グレートマザー(太母)の示すネガティブな女性性と河合隼雄のグリム童話『トルーデさん』の分析
カインコンプレックスときょうだい間の競争心・嫉妬心:親の愛情・承認を巡る同胞葛藤
グリム童話『ヘンゼルとグレーテル』から読み解くグレートマザーの光・影と子供の自我の成長
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ユング心理学のグレートマザー(太母)の元型が持つ善悪の二面性:昔話・童話の物語やイメージの分析
集合無意識(普遍的無意識)を前提とする分析心理学を創始したカール・グスタフ・ユング(Carl Gustav Jung,1875-1961)は、集合無意識の内容を典型的に象徴するイメージとして様々な種類の『元型(アーキタイプ)』を考えた。元型(アーキタイプ)は人間の精神活動の根源的なパターンであり、実際に人生を生きていく人が無意識的に選び取ったり陥ったりする『不可避な運命・関係』を事前に予兆したり事後に解釈したりする働きもある。人間の精神機能や存在形式のパターンを投影する『元型』、その元型を絶えず生成している集合無意識を直接的に知覚することはできないが、集合無意識は『精神病の症状・白昼夢・夢』などを通して現れてくる。
ユング派の心理療法の夢分析や人生を物語的に再構成するナラティブ・セラピーでは、元型の原型的なイメージは『偏った一面的な生き方(意識領域での自己の偏ったこだわり)を補償してバランスを取るための要素』や『意識・無意識の全体性を統合的に回復させる心的プロセス』として活用されたりもする。日本におけるユング心理学の代表的な研究者である河合隼雄(かわいはやお,1928-2007)は、歴史的な時間軸を超えて人間存在に共通する集合無意識の内容を推測したり接近したりするための方法論として『昔話・童話・おとぎ話・神話の分析』を好んでいた。
グリム童話やアンデルセン童話などは日本でもよく知られており、ディズニー映画によって現代風のエンターテイメント作品として再編集されたりもしているが、昔話・童話の原典は必ずしもハッピーエンドなお話しばかりではなく、『人間の残酷さ・人生の理不尽さ・選択や努力の無意味さ』を突き付けてくるだけの非教訓的なものも多い。子供の情操教育や善悪の分別、人生の処世術に必ずしも役立つわけではない童話・昔話というのは、『人間・人生の不可避(不条理)な運命』を戯画的に描くことによって、『集合無意識のメッセージ(元型のイメージを通したどうにもならないこともある人間・人生の本質)』に誰もが近づけるような機会をもたらしているとも言える。
童話・昔話・神話を介して集合無意識が伝えるメッセージには『建設的・肯定的なもの』もあれば『破壊的・否定的なもの』もあるわけだが、その二面性というか両義性がもっとも象徴的に反映される元型(アーキタイプ)として『グレートマザー(太母)』がある。グレートマザー(太母)の二面性は『善母・慈母』と『悪母・害母』の対照性で考えることができるが、これはユング心理学の集合無意識のイメージにおいてパターナルな『生と死(善母と悪母)・死からの再生』にも対応している。母親なるものは温かくて優しいイメージと同時に、包摂して呑み込んでしまうような恐ろしいイメージも持っている。実際の母親にあっても、無償の愛情を注ぐ慈母もいれば、養育放棄(ネグレクト)や虐待・遺棄(捨て子)をしてしまう恐ろしい悪母の行為に呑み込まれて引き返さなくなる女性もいる。母性のアンビバレンツ(両義的)な二面性は、『善母・生のイメージ=愛情・保護・養育・支持』と『悪母・死のイメージ=拒絶・誘惑・束縛・呑み込む』の二つの極に分類して考えることができる。
グレートマザー(太母)の示すネガティブな女性性と河合隼雄のグリム童話『トルーデさん』の分析
ユング心理学を専門とした河合隼雄氏は『昔話の深層 ユング心理学とグリム童話』において、グレートマザー(太母)をはじめとする女性性(母性性)の持つアンビバレンツを反映したグリム童話の物語として『トルーデさん』『蛙の王様』『黄金の鳥』などを上げて説明している。特に、殺さなければならない何の理由もない女の子を棒切れに変えて暖炉の火の中に投げ込んでしまう『トルーデさん』は、グレートマザーの非合理的かつ恣意的な恐ろしい悪母・魔女のイメージとして取り上げられている。
主人公の女の子は確かに『わがまま・生意気な親の言いつけを守らない子』であり、『親の言うことを聞かないと危ない目に遭う』という一種の教訓話としても読めるのだが、女の子があっけなく炎の中に投げ入れられて焼かれてしまう結末はあまりに残酷で理不尽である。親が行ってはいけないと止めているにも関わらず、興味本位で不思議な女性のトルーデさんのところへ出かけていき、体がガタガタと震えるほどの恐ろしい経験をして、最後には魔法で木の棒に変えられて焼き殺されてしまうのだが、トルーデさんは少女が炎で焼かれている様子を眺めながら、『やあれ、あかるいことあかるいこと!』と言って冷酷に無邪気に喜んでいるのである。魔女のトルーデさんには、道徳的な善悪や人道的な倫理観などは通用しないのであり、女の子が命乞いをする暇も与えず、ただ寒かったからなのか機嫌が悪かったからなのか、特別な理由もなく木の棒に変えた女の子を炎の中に投げ入れて喜んでいるのである。
グリム童話の『トルーデさん』は、思い通りにならない理不尽で非合理的な人生のリアルを切り取った物語であると同時に、グレートマザーの恐ろしい悪母(魔女)のイメージを示しながら、更にトルーデさんの家を訪ねるという女の子の軽率な行動を描くことで『女の子らしい好奇心・知りたい欲求』が潜在的に持つ危険性(好奇心によって危険な人・場に誘われてしまう)についても知らせている。少女時代には特に、何でもかんでも知れば良い(気になるものに近づけば良い)というわけではない、好奇心が行き過ぎて思わぬ危険・死に近づくことがあるといったトルーデさんの元型から導かれる『女の子の人生に生じる好奇心・誘惑の危険』というのは実際の女の子の人生にもありがちなものではあるのだ。
端的には、未成年の少女が知らない男性からドライブや食事(カラオケ)に誘われて、ちょっと面白そうだからと付いていってしまい思わぬ事件に巻き込まれたり最悪殺されてしまうということは『典型的なパターン』として私たちの脳裏を過ぎることがあるものだ。だから、小さな子供の頃から女の子には口を酸っぱくして『知らない人に付いていってはいけない』と教え込んでいるのだが、河合隼雄氏はこの少女が『好奇心・知りたい気持ち』に負けて誘われる形で巻き込まれる典型的な事件の構造にも、トルーデさんのようなある種の『人為・意識では抵抗できない集合無意識の力+受け入れがたい理不尽で残酷な結末の引き寄せ』が働くことがあるといった指摘をしている。
現代人は『科学技術・医療制度・法治国家・教育された知性』などに手厚く守られることによって、『死の現実・悪意の恐怖』と直面しなくても済むようになっているが、究極的・運命的にはトルーデさんのイメージに表象される『生々しい人生のすさまじさ・恐ろしさ・理不尽さ』から逃れきって生き抜くことは不可能である。グレートマザー(太母)の恐ろしくて暗い一面として現れる『悪母・魔女』のイメージというのは、そういった生々しい人生のプロセスにおいて『疑似的・現実的な死』や『理不尽な運命(道徳や論理など通用しない悪意・加害など)』を象徴してもたらすものでもある。母なるものは子供を妊娠して生み出して育てる(現代では男性・父親も同等の育児参加を規範的に求められるとはいえ)という意味で『生命の源泉』であるが、童話・神話などの伝承では母なるものに『生命を呑み込む支配性』のイメージが付与されることも多い。また原始的な部族社会では、植物・作物を育む『土・大地』が神秘的・生命生産の母性のメタファーとして想起されることが多かったと推測され、『地母神の偶像崇拝』が盛んに行われていた。
キリスト教に代表される一神教的な父なるものの天空神が生み出されたのは、地母神の崇拝よりも数千年以上は遅れてのことだったと考えられている。グレートマザーが善母(産み育てるもの)と悪母(呑み込んで支配するもの)の二面性を持つように、原始的な生命・生殖を賛美する地母神崇拝もまた、日本神話の『イザナミ(国生みの女神+腐敗した黄泉の国の神)』に象徴されるように生と死の神の二面性を持っているのである。母性のアンビバレンツな二面性というのは、『産み育てる愛情・保護の明るい部分』と『呑み込んで甘やかして自立を阻害して支配してしまう暗い部分』に典型的に現されるのだが、日本の昔話における妖怪化した老母(老女)の『山姥(やまんば)』というのもグレートマザーの恐ろしくて暗い側面を象徴している。
昔話の『牛方と山姥(うしかたとやまんば)』に出てくる山姥は正に『何でも呑み込んで食いつくしてしまう貪欲な母性性・女性性』を表現したものであり、牛方の男が運んでいる塩鮭・タラを食べてさらに牛まで丸呑みにしてしまい、危うく牛方の男まで食われそうな恐怖に追いやられたのである。仏教神話においても小さな子供を捕まえて食べてしまう恐ろしい悪鬼のような『鬼子母神(きしもじん)』は、仏教の菩提心の教えを受け入れることによて子供を慈しんで優しく守る女神の『訶梨帝母(かりていも)』へと変化するのであり、これもまた人類に概ね共通するところのあるグレートマザー(太母)の元型の明るさと暗さの二面性をダイナミックに示した物語だと言えるだろう。
母性は一般的には『愛情・保護・安心・優しさ・生命』などの肯定的なイメージで語られることが多く、原始的な地母神から始まってキリスト教のマリアや仏教の観音菩薩といったポジティブな女神(宗教的な崇拝対象)のモチーフにもなってきた。しかし、ユング心理学の昔話・童話・神話の研究において、グレートマザー(太母)の元型で表象される母なるものには『呑み込む・支配する・ダメにする・主体性を奪って一体化する・死』といったネガティブな女神性・母性性がメタファーで示されていることが多く、一般社会・倫理観において忘却されやすい『母性・女性の裏面の補償(生に対する死の側面の呈示)』が行われているのである。
自分の能力・限界を超えて他者を抱え込んで守ろうとするのだが、それが現実的に不可能と分かった時に、抱きかかえて守っていたものを途端に手放して捨て去り無視してしまうといった無責任な残酷性・加害性にもグレートマザーの暗くて恐ろしい一面が表出している。ストーカーやDV、監禁・殺傷の事件などの男女関係に潜むリスクについても、グレートマザーは『土・肉・血への還元(自然・本能の抗いがたさ)』のイメージで影響を与えているとされる。河合隼雄氏は常識的な法律・社会における個人の責任論とは異なる位相から、『グレートマザーの生み出す犠牲・悲劇(倫理的には問題のある考え方だが、加害者の男さえも悪母に呑み込まれたある種の犠牲者となる)』を語り、グレートマザーを『否定できない自然のルール』になぞらえている。
知ることの限度や相手への警戒のない『むきだしの好奇心(ひたすらにどんどん知りたい欲求)の持つ危うさ』を指摘しているが、昔話・童話でほのめかされる『見てはならない真実』のタブーがなくなっている何でもありの現代であればこそ、近づくべき場所・人なのか近づいてはならない場所・人なのかを慎重に見極めなければならないのだろう。
カインコンプレックスときょうだい間の競争心・嫉妬心:親の愛情・承認を巡る同胞葛藤
きょうだい間(兄弟姉妹間)に生起する感情コンプレックスを表現する概念として、分析心理学のカール・グスタフ・ユングは『カインコンプレックス』を提唱した。カインコンプレックスというのは『旧約聖書 創世記第4章』のカインとアベルのエピソードに題材を取ったきょうだい間のコンプレックス(同胞葛藤)であり、そのコンプレックスを構成する主な感情は『嫉妬心・競争心・憎悪』である。『旧約聖書』に記載されているエピソードは、アダムとイブの子供としてカインとアベルの兄弟が生まれ、兄カインは農夫となり、弟アベルは羊飼いになったことから始まる。
兄カインと弟アベルは共に神に捧げ物をするのだが、神はアベルの子羊の捧げ物に目を留めて喜ばれたが、カインの捧げ物には目もくれなかった。屈辱と怒り、嫉妬に塗れたカインは、神(普遍的な父の擬制)に目を掛けられている弟アベルを衝動的に殺害してしまうことになるが、これは人類で最初の殺人とも言われている。『羊の群れの中から肥えた初子を神に献げた。主はアベルとその献げ物に目を留められたが、カインとその献げ物には目を留められなかった。カインは激しく怒って顔を伏せた。』(『聖書 新共同訳』の創世記4章4~5節 )アベルを殺害したカインは、神の裁きを受けて『エデン(楽園)の東』へと追放されてしまうことになる。
親がきょうだいを同じように扱わずに、どちらかだけを贔屓して可愛がったり称賛したりする時に、『親の愛情・承認を求めても得られないという葛藤』が起こる。親がきょうだい間の能力・性格・愛嬌・対応などを比較して、どちらかだけを持ち上げて褒めたり、片方だけを貶めて否定したりするような時にも強い葛藤が起こってくる。その葛藤とは、どうして自分だけいくら頑張っても愛してもらえないのか、どうして自分の人格や行動だけは認めてくれないのか(自分は親に愛されていないのではないか)というものであり、次第に依怙贔屓されているきょうだいへの嫉妬や憎悪が深まっていき、『負けず嫌いの対抗心・競争心(あるいはどうせ自分なんか好かれないんだといういじけ・拗ねた態度)』が生まれやすくなる。
きょうだいの関係において差別的に親の愛情を受けた場合(実際は親は差別しているつもりがなくても差別されていると本人が受け取っていた場合)、依怙贔屓されて苦しんで葛藤した原体験が、『きょうだい以外の似通った構造や年齢差を持つ人間関係』にも投影されていってしまうことがある。自分が親からの愛情や承認を奪われたと感じている『兄弟姉妹に似通った世代・外観・立場の相手(自分と直接関わりがなくても特別に上司から目をかけられている人なども)』と接することになると、どこか言動がぎこちなくなったり(不快感・イライラ・居心地の悪さを感じたり)、相手に対する協力・支援をすることが嫌になったり、意味もなく意地悪な態度を取りたくなってしまう。
きょうだいの人間関係というのは、非常に仲が良くて協力的・応援的な良い関係になることもあるが、カインコンプレックスをはじめとするきょうだいに対する嫉妬心・競争心・不公平感に根ざした反発・憎悪が強くなりすぎると、非常に不仲で対立的(相互否定的)な関係になってしまいやすい。きょうだい間の不和・不仲・喧嘩の原因は、カインコンプレックスを生む親の差別的な待遇や愛情の注ぎ方の違いだけではなく、『きょうだい間の性格の相性の悪さ・きょうだいからいじめや嫌がらせを受けたトラウマ』などが関係していることもある。
一般論としては、競争心や規範意識の強い男きょうだいの方が、『差別待遇・能力差・生活態度・社会適応度の違い』などを理由にして不仲になったり喧嘩したりしやすく、女きょうだいの方が思春期・成人期以降にも密接な親しい友達のような感覚で助け合って良い関係を築いていきやすい。男と女のきょうだいの場合には、仲の良いきょうだいと仲の悪いきょうだいの落差が大きい印象があるが、上手くいっている仲良しなきょうだいの特徴として『競争的(対立的)ではない・共感性と親しみがある・応援や助け合いをする・トラブル(不適応)が起こっても相手を責めない・定期的あるいは頻繁に顔を合わせている・一緒に飲食や談笑、外出をする・優劣や上下の意識を持っていない』などを上げることができる。
グリム童話『ヘンゼルとグレーテル』から読み解くグレートマザーの光・影と子供の自我の成長
ユングが構想したカインコンプレックスは『きょうだい間の憎悪・競争・嫉妬』を材料とした複雑な感情複合体であるが、もちろん、人間のきょうだい間で生成発展する感情のあり方はネガティブなものだけではなく『共感・応援・助け合い・親しみ』などのポジティブなものもある。『聖書』はキリスト教やユダヤ教といった宗教の聖典という特殊な書物であるが、『昔話(童話)・伝説・伝承』にもきょうだいの出現する人間の内的世界の普遍的なイメージを表現したお話があり、グリム童話『ヘンゼルとグレーテル』もその一つである。
グリム童話の『ヘンゼルとグレーテル』は幼い兄(ヘンゼル)と妹(グレーテル)が登場する物語であり、母親(実母版・継母版の双方がある)から追い出されたヘンゼルとグレーテルの兄妹は無気味な森をさまようことになる。二人の兄妹は、深い森の中で迷ってしまうが、兄ヘンゼルの機知と勇気によって泣いてばかりの妹のグレーテルは何度も助けられる。まだ男性性と女性性が分離する前の幼少期のきょうだい間にある協力・共感・助け合いが物語に反映されている。大飢饉(1315~1317年頃)が起こり家族四人で食べていけなくなったために、ヘンゼルとグレーテルは母親から森に置き去りにされて捨てられてしまうのだが、この物語は『兄妹(きょうだい)の物語』であると同時に『母性のネガティブな側面(母性愛を喪失した子供を守らない利己的・女性的な側面)を象徴する物語』でもある。
ユング心理学のグレートマザーの元型(アーキタイプ)には『包み込んで子供を守る優しい母親のイメージ』と同時に『呑み込んで子供を支配してしまう(殺してしまう)恐ろしい母親のイメージ』があるが、『ヘンゼルとグレーテル』の子供を森に捨てて自分と夫だけが何とか助かろうとする母親は、後者のネガティブで恐ろしい母性の元型の表象として機能していると読むこともできるだろう。初めの原作の物語では『実母』が二人の兄妹の子供を捨てるという設定だったが、自分たちが助かるために実の子供を捨てる利己的で冷淡な母親というのは意識領域では非常に受け付けがたいものである。そういった心理に配慮して、グリム兄弟が1840年の決定版の『ヘンゼルとグレーテル』を編集する際、物語の理不尽さ・残酷さを緩和して読者に納得して貰いやすくするために『実母』ではなく『継母(ままはは)』の設定に変えたとされている。
しかし、今の日本でもさまざまな事情や問題、浅はかさがあって、実母が実子を捨てたり自分の赤ちゃんを生まれてすぐに殺害・遺棄したりする事件は複数起こっている。人は倫理的・道徳的に『実母が子供に危害を加えたり見捨てたりすること』をほとんど反射的に拒絶してしまうのであり、そんなことは絶対にないという信念によって現実の見え方をも変えてしまう。グリム兄弟が一般常識に配慮して実母を継母に変えたように、『まだ血のつながっていない継母が犯した虐待・捨て子であれば納得できる』という認識の仕方をする人はやはり今も昔も多いのである。『白雪姫』においても、娘の美貌をねたんだ母親が毒りんごで殺してしまおうとするのだが、この物語も原作では『実母』であったものを『継母』に書き換えたとされている。
昔からある童話・昔話の物語において、『実母=優しくて温かい善なる母性』『継母=意地悪で冷たい悪なる母性』というステレオタイプな二元論が使い回されたことによって、『継母(血縁関係にない母親)』が実際以上に悪者にされてしまったことの弊害もある。昔も今も、継母がみんな意地悪で冷たいはずがなく、継母であっても本当に実の子供以上に子供を大切にして可愛がってきた女性も多くいる。そういった血のつながりはないが、お互いに信頼し合っている母子関係を、実際以上に悪いもののように決めつける(継母は血縁のない子供が邪魔で憎いはずだと決めつける)ような認識は、再婚家庭(血縁のない親子)に対する偏見・差別を生み出しかねない。
極めて少数の事例ではあるが、現実の事件(捨て子・子の殺害など)は『実母は子供を絶対に傷つけない(自分よりも子供のことを優先する)』という人間社会の道徳規範や母性神話を乗り越えてしまうことが往々にある、『グレートマザーの元型のネガティブな一面』はいつの時代にも完全に消えることがない(自分自身は直接的に恐ろしい母の言動に巻き込まれないとしても)のだろう。その一方で、社会一般的な家族・親子の関係性や倫理規範において、『親は絶対に子供を傷つけずに守るという倫理的・常識的な共有観念』はやはり守られるべきもので、グレートマザーの表象のネガティブな側面が抜き差しならぬ問題になってくる人(それを意識化しなければ心理的問題を解決できない虐待・拒絶などを受けた人)はかなり限られてくるだろう。
『ヘンゼルとグレーテル』では、食べて行けなくなったから子供を森に置き去りにしようという母親の父親に対する相談(子供から隠れてするひそひそ話)を、ヘンゼルが聞き耳を立てて聞いてしまうのだが、これは『母親(両親)の持つネガティブな影』の部分を子供が知ってしまうという象徴的なシーンでもある。『親のネガティブな影の側面』を聞いてしまい、親が自分たち兄妹を必ずしも守ってくれる存在ではないこと(親が自分たち兄妹を森の中に捨てようとしていること)を知ったヘンゼルは、親が『子供に隠している心』を持っているように、今度は『子供の自分が親に隠している心(自分の内面世界・自立心)』を持つようになるのである。両親に連れられて森の奥深くに誘われていく間、ヘンゼルは内心で一計を案じて道に迷わないようにするため、小さなパンくずを道しるべとしてちぎって置いていく(ウェブサイトの「パンくずリスト」の題材となったエピソードでもある)。
ヘンゼルは自分たちを捨てようとしている両親の心の内を既に知っているのだが、そんなことをまるで知らないかのように自然に振る舞ってパンくずを置いていく。これは『子供の自我の芽生え』であり、子供が望まない強制的な遺棄によるものではあるが、『親(保護者)からの分離・自立の物語』であることを示唆しているのである。ヘンゼルがちぎって落としていったパンくずは残念ながら、多くの小鳥たちによってついばまれて食べられてしまい、結局、森の中をさまよい歩くことになる。ヘンゼルとグレーテルは無数の小鳥たちによって道しるべのパンくずを失ってしまうが、ユング心理学の夢分析においては『小鳥=魂・精神の象徴,無意識的な空想やアイデアの断片』とされており、この童話におけるパンを食べた無数の小鳥は、不安感や恐怖感に押しつぶされそうなヘンゼルとグレーテルの『退行現象(意識的な思考・判断の基準のバラツキとこれからの行動方針の喪失)』を象徴しているかのようである。
『ヘンゼルとグレーテル』では、『小鳥・白い鴨』が物語の要所で重要な役割を果たしている。パンくずを食べた無数の小鳥たちは『道しるべ(意識の方向感覚)を失わせる退行的なもの』であり、その後に登場する一羽の小鳥は『お菓子の家(魔女)に導いていく危険な道しるべ(無意識の方向感覚)となる誘惑的なもの』となっている。お菓子の家に住んでいる魔法使いのお婆さんは『人間を食べる恐ろしい魔女』であり、視点を変えればグレートマザーのネガティブな影の部分(子供を呑み込んでダメにしてしまう危険な母性性)を象徴する『無意識の深い領域にある表象』として機能している。お菓子の家は物語冒頭の『大飢饉(空腹・餓死)』と対照をなしているものであり、『豊富な食べ物(お菓子)』というのは料理を作ってくれる母親のイメージからしても、ポジティブな母性性(この物語では子供を引き寄せるための罠として使われるが)との結びつきが強いものである。
甘いお菓子が沢山あるというお菓子の家は、『母親の過保護・甘やかし・過干渉=子供の自立心・主体性の阻害』を象徴するとも言える。『ヘンゼルとグレーテル』では、冒頭の子供を森に置き去りにするという『虐待』と魔女が仕掛けた子供を甘いお菓子で引きつけてダメにする(自立できなくする)という『過保護』を描くことによって、グレートマザーの元型に含まれている両義的な『母性のネガティブな影の側面』を示唆しているのである。『母性のポジティブな光の側面』と『母性のネガティブな影の側面』というのは明確に区分することのできないコインの表裏であって、子供の全てを受け容れて守って与えてくれるポジティブな母性というものも、一定以上にまで成長した子供の自立心や主体性(自我の生成発展)にとってはむしろ『ネガティブな過保護・過干渉の毒』になりかねないのである。
ヘンゼルとグレーテルは隙を見て魔女をかまどに突き飛ばして焼き殺してしまうがこの『魔女殺し』は『母親殺し』でもあり、西洋の童話に多い『内面的・象徴的な母親殺し』というのは、『母子分離不安の克服・子供の自我の確立プロセス・子供の精神的かつ社会的な自立の促進』といった意味合いを含んだものである。ヘンゼルとグレーテルは魔女をかまどに突き飛ばした後に、魔女の持っていた財宝を手に入れ、『白い鴨』に道案内されて元の家へと帰っていくことができるのだが、この白い鴨というのは『子供の自立心・主体性に配慮できるポジティブな母性(子供にとって真に必要なものを与えてくれる母親)』を象徴しているように感じられる。
元記事の執筆日:2016/06
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