山本七平『勤勉の哲学 日本人を動かす原理』の書評1:天職と天命に見る日本人の労働意識、山本七平『勤勉の哲学 日本人を動かす原理』の書評2:石門心学・自然か不自然か

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山本七平『勤勉の哲学 日本人を動かす原理』の書評2:石門心学・自然か不自然か


山本七平『勤勉の哲学 日本人を動かす原理』の書評3:鈴木正三の職分論と士農工商の差別


山本七平『勤勉の哲学 日本人を動かす原理』の書評4:修行や運命としての職業・人間の定義


山本七平『勤勉の哲学 日本人を動かす原理』の書評5:『私が悪かった+あなたは悪くない』のバランス


山本七平『勤勉の哲学 日本人を動かす原理』の書評6:修行(仏行)としての職業と純粋動機原理


山本七平『勤勉の哲学 日本人を動かす原理』の書評7:現代の職業選択の悩みと鈴木正三の前世論


山本七平『勤勉の哲学 日本人を動かす原理』の書評8:人生と仕事の運命性にどう向き合うか?


山本七平『勤勉の哲学』から読む石田梅岩の『消費の倫理』1:高尚な学問と日常生活・仕事の統合


山本七平『勤勉の哲学』から読む石田梅岩の『消費の倫理』2:なぜ散財・贅沢を戒めたのか?


山本七平『勤勉の哲学』から読む石田梅岩の『消費の倫理』3:“名聞・利欲・色欲”の破滅回避と近代的合理


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山本七平『勤勉の哲学 日本人を動かす原理』の書評1:天職と天命に見る日本人の労働意識

西洋世界の資本主義と労働意欲(勤勉)の歴史的発生をキリスト教の信仰と絡めて説明した書物として、社会学者マックス・ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』はあまりに有名である。M.ヴェーバーはプロテスタンティズムの禁欲的な信仰心と天職(calling)に奉じる使命感が、逆説的に『消費・放蕩をしない労働の過剰(天職としての労働の自己目的化)』とその結果としての『勤勉性・貯蓄性向(資本形成)』を生み出したと考えた。

現代でこそ日本人の労働観や勤勉性は多様化して、ハードワークや長時間労働を忌避したり、プライベートの充実と労働(仕事上の人間関係)による束縛の少なさを望む層も増えてきたが、それでも日本人の平均的な価値観・倫理観として、『勤勉・奉公・節約・貯蓄の肯定的評価』は相当に根深く浸透しているといって良いのではないかと思う。ブラック企業やハードワーカーの過労死が社会問題として取り上げられることが増えた現代の日本で、日本人が労働・仕事との関わり合いにおいて自己を厳しく律してきた『伝統的・歴史的な勤勉の価値』の根源がどこにあるのか。

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M.ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』のように、山本七平が日本人の行動様式を一貫して支えている精神性(無意識的な思想信条)について、古典・宗教・思想を参照しながら多面的に説得的な解釈を試みている。日本人一般の勤勉性・社会適応性の思想的起源を探っていく上で有益な著作が、この山本七平の『勤勉の哲学 日本人を動かす原理』なのだが、鈴木正三(すずきしょうぞう,1579-1655)石田梅岩(いしだばいがん,1685-1744)という二人の思想家をベースにしていてなかなかその内容は難解である。

それなりに日本思想史に触れたことがある読者であっても、武士から僧侶に転じた鈴木正三と石門心学の石田梅岩の思想の具体的内容について知っている人は少ないと思うが、戦乱の時代に殺し合いを経験して江戸初期に仏法を学んだ私たちとは全く違う境遇の鈴木正三でさえ、近代以降の日本人ともある程度共通する所のある労働観・社会観を持っていたことに改めて気づかされ驚かされる。M.ヴェーバーは神に与えられた『天職(calling)』に励むという勤勉のモチベーションを強調したが、鈴木正三の『職分説』の職業倫理や石田梅岩の『石門心学』の職業の本質を介した役割分担においても、宋学(朱子学)の『天命論(天命に従って所与・身分の職業に勤勉に従事する)』の影響が色濃く見られる。

日本の儒仏道の『三教合一論』は、外来思想(外来宗教)を摂取して日本的な思想へと改変するという日本文化の特性を示している。更に、日本の人々の信仰心に自然に寄り添って調整された『宗教混交(シンクレティズム)の三教合一論』は、人間は『自然法(西洋的な自然法ではなく人為の図らいが関与しない法の意味)』に従って生きれば良いという『日本的自然法思想』の基盤を整えたのである。

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山本七平『勤勉の哲学 日本人を動かす原理』の書評2:石門心学・自然か不自然か

“自然”であるか“不自然”であるかの認識の違いが、日本人の是非善悪の価値判断に深く関わっているというのは、現代の平均的日本人の意識からしてもそれほど違和感を覚える見解ではない。『ごく自然な人間らしい生き方・働き方(そこには規則正しい生活習慣・労働適応の自然な日常の認識が織り込まれている)をすべきである』という日本的自然法の考え方は、現代の日本人にも通用する割合がかなり高いものだろう。例えば、『不自然な行動・不自然な物言い・不自然な生活習慣(現代でも定職に就いていない・平日の昼間にうろうろしている成人男性を不自然とするなど)』を好ましくない悪いもの、反社会的なものとして退ける感受性・価値観と根底でつながっていて、その自然法的な生活習慣を正しいとする感受性が必然に『勤勉性の称揚』をもたらしやすいのである。

禅僧の鈴木正三は著書『破切支丹(はきりしたん)』において、『貪欲・瞋恚・愚痴(どんよく・しんい・ぐち)』の三毒によって人間の心は汚されて、仏性(人間性)に従った自然な生き方ができなくなるので、大医王である仏が仏法の方法論を用いて人々の三毒の病を癒して(医して)くれるのだと述べている。儒教思想家の石田梅岩になると、更に仏教だけではなく儒教も道教も『ごく自然な生き方(本来の性に従った生き方)』ができなくなった三毒、悪心で病んだ人間を癒してくれる“薬”なのだとしている。石田梅岩の思想は『石門心学(せきもんしんがく)』と呼ばれるが、あらゆる思想を人間が自然本来の道から外れて病気になった時に、その病気を癒すための薬(薬種)と見るのが心学の特徴であり、日本人の多くは思想そのものを目的として絶対化することはなく、各思想を自分の病的な状態を癒してごく自然な人間性・仏性にのっとった道に戻るための“薬(薬種)”として活用するのである。

石門心学が学問の対象とするのは、自己の内面に存在する本質的な何か、自然と一体化して秩序を形成する“性(本性・人間性)”であり、石田梅岩本人はこの性と自然の秩序を理(ことわり)で極める自らの学問を『性学』と自称していた。その後、梅岩の弟子の手島堵庵(てしまどあん)らが、人間の本性が宿る心を究明するという意味で『心学』という名称を用いるようになり普及していったのである。石門心学に代表される心学は、人間の内面に存在していて自然と調和する“心”を対象にしているので、そこには江戸期の日本においてほとんど自覚されていなかった“個(個人)の意識”があり、その“個”の内面かつ中心にあるものが“心”なのである。

石門心学は思想そのものを絶対化して信奉するのではなく、病気になった心を健康にするための薬(薬種)として活用する、思想を道具として活用するという意味において、西洋哲学の『プラグマティズム(実用主義)』を先んじて実践しようとしたという見方もできるのだと本書は記している。鈴木正三のそれぞれが与えられた身分・役割の仕事に勤勉に励むことこそが自然なあり方なのだとする『職分論』は、長い戦乱の時代が終わりを迎えて江戸時代という新たな秩序が確立されたことと無縁ではない。

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鈴木正三は士農工商の各身分にある人々が、『ごく自然に人間らしい生活』を送るためには、それぞれが社会内で身分に応じた職分(仕事の役割)を勤勉に果たすことが必要だとして、著書『盲安杖(もうあんじょう)』では滅私奉公の徳(自己愛の否定)にも通じる武士の職分・自意識の持ち方についての10ヶ条を示したりしている。

山本七平『勤勉の哲学 日本人を動かす原理』の書評3:鈴木正三の職分論と士農工商の差別

曹洞宗の禅僧でもある鈴木正三は、諸法無我の真理に重ね合わせるように『自己愛への執着・自己身体の優先』を厳しく批判するような文章を書いている。それらを突き詰めればすべての人が主君・社会・他者のために自らの職分(仕事)に黙々と勤勉に励むことによって、『万民徳用の自然な秩序(すべての人の徳性が活かされた自然と調和した秩序)』が形成されて維持されるということなのである。現代日本においても、自己中心的な自己愛や自分の安楽ばかりを追求するライフスタイル、勤勉さや実直さのない好きなように生きるのが良いという価値観は、倫理的に批判されやすいが、鈴木正三の文脈と重ねれば『人間としての徳性(良き心の部分)』が活用されていないという否定的な評価に行き着きやすい。

無職・ニートなどに対する差別意識や劣等コンプレックスといったものも、『万民徳用の理想・自然(とされる秩序)から除外された状態』という認識と無関係なものではない。鈴木正三もまた勤勉ではない人や安楽・怠惰に流される人に向けられる『定型的な説教・非難』としてある『他者(働いている人たち)への感謝・恩義の欠如』を理由にした戒めの言葉を書き残している。しかし、鈴木正三の勤勉の肯定、万民徳用の秩序といった思想の背景には、職業に貴賎なしとする『職業的な平等主義』が徹底されている。

人々は身分・運命に応じてあてがわれた自己の所与の職分を勤勉にまっとうすること(身分制の時代でもあり職業は能力や希望に応じて選択するものではないとされる)で、全体的・自然的な秩序の一翼を担って責任を果たすことができるのであり、その職分を果たしている限りは『身分・所得・暮らしぶりの差』などは本質的な意味を持たないとされるのである。職業に貴賎なしの平等主義は、『自分の力量・希望で仕事を選ぶことはできない』とする身分制と天命思想に支えられたものではあるが、職業選択の自由が憲法に保障された現代日本においても『職業は選り好みしてはいけない・一生懸命に働いていればすべての仕事は尊い・とにかく身の丈(運命)に応じて働いていることこそが自然で正しい』とするような職業観・勤勉性の称揚はなくなったわけではない。

むしろ一部においては、そういった天命思想的・役割分担的な職業意識(とにかく働いていることこそが自然で正しい)は強化されていることもある。ブラック企業などで過酷な労働状況に置かれている人たちにとっては、『自分たちだけが不当に辛い仕事をさせられている・全体的で自然的な役割である職業(定職)を持たない人たちは責任を果たさずに楽をしていてずるい』といった自他の比較による不公正感(不平不満)も高まりやすくなっている。江戸時代の『士農工商の身分制』が機能していた時代は、現代の私たちから見れば社会的にも職業的にも不平等な時代であるが、鈴木正三は社会的・職業的(身分的)な所与の不平等は『変更不可能な現実』であるとしてあまり深く考察を進めてはいない。

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なぜ、人間の心(本質)は平等であるはずなのに、現実の世界には士農工商や富裕・貧乏などの差別があってみんな同じ運命ではないのか、『三毒(貪欲・瞋恚・愚痴)』を仏法で癒したとしてもどうしてこの差別はなくならないのかという問いは確かにある。だがこの問いに対して、鈴木正三は各人の変えられない運命、生まれながらの定めというものの究極的な原因は『前世の因縁(先世の業因)』であり、自分が生まれる前に定まった因縁については、人為的な努力や自我の図らいではそれはどうしても変えられないのだと語るだけである。更には、前世の自分の行いの善悪によって、今の境遇や運命があるのだから、根本的には『自己責任の現れ』なのだとまで言い切ってしまうのである。

こう言われてしまうと現代人の立場からは、『前世の因縁なんていんちきな言い回しで現実から逃げているだけだ・身分制や大きな格差を放置したまま人間の本質が平等などといっても意味がない』と言いたくなるかもしれないが、基本的人権の一部として身分制に基づく差別禁止や職業選択の自由が認められている現代日本においてさえも、正三の指摘した前世の因縁として諦める他ない運命的な所与の条件は満ち溢れている。『どんな親どんな経済環境の下に生まれるか・どのような健康状態や容姿・スタイルを持って生まれるか』によって個人の運命は大きく左右されるが、そういった出生時点で決められている所与の条件についていくら不平不満を叫んで平等化を要求したとしても、自分と他者の生まれた時点や育てられていくプロセスでの様々な条件を完全に平等化することなどできるはずがないのである。その意味では、不平等のレベルの差はあっても、今も昔も人間というものは、一回限りのやり直しができない人生を『所与の運命的な条件』の中で精一杯に頑張って充実させていくしかないということになる。

山本七平『勤勉の哲学 日本人を動かす原理』の書評4:修行や運命としての職業・人間の定義

仏教の輪廻転生を前提として『前世の因縁』『来世への責任』といったコンセプトを持ち出すのは、仏僧である正三らしい思想の現れと言える。人間個人の職業的な運命を、前世からの自己責任として受け止める鈴木正三の思想は、『仏法=世間法(与えられた職分・職能を勤勉にまっとうすること)』に必然に行き着くことになる。『宗教の修行と俗世の労働の判断軸』に差異がないという考え方は、人間を終わりなく修行(労働)に駆り立てるという意味で、人を『ワーカホリック(働き蜂)』にする可能性を強く内包したものでもあった。

その点では、来世において救われるかどうかわからないから(神が人間の働きをどのように評価するのかは誰にも分からないから)、現世において神から自分に与えられた『天職』を勤勉に全力でこなし続けるしかないという、『予定説』のカルヴァニズムの勤勉性のメカニズム(ヴェーバーのプロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神の理屈)とも共通した労働観である。鈴木正三は豊臣家が滅亡して江戸幕府の統治権力が絶対化する『大坂夏の陣』を経験した武士でもある。実力による下克上も可能であった戦国時代の終焉は、『平和秩序の恩恵』『士農工商の身分固定の閉塞感(身分制で生まれながらに予定された人生のあらまし)』を同時にもたらしたが、江戸初期における人心と職分(身分に応じた働きの継続)の安定の優先度は極めて高いものであった。

殺し合わなくても良い江戸時代の平和秩序の恩恵はありがたいものであるが、戦国時代とは違って、人は生まれ落ちた身分の職分・職能に従って『分相応かつ運命論的』に予定された人生の中を生きていかなければならなくなった。鈴木正三はある意味では、この江戸期の平和秩序を仏教思想と絡めて永続させるための労働道徳を確立しようとしたという見方もできるが、そこでは人間的人間と畜生的人間(非人間)を区別する『人間の定義』が行われていたりもする。

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そして、この江戸時代の『士農工商の身分差別』という矛盾を前提として織り込みながらも、平凡な日常の労働の繰り返しに倦怠せず怠けずに(上の身分に取って代わろうなどという人為の図らい・職分の放棄を厳しく戒めて)、『運命・宗教的修行』としての職業に励む者こそが『人間的人間(劣った畜生的人間ではない)』と定義されたのである。このことは、職業(定職)に従事せず仕事に献身しない者、無職の者を、劣ったもの(間違った生き方をしているもの)として揶揄したり差別したりする近代的価値の基盤を整備していった。現代の日本においても、職業を選り好みせずに与えられた仕事を、黙々と勤勉に一生懸命にこなすことに『人間的人間としての価値』を承認する、既存の全体社会の部分的な役割をお互いに果たし合うという仕事あってこその人間(それをしないのは人間的人間ではない)という考えの人は多いといえば多いのである。

江戸期の平和・安楽の秩序を支える人間的人間というのは、『所与の職分・職業』と『日常の繰り返し・予定された人生の感覚』に不平不満を覚えることなく倦怠したり怠けたりすることのない人間である。一面では統治権力に都合の良い人間であると同時に、裏返せば、どのような人生・職業であってもそれを不可避の修行として受け容れることで満足できる人生を約束してくれる思想でもあった。鈴木正三は、『人間的人間の定義』として以下の6つを上げ、『畜生的人間(非人間的人間)の定義』として以下の5つを上げている。そこに、現代日本の職業・仕事(仕事を勤勉にしているかいないか)とまっとうな人間としての評価の相関関係にもどこかしら相通じるものを感じる人は少なくないだろうが、基本的には、『儒教的な徳目』を労働意識・職業観と絡めた人間の定義として理解することができるのだろう。

そして、そういった労働観・人間評価は必然的帰結として、(その人の個人的事情や働いていない理由を深く勘案することなく)その人間が人や社会のために仕事をしているか否かによって人間的価値の高低が決まるという『有職と無職の間の差別意識・優越感と劣等観・承認感と罪悪感』を生み出すことにもなった。

人間的人間の定義

1.自を忘れて他に恵む。

2.危うきを救い、窮れるを助ける。

3.物事に情けを先とする。

4.憐れむ心あるを仁とする。

5.慈悲があり正直である。

6.義を正す。

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畜生的人間(非人間的人間)の定義

1.人の面ははつてわが手がらとする(自分自身で働こうとしない)。

2.面がまちにて人を驚かす(文そのものからは意味が取りにくいが、他人から何かを脅しとろうとする意味か)。

3.われに劣るを賤しめる。

4.及ばざるをそねむ。

5.欲心・我慢(慢心)を専らとする者。

山本七平『勤勉の哲学 日本人を動かす原理』の書評5:『私が悪かった+あなたは悪くない』のバランス

山本七平は江戸時代の思想家である鈴木正三(すずきしょうぞう)石田梅岩(いしだばいがん)の『勤労観・倫理観(宗教観)』をベースにしながら、日本人の精神性の根底にある行動規範を探索していく。鈴木正三は日本人の『個と全体(社会)との関係』について、仏教の説く『三毒(貪・瞋・痴,どん・しん・ち)』に犯されない自分とその自分を許してくれる他者によって最適なバランスが保たれるという。これは日本人における『主体(自分)の自己責任論』『世間(衆生)のあなたが悪いのではないの免責論』とをバランスさせる共同体の知恵みたいなものであった。

正三のいう最悪の三毒である『愚痴(ぐち)』とは、『我は良くて人は皆悪しと思へり』であり、簡単にいえば自分だけが正しくて他人(世の中)がすべて間違っているから上手くいかないという愚痴・責任転嫁のことである。日本人は何か悪いことをしたり失敗したりした時に、『私は悪くない(社会・みんなが悪い)と自己主張する人』を信用・評価しないか嫌ったり更に非難する傾向が顕著である。現実の悪事や失敗の原因には、確かに『その人本人だけの自己責任ではない事例・明らかに世の中の矛盾や他人の悪意によって犯罪を犯さざるを得なくなった状況』というのもあるわけだが、日本の伝統的・仏教的な倫理観では『自分の内面の秩序』と『外部にある他人(社会)の秩序』とのバランスを考えない、自分の内面は完全に正しい(私は一切悪くないのに社会・みんなのせいでこんな目に遭った)という形の自己主張に対して相当に否定的ということである。

世の中の仕組みやみんなの意識を変えようとする価値観・行動理念に賛同する人が日本人には少なく、『世の中が間違っている、自分は悪くないという主張』をするよりも『まず自分の考え方や生き方の足りない部分を改めていきなさい』というのが日本の中心的な倫理観でもある。社会全体(世の中)の仕組みが間違っているからそれを暴力を用いてでも壊して変えてしまおうという『市民革命・革命思想』に対して、それほど豊かな暮らしをしているわけではない庶民・明らかに抑圧されている貧困層でも、歴史的に見て日本人には余り賛成する人がいなかったこととも重なる。

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どちらかというと『外部の世の中の秩序(今ある社会の仕組み)』が間違っていると考える人よりも、『自分の内面の秩序(今までの生き方の積み重ね)』に歪み・間違いがあるから上手くいかないとする自己責任論が今も昔も主流にある。正三は社会の仕組みにある悪と自分の内面にある悪は『無差別』なものであると語り、外部にある社会そのものをどうこうするという発想ではなく、『心の鬼(自分の心の中に生まれる悪意)』こそが『内なる社会』なのだとして、外部と内面の境界線を思想的に曖昧にしてしまってさえいる。『個と全体(社会)との関係』に戻ると、日本では本人が『私が悪かった』と自己弁護などせずに素直にいい、他者が『いやあなたが悪いのではなく社会が悪いのです』と言ってくれることによって、伝統的な社会構造の仕組みや秩序を個人の不幸・主張によって乱されることなく、万事が一件落着に持っていかれるということになる。

この日本の社会構造や倫理観は一長一短ではあるが、現代の日本で膨大な数の不幸・自殺・苦悩・病気などが生み出されながらも、『社会そのものが悪い』という主張が決して主流には成りえず、『自分自身が悪い』という自己批判論・自己責任論に流されることにも影響しているように思える。社会的要因によって抑圧される個人の不幸・不満・主張によって、既存の社会の仕組みや秩序が壊されないように権力者・富裕層が必死に守っているというよりは、日本人の内面において『外部にある社会・他者のほうが悪い』という価値判断があまり醸成されていないことがある。

更に、近年では各種の社会格差や生活上・職業上の困窮(行き詰まり)に対して、『本人の私が悪かった』だけではなく『他人(世間)のあなたが悪かったのだから仕方ない』という自己責任論の追い打ちまで掛けられやすくなっていて、かつての『本人の自己責任を認める態度』と『周囲(他者)の人を許して社会のせいにしてくれる赦し』とのバランスも崩れてきている。

山本七平『勤勉の哲学 日本人を動かす原理』の書評6:修行(仏行)としての職業と純粋動機原理

仏僧でもある鈴木正三の勤労観は、すべての職業の本質は運命的に与えられた役割を黙々と正直にこなす『仏行・修行』であり、それぞれの職業は罪業(業障)や煩悩を消していく『悟りの道』に通じているいうもので、すべての職業が仏行である以上、あらゆる職業に貴賎の区別はないとしている。この考え方は現代日本では時代錯誤(アナクロニズム)のようにも感じられるが、しかし、現在でもブラック企業や極端に苛烈な労働条件で働く人たちは『労働ではなく労道をしている』と評価されることもあるように、職業・仕事をある種の『修行・道(お金以外の高い精神的境地に到達できる道)』と捉える価値観そのものは現代日本において無くなってしまったわけではない。

むしろ、プロフェッショナルなプライドを持った仕事人や人生そのものを賭けて全身全霊で取り組んでいるライフワークなどにおいては、職業・仕事は『収入を稼ぐための手段・部分的に役割を果たす社会的分業』としてだけ割り切られるものではなく、『精神的境地を高める道・人間的価値を向上させる修行(生涯にわたって終わることのないひたすらに励み続ける道)』のようにストイックな価値判断の軸で捉えられることが多いのではないかと思う。歴史的に日本人の労働観・労働意欲の根底にあったのは、『豊かな生活をするための金銭・地位』というよりも『人間的価値(精神的境地)と相関した道・修行』であり、このことは『職業を持たない無職の人・仕事をしていない無為な人』が必要以上に道徳的価値のないダメな人間だとか、人としての義務を果たせていない許されない状態であるとかいう形で厳しくバッシングされやすい風潮にも影響を与えている。

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お金・地位のためだけに働いているのであれば、仕事をしているかしていないかはお金の問題や本人の権力欲だけに収斂して人間性そのものを非難されることはないのだが、日本では『仕事をしていないこと=無職』が『人間であれば誰もがしなければならない修行・歩まなければならない道から外れている』という認識につながりやすいことで、その人の人間性・道徳性が極端なレッテルの決めつけで非難されやすいところがあるというわけである。『選り好みせずに何でもいいからとにかく仕事をしろ』という旧来的な就労にまつわる説得・批判なども、鈴木正三のいう『同じ道を進むということにおいて職業に貴賎なし』と相関した考え方かもしれない。

自分(私)は悪くないという自己弁護が日本では受け容れられにくいという話をしたが、日本の伝統的な倫理観の判断基準としてあるのはそこに『私心』があるかないのかだと鈴木正三はいう。日本人は『私心なき純粋な違法行為』に対しては寛容であり時には正当化さえしてくれるが、『私心のある強欲(不快)な合法行為』に対しては不寛容であり、時に私心のない犯罪行為以上に悪いことだとして厳しく否定するとしている。山本七平は『私心なき純粋な違法行為(純粋動機原理)』の事例として、青年将校らが犬養毅首相を暗殺した5.15事件、ベトナム戦争・資本主義に反対した全共闘運動の大学闘争(安田講堂事件)、強権的な土地収容に抵抗した成田闘争などを上げ、当時のマスメディアや世論の論調として、これらの実質的な違法行為・暴力行為を容認する意見が多かったとする。

『私心のない人』が『巨大な悪・不正と信じている対象』に対して、手段を選ばずに抵抗・攻撃するような行為に対しては、日本人はかなり善悪が曖昧になり、単純に法律に違反しているか否か、既存秩序を守っているか否かだけで判断しないというのだが、これはおしなべて豊かになって政治に関心の薄い現代日本では個人差のある判断軸だが、確かに一定以上の割合の日本人には今でも当てはまるだろう。

山本七平『勤勉の哲学 日本人を動かす原理』の書評7:現代の職業選択の悩みと鈴木正三の前世論

現代における職業選択に関する迷い・悩みの多くは、『自己決定権・自己選択権の想定』によって生まれている。実際には様々な所与の前提条件があり、すべての職業を現時点の自分が選べるわけではないのだが、自分が選んで決めたはずの職業・仕事に上手く適応できなかったり職務のきつさ・ストレスに耐えられなかったことに『罪悪感・自己否定感・無力感』を感じやすくなる。大多数の日本人は明らかに『ブラック企業的な過酷な労働条件』を課せられていたとしても、なぜか『こんな働き方をさせる会社・上司のほうが悪い,こんな会社なんて辞めて正解である』とブラックな会社やそれを放置している社会・政府の側だけを悪として否定することができない。

『大変な仕事だったけどそれに適応できずにやめた自分のほうが能力・体力・根性が無かっただけなのではないか,確かにブラック企業としての側面はあったが、みんなも多かれ少なかれ仕事では理不尽なことを我慢しているはずなのに自分だけが弱くて出来ないのではないか』という風に自分のことを責めて落ち込んでしまいがち(結果としてうつ病の精神病理にまで悪化してしまうこともありがち)なのである。戦国時代には下克上もあり得たが、江戸時代の身分制に基づく職業選択は宿命的なものであったから、鈴木正三は『先世・現世・後世の三世』を前提として『先世の業因(前世の因縁)』によって自分の職業は予め決められており、それを運命と思って修行のように黙々とこなしていくことが悟り(来世の救済)につながる正しい生き方なのだとした。

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現代の科学的世界観からすれば、前世だとか来世だとかいう宗教的な想像上の観念は馬鹿げていると感じるかもしれないが、『現世(今生きている自分の時代・世界)』だけに人生を限定するとしても、過ぎた時間や年齢は昔に巻き戻すことができないし、人生の多くの出来事はゼロからやり直すことができないか極めて難しい。そういった『現世における自分の人生の一回性』を考えれば、人生を『前世の因縁』と考えても考えなくても、私(自分)の今ある時点の人生というのはこうあるより他にない『運命の流れの一部』としか言い様のない部分を持っているとも言える。

『運命論』というと人生がどのように進むかが生まれながらに決まっている『決定論』のように思われやすいが、ここでいっている現代にも通用する運命の流れというのは『生まれてくるかどうかは選べない・投企されて生まれたからには死ぬまで生きなければならない・いずれは誰もが死なざるを得ない』という、およそ一般的に誰にでも通用する人生の所与の逃れられない前提のことを指して言っている。現代人の進歩の原動力であり苦悩の根本原因としてあるのが『運命への抗い』であるが、『職業選択の迷いや挫折・不本意と感じる労働(働き方)のつらさや悩み』といった現代における大きな苦悩・社会問題というものもまた、生まれたからには(大多数の人は生きるためには)働き続けなければならないという運命とどう折り合っていくかという悩みに他ならないのである。

山本七平『勤勉の哲学 日本人を動かす原理』の書評8:人生と仕事の運命性にどう向き合うか?

鈴木正三の生きた江戸初期の『封建制・身分制』が固められていこうとする時代には、憲法で『職業選択の自由』などが保障されているわけでもないから、『職業・仕事にまつわる自己決定権(自己選択権)の前提』そのものはないのだが、『下克上(戦国乱世)の終焉による身分流動性の大幅な減少』によって野心ある元武士(元々はかなりの家柄・身分)であっても農業をしなければならないといった運命の変化はいくらでもあった。幕末から明治維新における士族の没落、武士から商売人への転職(武士の商法の失敗)などにも類似した『悲劇的な運命』を見て取ることはできるだろうが、鈴木正三がいう三世の前世の因縁による不可避な運命というのは、時代も人も選ばないものであり、誰もが究極的には人生や生き方を自由意思・自助努力だけで選ぶことなどはできないという厳然たる現実(予定・期待・努力の結果は常に想定外の要因で覆され得るのが人生の一つの真理)でもある。

『今・ここにおける私がどうしてこの人生を生きなければならないのか、この仕事をしなければならないのか』という苦悩や不満に対する究極的な理由として、『前世の因縁』という仏教めいた概念を使わなくても、生まれてから死ぬまで止まらずに流れている時間の中で私はここにある他にない(別の時間や場所に瞬間で移ることはできない・私以外の私に入れ替わることもできない・今から先は変えられるかもしれないが今ここにある現実は現実としてある)という『運命』があるわけである。この運命というのは楽観的なものでも悲観的なものでもなく、『今・ここの時点で生きている私にとっての不可避な現実』であり、運命は『今・ここから先の未来』においては『私の努力・工夫・考え方』で変えられる可能性があるが、その変えたはずの未来がまさに現実のものとなった時点(今この時)においては再びその変えたはずの未来も『一回限りの人生の運命のワンシーン』として既に取り込まれているということになる。

鈴木正三の思想における『勤勉の道徳』はなぜ職業選択の迷いや仕事・労働の苦しみと無縁であるのかの答えは、本書の一文として明瞭に記述されているように『(運命・修行だから)仕方ない、ま、成仏のために私心なく一生懸命働くことにしよう』という運命享受の姿勢にあると言えるのだろうが、現代では『自分の意志とは無関係に生み出される投企・一回限りの人生の運命性』という共通点はあっても正三ほどに割り切った運命享受の境地には至れないだろう。正三の労働(労道)の世界観においては、『生まれたからには前世の業因(運命)によって割り当てられる職業を淡々とこなすしかない・人生の究極の目的は誰もが死(成仏)以外には有り得ないのだから労道でより良い悟り(救済)に近づきたい』という労働と勤勉の自明視があるのだが、高度成長期あたりまでの日本でも概念・形態を変えた『鈴木正三的な働くこと(何をして働くか・どれくらい働くか)をあれこれ迷わない勤勉道徳』が機能していたようには思う。

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この仏教思想を前提においた鈴木正三の労働(労道)の世界観や勤勉道徳の内面化は、マックス・ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の天職・最後の審判(成仏・悟り)のロジックと相似型を為しているようにも感じられるが、日本の勤勉道徳のほうが『神からの監視(見張られているから仕事を一生懸命やる)』の概念に拘束されていないので『自分で自分を規律する(修行をこなす働き者であるかないかが自己評価に影響する)』といった側面も強いだろう。石田梅岩の石門心学と現代にも影響を与えている日本人の精神性についても、また少しずつ整理して解釈・感想を加えていきたいと思う。

山本七平『勤勉の哲学』から読む石田梅岩の『消費の倫理』1:高尚な学問と日常生活・仕事の統合

山本七平が『勤勉の哲学』で、仏教徒の鈴木正三(すずきしょうさん,1579-1655)に続いて取り上げているのが儒者の石田梅岩(いしだばいがん,1685-1744)である。石田梅岩は賢しらな知識に惑わされない無学者を賞賛する仏教徒と同じく、知識や自意識に左右されない『無智の聖人・赤子の心・自然悟道(しぜんごどう)』を人間の性善説の現れであるとしている。儒教には、知識に任せたおしゃべりや人に取り入る態度調整(人好きのする顔色)を否定的に見る『巧言令色、鮮なし仁』という孔子の論語の言葉もあり、元々、知識・言語・会話に依拠した人間知性の影響力を一段低く見ている節がある。梅岩は孟子の性善説を汲んだ宇宙的秩序と人間的秩序の均衡において『賢しらな知識・学者的自意識』はかえって善を実践する(この善の実践形態の一つに黙々と働く勤勉も包摂される)際に邪魔になるという見方をしているわけである。

梅岩は、宇宙の継続的秩序に人間の行為・存在が従っている自然的状態のことを『絶対善』とし、人間社会の中で他者や体制が自分の行為をどのように評価するかという『相対的な善悪の分別(相対善)』よりも本質的だとするのだが、善の根拠や起源を遡ればすべて宇宙・自然のマクロな秩序に人が従っているか否かの絶対善に行き着くというのである。専門の思想家・宗教者ではなく、商家の番頭として自分も働いていた石田梅岩は、宇宙と人間の普遍秩序である脱俗の“絶対善”と生きていくために働かなければならない俗世間での“実践的な日常倫理”とをどう結びつけていくかという課題に挑んでいった。

絶対的な宇宙の秩序によって人間は生かされているという梅岩の脱俗的・儒教的な性理の学は、『人間の無意識的な呼吸による生存維持』の喩えによって説明され、日常的な言葉として絶対善・性善説の根拠は、梅岩の弟子の手島がいう『本心(本来の自然な心・人間の元々の本性)』にあるということになる。何らかの悪影響や気分の異常によって、人間は悪事を犯してしまうこともあるが、冷静に自然な元々の自分の心の状態である『本心』に立ち戻ることさえできれば、宇宙的秩序と人間的秩序が自然に一致してもはや悪事を為そうとする動機づけさえ生まれないというのが性善説である。『本心における悪人はいない』ということだが、この考え方(非行少年・犯罪者でも本心=子供時代の純粋な心に立ち戻れば悪事を反省して善に戻ってくることもできるはず)は意外にも現代の日本人にも伝承されているものではないだろうか。

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仏教においても儒教においても、『高尚な学問・教義(言葉・思想の上での悟り)』『日常の生活・仕事(日常生活の上での適応)』とをどう関連させていくのかが大きな課題としてのしかかってくるわけだが、鈴木正三は『四民日用』で、石田梅岩は『都鄙問答(とひもんどう)』『斉家論』『語録』でその大きな課題を『勤勉の道徳』によって解消する方向づけを行っている。それほど貧しい実家ではなかったというが、山村出身の石田梅岩は商家に丁稚奉公して原則無給(衣食住の現物給付のみ)で地道に働き続けた時期も長い人物である。規則的な労働中心の生活習慣を身に付けていたという意味で、いわば現代のサラリーマンに近い労働の経験がある人でもあった。石田梅岩という人は、自己評価においても『理屈者』であり、理詰めで物事を考えなければ気が済まない合理性を持ちながらも、その理屈の上での合理性を『働かなければ生きていけない外部世界の合理性』と結び付けていった人と言える。

石田梅岩の回心の転機は30代半ばの時期に、朱子学・老荘思想・禅宗などに通じた市井の隠遁者の小栗了雲(おぐりりょううん)に出会ったことであり、自分自身の本性・心のありようを内省的に理解するという『儒教的な性理の学』を修めたのである。

山本七平『勤勉の哲学』から読む石田梅岩の『消費の倫理』2:なぜ散財・贅沢を戒めたのか?

石田梅岩の石門心学において人間の性善説の根拠となる『本心』について、本書では『自分を批判する心(自己反省の内省力)』として解説されており、この本心はS.フロイトの精神分析に置き換えれば『超自我(スーパーエゴ)』としても理解することができるものだろう。梅岩の回心(コンバージョン)による本書で『発明』とも呼ばれる絶対善(赤子のような無智の聖人)への接近は、『無自覚的に本心の言うままに、生きている状態』として捉えられている。無自覚的に本心の言うままというのは、現代的な欲望のままに生きるということの正反対の禁欲主義の境地であり、『欲望を離れた私心なき煩悩消尽の境地』のいうものに近い。石田梅岩という儒学的な思想家のエッセンスは、自然主義であると同時に禁欲主義(無私の境地)であるといっても良い。そして、宇宙的秩序(自然主義)と人間的秩序の分離することができない相関関係について梅岩は、『我は万物の一なり、万物は天より生るる子なり、汝万物に対せずして、何によって心を生むべきや。是万物は心なる所なり』と述べているのである。

山本七平『勤勉の哲学』の中心的テーマである“勤勉性”との関係でいえば、労働によって自己の生活を支えることそのものが、牛馬が草を食んでその命を維持しているように、また人間社会において労働が食物の不足や心(飢餓・貧しさ)の苦悩を減らす効果があるという意味でも、『人という形に生まれた者が自然の秩序に従う道』になっているのだと説いている。石田梅岩は、労働(特に当時の農耕)によって食物を得るという『人間の形』を指摘し、仕事をすれば生活や心が安楽になるという流れを『自然的秩序』の現れであるとしたが、儒教的な“礼”もその生産的な人間社会の秩序と働くことを自然とする人間の形を表現したものなのだという。

石田梅岩は著書の『斉家論』の中で、経済活動と家・社会の秩序との相関関係を説明しているが、『資本の蓄積』という結果を招くことになる家・社会秩序の基礎を『倹約と消費の倫理』に置いた。この石田梅岩のロジックは、マックス・ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の世俗内禁欲と勤勉な労働が引き起こす『資本蓄積』のロジックと共通するものであり、鈴木正三の『すべての仕事は仏行なり』という労働を宗教的行為と見なす勤勉性のエートスにもつながっているのである。『盗んだんでも拾ったんでもないオレが稼いだ金をどう使おうが勝手だ』という浪費肯定の考え方を、消費の倫理を知らない無教養・不道徳な『車夫馬丁(しゃふばてい)の言辞』として軽視した梅岩だが、このお金の使い方をどうすべきか自己規制的に考える消費の倫理というのは『浪費・散財をしない倹約精神(結果としての資本蓄積)』と分かちがたく結びついていた。

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勤勉に働いて相当にお金を貯めこんでいるのに滅多なことでは大金を使わないし浪費をしない、『墓場までお金を持っていけないのは分かっていても使えない』というのが、近世後期から戦前までの平均的な日本人の労働道徳であると同時に消費の倫理(倹約精神)であったのである。しかし、浪費を戒める倹約精神としての消費の倫理の歴史はそれほど長いものではないのだと本書では語られる。徳川幕府の初期には『経済生活の向上・商人階級の富裕化』によってある種の成金の豪遊的な浪費・奢侈が流行し、贅沢な生活への羨望・模倣が(お金をそれほど稼げず贅沢できない)下級武士・庶民の欲求不満を強めていたのだという。

江戸時代の徳川幕府が特に中期以降の時代になって、商人階級の奢侈・贅沢・散財を厳しく規制する倹約令を度々出した理由のひとつは、『士農工商の身分制』において形式的には低い地位に置かれていた商人が、実質的には武士以上の豊かな暮らしをしているという社会秩序の混乱を表面化させないためであった。更には、贅沢で華やかな暮らしができる商人(成金)を羨望・嫉妬する『武士・農民の勤勉道徳の秩序』が欲求不満(地道に働くことの虚しさを助長する浮かれた拝金主義・物質主義)で壊れないようにするためでもあった。

山本七平『勤勉の哲学』から読む石田梅岩の『消費の倫理』3:“名聞・利欲・色欲”の破滅回避と近代的合理

石田梅岩の『斉家論』というのは、家の秩序を整えるための書であり、家を浪費・奢侈・見栄によって破産させないための書でもあるのだが、実際、慶長時代から栄えていた商家・町家(成金)の多くが、分不相応な贅沢・豪勢な生活をして派手な浪費に耽ったことで、江戸初期には没落してしまったのである。 その商家の破産と没落の事例を踏まえた梅岩であればこそ、自律的に倹約して消費を制御すべきであるという『消費の倫理』を強調したのである。『いったん贅沢をして上げてしまった生活水準』を再び節約して落とすことが難しいと知っていればこそ、梅岩は初めから奢侈・贅沢に淫するような慢心・虚勢を戒めて質素倹約を旨とすべきだと説いているのだろう。

しかし、近代以前の消費の倫理というのは『物理的・経済的な困窮と欠乏』から否応なしに要請されるという側面が強かったのであり、『経済的逼迫もない状況での倹約の強制』というのは容易に受け容れられるものではないということは梅岩も知っていた。儒教においては『聖人の教え』、戦後日本の歴史的文脈においては『戦後民主主義』のキーワードによって、『民意(民の意向)』を完全に無視することはできず、消費の倫理の規範が必ずしも倹約的・禁欲的になるかは分からない(現代の消費主義社会では常にそうなっているが経済状況・景気によっては消費促進が歓迎され得る)ということも示唆されているのである。

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石田梅岩の石門心学では、自己と家を破滅させる浪費・奢侈を生み出す原因として『名聞(名声)・利欲・色欲』を上げているが、これらの悪徳から生まれる浪費・奢侈・破滅を回避するためにこそ『自己規制的・自律的な消費の倫理(倹約精神)』が必然的に要請されるというのである。『勤勉+倹約』という昔ながらの日本人にとっての道徳性の基礎と考えられているものは、梅岩が説くように『自己と家を破滅させないための実際的な動機づけ』に基づく部分も多分にあり、『名聞(名声)・利欲・色欲』に大きく翻弄されればそれなりの財産や家柄のものであっても、あっという間に破産して没落の憂き目に遭ってしまうというのである。

『名聞(名声)・利欲・色欲』が破産・破滅・軽蔑を生み出す危険性について道徳的な警鐘を鳴らす以下の梅岩の言葉は、現代においてもある程度は通用する内容になっている。『飲む・打つ・買うの悪徳』および『自分を実際以上の存在に見せかける虚栄心・見栄っ張りの弊害』というのは、時代を超えて普遍的な人間の欲深さ(承認欲求の強さ)の問題であり、誰もが誘惑されかねない煩悩(金銭・モノ・女性・安楽への欲望)なのである。『衆人はたとひ少々の善事をなせども、己を他より誉められたく思う心よりする善事なれば、実の善事にあらず。其外(そのほか)、身上(しんじょう)の事、氏系図の事、或は芸能、智恵に至るまで、己相応より宜しく(よろしく)思われたき心あるは皆名聞(みょうもん)なり。

また利欲というは、道なくして金銀財宝をふやす事を好むより、心が闇く(くらく)なりて、金銀あるが上にも溜めたく思い、種々の謀(はかりごと)をなし、世の苦しみをかえりみず、剰(あまつさえ)、親子兄弟親類まで不和になり、たがいに恨みを含むに至る。また色欲というは、若き時は前後のわきまえもなく、しなかたちにのみ愛で(めで)、ここかと思えばかしこにわたり、流れの女にさえ心を見すかさるれど、夫(それ)をも知らず。親のゆるさぬ金銀を使う。また老いたる人も、夫婦諸共、道にも入るべき時、腰元や下女に手をかけ、または若き女を抱え、寵愛し、親しむべき女房には疎くなり、頭には白髪をいただく事を知らず。

栄耀栄華のおごりのためにこころを悩ますことはなはだし。其外、万事不義無道をなし、心を煩わすは皆放心を以ってなり。此(これ)味わいを知らず、仁に心を尽くさざるはかなしき事かな。聖賢これを歎き給い、学問の道他なし、その放心を求むるのみと、孟子も既に説きたまえり。予(わが)教ゆる所もこれによれり。』日本人の勤勉精神が歴史的・思想的にどこに由来しているのかを、鈴木正三と石田梅岩の思想を参照しながら深く探求していく本書であるが、鈴木正三が『働くということ=宗教的修行・仏行』として定義したのに対して、石田梅岩は『働くということ=消費の倫理の実践(破滅につながる私利私欲の消費ではなく、家や社会の秩序を支えるための倹約・正直につながる消費の実践)』として定義したと言えるだろう。

マックス・ヴェーバーの解明したプロテスタンティズムの倫理が資本主義精神と親和性を持っていたように、石田梅岩の構想した倹約・正直も来るべき近代社会の合理主義精神との親和性を持っていた。そのことは『我物は我物、人の物は人の物。貸したる物はうけとり、借りたる物は返し。毛すじほども私なくありべかかりにするは正直なる所なり』という“近代的な私的所有権・負債と返済”をイメージさせる石田梅岩の“正直”についての説明からも読み解くことができるだろう。

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元記事の執筆日:2015/10

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