信田さよ子『選ばれる男たち 女たちの夢のゆくえ』の書評1:イケメン好きを隠さなくなった各世代の女性,信田さよ子『選ばれる男たち 女たちの夢のゆくえ』の書評2:DV概念がなかった時代と教育と称した暴力

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信田さよ子『選ばれる男たち 女たちの夢のゆくえ』の書評2:DV概念がなかった時代と教育と称した暴力


信田さよ子『選ばれる男たち 女たちの夢のゆくえ』の書評3:家庭・親のトラウマと夢の男の条件


ヒトはなぜ“男女の持続的なパートナーシップ”を求めるのか1:性と子供の養育


ヒトはなぜ“男女の持続的なパートナーシップ”を求めるのか2:少子化・晩婚化と学習期間の長期化


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信田さよ子『選ばれる男たち 女たちの夢のゆくえ』の書評1:イケメン好きを隠さなくなった各世代の女性

信田さよ子さんはアダルトチルドレン関連のカウンセリングや心理学の本を多く書いている家族臨床の専門家だが、本書『選ばれる男たち 女たちの夢のゆくえ』は中高年女性たちの視点から“結婚生活・夫(同世代の男性)への失望”“美しくて優しい理想の男性像(イケメン)”について書いている異色の書である。出版年度が5年以上前なので、イケメンの例に出される韓流俳優やハンカチ王子などは古いのだが、現実の結婚生活・男女関係で夢敗れて疲れ果てた中高年のおばさんだって今の若い女性と同じように、本音では外見が爽やかで性格が優しいイケメン(多くは実際の配偶者とは正反対のタイプの男性)が好きだということをあらゆる角度から実体験を交えて書いている。

これは『中高年女性の理想の男性像』であるだけではなく『現代の若い女性の理想の男性像』でもあり、現代の若い男性たちが『自分の外見・容姿』について女性から選ばれるかどうか(モテるかどうか)をしきりに気にするようになった時代の変化(ジェンダーの変化)でもある。現在50代以上の世代の男性からすれば、『ただしイケメンに限る』という容姿に対する現代の若い男性の劣等コンプレックス・自信のなさ、『女性から選ばれる自分』という受動的な恋愛の仕方、女が主導権を握るタイプの異性選択などというのは、男らしくない女々しさのように映ることが多い。

『男は顔(外見)じゃない・男にとってはおしゃれやおしゃべりなんかどうだっていい・力強くて仕事をしっかりしていれば顔が悪くても口下手でも良い女がくるんだ(妻子を養う仕事と真面目さがあればいい)』という中高年男性の持つ男性ジェンダーは画一的であると同時に規範的であるが、言うまでもなくこんな男性ジェンダーは現代の若い魅力的な女性の前ではほとんど何の役にも立たない。逆に男尊女卑的な価値感のように悪く受け取られたり、外見に全く構わないこと(元々の容姿の良し悪しだけでなく少しでも良く見られるように努力しないこと)が不潔さ・怠惰さや相手への気遣いの無さとして嫌われかねないのである。

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ジェンダーがフラット化する現代では、女性と同じように男性も『見られる性・選ばれる性』としての属性を持つようになってきているからで、見かけ(容姿・服装・髪型・雰囲気など)が全くダメなら、ある程度年齢の進んだ婚活などを除いて、初めから内面・実力を見てもらえるところまで行かないからである。本書は、つるりんとした綺麗な肌・整った顔を持つイケメンがもてはやされる現代では、『男の中身』がどうでも良くなっているとまで言い切るのだが、この性的魅力のユニセックス化は、言い換えれば『かつて好みのタイプの女性を選んでいた男性の目線』に今度は女性が立とうとし始めたことの現れなのだという。

男性が経済的にも制度的にも優位だった過去の時代には、いや今の時代だって、男性は『女性の中身・知性・努力』などより『女性の外見・身体・イメージ』ばかりを重視してきたではないかと前置きする。中身だけ磨いた女性がモテた時代などない、それと同じ本音の異性選択を女性が男性に向かってしはじめただけなのだ(女性だって本当は容姿が悪い愛想のない男より容姿が綺麗で気配りのできる男が好きなのだ)というのが著者の言い分であるが、なるほど一理あるような気もする。歴史的に『男から外見・イメージで選ばれる性』で有り続けていた女性の苦しみや悩みが、ジェンダーがフラット化しはじめた現代で、今度は男性にも襲いかかってきているというわけである。

頭の良い女性があれこれ詳細な学問の薀蓄や社会問題の見解を語って議論をしかけてくる姿よりも、何ら深い教養がなくても美しくて可愛い女性が愛想よくにっこり微笑んで『今日は疲れたでしょう。お食事を済ませてゆっくり休んでくださいね』といたわってくれる姿に、大半の男はころりと参ってしまうというのだ。女だって昔は『ジェンダーの立場や役割・自立できない経済的理由』の都合から言いたいことを言えなかっただけで、本音では男と似たようなもので、(その理想を現実にできる可能性は男性と同じように低いかもしれないが)自分を好きなかっこいい男性や綺麗な顔立ちの男性から、優しく声を掛けられていたわられたり甘やかされたりしたいというわけである。

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信田さよ子『選ばれる男たち 女たちの夢のゆくえ』の書評2:DV概念がなかった時代と教育と称した暴力

本書は『シリアスな恋愛関係・異性選択の場』から退いている中高年女性(おばさん)がどんな男が理想的かということを放言する形を取りながら、『ロマンティックラブ・イデオロギーの夢を壊した同世代の男たちやそのモラルハラスメント』を間接的に非難するという構成を取っている。ロマンティックラブ・イデオロギーの夢を壊した同世代の男たち(夫たち)というのは、類型的に言えば『企業戦士になって家族(妻子)を扶養する代わりに俺の言うことを聞け,俺の気分を害さずに察して動け,妻は常に夫を立てて望む時には一緒に行動せよ(性的な求めにも答えよ)という家父長的なマッチョイズム』に適応した男たちである。

結婚するまでは『絶対に幸せにするから・悪いようにはしないから』と甘い夢を囁きもするが、結婚すればガチガチの男女(夫婦)の役割分担を絶対の規範として押し付けることを正義・常識として疑わない男たちであり、現代的な綺麗で優しいイケメンとは対極にある、寡黙で家族のために働くという最低限の責任だけは果たしてきた男たちでもある。本書は、当時の女性の人生の運命をほとんど決定していた『結婚(男性・夫の選択)』というギャンブルに敗れたと思っている中高年女性、あるいは夫(男性)からモラハラ・DVの被害を受けたことのある50~60代の中高年女性を主体にして話を進めているから、『中高年の男性像のイメージ』がかなり暴力的・侵襲的に偏っている印象も受ける。

だが、確かに1970~1980年代頃までは地域差・個人差はあったものの、『言う事を聞かない妻を殴る夫・自分の鬱憤晴らしで妻を殴ったり罵倒する夫(妻としての役割を果たせていない・妻に社会常識や家族の秩序を教えてやる・お前のせいで仕事がうまくいかないなどの不合理な理由から暴力を振るう夫)』は珍しいものではなかった。何せよ、1970年代までの日本では『夫から妻に振るわれる暴力』は『教育・しつけ(悪くしても夫婦喧嘩の一部)』とみなされていて公的・法的に罰則や非難が殆どなく、そもそもDV・児童虐待・モラルハラスメントといった言葉や概念そのものが社会になかったのである。

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『夫から妻への暴力・親から子供への暴力』は今より格段に多かったのだが、それらは当時の社会常識の観点からすれば『違法な暴力・犯罪』などではなく『愛情・善意からのしつけ(体罰)』として解釈され容認されるという無茶苦茶な状況であった。1980年代以前のホームドラマやサスペンスドラマを見ると、現代のドラマではまず有り得ないような『家庭内で夫が妻を殴ったり蹴ったり罵倒したりするシーン』が多く挿入されていて、当時のうまくいっていない家庭・夫婦関係の描写のテンプレートだったと考えられる。当時は、家族内・夫婦間でのDV(ドメスティック・バイオレンス)という概念や問題意識そのものがないので、実際に統計的にどのくらいの夫婦間DVがあったのかは不明であり、精神的虐待(モラハラ)も含めてどれだけあったのかは想像するより外はないが……。

その夫の多くは『アルコール依存症・ギャンブル依存症・浮気癖など問題を多く抱えたダメ夫』という設定だったりもするが、中には外面は良いエリートサラリーマン(社会的地位・経済力のある男)があれこれもっともらしい理由をつけて妻を平手打ちして説教したりするようなシーンもあるが、こういった場面でも女性はまず反論したり殴り返したりはせず、しおらしく崩れたりごめんなさいを連呼したりして、夫の説教を涙ながらに聞かされたりしている。『男尊女卑・男女の経済格差(家をでれば大半の女性は暮らしていけない)』を前提とした家庭内の権力構造があったために、男性(夫・父)の暴力は法的・社会的な問題として解釈されることがなかったわけだが、そこには夫(父)を優位者とする社会全体で共有されていた規範も影響していた。

こういった家父長制の残滓としての社会規範が良い方向で作用すれば『家族(妻子)を責任持って守る働き者の力強い頼れる夫』が成り立つことになるが、悪い方向で作用すれば『家族(妻子)を自分の子分のように従えて抑圧する暴君のような夫』になってしまうリスクもあったわけである。自分の経済力・暴力を背景にして、家族(妻子)を子分のように認識している夫の決め台詞がおなじみの『誰のおかげで飯が食えると思っているんだ』であり、本書では現代で『選ばれない男(勘違いしたマッチョイズム)』の人間性の現れの筆頭として挙げられている。

『他者に対する定義権とは権力である』というテーゼも登場するが、かつては男性が女性を定義して(男性が女性を選んで)、夫(父)が妻(母)や子がどのような存在なのか、妻・子は何をすべきなのかを定義する権力を持っていたが、現代も基本的には男性社会ではあるものの、『プライベートな恋愛関係・家庭生活』などを中心にして少しずつ女性(妻)が男性(夫)を選んだり定義したりできる場面が増えてきたという社会・意識の変化がある。特に若い世代ほど、男性よりも女性のほうが元気で影響力・選択権があると言われており、かつての『男尊女卑・男性社会』ではなく『女尊男卑・女性社会』だと嘆く男性(女性に気後れする男性・思い通りにならない女性を嫌ったりする男性)も増えている状況である。

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現代で女性に好かれるイケメンとは何なのか、どんな特徴を持っているのかについて、容姿が整っていて肌がつるりんとしていて、女性のように綺麗でかっこいいということもあるが、『暴力や経済力で女性を屈服させることがない+そのような男尊女卑の雰囲気や支配的な意思を持たない』ということが上げられている。『侵襲的・支配的でないゆえの安心感・居心地の良さ』というかつての男性の魅力として重要視されていなかったポイントについて指摘されているのは興味深い。著者はこのポイントについて、女性であっても『女性的な清潔感のある外見の特徴・女性的な優しくて柔らかい性格』のほうに魅力を感じやすいのだとしている。

性格面では特に男性であっても女性であっても『女性的な優しい気配り・丁寧な対応・威圧感や攻撃性のない雰囲気』を求めやすく、サービス業で丁寧に笑顔で接客してくれるイケメンの男性スタッフなども、どちらかというと女性的な雰囲気・言葉遣いだからこそ居心地が良いと感じやすいということになる。確かに、従来の男性ジェンダーを体現したような『無骨・無愛想・無口な笑顔のない男性スタッフ』の男らしいが柔らかさ・親しみの感じられない接客接遇というのは、男性であっても女性であってもそれを求める人はあまりいないようには思えるが……平和が長く続いた社会、表立った暴力が殆ど姿を消した社会においては『物理的・社会的な戦闘(他の男性から女性・子供を守る力強さ)に適応してきた男性ジェンダー』はその使い場所がかなり限られてしまうものではあるのだろう。

信田さよ子『選ばれる男たち 女たちの夢のゆくえ』の書評3:家庭・親のトラウマと夢の男の条件

本書『選ばれる男たち 女たちの夢のゆくえ』では、DVやモラルハラスメントの概念の誕生と普及によって、『自分が悪いから夫が怒るのだ・自分が我慢するしかないのだと思い込まされていた女性』が、自分が悪いわけではなく多少のトラブルや衝突・対立があったからといって、自分(妻)に暴力・罵倒・無視をしかけて支配しようとする相手(夫)のほうが悪いということに気づいたエピソードなども紹介されている。60代以上くらいの男性になると、『夫は妻のために必死に働くのだから妻も夫の気持ちを察して献身的に尽くさなければならないという交換条件的なジェンダーの規範意識』を持っている人が多く、その自分が前提としている妻の役割や規範から妻がわずかでも逸れた言動・対応をすると暴力を振るわなくても、途端に不機嫌になってモノに当たったり大声を出したりずっと口を聞かずに無視したりする夫が少なからずいるのだという。

そして、そういった自分の暴力的な言動をDV(ドメスティックバイオレンス)・モラルハラスメントだと認識できる男性はほとんどおらず、『妻が悪いから・言う事を聞かないから・察してくれないからこうするしかなかった(妻であれば当然できて当たり前のことができていないのだから私が我慢できずに怒るのも当然でしょう・妻は夫の最大の理解者であり特別な存在であるべきなのだから)』という自己正当化をすることが殆どなのだという。だが、厳密には世代を問わず、あるいは性別を問わずそういう人はいるわけで、夫婦関係になった途端に『最大の理解者・特別な存在になって当たり前(それに見合うだけの言動ができなければ怒られて当たり前)』という一方的な認知を過剰に持ってしまい、それに相手を無理やりにでも当てはめようとするのである。だから、『愛しているからこそ殴る・怒る(本当に愛しているなら俺・私の言いたいことがわかるはずだ)』というような理不尽な考え方をしても矛盾を感じないようになってしまうのだ。

本書は、中高年女性の理想の男性像やイケメン論、DV(モラハラ)の体験談を通して、『旧世代的・男尊女卑的な男性像』を否定しているとも言えるのだが、それは家庭の中で自分が一番上で偉いという位置づけを得なければ満足できない男性に対する女性からのアンチテーゼである。毎日働いて家族を養っているからといって、『夫婦関係に権力(上か下か)を持ち込んで欲しくない』という女性の気持ちの現れでもあり、肉体的にも精神的にも暴力的な言動(相手を直接・間接に傷つけたり脅したりして言う事を聞かせようとするDVやモラハラの振る舞い)は絶対にNGだというのが時代の中心的価値観なのである。

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単純に、女性がどういった男性を好むように変わってきたかという現代の恋愛(イケメン・草食系・ユニセックス化)の読み物としても面白いのだが、男女の権力構造や役割意識が関係したジェンダー論や女性の権利が拡大してきたフェミニズム論としても読むことができる。現代日本における少子化・未婚化の社会問題と関連したトピックとして、『父親と反対の男性が夢の男である』や『生まれ育った家族のような家族を自分が作りたいとは思わない(両親のような親になりたいとは思わない)』といったことも取り上げられている。

確かに、結婚するかしないか子供を持つか持たないかということには職業的・経済的な条件も大きく関係しているのだが、『両親を尊敬していて好きである・父親(母親)が理想の異性に近い・生まれ育った家庭が居心地が良かった・自分も両親のような親になって家族を作りたい』というような人は、多少経済的条件が悪くても結婚願望が強かったり家族を持ちたい希望が強かったりして、早い時期に結婚して子供を産むことが多いように思う。著者の信田さよ子さんはアダルトチルドレン研究の専門家であるが、現代日本で結婚しにくいとか子供を作りにくいとかいうことの背景に、『結婚・夫婦関係に幻想や希望を抱けなくなるような成育環境(生まれ育った家庭・親の問題)』が関係していることも少なくはないだろう。

本書にあるように、アダルトチルドレンであることによって、自己評価が下がり逆に相手を深く吟味しない異性関係や結婚に積極的になるケースもあるので一概には言えないが、『親を嫌ったり軽蔑したりしていないか・親と同じような家族を作りたいと思えるかどうか・自分の子供にも自分が経験したような楽しみや感動を味わってほしいと思うかどうか』というのは結婚願望や子供が欲しい欲求と一定以上の相関はあるだろうと思う。夢の男の条件として上げられているのは、『君は僕と同じ人間だが、君を思いどおりにはできないと考える男』だが、これは特別な存在である妻(女性)を『自分と同じ一人の人間(他者)として尊重できる男,妻を思い通りにできる道具や自分よりも下の子分として扱わない男』のことである。

『愛しているから自分の一部のように感じる(愛していて自分の一部なのだから自分の思い通りにならないと激しい怒り・不満が湧き上がる)』という男は、DVやモラルハラスメントをするリスクが高い男であり、どんなに親しい間柄にある愛している女性であっても、自分と相手とは異なる独立した人格を持つ人間であるという境界線が必要なのである。怒鳴ってもバカにしても殴ってもモノを壊しても、何をしても許してくれる、自分を見捨てずについてきてくれるはずというのは、DVやモラルハラスメントをする男性の典型的な女性への期待・認識であるが、これは『代理的な母親の役割・表象としての女性(妻)』を依存的・幼児的な心理状態から求めていることであり、自分と相手(女性)とを対等な一人の人間だとは思っていないことの現れでもあるのである。

少なくともこれだけはやめてほしいという中高年の女性(妻)から男性(夫)への要望として上げられるのは、現代であればあまりに当たり前で常識というか、今の男女間で実際にやれば一発で離婚か訴訟沙汰(慰謝料・損害賠償請求・刑事告訴)になりかねないことである。その最低限の要望というのは『殴らない男(物を投げつけない男)』『怒鳴らない男・暴言を吐かない男』であり、代表的な暴言として『誰のお陰で食べていられるのか』『出て行け・出て行くぞ(経済的に困らせるぞ)』『女のくせに・バカ(無能)のくせに』などが上げられている。

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夢の男の条件として他に上げられているのは、『やさしいこと(共感して話を聴き思いやりのある行動をすること)』『見上げること(妻の長所や素晴らしい所を見つけて敬意・感謝を払うこと)』『ほめること(けなしたりバカにしたりせずに妻の良い所を見つけて褒めて気分よくさせること)』『かわいいと思われること(脅したりいじけたりせずにかわいらしい愛嬌のある人間性を示すようにすること)』である。これらはかつては女性ジェンダーに属する女性の魅力・役割として男性から求められた条件でもあるのだが、現代では『選ばれる男性側の条件』として男性にもフラットにそういった相手をもてなして気分を良くしてあげるような『魅力と配慮のある人間性・ホスピタリティー』が求められるようになっている。

イケメン論とも重なるが、『女性に物理的・経済的な脅威を感じさせない柔らかさや優しさ』が大きな魅力になるということでもあるが、男性と女性のジェンダーが完全にフラット化するためには『(主に経済生活面で)守る男・守られる女』という役割意識が解消されなければならない。しかし、現代日本では未だ女性の側の『男性に守られたい意識(フルタイムで長期の労働に従事する自信まではない意識)』も残っているので、著者も含めた経済的に自立している女性(男性がいないならいないでも経済的に困らない女性)の立場から語られる『好みの男性を守ってあげる快楽(かつての男性ジェンダーに属する守りながら影響力を振るう快楽=過剰になればDV・モラハラの原因にもなる支配的快楽)』が女性に一般化するまでには当分は至らないのではないかとも思う。

人間のセクシャリティの3つの側面:“恋愛・結婚の倫理観と持続性”が生む葛藤と神経症

S.フロイトの精神分析では、無意識のエスが生み出す“性的欲求の充足と抑圧”が神経症の主な原因として語られるが、“不安感・罪悪感・抑うつ感・強迫観念・身体症状”などのメンタルヘルスの不調である神経症は『本能(自然)と倫理(文化)の葛藤』に悩む人間に特有のものでもあった。人間のさまざまな男女関係(好きな相手との関係)を通した本能的な欲求充足が、“広義のセクシャリティ(性的事象)”であるが、人間のセクシャリティの固有性・特殊性は『結婚・恋愛などの文化的あるいは倫理的に共有されたルール』の中で行われる行為であり、そのルールを破れば犯罪になったり拒絶・軽蔑をされてしまうということである。

適応度の高い個体(集団の中で上位の強い個体)や他のオスを出し抜くめざといオスの個体が、『生殖』を目的にしてメスと交尾する他の動物の性と比較すると、人間の性は遥かにその選択と行為の動機が複雑である。どんな相手と性的関係を持つのかという人間の性選択には、『生物学的な好き嫌い+社会・経済的な有利性+倫理的・文化的なルール』が絡む複雑さがあるが、この複雑さ故に人は悩み迷い苦しんで、時にメンタルヘルスを壊すような病的状態に陥ることもある。

特に、19世紀~の精神分析が勃興したヨーロッパ(英国のヴィクトリア朝など)の性道徳は厳格であったため、『本能的・生物的な欲求(好き嫌い)と倫理的・文化的な性規範との葛藤』が非常に深刻なものになり得た時代背景もある。人間のセクシャリティには『生殖(遺伝子保存)+享楽(特定あるいは不特定の相手との快楽性)+倫理(特定の相手との契約性)』の3つの側面があり、社会文化的・倫理的には一人の男性と一人の女性が浮気(不倫)を罪悪とする倫理に従う『恋愛・結婚の持続的な関係性』の中で、生殖(子供・人生設計)も意図した性行為を行うことが望ましいという価値観は強いものがある。

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日本や欧米の先進国では『一夫一婦制の倫理・制度』がセクシャリティの前提にあるが、イスラーム圏やアフリカの伝統部族のような一夫多妻制であっても『特定の相手との間に夫婦関係の義務という持続的な契約を結ぶ』という倫理規範とは無縁ではない。人間の性は本能・快楽・商売・気まぐれだけで関係を結ぶ一部の例外を除いては、『社会性・倫理性』と完全には切り離せない(性に扶養・育児・関係持続・浮気禁止などの社会的な責任履行が伴う)という特徴を色濃く持っている。

こういった一人の男性が一人の女性と継続的で濃密な性と経済の関係を結ぶという『一夫一婦制(一夫多妻制)の社会性・倫理性・相互扶助性』は現代においても暗黙の前提として常識のようなものであり、不倫(浮気)や生活・育児の放棄(収入を家に入れなかったり子育てに全く関心を持たないなど)は強く倫理的に非難される。その一方で、人間の欲求・感情と一夫一婦制の倫理が完全に一致するわけではないことから、倫理(社会的ルール)に違反する不倫(浮気)や家庭放棄のような行為が起こるリスクもある。

実際にそういった不貞・無軌道な行為をしなくても、“本能(エス)”“倫理(超自我)”がせめぎ合う『内的な葛藤』を通して、自分を罪悪感・逸脱感で神経症的に苦しめてしまうケースが出てくる。エリザベスやO.アンナなどフロイトの古典的な神経症患者の症例というのも、そういった想像上の反道徳的行為(性的逸脱)が関係しているものが多い。

ヒトはなぜ“男女の持続的なパートナーシップ”を求めるのか1:性と子供の養育

人間の性になぜ“生殖”“享楽”という2つの側面が生まれたのか、つまりは子供が産まれる生殖にはつながらない愛情・快楽(精神と肉体の満足)のためだけの性行為をなぜ人間は求めるのか。その答えは単一的なものに還元できないが、享楽のための性は不倫・浮気の原因にもなる一方で、性が精神的にも肉体的にも満たされる行為になり得るということが『ヒトの男女の持続的なパートナーシップ』を支えてきた影響は大きい。肉体的な享楽を伴わないプラトニック・ラブというものも確かにあり得るが、愛し合う男女はやはり愛情の証として相互的な快楽としての『性的なスキンシップ』を求める傾向があるし、スキンシップや性的交渉(性的興味)が皆無になってくるとどんなに信頼しているリラックスできる異性であっても、心理的な距離感は開きやすいものである。

厳密には、信頼や協力を求め合っている男性同士であっても、古代ギリシアや日本の戦国時代には、性的なスキンシップを行うことでお互いをかけがえのない(裏切ることのない)『戦友』として確認し合うような同性愛文化が流行したこともあった。人間にとっての性には、表層的・一時的な快楽のようなケースもあるが、お互いの存在や人生を預けられるほどに信頼して好意を持っている(相手の不利益になるような裏切り・不義理はしない)ことの証として、ある程度頻繁なスキンシップが行われることも少なくない。

人間の性に『生殖から切り離された享楽(快楽)』が持ち込まれた進化論的な説明としては、スイスの動物学者のアドルフ・ポルトマンの生理的早産の概念から考えれば、人間の赤ちゃんが極めて未熟で“長期間の父母の協力的な養育”を必要とする状態で産まれてくるからという考え方がある。性の享楽(快楽)は『ヒトの男女の持続的なパートナーシップ』を確立する役に立つという話をしたが、では、なぜヒトの男女は他の動物と比較しても決まった相手との持続的なパートナーシップを結びやすいのかという新たな疑問が出てくる。

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その疑問に対する一つの答えとして、男女(夫婦・父母)の持続的なパートナーシップがあったほうが、『長期間の子の養育環境・経済状況を整えるのに有利だったから(性・愛情が男性を家庭や妻子の元に留める強い要因の一つとして機能したから)』という理由を考えることができる。人間の男女は浮気をしたり離婚することだってあるではないかという反論ももちろんあるのだが、浮気をしても人間は『乗り換えた相手との新たな固定的パートナーシップ』を結ぶことのほうが多い。相手を裏切ってパートナーを変える可能性は確かにあるが、その時々の男女関係だけを抜き出してみれば、大抵の関係性は『一夫一婦制的な排他性・独占欲・情熱性』を持っているものである。

浮気性な男女であっても、常に『あれもこれもと複数の異性との関係』を同時並行的に注意散漫になって維持していることは滅多にないわけだが、性やスキンシップを男女(夫婦)の快楽(愛情確認も含め)として活用できることが、人間の男女関係の持続性をやや高めた側面がある。無論、日本では特に現実的・経済的な要因によって、相手と一緒に生活できない致命的な欠陥・問題などがない限りは、いったん作った家族・養育環境を敢えて壊さずに保つ現状維持が多い。二人が楽しむための恋愛ではなく、結婚・家族関係のレベルになると、“性・スキンシップ”以上に“子の存在”が父母の持続的なパートナーシップの維持を強く義務的に要請してくることになる。

“性・愛情・スキンシップ”と“子の誕生・養育の必要・愛情”との相互作用によって、『男女の持続的なパートナーシップ』が確立しやすくなるが、このセクシャリティ(性的事象)と子孫によるパートナーシップが『自己遺伝子の保存+社会システムの再生産』を支えている。自己遺伝子の保存は生物学的目的の達成であり、社会システムの再生産は社会的動物としての目的達成だが、現代社会で問題になってきていることは『自然な人生(社会生活+人間関係)の流れ』の中だけでは、これらの生物学的・社会的な再生産のための課題・目的を達成しづらくなっていること(晩婚化未婚化・少子化・失業増加・社会格差・所得低下など)だろう。

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ヒトはなぜ“男女の持続的なパートナーシップ”を求めるのか2:少子化・晩婚化と学習期間の長期化

先進国における近年の少子化・未婚化(晩婚化)の最大の原因としては、『経済的な豊かさ(出身家庭の豊かさ)による要求水準の高止まり+ウェブ社会の普及(安価な娯楽・低コストなコミュニケーションの増加)+自意識・自己愛の肥大』を考えることができる。元々、人間の男女の持続的なパートナーシップの必要性の多くは、『子育てに必要な経済的・労力的・時間的なリソース』を信頼できるパートナーと役割分担して担うことにあったから、子育てそのものを諦めたり子供がそれほど欲しくないという男女が増えれば、少子化だけではなく未婚化・晩婚化も進みやすくなる。

アドルフ・ポルトマンの生理的早産の理論によれば、人間は“親からの全面的な世話・保護”を必要とする極めて未熟な新生児の状態(生後1年程度は歩行もできない母体外の胎児)として産まれるため、他の動物と比較して非常に大きな『子供の養育のための時間・労力・経済のコスト』がかかるようになっている。その代わりに発達早期に、脳(精神・身体)の機能の上限が固定してしまわずに、成長と共に柔軟に膨大な言語・知識・技術を習得できるだけの『脳機能・心身機能の可塑性』というヒトに固有の能力伸長のメリットを得ることができたのである。

出産後すぐに親と同じように歩き出せるようになるウマやウシ、キリンなどの『離巣性の動物』は、生まれてから短期間で高い環境適応能力を身につける。しかし、これらの動物は発達早期に『動物種としての精神・身体の機能の上限』がかっちり決まって固定されてしまう。そのため、ヒトのような生まれた後に様々な知識・技術を学習して新たに身につけていくという『脳機能の可塑性・拡張性』に乏しく、動物は人間のような文化的・知的・技能的な生活を発展させていくことができない。人間は文明社会を構築して『知識と技能・文化的生活(学問・芸術・娯楽・スポーツ等)・精神的価値』を複雑かつ高度に発達させてきたが、このことは未熟な新生児(赤ちゃん)として産まれる人間の養育コストを否応なしに高め続けている。

生理的早産で誕生するヒトには確かに『後天的な脳と身体の機能の伸びしろ』があるのだが、近代社会が成熟するまではそのポテンシャル(脳機能の潜在的可能性)を義務教育以上のレベルで発揮できる人は、経済的・才能的・学力的に恵まれたごく一部の人間だけだった。現代のように過半の人が大学卒業を目指すような、教育コストのハードルが極めて高い時代は歴史上初めてだが、ただ健康に育って勤勉な大人になるだけではなかなか経済社会に上手く適応できないという時代要因も晩婚化・少子化に拍車を掛けている。

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つい100年ほど前までは『読み・書き・計算』が一通りできれば、普通に仕事をするのに支障がなかったくらいだが、近年は大学や専門学校で勉強して更に資格を取得したり海外に留学したりしながら、待遇の良い仕事(将来性のある雇用)に就こうとする人が増えている。経済的・精神的に自立した大人になるまでの期間が長期化を続けていたり、あるいは生物学的・社会的な再生産(生殖・経済の活動による再生産)のために必要な能力・条件が相当に高くなったりしていて、誰もが普通に元気に大人になりさえすれば、何とか人並みに経済生活・結婚生活(男女関係)に適応できるという確信が揺らぎやすくなっている。

草食男子・絶食系といった言葉が流行するなど、『恋愛・結婚の男女関係』が以前よりも低調になっている、20代で恋人がいない人のほうが多数派になっているという指摘もある。真剣に進学(受験)・就職などを目指して勉強する『学校期間の長期化』によって、フロイトの性的精神発達論でいうところの性欲が抑圧されて同性集団の友人関係が多くなる『潜伏期(思春期以前の児童期の6~12才頃)』も長くなりやすくなっているのかもしれない。文明社会や科学技術、職業活動に円滑に適応するために、現代人は生涯学習に近いような『非常に長期の学習期間』を必要とするようになり、子供が経済的・精神的に自立するまでの子育てのコストが高くなって、人々が子供を作ることに極めて慎重になりやすい(産まない人が増えやすくなり、子供が欲しい人でも1~2人の範囲になりやすい)。

大卒を一つの基準点として学習期間が長くなることが、異性に興味・欲求が向かいにくい『児童期の潜伏期的なメンタリティ』を延長したり、学校教育を『知識・技能の学習(勉強・就職の側面)』だけに偏らせて『集団生活・人間関係(社会技能・コミュニケーション・男女関係の学びの側面)』をなおざりにしやすい要因になっている部分もあるだろう。

元記事の執筆日:2015/11

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