C.G.ユングの“シンクロニシティ”とミハイ・チクセントミハイの“フロー”:必然的な偶然による流れ
自我・欲望の肥大(幸福追求の執念)によって苦悩する人:A.マズローの欲求階層説と仏教の知足
V.E.フランクルの“意味・使命”をベースにした幸福観:幸福追求と幸せへの気づきの違い
S.フロイトの快感原則と現実原則:社会生活・人間関係へ適応するための欲求の満たし方
人はなぜ自分の欲求・真実を偽ることで苦しむのか?:超自我+噂話による自己規制・自己欺瞞(防衛)の限界
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J.D.クランボルツの『計画された偶発性理論』:行動主義と偶然の幸運の引き寄せ
自分で自分がどのような人間になりたいか、どんな仕事や活動をしたいか、どんな相手と人間関係を深めていきたいか、何を実現して達成したいのかといった『目的意識・具体的な計画』を持ち、それに向けて努力や工夫を積み重ねていくというのが、『人生の幸福・成功』を実現するための王道であることは今も昔も変わらない。しかし、事前に計画した通りに順調に事が進まないのが人生の難しさであり、思いがけない『偶然の出来事・偶発的な他者との出会い』によって、人生が良い方向にぐんぐん進むこともあれば、逆に悪い方向に一気に転落してしまうこともある。
人生が『夢・理想・幸福の実現』へと向かう『事前の計画・予定』の通りに進んでいき、『自分の努力・創意工夫・コミュニケーションの成果』が分かりやすく得られるのであれば、大半の人は人生や人間関係に苦悩することなどないだろう。キャリア心理学の分野では、職業活動の履歴や人間関係の変遷を含めた『広義のキャリア』において成功・幸福の要因がどこにあるのかを研究している。スタンフォード大学の心理学者・教育学者であるJ.D.クランボルツ(John D.Krumboltz,1928~)の『その幸運は偶然ではないんです!(夢の仕事をつかむ心の練習問題)』も、キャリアにおける成功・幸福の要因としての『偶然性』に焦点を当てた著作である。
自分の思い描いている人生のキャリアや人間関係を達成して幸福を実感するための方法論として、『意識的な計画に基づく努力・工夫による前進(王道)』と『意識していなかった偶然の出来事・出会いの影響(偶然性)』とがある。しかし、J.D.クランボルツのいう偶然性(ハップンスタンス)は『受動的な待ちの姿勢』ではなく、『能動的な引き寄せの姿勢』であるのが最大の特徴であり、何も努力や行動をしなくても偶然に良い出来事が起こってくるかもしれないという『受身(無為)の姿勢や考え方』とは正反対の考え方である。
クランボルツは数百人以上の成功したビジネスパーソンのキャリアを詳細にリサーチして、『キャリアの80%以上は予期していなかった偶然の出来事によって形成されていること』を突き止めたが、これらのビジネスパーソンは何もせずに偶然の幸運や良い出会いが湧いてきたわけではなく、『自分を良い方向に導いてくれる偶然が起こりやすい考え方・価値観・実際の行動力』を持っていたというのである。J.D.クランボルツの『計画された偶発性理論(Planned Happenstance Theory)』は、『偶発性が計画されている』という語義矛盾を含んでいるが、これはラッキーな偶然の出来事がみんなにランダムに起こるわけではなく、その人がラッキーな偶然を引き寄せやすい価値観を持ち実際に行動していればその確率・頻度が上昇するという仮説に基づいている。
クランボルツの『計画された偶発性理論(Planned Happenstance Theory)』とは、簡単に言えば、とにかくやってみてフィードバックを受けながら試行錯誤する『行動主義』である。ここでいう偶発性というのは『何もしなくて待っているだけで起こること』ではなくて『行動してみれば思いがけない予期していなかった出来事・人に出合えるかもしれない』ということなのである。色々な事柄に興味関心を持たずに心を閉ざして、悪い変化が起こるかもしれないと思って何もせずにいることが、『計画された偶発性理論』においてはもっとも幸福・成功を遠ざけるネガティブな態度になってくる。幸運な偶然の出来事が起こる頻度を高めるためには、オープンマインドで色々な事柄や人に興味を持って、リスクや失敗を恐れずに(極端にハイリスクな行動は慎重にやるべきだとしても)まずはやってみてから考えることが効果的である。
自分が何かに興味を持ってやってみようとする『計画的に起こした行動』が、自分を成功・幸福・楽しみへと導く『偶然の幸運な出来事・チャンス・人との出会い』を生み出す頻度を高めてくれる。そして、自分の行動によって引き起こされた『偶然の良い出来事・人との出会い』を、その後の人生・仕事・人間関係に活用していくことで、更に充実したキャリアが花開いていくというのが、クランボルツのいう『計画された偶発性』なのである。自分のキャリアや人間関係を望ましい方向へ発展させていってくれる『計画された偶発性』を引き起こしやすくする『価値観・生き方・行動の要因』として、クランボルツは以下のようなものを上げている。
1.好奇心
物事・人の好き嫌いを決め付けて考えないオープンマインドで、幅広く好奇心(興味関心)を持つことによって、偶然のラッキーな出来事や出会いに遭遇できる確率は上がる。初めから『このイベント・勉強会には興味がないから』『こういったタイプの相手は嫌いだから』と決め付けて、自分の好きなことや慣れている活動ばかりをしていると、思いがけない偶然の幸運をつかみにくくなる。
少しでも何か気になること・人や面白そうと感じること・場所があれば、迷ってやめてしまうのではなく、まずは行動して体験してみたり会話してみることで、今まで経験したことのなかった『偶発的な出来事や人間関係のとっかかり』が生まれやすくなる。好奇心・興味関心の網を幅広く投げかけて実際にコミットしてみることによって、その網ですくい取れる『計画された偶然性』の頻度も高まるのである。
2.粘り強さ
意識的な努力・工夫とも重なる要因であるが、『自分がやりたいと思った仕事・付き合いたいと思った人・達成したいと思っている事柄』に対して、その目標がある程度達成できるまで粘り強く諦めずにコツコツと続けていくことも大切である。
少しだけやってみて自分には合わない、これ以上やっても無駄であると決め付けてしまうと、そこで仕事や人間関係の可能性は閉ざされてしまうが、『もう少し粘り強く続けてみよう・全力で納得できるまで頑張ってみよう・違うやり方が通用しないか工夫してみよう』という粘り強い努力や工夫の姿勢を持つことによって、今までとは異なる新たなチャンスに恵まれることも少なくない。
3.オープン・マインド
あらかじめ人生全体がこうでなければいけないと決め付ける『長期的な目標・理想像』を設定し過ぎると、それ以外の選択肢や臨機応変な判断ができなくなってしまう。だから、その時々の自分の気持ちや状況の変化に柔軟に対応できるような、硬直したこだわり・決めつけを持たない『オープン・マインド(外・他に開かれた心)』を持つことが大切である。
仕事一つをとっても『今までやったことのない仕事・職種だから自分にはできない』『自分は上場企業(大企業)以外には就職するつもりはない』『自分は頭脳派だから肉体労働の要素のある仕事はしたくない』といった硬直的なこだわりを持っていると、今やっている仕事・会社がダメになった時の柔軟な方向転換や意識の切り替えができずに、キャリアの発展・成長において行き詰まってしまうことになるだろう。
4.オプティミズム(楽観主義)
心理療法の認知行動療法でも明らかにされているように、『楽観的・肯定的な物事の考え方』は、前向きな感情や快適な気分を生み出してくれて、自分の目標を達成しようとする行動力を高めてくれる。頑張ってもどうせダメだろう、自分には何も成し遂げる力がない、未来は暗いことばかりだという『悲観主義』は、気分・感情を落ち込ませてやる気を無くさせ、何かを積極的にやろうとする行動力も低下させてしまう。
やればできるはず、何とか乗り越えられるはず、つらいこと(大変なこと)もあるが頑張ればきっと良いこともあるはずという『オプティミズム(楽観主義)』は、人間のメンタルヘルスの維持向上にとって最も役立つ価値観・考え方である。オプティミズム(楽観主義)に基づく好奇心と行動力が発揮されている時、人間はもっとも幸運な偶然の出来事や人との出会いに遭遇しやすくなるので、将来を悪く捉える悲観主義に陥らずに前向きな好奇心と意欲を保っておくことが大切である。
5.リスクテイク
失敗や変化を恐れて『今までと全く同じ行動』を繰り返していたのでは、キャリアや人間関係の発展は期待しづらいので、『変わることを恐れないリスクテイク』の気持ちを持って積極的に行動していくことが大切である。
仕事でも転職でも恋愛(結婚)でも、『やってみてダメだった時の想像』ばかりに囚われて、ずっと何もしないというのでは良い偶然の変化も起こりようがない。だから、『自分のやりたいこと・自分の本当の気持ち』を確認しながら、リスクテイクして行動すべき時には行動しなければならない。
C.G.ユングの“シンクロニシティ”とミハイ・チクセントミハイの“フロー”:必然的な偶然による流れ
J.D.クランボルツの『計画された偶発性理論(Planned Happenstance Theory)』では、何かをやってみようとする“意識的な行動”が、意図していなかった思いがけない“偶然の出来事・出会い”をもたらすことが仮定されている。しかし、よくよく考えてみれば、人間(私)の人生や人間関係というものは、フリードリヒ・ニーチェの『永劫回帰』の概念を持ち出すまでもなく、一度それが起こって過ぎ去ってしまえば二度と全く同じ時間は戻ってこないという『一回性』のものである。つまり、今・ここにおいて起こった出来事やコミュニケーションはただこの一回だけという意味では“偶然性”と“必然性”の差異が乏しく、それを踏まえればすべての出来事や出会いは『必然的な偶然性』という矛盾した言い回しもできるということになる。必然的な偶然性というのは、クランボルツの概念を用いて『計画された偶発性(プランド・ハップンネス)』と言い換えることもできる。
自分が本当に実現したい出来事や手に入れたい仕事、巡り会いたい出会い(恋愛・結婚・友人など)などに向かって、その可能性を高めるためにとにかく意図的な行動をしていく中で、さまざまな思いがけない出来事(予期していなかった出会い)が起こってくる。しかし、こういった意図的な行動に基づいて起こってくる様々な出来事は、もはや『完全にランダムで無意味な偶然の出来事』とはいえず、『必然的かつ意味のある出来事』として十分に解釈可能なものなのである。人生における出来事や人との出会いには、『完全にランダムで無意味な偶然性の結果』というものはないという見方を示した心理学者・精神分析家に、分析心理学を創始したカール・グスタフ・ユング(Carl Gustav Jung, 1875-1961)がいる。
C.G.ユングは“意味のある偶然の一致(意味のある偶然の出来事)”という意味で『シンクロニシティ』という概念を提示したが、この用語は今でも自分と他人の行動・気分(波長)が偶然に一致した時などに『シンクロした』という言い方が用いられている。シンクロニシティは意味のある偶然の一致であると同時に、必然的な偶然の出来事としても捉えることができるが、昔から何かの現象を見て大切な人に何か起こったのかもしれないと思う『虫の知らせ』などが意識されてきた。
例えば、故郷の母親のことをふと思い浮かべていた瞬間に普段は滅多にならない電話が鳴って、それが母からの電話であったり、カフェで友達のことを思い浮かべていたら、ちょうどその時にその友達が通りかかって一緒にコーヒーを飲んだり、電車に間に合わないと思って急いでいったら、ちょうど電車が5分遅れていて間に合ったりといったことがシンクロニシティの一例になってくる。C.G.ユングは人間の人生の大きな意味・価値を生み出す流れの中で、『シンクロニシティの現象(出来事)・人間関係(出会い)』が生じるという偶然と必然の一致を示唆する人生観を持っていた。そして、人生の重要な局面で生じやすいシンクロニシティに対してオープンマインドでいること、その必然的な偶然の一致に気づくような意識・注意を持っていることによって、自分の人生に偶然の幸運や成功をもたらすシンクロニシティの現象・出会いをがっちりと掴みやすくなるのである。
フロイトの精神分析では無意識的な願望が抑圧されることによって、様々な神経症症状(心身症の症状)や人間関係のトラブル、失錯行為、依存症などが転換性障害として生じると考えられた。しかし、ユングの分析心理学では『神経症症状(心身症)人間関係のトラブル・失錯行為・依存症』などの持つ象徴的な意味・目的・メッセージ性のほうにも意識を向けて、夢などに出る普遍的無意識(集合無意識)のイメージの力も借りながら、『病的状態から展開される心的プロセス』を促進していくこと(気づきを得ること)が重視されている。人生が物凄く順調に上手くいっている時、あるいは反対に、人生が物凄く不調ですべてが裏目に出て失敗する時には、『良い方向(悪い方向)での偶然の出来事』が連続的に起こってきて、『自分の意志・努力』ではその偶然性によって生み出される大きな流れを思ったように変えられないことがある。
この偶発的あるいは自然発生的な人生の大きな流れは、アメリカの心理学者ミハイ・チクセントミハイ(Mihaly Csikszentmihalyi, 1934~)のいう『フロー体験(Flow experience)』とも重なる部分がある。フローというのは流れ(流動)であるが、チクセントミハイはフローを『精神が最高に充実していて何かに没頭している状態・心地よくてゆったりしたスローな時間の流れの中にいる状態』として定義している。フロー体験では、ハイな幸福感・高揚感と同時に冷静な観察力・判断力が機能しており、仕事や勉強、人間関係のパフォーマンスも非常に高いものになっている。
フローのポジティブな流れに乗っている時には、人は『適切な場所と時に、適切なことをしているという充実感・達成感』を感じており、自分のやっていることや関係している相手に対して迷い・不安・後悔などを全く感じない状態になっている。ハイで楽しい気分なのに、ゆったりとしたリラックス感と適切な判断力が維持されているので、浮かれた軽薄な行動を取って失敗するということもない。フローは、“計画された偶発性”や“シンクロニシティ(意味ある偶然の出来事)”がポジティブに連続しやすい姿勢・心理状態でもあり、自分の中に存在の意味・価値が充溢していて生命力・行動力も非常に高い水準になっている。端的には人生がどんどん良い方向に向かって自然に突き進んでいるような感覚であり、そういったスピード感があるのにゆったりとしたスローな心地よさもあるという理想的な精神状態・心的体験がフロー体験と呼ばれるものである。
フローな心理状態になってポジティブな流れに乗るために有効な要因としては以下のようなものがある。
1.自分にとって価値があると思う物事・他者に真剣に全力でコミットする。
2.物事・他者に対する情熱や意欲を大切にする。
3.未来の不安や過去の後悔に囚われず“今・ここ”に生きる。
4.オープンマインドで自分に素直になり、他者との壁を作らない。
5.恐れたり言い訳をせずに、まずは自発的にやってみる。
6.物事・他者をあるがままに受け容れようとする。
7.楽観主義で前向き・積極的に生きる。
自我・欲望の肥大(幸福追求の執念)によって苦悩する人:A.マズローの欲求階層説と仏教の知足
仏教の創始者の釈迦(ゴータマ・シッダールタ)は、人間社会の真理を示す四法印で『一切皆苦』と『諸法無我』という苦悩の原因と対処を説きましたが、これはトランスパーソナル心理学的(あるいは実存療法的)な苦悩に対する解決法とも似通った部分があると感じます。生老病死をはじめとして、人の人生のすべては苦に満ちているという『一切皆苦』はかなり悲観的な人生観ですが、『自我の持つ煩悩(私の持つ欲望)』だけを中心にして生きていると、『仕事が上手くいかない・満足な生活ができない・お金が足りない・恋愛や結婚の人間関係で悩ませられる・子供が順調に成長してくれない』など自分の欲求が満たされないための苦しみや不平不満で人生が満たされやすくなるというのはあります。
仏教は『自我・煩悩(欲望)』に囚われることによって、苦しみが生まれるという因果を強調する宗教思想を持っていて、これは一般的な処世訓としても一理あるのですが、現実社会を生き抜いていくためには『私(自我)の幸福追求や経済生活のための欲求・計画と努力・お金・家族・異性』なども完全に無視することはできません。仏教は究極的にはこの世に自我(私)という実在・主体などは存在せず、自我(我)は知覚的な仮象に過ぎないという『諸法無我』を悟ることによって、煩悩を消尽させて苦しみから救済されるとします。しかし、出家しているわけでもない私たち一般人にできることは『自我・煩悩(欲望)だけに過度に執着し過ぎないこと』くらいでしょう。
これは砕けた表現で言い換えれば、『自分の欲望をどこまでも非現実的な高いレベルで満たそうとし過ぎない(もっともっとと欲望を追い続けない)』や『今ある状況や人間関係を味わって満足できるようにする』といった処世術にもつながっていますが、仏教の『知足の精神(足ることを知る精神)』でもあります。成功欲求や上昇志向の強い人からすれば物足りない考え方かもしれませんが、自分の実力・意欲・気迫などで『高く登れる所までは登れば良い・得られるものであれば得れば良い』のであり、問題は『自分の存在を否定するような渇望や貪欲に絡め取られること・こんなんじゃダメ、もっともっと欲しいという欲望に追い立てられて疲弊してしまうこと』なのです。
仕事で一定の地位や所得を得られるようになっても、自分よりも上位の役職・企業や高所得の人は無数にいる、300万円の新車を買っても、上を見れば500万や1000万以上の車もいくらでもある、綺麗で優しい奥さんと結婚しても、外を見ればもっと若くて綺麗で魅力的な人もいるかもしれない、こういったもっともっとという終わりのない欲望の拡張と上昇志向を追求していけば、人は永遠に満足できないだけでなく、どこかで挫折・欲深さの自己否定や無限の欲望に溺れる虚しさに行き着かざるを得ません。ヒューマニスティック心理学に分類されるアブラハム・マズロー(Abraham Harold Maslow,1908-1970)の欲求階層説では、『生理的欲求・安全安心の欲求・所属と愛の欲求・承認の欲求・自己実現の欲求』を取り上げていますが、これらの階層的な欲求もそれぞれの段階で満たせるだけの欲求を満たせば良いというものではありません。
ある程度満たされれば『次の段階(より上位の階層)の欲求』へと移行していき、最終的には知足の要素(十分に能力を発揮して満たされているという状態)も併せ持った『自己実現』に辿り着くとしています。アブラハム・マズローの人間性心理学では『潜在的な可能性を開花させて創造的かつ有意義に生きる』という“自己実現のベクトル”が強調されますが、著作の『完全なる人間―魂のめざすもの』に示されているような個人(自我)の心理・生活の範囲を超越した高揚・法悦の“至高体験(神秘体験)のベクトル”というものもあります。
『自己実現(self-actualization)』は自分の個人的な可能性を追求するものですが、『至高体験(peak experience)』は自我(自己)の欲求への執着から解放されたより普遍的・神秘的な次元(俗世の損得や快楽とは異なる世界との一体感・調和感を感じる次元)での恍惚・満足という意味では、仏教の『諸法無我と知足』の考え方にも相通じるものがあるように感じます。人間を結果的に“苦悩・不平不満”に追いやりやすい自我の主体的な欲求充足の終わりなき追求というのは、S.フロイトの『快楽への意志』を行動原理とする人間観、初期のA.アドラーの『優越への意志』を行動原理とする人間観とも重なってきます。
一方、著作『夜と霧』で知られる実存療法のV.E.フランクルの『意味への意志』は、フロイトの快楽への意志やアドラーの優越への意志と比較すると、『自我の主体的な欲望の充足(自分の側から世界・他者に何かを期待して求めていこうとする態度)』とは切り離された意志の概念です。ユダヤ人のV.E.フランクルは、ナチスの強制収容所における極限状況の中で生きる意味を探索し、『生き残れた人と死んでしまった人の差異』を経験的に知っていた人物ですから、ぎりぎりの所まで追い詰められた人間が何を支えにして生きる意志を持ち続けられるかといった部分の記述には説得力があります。
実存療法で重要視される意味への意志は、どちらかというと『世界・他者の側からの呼びかけに頑張って応答しようとする意志』を指していますから、自我・欲望への執着とその肥大によって苦しめられている時は、『人生の側からの期待・他者の側からの呼びかけ』に自分なりに応えていくことに意味を実感して満足するという知足の考え方が、『自我中心(欲求充足=幸福実現)の発想・意識の転換』に役立つかもしれません。
V.E.フランクルの“意味・使命”をベースにした幸福観:幸福追求と幸せへの気づきの違い
オーストリアの精神科医V.E.フランクル(Viktor Emil Frankl, 1905-1997)は、ナチスドイツの強制収容所における明日殺されるかもしれない限界状況で生き残った人ですが、フランクルの『生きる意味』を問うロゴセラピー(実存療法)の特徴は、『自分(自我)が人生に意味を問う』のではなく『人生の側から意味が問いかけられている』と意味の主体を転換したことでした。自我を主体として自分自身の欲求や感情を中心に考えれば、確かにあらゆる欲求の充足と感情の快が抑圧されてしまえば、生きる意味は非常に乏しくなるでしょう。更に、強烈なストレスや脅迫・欠乏・屈辱による恐怖を与えられている状況に置かれて、明日(未来)の希望がもうないように思える時には、人生のすべてに絶望して生きる意味を喪失してしまっても自ら命を断ってしまっても不思議ではありません。
フランクルのロゴセラピーの哲学・信念は『どんな時にも人生には意味がある』ということですが、それは『自我(私)の欲求・感情が満たされる形の意味』ではなく、『あなたを必要とする何か・誰かがどこかにあり、そのためにあなたにできることが常にある(無いと思えても常にそれをイメージしなければならない)』という、他(人生・世界・他者)から自分が求められているという形の生きる意味なのです。自我(私)の心理状態や客観的状況ばかりにこだわらずに、生きる意味を『世界・他者の肯定(世界・他者からの呼びかけのイメージ)』に少し委ねてみるというのは、我(私)という実在は知覚が生み出す虚妄であるとする仏教の『諸法無我』の真理にも似ています。そして、欲求・理想を計画的に実現していくことで自我(私)の幸福を追求するという、近代的人生観の挫折・虚無に対する一つの処方箋として機能することがあるものです。
自我(私)を中心とした近代的人生観の中で最大の幸福は突き詰めれば、“自分がやりたいことが何でもできて、欲しいもの(買いたいもの)が全て手に入り、付き合いたい人と自由に付き合える”ということですが、これは現実社会に生きる99%以上の一般人には実現できない煩悩・強欲の夢であり、逆に実現できる富裕層・成功者にとっては『やりたいことは概ねやってしまった・欲しいものは概ね買ってしまった』という無意味さや虚しさの原因にもなるものです。あるいは、そこまで無茶苦茶な贅沢・散財・遊興・自由はないとしても、現代社会でそこそこに職業的・経済的に成功している人は、物質的生活のレベルではそれほど困ったことがなく、最高級品ではなくても欲しいものや見栄えのするものはそれなりに買うことができて、家庭生活や男女関係でも一定以上の満足は得やすいと思いますが、『自我(私)の欲望・願望』を中心にした人生観(ライフスタイル)に執着していれば、欲望が無限に肥大していくことで結局いつまで経っても自分の現状には満足できないということになります。
幸福追求のための要素として『お金・モノ・名誉・異性・地位・権力』を求めていく部分は確かに誰にでもあるのですが、『今以上の欲望の充足(もっともっと今よりも欲しいと感じる強欲)』に突き動かされていると、人並み以上のモノや状態を持っているにも関わらず、『自分は満たされていない・人生はつまらなくて意味がない』という不平不満や無意味感に襲われやすくなります。V.E.フランクルは著作『意味への意志』『それでも人生にイエスと言う』において、『幸福は決して目標ではないし、目標であってはならない。目標であることもできない。幸福は、結果にすぎないのである』とか『幸福を直接追求することはできない。幸福を意識し直接目指すことによって、人は幸福になるための理由を見失い、幸福それ自体が消えていかなければならなくなる』とか書いていますが、これは幸福のための欲求充足ばかりに意識を向けると幸福が遠ざかるという『幸福追求のパラドックス』でもあります。
幸福の本質は『幸福追求(欲求・願望の充足+他者との優劣を巡る競争)』よりも『幸福であることの気づき(仏教の知足にも似た幸福を実感・感謝できる人間性)』にあるということですが、次々と新たな欲望・快感が刺激される現代の情報化社会(競争社会)・コミュニケーション重視社会の中にいると、意外に見落としやすいポイントではあります。フランクルは、やるべき仕事に熱中して取り組んでいる状態、やりたい活動に没頭して時間を忘れているような状態、大切な相手との時間を楽しんでいる状態(家族・恋愛・友人関係などを大切にして過ごしている状態)、自分に必要だと思う知識や情報に触れている状態などが、結果として幸福な心情・状態を生み出すのだと語り、永遠の欲求不満(実存的な虚無感)に苦しめられないためには、『人生から問いかけられる意味・使命』に応えられるような生き方が幸福に最も近いという幸福観を呈示しました。
認知療法などでは、『使命感・意味性を意識した~すべきという考え方』はそれに応えられない自分を否定してしまいやすい認知の歪み(気分・感情を落ち込ませやすい非適応的な認知)として捉えられることも多いのですが、自分の欲求を満足させられないという煩悩の苦しみに嵌りやすい現代人にとっては『自分が実現したい欲望・理想の内容+人生・他者の側から求められていることのイメージ』のバランスを取っていくことが必要なのかもしれません。あらゆることの意味や喜び、可能性が閉ざされたように感じる究極的な限界状況においては、V.E.フランクルの『意味への意志』と合わせて、自分自身の存在(主体性)と今感じている悲観的・絶望的な感情を気分を引き離してみて少し傍観者的な位置づけに立って落ち着いてみる『観察自我(自分で自分を客観的に見て評価している自意識)と経験自我(実際に世界の中で行動している自分)の分離の手法』も役立つことがあります。
S.フロイトの快感原則と現実原則:社会生活・人間関係へ適応するための欲求の満たし方
ジークムント・フロイトが考案した精神分析の精神病理学では、『現実原則への不適応』と『無意識的願望(エス)の過剰抑圧』が神経症(身体表現性障害)をはじめとする慢性的な精神疾患を生み出すとされます。現実的に満たすことが難しい“本能的(無意識的)な欲求・衝動”がある場合に、それを“快感原則”に従って無理にすぐに満たそうとすれば『犯罪・暴力・不祥事(軽蔑・懲罰されるべき行動)』となって自分自身の損失が大きくなります。逆に“超自我・自我防衛機制”によってそういった欲求・衝動がはじめから無かったように思い込んでしまうと『神経症・心身症・精神病』となって原因不明の心因性の症状に苦しむことにもなります。
社会生活のルールや他者との人間関係に上手く適応しながら、自分の抱える無意識的な欲求・衝動を意識化して対処するためにはどうすれば良いのかを考えるのが、精神分析の治療法略になっています。現実原則というのは『意識化した自分の欲求・衝動をどのような方法・工夫で満たせるのかあるいは今はどうやっても無理だから断念したほうが良いのか』を合理的かつ道徳的に考えて、現実の状況・他者と折り合いをつけていく原則のことです。S.フロイトは精神構造論で人間の心の領域を『意識・前意識・無意識』の3つに分けましたが、このうちで現在の自我が思い浮かべている内容がある場所が“意識”であり、努力して思い出そうとすれば比較的簡単に思い出せる内容がある場所が“前意識”とされています。『エス・自我・超自我』を想定する自我構造論(心的装置理論)と対応させると以下のようになります。
意識・前意識の領域にある構造……自我(ego)
無意識の領域にある構造……エス・超自我(superego)
超自我というのは、幼少期からの成育環境・親子関係を通して内面化された道徳規範・社会規範のことであり、『~すべき・~してはならない』という無意識的な善悪の判断基準として機能しているものです。無意識の領域にあるエスの過剰は『犯罪・暴力などの反社会性』の原因になってしまいますが、本能的なエスの欲求・衝動を~してはならないという道徳規範で禁止しようとする超自我が過剰に働きすぎると『神経症・心身症・精神病などの心の病気や不調』を引き起こしてしまうという仕組みがあります。
エス・超自我が働いている無意識の心的プロセスを『一次過程』、自我がエスと超自我のエネルギーを調整しながら現実世界や人間関係に適応しようとしている意識・前意識の心的プロセスを『二次過程』として精神分析では考えています。一次過程は『快感原則・道徳規範』に従って展開する心的プロセスであり、二次過程は『現実原則(現実との妥協・調整や努力・工夫による欲求充足)』に従って展開する心的プロセスです。人間が大人になっていく精神発達プロセスとは、快感原則から現実原則へと転換していく本能変遷のプロセスでもありますが、現実原則に適応しようとする時に出会うのが『~したい・~が欲しいという無意識の生物学的・身体的な力』と『~すべき・~してはならないという意識の社会的・道徳的な抑制』との間の“葛藤”なのです。
とにかくお金(モノ)が欲しいというエスの快感原則はそのまま即時的に無理矢理にでも満たそうとすれば『強盗・窃盗・詐欺などの犯罪』に逸脱してしまう危険性がありますが、『働いてお金を稼ぐ(働くために勉強や努力をする)・投資してお金を稼ぐ・今はお金やモノを諦める・貯めてから商品を買う』などの現実原則に見合った行動を調整することによって社会生活や人間関係に上手く適応していくことができます。人間の自律神経系と連動した動物的・本能的な防衛行動は『闘争―逃走反応(fight or flight reaction)』と呼ばれるもので、『闘争(敵や障害と戦う)・逃走(戦わずに逃げる)・固まり(死の偽装)』のいずれかによって自分の欲求を充足したり危険から逃れたりします。
人はなぜ自分の欲求・真実を偽ることで苦しむのか?:超自我+噂話による自己規制・自己欺瞞(防衛)の限界
本来の欲求が満たされないことによる『自我の傷つき・欲求不満(フラストレーション)の苦しみ』から自分を守るための『自我防衛機制』は、動物的な防衛行動よりも複雑で種類が多いものですが、その本質は自分で自分を騙してその欲求が初めから無かったことにしようとする『自己欺瞞(エスの隠蔽・隔離・解釈)』です。人間は社会生活や仕事状況、他者との人間関係に適応するために、『本能的な欲求・願望の充足』を抑圧したり延長したり昇華したりしなければならず、誰でもある程度は『自己欺瞞・我慢・譲歩(妥協)』をしなければ現実社会の他者との関わりの中で生きていくこと(自分の居場所を維持すること)はできません。
自分のむきだしの欲望や願望を、そのままの形で合法的かつ適応的に満たせる状況・相手は多くないからであり、多くは『人間関係を保つための気配り・思いやり・貢献活動』や『金銭を得るための労働・投資・努力』のように、何かを得るためには何らかのコストを支払ったり、自己中心的な行動を我慢したりしなければならないからである。あるいは、妥協や譲歩、努力ができなくて、適応的に自分の欲求を満たせない時に、『自分は別にそんなことはやりたくなかった・そんなものは欲しくなかった・自分を認めない他者は必要ではない』といった自己欺瞞(認知的不協和)と関係する自我防衛機制が発動されやすくなります。
しかし、極端な自己欺瞞には無理や限界があるので、あまりに自分で自分を偽りすぎたり、真実(本当の欲望)から目を背けたりし過ぎると、『心理的苦悩の深まり・心身の調子の悪化・各種の精神疾患の発症』といったデメリットが大きくなってしまうのです。“抑圧・否定・否認・投影・隔離・退行・合理化・知性化・昇華”などの自我防衛機制には、自分で自分に様々な方略を駆使してウソをつくという側面がありますが、『過去のトラウマ的な体験・記憶』を意識から切り離して思い出せなくするために自我防衛機制が発動されている時に、もっとも神経症・精神病の発症リスクが高まりやすくなる(メンタルヘルスが悪化しやすくなる)と考えられています。
人は他者と協調・協力する社会生活を営むために、発達早期の母子関係の共感・共生の経験を基盤にして『社会的な認知能力(社会的な知性)』を発達させていくのですが、この社会的な認知能力によって『他人の心(意図・感情)を推測すること』が可能になっていきます。自閉症スペクトラムの病理学研究では、この他人の心(意図・感情)を推測する能力のことを『心の理論』と呼んでそれが形成されるかどうかを重視しています。健全な精神発達の過程では幼児期後期・児童期のはじめくらいになるとこの『心の理論』が形成されてきて、幼稚園・保育園・小学校の友達の気持ちを概ね正しく推測して配慮できるようになってきます。
『心の理論』が形成されないと、相手の感情や意図を正しく推測できないので『相手の感情を傷つけるような酷い言葉をいう・その場面や状況にふさわしくない不規則な発言をする・相手の都合や事情を無視して一方的にまくし立てる・相手のコンプレックスを刺激するような嫌なことをずけずけと言う』といったアスペルガー障害に見られるような社会性やコミュニケーションの問題が目立ってきます。認知心理学の分野では、『裏切り者発見モジュール(嘘発見モジュール)』という、集団生活で『他者の裏切り・ウソ』に敏感に気づくことのできる人に特有の認知機能が生得的に備わっているとされます。
これは人間社会が生産的かつ規範的に営まれるためには、『フリーライダー(社会貢献せずに社会の恩恵や配分だけ受け取ろうとするただ乗り者)・他人を騙す嘘つき』をできるだけ効率的に排除する必要があったからだと考えられています。あるいは、フリーライダーや嘘つきと見られないために皆がそれぞれの力を発揮して努力するような社会環境を整える必要があったためでしょう。社会集団の大規模化と言語獲得によって、法律・倫理といった社会規範が強化され、お互いの意図・感情をある程度正しく推測するための『心の理論』が発達したと考えられますが、そういった社会的知能(他者の動き・反応に合わせた同調的反応)には脳神経学的な『ミラー・ニューロン(他者の言動を真似て同調・適応するための神経伝達回路)』が関係しているのではないかと言われています。
人間(ヒト)はその進化の初期においては『自分で自分を騙す自己欺瞞(防衛機制)の弊害』よりも『自分が他人から騙されるウソ・手抜き(フリーライド)・謀略の弊害』のほうを警戒していたと推測されます。しかし、内面の自己検閲者である超自我(superego)が生成強化され、本能を抑制する社会規範・道徳規範の圧力が強まるにつれて、『自分で自分を騙す自己欺瞞(防衛機制)の弊害=メンタルヘルス・精神疾患のリスク』もかなり大きくなってきたのかもしれません。
人間は無意識的な超自我の道徳規範(善悪の分別)によって自分を自分で監視している『内向性の側面』がありますが、それと合わせて他者(世の中)からの自分がどのように見られているかという評判(噂)・評価を気にして自己調整する『外向性の側面』も持っていて、内向性と外向性の性格行動パターンのバランスを取りながら現実的な環境・人間関係への適応を成し遂げている存在なのです。精神分析の作用機序とされる無意識の意識化(無意識の言語化)というのは、『本当の自分の欲求』や『真実の自分の生き方』と改めて向き合おうとする方法論の一つですが、自分が目を逸らしてきた本当の願望や真実の人生の問題を見つめ直すという意味ではつらい作業になりがちでもあります。
それは、自分で自分を偽って何とかつらいことや不満なことをやり過ごそうとする防衛機制(自己欺瞞)の適応方略が限界に達した時に力を発揮する方法であると同時に、『真実と虚偽のバランス+エスによる欲求充足と超自我による欲求の抑圧(延長)の葛藤』を自我の現実調整機能によって調整しなおそうとする試みでもあります。
元記事の執筆日:2015/10