カウンセリングマインドとは何か?:自己一致から生まれる純粋性・率直性・話の楽しさ、“一人でいる時間”と“誰かといる時間”を楽しむバランス感覚:愛情飢餓感が招く不健全な人間関係

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カウンセリングマインドがある人とない人:他者に対する関心・共感の示し方と会話


カウンセリングマインドと人間関係:下心がある人からのご機嫌取り(お世辞)の誘惑


精神分析のリビドー発達論(固着・退行)やヒステリー性格から見る“子供っぽさ・未熟さ”


ストレスやフラストレーションに対処する『大人の適応・成熟』:性格要因が生む精神の脆弱性


現代はなぜ『大人としての成熟・子供の心からの離脱』が難しいのか?:反復される行動・関係のパターン


“一人でいる時間”と“誰かといる時間”を楽しむバランス感覚:愛情飢餓感が招く不健全な人間関係


相手(異性)から愛情・敬意を持って接してもらうためにどうすれば良いか?1:自信と卑屈


相手(異性)から愛情・敬意を持って接してもらうためにどうすれば良いか?2:愛情と尊厳の返報


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カウンセリングマインドとは何か?:自己一致から生まれる純粋性・率直性・話の楽しさ

カウンセリングマインド(counseling-mind)というのは、カール・ロジャーズの来談者中心療法(クライエント中心療法)をベースにした『他者に素直に共感して他者の存在を受容することのできる安定した心理状態(心的能力)』のことである。カウンセリングマインドという概念が流行したのは1990年代頃であるが、カウンセリングマインドをそれまでの人生を通して培えているかいないかは、『生産的・持続的な人間関係』『気持ちの良いコミュニケーション(癒し・励み・リフレッシュとなる会話)』ができるかとも深く関わっている。

カウンセリングマインドを持つということは、自分がどのような人間であるかという定義をする“自己概念”と実際に活動している自分自身である“現実自己”が一致している『自己一致(純粋性)』の状態にあるということである。ここでいう自己一致は『純粋性』といってもいいし『率直性』といってもいいが、向かい合っている他者に対して『過剰な自己防衛・自己顕示』をする必要がない状態なので、ありのままの自分を呈示して素直にお互いを受け容れるコミュニケーションができるのである。

純粋性がないということは、自然なありのままの自分をどこか偽って他者に合わせたり、いたずらに他者と優劣を競ったりしやすいということである。率直性がないということは、ポジティブなコミュニケーションに役立つような自分の考えていること・感じていることを相手に伝えられないということである。完全な自己一致はさすがにそう簡単には有り得ないものだが、自己一致ができていないということは『自分はこのような人間であるという自己定義(自己認識)』と『実際の自分はこういった人間として生きているという現実状況』との間に大きなズレが生まれているということを意味している。

精神分析的には、“理想自我(かくありたい自分)”“現実自我(こうある自分)”との間の葛藤として解釈することもできるが、理想自我と現実自我がかけ離れていればいるほど、『相手が自分をどう思っているか』や『実際の自分よりも相手に良く見られて評価されたい』ということへのこだわりが強くなってしまう。自己一致ができていないとなぜ純粋性・率直性が障害されやすいのかの理由も、理想自我と現実自我のギャップから生まれる“構えていないありのままの自分”を見せたくないという“過剰な自我防衛機制・自己顕示”に原因があることが多い。

その結果、ある人は必要以上に『卑屈・ネガティブ(=自分の価値の引き下げ)』になり、ある人は必要以上に『傲慢・自慢家(=相手の価値の引き下げ)』となって、自分自身がコミュニケーションを楽しめないか、相手の側に不快な感情や居心地の悪さを感じさせてしまうのである。 カウンセリングマインドとは、“自己一致(純粋性・率直性)”と“他者への関心”を前提とした心的態度である。『相手の話をしっかり聞く(傾聴)・共感的な理解・無条件の肯定的受容(他者の尊重)』といった技法や対応を活用しながら、『話していて楽しい人間関係(気持ちが軽くなる人間関係)を作れる心理状態や能力』のことなのである。

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カウンセリングマインドがある人とない人:他者に対する関心・共感の示し方と会話

カウンセリングマインドは、カウンセリングや心理療法といった特別な環境設定・対話構造の中でだけ専門的に発揮されるものではない、ごく日常的な友達関係・異性関係・家族関係・他者とのふれあいの中で、誰もがあまり意識することなく発揮し合っている心理や態度である。この人と会話をしていると楽しい、またこの人に会って話をしたい、この人とふれあっていると優しい気持ちや元気な気分になれるといったことが、カウンセリングマインドを持った相手とのコミュニケーションの効果であり、他者とのコミュニケーションを介してそういった心地よさやリフレッシュの感覚、温かみを感じている人もまた、相手に対してカウンセリングマインドで接していることが多いだろう。

反対に、この人と話していると表面的には合わせているが不愉快な気分になる、この人とやり取りしているとトゲトゲしい気持ちや落ち込んだ気分になってしまう、いつもネガティブな悪口や不平不満ばかりで聞いているのがつらい、自分のやっていることや考えていることを伝えても否定・批判・注意しか返ってこず会話の腰を折られる、何を話してもいつの間にかその人の話題になっていて会話が深まらない(その人は基本的に自分の話しかせず人の話はいつも受け流すか切り替える)などが、『カウンセリングマインドがない相手』とのコミュニケーションの特徴である。

カウンセリングマインドがない人の典型的な心理の特徴は以下の2つに集約される。

1.『自己一致(純粋性・率直性)』ができていないということ。

2.『他者への関心・共感+他者に対する肯定・支持』がないということ。

近しい他者とするコミュニケーションの目的は、『要件・情報のやり取りという客観的な目的』よりも『感情・承認のやり取りという主観的な目的』に重点があることのほうが多い。そこで、自己一致による『率直性』がないと気持ちの良い感情交流が難しくなる。『純粋性』がないと劣等感(自分のやりたいことや自分の価値における空虚感)に悩みやすく、自分を安心させるために『相手の価値の引き下げ(批判・否定)』に走ってしまいやすいのである。相手が何かをやっているという趣味・活動の話を楽しそうにすれば、ある程度のカウンセリングマインドを持っている大抵の人は、自分がそういった趣味・活動をやっていなくても余り知らなくて興味がなくても、『それはどういった趣味なんですか・どういった所が一番面白いんですか・普段はどんな練習や準備をしてるんですか・どんな装備や道具が要るんですか・運動神経(体力)があって凄いですね・そんな素晴らしい景色を見てみたいな・色んな仲間ができて楽しそうですね』などポジティブな質問・感嘆・感想を語りながら、相手が気持ちよく話しやすい関係性を作り上げていく。

しかし、カウンセリングマインドが大きく欠如している人は、そもそも『他者への関心・共感』がないので、あからさまに『ふ~ん、そうなんだ・自分はそういうことは興味ないです・何も分からないです・何だか大変で面倒くさそうですね・それの何が面白いんですか・私は家で寝ていたほうがいいな・でも怪我や遭難をすると人に迷惑がかかりますよ・お金ばかりかかりそうですね・そうですか、ところで、私が興味があるのは~』など相手への無関心さや共感性の無さを示したり、自分が話したいことはそれではないという一方的な話題の転換(自分への興味の引きつけ)を行ったりする。『他者への関心・共感がない』ということを更に超えて、『他者に対する肯定・支持がない』という人もいるが、こういったカウンセリングマインドが極端に欠けた人は、いったん会話をすると不快な思いをさせられたり、自分に自信がなくなって落ち込んでしまったりすることが多い。

なぜなら、自分がしていることや楽しんでいること、考えていることを伝えても、ほぼ絶対といっていいほどに『そんなことして何の意味があるの?・そんなつまらないことばかりせずにもっと楽しいことをすればいいのに・その考え方や感じ方には賛成できない・あなたよりも私のほうが優れている』といった批判的で否定的な反応しか返ってこないからであり、感情交流の喜び・癒しを全く得られないからである。カウンセリングマインドの極端な欠如は、『あなたは間違っていてダメだ・あなたは人生を楽しめていない・あなたの存在や行為には価値がない』といったネガティブなメッセージにつながりやすく、常に『自分の行為・発言の価値』を高めるために『他者の行為・発言の価値』を貶めたいという誘惑に駆られやすい。

カウンセリングマインドと人間関係:下心がある人からのご機嫌取り(お世辞)の誘惑

実際には、他人を批判してばかりの人や他人のやっていることにケチをつけてばかりの人というのは、“自分は相手よりも優れているつもり”にはなれても“他者からの評価・承認・賞賛”は得られない。人から認められないために、常に人間関係において『自分は実力の通りに認めてもらえない(本当は自分には能力も魅力もあるのに他人が認めてくれない)』というフラストレーションや不遇感・劣等感を抱え込みやすい。だから、不遇感や劣等感を感じている反動として、別の良からぬ目的があって『心にもないお世辞を言ってくる人・ご機嫌取りをしてくる人』に簡単に騙されてしまう、気持ちを許してしまうこともある。

カウンセリングマインドがないということは、『他者への関心・共感』がなくて『他者に対する肯定・支持』をしないということであるから、一般的な双方向性のある対等な人間関係におけるやり取りでは十分な満足感・楽しさを感じにくい。自分がどうしても他人に興味や敬意を持てないから、自分の側の『相手に対する関心・共感・肯定』がなくても、相手から『一方的な好意(敬意)・評価・賞賛』を与えてもらえるようなちやほやされる関係に弱いところがある。自分に反対したり拒否したりせずに、いつも自分に都合よく動いてくれる他人という『一方向的で道具的な人間関係(相手の自由意思による反対の可能性を考えなくても良い関係)』にはまりこみやすい傾向を持っている。

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常識的に考えれば、自分が相手に何も興味や承認を示していないのに、大したつながりもない人が一方的なお世辞をいったりご機嫌取りをしてくるというのは、コミュニケーションを売りにした営業活動・飲み屋のような『ビジネス(お仕事)』か、こちらを都合よく利用してやろうと計画している人の寂しさ・弱み・プライドにつけこんだ『金銭・性を目的とする犯罪(特殊詐欺やナンパ・怪しいスカウトのような接触)』であることが多い。カウンセリングマインドがない人は『他者に対する不信感・警戒感』が強いのだが、それは自分と対等な目線に立とうとする他者への不信感・警戒感であり、初めからあからさまにへりくだって自分のことを手放しで持ち上げてくるようなタイプには、滅法弱くなってしまうところがあるのである。

カウンセリングマインドがある人は、『自分の好意・共感・率直(誠実)』がきちんと伝わる人かまったく伝わらない人かを、ある程度のコミュニケーションを繰り返せば見分けることができるので、好ましくない目的・下心を持って近づいてくる他者に騙されたり深い仲になることが殆どないのである。『人間関係の入口はオープンで広い』が、付き合って不愉快な思いばかりさせられるような相手(嫌なことや批判的なことしか言わない相手)、恩を仇で返してくるような誠実さ(思いやり)の通じない相手を、ある程度まで見分けることができるという『人間関係のフィルタリング』が機能している。

人間関係を自分の好み・幸せに合わせて取捨選択するような人は利己的であるという意見もあるかもしれないが、職業的・縁故的・社交的な付き合いを除いては、『自分を不快にしかしない相手・相互的な楽しいコミュニケーションができない相手・いつも不機嫌で怒ったり文句ばかりいっている相手』と敢えて親密に付き合いを深めていかなければいけない必然・義務は誰にもないだろう。カウンセリングマインドがもっとも有意義に生かされているコミュニケーションと人間関係では、『お互いにとって本当に親しいと思える相手・相手の気持ちや状況に関心を持って配慮し合える相手』に出会いやすいという良い部分がある。

そういった双方向的な共感性・受容性のあるコミュニケーションでは、『自分に見えている自分(自己認識・自己イメージ)』『相手が見てくれている自分(相手から見た自分のイメージと評価)』が一致している割合が高くなっていることが多く、実際以上に自分を優れているように見せかける自己防衛や誇示の必要がないため、よりリラックスできて自然な自分でいられるということにもなる。

精神分析のリビドー発達論(固着・退行)やヒステリー性格から見る“子供っぽさ・未熟さ”

ジークムント・フロイトが創始した精神分析では、神経症の心身症状の背後に『無意識的な葛藤の抑圧・隠蔽』を仮定しています。この無意識領域の欲求(願望)の葛藤について『言語化・意識化』することによって、神経症を治癒できると考えるのが精神分析ですが、これは早期発達段階(幼児期)の非適応的な行動パターンへの『固着・退行』について改めて認識することを意味します。フロイトの性的精神発達論に基づいた神経症(精神疾患)の症状形成メカニズムは、『乳幼児期~児童期に受けたトラウマ(愛情欠損・愛着障害など)』が原因となって、その発達段階に精神発達プロセスを進めていたリビドー(心的エネルギー)が固着してしまい退行しやすくなる(未熟・自己中心的で社会適応の低い精神状態にまで戻ってしまう)というものです。

十分に親からの愛情・保護を受けられないというアダルトチルドレンのような問題も含め、『トラウマを受けた満たされない早期発達段階』に、リビドー(意識・人格等の精神状態)が固着・退行してしまうことによって、神経症の心身症状や年齢に相応しくない未熟・衝動的な言動が増えてしまうわけです。“自己中心的・感情的・衝動的・気分屋・神経過敏・ストレスに弱い”などの特徴で表現される精神分析のヒステリー性格というのも、簡単にいえばリビドー(意識・人格)が発達早期の段階に退行している『子供っぽくて社会適応(他者適応)の低い性格=セルフコントロールや欲求の我慢ができない性格』として理解することができます。

感情的で子供っぽいとか、考え方や感じ方が幼稚で成熟していないとか、自分の思い通りにならないと気が済まないわがままとか言うと、精神分析とは無関係な一般社会のやり取りでは『人格攻撃・侮辱的なマイナス評価・社会不適合な未熟者』といった過度にネガティブな受け取り方をされかねません。しかし、精神分析のリビドーの固着・退行を前提とした精神病理学・性格心理学においては、何歳になっても『誰もが多かれ少なかれ持っている性格の特徴(思い通りにならない状況や強いストレスを受けている時に見せやすい幼児的な性格の一面)』として子供っぽさの残るヒステリー性格は解釈されるべきものでしょう。自分の思い通りにならなければ面白くない、重要な他人(職場・家庭の環境)から自分が承認されなければ居心地が悪いという人間心理は一般的なものであり、それをどれくらい表面に出して他人に伝えるか、どういった場面でどのような相手に対してどんな自己表現をするのかといった部分で『個人差(精神発達・成熟と適応の水準の差)』があるだけなのです。

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幼児的で未熟なヒステリー性格は、自己愛性格にも似たところもありますが、自己中心性を軸とする『ストレス耐性・フラストレーション耐性(欲求不満耐性)の低さ』に特徴があります。自己アイデンティティが揺らぎやすく、ストレスやフラストレーション(欲求不満)に耐える力が弱いために、『自分の欲求充足が“他者・社会・ルール(法と道徳)”に阻害された時』に非適応的な問題行動や感情的・衝動的な逸脱をしやすくなるのです。ストレスの原因となる他者を攻撃しようとしたり(自分の優位性や支配性を力づくで誇示しようとしたり)、フラストレーションを生み出す環境条件を無視したりルール(法・道徳)を一方的に破ろうとすれば、ヒステリー性格・自己愛性格の人は『反社会的行動(犯罪・暴力・暴言)』を起こしやすくなります。

反対に、ストレスになる環境をひたすら避けようとしたり、フラストレーションをもたらす他者とコミュニケーションすることから逃げようとする性格傾向を持つ人は、未熟さや非適応性が『非社会的行動(ひきこもり・対人恐怖・責任回避)』の形となって現れることになるでしょう。“攻撃的・支配的な反社会的行動”“逃避的・依存的な非社会的行動”ではその外形的な現れ方は大きく異なりますが、いずれも『ストレス耐性・フラストレーションの耐性の低さ』という共通点を持つある種の子供っぽさ、未熟さ、わがままさの非適応的な現れとして理解することが可能かもしれません。

ストレスやフラストレーションに対処する『大人の適応・成熟』:性格要因が生む精神の脆弱性

精神状態(人格状態)が発達して『大人としての適応・成熟』を実現するということは、ストレスやフラストレーションに対して効果的な対応を持続的にこなすことができるようになるということです。ストレス(フラストレーション)になる行為や出来事をある程度まで耐えて我慢できる能力がなければ、まともな仕事・社会生活(人間関係)は覚束無いわけですが、ただ我慢して耐えるだけではなくて『ストレス(フラストレーション)を減らせる効果的な対処法』ができるようになるかどうかも、精神発達や社会技能の向上にとって重要なポイントになっています。

ストレスやフラストレーションの原因となる『理不尽なつらい出来事・納得できないイライラする状況』にただ耐えるだけではなくて、自分の能力・知識を活用して問題状況が良くなっていくように働きかけたり、物事の認知(価値判断を伴う考え方)を肯定的に転換して問題や相手の捉え方を変えていったり、然るべき機関(相手)にどのようにすれば良いのかを相談して今までとは違う対応をしたりできるようになることも、『精神状態の発達・成熟』と関係した部分があります。

『大人としての適応度・成熟度』が低い場合、自己愛性(自己中心性)が強すぎる場合には、以下のような性格傾向が目立ちやすくなってきます。

1.何でも自分の思い通りになるのが当たり前と思ったり、本気でやれば自分は何でもできるのにと思い込む『幼児的な全能感』

2.物事が上手くいかない原因や失敗してしまった責任を自分ではない他人(環境)にばかり求める『他罰性・責任転嫁』

3.自分のことが余りに好き過ぎて、他人や周囲のことがまるで目に入らずほとんど配慮することもない『自己愛性・共感性の欠如』

4.他人が自分に悪意を持っていて(自分は何も悪くないのに)、自分にわざと不愉快な思いをさせたり、自分の仕事・人生の邪魔をしてくると思い込む『被害妄想・自己正当化』

ヒステリー性格や自己愛性格、完全主義の性格、劣等感・義務感の強い性格などをはじめとして、“パーソナリティー構造”に偏りがあると、精神的な脆弱さが強まったり精神疾患の発症リスクが上がったりします。典型的な精神の脆弱さや心理的な苦悩を上げると、以下のようなものがあります。

1.“自己愛・自己中心性・気分変動”などによって、会社や学校などの適応を求められる環境に適応することができない『環境不適応』

2.“完全主義・義務感(責任感)・世間体(他人の目)”などによって、会社や学校などの環境に自分の健康・心理を無視するような形で過剰に適応して心身の調子を壊す『過剰適応』

3.自分と他人をいつも比較してしまい、自分のほうが劣っていると感じて悩んだり嫉妬したりひきこもったりする『劣等コンプレックス』

4.過去の人間関係や出来事で自尊心(自己評価)を傷つけられたことを長期的にひきずってその後の人生にも大きな悪影響・不利益を被る『トラウマ・PTSD(心的外傷後ストレス障害)』

5.自分には価値がない、悪いことをしている、周囲に迷惑をかけていると思い込んで積極的な行動や人間関係の構築ができなくなる『罪悪感・自己否定感』

6.自分がどのような人間であるかが分からなくなり、何をすれば良いのか誰と関われば良いのかが分からずに迷ったり苦しんだりする『自己アイデンティティの拡散・自己喪失』

現代はなぜ『大人としての成熟・子供の心からの離脱』が難しいのか?:反復される行動・関係のパターン

消費中心の経済社会の拡大や便利な科学技術(ウェブ社会)の発達といった特徴を持つ『現代社会』は、他者に合わせて自分の行動や欲求を自己規制するというかつての『社会規範(共同体の同調圧力)』が弱まりやすく、機械・コンピューターを相手にしているとすぐに自分の欲求が満たされて当たり前という『フラストレーション耐性の低さ(すぐに結果がでないと待てない・我慢できない・怒りっぽい)』に陥りやすい傾向があります。乳幼児期の子供は何でも自分の思い通りになるという“幼児的な全能感”や頭の中でイメージしていることが実際にも自動的に実現されるという“魔術的な思考”を持っていますが、精神発達プロセスの幼児期のどこかで『エディプスコンプレックス+父性原理による敗北感・抑圧感』によって、現実の世界や他者はほとんど自分の思い通りにはならないという心理的な『去勢』に直面することになります。

精神分析では幼児期~児童期における『去勢』は、快感原則から現実原則へと転換していくために必要な心理的経験と考えられてきましたが、(格差・貧困の問題も深刻なのですが)一般に自由で豊かになってきた現代社会は、『物質的な豊かさ・安価な娯楽の増加・技術的な利便性の増大・父親の権威の低下(離婚家庭の増加も含め)』によって去勢の機会を減らしています。子供時代の去勢の機会の減少は、『親の権威・社会規範の影響力の低下』『親子関係の友達化(ともだち親子の増加)+社会生活の金銭依存度の高さ(お金さえあればほとんどのサービスを受けられて困ることが少ないお客様社会化)』などを示していますが、このことが現代社会の『自己愛・幼稚さを強化しやすい社会的特性』の一因になっているという見方もできるでしょう。

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幼少期に親から厳しく否定されることや思い通りにならないことが減って、インターネットやゲームなどのリアルの他者と深くコミットしなくても楽しめる趣味・遊びが増えているということが、『現実原則に対する適応能力の低さ(ストレス耐性・フラストレーション耐性の低さ)』に結びつきやすい側面もあります。一方でこういった大きな社会変動には、『自由・権利・豊かさの増大の結果(個人が権力・親・社会によって過度に抑圧されなくなった結果)』としての好ましい側面もあるのですべてが悪いとまでは断言できません。社会や周囲から理不尽な行為を強制されずに自発的に仕事・物事・関係性にコミットするということが、『個人としての人生のクオリティや納得感』を向上させるケースも多くあるからです。

大人になっても子供っぽさや未熟さが残っているというのは、視点を変えればいつまでも『柔軟性・応用性・遊び心』をどこかに残しているということであり、『義務感や責任感の希薄さ(社会経済的自立につながる各種の能力の不足)』といった問題がないのであれば、本人も周囲もそれほど困らないケースもあるとは思います。クリエイティブな環境や仕事、フラットベースの人間関係によっては、そういった『一つの価値観や生き方だけに固まりきらない柔軟性(年をとっても他者に対して権威的・支配的に振る舞わない気楽さ)』が有利に働いて場に受け容れられたり、自分の人生の満足度(やりたい仕事や活動をしやすい状態)を高めたりしてくれることもあるでしょう。

人間のパーソナリティー構造や性格特性は、『遺伝要因と環境要因の相互作用(輻輳,ふくそう)』によって形成されます。特に、『乳幼児期からの親子関係・愛着形成と相互的なコミュニケーション』が作り出す『反復的な対象関係(人間関係)のパターン』が、その人の対人的・社会的な性格特性のパターンに与える影響は非常に大きいと精神分析では考えています。成育環境や親子関係を通して『自然(普通)な関わり方・付き合い方』として教えられてきた『コミュニケーション・人間関係の原型的なパターン』を、人は無意識的に繰り返しやすい。

『自然(普通)な付き合い方』だと思って無意識的に繰り返しやすいからこそ、精神分析の治療機序(治療メカニズム)では『無意識の行動パターンの意識化・言語化』『無意識の人間関係とその情動が影響する転移の分析』が重視されているのです。精神分析とは、言語化することによって『無意識的な行動(人間関係)のパターン』に気づけるということを示唆する内的・対話的な営みです。気づいてから更に自分を意識的に良い方向へ変えていこうとする心的プロセスに、『人が変化できる可能性(過去の経験や無意識による決定論からある程度まで自由になれる可能性)』を見出そうとする営みでもあると思います。

“一人でいる時間”と“誰かといる時間”を楽しむバランス感覚:愛情飢餓感が招く不健全な人間関係

“一人でいる時間”を楽しめるかどうかは、対人関係のパターンや他者からの印象(他者から見た自己イメージ)にも影響を与える。一人でいる時間を楽しめる能力や性格は、内面にある“対象恒常性のイメージ”に支えられている。対象恒常性(object consistency)は『発達早期の良好な親子関係(愛情・保護を受ける経験)』や『その後の安心できる対人関係(持続的な信頼・安心を持てる経験)』がベースになって形成される。

内面の対象恒常性が形成されている人は、『孤独耐性・自己評価・自律的な行動力』が高く、『見捨てられ不安・他者への依存性』が弱くなりやすいため、他者との人間関係における情緒的トラブルに巻き込まれにくい。相互に愛情や承認、価値を与え合う健全で満たされた人間関係に近づきやすいのである。“一人でいる時間”と“誰か(他者)といる時間”の双方をそれぞれの状況や現実に応じて個別に楽しむことができ、誰かが自分を認めて何らかの形で構ってくれなければ耐えられないといった“他者依存性”に振り回されにくいのである。

内面の対象恒常性が形成されていない人は、『孤独耐性・自己評価・自律的な行動力』が低く、『見捨てられ不安・他者への依存性』が強くなりやすいため、他者との人間関係における情緒的トラブルに巻き込まれやすくなる。相互に怒りや憎悪、軽蔑を与え合う不健全で満たされない人間関係に近づきやすいのである。“一人でいる時間”はいつも退屈で孤独でつまらない、“誰か(他者)といる時間”はそれが不健全で自分の尊厳や価値が貶められるような付き合いであっても一人でずっといるよりはマシだと考えて、好ましくない相手からの誘いに乗ってしまいやすい。

誰かが自分を認めて何らかの形で構ってくれなければ耐えられない“他者依存性”に振り回されながら、他者にどうにかして自分の存在や価値を認めてもらおうとして必死に努力するのだが、その努力の方法や強度が病的(依存的・自己否定的)なものになりやすいのである。一人でいる時間に耐えられず、とにかく他者からの関わりや承認を求めている人は、『相手に気に入られるための自己犠牲』や『相手に取り入るためのご機嫌取り』に終始しやすくなり、本当はその人間関係で何も心が満たされてなどいないのに、(嫌われれば一人になってしまうという不安・恐怖から)満たされているような振りをしてしまう。

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一人でいることに過剰な不安を感じていて、執拗に他者との付き合いや他者からの承認・評価を求めているような人は、そういった不安定な心理状態を見破ったり惹かれたりする人に近寄ってこられて『心理的な弱み』を握られやすい。一人になるのがとにかく嫌という心理的な弱みを握られると、更に自律性や自己主張を失っていき、嫌われないために『相手の要求・願望』をそれが理不尽なものであっても受け入れ続ける役割に追い込まれてしまうのである。

相手から見捨てられたり無視されたりすることを恐れて、相手の不当な要求や過剰なお願いを聞き続け、自分の要求や願望は一切相手に伝えることができないという『非対称的かつ不平等不健全な人間関係』に陥りやすいということである。こういった上下関係や不健全な役割分担(自分だけが相手の言いなりになるような役割)があれば、本心ではその人間関係を楽しめているはずがないのだが、相手との人間関係がなくなってしまう(相手から見捨てられてしまう)よりはマシと考えて、その人間関係に満足して楽しんでいるような振りをしてしまうのである。

この演技的かつ自己欺瞞的な『不健全な人間関係を楽しんでいる振り』というのは、無意識に『人間関係全般(他者全般)に対する怒り・憎悪・蔑視』を植え付ける副作用を伴い、他者に対する根底的な失望感や期待の無さにもつながる。そういった人間関係に依存し続けていればいるほど『本質的な人間嫌い・人間不信』が板についてしまう。結果、余計に人間関係の苦手さやトラブルが増してしまったりもするのだが、その原点にある体験は『子供時代からずっと自分の要求・願望を親にも誰にも満たして貰えなかったという記憶や心残り』であり、そこから『一方的に他者に奉仕・貢献する役割(その役割を果たすことではじめて他者から自分を認めてもらえるという卑屈・従属感)』を不適切に学んでしまったということでもある。

こういった人間関係の依存性や演技性の弊害を改善するためには、『一人でいる時間』と『誰かといる時間』の双方をそれらの状況に合わせて楽しめるようになること、『不健全な一方的に自分を利用しようとする人間関係』を切り捨てて『健全な双方向的に自分と相手とが楽しみ合えるお互い様の意識を感じられる人間関係』を探索・構築していくことが必要になってくる。その相手と一緒に過ごしている時に、自己肯定感が高まるか自己否定感が高まるかの違いによって、その人間関係の良し悪しを判定することもできるが、『過去に他者から十分な愛情を受け取れなかったことの反動』として出やすい“愛情飢餓感(他者依存性)”のセルフコントロールも、人間関係の質の向上に向けた一つの鍵になってくるだろうと思う。

そのためには、愛情飢餓感(承認欲求の強い自己愛)や他者依存性を過剰に抱えた病的なパーソナリティーの相手に取り入られたり利用されたりしない注意も求められるが、幼少期からの長い期間にわたって親・友人が与えてくれなかったものを成長してから与え直してもらうような人間関係を作ることは簡単ではない。なので、『自分自身で自分の価値や能力を認めること・自分ひとりの時間も孤独感に襲われずに楽しめるようになること』を第一の目標にしながら、段階的に『双方向的なお互いが認め合える人間関係・他者を過度に束縛支配しないような相手との関わり』を作る努力を繰り返していくべきなのだろう。

相手に過度に求めるのではなく自分のしたいことをできるだけするようにしているような人(相手に何かを無理やりにさせたり相手の弱点・短所を責めたりすることがない人)、自分や相手が熱中して取り組んでいるような事柄にどちらかが興味を持ってお互いに楽しい時間を共有できるような付き合いというのは、『お互いの時間・自由の尊重に根ざした自律性』と『相手への率直な興味・協力』といったものが感じられる理想的な人間関係の型の一つでもある。

相手(異性)から愛情・敬意を持って接してもらうためにどうすれば良いか?1:自信と卑屈

恋愛関係では“母親(父親)のような保護・世話・管理”の役割を引き受けすぎると、男と女の関係から“擬似的な母子関係(父子関係)”に移行しやすくなり、“自己犠牲的な献身・奉仕”を一方的にやりすぎると、自分と相手との間に“役割的な上下関係(してあげる人としてもらう人の区分)”が生まれやすくなる。こういった関係性の移行や変質は、恋人から家族に変わる自然なプロセスとして肯定的に受け取られることもあるが、『異性としては相手をまったく見れなくなる状況・感情』が長く続くと、恋愛関係や家庭生活が味気ないものになりやすく、人によっては浮気・不倫の原因(家族的関係と恋愛的関係の区分の意識)にもなってしまうことがある。

若い時期に結婚した人などが、早い段階で相手を異性として完全に見れなくなったり性的な関心・接触が全く無くなるということは、離婚・浮気・遊びがないとすれば人生のその後の数十年間を『形式的な相手(配偶者)はいても実質の異性関係がないという状態』で過ごすことになるので、多くの人は家庭生活・親子関係・仕事や趣味の状況などで満足していても、異性関係面での寂しさや物足りなさ、退屈さを感じざるを得ないかもしれない。伝統的なジェンダー(社会的性差)や家庭生活では、女性は強い自己主張をせずに男性の仕事・生活をフォローして(男性を立てて手のひらの上で転がして)、自分の長所や能力、魅力、業績をあからさまに示さないことが奨励されてきたが、『謙譲の美徳・サポートとフォローの貢献』はそれに対する男性の反応・感謝を見ながら、どれくらい控えめに献身的に接するかを調整したほうが良いことも多い。

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男女共にだが交際(付き合い)の初期の段階で、あまりにも自分が控えめに下手に出てしまって、相手の言うことを何でも聞くような“役割的な上下関係”が確立してしまうと、“自分の意見・感情・忠告”などを相手の心に響かせて相手の行動・発言を改めさせるようなコミュニケーションが不可能に近くなってしまう。単純に言えば、まともに対等な立場で意見のやり取りができる相手として見てもらいづらくなり、不当に格下のような扱い(多少乱暴な物言いをしてもいい相手・意見や価値観を軽くあしらっても良い相手といった扱い)を受けやすくなるということである。

控えめな謙遜・謙譲やかわいらしさ、甘えたがりのアピールのつもりであっても、自分に自信や魅力、能力(取り柄)がないということを過度に言い立てて自己卑下をしたり、自分はあなたがいなければ他に誰からも好かれない(あなたに別れられたら孤独になって生きていけない)といった依存性・対人魅力の無さを悲観的に訴えたりすることは、逆に『自分に対する好意的な興味関心』『人間性や生き方に対する尊敬・感謝の念』を失ってしまうことになりかねない。相手を貶めるような優越感、相手と競い合うような自慢話、根拠のない過大なプライドや自己愛などは、確かに一般的に『自分の人間性(性格)の評価・対人魅力・印象の良さ』を落とすマイナスの影響が大きいが、『相手に不快感・劣等感を与えるような優越欲求や自慢』『自分に対する自然な自信と自尊心+魅力的に見える卑屈ではない立ち居振る舞い』というのは異なるものである。

自分で自分を好きになって自然な自信・自尊心を持つということのポジティブな意味は、『相手にとっても魅力的な自分であろうとする態度+人生と人間関係に対して前向きに取り組んでいこうとする姿勢』である。そういった自信・自尊心を持つことのポジティブな意味づけは、『陰鬱な気分を導くような卑屈な自己卑下・無益な不平不満・人生や他者への恨みつらみ』を遠ざけることで、気持ちの良いコミュニケーションや価値のある人間関係を作り上げていくことにもつながる。

相手(異性)から愛情・敬意を持って接してもらうためにどうすれば良いか?2:愛情と尊厳の返報

自分の素晴らしいポイントや長所・魅力として認めてもらえる特徴を、好きな相手に伝えてそれを承認されたり評価されるだけでも『自然な自信・自尊心の強化』につながる。更に、そういった自分で自分を大切にできるという自信・自尊心が、『好きな相手から自分の人格・生き方が尊重されやすい関係性』を作り上げていくので、『役割的な上下関係の固定化』によって起こりやすい不当で理不尽な扱いやDV・モラハラの危険性を下げてくれることにもなる。

自分の人間性や能力・魅力を過小評価したり自己卑下したりすることのデメリットは、自分だけではなく他人からも『そのような価値や魅力の低い人間』として見られやすくなることであり、恋愛・夫婦などの親密な関係性においても『自分よりも格下の相手・自分の意見(要求)を押し付けやすい相手』として尊敬されずに不当に扱われやすくなってしまうことである。伝統的ジェンダーや男女関係の処世術では、女性があまりに魅力的で有能であることを示しすぎると、男性は恐怖感や劣等感を感じて萎縮したりその相手に近づきたがらなくなるから、女性は『自分の魅力・能力・実績・自己評価』などを実際よりも低く見せて男性を立てるほうが好かれる(アプローチのハードルが下がって男性が寄ってきやすい)と言われる。

確かに、男性の多くは自分よりも能力や魅力、実績が圧倒的に高いと感じる女性には近づきたがらないが、それは『拒絶・軽視・侮蔑』を恐れるからであり、魅力的で自信や気品のある女性が嫌いだから近づかないというわけではない。だから、自分に対するその女性の好意・愛情・優しさなどを十分に感じられている状態であれば、『自分に自信があって安心できる愛情表現もしてくれる女性』というのは最も魅力のある女性(大切に丁寧に接したい女性)として認識されやすくなる。自分を実際よりも低いように見せかけたり自信のない卑屈さをアピールすることによって、相手から緊張せずに気軽にアプローチされやすくなるというのは、『相手から自分の価値や尊厳を軽視されやすいリスク』も併せ持っている。

相手から『尊敬・敬意のある真面目で礼節のある付き合い』をしてもらうためには、男性でも女性でも『何を言われても何をされてもおとなしく言う事を聞くだけの相手という格下(奉仕者)のイメージ』まで持たれるのはマイナスでしかないことのほうが多いだろう。付き合いが深まって親しくなっても、『お互いを尊重して思いやりを持たなければならない相手としての最低限の尊厳・礼儀』を持っているほうが、人間関係の質感や一緒にいて大切にされているという実感は上がりやすい。一方で、『無礼さや無神経さ・過度の要求や甘え・暴言暴力・相手をバカにした言動』を遠慮のいらない親密さの現れ(他の人には言えないような失礼なことや暴言・侮辱の類でも何でも言って構わないような間柄)として受け止めてしまう人が多いという問題もあり、間接的なDVやモラハラの要因にもなりやすい。

恋人(配偶者)から愛されるために尊重されるために、自分の要求・意見を押し殺して自己犠牲を払うという人は少なからずいるが、それらは『適当に扱われながら何とか別れないことに役立つ側面』はあっても、『相手からの愛情や尊重を実感しやすくなることに役立つ側面』は余りないという問題がある。自己犠牲を払って献身的に尽くして上げたことに対する、『相手からの感謝・親切・尊重』が感じられるような関係性であれば良いのだが、色々な面で尽くして愛情を注ぎケアして上げてもそれを『してもらって当たり前・それが相手の役割や立場なのだから』という受け止め方をする人もいる。そういった感謝・返報を知らない相手の場合には、いくら自己犠牲を払って尽くしてあげても、相手の要求・主張をそのまま受け入れてフォローしてあげても、自分の献身・支えに対する『相手からの愛情・尊敬・親切な扱い』はまず返ってくることがないだろう。

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行動主義や学習心理学の理論で考えると、『自分に冷たい態度を取る相手・自分を不当に軽視したり理不尽な怒りを向けてくる相手・自分の人格や感情を傷つけるような言動をした相手・感謝や返報の素振りも見せない相手』に対して、献身的な自己犠牲の態度を示したり、愛情や敬意、甘やかしの報酬を与えることは、『相手を自分の思い通りに不当に軽く扱っても大丈夫だと確信させる誤学習の強化』につながるということである。恋愛においては惚れた側の弱み、結婚においては経済生活の不安といったものが影響してくることもある。しかし、『自分を不当に傷つけたりバカにしたり利用したりするような態度を取った相手(恋人・配偶者)』に対して、逆に自分が下手に出て相手のご機嫌を取ったり今まで以上に世話を焼いて愛情・敬意を注いでやったりすることは、『過保護・過干渉の間違った子育て』と同様に『恋人(配偶者)に対する間違った学習』を助長してしまうリスクがある。

自分はどれだけ理不尽に傷つけられても、思いやりのない冷たい対応を受けても、あなたを見捨てずに愛しているというメッセージは、一見すると一切の見返りを求めない理想的な無償の愛のようにも思える。だが、『理不尽な暴言・冷たい態度・浮気や不倫などの許しがたいと感じる行為』に対して、愛を囁いたり優しく接したり別れないでと懇願したりするような報酬を与えれば、『これからも同じように自分を傷つけても良い・どんなに理不尽に扱われても私はあなたを好きなままでいる』というお墨付きを与えるような正の強化(誤学習)につながってしまい、いくら尽くしても愛情や敬意が返ってくることはないだろう。

どんなに好きな相手であっても、一方的に自分を傷つけるような言動をしたり、理不尽な感情表現や行き過ぎた要求をしてきた時には、『自分が傷ついているということ・これ以上の暴言や不快な態度は受け容れられないということ・相手に対する怒りや失望の気持ちを抱いているということ』を正直に伝えて、相手が自分の苦しみや悲しみ、傷つきにもう一度寄り添ってくれるだけの“心(共感能力・自省心・他者への想像力)”を維持しているかを確認することも大切である。

相手が自分の苦しみや悲しみ、傷つきを共感的に理解しようと努めてくれて、今までの理不尽な言動や間違った態度を改めてくれる(そういった態度を後悔してくれる)のであれば、『相互的な愛情・敬意・思いやり』に裏打ちされた信頼関係や相互扶助の寄り添いを回復していける可能性がある。だが、どんなに自分の感情の傷つきや自尊心のダメージを訴えても全く聞く耳を持たず、それまでと変わらない理不尽な要求や人格軽視の暴力的な対応を続けるのであれば、その後の付き合い方を考え直すきっかけにもなるし、愛情や好意、尊敬が全く感じられないままの近しい人間関係(感情面・愛情面以外の生活や子育ての面での助け合いの必要性などが別にあるとしても)を続けていくことの意義を問い直す必要も感じられてくるだろう。

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元記事の執筆日:2015/08

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