現代人の適度な自己愛の追求と誇大自己による不適応:自己像を楽しむフォトジェニック文化、自己愛パーソナリティーにおける夢・理想の追求と挫折:『なりたい自分』をどこまで目指すか?

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自己愛パーソナリティーにおける夢・理想の追求と挫折:『なりたい自分』をどこまで目指すか?


自己愛性パーソナリティーの『自己特別視・モラトリアム遷延』と人間関係をこじらせる問題点


小此木啓吾の“自我理想による自己規律”と“父性衰退の自己愛の肥大”:社会・他者との関係性


自己愛性パーソナリティーの人の“適応的な能力発揮”と“不適応な挫折・無気力”:自己愛の調整


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現代人の適度な自己愛の追求と誇大自己による不適応:自己像を楽しむフォトジェニック文化

自己愛性パーソナリティーの人は、自分の持っている『誇大自己(自己愛のファンタジー)』に見合うだけの実力や魅力、ちやほやしてくれる周囲の反応があれば、それなりの現実適応のパフォーマンスを維持できる。子供時代から親(特に母親)に大切に育てられることの多い現代人は、多かれ少なかれ『自己愛の肥大』を伴いやすく、何でも思い通りになるといった幼児的全能感の『否定する父権(社会)による去勢』の時期が思春期・青年期以降にまで遅滞してしまうことも少なくない。

いつまでも若々しくいたいというアンチエイジング、長く異性としてちやほやされたいという中高年以降の恋愛願望、仕事や学業、人間関係で一定の影響力を保持し続けたいという社会的な名声欲なども『誇大自己』として解釈できる。精神分析家のハインツ・コフートは自己愛の発達論において『誇大自己』『理想化された親イマーゴ(理想自己)』の二つの極(発達ライン)を考えた。

望ましい親を模範としてかくあるべき理想の自己像を設定する『理想化された親イマーゴ(理想自己)』よりも、他人や社会から認められて自分の影響力・評価を際限なく拡大し続けたい(現実の自分よりも自分を大きく強く魅力的に見せたい)『誇大自己』のほうが一般的にいう自己愛に近いニュアンスがある。だが、実際の自分を遥かに超えた理想や承認、成功を思い描く妄想症的なタイプばかりではなく、自分に可能な『小さな世界(一定範囲の人間関係)における自己愛・わがままの充足』というのは、現代人にとって最もありふれた『気分が良くて望ましいと感じる現実適応の型』として認識されているのではないかと思われる。

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現代社会において『小さな世界(一定範囲の人間関係)における自己愛・わがままの充足』のハードルは極端に高いものではない。平均前後の能力・魅力・財力・コミュニケーション力があって『付き合うべき相手』を上手く選ぶのであれば(自分を否定したり揶揄したり暴力を振るってきたりする相手を避けることができれば)、相対的な能力・魅力の高低とあまり関係なく、結構な割合の人が『小さな自己愛・わがままを満たせる場所や相手(家族・恋人・友人知人・職場や地域のポジション・ネットのコミュニティなど)』を持ちやすい。

現代の若者に人気の“Instagram”に代表される『フォトジェニック文化(写真映りを気にして知人や他者の承認を求める文化)』も自己愛文化の現れの一断面として理解することはできるが、気心の知れた友人知人や家族・恋人との間で『自己像(ポートレート)を見る・見せる』というのは最も簡単で身近な自己愛充足の方法とも言える。元々人並み以上に容姿の良い人や美貌に恵まれた人が、『ばっちり決まった写真』を不特定多数に対して大量にこまめに公開していき、そのセルフポートレート(自己像)の写真にたくさんのイイね!を付けて欲しいというのは分かりやすい自己愛の承認である。現代ではネットの普及(個人メディアの発達)によって、自己像の承認欲求におけるプロの芸能人と見栄えのするアマチュアの境界線が薄らいできていて、簡単に自己愛を中心としたライフスタイルにハマりやすい。

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自己愛パーソナリティーにおける夢・理想の追求と挫折:『なりたい自分』をどこまで目指すか?

自己愛性パーソナリティーの特徴は『自己愛の傷つきに対する脆弱さ』『誇大な自己像を実現して自己愛を満たすための努力』である。自己愛の傷つきに対する脆弱さでは、周囲の小さな世界で認められていた自己愛が深く傷つけられると思春期挫折症候群にも似た絶望感や劣等感、虚無感、無気力に陥ってなかなか立ち直れなくなる(実際の自分に見合った自己イメージや周囲からの対応ではどうしても納得できない)ということにもなりやすい。誇大な自己像を実現して自己愛を満たすための努力というのは、『自分がなりたい自分』にこだわって何が何でも諦めない姿勢といった形で現れやすい。

典型的なのは『一流大を卒業して一流企業に就職しなければならない・医師や弁護士など専門家にならなければならない・芸能人(ミュージシャン)やモデル、プロスポーツ選手として成功しなければならない・高所得で社会的威信のある仕事をしている相手と結婚しなければならない(容姿端麗な相手と付き合ったり結婚しなければならない)』といった現代の分かりやすいサクセスストーリーであり、そのために多大な自己犠牲を払うことも厭わないことがある。

妥協したり諦めたりせずに『自分がなりたい自分』にこだわることは向上心や理想追求の現れであり悪いことではないのだが、『実際の自己像・自分の能力や魅力』では及ばない目標水準を設定してその目標を達成するための苦労や犠牲を惜しまないとなると、中長期的には人生設計や経済生活に大きな負担・損失・破綻のリスクが生まれてしまうことになる。あるいは、芸能人や歌手になるために必要なステップだとして、ほとんど効果のない高額なレッスンを強要されたりAV出演を登竜門のように思わされたり、一流ビジネスパーソンや投資の成功者になるための高額なセミナー参加に勧誘されたりするような『夢・憧れを逆手に取る詐欺』にひっかかる危険性というものも意識しておく必要がある。

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夢や理想、憧れを追い求めて懸命に努力すること自体は好ましいことであるが、人間は寿命のある有限の存在であると同時に、働いて収入を得なければ原則として生きていけない社会経済的な存在でもあるので、長期間にわたって終わりなく『対価・実利のない自己犠牲的な努力(なりたい自分にどうやっても届きそうにない努力)』を払い続けることは徒労や破綻(結果としての燃え尽き・貧困・就職困難・無気力と絶望感)に行き着いてしまう危険性も小さくはない。自己愛の反映された理想的な自己像の追求は、現代社会ではスタンダードな幸福追求と重なる部分も多いのだが、一定以上の年齢では『自分がなりたい自分になるための根拠・意欲・裏付けによる実現可能性』『中年期以降の職業と収入・人生設計・人間関係』とのバランスを少し意識しておかないと、現実適応の上で大きな挫折に直面することもあるということだろう。

自己愛パーソナリティー構造で最もポピュラーな問題として、『理想自己(誇大自己)と現実自己とのギャップ』に耐え切れなくなって深刻な社会不適応や無気力(何もしたくない状態)の遷延に陥るということがある。逆に深刻な社会不適応によって仕事ができないとかお金が足りなくなるとか、周囲に人がいなくなって孤立するとかいう問題が起こらなければ、自己愛パーソナリティーそのものは自分にとっては心地よいファンタジーを見せてくれるという意味で『自我親和的(自我の違和感がなくて誰かに援助を求めたりしないもの)』なのである。

自分を『特別に価値のある存在』だと思い込んでいる自己愛パーソナリティーの人は、一般に『自己愛の傷つき』に対する脆弱性を持っているわけだが、その脆弱性が露わになるのが『他者からの否定・批判による居場所の喪失』『社会経済的な不適応の拡大・失業・貧困』などである。自己愛が強い人でその自己愛を周囲に認めさせるだけの影響力(能力・魅力)を維持できていれば、実際の自分以上の誇大自己のイリュージョン(錯覚)は崩壊しないので、『小さな世界における自己愛の充足』を続けていくことができる。だが、それまでの生活・人間関係を続けていけなくなるような決定的な挫折や失敗、困窮に陥った時には、かなり自己愛の強い妄想的な人であっても誇大自己的なイリュージョンが崩壊して、『むきだしの現実』に対峙させられる。

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自己愛性パーソナリティーの人(軽度であれば現代人の過半が含まれる)は、自己愛を行動と意欲、目標達成のエネルギー源にしているので、『自己愛のイリュージョン(錯覚)とファンタジー(幻想)』が崩壊してしまうと、それまでのポジティブで活動的なパーソナリティーが嘘であったかのように意気消沈してひきこもってしまったり、抑うつ的になって人生を悲観して絶望(何もしない無為化)してしまったりする。自己愛の錯覚や幻想に依拠して物事を精力的に推し進めていく人は、その自己愛の錯覚・幻想が維持できなくなり周囲から肯定的なフィードバックを受けられなくなった時に深刻な社会不適応に陥り、典型的な状態像として『不登校や出社拒否・ひきこもり・アパシーシンドローム(意欲減退症候群)・抑うつと悲観・社会や他者の全否定・生きる意味や価値の否定』などを示して、長期的に無為・無気力の状態が遷延していくことが多いのである。

自己愛性パーソナリティーの『自己特別視・モラトリアム遷延』と人間関係をこじらせる問題点

誇大自己を強化する自己愛のファンタジー(幻想)やイリュージョン(錯覚)、それを認めてくれる小さな世界がないと前向きに生きていけない人は多い。現代人は我慢・忍耐・屈辱に耐え忍んでなんとか生きていくというような生き方に容易に適応できないくらいには自意識・自己愛が肥大していて、その背景には格差のある豊かな物質社会における豊かさの氾濫があるからである。その幻想的な世界・関係が完全に破綻して生きるか死ぬかのギリギリのラインにまで追い詰められないと、自己愛パーソナリティーの人の決定的な認知や行動の転換、生きる姿勢の変化(今までの自分ではダメだから本気で考え方や世界観、生き方を変えようとする動機づけ)というのはなかなか引き起こせないことが多い。

『自己愛の時代』とされる現代では、かつては『思春期・青年期のモラトリアム(社会的選択の猶予期間)遷延』の問題であった自己愛の肥大と挫折が、中年期・老年期にまで延長される『自分のなりたい自己像への囚われ(権力・財力・若さ・健康・家族・色恋・遊びや趣味・子孫の期待への終わりなき囚われ)』になってしまうことも少なくないのである。そのことが良いか悪いかの価値判断は、その人の置かれている客観状況や人間関係、経済状態、精神状態における適応度を見てみないと分からないというくらいには、現代において『自分で自分を愛して肯定的に見れる自己像を構築していく自己愛の強さ』というのは、幸福追求の一般的な要素として当たり前のものになってしまっている。

現代人にある程度の自己愛の強さがあるのは仕方がないとしても、社会生活や人間関係に最低限の適応をしていくためには『自己中心的なわがままさ・他者に対する優越感や支配性・いつも自分が主役でないと不満になる』を抑制して社会や他者に合わせて協力していく意識・姿勢も培っていかなければならない。自己愛性パーソナリティーの人の対人関係における問題点は、自分がこうすれば相手が何を感じてどのように思うだろうかという『共感性と想像力の欠如』、自分が愛情を注がれたり人から賞賛・承認されるのは当たり前だという『自己特別視・他者への感謝の欠如』、自分の自己愛の幻想を崩す他者や世界とは一切関わろうとしないという『小さな世界への閉じこもり・思い通りにしやすい他者への支配性(いじめ・DV・モラハラとも相関する)』に集約される。

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他者が苦しんでいても悲しんでいても、共感性の乏しい自己愛性パーソナリティーの人は興味がなくてお構いなしで、自分をちやほやして気分を良くして欲しいとばかりにさまざまなお願いや要求をしてきたりする。相手が今どのような精神状態にあるのかという想像力も余りないので、近親者と死別したり配偶者と別れたりしてひどく落ち込んでいるような人にも十分な気遣いができず、平常通りの自分を持ち上げてくれる人間関係を求めがちで、最終的にその自己中心性や身勝手さが嫌われて人が離れることにもなりやすい。『他者の感情・権利』をほとんど無視して、自分の自己愛や利益獲得のために他者を利用したり搾取したりするのだが、相手がかなり無理をして自分のために尽くしてくれてもそのくらいしてもらって当たり前という『自己特別視』があるので、自分のことを思って援助や協力をしてくれる人に感謝ができず、結果として人間関係のトラブル(今まで自己犠牲を払ってでも良くしてくれていた人が愛想を尽かして離れるなど)が起こりやすくなる。

一定以上の能力・才能・魅力を持った自己愛性パーソナリティーの人は、自分は特別な存在であり自分だけが重要な仕事をしていて忙しいとか、自分の大事な仕事を他の人はもっと認めて応援すべきだという『自己特別視の錯覚』に陥りやすいのだが、この能力や魅力が大勢の人を納得させて魅了するほどに素晴らしいものであれば、自己中心性・わがままさ・身勝手さを上回る形で『自己愛的なカリスマ性(裏付けのある自己愛による他者への影響力)』が生まれることもある。

DSM-5などの診断・統計マニュアルでは、自己愛性パーソナリティー障害(NPD)は境界性パーソナリティー障害(BPD)と同じく『クラスターB(B群)』に分類されているが、自己愛性パーソナリティーでも境界性パーソナリティーと類似した『対人評価の急な変化(理想化・賞賛とこきおろし・罵倒)』が見られることがある。つまり、自分の自己愛の幻想を満たしてくれる人は理想化・美化して『良い人』だと賞賛するのだが、いったん自分の自己愛の幻想を解体するような言動を見せた人に対しては『悪い人』だと全否定でこきおろしたりその存在を完全に無視したりするのである。

一方で、自己愛性パーソナリティーを持っている人が、人生のライフサイクルのどこかで必ず破綻や挫折をするというわけではないというのが現実の一面であり、『自己愛の強さを現実に合わせて調整できる人』や『個人主義・実力主義が認められる小さな世界(芸術・芸能・スポーツ・学問など特殊な世界)への適応』であれば、適度な自己愛の幻想や錯覚を保ったままで人生を終える人も少なからずいるだろう。実力と魅力、お金さえあればある程度まで自己中心的(誇大自己的)でわがままでも許される世界・関係はあるが、それは自己愛性パーソナリティーの人そのものをみんなが認めているから許されているのではなく、その人に近づくことによって何らかのメリットがあるから見逃されているに過ぎないともいえる。

だから、『今持っている権力・財力・能力・魅力・若さ』などを失った時には、それまで当たり前のように周囲の人々が支えてくれていた『自己愛の幻想・錯覚』が一気に破綻して、心地よい夢から永遠に醒めてしまったという絶望・虚無に落ち込んでしまう危険もあるのである。他者に対する共感性や想像力を持って人間関係を築いていくこと、他者からの好意や承認に対して素直で謙虚な感謝の念を持つことの大切さというのは、自己愛の肥大や誇大自己の追求に没頭している時には分からないものである。

だが自己愛の時代であるからといって自己愛に過度に溺れてうぬぼれることは、いざという時にどうにもならない孤立・停滞・貧困に追いやられやすい、その意味で『自滅的・自己否定的なナルシシズム』の側面を持っており、調子良く人生が進んでいる時にこそ誇大自己の追求(自己特別視による人並み・平凡さの極端な否定)は自戒すべきことでもある。

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小此木啓吾の“自我理想による自己規律”と“父性衰退の自己愛の肥大”:社会・他者との関係性

“自己愛(self-love)”とは自分で自分を愛することであり、自分を他者よりも優遇して自己中心的な欲望を何とか満たそうとすることである。人間は乳幼児期には誰もが自己愛に支配されていて、特に産まれて間もない赤ちゃんの時には泣いたりぐずついたりして、自分の自己中心的というか本能的な食欲・親和欲求・不快感の緩和を何とか満たしてもらおうとする。成長してからも自己愛は残るのだが、幼児期から思春期の発達プロセス(親子関係・友人関係・学習)において、『協調性・共感性・社会性・集団適応』を身につけていくことによって、『幼児的な全能感を背景に持つ自己中心的な自己愛』はかなり抑制されてくる。とにかく自分の欲望だけを優先して満たしたいという『過剰な自己愛』が抑制されることによって、人(集団)に合わせたり人のために行動したりすることもできるようになってくる。

ジークムント・フロイトが創始した精神分析では、幼児的な全能感や自己中心的な自己愛は、幼児期に体験する『エディプス・コンプレックス』における父親(家父長)の恐怖・権威・威圧・強制によって『去勢』されると考えられていた。エディプス・コンプレックスというのは、4~6歳くらいの子供が『母親に対する愛情(性衝動)・独占欲』『父親に対する嫉妬・敵対心(競争心)』を感じてその矛盾に葛藤するというものであり、父親から母親を奪おうとして奪えずに人生で初めての挫折・断念(諦め)を強いられるというものである。この人生で初めて直面する思い通りにならない現実が、自分の自己中心的・反社会的な欲望の断念という『去勢』につながっていて、パーソナルな自己愛の過剰が抑制されることになる。

エディプス・コンプレックスの去勢によって、子供は『思い通りにならない現実・社会(自分よりも上位の他者)』に直面して、自己中心的な自己愛を規制して理想的・倫理的な自己像を確立する役割を果たす『超自我(superego)』を内面化していくのである。超自我を形成する動因になっているのは、自分の実力ではどうやっても敵うことができない権威者・上位者としての『父親』である。エディプス・コンプレックスの去勢によって幼児的な全能感が抑制され、超自我によって自己中心的な自己愛が『倫理的・社会的にも望ましい理想自我』に置き換えられていくわけだが、ジークムント・フロイトはその理想自我の典型的・父権的な現れとしてミケランジェロ作のモーゼ像を見ていたとされる。なぜミケランジェロのモーゼ像が理想自我の象徴的な造形物のように見られたのだろうか。

S.フロイトは自分で自分の自己中心的な自己愛や全能感を制御できない人を『未熟・幼稚な人物』と見なす。哲学者のインマヌエル・カント(Immanuel Kant,1724-1804)は、本能的欲求を思いのままに満たす人間はただ動物的に生きているだけで『自由』ではなく、その本能的欲求を敢えて自己制御して『格率(~すべきという倫理規範)』に従える人間こそが『自由』なのだとしたが、これはモーゼ像に投影されたフロイトの理想自我の考え方にも近いものである。カントのいう本能的欲求を『自己愛』に置き換え、人間の自由を『理想自我(超自我の善悪の道徳に規律される生き方)』に置き換えれば、フロイトが預言者モーゼに見た十戒(規範)を自らに厳しく科すような理想自我のあり方とも重なってくるのである。『旧約聖書・出エジプト記』に描かれるモーゼは、古代イスラエルのヘブライ人(イスラエル人)を奴隷にしていたエジプト王国から脱出させた民族指導者である。

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モーゼはシナイ山の山頂で神から『十戒』を授けられた預言者でもあるが、自己中心的な自己愛を肥大させて一般民衆の上に君臨することはなく、神から与えられた絶対的規範である十戒の下に民衆と同じように自己規律することで『自己愛・誇大自己』を抑制していた。ミケランジェロのモーゼ像の神聖性や崇高性の要因として、フロイトは自己愛や誇大自己とは対極的なものである『自己規律する理想自我』を見ていたのである。フロイトの精神分析では自分で自分の欲望を思いのままに満たして自己評価を高める『自己愛』というのは『去勢後の理想自我・超自我』よりも未熟で幼稚なものと考えられている。

厳粛な顔をしたミケランジェロのモーゼ像は自己愛の肥大を許さない現実原則の投影である『父性像・父権性(去勢して社会適応するもの)』としても読み解くことができる。だが、『自己愛の時代』とも言われる女性原理の強い現代では、こういったモーゼ像に象徴されるような『男性原理・父権性に基づく去勢秩序(ダメなものはダメ・思い通りにならないのが現実・自分よりも人や社会を優先せよ)』というものは上手く機能しないことも多いし、無条件で正しいものとして受け容れられるわけでもなくなっている。

現代の先進国の実際の家庭生活や親子関係を振り返ってみると、そもそもかつてのような『父親の権威・指示性』がストレートに通用しない母親・子供が中心の家庭が増えている。逆に暴力的あるいは強制的な父権を発揮しすぎれば『DV・モラハラ・虐待』の問題になる恐れも高くなっており、無理やりに威圧で言うことを聞かせる時代でもなくなっている。父性的な強制力を前提にしたフロイトの時代の精神分析では、『幼児的な全能感の去勢』『母親が父親に味方してその権威を高める構造(母子密着よりも父母連携の優先)』があったわけだが、現代では逆に『幼児的な全能感を去勢されていない親・子の共鳴(友達親子で厳しい規範や禁止が乏しい)』が起こりやすい。

そのことが『自己愛(ナルシシズム)の時代』を形成する一因にもなっているが、現代では親子関係だけではなく人間関係全般で『他者への強い干渉・強制』を相互にしなくなっている(本当に小さな時期を除いては本人の主体性・自主性にすべて任せてしまう)というのもある。元々、子供の幼児期のエディプスコンプレックスによる去勢が行われにくくなっている『母子密着・甘やかし・(本人の適性に配慮しない)自主性尊重』の要因があって、何でも思い通りに物事を動かそうとする『自己愛』が肥大しやすくなっている。

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更に、一定以上の年齢になると肥大した自己愛や自己中心的な幼児性のために問題が起こっても、誰かが教育的に干渉して抑制しようとすることもなくなる。青年期・壮年期以降の現代人の人生は、『自己愛を満たすだけの能力・魅力・立場・実績』があるかないかに大きく左右されやすい、特に自己愛が肥大した人の社会適応や職業生活では他人と上手く関われないことによる対立・障害(不利益)が多くなりやすいのである。精神科医・精神分析家の小此木啓吾(おこのぎけいご,1930-2003)『アイデンティティ-自我理想=裸の自己愛』という公式を提示している。ここでいう自我理想は『第三者からも評価される社会性・倫理性を帯びた理想的な自我(超自我によって自己規律・自己批判される自我)』といった意味合いで、ただ自分のしたいことができて欲望さえ満たされれば良いという自己中心的な裸の自己愛を抑制する役割を果たしている。

自己愛の時代である現代社会では、その『自我理想・超自我の喪失』が起こっていると小此木啓吾は指摘して、自我理想を禁欲的に努力して追求することよりも、自己中心的に自分の思いどおりに生きること(やりたいことをやる・欲しいものを手に入れる・人や社会に干渉されない)が高い価値を占めるようになったとかなり批判的な論調で論じている。小此木氏は現代人のさまざまな性格類型や価値観の変遷を著作を通して分析していたが、従来のライフステージに対する決断をしない『モラトリアム人間』や自分自身の欲求や賞賛にしか関心がない『自己愛人間』に対しては批判的である。

やはり、自らの生きた時代背景の価値観とも合致する自我理想を掲げ、超自我で自己規律しながらライフステージに応じた決断・社会貢献をしていく『アイデンティティー人間』を模範的な人間像としており、精神分析家らしく社会や他者との関係性の中である程度我慢しながら禁欲的(調整的)に自己確立していくことを人生課題の中心に据えている。

自己愛性パーソナリティーの人の“適応的な能力発揮”と“不適応な挫折・無気力”:自己愛の調整

超自我の自己規律や自我理想の追求を前提にして自己アイデンティティーを構築していた時代には、超自我・自我理想に見合った自分の人格や人生を築き上げていくことが『自己愛の高まり』につながっていた。だが、現代ではより本能的かつ直接的に『誇大自己(現実の自分を超えた幼児的な全能感の幻想)』が満たされるか否かで『自己愛の高まり』が規定される時代へと変わってきているのだという。

この『自己愛』をキーワードとする時代性や人間性の変化は、現代の大衆が憧れるスター(芸能人)やアイドル、セレブ、ビジネスの成功者といった人たちもまた『能力・魅力のある自己愛性パーソナリティー構造』が多いということにも反映されているのかもしれない。テレビやウェブを通じて映し出される能力・魅力のある自己愛的なスターや有名人は、今の自分よりももっと能力(魅力)のある自分になりたいという大衆の自己愛と同一化して共鳴することによって更に人気(評価)を高めるという仕組みになっている。

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自己愛の想像的な一体感・連帯感こそが『誇大自己』を双方向的に満足させるという意味で重要なのであり、スターや有名人が直接的にファン(支持者)に対して利他的な行動や理想的な人間性を発揮する必要性はほとんど無くなっている。下手をすれば国民のための実際的な政策・制度を実現していくべき『政治の世界』においてさえも、『劇場型政治・人気投票型の選挙』によって自己愛的な見栄えのする政治家、有権者に勇ましいことや甘い言葉ばかりを囁いて誇大自己を刺激する政治家が『議席・力』を持ちやすくなっている。

自己愛に見合うだけの実力・魅力を持っている人にとっては、現代社会はスリリングで面白い社会(自己愛を満たしてくれる承認・賞賛・報酬を得やすい社会)になりやすいのだが、反対に自己愛だけが肥大してしまってそれに実力・魅力が全く追いついてこない人だと早期に学校・仕事・恋愛・結婚などから離脱してしまう『思春期・青年期の挫折症候群』に陥りやすいという問題もある。何でも思い通りになる自己愛を満たすことだけが人生の目的のようになってしまうと、ほんの小さな挫折や失敗、障害によって二度と立ち上がれないような心理的ダメージを受けたり、自己イメージが誇大になりすぎて『小さな成功・前進の価値(ステップバイステップのやり方の有効性)』を実感できず、自分で勝手に『目的意識・意欲の喪失』に陥ってひきこもりがちになったりする。

自己愛性パーソナリティー構造を持つ人の挫折体験(現実否認)の後遺症として、『不登校・出社拒否・アパシー症候群(意欲減退症候群)・アルコール依存症(薬物依存症)・抑うつ状態・悲観的で自暴自棄な言動』などが生じることも珍しくない。自己愛の肥大や誇大自己への執着が根本原因になっている場合には、わがままになり過ぎず『現実(社会・他者)』と折り合えるレベルへと自己愛を調整していく認知・行動面の修正を粘り強く続けていくような対処を取ることになるが、本人が『折り合いをつけてまで自己愛を捨てたくない・まだ自己愛を満たす可能性が少しでもある限りは諦めない』が強い場合には、認知行動療法的な対処法をしても(本人がやる気がない以上は)その効果は芳しくないことが多い。

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自己愛性パーソナリティー障害(NPD)については、国際的な診断統計マニュアルのDSMでも診断基準が確立されているが、その中核にあるのは自分が実際以上に特別な存在であり、誰よりも優れているという『自己誇大感(理想的な自己像)』であり、その誇大自己と現実(社会・他者)とのギャップが大きくなればなるほど、外形的にもその人の振る舞いや言動は病的なもの(自己愛の度を越したもの)として見られやすくなるのである。自己愛性パーソナリティーの人は、自分が並みの人間ではなく特別に優れた存在であるという『自己誇大感』を満たして自己価値を証明することが人生の目的になりやすく、『他者からの評価・賞賛・承認・特別扱い』を際限なく求めることによって最後には挫折や落胆を味わうことになりやすい。

一般的には、『現実の社会・他者』に自己愛のレベルを調整することで適応していくのだが、自己愛パーソナリティーの人の場合には強すぎる自己愛のレベルに『現実の社会・他者』を引き寄せて無理にでも従わせようとするので、それに見合うだけの能力・魅力が十分になければいずれはその幻想的で自己愛的な自己像が破綻してしまう。そこで改めて『シビアな現実』にどう向き合っていけば良いのかという自己アイデンティティーの現実的な再構築を迫られる。その段階で自己アイデンティティーの再構築や自己愛の調整に失敗したり自己愛の幻想に浸り切ってしまうと(初めから現実を無視した態度を貫こうとすると)、中途半端に何かに挑戦しても仕方ないという気持ちになって、『不適応・自己矛盾・無気力の問題』がより深刻になって自意識をこじらせてしまうことになりやすい。

元記事の執筆日:2016/09/03

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