AI・ロボットの需要増と現代人が直面する“少子高齢化・労働力不足・メンタルヘルス”
介護は人間がすべきか、ロボットにさせても良いか?:人に固有の仕事・役割・存在の価値とは何か
ロバート・マルサスの人口論と各時代の社会が持つ人口支持力:人口増加による貧困の警戒
ロバート・マルサスの人口論と人口調整メカニズム:日本の人口規模の歴史的推移
日本の人口が増加した歴史的な4つの時期:江戸時代の約3300万人を上限とする人口支持力
江戸時代の人口動態から見る結婚・離婚・平均出生数:18世紀の婚姻率上昇と人口停滞
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AI(人工知能)・ロボットは人の仕事を奪うのか?:労働力不足とブラック企業
21世紀は『ビッグデータ・IoT(モノのインターネット)』に支えられた『AI(人工知能)・ロボットの進歩』によって、今まで経験したことのない高度なテクノロジー社会が到来すると予測されている。30年ほど前まで、スマートフォンやインターネットどころか、携帯電話・FAXさえなかったことを考えると、20世紀末からのイノベーション(技術革新)とライフスタイルの変化はあまりに急速なものである。時代の科学技術やライフスタイル、価値観の変化は急速だが、人間の体と心の『新技術に対する適応力』は恐るべきもので、現在では新しいものが好きな高齢者までもが自在にスマホやタブレットを使いこなしてインターネットを介した各種サービスを楽しんでいる。
最新技術や最新機器、デジタルな娯楽に対するノスタルジック(あるいはエスィカル)な批判はいつの時代にも必ずあるが、マクロな動向としては最新の技術やライフスタイルは『便利で快適・面白くて楽しい・今までになく新しい』である限り、大勢の人々に受け容れられていきそれが逆向することが殆どない。スマホの弊害や問題はさまざまな角度から寄せられているしスマホやネットが嫌いという人もいるが、それでも『じゃあ、スマホを使うのはやめよう(デジタル機器やネットのない昔のライフスタイルに戻ろう)』という人はまず出てこない。結果的に、スマホ(アプリ)やネットを使う便利さ、楽しさ、一人でもできる気軽さに大多数の人は抗えないのである。
恐らくスマホと同じように(あるいはスマホ依存などを超えるレベルで)、便利・安価・魅力的なAI搭載のロボットが販売されて使い始めれば大多数の人は『もうロボットは使わない(ロボットに仕事は任せないとかロボットとは話さない・遊ばないとか)』という選択ができなくなるのではないかと合理的に予測される。AI(人工知能)・ロボットが進歩しすぎると『今ある人間の仕事が奪われる・人間のやるべき仕事が減って虚無的享楽的になり堕落する人が増える』『人間が自我(欲望)を持ったAI・ロボットに支配されたり絶滅させられたりする』という悲観論は確かに多い。反対に、『人のために働いてくれて共存することが可能なAI・ロボット』というのは、現代人・今の国家が直面している『人間(人権・自意識を持つ主体)だけでは乗り越えづらい難問』を解決してくれる可能性があるという楽観論もある。先進国の人間だけでは解決しづらい問題として上がってくるのは、『少子高齢化・人口減少・社会保障・労働力不足・介護問題・無縁社会(個人の孤立)』などである。
ますます広がるAI・ロボット技術 働く人に求められるスキルシフトとは何か
AI・ロボットが進歩して人間に近しいパフォーマンスを発揮できるようになればなるほど、ロボットが人間の代わりに働くことで『労働力不足』の問題がロボット労働やサービスの自動化で補填されることになる。ロボットが人間とほとんど変わらないほどのコミュニケーション能力や外見・表情・自然な反応を持てば、無縁社会・単身世帯増加(未婚化・離婚増加)で『話し相手(遊び相手)のいない孤独感・虚しさ』に悩んでいる高齢者や単身者の心の慰めにもなるだろう。これは平たく言い直せば、『倫理的・法律的・体力的な問題に配慮しなくても良い機械の奴隷(サーヴァント)』をロボットに求めるテクノロジーでもあるが、人間相手では要求することの難しい過酷な労働条件や一方的な対人サービスであっても、自意識・プライドのないロボットであれば遠慮せずに指示しやすい。
ロボット相手であれば、ブラック企業の搾取や人間関係における虐待・ハラスメントのような人権問題は原理的に発生しないという考え方である。しかしロボットでも非常に高度な機能を備えて、『外見的・心理的に人間との区別が相当に困難な水準』になれば、公共の場ではロボットにも極端に理不尽な指示命令(本当の心があってもなくても自尊心・羞恥心を傷つけるような振る舞い)をしてはならないとする『ロボット・ライツ(ロボットの権利)』が議論され始める可能性はあるだろう。現在の日本でも、新興国・途上国の若者を『留学生・技能実習生』として甘い言葉(日本で学歴を得れば将来の仕事は安泰、簡単にバイトで高収入が得られるから来日後の生活に不安はないなど)で招いているが、学生たちは学費以外にも渡航費・住居やバイトの斡旋費など様々な名目で多額の借金を背負わせられていることが多い。こういった留学・技能実習のために来日した外国人の若者が、負債を背負わされて不当な雇用待遇・劣悪な労働環境を強いられやすいことが、『現代の奴隷制』と非難されていたりもする。
こういった搾取的・詐欺的な労働や法令違反のブラック企業と関連する『労働問題』は、人権(自由権)やプライバシーを持つ人間を騙したり脅したり洗脳したりして、無理やりに過酷な労働・長時間労働(単純作業の長時間の反復)に従事させることによって発生するわけだが、こういった借金でもないと敢えて誰もしたがらないようなきつい労働を、ロボットに多く代替させることができれば社会全体の恩恵と個人の救済(仕事・給与を奪われるリスクもあるが)は大きくなる。
AI・ロボットの需要増と現代人が直面する“少子高齢化・労働力不足・メンタルヘルス”
『必要は発明の母』という使い古されたことわざがあるが、現代の少子高齢化や労働者不足(仕事の選り好み・ストレス耐性の低下も含む)、医療・介護・メンタルヘルス・孤独の問題が深刻化する先進国は『AI・ロボットの必要性』が潜在的に高まっている。そういった時代・人口・働く意識の閉塞感と歩調を合わせるかのようにして、ディープラーニングを学習原理とするAI(人工知能)や多機能なロボットの進歩の可能性が取りざたされるようになったのは不可思議なシンクロ二シティのようにも感じるが、やはり潜在的なニーズと技術的な探究心が人間の側にあるのだろう。
人々の意識の上では賛否両論あるとしても、『ロボットによる人の労働と役割の代替』『社会運営や技術インフラの自動化・システム化・効率化』は今後も進んでいく可能性が高く、21世紀半ばくらいになると事務作業・チェック業務・運転や配送・画像診断・接客業務・気晴らしの雑談などの多くは、自動化システムやロボットが担うようになっているのかもしれない。今まではインターネットを中心とするデジタルな『オンラインの世界』と人間・モノ・物理的環境によって構成される『オフラインの世界』の境界線がある程度はっきりしていた。だが、AIとIoT(モノのインターネット)の普及がモノを実際に動かす自動化システム(ニュースになることが多い自動運転技術もその一種)と結びつくことによって、AI(人工知能)が『オフラインの現実世界』にも浸透してモノを効率的に制御したり正確な仕事をこなしたりできるようになっていくのだろう。
しかし、『無くなっていく仕事』だけでなく『新たに作り出される仕事』もあるはずで、『落ちていく人間の価値・失われていく人間の役割』だけでなく『高まっていく人間固有の価値・新たに生まれる人間固有の役割』もあるだろう。ロボットがいくら進化しても、販売・導入・初期設定・管理運用するためのワークフローや技術的に細かなメンテナンスは、人間の担当者・技術者がしなければならない時代が相当に長く続くはずである。ディープラーニングとニューラルネットワークを高次元で統合できれば、ロボットが自律学習と問題発見(問題解決法の発見)、メンテナンス(故障の自己修理)をスタンドアローンで続けていけるようになるという仮説もある。だが、現時点では人間のコントロールやメンテナンスは必須であり、特にヒトの形をしたヒューマノイドのロボットが人間同様に外界を認知して複雑に動いたり自律学習したりすることは技術的ハードルが高い(外見的にはヒトに近いロボットは不気味の谷を超えてかなり完成度は高まっているとはいえ)ようである。
自律学習するロボット(機械)である程度のスパンで実用化されそうなものは、汎用的なヒューマノイドではなくて仕事・役割が特化した『産業ロボット』であり、自動車・工作機械などの工場の生産ラインに配置される製造用ロボットが、更に人のメンテナンスの手をほとんど介さずに自動化していく可能性が出てきている。日常生活を便利にしてくれたり高齢・怪我・疾患による障害のハンディキャップを緩和してくれたりする目的・役割が特化したロボットの開発は急ピッチで進んでいる。数十年間のスパンで次世代ロボット(自律学習型のAI)が開発・運用されるであろう有力な分野としては、『医療・介護・家事・農業・輸送(運転業務)・事務』などが上げられる。
介護分野では既に介護者・高齢者の動きをサポートする『ロボットスーツ』がサイバーダイン社などによって開発され実際に使われる場面も増えている。高齢者や障害者の入浴のかなりの部分を自動でサポートするような機械も導入され始めている。長崎県にあるハウステンボスの『変なホテル』では、ロボットがチェックイン・チェックアウトを行ったり簡単な接客案内業務を担当したりしているが、ロボットが接客対応をしてくれるという真新しさと宿泊費の安さもあってなかなか盛況のようである。高度なAI(人工知能)を搭載して、人間とほぼ同じ『外見・精神機能・運動機能・コミュニケーション能力』を持っているロボットというのは、今まで実現不可能なSF(空想科学)の世界の話であり、ロボットやコンピューターの技術が進んだ現代でも、人間とほぼ同じ外観と機能を持つロボットを製造することの実現可能性は低い。しかし、『人間の仕事・役割を部分的に代替できるロボット』が製造できる可能性は高まっており、少子高齢化における医療・介護・輸送・土木建設などの分野における労働力不足を解消する手段としても注目されている。
介護は人間がすべきか、ロボットにさせても良いか?:人に固有の仕事・役割・存在の価値とは何か
アメリカではGoogleや大学機関、ベンチャー企業が中心となった『ロボット・ルネサンス』のような動きが加速しており、『器用な運動機能を可能にするロボットアーム+人間の知能の代わりをするAI(人工知能)+人間とコミュニケーションできる能力や擬似的な心の働き』を組み合わせて次世代ロボット(ヒューマノイド型も含め)を開発しようとしている。AI(人工知能)・ロボットの進歩が、人間社会にユートピアをもたらすのかディストピアをもたらすのかには様々なシミュレーションの予測・仮説がある。日本のような超高齢化社会では『医療・介護・建設・サービス業(ハードな感情労働と肉体労働)の現場仕事』における労働力不足が深刻化しつつあり、特に増加する高齢者に対応しなければならない介護分野で『マンパワー不足を補うロボットの労働力の支援・補助』が求めてられてくる。
介護の仕事は(ロボットではなく)人間がやるべきかのアンケート調査では、『人間がやるべき・ロボットにさせるべきではない』という回答が51.4%で半分を少し超えたようだ。アンケートの母数が74人で小さいので世論を反映した調査とは言えないが、現状では『介護をロボットにさせてもいい』と『介護はやはり人間がやるべき』という意見は半々に分かれている感じなのだろう。
「介護は人間がやるべき」と思っている人が半数以上 「ロボットから愛を感じることができますか?」という声も
ロボットに介護をさせても良いという意見は、労働人口が減少を続けており介護をやりたいという若手の希望者も少ないのだから、今後更に超高齢化社会が進展していくのであれば、いずれロボットに介護の仕事を代替してもらう必要性が高まってくる(現状では『移民政策』で途上国の若者を介護・看護の要員として受け容れるという手段もあるが移民政策はロボット活用以上に反対意見が根強い、中長期的には移民が介護をし続けてくれるわけでもない)という現実論に立脚している。介護は人間がやるべきだという意見の中心にあるのは、やはり『心のある人間が介護をすべき・人間でなければ介護をしてもらっても愛情や優しさを感じにくい(ロボットだと無機的な心のない感じを受けやすい)』といったものである。他者を思いやって丁寧な心配りの行き届いた仕事は、『心を持つ人間』にしか上手くできないのではないか(要介護者の心理的満足度が低下したり孤独感を強めるのではないか)という意見である。
現実には存在しない(これからも開発が難しい)『今の介護の仕事をすべて自律的に代替できるヒューマノイド』を想定して、ロボットを介護現場に導入すべきかどうかの質問をしてもナンセンスかもしれないが、今の段階でも存在している移乗介助ロボット『RIBA』、身体機能補助ロボットスーツ『HAL』、メンタルコミットロボット『パロ』などの機能がもっと進化していけば介護現場の労働負担を少しは和らげることができるだろう。『入浴や話し相手など介護の仕事を部分的に代替してくれるロボット・介護で働く人間の負担やストレスを緩和してくれる補助的なロボット』の導入と普及は、これからますます必要性の度合いを高めていくことになると思う。
ロボットに介護をさせても良いという意見で興味深かったのは、『むしろ人間のほうが嫌な事がある。羞恥に関わる部分。自分はやってるけれどオムツ交換や入浴を他者に直接見られる触られるのは恥ずかしい』という30代男性の意見であり、『自意識(心)・感情・社会性(他者とのつながり・雑談)がないと思えるロボット』であればこそ、自分がどんな状態で介護されても恥ずかしくないし気にならないというメリットは人によってはあるだろう。これから新たに開発されてくる次世代ロボットの多くは、工場内で特定作業を迅速・正確にこなすだけの見かけも機能も人間的ではない『産業ロボット』ではなく、様々な業界・場面で人間とコミュニケーションを取りながら人間が求める形でサービスを提供する見かけも機能も人間的な要素を持つ『サービスロボット』になってくるのだろう。
サービスロボットは民生部門では医療・介護用ロボット、コミュニケーション能力のあるロボット(接客販売・ガイダンス・教育や娯楽・個人の話し相手など)、農業用ロボットなどの開発が進んでおり、軍需部門でも無人航空機・無人戦車・戦闘ロボットなどの生身の人間が実際に戦闘に参加しなくても良い(敵に対する人道的・倫理的問題が発生するが)兵器の開発に応用されている。自律的な行動・学習をすることができるサービスロボットの技術革新(イノベーション)の延長線にあるものが、人間とほとんど見分けがつかないほどの外見・知能・機能を持つヒューマノイドである。
だが、人間にとってのロボットの不安・脅威の一つは『人間の役割・機能・魅力の全体をロボットに代替されること(人間がロボットに魅了されたり好きになったり人間同等の価値を見出したりすること)』であり、その水準にまでロボットが進化した時には改めて『人間固有の存在価値(人間がロボットよりも人間と深く関わり合うべき理由)』が問い直されることになる。今の時点でさえ、生身の人間と深く向き合わず語り合わずに、『スマホの画面』ばかりに視線と意識が釘付けになったまま長時間を過ごす人は多いが、こういった人間の技術・心理に対する適応形態(他者の自由意思・感情・賛否を煩わしく思う人の増加)を見ていると、『何でも思い通りに動いてくれるサービスロボット(ヒューマノイド)』が身近で安価な存在になれば、生身の人間の顔をあまり見ずに、スマホのようにヒューマノイドばかりを見て関わりを持つ人間が急増する恐れはあるかもしれない。
ロバート・マルサスの人口論と各時代の社会が持つ人口支持力:人口増加による貧困の警戒
21世紀の先進国は基本的に『人口減少社会』としての特徴を持ち、日本も少子高齢化・超高齢化が進んで財政負担が大きくなり、『社会保障の持続可能性+社会保障維持のための増税』が深刻な社会問題として認識されやすくなっている。ロバート・マルサスを嚆矢とする『人口学』では、その社会の人口支持力(人口を養う力)によって人口が増減すると考える。産業革命後の経済の近代化による飛躍的な生産力の上昇と雇用の増加・個人所得の上昇・平均学歴の低さ(子供の教育費の低さ)は、そのまま『社会の人口支持力の増加』につながっていたから、20世紀半ばまでの先進国はどこも人口成長を続けていた。
人口が社会の人口支持力の限界に到達すれば、当然ながら人口学的均衡によって『人口停滞』が起こり、産業構造の転換による雇用減や高齢化のコスト増加によって人口支持力が更に落ちれば『人口減少』になっていくというのが人口学の説明になる。無論、経済・産業・雇用・所得による人口支持力の高低だけで、現代の日本のような先進国の人口減少や未婚化晩婚化を説明しつくすことはできず、異性選択(あるいは異性不選択の独身)の心理的要因も関係してくるが、『経済的・資源的要因に基づく人口支持力の影響』はどの文明社会の人口動態にも必ずあるものである。
マルサスの『人口論』におけるそれ以上は人口が増えないという『人口学的均衡』は、人口増加が続いて食糧・生活の資源が不足するようになり、ぎりぎりの最低限の生活しかできない『最低生存費水準』に至る時に起こるとされる。人口が増加しても最低限の生活水準を維持できないほどに食糧・生活の資源が不足していると、『貧困による人口調節』によってそれ以上は人口がもう増えなくなるという人口学的均衡に到達するというわけである。最低生存費水準よりも下の水準は、生まれて間もなく餓死・凍死などに陥ることを意味するので、人は基本的に多くの子供を持とうとはしなくなるのである。
マルサスは男女の子作りの生殖行為を(あまり相手を選別せずに適齢期にどんどん子供を産むという意味で)自然的・本能的で際限のないものと前提していて、『人口増加傾向に対して食糧資源の不足が起こること(人口が増えすぎて貧困化すること)』を少子化よりもむしろ問題視していた。男・女が相手の選り好みによって妥協せずに誰も配偶者を得ないということ(未婚化・妊娠回避)は想定外であり、男女が夫婦として生活を共にすれば自然にどんどん妊娠して子供が増えると前提していたことから、現代の先進国というか近代以降の社会においてはそのまま適用できない理論であることもまた明白である。
マルサスは人口抑制策こそが社会の貧困化を防ぐと信じていたが、キリスト教徒であるため、基本的には人間はすべて結婚して子供を儲けることが当たり前(男女が夫婦として一緒にいれば自然に子供は産まれるだけ産まれてくる)という価値観であり、避妊・堕胎のような結婚後の産児制限策(当時は確実な避妊法もないが)については『道徳的・宗教的な罪』であるとして否定的でもあった。中国の最近までの『一人っ子政策』という産児制限政策は有名であるが、戦後間もなくの一昔前の日本でも人口減少による経済縮小よりも、むしろ食べていけない貧困層が増大して悲惨な事態が蔓延する人口増加のほうが警戒されていて、世界規模では現時点でも『人口爆発による資源不足』のほうが現実的な危険性として認識されている。
ロバート・マルサスの人口論と人口調整メカニズム:日本の人口規模の歴史的推移
トマス・ロバート・マルサス(Thomas Robert Malthus, 1766-1834)は『人口』は幾何級数的(等比数列的)に急速に増加するが、『食糧生産』は算術級数的(等差数列的)に徐々にしか増加しないので、人口と食糧生産(生活資源)との間には必然的に資源不足の不均衡が発生して、生産力の増加率は人口の増加率にどうしても追いつかないのだという。その結果、人口は食糧・資源の生産量(社会全体の限界生産力)に合わせるようにして、何らかの方法で自動的に調整され『人口学的均衡』に至ることになるのである。マルサスは社会の人口が生産力を超えて過剰になると、食料資源・生活必需品が不足・欠乏して、人口調整のための自動的メカニズムが働くのだとした。
その人口調整メカニズムというのは、破滅的で偶発的な『積極的妨げ(貧困を前提とする飢饉・戦争・犯罪・疫病)』、あるいは計画的で欲求抑制的な『予防的妨げ(晩婚化・非婚化・避妊・堕胎など出生の抑制)』であり、これらによって半ば自動的に人口が社会の生産力上限(最低生存費水準)に見あった人数にまで調整されることになるというのである。マルサスの人口論の思想は、本人は産めよ増やせよのキリスト教的価値に宗教的にコミットしていたとされるが、人口抑制策によって社会の生活水準を維持・向上させられるというものである。そのため、人間の大量死をもたらす偶発的・人為的な出来事(戦争・疫病・虐殺・堕胎など)を肯定する危険思想の一種と見なされることも多いのだが、マルサスは人為的に人口を削減せよという主張はしていない。
放っておけば人口は増大し続けて貧困を引き起こすのが自然の摂理であると言っていて、最低限の生存もできないほどの貧困に至る前に出産抑制が自動的メカニズムとして起こると説明しているだけである。マルサス自身はむしろ堕胎・間引き・避妊などの予防的妨げによる人為的な人口調整策に否定的であり、宗教的な罪悪とさえ感じていたのである。現代の日本では人口減少が大きなニュースになっているが、約1億3千万という現在の人口は日本の約2000年の歴史でも過去最大のものである。過去のどの時代を切り取ってみても今より人口が多かった時代はないのだから、歴史的に『最多人口+豊かな文明社会』に到達して、それ以上の人口支持力と実際的な出産欲求を持てずに、『人口停滞・人口減少の局面』にさしかかっているというのが正確な現状分析だろう。
日本列島の歴史的な人口動態を遥か昔の石器時代まで振り返ってみると、約1万年前の縄文時代には『約2~20万人程度』の人口しかなかったと推測されている。農業革命によってそれ以前よりも人口支持力が格段に上がった弥生時代になっても、日本列島の人口は『約50~60万人程度』であったようだ。律令制の朝廷による政治統治が強化されて、全国各地の荘園の田畑が積極的に開墾されて農作物の収穫が増えた平安時代の全盛期でも、日本の人口は『約500~700万人程度』で頭打ちしていた。人口を約1億人の大台へと押し上げていった明治維新による近代化以降の産業経済・雇用所得の発展と人口支持力の急成長がいかに凄まじかったかが分かる。
日本列島の人口が約1000万人を突破したのは16世紀頃と推測されており、戦国時代・織豊政権を経由して天下分け目の大勝負とされる徳川家康と石田三成の『関ヶ原の戦い(1600年)』が起こった時には日本の人口は約1200万人程度だったので、そこからの約400年で日本の人口は約10倍以上(約1億3000万人)にまで大きく成長しているのである。日本の人口動態を考える場合によく引き合いにだされる数字が、『江戸時代の日本列島の人口の約3000万人』であるが、江戸時代の人口は18世紀前半の享保年間に既に約3000万人に到達していたものの、そこで人口支持力の限界に直面して19世紀後半の幕末に至ってもほとんど人口は変わらなかった。産業革命の余波である経済社会・労働の近代化がなければ、3000万人台の人口上限を超えることがほぼ不可能だったのである。
日本の人口が増加した歴史的な4つの時期:江戸時代の約3300万人を上限とする人口支持力
江戸時代には『江戸・大坂・京都』という都市が賑やかに発展して多くの人口を抱えることになったが、『都市部では人口増加率や婚姻率が低くなる・農村部から都市部に人口が移動する』というのは江戸時代も同じであった。都市は一般に婚姻率を下げたり婚姻年齢を上げたりして、人口増加を抑制する『自動的な人口調節機構』としての作用を意図せずに持つことが知られている。更に江戸時代の都市は公衆衛生の問題から疫病が発生しやすく、飢饉の時には食糧が配送されにくかったので、農村部よりも死亡率が高くなり、大都市の発展と共に人口停滞が起こりやすくなったという側面にも留意すべきかもしれない。日本の人口が歴史的に見て大きく増加した時期は以下の4つである。
1.約4000~5000年前の縄文時代中期……氷期の寒冷な気候が和らいで、食料となる樹木の種子や果実などが増え、寒さを凌ぎやすくなった影響。旧石器時代から縄文時代への移行による文化レベルの上昇の影響。
2.約2300年前の弥生時代から10世紀頃の平安時代……稲作の農業革命によって米を多く作れるようになり栄養状態が改善され、農作物を倉庫に備蓄して不作・飢饉に対応しやすくなった影響。狩猟採集の原始社会から農業社会への本格的な移行。
3.16~17世紀の織豊政権から江戸時代初期……農業の新田開発と生産性・効率性の上昇、戦国時代のような戦のない平和の長期化・農業従事の男性人口の維持増加、米の市場化による経済規模の拡大の影響。
4.19世紀の明治維新から昭和後期まで……産業経済と雇用形態の近代化による物質文明社会の急速な進歩発展、賃金と生活水準が向上して栄養状態が改善していく豊かさの拡大、食糧不足による飢餓(餓死)の減少・消滅による影響。農業社会から工業社会(近代社会)への本格的な移行。
農業社会に移行してから10世紀頃の平安時代に至るまで、日本の人口は直線的に増加したがさまざまな要因によって人口支持力の上限に到達して、約500~700万人の人口を大きく超えることはできなかった。古代から中世の日本における人口成長の限界の要因として考えられるのは、『耕作可能地の減少・農作物の収穫量増加の技術的制約・土地生産性の低下・雨量減少による乾燥化の気候変動・律令体制の崩壊と私有田の荒廃・疫病の流行』などである。16~17世紀の人口増加に関係した社会・経済の体制の変化としては、農民の自立化がありそれまで名主(荘園領主)に隷属していた農民が自立してきて、家族の労働力を中心として農作業をする小農経営体制に移行して、農業の労働モチベーションがそれ以前よりも上がったということもある。
12世紀以降の荘園制(名主制)では、荘園領主(名主制)の農業生産や新田開発、所領管理に対する意欲がどんどん落ち込んできていて、荘園領主は現物・賦役による『年貢』の徴収・確保にしか関心がなくなってきていた。そのため、荘園領主に隷属させられていた隷属農民の農作業の目的が『貢納・自給』だけになって、農民の農作業のモチベーションも低下しやすかったのである。この隷属農民の農作業のモチベーションを劇的に高める原因になったのが、『貨幣で年貢を納められる代銭納化』とそれによる『貨幣経済の農民への広がり』であり、それまで生産した農作物を自給自足で消費するだけだった農民が、『都市部での農作物販売による利潤』を目的にして一生懸命に働いて生産量を増やすという大きな変化が生まれたのである。
14世紀頃から既に農民の間で『都市部に販売に行く貨幣の利潤獲得を目的とする農耕』が始まってきたと考えられており、自分と家族の利潤増大を目的として働くようになった農民たちは、それ以前よりも『生産効率性の上昇・生産量の増大』に熱心に取り組むようになったわけである。荘園領主(名主)としても隷属と強制、慣習による農業経営ではまともな年貢を得づらくなっていったので(隷属農民の衣食住の保障にも大きなコストがかかるので)、隷属農民を自立させて家族単位で労働意欲を高めさせる方法が広がっていき、荘園制は半ば自発的に崩壊プロセスに入っていった。
徳川幕府が天下統一を果たして戦乱の世が終息した江戸時代は、その前半は新田開発が急増する『人口の増加期』、後半は『人口の停滞期』になっている。江戸初期に約1200~1300万人だった日本の人口は最大で約3300万人程度にまで増大したものの、3000万人台前半を大きく超えるような人口支持力は近代化の追い風なくしてはどうしても得られなかったのである。
江戸時代の人口動態から見る結婚・離婚・平均出生数:18世紀の婚姻率上昇と人口停滞
江戸時代の前半が『人口増加期』であり、後半が『人口停滞期』であるというのは、農業生産量(石高)の変化とも如実に連動している。1598年の日本の総石高は1851万石で、1697年にはそれが2580万石にまで急増しているのだが、江戸期後半になると1830年の段階の総石高は3043万石であり17世紀末と比較してもそれほど成長しておらず、幕末まで同程度の生産量がずっと続いて頭打ちになっているのである。江戸時代の人口学的研究が行われやすい理由としては、世帯の各人の名前、戸主との続柄、性別・年齢が毎年調査されてきちんと記されている寺請制度に基づく『宗門改帳(しゅうもんあらためちょう)』があるからだが、宗門改帳は現代の戸籍のようなもので、親子・夫婦・きょうだいの関係性や妻が生んだ子供の数などを確認することができるのである。
1980年代のあたりまでの日本が『皆婚(婚姻率90%以上・未婚率10%以下)』に近かったように、貧困層や隷属民を減らして雇用・所得水準を高める近代化は、その成長発展期のプロセスにおいて『皆婚化』を進める傾向がある。江戸時代の日本も荘園制(名主制)が崩壊して、隷属農民や下人といった原則として結婚せず子供を持たない実質的な隷属身分の人が減って自立化(自由化)してくる17~18世紀にかけて婚姻率が急上昇している。『下人(げにん)』というのは特定の主人の家に縛り付けられて農業・家事・雑事を担っていた住み込みの人である。
下人は行動の自由(やめる自由・やめて生きていく手段・結婚して子をなす自由)がなく、衣食住を保証する主人を持つという意味では奴隷にも近かったが、17世紀の下人の人口比率は約13%あり、これが婚姻率が上昇した18世紀には約7%にまで減っているのである。しかし封建主義の時代には下人でなくても、完全な行動の自由はなく武士でも主人・主家がいるのは普通なので、結婚や出産の自由がないということを除けば(江戸時代には身分制・家長権限・しきたりがあるので、下人でなくても本人の感情だけに基づく個人の自由恋愛的なものは殆どない)、特別に虐げられた不自由な奴隷身分といえるような存在ではないという見方もあるだろう。
隷属身分(隷属家族)の自立と傍系親族・部屋住みの分家によって、江戸時代中期には婚姻率が急速に高まったとされ、18世紀末の16歳以上の婚姻率(有配偶率)は男性で約70%、女性で約80%程度にまでなっていたというから(安定的な生産基盤を持たない人も多い都市部ではより低かったが)、下人・隷属農民・部屋住みの激減によって結婚することが当たり前という価値観の地域が増えたようである。江戸時代の18世紀の日本は、明治の近代化以降の日本の皆婚化の流れの下地が形成された時代でもあり、結婚できない隷属的身分の人たちの激減だけではなく、特に家の存続(後継者)を至上価値とする『直系家族制の定着』によって自立した中層以上の農民において婚姻率は急増していくのである。
18世紀よりも前の日本では、荘園の隷属農民や中層以上の家に仕える下人をはじめとする婚姻しない層にボリュームがあったため、婚姻率(有配偶率)によって出生数がコントロールされていたと考えられるが、18世紀以降は大半の人が結婚するようになっていったので結婚しない身分を作ることによる『婚姻率(有配偶率)による出生数調整』が不可能となり、堕胎・間引き・避妊(行為の抑制)などによる『婚姻後の出生数調整』が増加したと見られている。人権意識の発達した現代から見ると、江戸時代にあったとされる出産後の新生児・乳幼児を意図的に殺してしまうという『間引き』は許されない反倫理的な犯罪行為である。だが江戸時代には確実な避妊方法もなく出産前の人工妊娠中絶の技術もなかったのだから、夫婦が性行為をする限りは絶えず妊娠の可能性があり、妊娠出産後の子供を育てられない(育てる意思がない)のであれば児童相談所があるわけもなく、自己処理が求められたという事情はある。
しかし江戸期には、下手人の罪人(容疑者)に対する刑罰・拷問の苛烈さ・残酷さを見ても、やはり全ての人間に不可侵の生存権が生まれながらにあるという近代的な人権意識というもの自体がなかった時代であり、生まれて間もない乳幼児の生命(生殺与奪)は両親の権限下にあって、やむなく間引きで殺した場合には『水子供養』のような形で弔われることになった。親による乳幼児の間引きに対して、法規制の網などは当然かかっておらず、宗門改帳(戸籍)にも初めから記載されなかったようである。江戸時代の間引きは、貧困で食うもの食えないのでやむなくというもっともな事例よりも、マルサスのいう予防的妨げの人口調整策として『貧困に陥る前の産児制限・家族人口の調整』といった側面が強かったようである。現代から見て非人道的ではあるが、この間引きを含む家族人口の再調整が『世帯の余剰所得・貯蓄』を生んで、明治維新以降の急速な経済成長の原動力として活用されたとする説もある。
江戸後期の婚姻率は農村において特に高かったが、この時代の結婚は『両性の合意・恋愛感情(異性として好きか嫌いか)』で行われることは極めて稀であり、『直系家族(家名)・耕作地の所有権の維持』を至上命題として、『子供を作るための目的』で行われることが大半であった。江戸時代の離婚率は現代から見ても非常に高く、結婚後5年以内の離婚率は約25~30%くらいはあったとする説もあったりするが、10年以上の婚姻が継続すれば離婚しない夫婦が多かったのだという。江戸時代にはやはり妻よりも夫のほうが権限が強く、離婚する場合にも夫が『三行半(みくだりはん)』と呼ばれる離縁状を書くことが多かったが、この三行半は『未婚であることの証明書・再婚できる権利証』でもあり、妻の側が夫に三行半を求めてそれによって新たに別の人と再婚するケースも多かったのである。
江戸時代は離婚率も高いが再婚率も高くなっており、まだ子供が作れると想定される年齢であれば離婚や死別をしても男女共に約8割が再婚したとされているが、逆に男性55歳、女性45歳を超えるとそこから再婚した人は皆無に近かったとされる。このことも江戸時代の結婚というものの目的や本質が、『直系家族・土地を維持するための人口再生産(子供の出産)』にあったことを示唆している。だが、江戸時代後半に当たる18~19世紀の農村の夫婦の平均出生数(数え年2歳の時点で存在している子供)は『約3.1人』で、現代人が思うほどに江戸時代の女性は子供を産んでいなかった感じがあるが、江戸時代後半は人口研究では『人口停滞期』とされている。
ただ宗門改帳は数え年で2歳に至らない新生児・乳児の名前は記載されないので、生まれてまもなくして亡くなってしまった乳児や2歳以前に間引かれた子供などの出生数はカウントされていない。江戸時代は離婚・死別が多いので、初婚年齢が早くても婚姻持続ができず離婚になったり、妻が若くして亡くなってしまったりで、ほとんど子供を残さない夫婦もあったので、平均すれば出生数は低めになるという間接的要因もある。当時の乳児死亡率の高さや間引かれた子供の数を考えれば、江戸後期の女性が実際に生涯で何人の子供を出産したのかは正確には分からないということになるが、最低でも3人程度は産んでいた(実際はそれより数人は多いかもしれないが10人以上というような極端な多さではないだろう)ということにはなる。
元記事の執筆日:2016/06
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