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池上彰『世界を変えた10冊の本』の書評2:ユダヤ教・キリスト教・イスラム教と聖典


田沼靖一『ヒトはどうして死ぬのか 死の遺伝子の謎』の書評


『昭和天皇独白録』の書評1:アジア太平洋戦争と“立憲君主”としての天皇の役割


『昭和天皇独白録』の書評2:なぜ日米開戦は防げなかったのか?天皇と政治家・軍人・国民


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池上彰『世界を変えた10冊の本』の書評1:アンネの日記とユダヤ人の国家建設

池上彰さんが選ぶ『現代を読み解く新古典10冊』と銘打たれているが、本書で紹介されている10冊は『世界の歴史・宗教・紛争(テロ)・経済』にまつわる主張や価値観の根底にあるものを理解するための基本書である。キリスト教の『聖書』とイスラームの『コーラン』が選出されているが、『アンネの日記』もユダヤ教・ユダヤ人のアイデンティティと絡めて紹介されている、一神教の世界宗教の考え方の違いや対立の歴史を、その聖典の概略の説明から大まかに学ぶことができる構成は巧みである。

本書で紹介されている10冊の本は、世界の歴史や人々の意識(認識)を変えた10冊であると同時に、現代においても何度も読み返すべき価値のある普遍的な古典である。歴史・文化・民族の考察や異文化コミュニケーションにおいて、基本教養として知っていることが当然と見なされる『共有知識の基盤・前提』になっている10冊でもあるが、それぞれの本の書名と大まかな内容・影響を知っておきたいという人にはうってつけの新書になっている。『アンネの日記』はナチスドイツのユダヤ人弾圧を逃れて、隠れ家にこもって生活していたユダヤ人の少女アンネ・フランクが書き残した13~15歳の頃の日記を原案として出版された本である。少女の性的な告白や母親の嫌悪などを父オットー・フランクが削除して編集された版が最初に出版されたが、その後1986年にアンネ・フランクの『オリジナルの日記』に近い版も出版されている。

『アンネの日記』が欧米中心の国際社会に与えたインパクトは、ヒトラー率いるナチスドイツによって約600万人にも上るユダヤ人が“ホロコースト”で大量虐殺された歴史に、少女アンネの悲劇の物語を通して『限りないリアリティー(ユダヤ人差別の心情を持つ非ユダヤ系の白人に罪悪感)』を与えたということである。その結果、中東(パレスチナ)を領土とするユダヤ人国家イスラエルの建国に同情的な支持・支援がもたらされやすくなり、国連決議や人道主義に違反するイスラエルの過剰防衛的な国防政策が大目に見られやすい風潮が生まれやすくなった。戦後、イスラエルの諜報機関モサドによる徹底した『ナチ狩り』も行われたが、欧米諸国は時効無しの事後法的な戦犯訴追(=ナチ狩り)に対しても協力的姿勢を示した。

民族全体がナチスによって浄化・消滅させられそうになった悲劇を象徴する物語として『アンネの日記』は読まれ、『弱い民族は滅ぼされるというユダヤ人の被害者意識からの過剰防衛・暗黙の核武装』に対しても、ホロコーストのトラウマへの同情や欧米キリスト教圏のユダヤ差別の罪悪感から容認しがちになった。本書では、なぜユダヤ人は差別されるのかという理由について、『マタイ福音書』にあるイエス・キリストを十字架刑(磔刑)にせよと叫んだユダヤ人への歴史的怨恨、他の宗教と交わりにくいユダヤ教の選民意識・排他性から『仲間内での謀略・悪意』を疑われやすかったこと、中世期の賤業であった金融業で財を為すユダヤ人の一族が出て『嫉妬・羨望』に晒されやすくなったことなどを上げて説明している。

アンネ・フランクという10代の少女の日常生活やその時々の気持ちを生き生きとした筆致で綴った日記からは、アンネが悪意のない純真無垢なだけの少女ではなかったことも伝わってくる。どこにでもいるティーンエイジャーの少女として、母親に対する葛藤・嫌悪や友達に対する好き嫌いを感じながらちょっとした悪口を書き綴ってみたり、同世代の男の子に性的な興味関心を抱いたりしながら成長していたアンネだったが、『アンネの日記』は1944年8月1日でその記述が終わり、1945年2~3月頃にアンネはアウシュビッツ強制収容所で亡くなったという。

『アンネの日記』のサイドストーリーとして、現在でも中高年の人には女性の生理用品を“アンネ”と呼ぶことがあるが、そのアンネの語源がこのアンネ・フランク であることも語られており、アンネが隠れ家での潜伏生活中に生理用品がなくて困ったエピソードから、アンネという商品名の製品が開発されたということである。池上彰さんは、ナチスドイツに迫害されたユダヤ人の過去の歴史とイスラエルに攻撃・隔離を受けているパレスチナ人(アラブ人)の現状とを重ね合わせるような意見を書いて本書の紹介を終えているが、一方的に弾圧・虐殺される辛酸を舐めた民族が、今度は加害者的なポジションに回ることになるという歴史の皮肉な一面も示唆されている。

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池上彰『世界を変えた10冊の本』の書評2:ユダヤ教・キリスト教・イスラム教と聖典

『聖書』は、キリスト教圏である欧米世界の信仰・歴史・価値観の原点にある聖典だが、創世記・預言者や神が結んだユダヤ人との契約を中心にした『旧約聖書(ヘブライ語)』とイエス・キリストの言行録を中心にした『新約聖書(ギリシャ語)』との違いについて説明している。ユダヤ教もキリスト教も唯一神(ヤハウェ)が世界を創造して、最後の審判で人間の罪が裁かれるとする一神教であるが、ユダヤ教がユダヤ人だけを選民的に救済の対象とした『民族宗教』であるのに対して、キリスト教は人類全体の原罪を神の子であるイエス・キリストが磔刑に処されることで代わりに贖罪した(人類全体がイエス=神の子の尊い自己犠牲で赦し・恩恵を得ることができた)とする『世界宗教(普遍宗教)』としての特徴を持っている。

一神教の宗教の本質は神の権威や命令に対する『無条件の絶対化』であり、『不合理故に我信ず』の盲目的な信仰心がなければ、真の一神教の信者とは言えないという見方も強くある。聖書に書かれている生活規範や信徒の使命などについて、『なぜそれを守らなければならないのか?どうしてそういったルールがあるのか?』といった批判精神を持ち込めば、それは宗教・信仰ではなく科学・学問のほうに近づくことになる。神の命令の無根拠な絶対性について『旧約聖書 レビ記』を例に上げ、『食べて良い動物と食べてはいけない動物の区別』が示されている。豚やイノシシ、ラクダ、タコ、カニ、イカ、エビなどは『旧約聖書 レビ記』において食べてはいけない“不浄な汚れた動物”とされているが、なぜそれらの動物の肉を食べてはいけないのかの理由に科学的・合理的な理由などはないのである。

翻って考えれば、聖書にそう書いてあるから食べてはいけない、神がそう命令しているからしてはいけないというような理解をせずに、『人間・自分の側の理屈』で物事の是非善悪や可否を判断しようとする態度そのものが『非宗教的な態度』ということになるのである。神の天地創造やアダムとイブの創造、ノアの方舟といった『創世記』の有名なエピソードについて触れながら、『産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ』といった記述によって、カトリックやプロテスタントの原理主義的な人の中に『避妊』に否定的な人がいることも示されている。

女性の堕胎(人工妊娠中絶)についても、人間を増やそうとする神の意志に対する露骨な反逆と見なし、中絶クリニック・医師に対してテロのような実力行使を用いてでも阻止しようとする『キリスト教根本主義者(聖書記述に忠実に生きることを全ての人に強制しようとする原理主義者)』の存在が問題になることもある。多くの民族の父祖とされるユダヤ人のアブラハムが、神と結んだ“永遠の契約”によって『カナンの地』の所有権を子々孫々まで保証されたという『旧約聖書』のエピソードは、現代の『パレスチナ問題(イスラエルとパレスチナのカナンに相当する土地を巡る終わりなき紛争)』の遠因にもなっている。

『コーラン』の章では、冒頭に『汝らに戦いを挑む者があれば、アッラーの道において堂々とこれを迎え撃つがよい。だがこちらから不義をし掛けてはならぬぞ。アッラーは不義なす者どもをお好きにならぬ』という自衛的な聖戦(ジハード)を肯定するコーランの言葉が掲げられている。イスラム原理主義者(イスラム過激派)のしかけるテロリズムの攻撃・虐殺が、果たしてイスラームの『聖戦(ジハード)』と呼べるものなのかどうかという疑念が呈示されるが、一般的なイスラーム信仰とイスラム原理主義(イスラム過激派)を区別することの重要性について考えさせられる。

武力やテロを用いて欧米勢力を中東から排除しようとしたり(欧米の一般市民をテロの標的にしたり)、復古主義的なイスラーム共同体の法規範(死刑前提の極端な厳罰化)や過度に男女差別的な慣習(女性の学習権・婚姻における拒否権の否定など)を強制したりするタリバーンやボコ・ハラム、イスラム国(ISIS)などの『イスラム原理主義者(イスラム過激派の武装勢力)』は、一般的なイスラームの教え・生活やその信徒であるムスリムと同列に扱うことは難しい。『コーラン(アル・クルアーン)』は、神が天使ジブリール(ガブリエル)を介して預言者ムハンマドに語りかけた言葉をそのまま暗誦してアラビア語で記述したものとされる。

イスラームが『神への帰依』を意味する言葉であるように、同じ一神教のキリスト教と比較しても『神の権威性・規範性への従属(日常生活に影響する戒律・生活規範)』が現代においてもかなり強い宗教であり、その神の規範性や支配性をよりラディカルに先鋭化させていくと“世俗・近代のロジック”を全否定する復古的なイスラム過激派や原理主義の価値観に近づいてしまう。非常に暑くて雨が殆ど降らず作物が育たない、人間の生存にとって極めて過酷な砂漠の環境で生まれた一神教のイスラームは、『現世の幸福』よりも『天国の享楽』を強調する傾向があり、コーランにおいても天国での生活が如何に心地よくて素晴らしいものであるか(現世においては異性・飲酒について禁欲的な規範の多いイスラームだが天国では美しい複数の処女が与えられてかしづかれる、悪酔いしないお酒を飲むことができるなどの記載がある)が説かれている。

キリスト教と同じく、イスラームにも人間の死後に肉体が復活して神から裁かれる(天国に行くか地獄に行くかの判決が下される)という『最後の審判』の考え方があるが、最後の審判を待たずに即座に天国に行ける例外的な人間(天国行きの特急券を得た人間)として『聖戦(ジハード)の死者』が上げられているのである。本書では、以下のコーランの言葉が引用されているが、なぜ『聖戦(ジハード)』を殊更に強調するイスラム過激派の武装勢力に人が集まりやすいのかの理由の一つは、『現世の生活でほとんど楽しみや希望のない人たちが即座の天国行きを希望する』ということにある。

『アッラーの御為に殺された人たちを決して死んだものと思ってはならないぞ。彼らは立派に神様のお傍で生きておる、何でも充分に戴いて。(三章一六三節)』

欧米勢力や異教徒に対するテロ・紛争を聖戦と信じ込ませることができれば、決死の『イスラム聖戦士(ムジャヒディン)』を集めることがそれほど難しいことではないという現状がある。しかし、ジハードの原義はイスラームの教えや土地を守るための『自衛的な努力』であり、その努力の範疇を越えた一方的な暴力・支配に対してはイスラームの教えに反している側面もあるように思う。最終預言者とされるムハンマドからアリーへの血統を重視する“シーア派”とイスラームの宗教的な規範・慣習を守っていけば良いとする“スンナ派”の違い、イスラーム圏においてコーランが承認しているとされる『一夫多妻制』の現実の運用状況についても説明されている。

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『宗教の政治利用』は前近代的な社会や心理においては日常的なものであったが、現代における『イスラム過激派側の聖戦(ジハード)+欧米側のテロとの戦い』はサミュエル・ハンチントンが危惧した『文明の衝突』にまで発展する恐れがあるものである。『聖書』にせよ『コーラン』にせよ人類の幸福・平和・安寧のためにあるべき聖典が、政治・戦争に流用されて『誰かを殺しても良い根拠(戦争・虐殺の免罪符)』にされてしまうのは非常に残念なことであるが、これまで世界に大きな影響を与えてきた宗教とその聖典が『人類の生存・幸福・安心』にとって役立つ方向に作用してくれることに期待したい。

田沼靖一『ヒトはどうして死ぬのか 死の遺伝子の謎』の書評

ヒトを含む生物はなぜ死ぬのか、どうして個体は永遠に生存することができないのかという問いに対するマクロな答えは、進化生物学では『有性生殖で遺伝子多様性を保つため+世代交代で環境適応能力を高めるため』ということになる。一つの世代の同一の個体が、永遠とまではいかなくても数百年とか数千年とか超長期的に生存してしまうと、敢えて子孫を繁殖させる生物学的動機づけも失われやすくなるので、『急速な環境条件の激変』に適応できずに自己遺伝子や種が絶滅しやすくなってしまうという理由である。単純に、生殖行為をして世代交代したほうが、一つの個体が永遠に生きるよりも『個体の数』が増えやすい(一つの個体から二つ以上の子孫の個体が生殖されやすい)、種として数量的に繁栄しやすいという理由も考えることができるだろう。

単純に個体の身体が分裂して、自分と全く同じ遺伝情報をコピー(複製)するだけの単性生殖(単細胞生物)の動物は、遺伝子多様性を増やして環境適応を高めているわけではないが、分裂によって『個体の数』を増やしているので個体は世代交代をして死ぬことになる。生物の個体はマクロでは『生殖による世代交代』のためにいずれ死ななければいけないと解釈され得るが、ミクロでは本書がテーマにしている『プログラムされた細胞の死(アポトーシス)』のために、細胞がそれ以上分裂できなくなって死ななければいけないとも解釈できる。『生物の細胞がなぜ死ぬのか』の根本的な答えは未だ分からないし、世代交代のために生物の細胞は死ななければいけないというトートロジーにもなりやすいのだが、本書はアポトーシスの普遍的原理とその思想的な応用を探索する面白い内容になっている。

プログラムされた細胞の死、細胞の自殺プログラムとも呼ばれるアポトーシス(apoptosis)は、1972年にスコットランドに留学していた病理学者J・F・カーによって提唱されたという。怪我や病気など外部からの刺激によって細胞が膨張して壊死してしまう炎症・痛みを伴う『ネクローシス』に対し、『アポトーシス』は外部からの刺激がなくてもプログラムされた時期や周囲の細胞との情報交換によって、自ら収縮して分裂・崩壊していく細胞の自死である。2002年に、イギリスの生物学者シドニー・ブレナー、アメリカのロバート・ホロヴィッツ、イギリスのジョン・サルストンがノーベル生理・医学賞を『器官発生とプログラム細胞死の遺伝制御に関する発見』で受賞している。

この研究成果は細胞が『死の遺伝子プログラム』を持っていて、細胞がアポトーシスで自死する時にはDNA分解酵素やタンパク質分解酵素を活性化させて、自ら生命の設計図や素材を分断して破壊してしまうということ(細胞にはあらかじめ遺伝子DNAにプログラムされた自死による寿命があるということ)であった。アポトーシスは、生物の器官発生や形態形成、血液成分において『多めに細胞を作っておいて消去する戦略』と深く関わっており、更には悪性新生物であるガン細胞がそれ以上増殖しないようにする『異常細胞の自死のメカニズム』も担っているというのは興味深い。

死にたくないとか老いたくないとかいう(逆に死にたくなるとかいう)のは実に人間的な心理ではあるのだが、遺伝子によって制御された自死であるアポトーシスは、『不必要な細胞(異常を起こした細胞)が自ら死ぬことで個体の生命を維持する仕組み』になっており、生体制御と生体防御の上で無くてはならない仕組みでもある。一般的な体細胞のように分裂・増殖して古い細胞(自死する細胞)と置き換えられる細胞を『再生系』、脳のニューロンや心筋細胞のように基本的に発生からずっと同じ細胞が生き続ける細胞(寿命が来れば死んで数が減る細胞)を『非再生系』として分類している。細胞の置き換えが殆どなく生命維持に重要な役割を果たしている非再生系の細胞の寿命は『個体の死(心臓の異常・停止や認知症の進行、生命維持の脳機能低下など)』とつながっている。非再生系の寿命による細胞死は、アポビオーシスという概念で説明されている。

DNAの複製と修復について、一般にネズミやウサギのように子孫を多数残す生物ほど、DNAが損傷しやすく細胞がガン化しやすい、DNAの修復能力も低くて、結果として寿命も短くなるという。ヒトはDNAの情報の修復能力が高くて細胞がガン化しにくく寿命も長いほうに入るが、子孫の数を多く残しにくい種として本書では位置づけられている。がん細胞にアポトーシスを起こさせることによる新たながん治療の研究の話、アルツハイマー性認知症のアミロイドβ仮説において、アミロイドβ(タンパク質)がニューロン(神経細胞)のアポトーシスを促進する情報を出しているのか、アルツハイマーの結果としてアミロイドβが蓄積しているだけなのかといった、『病気・難病・医薬品開発(ゲノム創薬)とアポトーシスの相関』についてのトピックも多く収載されている。

“現象的・確率論的アプローチ”である『従来型製薬』に対して、“論理的・決定論的アプローチ”である『ゲノム創薬』があるのだが、ゲノム創薬という言葉を知っていてもその具体的な内容を知らない人も多いと思う。病気の原因であるタンパク質の構造を分析してから、その構造に合わせて有害なタンパク質を阻害する化合物をコンピューター・シミュレーションを駆使して設計するという、従来型創薬とは逆方向のゲノム創薬の基本的な考え方を学ぶことができる。

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最終章である『第6章 「死の科学」が教えてくれること』では、約38億年の生物の歴史を遡りながら、性(有性生殖)と共に死が現れたという見解を示している。ランダムな遺伝子の組み換えで、新たな遺伝情報を持った受精卵を作るという『有性生殖』では、外界で生存が難しい遺伝子異常を起こすリスク(減数分裂における情報の組み合わせと複製のエラーの可能性)が高まるため、異常を起こした受精卵・初期胚が自ら自死するアポトーシスの仕組みが備わったという仮説を展開する。この仮説は、遺伝子に優劣をつける優生学的・差別的な仮説であるという批判を受けることもあるかもしれないが、流産・死産のメカニズムとして遺伝子異常(発生プロセスにおける異常)との関係性が示唆されることも多い。

ヒトの再生系の細胞は約50~60回の分裂によってアポトーシスで死ぬが、これは『回数の上限による死』であり、非再生系の細胞は約100年という年月の経過によってアポビオーシスによって死ぬが、これは『時間(寿命)の上限による死』である。人類、特に権力者(自分を幸福・健康であると認識する者)にとって今の幸せと若さがずっち続けば良いのにという『不老不死』は一つの夢とされきたが、アポトーシスとアポビオーシスという遺伝子によってプログラムされた老化・死が、その夢を確実に断絶させ、自然の仕組みが永遠を願うヒトの野心を打ち砕いてきた。アポトーシスとアポビオーシスという二重の死のプログラムが、どんなに健康状態に気をつけていて遺伝情報が優位な個体であっても確実に死に導く、これは新しい適応的な遺伝子の多様性を増して、古い適応度の劣る遺伝子を確実に消すための仕組みだというが、『諸行無常の理と生物学的なプログラムとの相関関係』を意識させられる壮大な物語性さえ感じさせられる。

生命・遺伝子の連続性を保証するために、個体にとって不連続な切断となる死があらかじめ準備されているという自然の摂理は、『私という自意識・死の観念』を持ち生の欲望を肥大させてきたヒトにとってはある種の諦観・限界をもたらすものでもある。しかし、この自然の仕組みを生命科学技術によって強引に乗り越えられる日が来るとしたら、やはり環境適応能力が超長期的には低下して、子孫を残したい欲求や出生率も更に落ち込み(個人としての人生の幸福や快楽、若さの追求ばかりが最優先となり)、ヒトは絶滅の隘路に陥ってしまうのではないかとも思う。あるいは、現象面で『少子化・アンチエイジング化・享楽化(娯楽氾濫)』の進む先進国では、今まで生命の連続性を担保してきた生物学的な仕組みの衰退の兆候が現れているのかもしれない。

ヒトはもっと若いままでいたい絶対に致命的な病気になりたくないとか、もっと優れた容姿やスタイルの外観を手に入れたいとか、もっと長く豊かに健康に生き続けたいとかいう野心を、再生医療やアポトーシス制御技術、遺伝子操作などの生命科学技術によってどうにかしようとするのかもしれないが……生殖や世代交代(遺伝子多様性・数の増加)による環境適応の摂理に科学で反抗することの結果は、果たしてどのようなものになるのだろうか。

『昭和天皇独白録』の書評1:アジア太平洋戦争と“立憲君主”としての天皇の役割

戦後の昭和21年(1946年)3~4月にかけて、昭和天皇が大東亜戦争の原因と経過、終戦についてご自分の記憶だけを元に語られた独白を、外交官(書記官)の寺崎英成(てらさきひでなり)が書き留めて記録していたものである。遠慮なく話せる極めて近しい側近だけを集めた非公開の場での昭和天皇の発言であり、ここだけの話の“内輪の述懐”として語った本音が含められているだけに、主権者とされた天皇自身が先の大戦をどのように認識していたかだけではなく、個別の政治家・軍人の判断や行動についてどう思っていたのかという『戦時中には決して語られなかった対人評価の思考・感情(率直にいえば人物に対する好き嫌いも含む)』が残されているのは興味深い。本書第1巻の冒頭では、『合計五回、前后八時間余に亘り大東亜戦争の遠因、近因、経過及終戦の事情等に付、聖上陛下の御記憶を松平宮内大臣(慶民)、木下侍従次長(道雄,藤田侍従長は病気引篭中)、松平宗秩寮総裁(康昌)、稲田内記部長(周一)、及寺崎御用係の五人が承りたる処の記録である、陛下は何も「メモ」を持たせられなかった』と本書が作成された昭和天皇へのインタビューの由来が記されてある。

大日本帝国憲法下における天皇は主権者(軍統帥権の総覧者)であり、人間を超越した宗教的な現人神(神聖不可侵の血統者)として国民に教育されていたため、現代からの印象としては政治家であろうと軍人であろうと天皇が命令を下せば簡単に服属させられるようにも思う。だが、国家の政情を支える根本が『国民感情・国民教育・世論』であること(国民の大多数が好戦性・軍礼賛・反米意識・現状の不満を持っていれば天皇であってさえもその国内世論に反対することは不可能なこと)を天皇は知悉していた。それもあって、日独伊の三国軍事同盟+日米開戦に対して天皇はそれに全面的賛同はしかねるといった懸念・注意・示唆を臣下に幾度か示しながらも、はっきりとした戦争反対の意思表明を敢えてしなかったのではないかと感じられる。

1930年代からは特に国家が総力を上げて、“国民皆兵・富国強兵・滅私奉公・アジア進出”を可能とする『戦争・戦死に適応可能な国民の愛国教育』を続けてきたのだから、天皇がいくら現人神としてのオーラをまとっていても個人として急に『アメリカやイギリスとの戦争は回避すべき(ドイツやイタリアに接近し過ぎてアメリカとの不可避な決戦図式を強調することは危険である)・軍や内閣が行おうとしている軍事政策は朕の意思に背いているので阻止したい』と発言すれば、国内情勢をクーデターが起こりかねない非常に不穏な空気にする危険性が十二分にあった。無論、昭和天皇が対話重視の協調主義的な外交戦略(特に英米との戦争の回避・日中戦争の早期講和)をすべきと本心では思っていたのに、どうしてそれを実際の政治に反映させる強い意思を示さなかったのかの最大の理由は、戦時中にあっても明治維新以来の天皇の位置づけは『専制君主・君主親政』ではなく『立憲君主・内閣と議会の決定の正当性を担保する権威』であったからである。

昭和天皇は東条英機内閣が日米開戦の決定(真珠湾攻撃の追認)をした時にそれを速やかに裁可したが、このことについて立憲君主である天皇の承認・裁可の作業が原則として『拒否権を持たない事務的作業』であることを訴えてやむを得なかったのだと語っている。現代日本の日本国憲法下の立憲君主的な天皇制に置き換えても明らかだが、天皇が首相・内閣・国政・議会の決定などに対して、『それは朕の意思に沿わないから改めよ』と命令する権限は戦前の天皇であっても基本的にはないのである。一方、戦前の天皇は絶対権威者としての『現人神』に位置づけられており、政治家・軍人の上層部であってもそのご発言に対して軽々に否定・批判することはできなかったし、天皇が本気で『お前の政策や行動は絶対に許されない』と言えば、前近代的な宣旨・綸旨としての効力を持ち得た可能性はある。天皇自身は『現人神のフィクション』について拒絶的であり、私は普通の人間と同じ解剖学的構造を持っているのだから神などではなく人間であるという科学的(常識的)な自己認識についても語られている。

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昭和天皇は前近代的・人治的な専制君主としての像・力を自ら否定して(現神としての宗教的な神聖君主像の流布にも冷ややかな態度であり)、近代的な立憲君主としての権威・責任の役割を果たさなければならないという意識を強く持っていたことが本書の複数のエピソードから伺われるのは趣き深いところではないかと思う。

『昭和天皇独白録』の書評2:なぜ日米開戦は防げなかったのか?天皇と政治家・軍人・国民

昭和天皇が臣下の首相・軍人に対して例外的に自分の意思を示して命令や指示、賛否表明をした事例としては、『張作霖爆殺事件(1928年)に対する軍法会議の処分を怠った田中義一内閣の総辞職』『上海事件(1932年)における白川義則大将に対する停戦・戦線不拡大の指示』『ポツダム宣言受諾と終戦決定の御前会議における御聖断(1945年)』などがある。天皇は『満州事変』を拡大して日中全面戦争に突入する契機になりかねなかった『上海事件(上海占領)』において、軍部上層の命令には従わず自分の私的な停戦命令(勝っていても軍を進めない戦線不拡大の命令)を忠実に履行した白川義則大将を忠臣として賞賛する歌を贈っているが、当時は天皇が中国進出の戦争に否定的であるという誤解が広まってはならないとして、この歌の存在は侍従武官によって隠匿されることになった。

天皇は『満州事変の拡大+日中戦争の広域化』を非常に警戒して陸軍(関東軍)を何とか牽制したいとも思っていたが、その理由は中国大陸の懐の深さもあるが、それ以上に満州という北部の田舎だけへの進軍に留まるならまだしも、北京・南京・天津といった中国主要都市への進出を強引に進めれば必ず英米の強力な干渉を招いて、中国だけでなく英米も敵に回した泥沼にはまる(そういった日本の大陸進出・占領拡大を英米は戦争の大義名分として逆に手ぐすね引いて待ち受けている可能性がある)との警戒であった。満州事変を主導した石原莞爾は、事変の拡大による日中戦争への突入に反対していたが、陸軍省・軍務課長だった武藤章は石原に対して『かつて閣下が行った事変と同じことをしているのです』と嘯いて、事変を南京攻略・漢口攻略へと段階的に拡大していってしまった。

この辺りの日中戦争泥沼化につながっていく歴史の転換点において、昭和天皇は一貫して蒋介石政権との早期講和を希望していてドイツのトラウトマン工作による『日本有利な日中講和』に期待をかけていたが、松井石根(まついいわね)軍司令官の強硬論に陸軍・参謀本部はのっかってしまい、引き返すことのできない『南京攻略』へと更に中国進出の度合いを深めてしまったのである。この時点で、トラウトマン仲介における日中講和が実現していれば、蒋介石も乗り気であったと伝えられる所から、現在日中関係の歴史認識の対立の原因になっている『南京虐殺』も起こらなかったといえる。その意味においても後付けにはなるが、松井石根司令官の勢い・好機を逸せずに南京を攻略すべしの意見具申は、中国人の抗日戦争のナショナリズムに着火して、戦線の収拾を困難にする正に歴史の転換点となった。

東条内閣における日米戦争の決定については、アメリカ主導のABCD包囲網による石油輸出禁止の締め上げが日本を戦争に駆り立てる主な誘因となったが、『陸軍の主戦論+東条英機・杉山元・永野修身の戦争論』は当時の日本の圧倒的なマジョリティの世論と国粋主義の後押しを受けていたもので、対米戦争に抑制的であった近衛文麿や豊田貞次郎、米内光政などはその意見を大々的に述べることも困難であった。昭和天皇は東条英機という陸軍に影響を振るい得る主戦派の人物に対して、『天皇に対する忠誠心』を過大に評価したところもあるが、ポスト近衛文麿の首相となった東条に対して『時局は極めて重大なる事態に直面せるものと思ふということ=戦争やむなしに傾いた9月6日の御前会議の決定を白紙に還して、平和になるように極力尽力せよ・陸海軍の協調体制を築いて日米開戦を回避せよ』という大命を含ませていたという。

だが結局、東条は元々が主戦派でもあり天皇の内意に従うことはできず、陸軍の圧力もあったが日米開戦不可避の政局に流されて真珠湾攻撃で戦端を開くのである。戦前の日本の政治体制の問題点としての『シビリアンコントロール(文民統制)の機能不全・議会の前線への影響力低下・大本営の独断専行と報道統制・極端に敵愾心や滅私奉公を煽った国民教育(国民精神総動員)』なども合わせて考える必要がある。また議会政治が軍部によって実質的にのっとられてしまったような恰好になった原因の一つが『現役武官制(陸軍省・海軍省の大臣には今で言う制服組の現役武官しかなれないルール)』における陸海軍の大臣の出し渋り(軍の意向に従わないのであれば内閣を構成する大臣を出さずに議院内閣制を停滞させるという脅し)にあったことも留意しておきたい点である。

昭和天皇は日本人の国内世論について、『多年にわたって錬磨してきた精鋭なる日本軍を持ちながら、米国の強硬な要求(近代日本の戦争成果の多くの放棄の要求)に対して戦わずしてむざむざと不利な妥協(国民には屈服と映る妥協)をしたほうが良いという平和論を唱えたならば、国内のナショナルな与論が沸騰して必ずクーデター(政権転覆ないし天皇暗殺)が起こっただろう』と述べている。この日米開戦と天皇の本音のエピソードについては、ジョン・ガンサー『マッカーサーの謎』に以下のような記述があるのだという。「天皇は今度の戦争に遺憾の意を表し、自分は『これを防止したいと思った』といった。するとマッカーサーは相手の顔をじっと見つめながら、『もしそれが本当とするならば、なぜその希望を実行に移すことができなかったか』とたずねた。裕仁の答は大体次のようなものだった。

『わたしの国民はわたしが非常に好きである。わたしを好いているからこそ、もしわたしが戦争に反対したり、平和の努力をやったりしたならば、国民はわたしを精神病院か何かにいれて、戦争が終わるまで、そこに押しこめておいたにちがいない。また、国民がわたしを愛していなかったならば、彼らは簡単にわたしの首をちょんぎったでしょう』と」似た内容になるが、なぜ昭和天皇が基本的には『戦争反対+三国同盟反対の英米協調主義(交渉戦略重視の平和主義)』の理念を内心に抱えながらも、アメリカとの太平洋戦争の開戦に際して明確に“ノー”と言わなかったのかの理由について、本書では天皇自らが“ベトー(天皇大権に依拠した絶対拒否権)”という概念を用いて以下のように述べている。

今から回顧すると、最初の私の考は正しかった。陸海軍の兵力の極度に弱った終戦の時に於てすら無条件降伏に対し『クーデター』様のもの(=注記。終戦反対・玉音放送阻止・録音盤強奪のための陸軍の徹底抗戦派による宮城襲撃事件)が起こった位だから、若し開戦の閣議決定に対し私が『ベトー(拒否)』を行ったとしたならば、一体どうなったであろうか。日本が多年錬成を積んだ陸海軍の精鋭を持ち乍ら愈々(いよいよ)と云ふ時に蹶起(けっき)を許さぬとしたらば、時のたつにつれて、段々石油は無くなって、艦隊は動けなくなる、人造石油を作って之に補給しよーとすれば、日本の産業を殆ど、全部その犠牲とせねばならぬ、それでは国は亡びる、かくなってから、無理注文をつけられては、それでは国が亡びる、かくなってからは、無理注文をつけられて無条件降伏となる。

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開戦当時に於る日本の将来の見透しは、斯くの如き有様であったのだから、私が若し開戦の決定に対して『ベトー』したとしよう。国内は必ず大内乱となり、私の信頼する周囲の者は殺され、私の生命も保証出来ない、それは良いとしても結局狂暴な戦争が展開され、今次の戦争に数倍する悲惨事が行われ、果ては終戦も出来兼ねる始末となり、日本は亡びる事になったであらうと思ふ。反米から親米へと価値観が180度転換してゆく戦後において昭和天皇の口から語られたことであるので、『昭和天皇独白録』に記録された内容がすべて客観的な史実や中立的な人物評価であるという保証もないとは言えるが、立憲君主制下における天皇(君主)の影響力・役割の限界と葛藤・苦悩が伝わってくる内容である。

近年は自公政権下(安倍政権下)において、集団的自衛権・積極的平和主義(自衛隊の海外派遣による国際支援活動・武器使用要件・機雷撤去要件の緩和)を中核とした『安保法制の大改革』が進められており、実質的な改憲と言っても良いほどの安全保障体制の急転換が起こっている。昭和の戦争の歴史や軍部の振るった政治への影響力を、昭和天皇の言行録を下に振り返ってみた時に思うのは、“専守防衛・災害救助・国際協力(平和維持活動)”に徹してきた戦後日本の自衛隊のあゆみは理念としても国民の安全保護においても概ね正しかったということであり、“日米安保条約による抑止力”の恩恵を受けていた側面はあっても日本自身が『敵対国に定めた国の人々を殺傷する軍事作戦』に直接的に関与しなかったことの国際的信用は大きいということである。

自衛隊を軍隊(国防軍・日本軍)に変更したい、自衛隊は国際的には軍隊として認識されているのだから自衛隊という名称にこだわる必要はないという論調は、安倍政権の安保法制に関心の強い議員に多く見られるが、自衛隊と軍隊との違いは『国際的・法律的な他律の定義』にあるというよりも、アジア太平洋戦争(大東亜戦争)を経験した日本が『武力による問題解決(武力で外国人を威圧・殺傷することによる問題解決)』を放棄して国際協力を進めるという決意・意識の転換にあったと見るべきではないだろうか。外国に合わせて自衛隊から軍隊への名称変更を進めたり、自衛隊の武器使用要件を弱めたり戦闘に参加しやすくしたりして戦場の前線(形式的には後方支援とされるが)に出ることよりも、戦後日本が外国に対する威圧・殺傷を一切してこなかった自衛隊のような『軍隊の持つ役割・使命の平和化』を国際的に広めていくことのほうが本質的に価値のあることだろうと思うのだが。

星野仁彦『発達障害に気づかない大人たち』の書評1:大人の発達障害が見過ごされやすい要因

中枢神経系(脳)の生物学的な成熟障害や機能不全によって発症する『発達障害(developmental disorder)』は、今まで子供に特有の障害と考えられてきたが、『子供時代の発達障害』を見過ごされたままで大人になってしまう人たちが少なからずいる。本書は、ADHD(注意欠如・多動性障害)やアスペルガー障害、自閉症、学習障害(LD)などの発達障害が大人にも起こり得るという前提の下に、『大人の発達障害』の原因や症状、経過、発症メカニズム、対処や治療などについてまとめられた本である。

発達障害は、『社会生活・人間関係・仕事や学業・コミュニケーションに上手く適応できないという症状及び問題行動』をあまりに広範に含みすぎているという傾向はある。そのため、原因がはっきりと分からない状況のまま、人生や仕事、勉強、人間関係が上手くいかずに躓いている人たちが読むと、『各発達障害の特徴が自分に全て当てはまっている』と感じやすくなりすぎるバーナム効果の問題はあるかもしれない。しかし、『大人の発達障害』について一通り学びたい知りたいという人にとっては読みやすい一冊に仕上げられていて、子供時代に発達障害を発症していたのに気づかれないままで大人になって困っている人たちには役立つ知識・情報も多く収載されている。

知的障害を伴わない各種の発達障害のケースでは、友達関係でトラブルが多かったり集中力を維持できなかったり、短気で怒りやすかったり整理整頓が苦手だったりしても、学生時代までは何とかやり過ごせる場合も多く、『社会性・協調性・集中力・対話力(コミュニケーション力)』が要請される社会生活や仕事状況に直面してはじめて、発達障害の問題が表面化してくることが多いのだという。本書は、中枢神経刺激薬をはじめとする“薬物療法”と社会技能・対人スキルをロールプレイなどを通して高める“心理療法(カウンセリング)”によって、発達障害を持つ大人であっても社会適応能力・仕事(学業)の遂行能力を高められるという標準的な発達精神医学の見地に立って書かれている。また、大人になってからでも『早期発見・早期療育』の原則を実践していくことによって、精神疾患や反社会的行動にまで悪化していくことのある『二次障害・合併症』をできるだけ防ぐことも目的にしている。

発達障害を見過ごされたままで大人になった人が改めて発達障害の診断・治療を受けることのメリットとして、『自分の不適応の原因がはっきりすること・二次障害や合併症を予防しやすくなること』だけではなく、『社会的な偏見や誤解を減らせること(本人の人間性・性格・考え方の問題として非難されにくくなること)』も上げられている。発達障害全般の包括的定義として、『言語機能・社会性・協調性・コミュニケーション能力・協調運動(微細運動)・生活習慣・感情制御(衝動制御)の発達がアンバランスになったり未熟なままになったりすること』という定義を考えることができる。これらの精神機能や社会生活機能の発達のアンバランスさ・未熟さの原因は、“本人の性格や価値観・親の育て方・家庭環境の問題・友人関係の悪さ”などではなく、“脳機能の成熟障害・各種の脳機能の偏り(凸凹)”によるものだとされている。

本書では、注意力が低くて落ち着きがない、時に衝動性(攻撃性・短気・怒り)をコントロールできなくなる“ADHD(注意欠如・多動性障害)”、言語機能・社会性・対人スキル・こだわり行動・刺激過敏性などの問題を抱える“広汎性発達障害(自閉症スペクトラム)”、読む・書く・計算するなどの学習機能が障害される“学習障害(LD)”、知的能力の発達が停滞したり障害されたりする“知的障害(精神発達遅滞)”、運動機能や手先の器用な動きが障害される“発達性協調運動障害”などが発達障害として取り上げられている。軽度の発達障害者は、知的障害を伴わず勉強はそれなりに出来ることも多いので、『本人のやる気がないだけ・性格が悪くて常識がない・人の気持ちが分からない人間性』といった誤解や偏見を受けやすいという問題もある。

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大人の発達障害が発見されにくく見過ごされやすい原因としては以下の3点が指摘されている。

1.性格や個性の問題だと誤解しやすい……一つ一つの症状や問題行動は誰にでも有り得るものであるが、それらが複数組み合わさったり程度が酷くなることによって、発達障害の不適応問題が明らかになってくる。

2.症状や病態の変化が大きく、分かりにくい……うつ病・パーソナリティー障害・アルコール依存症などの合併症が出てくることによって、発達障害本来の症状・病態が覆い隠されて分かりにくくなってしまう。

3.専門医が極めて少ない。

星野仁彦『発達障害に気づかない大人たち』の書評2:ADHDの各種症状と発達障害の治療方略

ADHD(注意欠如・多動性障害)に対する一面的な見方として『落ち着きがなくて短気でキレやすい』ということがあるが、同じADHDでも多動性と衝動性が前面に出る“多動性・衝動性優勢型(ジャイアン型)”と注意散漫や忘れ物の多さ、片付けのできなさ、人付き合いや会話の苦手さが前面に出る“不注意優勢型(のび太型)”とでは問題状況の現れ方がまるで異なってくる。 『第2章 こんな人は、発達障害かもしれない』では、大人の発達障害でも多いとされるADHDの症状・問題の特徴や診断基準が詳しく列挙されている。ADHD(注意欠如・多動性障害)の基本的症状として9項目、その他の随伴症状として7項目が上げられている。

基本的症状

1.多動(運動過多)

2.不注意(注意散漫)

3.衝動性

4.仕事の先延ばし傾向・業績不振

5.感情の不安定性

6.低いストレス耐性

7.対人スキル・社会性の未熟

8.低い自己評価と自尊心

9.新奇追求傾向と独創性

その他の随伴症状

10.整理整頓ができず、忘れ物が多い

11.計画性がなく、管理が不得手

12.事故を起こしやすい傾向

13.睡眠障害と居眠り

14.習癖

15.依存症や嗜癖行動に走りやすい

16.のめり込みとマニアックな傾向

これらの網羅的なADHDの症状や問題行動の一部は、『共感性の欠如・社会性の未熟・コミュニケーション能力の低さ』などの広汎性発達障害(PDD)・自閉症スペクトラムの人の特徴とも重なっており、脳の機能障害である発達障害全般の特徴の共通性を示唆しているところもある。ADHDや広汎性発達障害(アスペルガー障害)、学習障害などの発達障害では、『自尊心の欠如・自己肯定感(自己評価)の低下』も問題になりやすいが、本書ではメアリー・ファウラー『手のつけられない子 それはADHDのせいだった』を参照して、ADHDを持つ発達障害者の自尊心が低くなりやすい原因として以下の6つを上げている。

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1.成功体験を積むことができない

2.周囲の評価が低い

3.『できるのにやらない、怠けている』と誤解されやすい

4.無理解な親や教師から過大な期待をかけられる

5.できたりできなかったりと症状が変動する

6.自尊心を司る基底核・線条体の『報酬系』と関係する脳機能障害

『大人の女性の発達障害』の特徴として、他者に攻撃的になったり社会のルールに違反する衝動性が見られにくい“不注意優勢型(のび太型)”が多いことが指摘されていて、大人になってからの女性の発達障害は、男性の発達障害よりも発見されにくいと述べられている。大人の女性の発達障害に特有の症状・問題として、『家事や雑用が段取りよくできない・自己評価や自尊心が著しく低い・うつ病や不安障害などの合併症を起こしやすい・しばしば性的な問題を抱える・月経前不機嫌性障害(PMDD)が重くなりやすい』などが取り上げられている。

『第3章 発達障害は隠れている』では、発達障害が原因となって発症する恐れのある合併症・二次障害について詳しく書かれている。大人のADHDの合併症として現れることのある精神疾患や問題行動として、『うつ病(気分障害)・双極性障害(躁うつ病)・不安障害(神経症)・依存症や嗜癖行動・行為障害(非行)・反社会的行動(犯罪)・パラフィリア(異常性愛)・パーソナリティー障害・チック・トゥレット症候群(運動性チックと音声チックの併発症状)・学習障害』などを指摘している。

これらの精神疾患や問題行動が長期的に遷延して原因もはっきりしない時には、発達障害の可能性を疑ってみるべきという著者・星野氏の見解が記されているが、発達障害ではほとんど全ての精神疾患が『二次障害・合併症』として発症する恐れがある(不適応な精神症状や問題行動の背後に発達症状の素因が潜在している可能性がある)ということでもあるのだろう。『第6章 磨かれていない原石』では、歴史上の偉人や天才、芸術家の中に発達障害を持っている人が少なからずいたという事例・人物として、ベートーヴェンやアインシュタイン、ピカソが取り上げられ、日本の歴史上の英傑である織田信長や坂本龍馬なども発達障害だったのではないかと推測されている。

病跡学(パトロジー)としては根拠も資料も不足しているので、その多くは現在の知見から過去の人物のエピソードを見直した場合の類推による当てはめに過ぎないという部分もあるが、『発達障害の人でもその個性や特長を活かすことによって大きな成果・業績を上げられる可能性がある』という希望や夢を示唆してくれている。発達障害者の特性と適職を知って、『専門教育・就労支援・キャリアガイダンス』で支援していくという姿勢が大切であり、発達障害の人に向かない『対人スキルや社会性・協調性・臨機応変が求められる職種』を避けて、『特定分野の専門的な知識・技術・センス・情報処理などが要求されるニッチな職種』を志望していくことで、社会適応・職業活動がスムーズにいく可能性も見えてくる。

『第5章 大人の発達障害は治せる』では、発達障害であることの現実に本人と周囲が気づいておらず、本人が適切な治療・教育や支援(サポート)を受けられていないことによって、社会不適応な状況が悪化したり対人的なトラブルが起こりやすくなったり、二次障害・合併症が発症しやすくなるという問題が指摘されている。大人の発達障害に対する具体的な治療方法として、精神医療的な薬物療法を中心とする以下の5点の組み合わせが推奨されており、本人が発達障害の診断を認知して受容することで心理療法(カウンセリング)や心理教育の有効性が高まるとされている。

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1.心理教育と環境調整法

2.認知行動療法

3.心理療法(支持的・指示的カウンセリング)

4.自助グループへの参加

5.薬物療法

本書で取り上げられている大人の発達障害の治療法の基本は、社会生活や人間関係に上手く適応できない原因が『自分の性格・怠け・努力不足・家庭環境・親子関係』などにあるのではなく、本人に責任のない『脳機能の発達のアンバランス(凸凹)・脳の成熟障害』にあるということを理解して貰った上で、『環境・認知・関係性』を調整しながら、自分にできる活動・仕事を絞り込んで取り組んでいくというものである。専門医による発達障害の確定診断が出た場合には、その結果を受け容れてサポートしてくれる理解者を得ることが治療を促進することにつながるし、人間関係やコミュニケーションが関係する『不得意な領域』を避けて、自分が興味関心を持てたり専門的な努力を続けられそうな『得意な領域』を絞り込むことが、職業上の社会適応につながっていく。

“否定的・悲観的な認知”を“肯定的・楽観的な認知”へと修正していく認知行動療法も発達障害(特にうつ病を合併したような発達障害)に有効なことがあり、自分自身や人間関係に対する多面的で柔軟な考え方、変化する状況に対応できる自己肯定的な物事の受け取り方を、粘り強く身につけていくことも大切である。第5章の末尾では、家族や配偶者、上司、同僚などが発達障害を持つ人に対して、どのように向き合ってどういった対応をしていけば良いのかという『具体的な心理サポートの方法・生活習慣や仕事のやり方の改善方法』についても書かれているので、発達障害に悩んでいる家族や部下(同僚)がいる人にも参考になる内容になっているのではないかと思う。

春木豊『動きが心をつくる 身体心理学への招待』の書評1:人間の心の起源としての動き・感覚

中枢神経の“脳”によって人間の“心”が作り出されるという心脳一元論の脳科学的な心理観が現代では優勢である。しかし、本書で解説されている『身体心理学』では、高次脳機能よりも原初的で本質的な『身体の動き(行動)+感覚』に焦点を当てて、人間の心が『脳』よりも『身体』によって大きく制御されていることを語ろうとする。中枢神経(脳)が末梢神経(身体)を一方向的に統制しているのではなく、末梢神経の身体性とそこから生み出される感覚・気分・感情といったものが、中枢神経(脳)の高度な観念操作機能と相互的に作用している。これが身体心理学の大きな前提になっており、脳さえ徹底的に研究すれば人間の心を完全に理解してコントロールすることができるかのような幻想的な科学観に抵抗している。第1章『心が生まれる前』第2章『心の誕生』では、進化生物学と動物行動学の歴史的な知見を応用しながら、人間の感覚・行動から段階的に形成されていった『心の起源』を興味深く探求している。感覚器官や顔の起源を、約5億年前から存在している脊索動物の祖のムカシホヤに求めて、動物の顔は元々は『腸の先端+各器官の一部(内臓系筋肉)』から作られたという仮説を紹介している。

動物と環境(生存に有利な環境か不利な環境か)のダイナミックな相互作用によって『原初的な身体の動き』が生み出されたが、原初的な動きの典型である『無定位運動・走性』は脳のない単純な単細胞生物や昆虫にも見られる動きである。進化のプロセスでは、脳があって行動(身体の動き)が生み出されたのではなく、行動(身体の動き)が先にあってその後に脳が生み出されたという事になる。脳の誕生と機能的な発展によって、動物の行動や感情はますます複雑さを増していくことになるが、発生の順番としては、『脳・高次脳機能』よりも『感覚・行動』のほうが数億年は先に発生しているということになる。当然、原初的な感情や攻撃欲求、恐怖・不安を伴う『人間の行動』の中には、『動物(特に高等類人猿)の行動の名残』があるわけで、『怒り・攻撃・友好・恐怖(逃走)』などの行動においては、人間と類人猿には似通った行動が多い。

動物行動学者のアイブル=アイベスフェルトは、人間は地理・文化・民族の差違を超えて、『身分・階級・権力の上位性』を誇示するために、階級章や肩部分の装飾品などで『肩を大きく見せる傾向』があると指摘しているが、この飾り付けや誇張の起源は『仲間を威嚇するために背中・肩の筋肉を緊張させる動物の行動』にあるという。確かに、やくざやヤンキー、不良などの暴力の優位性を自覚する無法者には、肩をいからせるようにして(肩を大きく見せ揺するようにして)ガニ股でのし歩くという典型的なイメージがあるが、これは類人猿や哺乳類の時代から残っている『動物的な威嚇行動・示威行為の名残』なのだろう。一般的にも、立場・権力が強いほうが胸を張って肩を大きく見せるとか、立場・権力が弱いほうが低い姿勢を取ったり土下座するとかいった、動物の行動を原型とする『力関係の象徴的な示唆』が古代の人間社会の昔から繰り返されていたと推測される。

レスポンデント条件づけ(古典的条件づけ)とオペラント条件づけ(道具的条件づけ)の本質的な差違として『感情的判断の有無』を取り上げ、ネズミや犬・猫でも形成できるオペラント条件づけでは『感情(情動)→予期→選択』という心の原初的な働きが見られるとした。環境の変化に反応した『身体の動き』という経験が脳に記憶されることによって、『条件づけの行動』が実際に生成することになるのである。

第3章『動き、体、心』では、人間の身体の動きの種類を以下の4つに分類して、無条件(本能的)に動く『レスポンデント反応』と自発的(意図的)動く『オペラント反応』とを区別している。

1.生理的反応(反射)……唾液反射、瞳孔反射、膝蓋腱反射、内臓の動きなど、環境の刺激に対して自分の意思・意識を伴わずに自動的に反応する動き。

2.体動……表情、目線、姿勢など体表の筋肉の微細な動きで、無意識的なものもあれば、意志的なものもある。

3.動作……四肢を含む体全体の動きで、概ね意識的なものだが、中には無意識的なものもある。

4.行為……相手や状況との関係性の文脈の中で意味づけられる反応で、意識的かつ意図的な動きである。

進化論では、脳の構造が形成される前に感覚器官の構造が形成されているのであり、昆虫のように下等(単純)な動物では『筋骨格系』ではなく『感覚系』の発達によって生存に必要なレスポンデント反応(無条件反射)の動きができるようになっている。生理学者チャールズ・シェリントンの身体感覚の分類では、以下の3つに分けられている。本書では『身体感覚・情動(感情)』が心の根本的な特性あるいは原初的な起源として重視されていて、心の発生・発展の歴史を遡りながら『行動と心の相関関係』を理解していく構成になっている。

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1.外受容刺激の感覚……外界の刺激を知覚する感覚。

2.内受容刺激の感覚……自分の身体内部の変化・異常を知覚する内臓感覚(胃腸の調子の悪さ・心拍の変化・呼吸の苦しさなど)。

3.自己受容刺激の感覚……筋・骨格系の動きを通して知覚する身体感覚(体性感覚)

春木豊『動きが心をつくる 身体心理学への招待』の書評2:心身相関を説くレスペラント反応

第4章『心が先か、動きが先か』では、“悲しいから泣くのではない。泣くから悲しいのだ”という命題で有名なウィリアム・ジェイムズの末梢神経仮説と“個人的要因・環境的要因・行動が相互に作用する”というアルバート・バンデューラの相互決定論(reciprocal determinism)が紹介されている。ウィリアム・ジェイムズの仮説は、悲しい出来事に遭遇した時に中枢神経(脳)で悲しいと思ってから身体的反応(涙が流れる)が起こるのではなく、初めに身体的反応が起こってから中枢神経(脳)で悲しみを認識するというものである。この考え方は、『情動・感情』というものが、身体的変化(身体感覚)なしで単独では存在できないという事を示唆している。

アルバート・バンデューラの相互決定論(reciprocal determinism)は、クルト・レヴィンが人間の行動原理を説明した『場の理論(field theory)』をベースにして改良されたものである。K.レヴィンは人間の行動(B)を、B=f(P,E)として個人的要因(P)と環境的要因(E)の関数として捉える『レヴィンの公式』を確立したが、A.バンデューラは人間の行動(B)は個人的要因(P)と環境的要因(E)とによって一方向的に決められる『従属変数』ではないとして、人間の行動(B)を『独立変数』とする新たな公式を提案したのである。

それがA.バンデューラの相互決定論の公式である(B⇔P⇔E)であり、行動(B)と個人的要因(P)と環境的要因(E)がそれぞれ独立変数として扱われており、人間の行動は環境的要因や個人的要因を大きく変えてしまうことがあることを示した。例えば、のんびり歩いていれば遅刻する状況でも、急いで走れば時間に間に合って、自分の置かれている環境的要因は大きく変わる。人間関係でも毛嫌いして遠ざけるか、心を開いて明るく接してみるかによって、個人的要因としての『認知(相手をどのような人間として解釈するか)』は大きく変わることになるというわけである。

徹底的行動主義で知られるB.F.スキナーは、人間の反応様式を生理的・無意識的な『レスポンデント反応』と自発的・意志的な『オペラント反応』に分けたが、本書では更に『レスペラント反応(resperant response)』というレスポンデント反応とオペラント反応の両方の特徴を持つ反応を新たに定義している。 レスペラント反応(resperant response)とは、生理的な反射と意図的な反応の両方を含む反応のことであり、『呼吸反応・筋反応・表情・発声・姿勢反応・歩行反応・対人距離反応・対人接触反応』がレスペラント反応として挙げられている。第5章『動きから心へ』以降では、身体の動きに影響される心(情動・感情・気分)のメカニズムについて、様々な理論や事例、応用法を取り上げながら説明している。

第6章『レスペラント反応と生理・心理との関係』では、レスペラント反応と気分・情動との関係性が、具体的な研究や方法を通して記されている。『呼吸反応・筋反応・表情・発声・姿勢反応・歩行反応・対人距離反応・対人接触反応』それぞれのレスペラント反応が、『気分・情動・生理』に対してどのような相互作用を及ぼすかがかなり詳しく論じられていて参考になる。レスペラント反応を起点にして、『行動・体(生理)・心(情動)のトライアングルな相互関係』について説明されているが、呼吸であれば『呼息‐吸息・胸息‐腹息・順息(息を吸った時に腹が膨らみ、吐いた時に腹がへこむ)‐逆息(息を吸った時に腹がへこみ、吐いた時に腹が膨らむ)・長息‐短息・深息‐浅息・鼻息‐口息・速息‐遅息』の区別が示されるなど細かな分類に配慮されている。

心(感情)を落ち着かせて気力(意欲)を充実させるための呼吸法として、一般にもよく知られているものが腹式呼吸(腹息)を応用した『丹田呼吸法』であるが、本書ではその三原則として『呼息・腹息・長息』が提示されている。胸息で呼吸が速くなったり吸息で多くの空気を吸い込むと、感情が興奮して焦っているような心理状態になりやすいが、腹息で呼吸を遅くして呼息を長めに吐き出すと、感情が沈静して落ち着いた心理状態になりやすい。幾つかの研究成果が示されて、ゆっくりとした長い呼気、息を吐ききった後にすぐに吸わずにしばらくそのままでいるポーズには、生理状態を安定させたりストレスを緩和したりする効果があるということが検証されている。ここには呼吸の仕方が心(感情)や身体生理に影響するだけではなく、心(感情)・身体生理の状態が呼吸の仕方にも影響するという『双方向的かつダイナミックな相互作用』が存在しているのである。

筋肉の緊張と弛緩もレスペラント反応であるが、筋肉は意識的に緊張させる事よりも弛緩させることのほうが難しく、『筋肉が弛緩したリラックス状態』を意識的に作り上げるために、E.ジェイコブソンの漸進的弛緩法やJ.H.シュルツの自律訓練法をはじめ様々な技法が開発されている。E.ジェイコブソンの漸進的弛緩法は、全身の筋肉を段階的に弛緩させていくように考えられたプログラムだが、一般的に筋弛緩法はいったん緊張させてから弛緩させるという手順を踏む。人間の筋力は何もしていなくても何かの動作のために緊張していたり、重力に抗して立っているだけでも緊張していたりするので、精神的ストレスによる筋緊張を緩和する意味でも、各種の筋弛緩法が有効になる。

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L.A.パロウらの研究によると、健常者の被験者に簡単な漸進的弛緩法を実施した場合には、不安感・ストレスを感じにくくなりリラクセーションの程度が上がることが分かっている。生理的にも唾液中のコルチゾールが減ったり、免疫グロブリンが増加したり(免疫力が向上したり)する好ましい変化が確認されたという。口角を上げて笑っていれば気分が良くなり、口角を下げて口を尖らせていれば気分が悪化するというように、『表情』もまたレスペラント反応としての特徴を持っている。人間の感情・気分は、無意識的に表情に出やすいという意味では“レスポンデント反応”であるが、相手に対する好意・拒絶を意識的に表現するために表情を変えるという意味では“オペラント反応”でもある。

レスペラント反応としての『姿勢』は、J.H.リスキンドとC.C.ゴタイの研究によると、直立姿勢を取っていた群の人はリラックス姿勢を取っていた群の人よりも、有意に心理的ストレスや生理的緊張を強く感じることが分かっている。また、首を下向きにしたり背筋を曲げたりした姿勢では、抑うつ的に落ち込んだネガティブな気分になりやすいこと、知的能力・集中力が落ちやすいことが分かっている。姿勢もまた心理・生理との相互作用を持っており、心理状態が姿勢を作ることもあれば、姿勢が心理状態を変化させることもあるのである。『歩行』も心理・生理との相関関係を持ったレスペラント反応であり、意図的な歩行は喜怒哀楽の感情と結びつきやすい。全身と肩に力を入れて、地面を強く踏みしめつま先を激しく蹴り出して速いテンポで歩けば、怒りの感情を感じやすくなる。適度に全身と肩に力を入れて、適度に地面を踏んでつま先を蹴り出し、快適な速度とテンポで歩けば、喜びの感情を感じやすくなる。

歩幅が長くなるほどあるいはテンポが速くなるほど、派手で自信があり開放された気分に変化しやすくなるという。快適な速度と力加減で歩行すると、脳内にセロトニンが分泌されて抑うつ気分が低下しやすくなる。

春木豊『動きが心をつくる 身体心理学への招待』の書評3:多元的な心身一如の人間観

脳生理学者の有田秀穂(ありたひでほ)によれば、セロトニン系神経を活性化させる方法として『呼吸のリズム・咀嚼のリズム・ウォーキング』があり、リズミカルな歩行を続けるウォーキングによってメンタルヘルスが改善しやすくなり抑うつ気分(うつ病のような症状)を予防しやすくなるのだという。うつ病の運動療法と歩行のレスペラント反応としての特徴との関係について記されている。アメリカの文化人類学者エドワード・T・ホールが提起した“パーソナル・スペース”を元にして、『対人空間(対人距離)』も生理・心理に影響を与えるレスペラント反応として解釈されている。エドワード・T・ホールのパーソナル・スペース(個人的距離)”は、以下のように分類されている。

1.親密距離(intimate distance:0~45センチ)……非常に親しい相手とスキンシップを取ったり、近い距離で話し合うような距離。

2.個人距離(personal distance:45~120センチ) ……親しい相手と普通に会話をしたり、それほど親しくない相手と話したりするような距離。

3.社会距離(social distance:1.2~3.5メートル) ……ビジネスで商談をしたり公的な討論(説明会)をしたり、あまり知らない人と話をしたりするような距離。

4.公共距離(public distance:3.5~7.0メートル以上) ……個人的な人間関係ではなく、教授と学生、演説者と聴衆などの距離のある公的な関係で取られる。社会的な地位・権力のある相手と面会するような場合には、かなり長い距離が取られることも多い。

立っている人に別の知らない人を近づけた場合には、女性同士よりも男性同士のほうが長い距離を無意識的に取りたがる傾向があり、男女の場合には男性よりも女性のほうが長い距離を取りたがる傾向がある。対人距離(対人空間)は一般に近くなればなるほど、不安感情を引き起こしやすくなり、不安を回避するために相手と視線を合わさなくなってくるため、対人距離は心理状態に影響を与えていると言える。女性が座っているテーブルにおける座席の位置選択では、『女性不安が強い男性』と『女性不安が弱い男性』では、無意識的に選択してしまう座席の位置に違いが出てくることも指摘されている。女性不安が弱い男性の場合には、さすがに知らない女性の真横にまで接近して座る人はいないが、女性の顔(目線)が見えるような対角線上の向かい側に座る比率が高くなっている。一方、女性不安が強い男性の場合には、女性の顔(目線)が見える向かい側の席を避けて、目線が合わなくて済む女性の横に一つか二つ席を空けてから座る傾向が見られた。

対人空間(対人距離)は『テーブルと座席の位置関係』や『相手との間にある距離』によって、私たちの心理状態・身体生理がかなり大きく変化することを示唆している。どの座席に座るかテーブルのどの位置を占めるか、相手とどれくらいの距離を開けるかといったことは『その人と相手との人間関係(その時の心理状態)』を間接的に教えてくれているのである。

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第7章『新しい人間の全体像』では、『身体・精神・自然・社会・行動』の5つの次元の相互作用から人間を捉えている。身体は更に物質的な『体』、心理的な意味合いや姿勢を帯びた心身一元的な『身』とに分けられる。精神は更に身体的な意味合いや心臓の意味がある心身一元的な『心』、純粋な精神のあり方としての客観科学のカテゴリーに収まらない『霊』とに分けられる。行動は更にオペラント反応的な『行(行為)』とレスポンデント反応やレスペラント反応的な『動(動き)』とに分けられている。

人間の精神・身体・行動の根源にある生命エネルギーとして、著者は東洋医学のような『気(元気)』の存在を仮定しているが、この気(元気)は5つの次元が収斂する場でもある。身体心理学が指示する新しい人間像とは、心の起源である行動・感覚を起点として立ち上がるものであるが、『身体・精神・自然・社会・行動』の5つの次元が気(元気)によって統合される多元的な人間像、心身一如の存在になっている。第9章から第11章にかけては、メンタルヘルスの維持や心身の健康の増進、気(元気の充実に役立つような応用的な知識、実際的なエクササイズの方法などが紹介されているので、この部分だけを読んでみても参考になる情報・運動方法を知ることができる。

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元記事の執筆日:2015/06

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