ショーペンハウアー『幸福について』の書評1:人間の運勢の差を生み出す“3つの根本規定”、ショーペンハウアー『幸福について』の書評2:“人のあり方・内部の財産”を強調する幸福論

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ショーペンハウアー『幸福について』の書評2:“人のあり方・内部の財産”を強調する幸福論


ショーペンハウアー『幸福について』の書評3:永続的な幸福と他者否定のペシミズム


ショーペンハウアーの『幸福について』の書評4:人にどう思われるかを気にする名声欲の解釈


ショーペンハウアーの『幸福について』の書評5:現実の苦痛回避と社交(他者)を避ける隠棲主義


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ショーペンハウアー『幸福について』の書評1:人間の運勢の差を生み出す“3つの根本規定”

ドイツの哲学者アルトゥール・ショーペンハウアー(1788~1860)が、人間の精神的(内向的)な幸福追求の手段と可能性を論じたのが『幸福について ―人生論―』であるが、冒頭でまず古代ギリシアのアリストテレスの『人生の3つの財宝』に触れている。アリストテレスは『外的な財宝・心の財宝・肉体の財宝』の3つを上げたが、ショーペンハウアーはその3つの数字だけを参照して、『人のあり方』『人の有するもの』『人の印象の与え方』という3つの根本規定から各人の運勢の差異を語ろうとするのである。

本書『幸福について』の全体の章の区分と構成も、『第二章・人のあり方について』『第三章・人の有するものについて』『第四章・人の与える印象について』というようになっていて、その3つの根本規定から人間の運勢と幸福の本質がどこにあるのかを哲学的に探求するような内容になっている。真の幸福の原因が『自分の外部』にあるのか『自分の内部』にあるのかは、常識的には『外部にある人・モノ』だけでも『内部にある知性・解釈(理念)』だけでも本当の幸せを実感するためには足りないということになるのだが、徹底的に内向的かつ知性的な人間の幸福のあり方を説くショーペンハウアーは、『自分自身の内側にあるもの』だけが本当の幸せ(賢者の幸せ)をもたらすのだと強く主張する。

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客観的な物事の意味や価値が、『主観的な自分自身の内側にある知性・解釈』によって決められていくという認知療法的な心理メカニズムと似ている主張なのだが、『人間は直接的には自分の意識の中だけで生きているに過ぎない(自分の外部にある人やモノはただ自分の内面に間接的に影響を与えるだけの仮象に過ぎない)』という独我論的な世界観がベースになっている。外部にある他者・モノ・状況が変化しても、『自分自身の内側にある価値ある知性・解釈・世界観』が変わらなければ、それが最高の幸福につながるのだと語り、『世俗的・身体的な享楽』よりも『精神的・知的な享楽』のほうがより高尚で本質的なのだとしている。

『感能的享楽・家庭生活の団欒・低級な社交・卑属な遊楽』などを価値が低い動物的な愉楽だとして軽蔑するショーペンハウアーの幸福観は、フリードリヒ・ニーチェの実存主義の哲学からすれば現実世界(他者・社会・モノ)のすべてに価値がなくて虚しいとする『ニヒリズム(虚無主義)』ということになる。更に、自らが俗世の生活を楽しめないニヒリズムによって常識的な快不快の価値判断を逆転させ、現実世界の中で感覚的・関係的に楽しんでいる人たちを否定する『ルサンチマン(弱者の強者に対する怨恨)』でもあり、ニーチェはキリスト教の聖職者階級の道徳規範(禁欲主義)を弱者ほど正しいとするルサンチマンの典型例として上げていた。

道徳規範・知性主義は『精神的ステージの高さ(高尚性・教養水準)』を根拠にして、『他者・モノ・社会における通俗的な快不快や自己顕示の価値』を否定しようとするが、現実的には『お金・地位・権力・家族・異性・財物・娯楽などから得られる快感や幸せ』が偽物だといっても大半の人はそれらの『自分の外部にあるもの』を求める人生の舞台からは降りられない。『本当の幸せは自分自身の内部だけにある+自分の外部にある人やモノ、承認を求める欲求は低俗で無価値である』というショーペンハウアーのニヒリスティックな幸福論は一般的には現実味に乏しく受け容れがたいものである。

一方、外部にあるモノを気にしなくても自分は最高に幸せになれるという、ある種の『知性主義・主観主義の極地』にある思想としての認識転換の面白さがあり、『外部状況の変化(他人が自分をどう思っているか)に感情を乱されない脱俗の聖者・賢人の生き方』を志向しているといえるのだろう。

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ショーペンハウアー『幸福について』の書評2:“人のあり方・内部の財産”を強調する幸福論

ショーペンハウアーは完全な健康と身体の好調の価値を賞賛するが、それは健康な乞食が重病で苦しむ王様よりも幸せだということに通じ、『本質的に透徹した価値・魅力のある人間性(内部にあるもの)』に対しては、位階も富もそれに取って代わることができないというのである。『自分自身の知性・理念・解釈・感情の総体としての人間性(ショーペンハウアーが人のあり方と呼ぶもの)』というのは、自分一人になってもどこまでもつきまとい、誰からも奪われたり与えられたりすることがないものであり、『所有するかどうか・失わうかどうか分からない外部にあるもの(人の有するもの)』よりも格段に価値が高いと語る。

(才知に富む人間ならば、全く独りぼっちになっても、自分のもつ思想や想像にけっこう慰められるが、愚鈍な人間であってみれば、社交よ芝居よ遠足よ娯楽よと、いかに引っきりなしに目先が変わっても、死ぬほどつらい退屈は、どうにも凌ぎがつかない。善良で中庸を得た温和な性格は、環境が貧弱でも、満足していられるのだが、貪欲で嫉妬深い邪悪な性格は、巨万の富を抱いても、満足はしない。)ショーペンハウアーの世界観は一貫して『肉体』よりも『精神』を優遇して、『感覚・官能』よりも『知性・思考』を重視するものであるが、『人柄・適性・能力を最大限に活用する生き方と働き方(そこには多分に肉体労働の蔑視や知識人階級の特権感覚がつきまとっているのだが)』こそが最高の幸福への道であるとしている。

“富(金銭)・力(影響力)・快感(社交・異性)”を幸福とは本質的な関係がないと切り捨てて、人間が不幸になる原因について“精神的な教養・知識・仕事に基づく最大級の享楽の欠如”にあると結論づける。暇がかからないでお金のかかる『刹那的・官能的・社交的(人間関係的)な享楽』を必死に働いて追い求めることが不幸の原因なのだとまで言ってしまう。確かに高尚で本質的ではあるのだが、ショーペンハウアーは『自分の外部にある利益・快楽・関係などの要素』をあってもなくてもどちらでも良いものとして簡単に片付けてしまうという意味では(大多数の人がそれらを追い求めて四苦八苦していることが無益な不幸への道なのだと語るのは)、非現実的な知性に偏重した幸福論(持たざる知識人・孤高者のルサンチマン)という指摘を免れにくい部分もある。

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『幸福について』で繰り返される主題は、『人の有するもの(金銭・財物・権力・名声等)・人の印象の与え方(他人からどう見られるか)』よりも『人のあり方(人柄・知性・教養・健康・独りでも楽しめる能力)』のほうが幸福に大いに寄与するのだということである。その具体的な幸福追求の方法論として、認知療法的な『客観的な出来事を私という主観がどのように解釈(意味づけ)するか』ということこそが大事なのだとする客観的なモノに対する主観的な思考(精神力)の優越が説かれている。ショーペンハウアーは幸福のための最も重要な自分の中にある財宝として、『優れた性格・優秀な頭脳・楽天的な気質・明朗な心・健康で頑丈な体格』を上げて、『健全な肉体と健全な精神の相互作用』を幸福実感の基盤としているのである。

自分の中にある財宝でもっとも直接的な効果があるものは『心の朗らかさ・陽気で楽天的な気質』であり、逆にそれらの内面・人柄の財宝がなければ、どんなに大勢が渇望する『美貌・財産・権力・地位・名誉・承認』などに圧倒的に恵まれていても、その人はどうあがいても不幸にしかなれないのである。陰気で抑うつ的であるよりも陽気で朗らかであることの、幸福に対する有利さは計り知れないものとなる。富・財物は朗らかさを増すことには殆ど役に立たず、健康こそが朗らかさを呼び寄せるものであるという。身分の高い階級で富裕な生活をしていても『不機嫌・イライラした気質性格』から抜け出せないのであれば、貧しい下層階級であってもニコニコとして朗らかな心を持った人に幸福の実感で遠く及ばないというのは、確かにそうであろう。

ショーペンハウアー『幸福について』の書評3:永続的な幸福と他者否定のペシミズム

ショーペンハウアーは脱俗的あるいは非社交的なペシミスト(悲観主義者)であるから、その理想的な人間性は外界や他者に自分の内的世界の充実を邪魔されないという意味での『隠遁生活・孤高の境地』となって具体化されるということになる。精神的に優れた人間が『隠遁・閑居・孤高』を好む理由として、ショーペンハウアーは才知に富む人間は何よりも苦痛と誘惑のない状態を求めて、『煩わされない安静+時間の余裕』に価値を置くからだとしている。

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人間が自分の内側に持っているものが多ければ多いほど、『外界・他者から与えられるもの』を必要とせず、いわゆる『精神的享楽の自給自足』が可能となり、精神的に優れている人間は必然に『非社交的(他者や世間に煩わされない孤高の存在)』になるという。これは視点を変えれば、約150年前のひきこもり礼讃論のような書物でもある。『孤独な時に自分本来のもの・自分が本当に有しているもの』が明らかになってくるので、『自己から逃避したい心理(=孤独な状態が不安・空虚で堪らないと感じる心理)』が強い人ほど『社交・娯楽・家庭(恋愛)等の他人からの承認的な刺激』を求めるというのはなかなか着眼点が個性的で面白い。

だが、そこまで他者・社会からの承認欲求を超越した『自給自足的な孤高(脱俗)の境地』を目指すべき理想の幸福とするなら、もはや大多数の人にとっては接近不能な悟り・隠棲(山篭り)の境地に近いようなものになってしまいそうだし、現代では『社会不適応的・自己愛的なパーソナリティー』というネガティブなラベリングをされる懸念も生じてくるだろう。古代ローマの哲学者セネカ(A.D.1年頃~65年)は『およそ愚かさは自己に対する嫌悪に悩む』と書き残したというが、ショーペンハウアーは他者とどうにかして関わったり騒いだりして自分の存在を認めてもらおうとする『社交性・承認欲求』『孤独・無為・退屈に耐えられない弱さ(他者と関わらなければ自分そのものには何もやるべきことがない空虚さ)』の現れと見ている。

ショーペンハウアーの『幸福論』は、俗物的な快感・幸福・社交からは遠い内向的な知識人・読書人の選民思想をベースにしており、そういった方向性で感情移入して読むならば『溜飲の下がる常識転換の観念論の快感』に満ちた書物であり、硬質な読み物としては面白い。一方、社会一般的な幸福や価値にある程度まで適応して、家族や他人ともそれなりに上手くやりながら人生を楽しんでいる人からすれば『内向性・非社交性・孤高性に偏った偏屈な幸福論(ニーチェ流に言えば自分が満たされない故のルサンチマンの書)』として読まれることにもなるだろう。真の精神的幸福を知る賢人と仮りそめの社交的幸福に浮かれる愚者の違いとして、ショーペンハウアーは『余暇の有効活用の有無』を上げる。これも現代の常識的な価値からは『家族・恋人・友人などと過ごすレジャーや娯楽の時間』も完全に無駄な時間(退屈・自己嫌悪を逃れるための代替行為)とばかりも言えないわけで、『知識・文化・思索等に費やして過ごすクリエイティブな時間』とどちらが価値があるかというよりも、双方の時間の使い方のバランスのほうが重要になっている。

自由な時間である余暇を持て余して、いつも『暇で暇で溜まらない・退屈で何をしていいか分からない・誰か私を構ってほしい』とばかり言っているのは、確かに有益な時間の使い方ではないかもしれない(主体的な思考力と物事の選択のない人かもしれない)が、実際に誰かとどこかに出かけたり遊んだりする予定があるならあるで、それは知的・創造的な時間の使い方をするための充電期間のような使い方もできるといえばできる。ショーペンハウアーは自由貿易(輸入する国の地位)を否定して、すべての食料・生活物資を自給自足できる国(外国から何も輸入しなくても良い国)が理想的であるとして、内面の富を十分に持っていて、自分を慰める上で外部や他者から何も期待しなくても良い人間が一番幸福だとしている。

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『自由貿易・比較優位の利益』が多くあるように、実際には『人間関係・コミュニケーションから得られる喜び』も多くあるのだが、『初めから他人に一切期待しなければ気持ちが煩わされず傷つくこと(がっかりすること)もない』という意味では世間でよく知られた自立自尊の処世術の王道ではある。『いつでもどこでも最後に頼りになるのは自分だけ』というのは、現代においても“一面の真理”として肯定されることもあるし、逆にそういった考え方は他人を信じられない寂しい人、他人に傷つけられたくない過剰防衛(トラウマからの臆病・回避)の現れであり、傷つけられても裏切られても人を信じて関わっていかなければならない(そうでなければ自分一人だけでは本当の幸福は得られない)という反対意見もまたオーソドックスなものである。

ショーペンハウアーの悲観主義・虚無主義の幸福論は、“諸行無常・一切皆苦”を根本教義とする仏教思想にも似ているとされるが、『不確実なもの・偶然的なもの・他律的なもの』を徹底的に避けようとする。それはある種の過剰防衛・完全主義の方向性であり、本当の揺らがない幸せを模索しているとも言えるだろう。しかし、その永遠性・普遍性を帯びた幸福追求の路線を突き詰めていけば、『思い通りにならない他者・社会』から遠ざかってできるだけかかわらないようにする(精神的幸福を知的優越感で自給自足できるようにする)『隠遁・閑居・孤高』に辿り着くことになるのであり、独我論の孤独に耐えられるような人間性(人のあり方)が理想とされているのである。

『困窮・苦痛・失意(落胆)』を徹底的かつ永続的に避け続けられる孤高の境地こそが真の幸福なのだとするショーペンハウアーの思想は、『経済・家庭・結婚・名誉・恋愛』などで自分の存在価値(自己と他者の差異)を認められたいとする世間一般の価値観へのカウンターとしての特徴が強い。『自分自身であること+自分の能力・適性の縦横な活用』による真の幸福実現というのは、人間にとっての他者・社会(思い通りにならない外部のあらゆるもの)の必要性を捨象しようとする『知性主義・完全主義の非現実的(観念論的)な極地』であると同時に、仏教的な禁欲主義・悟りの法悦の変形としても解釈できるもののように思う。

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ショーペンハウアーの『幸福について』の書評4:人にどう思われるかを気にする名声欲の解釈

アルトゥール・ショーペンハウアー(1788~1860)の著書『幸福について』は、“自分の外側(他者)”にではなく、“自分の内側(自己承認)”に幸福の原因を求めることを推奨する幸福論の本である。外向的な他人(社会)に認められる幸福というものは、一般的な幸福として羨望されやすいものだが、他人から愛されるとか社会から評価されるとか経済的・地位的に成功するとかいうことを『自己の幸福の必要条件・最優先事項』とする限り、仏教でいう『求不得苦(求めて得られない苦しみ)』と常に背中合わせの不安を感じることにもなる。

内向的な自分で自分を認める幸福というものは、ややもすれば独りよがりな妄想的なものと人(社会)からは軽視されやすいものだが、他人から愛されないことがあっても社会から評価されないことがあっても経済的・地位的に恵まれなくても『自分で自分を肯定できている強み(他人の評価に左右されず自分の人生を自分のものとして統御できている強み)』がある。ショーペンハウアーのいう『内なる財産(知識・感性・発想・創造・批評など自分の頭の中にあるもの)』を重視する内向的(精神的)な幸福観は、他人・社会に影響されない自己肯定的な生き方や自分独自の存在形式に対する納得感(自己満足感)に基づくものだが、ショーペンハウアーも人間の本性として『他人の賛同・賞賛』を得たいという承認欲求(名声欲)が非常に強いものとしてあることは認めている。

しかし、『第四章 人の与える印象について』で、ショーペンハウアーはある種傲岸不遜な精神的貴族主義(大衆蔑視)を示しながら、『第一義的な人間の独自の本質・存在・頭脳』に比すれば『第二義的な他人の頭脳に投影された人(自己)の本質の映像』の価値は格段に低いと切り捨ててしまう。『他人の頭脳(心)』に自分がどのように映って評価されているかを気にする承認欲求(愛情欲・名声欲)には価値がないわけではないし、誰もがそれを本能的に求めるものでもあるが、『承認欲求(愛情欲・名声欲)』『自分の独自の本質・生き方・存在の価値』とは直接的に結びついておらず二義的なものだとする。

だから、名声・愛情を求める承認欲求は満たされないなら満たされないで良いとするのがショーペンハウアー流の斜に構えたペシミズムの幸福論であり、『功績(功績を生む能力・本質)』『名声(他人が自分の像・行動をどのように見ているか)』を切り離して、名声欲によって自分を惨めで不幸な境遇に追い込むことがないようにと説くのである。自分にとって自分が最善の状態にあること、その状態を自分で受け容れて認めていることこそが幸福なのであり、自分にとって最善な状態が他人(大衆)の頭脳にどう映って意味づけされるかは本質的な問題ではないという、哲学者に特有な独我論的な幸福のあり方が開示されている。

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とはいえ、他人に自分がどう思われているか、周囲にどう評価されているかに振り回され過ぎると不幸・不遇をかこちやすくなるという傾向はあるので、他人・社会を完全に切り捨てるというのではなく、『自分にとって自分が最善の状態になれるように努力したり方向転換したりすること』は自己啓発的な認知の転換として有効ではあるだろう。『幸福について』でショーペンハウアーは、内向的・精神的な幸福観とそれに基づく幸福追求に関する哲学者や思想家、作家などの名言を集めて、『第五章 訓話と金言』にまとめている。これらの古今東西の思索者たちの名言の内容もなかなか自己啓発の示唆と幸福追求の見識に富んだものになっている。

ソクラテスとプラトンの哲学の流れを汲む古代ギリシアの哲学者アリストテレスは、『ニコマコス倫理学』『賢者は快楽を求めず、苦痛なきを求める』という真理を指摘している。人間は自己の意志を実現させようとする本性を持つ存在であるが、人間にとって意志が実現されている状態とは『意志が阻害されていない状態』である。快楽(満足)は『阻害の除去(阻害からの解放)』を意味する消極的・否定的な働きに過ぎないが、苦痛は『直接的な意志の阻害』を意味する積極的・肯定的な働きである。

その前提からアリストテレスは、人生で幸福を実現するためには『快楽(満足)の実感の総量』よりも『苦痛(災厄)の回避の総量』のほうが重要であると説き、フランスの哲学者ヴォルテール(1694-1778)『幸福は幻にすぎないが、苦痛は現実である』と語っているのだという。悲観主義者らしく、ショーペンハウアーは人生とは楽しむべきものではなく、克服して始末をつけるべきもの(何とか切り抜けてやり過ごすもの)だと語り、幸福に生きることとはあまり不幸ではない程度(我慢ができる程度)に生きることなのだと達観したような結論に行き着く。最大級の激しい喜び・快楽を追い求めるよりも、耐え難いような苦痛や大きな不幸(災厄)を回避することのほうが、結果としての幸福に近づくという考え方である。

ショーペンハウアーの『幸福について』の書評5:現実の苦痛回避と社交(他者)を避ける隠棲主義

幸福や快楽を心理作用が織り成す一時的な幻想と見なす悲観主義者のショーペンハウアーは、『欠乏・疾患・困難などの不幸』を除去した状態を幸福と定義しており、できるだけ危険(リスク)や災厄を避けて生きたほうがいいというわけである。『積極的な幸福という実体なき幻想』を追い求めることによって、逆に『現実的・積極的な不幸』に見舞われるリスクが高まるという考え方は、現代の平均的な価値観からすればかなり用心深く逃避的な生き方のようにも映る。だが『自分の実力(身の丈)を超えた快楽・成功・幸福の追求』をやり過ぎると、その反動として相応の不幸・欠乏・失意を招くというのは事実の一端としては有り得ることだろう。

危険(リスク)を避けすぎたために、快楽・享楽を得る機会を多く犠牲にしてしまったとしても、それらの快楽・享楽は頭の中で構想された架空のものであり幻想の産物であるから、後になってやらなかったことを後悔したり嘆いたりする必要などそもそもないという回避主義・悲観主義の徹底ぶりである。古代ギリシアの精神の平静(アパテイア)を理想としたキュニコス学派を例に上げて、『享楽の消極性・否定性』と『苦痛の積極性・肯定性』を比較しながら、われわれを現実の苦痛の罠に陥れるのが享楽の誘惑の働きなのだとまで言っている。

現代では『やらずに後悔するより、やって後悔したほうがいい』という行動理念のほうが説得力を持つことが多い。だが、ショーペンハウアーは『リスクを取ってやろうと思っていることで得られるかもしれない成功・享楽・快感そのものが幻想』なのだから、そもそも『現実的な苦痛・欠乏』を招く恐れのある幸福実現のための挑戦をしないほうがいいという厭世家・傍観者のスタンスを崩さないのである。若きゲーテの友人のメルクは『幸福、それも夢に見るほどの幸福を求めたいという醜悪極まる欲念が、この世のすべてを害うのだ。この欲念を脱却しえて、目の前にあるものよりほかには何一つ望まぬようになれば、何とかかんとか切り抜けられるものだ(「メルクの往復書簡集」)』と書き残している。

古代ローマの詩人ホラティウスは『中庸の美徳を愛する者は貧困の汚れに染まず、賢くば、人の羨む邸宅の華美をも好まず。松高ければ風ますます猛り(たけり)、山高ければ、雷まずこれを撃ち、塔高ければ倒壊の惨はなはだし』という極端な欲望や虚勢を戒めるような詩を残している。学ぶことによって幸福は得られないが教訓は得られると語り、イタリアの詩人ペトラルカの『学ぶことよりほかには何の幸福も感じない』を引用している。人間に不幸をもたらす要因としては、生活に対して色々な要求を掲げること、自己の人生の幸福を広範な基礎の上に立たせようとすることがあり、最大の愚行として、自己の一生に対して万端の準備を整えようとすること(万端の準備を整えることは不可能であり完全な人生を目指すほど不幸を引き寄せる)を上げているのは、何事も準備や保険の『計画的な備え』が大切と考える現代からすると逆説的で面白い。

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自己の幸福にとって最も本質的なものは何かを知り、その本質的なものに優先順位をつけて、自分の職務・役割・対社会的な立場を貫徹することが、生涯の設計図を客観的に俯瞰するような知的優越の視点をもたらすといったような話もでてくる。未来のことを心配すること、過去のことを後悔することは無益で有害であり、現在の現実生活の中に苦痛や不快、不幸が入ってこないような生き方をすべきなのだという『今・ここの原則』についても繰り返し語られている。古代ローマの哲学者セネカの『その日その日を一生と見よ』という言葉が上げられ、現実として目の前にある現在の時を充実させながら、やって来るのか来ないのかわからない確率的な不幸・災厄・災害については、普段は真剣に意識しないほうが良い(低い発生率の不幸・災厄ばかりを心配して生きるのも無益なことだ)としている。

ショーペンハウアーの幸福観の基盤にあるものは、古代ギリシア哲学のストア派やエピクロス派の哲学者たちが、世俗の欲望に支配されないアタラクシアや感情に振り回されないアパテイアとして重視した『精神の平静・安定』であり、隠れて生きよという『隠棲主義』を主張したストア派との類似性も見られるのである。隠棲主義との相関では、すべて物事の範囲が狭くて物事と関わる範囲が小さければ小さいほどに人は幸福になりやすい(関係する物事・範囲が増加すればするほど不安・恐怖・憂慮も増えていく)といったことも述べている。精神活動を限定する生き方の欠点としては『退屈・閑暇』を上げており、退屈や閑暇に負けて『娯楽・奢侈・社交』に手を広げていけばいくほど、人は破滅・損失・不幸に自ら近づいて行ってしまうとショーペンハウアーは悲観的に語るのである。

精神主義的な幸福を実現するもっとも代表的な手段は『学問・研究・知的労働』であり、そういった精神的な幸福を妨害する最大の要因は『現実の生活上の必要・要請・雑事・気がかり』などである。現代の常識的な価値観からすれば、『仕事・社交・他者』から遠ざかって、自分の内面に財産を蓄えるために本を読んだり知的活動・研究をすることだけが幸福の道かというとそうではないだろうが……『不確実な外部的な要因』と関わらなければ不幸・災厄にも遭遇しにくいという、かなり防衛的(逃避的)な幸福論としての様相を持っている。自己にとって自己がすべてであり、自己に満足していれば最高に幸福であるとまでショーペンハウアーは断言して、『私のものは私がいっさい身につけて持っている』というギリシアの賢人ビアスの言葉を引用する。アリストテレスも『幸福は自己に満足する人のものである』と語っている。ショーペンハウアーは上流階級・サロンに馴染めなかったルサンチマンの心理もあるかもしれないが、特に『上流階級の社交・おしゃべり』ほど人生にとって有害無益で無駄なものはないと何度も痛罵している。

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ここまでくると、外部世界(他者)との接触をすべて断ち切って、非社交的・脱俗的な隠棲者(ひきこもり)のようにならなければ真の幸福は得られないという内向性賛美の極論になってきそうだが、こういった心理は『外国に頼らない自給自足の経済・外交交渉に頼らないゴーイングマイウェイの体制こそが最も良い』とする反グローバリズムや一国完結主義とも共通する根拠を持つものだろう。ショーペンハウアーの『幸福について』のクライマックスは、『社交と孤独との二元論』を題材にして、『孤独を愛することが自由を愛することにつながる・社交(他者)は強制と犠牲を求めてくるもの』という結論をいくつもの名言・根拠に基づいて主張し続けていくところにあるが……『孤独に耐える自由』の話についての感想もまた時間のある時に書きたいと思う。

元記事の執筆日:2015/12/14

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