い男女の経済格差が縮小する中で『対等な立場でお互いの存在や貢献を認め合うセルフラブの関係性』が新たに求められるようになっている。女性(妻)が演技的であっても満たしてくれていた『退行的・依存的な無条件の愛(賞賛)』が、かつての男性社会における男性(父・夫)の仮想的な権威や自己愛を満たす役割を果たしてくれていたわけだが……男性の平均所得の低下(女性の扶養される割合の低下)やジェンダーのフラット化の影響などもあって、『上下関係のあるナルシシズム(無条件の愛・世話の退行的な求め)』は通用しづらくなり、『フラットな関係性に基づくセルフラブ(自立的な個人同士が相手のためにしてあげること)』の相互的な満たし合い(=相手の感情や立場、要求を共感的に思いやるタイプのコミュニケーション力)がシビアに求められるようになっている。

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“自己愛・依存心・執着心”によって歪められやすい対象愛(他者への愛)と見返りを求める心理

人間は精神発達段階を経験して各段階の発達課題をクリアすることで、“基本的信頼感+自律性+積極性+共感性(想像力)”に裏打ちされた『対象愛(他者への愛)』を実践しやすくなると考えられている。“本能変遷”とも呼ばれることのある『自己愛から対象愛へのリビドーの転換』は、幼児的な自己中心性(エゴイズム)や万能感を離脱して、『自分と同じ人格・欲求・知性を持つ存在としての他者』に正面から向き合って、相手のために行動することを意味している。

自分ではない他人を愛する対象愛にもさまざまな段階・水準があるが、一切の見返りを求めない“無償の愛”であるアガペーには及ばなくても、自律性・共感性(想像力)・孤独耐性(分離不安克服)が高まれば高まるほどに『相手のために愛する思いやりと行為』を持ちやすくなる。恋愛・結婚に見られるような一般的な人の対象愛は、自分が愛することと相手から愛されることの“双方向性(対象愛と自己愛の相互充足)”が含意されていることが多く、“自分だけが一方的に愛して尽くし続ける・自分だけが一方的に愛されて尽くされることを望む”といった関係はどちらかの不満が鬱積したり爆発したりして長続きしにくい。

対象愛において起こりやすい勘違いは、『自己愛と対象愛の混同(取り違え)』『依存心・執着心と対象愛の混同(取り違え)』である。分かりやすく言えば、相手のためにやっていると思っている努力・奉仕・忍耐が、実際には自分のためにやっているだけだったり、自分のやりたいことや価値観を相手に押し付けているだけに過ぎないという勘違いである。この自己愛・依存心・執着心に基づく表層的な愛には、『押し付けがましさ・窮屈な重たさや束縛感・ありがた迷惑な感じ』が伴いやすく、その相手の愛情や好意、奉仕を黙って笑顔で受け容れてオーバーなまでに感謝しなければ、逆に相手から不機嫌や悪意、反撃が返ってくるのではないかという不安に駆られやすいものである。

愛情や奉仕のそれとない押し付けは、本人にとっても無意識(無自覚)であることが多いから余計に扱いが難しいものである。『相手の善意・親切からの思い』を無下にしたくないということから、(人が良い人ほど)『自分が望んでいない形の愛情・奉仕・献身』であってもそれを笑顔で受け容れて感謝しなければならないと思いがちだからである。自分に嘘をついて無理をしてでも、演技的な受容・感謝をしてしまうということだがその場限りや短期の付き合いならそれで良くても、長期的な関係では『勘違いした対象愛の押し付け』は『自分と相手との心理的距離感を開かせる悪影響(この人とは双方向的なまともなコミュニケーションや相互理解をすることができないという相性や居心地の悪さの認識)』をもたらしてしまうのである。

自律的な成熟した対象愛とは『自分の感情・人生・立場を理解してもらおうとすること』ではなく、『相手の感情・人生・立場を理解して相手のために考えて動こうとすること』であるが、相手を理解して相手のために動くということを、双方向的にお互いができていなければ上手くいかない面もある。対象愛の具体的な関係性である恋愛・結婚などでは、『自分が相手にこれだけのことをして上げたのに・自分だけが尽くして相手は自分のために何もしてくれない』といった考えを持ち出すと急速に関係が悪化して破局(離別)に向かいやすくなるが、だからといって『自分だけが自己犠牲を払って一方的に尽くし続ければ良い』というわけではない。

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見返りを求めたり損得勘定を考えたりする人間関係が上手くいきにくいというのは当然あるのだが、『一方的な愛情や献身をひたすら受け取り続けるだけの相手(何をしても感謝の言葉もなく相手から何か善意や思いやりが寄せられることもない相手)』とは、大抵の人が長く付き合い続けることが難しいのもまた事実としてある。お互いが過剰な不満・不公平を抱え込まなくて済む程度の『双方向的(相互的)な好意・助け合い・思いやりのやり取り』がやはり必要になってくるのであり、そういった好意・献身の双方向性や相互性をそれとなく実感できるような相手が、一般に『相性の良いパートナー・居心地の良い相手』になりやすいのである。

“自分がやりたいこと・欲しいもの”と“相手がやりたいこと・欲しいもの”の混同による愛情のすれ違い

愛とは何かという問いには、『相手の立場に立って相手が求めているものを与えてあげること(相手の味方になり相手のニーズや欠乏を満たしてあげること)』『相手の立場に立って相手のこれからの人生や成長に役立つものを与えてあげること(相手の成長や充実の促進)』という二つの側面から考えて答えることができる。『自分の感情・境遇・立場』に基づく損得や不公平を先に考えているようでは、本当の愛とは言えず、『対象愛を偽装した自己愛・自己中心性(自分を愛するために相手を愛して思い通りの感謝や承認を得ようとしている)』である可能性のほうが高くなってしまう。

自分はこんなに相手にして上げたのに、自分だけこんなにつらい(淋しい)思いをしているのに、自分の気持ちや立場をまったく分かってくれないという風に考えるようになると、『見返り・損得勘定に基づく不公平感(自分だけ損をさせられている思い・相手は不誠実だしずるい)』に支配されやすくなるだけではなく、最終的には『自分を理解してくれない相手への怒り・怨恨』というネガティブな感情の高ぶりと鬱積・爆発に行き着いてしまう。自分だけが尽くしているのに相手からまったく返ってこない(気が利かない・何もしてくれない・面白みがない)という『見返り・損得勘定に基づく不公平感』によって関係が壊れていき別れに近づくというのは、『価値観・性格の不一致』の分かりやすい現れの一つではある。

自分が相手に与えたものや相手にしてあげたことではなく、『相手が求めていることを共感的に推測して考えること』『相手からしてもらったことに対する感謝(ありがたみ)やかけがえのなさについて思い起こすこと』が対象愛の深まりや相互的な思いやりにつながっていく。愛に基づく関係(自己中心性から離脱する対象愛の実践)が、甘い幸せや心地よい体験ばかりでないことは、一定の結婚生活や恋愛関係の経験をすれば誰もが気づくことである。

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自分を理解してもらいたい、いたわって(気遣って)もらいたいという思いを誰もが持ちながらも、まずは自分の側から相手のことを理解しようとすること、いたわって(気遣って)あげようとすることが、愛に基づく関係を居心地の良いもの、長続きするものにするための最善の方法(塊より始めよ・急がば回れの方法)でもある。対象愛とは『他者への奉仕の未完性・他者理解の不完全性(どんなに頑張っても相手の求めているものに自分の努力が追いつかないこと)』を前提としながら、それでもなお『相手が求めているものを与えるためにお互いが思いやりを持って努力し合うこと(時に密接な距離でふれあい、時に少し離れて自由にもなれるバランスを保つこと)』なのではないかと思う。

自分が幸せになろうと思って結婚・恋愛しても上手くいかないとは良く言われることではあるが、自分が相手を幸せにしてあげようと思って付き合うというのも『相手の自律性・目的性に基づく価値観』を無視した傲慢さ(自分が良かれと思ってする価値観の押し付け)の現れになってしまうことがある。結婚でも恋愛でも、お互いがある程度同じ方向や目的に向けて協力して頑張らなければならない場面(相手が困っている時や弱っている時には積極的に支えて手助けすべき場面)も多くあるが、夫婦(恋人)であろうと究極的には『自分とは別の独立した人格・価値観・好みを持つ他者』であるという尊重と礼節、一定の距離は必要になることのほうが多い。

このことを理解できていないと、『自分がやりたいこと・欲しいもの』を『相手がやりたいこと・欲しいもの』と混同してしまって、自分がやりたいことを相手に無理に押し付けたり、自分が欲しいだけのものを買ってあげて相手のためにして上げたと思い込んでしまったりすることにもなる。自分の立場・欲求に立ったままで相手のために行動・貢献しようとしても、『相手が求めているもの』を与えることはできず、『自分が求めているもの(自分が欲しいもの・やりたいこと)』を相手に押し付けてしまって、感謝されるどころかありがた迷惑に思われやすいという問題が生じてしまう。

こんなに一生懸命に相手のことを考えて奉仕したり贈り物をしたりしているのに、相手が自分の気持ちを理解してくれず感謝の言葉も伝えてくれないと不満に思っている人は、『誰の立場に立って行動しているのか・自分がしていることは誰が求めていることなのか』をもう一度立ち止まって考え直してみるほうが良いのかもしれない。どんなに献身的に尽くしてもどんなに良いものをプレゼントしても、それが『自分と同じように感じることが当たり前であるという価値観・感受性の強制』になっているのであれば、ほとんどの相手からは好意的に受け容れられにくいし、自分への感謝の気持ちも抱いてもらいにくい結果になってしまう恐れが強いだろう。

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元記事の執筆日:2015/05

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