岸見一郎・古賀史健『幸せになる勇気』の書評1:持続する哲学としてのアドラー心理学、ダニエル・カーネマン『ファスト&スロー』と人の二段階の脳機能:自動反応と努力を要する知的作業

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岸見一郎・古賀史健『幸せになる勇気』の書評2:援助する教育論・幸福を得る人間知


岸見一郎・古賀史健『幸せになる勇気』の書評3:共同体感覚に根ざした協力原理と愛・信頼


認知容易性(分かりやすさ)による直観的な判断:馴染みがあるものほど信じやすい


ロバート・ザイアンスの単純接触効果と馴れたものに安心・好意を感じる動物


連想活性化の脳機能と連想記憶ネットワーク:精神分析の無意識の言語化の仕組み


プライミング効果と人間の自由意志の懐疑:お金のプライムで個人主義化・利己化する人


ダニエル・カーネマン『ファスト&スロー』と人の二段階の脳機能:自動反応と努力を要する知的作業


人間の脳はなぜ間違えるのか?:システム1の自動的な印象・バイアスとシステム2の知識・努力


セルフコントロールと認知能力の相関とシステム2:努力・意志を必要とせずに課題をこなすフロー


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岸見一郎・古賀史健『幸せになる勇気』の書評1:持続する哲学としてのアドラー心理学

青年と哲人の対話形式でアドラー心理学を分かりやすく説明した岸見一郎・古賀史健の『嫌われる勇気』の続編に当たる。アドラー心理学の教育論と組織論にフォーカスしながら、教師(中学校の先生)の仕事にまるで役に立たなかった『アドラー心理学』に失望した青年の苦悩を哲人が解きほぐしていく。アドラー心理学など実際の教育現場や子供達に応用しても意味がない『綺麗事の机上の空論(現実社会に適用不可能なペテン)』に過ぎないとする青年の失望と怒りの苦悩は深い。哲人は青年の失望と怒りの理由に丁寧に耳を傾けながら、『アドラー心理学の教育的かつ実践的な考え方・使い方』を改めて明確な言葉で語る。哲人は常に青年と共に考えて問題を解決していこうとする姿勢を崩さない、そのアドラー心理学の実践と努力の継続性は『哲学する継続思考』とも共通している。

『褒めもせず叱りもしない・生徒の自主性を全面的に認める』というアドラー心理学の教育論は理論・理想の上では確かに素晴らしいかもしれないが、実際の学校・生徒をはじめとする『現実世界』に応用できるような実用性(教育効果)が全くないという青年の激しい反論を受け、哲人はアドラー心理学の本質はただの『理論・知識』ではなく『実践・行動』なのだと語る。生徒の教育に行き詰まった青年はアドラーの思想と実践を懐疑して失望し、非現実的なアドラー心理学を捨て去りたいという所まで追い詰められている。だが、哲人に言わせればそれは理論を知るだけで幸福になれる(幸福を維持するための実践の継続など要らない)というアドラー心理学に対する勘違いに過ぎず、青年は人生における最大の決断である『愛』を実践できていないからアドラー心理学に基づく教育に挫折することになったのだという。

哲人と青年は『哲学と宗教の差異』といった本質的な討論にまで踏み込んでいくが、これはアドラー心理学の本質である『実践を継続すること・歩き続けること』とも重なっている。宗教は『神・教義・聖典』といった絶対的な価値基準を前提にしているが、『原理探求の愛知学』である哲学は何かを絶対的な価値基準として依拠して信じるのではなく、自分の頭で普遍的な原理や事物の本質について常に考え続けることだという指摘にはなるほどと頷かせられる。人生はいつ終わるともしれない『有限の旅路』ではあるけれど、これさえやってしまえばずっと幸福でい続けられるとか、これを達成すれば人生のゴールに到着できるとかいう意味での『絶対的な基準・終わり』はない。アドラー心理学は理論のままに一回実践すればずっと幸せを感じられる『魔法の杖』ではないという時、『人生は生きている限り、同じ場所にずっと止まり続けることはできない』というリアルに立脚しているのである。

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人間の不平不満や自己否定の多くは、これだけ頑張ったのだから幸せになって当たり前という『魔法の杖』をどこかで期待してしまうことにも関係しているが、『人生・年齢・仕事・家族・人間関係・テクノロジー・社会・価値観』などあらゆるものや状況、条件は日々刻々と移り変わっており、人間は生きている限り『ここまでやれば全てが上手くいくゴール』というものはない。これは常に苦労したり我慢したりしなければならないというわけではない。常に『今の自分・社会(世界)・他者・仕事(役割)』などを振り返りながら、自分の頭で何をすれば良いのか、どうすれば幸せや充実感が得られるのかを考え続けて実践し続けなければならないということである。アドラー心理学が『宗教』ではなく『哲学』であるという由縁でもあり、魔法の杖などない現実(リアル)をどうにかこうにか自分なりに楽しく充実させて乗り切っていくヒントでもある。

ここまで来たのだから、何もしなくても私はずっとこのまま幸せで有り続けられるという人は、特別な解脱者(悟った人)か諦観者(多くを捨ててしまった人)でもない限りはありえないのだ。人間は日々刻々と変化する状況や他者、課題に対して『今・ここからどうすればいいのか?どのような思考や行動で変化に再適応できるか?』を考えなければならない存在として宿命づけられているのだろう。

岸見一郎・古賀史健『幸せになる勇気』の書評2:援助する教育論・幸福を得る人間知

本書『幸せになる勇気』は、教師である青年の疑問や悩みに答えていく形で、アドラー心理学の『教育論』としての側面に多くのページを費やしていて、その教育論が一般的な『人生論』にも応用できるように書かれているのが凄いところである。アドラー自身がドイツ初の児童相談所設立に関わるなど教育活動にも熱心に参加しており、個人心理学(精神分析の発展的理論)を前提としたカウンセリングにおいても『治療』ではなく『再教育』であると自己定義していたほどである。アドラーはカウンセラーは教育者であり、教育者はカウンセラーであるという同語反復的な職業人の定義も行っている。

精神医学や心理療法(カウンセリング)の分野では、患者やクライエントに対して治療的効果も期待できる話し合いや情報提供、生活指導を行っていくことを『心理教育』と呼ぶこともある。元々、精神医学・カウンセリングの分野は、患者・クライエントに何か有益なことを伝えて教える教育的活動の一環としての要素も併せ持ってはいたのである。アドラー心理学では人間の根源的欲求を『優越性の欲求』として、学校・家庭での教育の目的を『自立』とする。教育というのは産まれたばかりの赤ちゃんが次第に歩けるようになり言葉を話すようになり、他者とコミュニケーションできるようになるといった『生物学的・身体的な成長』を補完して精神的・社会的・経済的な自立を促進するものでもある。

教育は他者を支配統制してコントロールするような性質のものではない。教育とは『介入』ではなく自立を促進する『援助』であるというのもアドラー心理学の考え方である。教育を双方向的な援助と見る考え方は、現代の教育学・教育心理学や発達心理学・社会福祉学などと照らし合わせても納得のいく合理的なものだろう。特にアドラーは教育において、社会的自立のための『人間知』を重要視しており、その知には人間が人間として幸福に生きるための知も含まれているという。人間知というのは平たくいえば、私が他者との関わり合いを通して、所属する集団・共同体の中でどのように生きるべきか、他者と協力し合いながらどのような自分の役割・居場所を作り出していけるかという実践的な知識なのである。共同体感覚を提唱したアドラーらしい社会共同体との調和ありきの教育論になっていることが分かる。

アドラー心理学では『行動面の目標』として以下の2つを上げる。

1.自立すること。

2.社会と調和して暮らせること。

『心理面の目標』としては以下の2つを上げている。

1.わたしには能力がある、という意識(自己有能感)。

2.人々はわたしの仲間である、という意識(共同体感覚)。

これらの4つの目標が達成できない時に、現代人は社会生活で苦しめられて『生きづらさ』を感じることになるというのは、自分自身の問題や悩みを振り返ってみてもなかなか的を射ているように感じる。しかし改めてこの4つの目標を考えてみると、いずれも『経済難(雇用難)・孤立化・コミュニケーション不全・個人主義化・競争と劣等感』によって簡単には達成できないものになっていてそのハードルは低くはない。アドラー心理学の教育の大前提となるものとして、生徒との間に良好な人間関係を作り上げるための『尊敬』を上げるのだが、この尊敬という概念は一般的な上位者として敬う、持ち上げるといった意味合いではなく、『ありのままの相手を見ること・相手が唯一無二の存在であることを知る能力』としているのは興味深い。

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青年は哲人に対して『先生の話を聞かない・ルールを守らない・トラブルを起こす問題児』などであっても生徒を尊敬できるというのかと反論するのだが、哲人やアドラーのいう尊敬とはいわば『ありのままの相手を色眼鏡をかけずに見ること』や『一人の人間として当たり前の尊重を払うこと』であり何も特別なことではないのだ。本書で哲人と青年は、中学生の生徒たちに対応する教育論として、その前提となる『尊敬』を論じ合っているのだが、この尊敬は教師と生徒の人間関係だけに限定されるものではない。カウンセリング・マインドとも共通する『ありのままの相手の姿をまずは尊重する所から全ては始まる(良い人間関係はありのままの相手を認めない限りは作られることがない)』ということであり、相手を意図的に支配・操作・矯正しようとするような態度では教育も人間関係も上手くいかないのである。

アドラー心理学では『目的論・自己決定論』で人間の心理的問題が解明される。それは人間は『過去の原因』によって今の行動が規定されるのではなく、『現在の目的(恐怖・不安・傷つき・面倒を避けたい等)』によって無意識的であれ行動を選択しているというものである。人間は『自己決定することができる存在』であり、過去のトラウマに強く縛られてはおらず、現在の目的(感情)によって行動を選択していてその選択を変更することもできると考えるものである。過去によって未来が一義的に決められるのではなく、現在の自分によって過去が解釈されてプラスやマイナスの意味づけがなされるのである。自分自身の生を選択できるというプラグマティックな実用性からアドラー心理学は『使用の心理学』と呼ばれることもある。

岸見一郎・古賀史健『幸せになる勇気』の書評3:共同体感覚に根ざした協力原理と愛・信頼

『第二章 なぜ「賞罰」を否定するのか』では、学級(クラス)を民主主義国家に見立てて教師ではなく生徒を主権者とする、賞賛もしない処罰もしない学級運営のあり方が考えられている。教師が賞罰を厳しく統制して君臨する学級は、独裁国家としての弊害や腐敗を免れないという批判が為されるが、教師自身は『生徒に迎合して褒めすぎて舐められるリスク』と同時に『生徒を賞罰で一方的に支配してお互いに尊敬せず人間関係が破綻するリスク』も背負っているというのは分かりやすい。なぜ生徒がさまざまな問題行動やルール違反をするのかについて、アドラー心理学の立場から哲人は『問題行動に隠された目的』を指摘する。アドラー心理学の『問題行動の5段階説』には『承認・注目喚起・権力争い・復讐・無能の証明』があるが、これらは生徒たちが自分の存在価値や学校での居場所を認めさせようとする目的と結びついていて、究極的には『共同体感情・所属感の歪んだ表出』として理解することができるものでもある。

共同体(学級)の中で自分の特別な地位や居場所を確保しようとして、段階的な問題行動をエスカレートさせていくわけだが、最終的には『問題児』とされる生徒は社会システムとしての学校の機能・権威や上位者である教師の賞罰の評価の前に挫折せざるを得ない。悪目立ちするように騒いだり、校則・法律を破って注目を集め権力闘争を仕掛けたりするわけだが、最後は学校・教師の指導や懲罰に敗れてしまうことになる。学校・教師への嫌悪感や反発心を抱いて復讐を企てた後に、どうにもならないことを悟ると『自分にはどうせ能力も価値もない・頑張っても仕方がない』という無能の証明に陥って能力向上・学校適応(仲間との協力)の可能性は閉ざされてしまう。

本書では生徒(子供)の教育論として、アドラー心理学の『叱ってもいけない褒めてもいけない』という賞罰の禁止を上げているが、仮定の事例のシミュレーションを通してその理由を解説している。 青年は賞罰による生徒の指導・統制は『法に基づく秩序』と同じで世の中に必要なものだと語り、賞罰のない学級運営などは実効性のない空理空論に過ぎないと強く批判するが、哲人は『褒められること・叱られないことの目的化』によって学校も社会も独裁国家化のリスク(上位者・権威者に媚びて認められるようとする空気)が生じるとする。

アドラー心理学は『競争原理』から『協力原理』に切り替えようとする共同体感覚に根ざした心理学である。『褒賞・懲罰による行動のコントロール』というのは、その他者と協力する共同体感覚に基づく協力原理を阻害して、他者を『敵』と見なして蹴落とそうとする競争原理を過剰にしてしまうのではないかという警鐘を鳴らすのである。人間が幸せを感じて生きていくためには、『人々はわたしの敵であるという競争原理』ではなく『人々はわたしの味方であるという協力原理』に立たなければならないというのは、性悪説と性善説の葛藤にも似た考え方である。しかし、現実的な問題・実感として、過度の競争原理に従って人生を生きていると幸福や安らぎ、楽しみを感じられない、他者と心から打ち解けることが難しくなり常に『緊張・不安・不信・怒り』に自分が支配されやすくなってしまうのである。

本書はアドラー心理学の鍵概念として提示される『共同体感覚・所属感』を日常生活や実体験のレベルで分かりやすく説明しようとする工夫が施されている。自然界における人間は個人としては身体的な弱さを抱えてきたからこそ、他者と協力して社会・共同体を構築しなければ生き延びることができなかった長い歴史があり、『同じ共同体に所属する他者を敵と見なして精神を不安定にする競争原理』は社会的な動物である人間の本性に反している面があるというわけである。アルフレッド・アドラーは個人が社会で生きるにあたって直面せざるを得ない課題を『人生のタスク』と呼び、人生のタスクを『仕事のタスク・交友のタスク・愛のタスク』の3つに分類して、それぞれのタスクを対人関係の問題として考えている。

アドラーにとっての普遍的な人間心理の前提は、『すべての悩みは、対人関係の悩みである』ということであり、『折り合えない他者・社会』が存在しなければ悩み自体が存在しないが、そういった他者・社会の存在しない場所は現実的には有り得ないのである。『すべての悩みは、対人関係の悩みである』がそれは裏返せば『すべての喜びは、対人関係の喜びである』ということでもある。人間は他者と関わることで嫌な思いや面倒な思い、苦痛な経験をすることもあるが、結局は自分一人では生きられないので、他者・社会と関わりながら生き抜く勇気を持たざるを得ないということになる。

教育における生徒との人間関係は、生産して生存するための『仕事のタスク』ではなく、お互いを一人の人間として扱って相手の立場から物事を見て考える『交友のタスク』でこなすべきという話もされる。これは人間関係の問題を解決するための『尊敬』や『信頼(条件つきの信用ではなく)』にもつながっている。 アドラー心理学の根本にあるリアリズム(実用的な現実主義)は『他者・社会・仕事との不可避な関わり』の中で自分の幸せを絶え間なく実現していくための実践論である。その実践は『究極的に人は社会・他者と隔絶して一人だけでは生き抜くことができない現実』を示唆していて、わずかな失敗や挫折、不適応で他者(社会)から孤立して落胆したりいじけたりしやすい私たちに役立つような知見が多く散りばめられている。

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私たちにとっての何でもない日々が試練であること、『今・ここ』の日常において大きな決断を求められていること、『信頼できる他者』と分業・協力して交友のタスクを達成すること、『与える気持ち・愛する技術・貢献感としての幸福』を身に付けることなど、アドラー心理学の精髄ともいえる処世訓は、個人主義の現代人にとって言うは易し行うは難しであるが、『不可避な日常生活・対人関係・仕事・愛(二人の課題)』とどのように向き合って行動していけばいいのかの参考になるだろう。アドラーの語る共同体感覚とは『他者・社会への関心』であり、真の自立とは『自己中心性(わたしの主語)からの脱却』『私たちや共同体を主語とする世界の受容』であるが、私たち現代人はさまざまな基準や条件によって『他者の選別』をすることに慣れてしまい、それが逆に『他者を愛せない孤立・与えられない吝嗇』を生んでいるというのは耳に痛い意見である。

愛のタスクとは、自分にも他者にも強制できない『愛・尊敬』を『愛すること・与えること』によって得ることであるが、『競争原理・選別主義・個人化(孤立化)』によって協力原理を阻害してしまいやすい時代であればこそ、『人々を敵ではなく味方と思える共同体感覚(他者との信頼に基づく協力とつながり)』がより強く求められることになるのだろうと思う。

認知容易性(分かりやすさ)による直観的な判断:馴染みがあるものほど信じやすい

プライム(先行刺激)によって、人間の認知・行動は『プライミング効果』の無意識的な影響を受ける。先行刺激のプライムを与えられることによって『認知容易性(見慣れていることによる認知のしやすさ)』が高まるのだが、あまり深く考えなくてもすぐに認識できるという『認知容易性(cognitive ease)』は思われている以上に人の直感・思考・判断・行動に影響を与えている。認知容易性というのは、簡単に言えば『見たことがある・知っている・馴染みがある・すぐに分かる』ということであり、認知容易性を高める原因としては以下のようなものが知られている。

○精神状態がリラックスしていて前向きである(気分・機嫌が良くて意欲がある)

○何度か繰り返された経験・刺激

○見やすくて鮮明な表示形式

○プライム(先行刺激)のあったアイデアやイメージ

認知容易性が高まると『心地よさ・親しみやすさ・気楽さ・信頼感・安心感』などを感じやすくなるので、人は一般に慣れ親しんでいるものや何度か見たことのある状況などに対しては、深く考えずに反射的かつ直観的に気楽に判断を下しやすくなる。認知容易性が高いものに対して、人は疑わないし慎重にならないので、間違った認知・判断(錯覚)をしやすくなる。だが、心理的にはリラックスしていてストレスが少なく、心地よい感じの中で半ばだらけて物事を認識しているのである。

鮮明にはっきり印刷されている文字、繰り返し出される文章・表現が認知されやすいのは当たり前だが、人は『笑顔』を作ってにこにこと話を聞いているだけでもその会話内容をストレートに認知しやすくなる。反対に、しかめ面で額にしわを寄せて不機嫌な感じで話を聞いていれば、いつも以上に疑いやすくなり慎重になって、相手の意見や考えを受け容れにくくなる(認知容易性が低下して認知的負荷が高まる)のである。人間の認知・記憶の間違いやすさという点では、『見たことがある・知っている・馴染みがある・すぐに分かる』という認知容易性は、『実際の自分の経験(実際の体験に基づく過去の記憶)』とは連動していないことも多い。『最近見かけた言葉・状況・名前・相手』などがプライム(先行刺激)として機能することで、それほどなじみがないはずのものであっても、なじみがあるものとして認知されてしまうからである。

マジョリティの人々に対して何かメッセージを伝えたい時には、『認知容易性が高いほうが、親しみやすさがあって直観的に内容も信頼されやすい』ということを意識すべきである。理論的な内容が多い当ブログは反面教師の要素も多いが、『複雑な内容を長文で丁寧に説明する文章』よりも、『複雑な内容でも細かな情報・過程を省略して、分かりやすい短文・アフォリズム(格言調)で示す文章』のほうが、一般的には人々に認知されて同意されやすい文章になりやすいのである。認知科学者・行動経済学者のダニエル・カーネマンは、人間が意識して思考する脳機能を“システム2”と定義するが、システム2の基本性格は省コスト化(知的努力・認知的負担の軽減)を好む怠け者ということであり、考えずに直観的に判断する脳機能の“システム1”が形成する印象・結論を疑わずにそのまま引きずられやすいのである。

特別な必要性や動機づけがなければ、大多数の人は『ある情報・知識の真偽』についてそれほど疑わないし多面的にあれこれ検証もしない、つまりシステム1が伝えてくる直観的・反射的な情報(思考されていない間違っていることも多い直観・印象)を、システム2は基本的には受け容れやすい特徴を持っている。例えば、書かれている文章・意見が真実(本当)かどうかの判断も、その多くは『認知容易性』にひきずられて、無意識的かつ直観的に行われているということになる。

最近のニュースでいうと『安倍政権が2019年10月まで消費税増税を延期したこと』『北海道駒ケ岳の森林で、親のしつけで置き去りにされた小学1年生の男子が行方不明になったこと』があるが、これらのニュースに対する賛成・反対(支持・不支持)の判断、あるいは、事件の真相の推測は、かなりの部分が認知容易性にひきずられていてそれが真実であるかの検証はなされないだろう。例外はあれど、元々安倍政権(自民党)が好きな人か嫌いな人かで、消費税増税の延期に対する賛否の意見は分かれやすいわけだが、これは自分が好きな人(支持している集団)が発するメッセージは肯定的に認知されやすく疑われにくいことを示している。

北海道の小学2年生の行方不明事件でも、自分自身が過去の親子関係にトラウマや不信感を抱えている人ほど、『父親の言っていることは嘘なのではないか・行方不明に親が何らかの犯罪的な関与をしているのではないか』という疑惑ありきの認知容易性に傾きやすくなる。自分の親子関係が良好で親の愛情は無償というような信念を持っている人ほど、多少の疑いはあっても『何だかんだいっても親が実の子に悪いことをするはずがない』という考え方に与したくなる傾向がある。しかし、この事件では『父親が初めに山菜採りをしていて子供とはぐれたという嘘の通報』をしたので、父親が嘘をついたという情報がプライム(先行刺激)として機能し、『その後の父親の発言の信憑性も低い(どこまでが本当なのか疑わしく感じてしまう)』というプライミング効果が生じやすくなっている。

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ロバート・ザイアンスの単純接触効果と馴れたものに安心・好意を感じる動物

精神状態がリラックスしていて気分・機嫌が良い時の問題は、システム1の認知容易性と相関した直感性・創造性が優れやすくなる代わりに、緊張感・警戒心が弱まるために『物事を疑って深く思考すること(システム2による努力と集中を要する思考)』ができなくなるということである。気分・機嫌が良くて笑顔が出るような時には、物事が概ね上手くいっていて不満がない状態なので、周囲の環境や他者も危険がないと自動的に判断され、物事の本質を深く考える必要がない(わざわざ努力して疑いながら思考するシステム2のコストを払いたくない)というシステム1の直感・馴れに流されやすくなるのである。

アメリカの心理学者ロバート・ザイアンスが検証した『単純接触効果(mere exposure effect)』は、恋愛心理学で異性と頻繁に顔を合わせたり言葉を交わしたりするほど好意が強まりやすい法則としてよく知られている。R.ザイアンスの単純接触効果は、無作為の刺激の反復とそれに対して人々が抱くようになる好意を解明したものだが、この心理効果の面白いところは『本人が意味がわからない外国語・本人が見たことを自覚できないほどの超短時間の刺激呈示』であっても好意が強まるということである。単純接触効果は『意識的な馴染み・見覚え』とは関係のない無意識的なプロセスの結果であって、『ランダムな図形・人の顔・無意味語』であっても接触頻度が多くなれば(それが自覚できないほど短時間の呈示であっても)好意・好感度が増してくることが分かっている。

ただし、人間の顔の場合には、初めから嫌悪感・苦手意識を持っている相手の場合には(造形的に嫌いな顔であっても直接の関係・接触のない顔写真のみであれば結果が異なるという考え方もあるようだが)、必ずしも『単純接触効果』による好意の増加は見られず、むしろ嫌悪感や苦手意識が拒絶反応的に増強されることもある。そういったことを合わせて考えると、『感情的・経験的な色付けが為されていない中立的な刺激』に限られるのかもしれない。ロバート・ザイアンスは単純接触効果の起源について、動物の生存適応的な行動方略に関係していると考えたが、それは『何度も見慣れたものは安全・見たことのない新しいものは危険』という本能的・危険回避的な本能と関係しているという。単純接触効果の原理は、新規な刺激に対する恐怖感・警戒感が、何度も同じ刺激に触れているうちに薄れていくというものであり、初めに持っていた恐怖感・警戒感が次第に『安心感(信頼感)』に変化していくことになる。

R.ザイアンスは孵化する前の二つの鶏卵に『異なる音楽』を聴かせ続けて、それぞれの音楽に馴れさせることに効果があるかという実験を行った。すると、それぞれの卵からかえったヒヨコたちは、卵の中にいる時に聴かされていた音楽が流れると、鳴き声をとめて落ち着いた様子を見せたのだという。ザイアンスはこれも原初的な単純接触効果の一つとしているが視点を変えれば、動物行動学者コンラッド・ローレンツの『刷り込み』にも似た『聴覚的な刷り込み(インプリンティング)』とも言える。R.ザイアンスは単純接触効果における反復的な接触は、生命体と周辺環境との最もプリミティブ(原始的)な相関関係であると考え、特にヒトでは社会的環境や集団関係の基礎を形成するものとした。何度も接触した馴れた刺激(相手)に適応していくという心的プロセスは、『安心・安全な対人関係の識別』を巡る自己防衛本能や心理社会的な安定性とも関わっているだろう。

『認知容易性(馴染みのある・分かりやすさ)』『ポジティブな評価・感情』との結びつきの起源の一つとして、“システム1の自動的・反射的な認知”の根底にある『生物学的な単純接触効果(何度も接触して危険性がないものに安心感・好意を覚える)』を考えることができるのである。 脳機能のシステム1(意識して考えない反射的な認知)は今までの経験・知識・言葉の語用などから、『正常=馴れたもの』『異常=馴れていないもの』を半ば自動的に区別している。ダニエル・カーネマンはシステム1が反射的に異常だと認知する事例として『男性が妊娠していて気分が悪いと発言すること・上品な上流階級が丁寧な言葉遣いで私は背中にタトゥーを入れていると発言すること』などを上げている。

確かに私たちは“社会・人間・性・モノ”などについての共通知識から、ほとんど自動的・反射的に『ある発言内容が正常か異常か』を判断できるシステム1の自動的な認知機能を持っているが、その認知には更に『複数の人・モノの間にストーリー性(主体性)を見出す因果関係』が瞬時に想起されるという機能まで備わっているのである。子供はぬいぐるみに人格・意思があるように思い込んでまるで生きているかのように扱うが、人間はさまざまな事象に対して『仮想的な人格・意思』を付与しやすいという心的傾向があり、例えば図形の円・三角形・四角形が動いているイラストを見ても、それに意思・人格・意図があるかのように考えることができたりする。

こういった擬人化の人格・意思の付与というのは、システム1の自動的な認知に含まれる働きなのだが、システム1はこの機能によって『因果関係の推論』をしやすい代わりに『統計的な物事の確率・リスクの理解』をすることが苦手なのである。心理学者ポール・ブルームは、人間社会に普遍的に『宗教信仰・神の観念』が見られる原因として、人間には物質世界と精神世界を切り離してその因果関係を理解することができる『二つの因果関係のモード(物理的な因果関係+意志的な因果関係)』が先天的に備わっていることを上げている。

しかしポール・ブルームの定義する二つの因果関係は『物理的世界が存在する究極の原因は創造神であるということ』と『不死の魂が肉体に宿っていて、死後に肉体を離れること』であり、一神教のキリスト教的な世界観の因果関係に偏ってはいる。

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連想活性化の脳機能と連想記憶ネットワーク:精神分析の無意識の言語化の仕組み

人間の認知には“ある言葉(観念)”から“別の言葉(観念)”が自動的に連想されて、更に別の言葉(観念)が呼び起こされて次々につながっていくという『連想活性化(連合心理学の観念連合)』の機能がある。連想活性化は、自動的かつ反射的に働く“システム1”の脳機能であり、人間の持つ言語や観念のメカニズムをかなり強く規定している。精神分析の『自由連想法』やプライミング(先行刺激)を利用した『催眠(言語的暗示)』なども、この『連想活性化』の認知を応用したものであるが、連想される一つ一つの言葉や観念は相互に関連して強め合っているという特徴を持っている。連想活性化の一例を上げると以下のような感じになるが、更に続けようと思えばいくらでも連想活性化のネットワークを拡張することができるだろう。

赤→梅干→酸味→レモン→すっきり(爽快)→……

ぬいぐるみ→子供→親子→お母さん→愛情(あるいは寂しさ)→……

言葉(観念)の多くは何らかの記憶(思い出)を呼び覚ましたり、その記憶と関係した感情を強めたりするが、連想活性化(観念連合)は『言葉(観念)⇔記憶⇔思考⇔感情・気分⇔表情・態度⇔行動』などの相互的なフィードバックを活性化して強化するのである。嫌な感情を抱く対象を回避する行動を取れば、更にその嫌な感情が強まったり、感情と結びついた固定的な思考を強めたりすることにもなる。認知療法の作用機序にも示されるように『認知(思考)・感情・行動・身体(生理)』は相互作用しており、その人に特徴的な統一的パターンを形成する。この観念連合に基づく統一的・反応的なパターンを『連想一貫性』と呼ぶが、連想一貫性は通常はその人の生活環境に対して適応的に働いており、『二つ以上の観念を連合させた因果関係』を作り上げている。

システム1に含まれる連想活性化による適応的な思考・行動は、ある出来事が起こった時に次にどのような変化が起こるのかという『因果関係』を、半ば自動的に認識できるようにしてくれているのである。意識の働きや因果関係を研究した哲学者には、18世紀のイギリスのデイビッド・ヒューム(1711-1776)がいるが、ヒュームは『人間本性論』の中で人間の観念連合的な連想の特徴を『類似・時間と場所の近接性・因果律』の3つに分類している。活性化された観念(言葉が喚起する表象)は、一つだけではなく多くの観念を同時的に活性化させているのだが、人間は自分の思考プロセスのすべてを意識化することはできないので、日常生活では『意識がアクセスしやすい連想活性化』だけが記憶されて利用されていることになる。人間は自分の内面世界や関連連合のネットワークのすべてを、意識領域において認識し尽くすこと(自分の頭の中にある情報の全部にアクセスすること)はできないのである。

S.フロイトの精神分析の治療メカニズムは『無意識の意識化(無意識の言語化)』という概念で語られることが多い。これはシステム1における連想活性化のネットワークの中で『意識がアクセスしづらい連想活性化』を自由連想・夢分析などで呼び覚まして、自分の生活史や感情体験の一貫性のあるストーリー(現実を否認せずに納得できる歴史性)を回復させようとする試みなのである。認知科学・脳科学の連想活性化に関する仮説理論の前提は、人間の脳には無数の観念がさまざまな原理(相関関係)によって結びついた『連想記憶のネットワーク』があるということである。この連想記憶のネットワークに含まれる一つ一つの観念は“ノード(結節点)”であり、これらのノードは『因果関係・類似性・相違性・モノと属性・モノとカテゴリー・順位や序列・近接性・歴史性』などさまざまな原理(相関関係)によって結びついている。

火傷と炎(燃焼)という因果関係、メルセデスベンツとBMWという類似性、セレブと貧困という相違性、金属と固い・冷たいというモノと属性など、連想記憶のネットワークは相互に観念を結びつけながら、無数のノードを包摂して広がっているのである。こういった観念活性化の働きを利用した心理効果として、『プライミング効果(priming effect,先行刺激効果)』がある。プライミング効果というのは『食べる』というプライム(先行刺激)の言葉が呈示されれば『ご飯・ステーキ』などの言葉を連想しやすく、『仕事』というプライムが呈示されれば『就職・残業』などの言葉を連想しやすいといったことである。

先行して初めに呈示された言葉・概念・出来事(これらがプライム)などによって形成された観念が、その後に想起される言葉・概念(あるいはその後に選択する行動)に小さくはない影響をもたらすという効果なのである。プライム効果は、広大な連想記憶のネットワークの中で、連想活性化の作用がさざ波のように拡散・拡大していくプロセスとしても解釈することができる。

プライミング効果と人間の自由意志の懐疑:お金のプライムで個人主義化・利己化する人

本人が『何でもない言語・感覚の刺激(プライム)』と思っているものが、自分の想定を超えた『連想活性化の作用=プライミング効果』をもたらすことがある。プライミング効果の実際に確認できる効果は、事前の心理状態やパーソナリティーによって個人差がある上に、効果自体もかなり小さなものではある。だが、プライム(先行刺激)が言葉の連想や行動の変化に一定の影響を与えること自体は否定できない事実としてある。プライミング効果の実証実験では、先行刺激のプライム(prime)によって人間の思考(判断)・感情・行動は一定の影響(認知的なバイアス)を受けることが分かっている。プライム効果の興味深いところは、言葉・観念だけではなく実際の行動・反応にも影響を与えるということであり、観念(言葉)によって行動が変わるというプライミング効果を特別に『イデオモーター効果(ideomotor effect)』と呼んでいる。

典型的なイデオモーター効果として、心理学者のジョン・バルフらがニューヨーク大学の大学生を対象にして実験を行って確認した『フロリダ効果』がある。ジョン・バルフらは18~22歳のニューヨーク大学の学生に、複数の5つの単語セットから4つの単語を使った短文を作るように指示した。そのうちの1つのグループには、アメリカにおいて高齢者を連想しやすい『フロリダ・忘れっぽい・シワやシミ・ハゲ』などの単語を多めに混ぜておいた。この文章作成課題が終わった後、学生たちは別の実験を実施するからと言われて、廊下の突き当たりにある少し遠い教室に移動させられた。この別の教室に着くまでの学生たちの移動速度(歩行速度)を計測していたところ、高齢者関連の単語を多く使って文章を作成したグループの学生のほうが、他のグループの学生よりも有意に歩行速度が遅くなったのである。

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フロリダ効果というイデオモーター効果では、学生に呈示された単語群には『高齢・老人』といった直接的な言葉(概念)は一つも示されておらず、すべて間接的な言葉(概念)が示されていた。しかし、この間接的に高齢や老人をほのめかす言葉(概念)が『プライム(先行刺激)』として機能することになったのである。更に、プライムによって喚起された高齢・老人という観念は、高齢者から連想される実際の行動(歩き方)や遅い歩行速度のプライムとしても機能したのである。言葉のプライムが実際の行動まで変えてしまうというイデオモーター効果は無意識的に発動されるものであり、フロリダ効果の実験後の聞き取り調査でも、呈示された単語群に『高齢・老人』につながる共通性があることに気づいていた学生は一人もいなかった。

イデオモーター効果には『老人らしい行動・反応(腰をかがめてゆっくり歩くなど)』を指示された後には、『高齢者を連想させる言葉(観念)』を思い出しやすくなるといった『行動から言葉の連想といった逆向きの効果』があることも分かっている。人間の連想記憶ネットワークの特徴としての『双方向性・相互性』が、イデオモーター効果にも認められるということだが、楽しい気分になれば笑うし、笑えば楽しい気分にもなるといった双方向性(逆転性)が、『人間の認知・感情・行動・生理の相互性』にはあるのである。プライミング効果は、無意識領域に抑圧された感情・記憶が人間の行動を決定するという『精神分析の決定論の原則』にも似たところのある認知科学仮説に基づく心理・行動への効果である。プライミング効果は、プライム(先行刺激)によって自分の判断や行動が誘導されて決められてしまっているという意味では、『自分の意志で物事を選択(決定)する』という近代的な自由意思や主体性を否定する要素を持っている。

資本主義の競争原理では、お金に万能の幻想を見る拝金主義や他人の手助けを惜しむ利己主義が非難されることがあるが、心理学者キャスリーン・ヴォースの研究によると『金銭に関連するプライム(金銭に関連する言葉・写真・紙幣・株価などの先行刺激)』は、『自立性(個人主義)・利己性(エゴイズム)・競争心』を強めることが分かっている。このお金のプライミング効果は、資本主義で運営される現代社会で、成功と失敗についての『自己責任(自業自得)』が強調されやすかったり、自分は自分、他人は他人だとして他人の貧苦・悩みに無関心な『個人主義者』になりやすかったりすることの理由の一つを説明している。お金のプライミング効果は、集団行動を避けて一人でいたがる孤独傾向を助長するともされているが、この一人でいたがる傾向は、他人と関わることで自分の時間や自由を奪われるのではないかという警戒心を強めることに相関しているのかもしれない。

キャスリーン・ヴォースのお金のプライミング効果が正しいのであれば、お金を連想させるものに取り囲まれた現代社会では、かつてのような仲間と深く連帯・協調する共同体的感覚を取り戻すことは難しいということになるし、他人と一定の距離を置いて自分のプライベート領域を守りたがる個人主義者が現代では常に多数派を占めるということになる。お金のプライミング効果によって個人主義や競争心(他者よりも優れていたいという心理)が強化されることによって、『他人との密接な関わり・他人との関係によって生じる損得(お金の増減)』に敏感になりやすいことも影響する。

プライミング効果は、多くの場合、自分の個人的な確信や経験とは一致しないことから、その効果をほとんどないものと見なされがちであるが、プライミング効果は人間の意識がアクセスできない自動的かつ無意識的な“システム1”の脳機能によって発動するものである。プライミング効果は多くの実験調査によって、統計的な有意性が確認されているものだが、努力や注意によって物事を理解しようとする意識的な“システム2”にはなかなか受け容れにくいものなのである。なぜなら、努力したり注意したりして物事を考える“システム2”は、『自分のことは自分が一番良く分かっている』という自我の中枢にある意識的・理性的な働きであり、自分の自由意思によって物事を判断して選択しているという『自己決定的な主体性』を自明のものとしてそれを疑うことが殆どできないからである。

ダニエル・カーネマン『ファスト&スロー』と人の二段階の脳機能:自動反応と努力を要する知的作業

プロスペクト理論で知られる行動経済学者・心理学者のダニエル・カーネマン(Daniel Kahneman,1934)『ファスト&スロー』では、『自動的に働く脳機能(システム1)』『意識的に働かせる脳機能(システム2)』を分類することによって人間の行動形成を認知科学的に説明している。システム1では『注意・記憶・行為』などの心的機能がワーキングメモリーのように自動化されており、『5+5の答えを言う・簡単な文章を理解する・声の感じから敵意を感じる・聞こえた音の方角を感知する』などは意識して答えなくても自動的にできることである。

あるいは、答えたくなくても知りたくなくても、『日本の首都はどこかなど常識的な質問の答えが頭に浮かんでしまう』や『目に入ってきた文字・短文の意味がすぐに分かってしまう』といった反射的な現象が起こるのがシステム1の特徴である。システム2は『一定の努力・注意力』を働かせること(必要になる努力・注意力が小さければ快適に半ば自動的に働くが)で駆動する心的機能であり、『電話番号を誰かに教える・歩く速さやペースを変える・確定申告書を作成する・大勢の人がいる室内で特定の人物の話を聞く』などはある程度意識的に行動しなければできないことである。

システム2の脳機能を正常かつ効果的に作動させるための『努力・注意力のリソース』は有限であり、人間はある程度複数の仕事や行為を同時にこなす『マルチタスク』が可能であるが、『複雑で難しい仕事・危険で集中力のいる作業(運転)』になってくると同時に複数の行為を行うことは難しくなるかできなくなってくる。刺激を受ければ自動的に働き始める心的機能(脳機能)としてのシステム1は、常に『印象・直感・意志・衝動・感触』を生み出して、それらの情報を活用して意識的な行動を起こすシステム2へと伝達している。システム2は知覚的な印象や反射的な直感を『確信』へと変えていき、一時的な衝動やその場の意志を『意識的に企図された行動』へと変えていくが、特別に複雑で難しい仕事(危険性・緊急性のある予想外の状況)などでなければシステム1の情報をそのまま受け取ったり微修正するだけで半ば自動的に処理して気楽に行動することになる。

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システム2は『驚くような予想外の状況』や『特別に困難で複雑な課題(夜間の運転や高所の作業など特別に集中しなければ危険がある状態)』や『社会的文脈や人間関係に配慮した行動をしなければならない場合(セルフモニタリングによる行動調整が求められる場合)』に、努力・注意力の有限のリソースを用いながらその機能を発揮することになるのである。システム2の努力・注意を要する『知的作業』を実現している時には、生理的に交感神経が興奮しているために、『瞳孔が大きく開く』という特徴が見られる。しかし、知的作業の課題が自分の能力にとってどんなに頑張っても解けない難しさの場合には、リソースを振り向けて解くことを諦めるので『瞳孔は元の大きさに戻る』ということになる。

『瞳孔の大きさ』を測定することによって、その人が知的作業に本気で集中して取り組んでいるのか、もうギブアップして諦めてしまったのかの違いを知ることができるのである。またシステム2を働かせる知的作業に集中してリソースを振り向けている場合には、『集中している時には他のことが目に入らなくなる』という常識的な理解が示すように、『マルチタスク(複数作業の同時進行)』ができなくなり『周辺の刺激・変化に対する知覚機能』も大幅に低下してしまう。人間の脳機能は『システム1』と『システム2』に役割分担させて相互作用させることによって、努力を最小化して成果を最適化するようにできているというのが、ダニエル・カーネマンの行動科学の前提的な仮説である。日常的なそれほど複雑ではない思考やそれほど難しくない行動においては、概ねシステム1が担当していて自動的に対処しており、システム2は特別な問題や状況の変化がない限りはシステム1から送られてくる情報を追認している(わずかな修正を加えている)と考えられる。

しかし、システム1には『人間の錯覚・固定観念を生み出す原因』にもなることが多い認知的な偏りや誤りとしての『バイアス』があり、ある特定の状況下においてはほぼ不可避的に系統的エラーを起こしてしまうのである。システム1は何でもかんでもパターン化したり単純化したりして対応しようする傾向があり、統計・論理の知識もそこでは活用できないので、(システム2が適切な注意力・知識を活用して対応できない場合には)思い込みとも言えるパターン化したバイアスによって物事の認知や判断を間違ってしまうこともある。システム1の自動的な脳機能は、それを使うか使わないかを選択することができないという問題も抱えていて、例えば『自国語の文章が目に入れば意味が分かってしまう・色が目に入れば何色か分かってしまう・簡単な足し算や引き算の数式は見た瞬間に答えを出してしまう』といったことがある。

脳機能のシステム1とシステム2は相互作用して適応的な行動を生み出しているが、『自動的かつ衝動的なシステム1の心的機能』『意識的かつ制御的(抑制的)なシステム2の心的機能』と衝突することも多い。D.カーネマンは、レストランの隣の席に突飛な格好をしたカップルがいる時に、システム1はその目立つカップルを自動的に見ようとするが、システム2は相手や状況に配慮してできるだけじろじろ見ないようにさせるという衝突の事例を上げていたりする。すぐ近くにいる飛び抜けた美人・イケメンなどを反射的に見たくなるけれど相手に見ていると気づかれるほどには見ないよう自己制御するといったことも、『システム1とシステム2の衝突』の分かりやすいケースとしてイメージできるのではないだろうか。

人間の脳はなぜ間違えるのか?:システム1の自動的な印象・バイアスとシステム2の知識・努力

システム1の脳機能は衝動的な自動反応であり、システム2は意識的なセルフコントロールである。システム2はシステム1の何も考えていない衝動を、『知識・努力・計画・注意力』などを働かせながら、より状況適応的な行動へと調整していくと考えることができる。システム2のセルフコントロール(自己制御)やセルフモニタリング(自己監視)が機能していなければ人間は社会的・知的な動物としてお互いに配慮し合うような行動ができないということになってしまうだろう。『ミュラー・リヤー錯視』や『エビングハウス錯視』などの錯視現象に典型的に現れるが、システム1が知覚刺激から形成する『印象』は、どんなに努力しても『そのように見えてしまうという自動反応』そのものを変えることができないという特徴を持つ。

私たちは『知識として錯視が起こるという事実』を知っているので、いったんミュラー・リヤー錯視における二つの線分の長さが同じであるという知識を得ることができれば、次に同じ質問をされた時には『正しい回答』をすることができる。だが、知識によって正しい回答をすることはできるが、二つの線分を比べて外側に羽根が開いている線分のほうが長く見えてしまうという錯視の印象そのものは実は変わっていないのである。知識は正しい判断を可能にするシステム2の『確信』を生み出すが、システム1の自動的な『印象』は絶えず錯視・認知的錯覚(思い込み)などのバイアスやエラーを生み出す恐れがあるということである。

人間はなぜ思い込みや錯覚による間違いを犯すのか、言い換えればなぜ人間は完全に正しい判断をすることができないのかの合理的理由の一つが、システム1の『自動的な直感・印象』を通常、人はそのまま正しいものとして反射的に対処してしまうからである。確かに、システム1の『自動的な直感・印象』によるバイアスやエラーは、システム2の『知識による確信』『セルフモニタリング』によって意識的に減らせる可能性はあるが、システム1の脳機能の自動反応が関係したヒューマンエラーを完全にゼロにしてしまうことは原理的に不可能である。

システム2は働かせるまでに時間がかかるだけでなく、意識的な注意・努力のリソースを必要とするので、『日常的な瑣末な問題・作業に潜むエラー』を注意深く警戒して見つけ出してそれらを回避するということは得意ではない。そもそも、『印象・直感の正誤チェック』を遺漏なく実施し続けることは、人間の有限のリソースには不可能なことであり、自然とシステム1による自動反応的な印象・衝動・直感を受け入れて対処するという方向へといってしまう。その意味で、人間はどんなにシステム2による注意や努力をしても『常に間違い得る存在であるということ』『ヒューマンエラーはゼロにはならないという事実』を、さまざまな問題領域や重要な仕事の場面(危険性を伴う作業の場面)において忘れてはならないということになる。

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自動反応を制御・調整するシステム2を働かせるには『努力・注意力のリソース』が必要になるが、そのリソースは有限なので『特定のタスク』だけに無限にリソースを投入して、その仕事・作業を絶対に失敗しないように完璧にしてしまうこともできない。しかし、システム2は『タスクの重要性・優先度』を考慮して『努力・注意力のリソースの配分』をすることができるので、もっとも重要で優先度の高い作業をしている時には、それ以外の作業・刺激にはほとんど努力・注意力のリソースを振り向けないということになる(別の見方をすれば死角は生まれることになる)のである。

特別に知的能力が高い人であったり、特定のタスクに習熟していたりすると、『システム2を働かせるのに必要な努力・注意力の量』が大幅に減少することが知られており、人間の認知機能にも『最小努力(最小コスト)の法則』が当てはまるのだという。最小努力(最小コスト)の法則によって、簡単に解決できないタスクに遭遇した時に、私たちは『システム2の記憶・計算・思考の負荷』が非常に大きいと感じることになるが、その理由は人間が一時的に情報を保存しておける『作業記憶(ワーキングメモリー)』の容量は10桁の数字一つさえ覚えておけないほどかなり小さいからである。複数の情報(数字など)を覚えておいて、その記憶を保持しながら操作するような複雑なタスクになると、それができる人とできない人の能力差・熟達度の差はかなり大きくなるだろう。

あるタスク(仕事・課題)をこなすために必要な努力の量は一義的なものではなく、『各人の能力・才能・習熟度』によって大きな個人差がでてくるわけだが、人間の脳は基本的に仕事・課題を達成するための努力(コスト)を最小化しようとする『怠け者の傾向』を持っているのだとD.カーネマンは指摘する。システム2の努力のリソースを必要とする思考能力のスピードは一般に遅くて、一時的に保存できる作業記憶の容量は小さいので、多くの人が『時間に追われるスピードのある思考・一時にたくさんの情報を覚えなければならない作業・複雑な情報や論点の整理』などに対して苦手意識や面倒くささを感じるということになる。人間の思考速度と身体の運動速度は反比例する(ペースを上げて速く動けば動くほどに思考能力が低下する・複雑な思考や記憶を行うためにはゆっくり歩くか静止していなければならない)という特徴も持っている。

セルフコントロールと認知能力の相関とシステム2:努力・意志を必要とせずに課題をこなすフロー

心理学者のキース・スタノビッチリチャード・ウェストが、人間の脳機能を『自動的・直感的に働く脳機能(システム1)』『意識的・理性的に働かせる脳機能(システム2)』に分けて考える認知モデルを初めて提唱したが、このモデルは人間の認知的な間違いやすさを上手く説明してくれる。物事をできるだけ正しく認知して判断しようとするシステム2の脳機能は、『論理的思考能力・セルフコントロール(自己制御)・利害計算』と深く関わっているが、システム2は自分の直感的な印象や反射的な欲求を懐疑して正しい判断をしようとするので『認知的負荷が大きい(考えて疲れる・時間がかかって面倒くさいなど)』というデメリットがある。

『システム2』を働かせるためには一定の意識的な努力や批判的な思考が必要になるので、自動的にわきあがってくる直感的な印象や反射的な欲求を無批判に受け入れてしまう『システム1』のほうが認知的負荷が小さいのである。システム1は難しい問題を時間をかけて論理的に考えなくていいだけ楽なのだが、その分、自分の印象・感覚を疑ってセルフチェックする機能が弱いので、自動的に起こる『認知的バイアス(先入観・思い込み・錯視などの認知の偏り)』に影響されて間違いを犯しやすい。近代の学校教育や知的課題、知識労働、自然科学などでは、物事をできるだけ論理的かつ客観的(実証的)に正しく認識するための『システム2の意識的・知的な脳機能』が重視されている。特に学校教育やペーパーテストでは『間違いやすい直感的なシステム1』を制御して『熟考する論理的なシステム2』を働かせることで『正答』を導くためのトレーニングを延々と行っているようなものである。

学校のペーパーテストにおける『問題文をしっかりと読んで、問題の意図を正しく掴みなさい(紛らわしい言い回しや飛びつきやすい間違った選択肢に気をつけなさい)』というアドバイスは、意識的に努力してじっくり考えるシステム2を働かせなさい(例えば『~にあてはまらないもの』を選びなさいなどの問題で、直感的なシステム1だけを駆動する人は『~にあてはまるもの』を選んで間違ってしまう)ということでもある。大学受験レベルの数学の問題に正答するためには、数学に対する適性(先天的な学習能力の高低)も関係するが、問題の構造や解法パターンを見出していく論理的思考のシステム2を使ったかなり複雑な認知的努力が必要になってくる。一定以上の割合の人は、長く集中して論理的に思考するシステム2を働かせられないか働かせたくないために、数学をはじめとする各科目の難易度の高い問題にはなかなか正答できないということになる。

論理的な思考能力や直感・衝動のセルフコントロールを司るシステム2の働きには『遺伝要因(生得的な要因)』も影響していると考えられている。心理学者ウォルター・ミシェルらの『マシュマロテスト』では、一人ぼっちで部屋に残された子供(4歳児)に対して机の上にマシュマロ(クッキー)の入った皿を置き、『食べたければベルを押してから食べても良いが、マシュマロを食べないで15分間我慢できたらもう一個上げる』という教示を与えた。部屋の中には、おもちゃやゲーム、テレビ、本などのお菓子から注意を逸らすものは何も置いておらず、4歳児は退屈な環境の中でお菓子を食べたいという欲求をセルフコントロールする課題を与えられているわけである。実験者はマジックミラー越しに子供の様子を観察しているが、子供は目を覆ったり数を数えたりしながら、システム2を働かせたセルフコントロールを何とかやってのけようと頑張っている。

この実験の結論としては、約半数の子供が15分間、お菓子を食べずに我慢することができたが、『お菓子を食べたいという欲求を制御できた子供と制御できなかった子供』とでは、システム2を働かせる長期的な認知能力(認知的タスクに対する高度な実行制御能力)で有意な差が出たのだという。4歳時に欲求をセルフコントロールできていた子供のほうが、それから10~15年後の知能テストでも大幅に高い点数を取ったというマシュマロテストの結果は、幼少期の段階でシステム2の働きにかなりの個人差が生まれていて、その差が児童期・青年期にまで延長されやすいことを意味しているのだろう。更には、システム2のセルフコントロールと認知的な実行制御能力との間に一定の『生得的な相関関係』があることを示唆している。

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自動的に湧いてくる欲求・衝動というのは『システム1』の脳機能であるが、意識的にその欲求・衝動を抑制してセルフコントロールする『システム2』は生得的な機能の高低を持つだけではなく、『セルフコントロールと認知能力(思考能力)との間の相関関係』があると推測されているのである。幼少期に見られるその相関関係が、児童期・青年期の知能テストや学業成績とも関係しているということは、『直感・衝動のシステム1』と『思考・自己制御のシステム2』のバランスには一定の遺伝要因が影響している可能性がある。

システム2の意識的な努力や注意を必要とする思考能力は、システム1の直感的な印象や連想によるバイアスをセルフチェック(それが正しいかどうかチェック)する役割を果たしているが、人間の脳は一般的には『システム2の認知的努力』を面倒で厄介な作業だと感じて嫌いやすい。『最小努力の法則』によって、できるだけ物事を深く考えたりセルフコントロールしたりする認知的負荷を減らそうとする怠惰化の傾向を持っている。システム2の思考能力とセルフコントロールのリソースは有限であり、そのリソースの大きさにはかなりの個人差があると考えられている。そういった論理的思考や自己制御に必要なリソースの個人差というのは、従来、『思慮深い・粘り強い・飽きっぽい・我慢できない・衝動的・短期で根気がない』などの『気質・性格の差』とされてきたものでもある。

思考能力は高度で複雑になるほど大量のリソースを消耗するので、一般的に『マルチタスク』が可能なのは簡単な内容や取り留めのない想像にまつわる認知的負荷の小さな思考に限定される。だから、複雑な数学の問題を解きながら歴史状況の論述も行い、更にフライパンで目玉焼きも焼くといった作業を同時進行的にマルチタスクで行うのは不可能であり、更に『思考(認知的負荷)』と『運動(身体的負荷)』も同時に行うことには一定の限界がある。息が切れるほどの全力疾走をしながら、複雑な計算・思考を要する知的課題を解くことはできないし、激しい運動やトレーニングをしている時に覚えている知識・情報を自由に取り出すことも極めて難しい。

マルチタスクで複数のタスクを頻繁に切り替えたり、難易度の高い問題について考えたり、創造性のある思考や長文の論述(創作・論文の執筆活動)をしたり、計算や思考をスピードアップさせることは、相当に『認知的負荷の高い作業』であり、大半の人にとってはできれば回避したい厄介で面倒くさい疲れる作業でもある。認知的負荷の高い思考・創作・作業に向いている人というのは、『クリエイティブな仕事・学術的な職業・知的なライフスタイル・創作家や文筆業の適性がある人』であり、『システム2』の意識的な努力を必要とする思考やセルフコントロールが生得的に得意な人でもあるのだろう。

反対に、じっくりと深く論理的に物事を考えたり、長文で創作をしたり論述をしたりするのが苦手だったり苦痛だったりする人(理屈で物事を処理するのが苦手で小難しい文章や数字を見るだけでも疲れてしまうような人)というのは、『システム2』よりも『システム1』のほうが優位である可能性が高く、どちらかというと認知的負荷の小さな身体を使った仕事や他者とコミュニケーションしながら進めていく仕事(営業・サービス業・現場の仕事など)のほうが向いているかもしれない。しかし、人間は認知的負荷の強い知的作業を楽しんでやり続けることが可能な潜在能力も持っており、苦痛や嫌悪なく有効な集中力・思考力・発想力を発揮し続けられる心地よい生産的な心理状態を心理学者ミハイ・チクセントミハイは“フロー”と名づけている。

フローは、特別な努力・意志の力を必要とせずに非常に高い生産性と創造性を発揮できる最高の心理状態であると同時に、自己評価の上昇と精神の高揚感(幸福感)をもたらしてくれるものである。複雑な知的作業や創作活動だけではなくて、激しい運動や高度な運転などの体験においても、『最適体験』と呼ばれる生産性と喜びに満ちたフロー体験が生じることがある。ミハイ・チクセントミハイのフローとは、『生産的活動に対する忘我・没頭の状態』であり『セルフコントロールの努力なしに集中力・注意力を維持できる経験』である。

ダニエル・カーネマンの定義する努力と集中によるシステム2の脳機能のリソースを大幅に節約してくれるのがフローの特殊な心理状態であり、『タスクに集中する努力』『思考・注意の意識的なセルフコントロールの努力』がなくても知的で創造的な生産活動や高度な運動能力(運転技能)を成し遂げることができる状態である。

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元記事の執筆日:2016/10

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