“マスク症候群・マスク依存症”とは何か?:常にマスクをしないと落ち着かない心理とマスクの持つ効果、『青い鳥症候群』と今ここにない理想の自分・幸福へのとらわれ:自分の弱さとの向き合い方

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『青い鳥症候群』と今ここにない理想の自分・幸福へのとらわれ:自分の弱さとの向き合い方


なぜ人(女性)は化粧をするのか?1:“見られる性”としての男女のジェンダーの差異の縮小


なぜ人(女性)は化粧をするのか?2:鏡像・化粧・共感とミラーニューロン


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“マスク症候群・マスク依存症”とは何か?:常にマスクをしないと落ち着かない心理とマスクの持つ効果

近年、若い人たちを中心にマスクをしている人(マスクをしている状態のほうが過ごしやすいという人)が増えてきたという経験的な印象があり、必要がないのにマスクを依存的にするという『マスク症候群(伊達マスク症候群)・マスク依存症』という言葉(正式な精神病理学的な概念ではない)が生まれたりもしている。スギ花粉やインフルエンザウイルスが飛散しやすい時期に、『花粉症・インフルエンザ』などを予防する目的で必要に応じてマスクをするのは自然だが、外出する時や仕事をする時に常にマスクをしているという人もいる。

マスクをする一般的な目的は、『感染症・花粉症・PM2.5(粒子状物質)の予防』『咳エチケット(自分に風邪の症状がある時に他人に移さないため)』である。一方、『マスク症候群』と呼ばれることもある問題では、外で常にマスクをしていないと精神的に落ち着かないという特徴がある。マスク症候群では、マスクが『外的環境・他者との間の防御壁(不快な外的刺激の緩衝剤)』のような役割を果たしていることが多いという。

合理的な必要や理由がなければマスクをしてはならないわけではないし、常に外でマスクをしているからといって何らかの精神疾患や不適応問題が生じているとも言えない。ただ、主観的な心理状態としてマスク症候群の人は『外的環境・他者の目線(他者からの干渉)・知覚刺激』などに対してセンシティブに不快感や緊張感を感じやすい傾向があると推測できる部分はある。マスク症候群(マスク依存症)と『社交不安障害(対人恐怖症)・醜形恐怖症』との相関の可能性について、リンク記事には書かれているが社会的場面や対人コミュニケーションで緊張感・不安感・不快感を感じやすい人が、マスクをすることによって『他者の目線・他者からの必要以上のアプローチ・自分が誰であるかの個人認識』を遮りやすくなるという効果はあるだろう。

マスクをすることによって、外部社会で他人と直接的に向き合っている、自分がどのような人間か値踏みされているという『感覚的・想像的な負荷や不快』を和らげやすくなる。外部社会の刺激や他人の反応にストレスを感じやすい過敏な人でも、『マスクで外部と遮断されている自分という感覚』によってストレスに対処しやすくなるのである。いつもマスクをして少しうつむき加減で過ごしていれば(この人はあまり人と関わりたくないのだろうなと相手が判断してくれることで)、他人とあまりコミュニケーションをしたくない人であれば『相手から話しかけられる確率・必要以上の雑談に付き合わせられる頻度』を有意に減らすこともできる。

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感染症・花粉症・PM2.5の予防や人に風邪を移さないようにするためという合理的な理由以外でマスクをする理由としては、『他者との直接的な接触の感覚・対話によるストレスを減らしたい(マスクで外部社会・他人との間に一つ壁があるように感じたい)』というのもあるが、より即物的に『車内・建物内の人ごみで他人の臭いが不快に感じるから』『寒い季節に何となく顔周りが暖かく感じられるから(マスクをつけている顔周りの感覚が心地よいから)』といった理由もあるだろう。マスク症候群の問題では、マスクをしている本人が悩んでいることは少なく、どちらかというと常にマスクをしている人に違和感や不快感、接しにくさを感じる人のほうが多いのではないかと思う。

最近は、接客(接遇)する店員や事務員が風邪を引いていなくても常にマスクをしているという事も少なくない。しかし、目以外の口元の表情が見えないことによって『冷淡で無関心・機械的で親切でない・非社交的で外に意識が向いていない・用事があっても声をかけにくい』といった、対人的にあまり好ましくない印象を受けてしまうお客さん・患者さんが出やすくなったりすることはある。きちんとした接客接遇をする会社や店舗では、風邪を引いていない店員・担当者が常にマスクをして対応・説明・営業に当たるということはまず考えられない。それは目と同様に頬や口が『非言語的コミュニケーション』において重要な役割を果たしているからであり、特ににこやかでフレンドリーな明るい表情を相手に見せることによって、顧客に『安心感・信頼感・話しやすさ・親しみ』の印象を強く与えられるからである。

マスクをしていると、自分が相手にどのような感情・気分・意志を持っているかが伝わりにくく、よく知らない相手(顧客)に対してだと本当はそういったつもりがなくても『無愛想・無関心・拒絶的・非協力的・非社交的』といったネガティブな印象を与えてしまいやすい、つまりは人間性を誤解されやすいデメリットがある。それなら、仕事中でなければ(相手に好印象を与える必要がなければ)マスクを常にしていてもいいじゃないかというのはその通りであり、いつも顧客相手に愛想よく明るく対人コミュニケーションを取らなければならない感情労働の多い職種・職場では、顧客対応しなければいけない場面以外ではマスクをしたほうがリラックスできる(仕事が終わって店舗外に出るとマスクをするようにしている)という人も多いようである。

マスクをすることによって、自分を『特定の個人』として認識されにくくする(どこの誰だかわかりにくくする・他人から話しかけられにくくする)というのは、マスクをする人にとって『匿名的な自由の感覚・対人的な防御壁』のメリットになることがあるのと同時に、マスクをした人と接する相手に対して『不信感・不快感・接しにくさ』の印象を与えるデメリットにもなるということである。マスクをすると『顔・口元・表情』が見えにくくなり、ちょっとした顔見知りくらいだとどこの誰だか分からなくなるが、フルフェイスのヘルメットをかぶるほどの極端な『顔全体の隠蔽』ではなく目は見えているので、そのままで社会生活を営んでもそれほどの違和感や不利益はないという使い勝手の良さがある。

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しかし、バイクに乗るわけでもないのにフルフェイスのヘルメットをかぶった人ほどの違和感はなくても、いつも絶えずマスクで顔の下半分を隠しているという状態は不自然といえば不自然なので、顔や表情がよく見えないことによるネガティブな印象(自分だけの世界に閉じこもっていて外部と少し距離を置いているような印象)が生じてしまう可能性もあるということである。自分だけの世界に閉じこもっていて、他人に関心・配慮がない印象ということでいえば、スマホ(携帯音楽プレイヤー)で音楽を聴くという行為にも似た部分がある。

常にマスクをしていると『儀礼的な無関心(他人がそこにいることを認識した上での配慮ある無関心)』を示さない『私的領域の拡張(外部社会にいるのに自宅でいるような感覚・他人がまるでそこにいないかのような感覚の拡張)』の印象を持たれやすくなるのかもしれない。電車の中で内輪で大声を出してバカ騒ぎするとか、目の前に人がいるのに携帯電話で大声で通話するとかいうことが他人に抵抗感・不快感を与えやすい原因も、『私的領域の拡張(外部社会にいるのに自宅でいるような感覚・他人がまるでそこにいないかのような感覚の拡張)』と関係している。マスク症候群は大声を出したりはしておらず受動的な外観ではあるが、『他者に対する拒絶・無視の印象(自分の内側だけを守っているような私的領域の拡張・非社交性のイメージ)』をそれとなく与えてしまいやすい所はある。

なぜ『マスク症候群(伊達マスク症候群)』のような行動パターンが現代社会で生じやすくなったのかというのは、何らかの精神疾患と関係した病的なマスク依存を除けば、マスク症候群が基本的に人ごみの多い都市文化の中で起こりやすいことからも分かるように、『人口密集と満員電車・高度なコミュニケーション能力の要請・対人評価(他者に与える印象)の重要性の上昇』などの要因と関係しているのだろう。あまりに膨大な数の人の波に飲み込まれながら押し合いへし合い通勤して、仕事で大勢の顧客を丁寧に笑顔で接遇しなければならない感情労働的な業務が増えて、他人から自分の言動・外見に対して良い印象や評価を持ってもらう必要もあるとなると、『外的社会の中で適応的に働いて過ごすこと・他者と適切にコミュニケーションすること』の多くがストレスに感じられやすい。

その外部環境のストレッサーとなる他者からの目線・干渉可能性を、心理的にわずかであっても遮りたい(擬似的な私的空間を確保したい・他人からこちらが望まない不快な干渉を一切されたくない・自分に用事がないのに人から話しかけられたくない)という動機づけが強まり、マスクをしていたほうが何となく過ごしやすいと感じる人が増えているのかもしれない。

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『青い鳥症候群』と今ここにない理想の自分・幸福へのとらわれ:自分の弱さとの向き合い方

見せかけのプライドや虚栄心にこだわり過ぎている人は、『他人の目(他人の評価)が気になって仕方ない・他人の判断によって自分の人生の選択や方向さえ変わってしまう』という他律的な神経症的パーソナリティーを持つ人であり、他人が自分のことを四六時中考えているはずがないという当たり前の現実に気づけずに苦しんでいる。『他人が自分の仕事の価値やステータスをどう思うだろうか・他人が自分が選んだ恋人(配偶者)の見かけや職業をどう判断するだろうか・他人がこの家や生活状況を見たらどのように感じるだろうか』ということを常に意識して想像しているので、自分がしたいことや欲しいもの、一緒にいて落ち着く人ではなく、社会一般的に他人の目から見てそれが価値があるものか自慢できるような人かといった評価基準に傾きやすいのである。

こういった他人の目線を気にしすぎる神経症的パーソナリティー(人格構造)は、自己愛性・境界性・演技性・回避性のパーソナリティー障害の特徴と重なる部分もあるが、これらに共通する大きな問題・リスクは『自然体のありのままの自分』で生きられる場所や相手が少なくなることである。いつも気を張って半ば演技までして、『実際の自分以上の理想自我に近い自己像』を社会・他人に見せていなければならないという劣等感・ストレス(ありのままの自分には価値がなく人からバカにされるかもしれないとの思い)が強くなりやすい。自分にとっての自然さや現実のありようを認められないということは、人間誰しもが持っている『弱点・短所・苦手さ』をできるだけ隠して生きていこうとする虚勢・演技・格好つけにつながるのだが、こういった態度・生き方の人は一般的には『プライドの高い人・我が強い人』と呼ばれる事が多い。しかし、プライドが高い人というのは、気の置けない人間関係においては必ずしもアドバンテージではないし、他者に対する賛辞の褒め言葉でもない点に注意が必要だろう。

プライドが高い人というのは、自分と他人とは違っていて自分のほうが優れていることを示したい人という意味合いがあり、『実際の自分以上の自己像』を呈示するために背伸びをしていたり無理をしていたりする人でもある。プライドの高い人は一般に『失敗・挫折・裏切り・屈辱』にかなり弱く、この人があれくらいの失敗や一度だけの挫折でこんなに脆くも崩れ去ってしまうとはというような異常な落ち込み方や投げやりな態度を見せてしまったりする。

それは『他人からこのように見られたいという理想の自己像の見せかけ』をしているだけで相当に無理をしていて、それ以上の負荷・負担に耐えられるだけの余裕を既に持っていないことが多いからなのだが、周囲にいる人たちも薄々は『無理をしている状況・意地を張っている状態』に気づいていて大丈夫だろうかと思っていることも多いのだ。自分の弱点や短所、限界を率直に認められずに、それを誰かに知られることを『恥・屈辱』のように認識してしまうと、『他者との競争心』ばかりが異常に強くなってしまったり、逆に他人とほとんど関わらないような『非社会的(ひきこもり的)なライフスタイル』に落ち着いてしまうことになる。自分はあの人たちとは違う、並みの人と自分を一緒にしないでくれという極端なプライドの高さ(劣等コンプレックスの補償)が、往々にして人生のリスクや孤独を引き寄せてしまうことがあるが、視点を変えれば自己愛の過剰性(=現実自我と共感性の欠如)の問題でもある。

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極端なプライドの高さ(理想自我へのこだわり)が命取りになって、人に自分の弱さや挫折を見られたくないと思い悩み続け、遂には重篤な精神の不調に陥ったり自殺にまで至ってしまうような人さえいる。こんな追い詰められた時に、『本当の自分は弱いんです・どうか助けてもらえませんか・今の私にはお金も地位もありません・今まで手助けをしてくれてありがとう・今回は大きな失敗をしたけどまたゼロからやり直す・上手くやっているあなたが羨ましいし凄いと思います』というようにありのままの今の自分(今の相手)を認めた言動ができる人のほうが、本当の意味でバランス感覚があって強いと言えるのだろう。

自分の弱さや失敗、欠点を素直に認めて、自分も『あなたと同じ長所も短所もある当たり前の人』であることを言葉・行動・態度で示すことは、『プライドを傷つける行為』などではなく『自己と他者の相互的なコミュニケーション・信頼感』を深めやすくしてくれるものでもある。『私はあなたとは違うんです・私をあなたと一緒にしないでくれますか・私はあなたとが違う世界で生きているんです』といった自己と他者の上下関係(優劣関係)の差異を、陰に日向にアピールするような人が好かれるわけはなく、仲間意識を持った集団の一員としては受け容れられることはない(私はあなた達とは違うという独りよがりな自意識をにじませる人は職場でも基本的に浮くものである)。

自分の弱さや惨めさ、挫折などを絶対に他人に見せない人というのは、他人から見ると『尊敬すべき凄い人(完全無欠の抜きん出た才覚のある人)』というよりも『打ち解けない鼻持ちならない人(実力以上に気取っている人)』のように見られていることのほうが多い。人は結果的には自分の現在の実力・能力に見合った環境・人間関係にたどりついてしまうことが多い。その現実をどうあっても認めずに、徹底的に自分以外のものを否定して理想自我(理想の状況)にこだわるならば、人間関係が上手くいかなかったり、社会参加(コミュニティ帰属)の契機を見いだせなかったりする弊害も大きくなる。

今・ここにあるありのままの現実の自己像や状況を認めて、そこから人生をどのように生きるかどんなことをしてどんな相手と付き合うかを前向きに選択して努力していくのが『適応的・生産的なライフスタイル』であるが、『現実離れした理想の水準に見合った今持っていないもの・今いない相手』ばかりにこだわって何の前進・成果もないままに追求し続ければ、莫大な時間を費やし足元が疎かになって大きな苦悩・深刻な孤独にも見舞われやすくなる。モーリス・メーテルリンクの童話『青い鳥』のストーリーを題材にした『青い鳥症候群』というメンタルヘルスの概念もある。チルチルとミチルの兄妹は夢の中の過去・未来の世界にまで旅して『青い鳥(幸福の象徴)』を探し求めたが、その青い鳥はもっとも身近にある鳥籠の中にいたという誰もが知る処世訓的な含蓄のある童話である。

この童話『青い鳥』は、『今手に入っていない理想の幸福』というものを、ここではないどこかに必死に追い求めても得られないことを示唆した物語で、『今ある現実の自分や世界』を否定しようとしても否定しきれない厳然たる現実がそこにはある。青い鳥は『理想の幸福』だけではなく『理想の自分(理想自我)』の象徴でもあるが、今・ここではない世界のどこにも、未来にも過去にも一発逆転させてくれる青い鳥は基本的に存在しない。だが、自分のありのままの現実や能力に見合った努力・前進を続けることによって、『籠の中の青い鳥(身近なところにある幸福・楽しみ・安らぎの原因)』は生き生きと成長するし、今までよりも美しく元気に満ちた姿を見せてくれるものでもある

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なぜ人(女性)は化粧をするのか?1:“見られる性”としての男女のジェンダーの差異の縮小

『なぜ人は化粧をするのか?』という問いは、基本的には女性に向けられる問いとして解釈される。現代でこそ若い男性の一部に、肌を綺麗に見せる薄化粧(スキンケアの延長的なレベルの化粧)をする人が出てきたとはいえ、マスカラ・口紅・頬紅など『顔全体の印象』を大きく変えるほどの化粧をする人は男性ではまだほとんどいないからである。化粧をする理由についてもっとも消極的な理由づけには、女性にとって最低限の化粧は『社会人のマナー・礼儀』だからというものがある。化粧をすることがあまり好きではない女性にとっては、『義務・マナー・礼儀としての化粧』という認識が強いことも多い。

もっとも積極的な理由づけは、化粧することによって自分の顔をもっとも美しく見えるような外観に作り変えることができ、そのことが自己評価・自信を高めてくれたり、実際の人間関係や社会的活動におけるメリットを得やすくしたりしてくれるというものである。社会心理学の研究では、化粧をしていないすっぴん(素顔)では女性の行動範囲はかなり身近な範囲(近しい人間関係)にまで狭まり、大勢の他者とふれあう場や職場・公的な意味合いの強い場などに化粧なしで参加することに心理的な抵抗感・居心地の悪さを感じる女性はかなり多くなることが知られている。

無論、化粧をどれくらいするかには同じ女性でも大きな個人差があるが、『都会(都市生活)・職場(営業・販売・受付のような多くの人と接触する型の仕事)・ジェンダーや女性文化への適応(女性らしいライフスタイル)・異性関係(異性からの評価の意識)』などの要因が重なる場合には、大多数の女性にとって化粧はほぼ必需品に近い位置づけになってくる。反対に、『田舎(農村生活)・職場(一次産業・二次産業など人とあまり接触しない型の仕事)・ジェンダーや女性文化の拒絶(女性らしさを押し付けと感じる・女性らしさを競うような女同士の関係から離れる)・異性関係への無関心』などの要因が重なる場合には、化粧をしなくても良いと思う女性が増えてくる。思想的・自意識的に化粧を敢えて拒絶するという女性の中には、女性だけが化粧をしなければならないジェンダーやカルチャーは男女差別的であると思うような人もいるだろう。

近代的な都市化・市場化・マスメディア化及び女性の労働者化(女性の社会進出)が、女性ジェンダーのライフスタイルや価値観の中に『化粧品の必需品化』を持ち込むのである。このことは、戦後日本の近代化のプロセスを遡るまでもなく、現代の中国において都市化が進むほどに日本の化粧品メーカーの売上が上がっていること(今まで化粧をしなかった農村部の女性でも都市に出てきて働くようになると、化粧を必需品として購入し始める+メディア・都市のカルチャー・周囲の人の影響でおしゃれとしての化粧に興味関心を持ち始める)などにも象徴されている。

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近代的な女性ジェンダーは『見られる性としての自意識』を高め、『洗練された魅力的な自己像』を他者に見せたい(できるだけ外見的な欠点を見られたくない)という無意識的な動機づけを高めている。更に近年では男性もまた女性と同様に『見られる性としての自意識』を高めやすくなっており、一部で化粧をする男性が出てきたということもあるが、髪型・ファッションをはじめとして『(最低限の身だしなみのレベルを超えて)洗練された魅力的な自己像』を見せようとする若い男性は増加傾向にある。『他者から自分の外見・容姿がどのように見られているか』を気にしやすいという社会的・文化的・性的なコンテクストでは、現代は女性ジェンダーと男性ジェンダーの差異が縮小している時代とも言えるだろう。

なぜ人(女性)は化粧をするのか?2:鏡像・化粧・共感とミラーニューロン

男らしくない男が増えたとか、女らしくない女が増えたとかいう意見も多いが、現代の都市文明はジェンダーフリーが進展すると同時に、『化粧・髪型・ファッション・エステ・美容整形』などをはじめとして他人から自己像を良く見られたいという『ビジュアリティーの時代』としての様相を強めてきているように感じられる。かつては男性ジェンダーでは特に『外見より中身が大切・男は見かけより甲斐性(男は見てくれではなく社会経済的な実力で勝負するもの)』とされてきたのだが、近年は男性の平均所得の低下や雇用環境の悪化で『男性が女性を扶養するという前提』が崩れやすくなり、その結果として『見られる性としての男性の外見的魅力の需要』も高まっている。

ウェブでは様々な恋愛のシチュエーションや男女関係のコミュニケーションの是非について、『ただしイケメンに限る(外見が良い男性でなければ通用しないやり方だ)』といった自虐的な定形のフレーズが用いられることもあるが、外見至上主義の女性ではなくても、昭和期と比較すれば『生理的嫌悪を感じない程度の外見の水準(男性に求める最低限の身だしなみと外見的に受け容れられる水準)』が上がってきている傾向が見られる。現代では男性もまた『見られる性としての自意識(女性から自分の外見を値踏みされるという不安感・緊張感)』を持たざるを得ない状況・評価が増えており、勉強・仕事だけを頑張ってさえいれば容姿・ファッションなどは二の次で良いという価値観が通用しづらくなってきていることは確かである。

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そのことが、『他者のまなざしに対する構え・準備としての化粧』が必ずしも女性ジェンダーに特有のものではなくなってきた現象とも相関しているのだろうが、日本や欧米のような男女平等化が進む平和で豊かな時代においては『戦闘・労働・妻子扶養に最適化してきた旧来的な男性ジェンダー』は次第に衰えていきやすい。社会的・経済的な実力における男女の格差(家庭で扶養されることによる女性の心理的な引け目・立場の弱さ)が縮小してくれば、男性だけが女性の外見(美しさの水準)を評価するというカルチャーも変質せざるを得ない。

芸能人のアイドルやモデルに憧れるような男性に見かけの良さを求める女性の心理が、あまり隠されることなく実際の社会生活・男女関係にも持ち込まれやすくなってくるが(特に若い時期の恋愛では女性も男性に自分と同等の外見的魅力や気遣いを求める傾向は強いが)、男性は元々化粧をする女性のようには自分の自己像を綺麗に整えて見せる方法・文化に馴染んでいない。そのため、ジェンダーフリーや男女の経済力の平準化の過渡期にある現代の日本のような国では、かつて女性が『女性の外見ばかりを気にする男性に対する不満・不安・緊張』を抱えていたように、今度は男性が『男性の外見ばかりを気にする女性に対する不満・不安・緊張』を鬱積させやすくなる。『外見より中身を見て欲しい』というのは男女共にある心理ではあるが、今までのジェンダー差別では女性側に圧倒的に『見られる性としての心理的重圧感(化粧の慣習化の前提条件)』があり、その重圧感の何割かが今度は男性側にも向けられ始めたという見方もできる。

女性がなぜ化粧をするのかというそもそもの生物学的理由(歴史的な原点)は、外見が美しい女性のほうが社会経済的に強い男性に選ばれやすく、生存適応(生殖適応)の上で有利だったという『進化論的な性選択』に還元されるのだろう。しかし現代では、『自分自身のための化粧(自己評価・自信を高められる自己像を作るための化粧)』という自己愛・自尊心と関係する動機づけのほうがむしろ強まっていて、異性のまなざしや社会的なマナーを抜きにしても、自分にとって望ましい(綺麗・美しい・欠点が見えにくい等)と感じる自己像へのこだわりから化粧をすることも多いのである。

脳機能の水準の観点からすると『化粧をするという行為』は相当に高度なものであると同時に、類人猿をはじめとする他の動物にはまったく見られないという意味で、『鏡像を見る自意識(他者のまなざしの意識化)+自己の客観視の能力』を持つヒト(人間)に固有の行為でもある。構造主義の精神分析家のジャック・ラカンは、鏡に映る鏡像を通して統一的な自己像の確立をする時期を『鏡像段階(生後6~18ヶ月)』と呼んだが、鏡像を見ている時の人間の脳では『ミラーニューロン』が発火(活性化)しやすくなっているとされる。

ミラーニューロンというのは、他の個体の行動を見ている時に、まるで自分自身が同じ行動をとっているかのように反応する脳神経細胞のことであり、他者の行動を映す『鏡』のような役割をしていることからミラーニューロンと命名された。他人がしている行動を見て、自分がその行動をしているかのようにミラーニューロンが活性化することから、『共感(エンパシー)・シミュレーション・模倣学習(言語・技術の学習)・客観視』などの脳機能を担っていると推測されている。ミラーニューロンが実際にどのような神経回路を形成しているのか、どのような心的機能を生み出しているのかについては、現時点の脳科学で実証的に解明されていることはほとんどない。ただ他者の行動・発言を見ると、まるで自分がそれをやっているように(話しているように)神経細胞が反応するという特性をミラーニューロンが持っていることだけが分かっている。

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そのことから、他者への共感(他者の意図の推測)を可能にする『心の理論(他者の内面を理解する心的能力)』、他者の言動を客観的に観察して脳内でシミュレーションする『模倣学習(観察学習)』にミラーニューロンが何らかの形で相関していると合理的に推測されているということである。『化粧をする行為』は、他者から見られている自己像を意識する行為であると同時に、社会(他者との関係)においてどのような自己像を見せたいのかという“自己呈示”の問題でもある。

化粧をきちんと時間をかけて念入りにするという人は、そうでない人と比べて『鏡像(自分)を見ている時間』が恐らく長いわけだが、その意味では『自意識過剰(人から悪く見られたくない・人から良く見られたい等の心理が強い)』だとも言える。時に、電車内だとか人前だとかで女性が化粧をするのはマナー違反か否かといった議論がされることもある。パブリックな場面で化粧をする女性を嫌う人の心理には大きく分けて、『女性が技術的に外見を変えているプロセスを見せられたくない恥じらいを持つべきという心理(女性が自分を綺麗に見せようとして努力している舞台裏を堂々と見せるべきではないという心理)』と『周囲の人がまるでそこにいないかのように化粧する態度が不快という心理(儀礼的無関心に違背して自分を含む他者を軽視しているように感じる)』とがある。

『周囲の人がまるでそこにいないかのように化粧する態度が不快という心理(儀礼的無関心に違背して自分を含む他者を軽視しているように感じる)』については、『電車・バスの中における携帯電話の通話はどうして迷惑に感じるのか?儀礼的無関心とマナー違反』の記事で過去に詳しく説明している。現代人はそれ以前の時代を生きた人間と比べれば、化粧に限らず明らかに自意識過剰(他者に自分の像を認められたい欲求が過剰)な人の割合が増えているだろう。化粧をする女性だけではなく、男性もまた『鏡像を見る時間・頻度』が増えやすい傾向がある。

男女共に自分の鏡像を見て化粧を直したり髪型を整えたり、肌の状態を見たり、服装のチェックをしたりということに、前近代の社会・文化に生きた人よりも多くの時間・労力を費やしがちだということだが、これはミラーニューロンが発火する頻度が増加していることも意味する。鏡に映る自己像(化粧をした自己像)を見ている時にも、ミラーニューロンが発火して活性化すると言われているが、特に化粧をしている時の人はミラーニューロンが活性化していて、『自分を見ている状態』でありながら『他人を見ている状態』にもなっている。

鏡に映る自己像を観察して、その自己像を他人にとってもより望ましいと感じるであろう見かけに近づけていくのが『化粧をする行為』である。化粧をする行為でミラーニューロンが活性化するということは、より『自己の客観視(不特定多数の他者が自分をどう見るだろうかの想定)』がしやすくなっていることを意味するが、鏡像を最大限に活用して行う化粧は、『他者のまなざし』を自分の脳内で再現して自己像を整えていく高度な社会的作業でもあるのである。無論、厳密には(他人からどう見られたって気にしない)自分にとってだけ望ましい自己像を作る化粧だとか、かつてのガングロのように共通文化圏(美的感覚が似ている仲間内)だけで望ましい化粧の方法だとかもあるが、一般的には女性の化粧は『他者のまなざしの想定』をした上で『より望ましい適応的な自己像(より人から受け容れられやすい綺麗な自己像)』を作るための行為としての側面を強く持っている。

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鏡像を見ながら化粧をする(自己像をより望ましい方向へと念入りに整える)という行為には、『自己愛の強さ』もあるだろうが、それと同時に『社会的知性の高さ』もある。化粧の行為に反映される社会的知性の高さというのは、『不特定多数(社会環境にいる他者)からのまなざし』を想定して、不快・不潔な自己像を呈示しないように十分に注意しているということであり、無意識的にせよ化粧をした自己像を他者がどのように見るかというシミュレーションが出来ているということである。『他者にどう見られているかの意識』が常にあるということでもあり、『他者に心地よい印象を与えたい(それは自分が認められたいという承認欲求でもあるが)』という配慮・気配りによって社会適応性も高まりやすいというメリットもある。

反対に、全くといって良いほど鏡を見ない人(自己像のチェックや修正を一切しない人)は、確かに自己愛(自意識の過剰性)も弱いかもしれないが、それと同じくらいに髪がボサボサになっていたり鼻毛が出ていたり目やにがついていたりといった最低限の身だしなみの部分さえも疎かになりやすい(その結果として他者に不快・不潔な外観の印象を与えて社会的な評価・適応を下げかねない)というデメリットも生じやすい。

元記事の執筆日:2016/01/15

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