雑談(会話)が上手な人と下手な人はどこが違うか1:コミュニケーション能力と相手への関心,雑談(会話)が上手な人と下手な人はどこが違うか2:話題を広げるアクティブ・リスニング

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雑談(会話)が上手な人と下手な人はどこが違うか2:話題を広げるアクティブ・リスニング


理想と現実のギャップをどう埋めるか1:断念の術(運命の受容)からの前向きな生き方


理想と現実のギャップをどう埋めるか2:ありのままの自分・現実から始める


なぜ人は“自己正当化と他者非難(他者否定)の認知”に陥りやすいのか?:他人を非難する心理的メリット


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雑談(会話)が上手な人と下手な人はどこが違うか1:コミュニケーション能力と相手への関心

現代社会では、自分一人で何かを知っていたり何かをできたりする能力・技術と同等以上に、他人に何かを伝えて同意してもらったり他人と良好な人間関係を作ったりする『コミュニケーション能力』が有効な場面が増えていると言われます。コミュニケーション能力の重要性が高まっている一方で、『反応が予測困難と感じる他人との会話・雑談・交渉・営業(売り込み)』などが苦手でストレスになる、自分は『コミュ障』だからあまり人と用もないのに話したいとは思わない(よく知らない人と何を話したら良いか分からない)という人も多くいます。

ウェブが社会に普及してSNSで日常的に友人知人とやり取りしている人は増えていますが、『仲間内・同世代でのおしゃべり』は好きで得意だけど、『親しくない人・異なる世代での雑談・世間話(仕事上で必要になるちょっと気の利いた会話・相手をもてなして楽しい気分にするおしゃべり)』みたいなものは嫌いで苦手という人もいるかと思います。他人とのコミュニケーションというのは面白くて楽しいこともあれば、難しくて不快になるだけのこともあるわけですが、『家族・親友・恋人のようなごく近しい親密な相手』『ちょっとした知り合い・ほとんど知らない人・仕事上の付き合いがある人』とでは、“相手・状況・目的にふさわしい効果的なコミュニケーションの取り方”は変わってきます。

家族・親友・恋人のように相手との距離感が極めて近かったり、家族(配偶者・子)や親兄弟のように生活環境・利害関係を共有していたりすると、『安定感(安心感)のある楽しいコミュニケーション』が増える一方で、『本音と本音(お互いの利害・役割・将来の計画など)がぶつかり合う激しいコミュニケーション』『自分が相手を動かそうとする(相手から自分が動かされる)と感じるコミュニケーション』も増えやすくなります。コミュニケーション能力の面白い所というか個別的な所は、『雑談・会話・世間話』一つを取ってみても、『距離感が近ければ近いほど気楽で楽しい』という人もいれば、『少し距離感が開いているくらいのほうが気楽で楽しい』という人もいるということです。特に近しい人間関係にある人から何かを強く期待されたり干渉されたりしていて、それに上手く応えられない(応えたくない)という人にとっては、近しい相手とのコミュニケーションは苦痛なストレスにもなりかねません。

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例えば、親が子供の顔を見る度に『勉強しているか・宿題は済ませたか・塾にはちゃんと行ったか』という話ばかりしていれば、その子供は親と話すのがかなり嫌になるでしょう。概ね思春期・青年期の時期に、親子間のコミュニケーションがこじれるケースでは『勉強・進学・恋愛・就職・結婚』などについて上手くいっていなくて悩んだり迷っている子供が、親から『そんなことではダメだ・もっとこうしなさい・他の子はもっとちゃんとやっている・何で誰でもできていることができないのか』といった批判的・干渉的な言葉を掛けられて、相手が望むような行動ができないことを負担・苦痛に感じてどんどん話したくなくなるということがあります。

こういった相手の現状を批判してどうにかして変えようとする型のコミュニケーションは、『相手のこと(相手の将来)を心配しているケース』『自分の見栄・利害を気にしているケース』とがありますが、相手の性格・行動のすべてを否定してかかるような干渉の仕方だと逆に相手の抵抗・反発を強めて上手くいかないことも多くなります。また、親子や夫婦、恋人、親友などのごく近しい関係にある相手を除いては、『相手の現状を肯定してもっと話したいと思ってもらう型』『相手の興味関心・承認欲求に合わせた質問をしながら話題を広げていく型』コミュニケーションのほうが効果的です。

家族や恋人のようなよく知っている相手とのコミュニケーションは『会話の内容そのもの』よりも『相手への信頼感・安心感』『実際の行動・役割』のほうが重要になってくるので、極論すれば一定以上の近しい距離感で親密な人間関係ができあがっていれば、『何を話題にして話すか』は(相手の嫌がることやコンプレックスになっていることを敢えて言うなどしなければ)大して重要ではなくなります。プライベートで親しくしているほどではないちょっとした知人や仕事上の関係がある相手(営業先の顧客等)との『雑談・世間話』が苦手という人は多いですが、雑談の苦手意識を無くすための基本的な考え方は『自分が話したいこと・知っていること』を中心にして面白く話そうとするのではなく、『相手が話したいこと・興味関心のあること』をどういった質問・態度で引き出していくかのほうが大事だということです。

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雑談(会話)が上手な人と下手な人はどこが違うか2:話題を広げるアクティブ・リスニング

雑談(会話)が上手な人というのはどんな人かを考える時に浮かんできやすいイメージとして、『話題の引き出しが多くてどんな話題にもついていける人』『自分の体験・知識・発想を元にして面白おかしく話ができる人』『あまりしゃべらずにうんうん頷いている聞き上手な人』というものがありますが、これらのイメージをあまりにストレートに受け止めすぎると、独りよがりな会話スタイルにはまり込んでしまうこともあります。一般的な雑談の会話は、話し手と聞き手が綺麗に分かれて行われるものではないし、まして講演・お笑い(漫才)のように『聞いてためになる話・聞いて面白い話』をオーディエンス(聴衆)に聴かせるような形で行うものではありません。

この人と会話すると楽しいな、話すと気分がすっきりする、また話してみたい人だななどと思われる人は、『自分が話したいことを上手く面白く話せる人』ではなく『相手が話したいことを上手く引き出せる人』であることのほうが多いのです。『話題の引き出しが多くてどんな話題にもついていける人』は確かに雑談(会話)が得意な人に分類されやすいのですが、相手の興味関心・気分を無視して次々と色々な話題を切り替えて広範な知識・情報を披露するような会話のスタイルだと、よほど勉強好き(雑学好き)な人が相手でもない限り、聞くのに疲れてしまう人が多いでしょう。

『自分の体験・知識・発想を元にして面白おかしく話ができる人』というのも、確かにその人しかしていないような体験談を聴いたり、役に立ったり面白かったりする話題を聴くことで勉強になって感嘆させられるのですが、人間の多くは『自分のことについて話したい欲求(認められたい欲求)』があるので、一方的に聞き役に回るばかりの雑談(会話)を好む人はやはり少ないのです。たまに会うだけの先生や権威者のありがたいお話を拝聴するのであればそういった会話のスタイルでも良いのですが、相手から進んでその人と話したい(また会いたい・交流を深めたい)と思って貰えるような、プライベートな関係で好まれる会話のスタイルではないわけです。

『あまりしゃべらずにうんうん頷いている聞き上手な人』というのも誤解されやすい話し上手な人のイメージなのですが、典型的な誤解に基づく反論として『黙ってただ聞いているだけだとお互い沈黙して気まずい』『相手が話さない性格の人だと聞き役に徹そうとしても何も話してくれない』というようなことも良く聞かれます。『聞き上手』というのは、ただ黙って突っ立っていればいい、相手が何か話したらうんうん頷くか『そうなんですか』と返事をすればいいというわけではなく、正確には『相手の話したいと思う話題や話そうとする気持ちを広げていくのが上手な人』のことです。受動的かつ一方的に何も話さずに聞くのではなく、『相手の興味関心に合った質問・反応・共感』を適切なタイミングと話題の深さで示せるような人が本当の意味での聞き上手なのです。

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自分が雑談(会話)をしていて楽しいと感じたりもっとこの人と話したいと思ったりするのはどんな時かを振り返ってみれば、『相手が自分に対して前向きな興味関心を示してくれている時』であり『相手が批判的・攻撃的ではなく共感的・受容的な態度を見せてくれている時』であることが大半だと思います。雑談(会話)が上手い人というのは『相手の話したいと思う話題や話そうとする気持ちを広げていくのが上手な人』と言いましたが、反対に会話が下手な人というかこの人と雑談(会話)していてもあまり楽しくないと思われやすい人というのは『相手の話したいと思う話題を否定したり無関心な反応を返す人・相手が話そうとする気持ちを折ってしまう人・相手を認めなかったり褒めなかったりする人』ということになります。

例えば、『釣り』に興味のある人が、先週どこかの沖合いに早朝から船を出してもらって釣りをした話をしてきたとします。雑談が上手な人は、自分が今まで釣りをしたことがなかったりあまり興味がなかったとしても、『相手が話したい釣りの話題』に興味を示して、話題が広がったり話を続けやすくなったりする適切な質問をすることができるのです。反対に、雑談が苦手な人というのは、『自分がしたことのない趣味・あまり興味のない話題』になると、突然言葉が少なくなったり無関心になって面白くなさそうな表情が出たり、まったく関係のない自分の話したい話題に切り替えてしまったりします。

釣りをしたことがなくてもあまり興味がなくても、相手が釣りをしてきたと言えば、『どこに釣りに行かれたんですか・この近くだとどこら辺が釣りのスポットになるんですか・早朝だと今の季節は寒くて防寒対策とか大変そうですね・どんな魚が釣れるんですか・今までどのくらいの大きさの魚を釣りましたか・釣りたての新鮮な魚は美味しいでしょうね・どんな餌や道具を使うんですか』など、いくらでも相手が話を続けやすくなる質問をその場で考えつくことができるはずですが、会話の苦手な沈黙しやすい人になると『そうなんですね』『釣りはあまり知らなくて』の一言だけで会話が切れてしまい、相手の方もこの人は釣りにも自分にも興味が全くないんだなと感じて話す意欲が挫かれてしまうわけです。

もちろん、取引先の顧客であるとか自分が好きな相手であるとかで『相手から自分を気に入ってもらいたい状況(相手との良い人間関係を作っていきたい動機)』があるかないかでも雑談(会話)に対するスタンスは変わってきますし、『相手の話したい話題』だけに一方的に付き合わなければいけないという話でもありません。 しかし、社会人として誰とでもそれなりに話せる望ましいコミュニケーション能力の水準として、『相手の興味関心・話そうとしている内容』にある程度まで合わせて楽しく会話のやり取りができるということはあるかもしれません。釣りの話題の例示は、『相手の話したいと思う話題を否定したり無関心な反応を返す人』や『相手が話そうとする気持ちを折ってしまう人』に当てはまってきます。

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釣りに限らず、登山であれば『何でわざわざきつい思いをしてまで山登りするのか分からない』と返したり、読書であれば『自分は本なんて全く読まない、実際に経験したことだけで十分だ』と返したりすることで、相手の話そうとする意欲・意志がくじかれやすくなってしまうわけです。聞き上手な人は、『相手の話題(相手の話す意欲)を広げていくような質問』を臨機応変に繰り出すことができる人でもありますが、釣りの話題の例で上げたように基本的には相手が話してきた話題の内容について『もっと詳しく教えて欲しい・どんな種類や魅力(面白さ)があるのか教えて欲しい・話を聞いて自分にも感動や面白さが伝わってきた』というスタンスで質問をしたり反応を返したりすることによって、相手は自然にもっと話したい(この人は話を聞いてくれるし気が合う)という気持ちになりやすくなるのです。

『相手を認めなかったり褒めなかったりする人』も雑談(会話)が苦手な傾向がありますが、『相手の趣味・活動・意見・価値観』などに対してまず否定・批判から入ってダメだし(無関心の表明)をしたり、とにかく肯定的に評価したり褒めたりすることがない人(他人が楽しんでいること・話したいことにハナから乗ってこない人)というのは、『相手の話したい意欲・相手が関係を持ちたいという感情』に冷水を浴びせているようなもので、よほどの利害関係でもなければ一度話した人からまた話したい(また会いたい)と思ってもらえないことが多いのです。見え透いたお世辞やご追従まで言う必要はありませんが、相手の趣味・活動に対しては『面白そうですね・楽しそうですね・深めれば深めるほどに熱中しそうですね』などの肯定的な評価を示し、議論・討論をするような場(どうしても同意できない価値観)でなければ相手の意見・価値観に対しても特別な反論や批判をする必要はないわけです。

コミュニケーションスキルの高い人といえば『聞き上手な人』と言われやすいですが、聞き上手な人の話の聞き方はカウンセリングやコーチングでは『アクティブ・リスニング』と呼ばれることもあるスキルであり、積極的に相手の話を聞きながら相手の話す意欲を引き出すための『質問・解釈・要約・共感』ができているということを意味しています。一般的な雑談(会話)だけではなく、営業成績が良くて顧客から信頼されている(指名されて買われやすい)やり手の営業マンも、アクティブ・リスニングという概念や技法を知らなくても、自然な経験則としてアクティブ・リスニングの応対ができていることが多かったりします。

特に個人の顧客を相手にしたBtoCの営業では、『雑談(会話)の上手さ』があるかないか、『顧客の話したい話題を聞ける反応・態度』があるかないかで、顧客からの信用・評価(結果としての売上)が大きく変わってくることも珍しくありません。相手から好かれる雑談(会話)も、単純な暇つぶしを超えた人間関係・信頼感のとっかかりとして役立つことがあるということですが、職種・営業相手によっては『アクティブ・リスニング』が自分の仕事上(人事上)の成績評価に直接・間接に関わってくることもあるでしょう。

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理想と現実のギャップをどう埋めるか1:断念の術(運命の受容)からの前向きな生き方

人の自己肯定感や挫折感にまつわる悩みは『理想自我』『現実自我』のギャップから生まれることが多い。“かくありたい”と願う理想自我と“こうである”という現実自我との落差が大きければ大きいほど、自己肯定感が低下して挫折感や空虚感が強まってしまうわけだが、結論からいうと人は現実の自分と理想自我を完全に一致させることはどうやってもできない。カウンセリング(心理療法)の目標の一つは『ありのままの自分(偽っていない強がっていない自分)』を受け容れることであると言われることが多く、精神分析の目標もまた『現実原則に適応できる自我(現実自我)』を強めることだとされている。

S.フロイトは『断念の術さえ心得れば人生も結構楽しい』とか『運命に従順であれば人生の苦難に耐え得る』とかいう主旨の言葉を残しているが、フロイトの神経症のケースワークもまた『断念しきれない反道徳的な性妄想(関係妄想)への無意識的な執着』が原因になっていた。理想自我はどうやっても実現できないとか、断念の術を心得れば楽しいとか、運命に従えば苦痛は和らぐとかいうと、『夢・向上心(目標達成の意志)』を無くした後ろ向きのネガティブな言説のようにも聞こえる。だが、ここで言っているのは『どうやってもほとんど不可能な理想自我・完全主義への過度のしがみつき』が、結果として自己否定感を強めて不幸になってしまうということなのである。

理想自我・完全主義への過度のこだわりは『劣等コンプレックス(他者に対する競争的な優越欲求・自己の特別視)』の裏面であり、『今・ここにいるありのままの自分』の否定でもある。今の自分のままではダメだ、もっと高いレベルの目標を達成したり、自分の望む他者との関係性を作ったり(望む他者から好かれたり認められたり)、社会経済的な成功を収めたりしなければならないというのが理想自我・完全主義へのこだわりである。この種の承認・支配の欲望は切りがないのと同時に、他者を仮想敵と見なす図式によって孤独な心理状態(親密な助け合える他者などいないと感じる心理状態)にも落ち込みやすいのだ。

理想自我と現実自我のギャップが大きくなればなるほど、『今の自分が持っている性格・仕事・人間関係』が矮小で無意味でつまらないもののように感じられてくる、完全主義欲求が強くなればなるほど、『今達成できている仕事・役割・ポジション』がまだ本来の自分の実力に照らして不当に低いもののように思えてしまう。こういった不満足感や未達成感は確かに『向上心・進歩欲求』の原動力として機能することもあるが、『どう頑張っても達成できそうにない理想・夢・完全主義』に一定の限度(試行錯誤・努力継続の結果)を超えてしがみつき続ければ、たいていの人はやはりいずれは自信・自己肯定感を低下させて不幸(不遇)な身の上をかこつことになってしまう。

子供の可能性は無限大だとされ、人生に夢・理想を持って生きなければならないと教えられる現代人にとっては、『努力すれば人間(私)に不可能なことなどない・諦めなければまだ可能性は残り続ける』というのはなかなか簡単には捨てられない現代の自己愛肥大(仮想的な全能感)ともつながりやすい基本的信念(一般的な認知傾向)なのである。しかし、本人の才覚・能力・適性によって個人差はあるが、努力や工夫をすれば実現の可能性があることと努力や工夫をしてもどうしても及ばない現実との違いは厳然としたものとしてやはりある。私たちは頑張ればどんな非現実的な理想・目標でも達成できるスーパーマンではないし、潜在能力をフルに発揮し続けて最大限の幸運を掴み取れるほどに恵まれた人もわずかひと握りの人だけだろう。

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理想と現実のギャップをどう埋めるか2:ありのままの自分・現実から始める

使いきれないほどに稼ぐお金持ちになりたい、ずば抜けた性格も良い美人(イケメン)から好かれて一緒になりたい、一流のプロスポーツ選手(ノーベル賞受賞者・人気アーティスト・有名作家等)になって富と名声を得たい、首相や大企業の社長などに出世して権力を得たい、見た目も能力も地位もどこにも隙がなくて大勢の他人に認められる人でありたいなどという理想は、そこに自分の能力・適性・幸運の積み重ねがあって、具体的なプロセスをどう進めていくかのロードマップができていない限り、『非現実的な夢・理想』であり、そこにしがみついて進展のない努力を続けてもほぼ無意味なのである。

一定の年齢になれば、大多数の人はあからさまに非現実的な夢・理想は掲げなくなっていき、現実の自己像や能力・適性の上限を受け容れて、『今・ここにある現実自我』から見て可能な仕事・相手・状況の目標にチャレンジしていくようになるが、自己愛や競争心、劣等コンプレックスを肥大させたりこじらせてしまうと、『現実自我を見失った理想自我』に執着することによって、現実への適応を失ってしまう病的状態になりやすくなる。 現実自我と理想自我のギャップを『今の自分にできること』を基準にして埋めていく方向に努力をせずに、『現実の自分・他者・状況の否定や非難』の方向に認知的・行動的な努力をしてしまうことで、自己評価も自信も低下して、(理想とかけ離れている・何もかも思い通りにいかないと感じる)自分も他人も社会も嫌いになってしまう不利益も大きくなってしまうのである。

あるいは、理想の水準を満たせる卓越した能力・魅力・地位を持つ自分(他人から大いに認められたり尊敬されたりする自分)になれないのであれば意味がない、理想の魅力的な他者(異性)と親しくなれないのであればすべて不本意な妥協の付き合いであるという認知の歪みにはまりこんでしまう。こうなってしまうと何をやっても人生は楽しくないし、誰と付き合っても相手との時間を充実させられない、『今・ここにある現実の自分』をすべて自分で否定して認めていないのだから、常に欲求不満と自己否定に苦しめられることになる。理想が実現できないならこれ以上頑張っても仕方ないという『白か黒か(0か1か)の二分法思考・価値引き下げの認知的不協和』によって、自分が何も前向きに努力しないことを自己正当化してアパシー(意欲減退症候群)になってしまいやすいのである。

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現実社会で生きている大多数の人々を見渡せば、実際には『想像上の理想からはかけ離れている自分』であっても『昔の夢からは遠い状況』であっても、自信・自己肯定感を持って日々を充実させたり幸福を実感して生きることは十分に可能である。ただ可能であるというよりも、人間は『今・ここにいるありのままの自分』『今の現実自我で生きている自分を認めてくれる他者・状況』を認めない限りは、幸福・自己肯定感を率直に実感することは相当に難しいことなのである。

今の自分は本来の素晴らしい自分ではなく、本当であれば自分はもっと凄い業績・成果や魅力的な人間関係(もっと素敵なパートナー)をもてているはずなのにと思っていて、幸せで充実していると感じられる人などいるはずがない。今・ここにいる自然体のありのままの自分を否定すれば惨めな落ち込んだ気分になりやすい、目の前にいる配偶者や恋人・友人の価値を勝手に引き下げて(まだ親しくはしていないが自分に好意を持って近づいてくる人をこんな人は自分には釣り合わずつまらないと一方的に否定して)、本当はもっと凄い人物や魅力的な相手が自分にふさわしいはずなのになどと自惚れていては、周囲から人が離れて遂には孤独感・疎外感に苛まれるだけである。

何でも人並み以上にできて卓越した業績を残せる超人(スーパーマン)を目指したり、誰もが振り返って見るような容姿端麗でロマンティックな雰囲気のある白馬の王子様・深窓の令嬢のような特別なパートナーを追い求めたりするような生き方が悪いわけではないが、そういった夢・理想が現実のものとして実現できるかどうかを判断すべき年齢・状況もまたあるということである。更に言えば、先ほど書いたようにそういった人よりも優れていることや人よりも素晴らしいものを持っていることといった『競争的・優越コンプレックス的な幸福感』は一般的な幸福の本質とは何ら関係がない。

『さまざまな面において人よりも優れていなければならない・自慢できるような(恥ずかしくないような)ステータスやパートナーがいなければならない』といった思いの強さは、劣等コンプレックスの強さ(他者と競い合って屈服させないと幸せだと思えない弱さ)とも相関しており、『自分にとっての真の幸福・目標・楽しみ』を見つけきれていない、自分よりも劣った人を見つけないと気持ちが落ち着かないアンバランスな心理状態でもある。

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なぜ人は“自己正当化と他者非難(他者否定)の認知”に陥りやすいのか?:他人を非難する心理的メリット

さまざまな人間関係で喧嘩や対立が起こる時には、お互いが『相手に責任がある・自分は悪くない・相手が謝罪すべき・自分からは何もしなくて良い・相手は物事の道理が分からないバカである・自分は状況や物事をしっかり理解している』という“自己正当化と他者非難(他者否定)の認知”にはまりこみやすい。競争社会やスピード社会の現代では、交通事故で先に謝ったら自分側の責任を認めたことにされかねないから謝らないほうがいいとか、相手の言い分を認めて弱気・受身で接しても損をさせられるだけだとかいった考え方も広まっている。自分の正しさを主張し続けて、自分を曲げないことや相手をやり込めることがメリットになると思っている人もいるが、それ(自分の正しさ・利益への固執)が親密な人間関係にまで適用されてしまうと、こじれた関係の改善は著しく困難になるだろう。

“自己正当化と他者非難(他者否定)の認知”にはまりやすい時代要因的な下地もあるが、親密な人間関係でこの認知を変えられなければ、最終的には『憎悪(嫌悪)・別離(離婚)・絶縁』につながってしまうことが多い。多くの人が自分を殊更に否定したり非難してくるような“モラハラをする相手”と長く付き合いたいとは思わないからであり、“自己正当化・自己主張の譲らない応酬”を繰り返すような日常の関係に疲れきってしまって、それならまだ一人でいるほうがマシと思ってしまうからである。

家族でも恋人でも親友でも人間関係を台無しにしてしまったり、関係そのものが失われてしまうことさえあるのに、『自己正当化+他者非難(他者否定)』の対立的なコミュニケーション・パターンを取り続ける人も多い。それは本人の性格傾向や相手との相性の悪さだけではなく、自分を肯定して相手を非難・否定することにもさまざまなメリットがあるため、簡単にはやめられなくなってしまうからである。

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こういった他者を強く非難するメリットは、リアルの人間関係にだけ通用するものではなく、インターネット上において『誹謗中傷・罵詈雑言・名誉毀損・侮辱や揶揄』などを書き込む匿名者の心理的メリットにもなっていると考えられる。“自己正当化・他者非難(他者否定)のメリット”には以下のようなものがある。

1.自分の側に『正義・公正・権限』があると思い込むことで、相手に対する影響力・正しさを実感することができる。

2.相手を『悪・不正・バカ・格下』のように見下すことで、空想的な優越感や万能感に浸ることができる。

3.自分自身の責任・問題点について自覚しなくても良くなる。

4.相手を非難・罵倒して無理矢理にでも変えようとすることで、自分は今の自分のままでも良くなり変わらなくても良くなる(良くも悪くも自分を変えなくて良い気楽さや手抜きがある)。

5.激しい怒り・興奮によって、罪悪感や侮辱感を忘れることができる。

6.自分を『被害者』の位置づけに置くことで、自己憐憫に浸ったり他者の心配(同情)も得やすくなる。

7.自分を不快にさせたり傷つけた相手に対して『報復・復讐』することができ、一時的に気分が晴れる。

“自己正当化・他者非難(他者否定)のデメリット”には以下のようなものがある。

1.自分が相手を『非難(否定)』すればするほど、相手も自分に対してより『非難(否定)の度合い』を強めやすくなる。

2.相手をどれだけ非難(否定)しても、相手が自分の思い通りに動いてくれたり変わってくれたりする確率は低い。

3.相手の責任や問題点を責めてばかりだと、『欲求不満(フラストレーション)・怒り』といった不快な感情ばかりを感じてしまう。

4.人間関係の対立・不仲は、強い精神的ストレスの原因になって疲労困憊する。

5.表面的には相手を言い負かしたり変えたりできることもあるが、『親密な人間関係・打ち解けた会話』がなくなってしまう。

6.いくら相手に対する優越感・影響力を感じられても、人間関係の中で『喜び・楽しみ・感謝・親しみ』といったポジティブな感情を感じられなくなる。

7.攻撃的・不機嫌でいつも人を否定してばかり(愚痴・批判・不平不満ばかり)の自分が嫌いになったり、周囲からも敬遠されて人が離れていってしまう。

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完全に別れたいわけではない(絶縁・絶交まではしたくはない)親密な相手を思い浮かべながら、“自己正当化・他者非難(他者否定)のメリット”と“自己正当化・他者非難(他者否定)のデメリット”を落ち着いて比較した場合には、ほとんどの人がメリットのほうが上回るはずである。仮にデメリットのほうが上回っていて、どうしても相手を否定したり非難したり罵倒したりしてやり込めたい、自分よりも間違っていて劣った人間なのだと認めさせて、自分の価値観や言い分のままに相手を変えていきたい(自分が正しくて相手が間違っているという基準は絶対に変えない)というのであれば、その人間関係は険悪で対立的な状況が続くことになるし、遠ざからず二人の関係は破綻(絶縁)していずれ会うこと(話すこと)もなくなる恐れがある。

相手を執拗に責めたり非難したりすることを目的とした人間関係が、仮に破綻しないとしたら、『DV・モラハラ・パワハラのような不適切な問題のある関係』に陥ってしまうだろう。相手を執拗に責めたり非難したりすることを目的とした人間関係というのは、平たく言えば『相手をどうにかして変えてやろうとする人間関係(相手の側の間違い・落ち度を前提にして、正しい自分がそれを指摘・指導してやろうとする人間関係)』であり、まっとうなやり取りができる一部の親子関係・師弟関係・先輩後輩の関係を除いては、『立場・権利が対等な人間関係』では成り立たないものなのである。

対人関係の対立やトラブルを解決しようとする時には、まずは『相手の責任・問題点』に焦点を当てるのではなく『自分の責任・問題点』に焦点を当ててみて、『相手を変えようとする働きかけ』ではなく『率先して自分を変えていく認知・行動の転換』を進めていくことが大切なのである。そして、どうしても相手を批判・否定・注意したいのであれば(どうしても自分は悪くなくて相手だけが悪いと思い、自分だけ変わらなければならないことに納得ができないのであれば)、自分側がまずは変わる努力を相当期間にわたって続けてみて、それでも相手が全く変わってくれないというケースに限るべきだろう。

自分がいくら相手のために変わる努力を続けても、相手のほうが良い方向に全然変わってくれない(その兆候さえも見られない)ということで、その相手との良好な関係維持ができなくてももう良い(最悪、別れても仕方ない)と思えた時であれば、『自己正当化・他者非難の対立的なフレームワーク』でコミュニケーションをしても良いということにはなるかもしれない。

元記事の執筆日:2016/01

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