苦手(嫌い)と思った人との関係はなぜ改善しづらいのか?1:ネガティブな想像・決めつけの相互作用、苦手(嫌い)と思った人との関係はなぜ改善しづらいのか?2:他人に対する要求と自分の接し方

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苦手(嫌い)と思った人との関係はなぜ改善しづらいのか?2:他人に対する要求と自分の接し方


自己アイデンティティーと価値基準・生き方の個別性1:優劣や上下の競争にこだわる弊害


自己アイデンティティーと価値基準・生き方の個別性2:自分と他人の違いを受け容れて生きる


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苦手(嫌い)と思った人との関係はなぜ改善しづらいのか?1:ネガティブな想像・決めつけの相互作用

第一印象の良かった相手とは、会う度にその人の『長所・美点(人柄の良さ)』が目について更に好き(好意的)になっていくことが多い。第一印象の悪かった相手とは、会う度にその人の『短所・欠点(人柄の悪さ)』が目について更に嫌い(苦手)になっていくことが多い。職場・学校・地域などでの人間関係が上手くいかなくて悩んでいる人は、上のような第一印象の良さ・悪さや一度か二度話した時の相手の感じなどによって、『人間(相手)の好き嫌い・自分に合うか合わないか』を概ね決め付けてしまうことが多いのではないかと思う。

『人間(相手)の好き嫌い・自分に合うか合わないか』を決め付けて接してしまうと、なぜかそこから人間関係が上手くいかなくなったり、相手から自分が嫌われている(遠ざけられている・軽く見られている・あの人には愛想良くしても無駄である)と思い込みやすくなってしまう。それは好意(関心)を寄せられたら好意(関心)を返しやすいという『好意の返報性』、あるいは悪意(無関心)を向けられたら悪意(無関心)を返しやすい『悪意の返報性』によって、好きな人(好印象な人)はもっと好きになり、嫌いな人(悪印象な人)はもっと嫌いになるというように説明することができる。

人間関係が上手くいかないと悩んだり、気に食わないと思う相手に不満を持っている人の多くは、『相手の側に自分よりも問題(性格上の欠点)がある』と思っていることが多いもので、端的には『愛想がない・冷たい・思いやりがない・面白みがない・気が利かない・わがまま(自分勝手)・人によって態度を変える』などの好ましくない印象が固定化されているのである。『そういう苦手な相手だからこちらも明るく話しかけない・愛想良くはしない(目を合わさない・挨拶しない・親切にしない)』という、自分側の行動・態度が拒絶的なスタンスで固定することによって、『悪意(無関心)の返報性』が働きやすくなる。

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自分が嫌い(苦手)と感じている相手は、その相手のほうも自分のことを嫌っていたり苦手と思っていることが多いとはよく言われるが、それはお互いに『相手の内面・気持ち』をネガティブな方向で自分勝手に妄想して、実際よりも悪い評価で値踏みしているからである。自分が相手を実際の人間性(対人魅力)よりも低く評価して嫌っている時には、相手のほうも自分のことを低く評価して嫌っていることが多いが、それは普段目にする中でお互いの無意識的な目線・態度・発言・表情などの中に『相手の存在や価値を認めないという非言語的メッセージ』が含まれてしまいやすいからである。

社会的動物である人間は『誤解・思い込み・被害妄想』も含めて、『他者の行動・目線・表情・態度』などから『自分を軽視(無視)しているのではないか・自分を嫌っていたり遠ざけているのではないか』というネガティブなメッセージを読み取りやすい認知傾向がある。そのため、ちょっとした知り合い(顔見知り・知人くらいの相手)が『余り関心のない態度・話しかけにくいような雰囲気・笑顔がなくて厳しい表情・こちらに気づいていない振り』などを見せただけ(相手にそのつもりがなくても自分がそのように感じたというだけ)でも、自分のことを嫌っていて遠ざけているとか、自分を軽く見てバカにしているとか、話しかけたら無視されそうという風にネガティブな想像(妄想)を通した解釈(対人評価)をしやすいのである。

挨拶をしてこない相手にこちらから挨拶してたまるか、自分だけ愛想よく接するのはご機嫌取りをしているようで納得できない、いつも目線を合わせてこない相手に自分から目線を合わせて笑顔を見せるのは癪に障るなど、『意地・プライドのぶつかり合い』のような状態になると、ますます双方向的に『悪意・苦手・無関心』がフィードバックされやすくなる。無論、それ以上親しくなる必要がなくて近づきたくない相手、仕事上でも利害関係がない相手、別にそのまま何も接触しなくても大丈夫な相手なら、気に食わないと感じる相手に『無関心・無愛想・意地悪さ』といったネガティブな態度を向けて、お互いに『自分と合わない嫌な相手(苦手な相手・関わりたくない相手)だなあ』と思っていても良いのだが……仕事や学校でのつながりがある相手となると、全く無関心・無愛想を通していれば仕事(通学)がやりづらくなるし、日々の生活でストレスを感じる場面(実際的な不利益・損失・苦痛を感じる場面)が増えてしまう。

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苦手(嫌い)と思った人との関係はなぜ改善しづらいのか?2:他人に対する要求と自分の接し方

きちんと話す機会があれば、本当はそれほど嫌い(苦手)にならずに済んだ相手でも、『自分とは合わない・苦手なタイプ・表情(態度)が気に入らない・生意気で偉そう(卑屈で暗い)』というような印象を持ってしまうと、『相手の本当の性格・本音の考え方』に触れられるコミュニケーションまで敢えて進まないような態度を取ってしまう。すなわち、相手をよく知る前に『門前払い』するかのような無関心さや無愛想を見せてしまいやすいのが、人間関係が苦手な人(あるいは人見知りしやすくて人の好き嫌いが激しい人)に見られやすい対人コミュニケーションのパターンである。

基本的に『頭の中の一人相撲・一方的な決めつけ』によって、『相手の性格・態度・生き方』が自分と合わないと思い込んでしまったり、自分のことを軽視して否定・拒絶しているという風に解釈してしまいやすくなるので、余計に嫌悪感や苦手意識が強まりやすくなる。『表情・目線・態度・素振り』などによって表現される“相手(他者)の非言語的コミュニケーション”の意図をどのように解釈するのかということに、『人間関係の巧拙』『対人コミュニケーションの上手さ(ストレスの少ない関わり方・相手からのメッセージの受け止め方)』が規定される部分は多いのである。

相手がちょっと不機嫌(迷惑)そうな顔をしているように見えた、小さな声で挨拶したらこちらを見てもくれなかった、少し話しかけたら迷惑そうに答えられた、知っているはずなのに目線も合わせてくれないなど、人が人に苦手意識や抵抗感(自分に対する無関心・悪意)を持つのはささいなきっかけであることが多い。というよりも、むしろ無意識的に人は『非言語的メッセージ』を用いて、自分が親しく接したい人とあまり関わりたくない人とを選り分けていることも多いので、ちょっとした知り合いなのに敢えて話しかけない目線を合わせないといった行動によって『人間関係の取捨選択(親密化・関係の深まりか、無関心化・自然消滅か)』を行っている面もあるだろう。

例えば、大学・高校などに進学したばかりの時は、出席番号が近い人や隣の席に座っている人に何となく話しかけてちょっとした知り合いになったりもするが、同学年の色々な人と交流しているうちに、『初めに知り合いになった相手』とバッタリ会っても目線を合わせず話しかけないような距離感を取って(お互いにあまり話したくないという非言語的メッセージを察し合うことによって)、いつの間にか『知らない相手・関わらない相手(厳密には知ってるが知らないように振る舞う相手)』になってしまうことは多い。男女の恋愛関係でも、若かったり浅い交際(人間性そのものへの関心の薄い交際)であれば別れた後に、『お互いが知らない相手(初めから出会わなかった相手)であるように振る舞うこと』は少なからずあったりもする。

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こういった過去の人間関係の経験からの過剰学習(他者から拒絶・回避されるようなトラウマティックな要素も含め)によって、『非言語的コミュニケーションの察し合い』に過敏になってしまうと、いわゆる社交的な場面や職業上の付き合いにおいても『人の好き嫌い・他者への苦手意識』が激しくなりやすい。 その結果、『分かりやすい好意・関心・友好性(敵意のなさ)』を示してくれる笑顔で明るく接してくる相手としか関われない感じになってしまいやすいのである。人の好き嫌いが特別激しいとか、大半の人は自分と合わないとか(職場も社会も気に食わない人ばかりだとか)、極端に人見知りで他人が怖いとか、人と関わると嫌な思い(悔しい思い)ばかりさせられるとかいう人は、『自信のなさ・自己評価の低さ・不信感の強さ』だけではなく『相手の性格や気持ちの想像上の決めつけ・他人に対する要求水準の高さ・良くしてくれるのが当たり前という前提』がそういった苦手意識や不平不満の原因になっていることがある。

確かに、本当に自分のことを嫌っていたり煩わしく思っていたり迷惑に感じている人が、意識的・意図的に『これ以上関わってこないで欲しいという非言語的コミュニケーション(あるいは拒絶のメッセージ性のある重い不快な空気の醸成)』をしていることもあるのだが、良くも悪くも大半の人は他人にそこまでの強い興味関心(強い好意や悪意)はないものであり、日常的な仕事のやり取りや雑談くらいであれば『相手の態度・表情・愛想(接しやすさ)のレベルや内容』に応じた対応を取ってくることのほうが多い。自分が接しにくいと感じる相手、自分がわけもなく苦手意識を感じる相手には、確かに『性格的・雰囲気的(フィーリング的)な相性の悪さ』がそこにある場合も少なからずあるかもしれない。

だが、社会人・職業人・ちょっとした知人としてそつのないコミュニケーションを取る目的があるのであれば、『自分がまず笑顔で明るい雰囲気を作る・自分からその場で必要な話しかけ(話し合いの持ちかけ)をする・相手が接しやすい表情や態度でいることを心がける』だけでも、かなりお互いに対する印象が改善されて人間関係や対話のとっかかりが出来やすくなるのである。人間関係の苦手意識や他人への嫌悪感というのは、『自分が相手から良くしてもらって当たり前(明るく機嫌よく接してもらって当たり前)』とか『相手のほうから挨拶や声かけをしてくれれば良いのに(相手が接しやすい雰囲気づくりに配慮してくれればいいのに)』といった他者に対する要求水準の高さが災いしていることも多いので、『相手にして欲しいこと(相手がしてくれないから気に入らないと思うこと)』を自分の側から積極的にやってみて、相手の反応・真意を確認してから考えたほうが良いのである。

他者から愛されたり認められたりすることばかりを目標にして、自分を演技的に偽り続けても心身のバランスを崩しやすくなるが、かといって『相手から好ましくない人間性だと決めつけられやすいネガティブな表情・態度・話し方』をしていれば、人間関係だけでなく職業活動・社会生活の上でもデメリットが多くなってしまう。『相手の善意・好意・受容』ばかり一方的に期待してそれが得られないからとがっかりするのではなく(勝手な想像で相手の人柄を否定的に評価するのではなく)、『自分にできる範囲での話しかけ・笑顔・もてなし』などを少し意識してみるだけで、ちょっとした人間関係やコミュニケーションのストレス・苦手意識はかなり和らいでくるように思う。

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自己アイデンティティーと価値基準・生き方の個別性1:優劣や上下の競争にこだわる弊害

精神分析家のE.H.エリクソン(1902-1994)が、社会的精神発達論で掲げた青年期の発達課題として『自己アイデンティティーの確立』があります。自己同一性や自己確認などと訳される自己アイデンティティーには、自分が社会においてどのような役割(仕事内容)を果たすか、他人から自分がどのような社会的存在として見られているかという“社会的アイデンティティー”だけではなく、他人と交換できない唯一の自分の存在や人生をどのように認識して実践していくかという“実存的アイデンティティー”の側面があります。

社会的アイデンティティーには『競争・比較・上下関係・優劣コンプレックス』などが関係しやすいので、『現在の自分の仕事・役割・能力』などに満足できないと、自分と他人を比較してその違いに苦しんだり嫉妬したりすることが多くなりやすいところがあります。世間一般の基準や周囲にいる人たちと自分の持っているものや現在のステータスを比較して、『優越感・劣等感・自慢・嫉妬』などで一喜一憂しやすくなってしまうわけですが、『今の自分ではない何者かになりたい』というのは“ポジティブな夢・野心”の原動力であると同時に、“ネガティブな苦悩・自己嫌悪”の原因にもなるのです。

自分の価値・魅力を他人にも認めてもらいたい、自分の能力・影響力を他人にも認めさせたいというのは、人間一般に概ね共通する『承認欲求・自己拡張欲求』なのですが、『自分の個性・適性・能力・特技・特徴・好みなど(ありのままの自分の構成要素)』を無視して世間一般のものさし(一般的な優劣の価値判断基準)に合わせて優位に立とうとしても上手くいかないことが多いのです。努力して今よりも優れた能力・ステータスを持つ自分になりたいと思う、頑張って今のありままの自分を変えていき新しい自己アイデンティティーを確立したいという夢のある向上心は悪いものではないのですが、『他者との競争・比較』だけでは多くの人は『一時的な優越感・勝利感』を感じられたとしても、『安定した幸福感・自信』にはつながりにくい問題が残ります。

ヒューマニスティック心理学(人間性心理学)に基づくカウンセリングでは、心理的な不調や自己評価の低下を改善するために、『無条件の肯定的受容・積極的尊重』をしながら『ありのままの自分の承認・評価』を促進していきますが、これは『自分と他人との違い(上下・優劣を感じる差)』にこだわらなくなっていくこととも関係しています。最低限の生活能力・やる気・マナー・常識などは当然必要になってきますが、自己アイデンティティーの基盤にあるものが、『他人と比較した相対的な自己像』ではなく『自分の個性・目標・向き不向きを自覚した絶対的な自己像』になった時に、人は安定した自信や幸福感を感じやすくなるのです。

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世間一般の優劣(上下)の価値基準に、自分の自己アイデンティティーを合わせていこうとすれば、『権力・お金・地位・知性・タフネス・美貌・快楽・コミュニケーション力・楽観主義・余裕のある精神』などを際限なく競争的に追い求めなければならなくなり、更には本来の素の自分の価値観や好き嫌いにあてはまらない目標のために必死に努力しなければならなくなります。必死に努力しているのに人生が全く楽しくないとか幸せになれないとか感じている人の中には、『自分自身の個性(向き不向き)・価値観・好き嫌い』を無視して『世間一般の価値判断のものさし(他人が優れていると評価してくれそうな分野・競争)』に従っている人が多くいます。

本当は自分が求めているわけではない目標のために必死に比較・競争に明け暮れる人生はやはり精神を疲弊させて虚しくなるし、どうやっても自分の個性や能力に見合わないような目標・夢ばかりにしがみついていても最終的に得られるものは余りないのです。

自己アイデンティティーと価値基準・生き方の個別性2:自分と他人の違いを受け容れて生きる

繊細な感受性を持っていて他人の気持ちをいつも慮ってしまう神経過敏な性格の人が、小さなことを気にせず、自分の言動で他人が傷ついてもお構いなしに『タフ・貪欲な人』になろうとしてもなれるものではなく、かえって精神的に疲れきってしまうのです。勉強にあまり興味がなくて机に座っているだけでも苦痛な人が、敢えて知識労働のデスクワークを目指しても、その仕事を長く続けることができず収入が良くても主観的な満足も得られないでしょう。身長160センチの成人男性が身長180センチの長身になりたいと思っても、それは生理的に不可能であり、『身長が高いほうが格好いいという一般的な価値観』にしがみついている限り、自己評価は下がりやすくなります。平均前後の容姿の人が、美人やイケメンになりたいと願っても、髪型・服装・化粧などを工夫して見栄えをかなり良くすることはできますが、一目で人を魅了するような特別に容姿端麗な人には大半の人は努力だけではなることができないので、『異性の魅力の中心はまず容姿にあるという世間的・俗的な価値観』にこだわっている限り、嫉妬や劣等感に悩まされやすいでしょう。

お金儲けにそれほど野心的な欲がない人が寝食を削ってお金持ちになろうとしても無理がでるし、勉強・研究が好きでない人が大学院で博士号を取ろうとしてもつらいだけだし、スポーツや音楽が苦手で上手くやれない人がプロのスポーツ選手や歌手・演奏者を目指そうとしてもその努力を続けられないし、悲観的な認知の強い内向的な性格の人が楽観的な認知で気楽に生きる外向的な性格になろうとしても難しいわけです。他人や世間一般と比較した場合の『欠点・短所・弱点』などに意識が向いている時には、それが自分に向いていない分野であっても、別に興味関心がない事柄であっても、『劣等感の補償・他者との競争心』のために一時的な努力やキャッチアップ(追いつき)をすることはできます。

しかし元々、気質・性格・能力の面で明らかに向いていない(興味もなく好きでもない)ジャンルで無理に頑張っても、最終的に挫折感・劣等感を強める結果に終わりやすく、優劣の比較にこだわらずに自信を持てたり楽しみを感じられたりする『自分の中核的・実存的なアイデンティティー(ありのままの自分)』を形成する必要があるのです。

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自分の欠点や短所を個性として受け容れた上で比較せずに生きていくという方向性もあれば、自分の好きなことや長所に焦点を合わせて努力しても悔いの残らない方向で頑張っていくという方向性もあるでしょう。自分と他人との違いをどのように受け止めるのかによって、『優越感・劣等感の絡む比較競争(悩みの種)』にもなるし、『自分は自分・他人は他人の区別を理解した個別性の承認(自信の素)』にもなるのです。

自分は自分以外の何者にもなれない、自分と他人の属性や人生を交換することはできないということの自覚が実存的アイデンティティーですが、この実存的アイデンティティーを基盤とする幸福感は『自分の仕事(領域)と他人の仕事(領域)との区分を理解した上で生きる』というアドラー心理学の処世術にもつながっている面があります。自分と他人との終わりなき比較競争、今の自分ではないもっと素晴らしい自分への変身願望から離脱することの最大のメリットは『劣等感・自己嫌悪を感じにくくなる』や『自分に自信を持てる・努力の方向性(自分が頑張るべきフィールド)が分かりやすくなる』ということです。

更に、自分と他人との違いを受け容れられること(自分は自分の人生を懸命に生きていくしかない+他人の人生や身体とは代われないという当たり前の現実への気づき)によって、『自他の率直なコミュニケーション』がしやすくなり『他人への嫉妬・羨望・恨み』といったネガティブな感情からも解放されやすくなります。自分と他人は違うという現実を認識した上で生きるということは、『自分の苦手・弱さ・欠点』を受け容れるのと同時に『他人の苦手・弱さ・欠点(疾患や障害のような問題も含めて)』を受け容れることでもあり、『各人の能力・適性・長所を生かした共生の可能性』に対してそれぞれの人が前向きに取り組めるようになるということでもあるだろう。

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元記事の執筆日:2016/02/12

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