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マンスプレイニングはどうして男性に多いのか?:男性社会の変化と中高年男性の若い女性との関わり
男性が女性に対して“上から目線”で説明・説教するという『マンスプレイニング(Mansplaining)』が、BLOGOSの記事で取り上げられていました。
相手が女とみると上から目線で説明してくる「マンスプレイニング」――「この概念には名前があったんだ!」と注目集める
マンスプレイニングというのは男を意味する『man(マン)』と解説を意味する『explain(エクスプレイン)』をかけ合わせたアメリカで造られたかばん語(混成語)で、2008年か2009年に生まれた比較的新しい言葉のようです。昔からよく知られていた男女間のコミュニケーション・パターンの一つだとは思いますが、『男性社会・男権主義における男性の無根拠な知的優位性』を前提にしているという意味では、マンスプレイニングは女性差別的な要素を持つものでしょう。
あるいは、20世紀前半までは先進国でも、女性には学歴・知識は不要であり(知的な自信・能力を持った女性は異端・生意気なので男性に好まれず)、結婚して男性に扶養されて家事育児に専念すべきだという女性の社会経済的な自立性をスポイルする男権的で差別的な価値観がありました。そういった過去の女性のジェンダーによる役割の強制を考えると、『女性からの知識・経済力・理性の慣習的な剥奪(男性にしか自立的な経済力や高度な教育・学歴を与えないジェンダーと慣習)』によって、何とか男性の家長的な権威・役割を支えた歴史的要因もひきずったものかもしれません。
マンスプレイニングは、『定義された概念化』によって再発見されたコミュニケーション・パターンであり、昔ながらの男女関係の定型・現象(男を立てて女が合わせる・女が男を気分よくさせて手のひらで転がす)でもあります。昔から『若い女性に上から目線で解説・説教をしたがるおじさん』という図式は多かったわけですが、こういった現象が今更に再発見されて批判されている理由として考えられるのは、『女性原理の強まり+女性社会の到来(その反動としての男性の平均的な経済力・地位の低下)』によって男女平等化の波が経済・知識(知性)の分野にも押し寄せてきたということだと思います。
男性だけが知識・経済力・地位を独占的に持っていて、女性が男性に保護されたり扶養されたりしなければ生活・人生設計が成り立ちにくかった時代には、平均的に女性の学歴が低かったり知識が少なかったりしたこと(社会慣習・親の意見として女性に高度な学は要らないとされたこと)もあるでしょうが、男性の知識自慢や世の中の解説などについて『すごいですね・さすがですね・勉強になります・また教えてください』と持ち上げておいて、男性の気分を良くして間接的にコントロールする(自分にデメリットではなくメリットをもたらしてくれる存在にする)という形に多くの女性がならざるを得なかったのかもしれません。
しかし、BLOGOSの記事でマンスプレイニングの被害に遭ったとして挙げられている八王子市の市議会議員の佐藤あずささんのような女性は、平均的なおじさん以上の地位・経済力を持っている可能性が高いだけでなく、少し前の美人すぎる地方議員ではないですが、おじさんから見た若さや美しさも持ち合わせている市議会議員で、客観的に比べればどうしても平均的な男性のほうが見劣り・気後れをしてしまいます。旧来的な男性社会(大半の女性には地位・権限・経済力がないというのが当たり前の常識・社会)で生きてきたおじさんにとっては佐藤あずささんのような何でも持っているように見える若い女性は、劣等コンプレックスを刺激する異端・異物であると同時に、政治家という公職に就いているために形式的には忌憚なく意見や感想をぶつけやすい相手でもあるわけです。
昔の女性政治家は『男性議員と正面から取っ組み合うような男勝りなコワモテの女性・女性らしい魅力を前面に出さないか封印した女性(可愛いだとか美人だとかいう評価などぶつけようものなら女性を品定めする女性差別主義者として徹底糾弾されかねない)』であり、ヘアスタイルもファッション性を排した短髪が多かったり、目線や口調も攻撃的できついタイプが多かったりしました。しかし最近の女性議員には佐藤あずささんもそうでしょうが、ちょっとしたタレントやモデルとしても通用しそうな今風の整ったルックスの女性(見え透いたお世辞でなく一定以上の割合の人から可愛いとか美人とか言われてもおかしくないルックスの女性議員)が増えています。
こうなると男性主義に染まったおじさんからすると、昔の女性議員は『女を捨てて男社会の中で戦う人生を選んだ特別な女(髪型・服装なども男受けする女性らしさを感じさせない雰囲気にしていたり年齢的にも若者と呼べるほど若くはない)』ということで権力や発言力、経済力を手にしても例外として看過できていたのですが、ぱっと見で普通の女性らしい魅力(可愛さ・綺麗さ・若さを感じさせる外見)を呈示している若い女性議員・女性社長などが増えてくると、余計に中高年男性としての自分の存在意義が圧迫されているような被害妄想や劣等感・不安感を感じやすくなるのではないかと思います。
マンスプレイニングが改めて概念化されて取りざたされている背景には、男女平等の進展プロセスの中で『地位・経済力・影響力を失いかけている男性』と『男性に全面的に守られなくなった代わりに男性の自慢・示威に合わせてくれなくなった女性』という図式があると推測されます。男性社会・男権主義において男性の女性に対する優位性や優越感を支えていた二大要因は『経済力・職業』と『知識・学歴』でしたが、女性の高学歴化・就職率増大によって男性のほうが女性よりも優位である客観的な根拠はかなり失われてきています。20代の若い世代では女性のほうが就業率も平均所得も高くなってきているといった統計も出てきています。
そんな劣勢にある男権主義者にとっての最後の砦が『知識・知性・学歴』などになりやすく、過半の女性は男性のプライドや知識自慢(解説好き)にも一定の配慮・情け・優しさを示してくれるので、マンスプレイニング的な説明・教示についてそれが実際には女性が既に知っていることや大したことない自慢であっても『“さしすせそ”による男性の意識的な持ち上げ』をしてくれるわけです。マンスプレイニングがセクハラやモラハラに発展する恐れもあるといった話も出ていますが、男性と若い女性の性的魅力は生物学的に非対称的なもので女性のほうが圧倒的に有利なので、『経済力・職業』でも『知識・知性』でも女性に及ばないとなると、男性の中には女性と対等な立場や意識でコミュニケーションが取りづらくなるということも影響しているでしょう。
特に中高年男性は分かりやすい性的魅力でいえば、若い女性よりは圧倒的に劣ることにならざるを得ませんが、今までは『経済力・職業的地位』で優れているからとか(会社組織の上役だからとか)『知識・知性』に秀でているからとかいう理由によって、威厳と自信を保って若い女性に対峙して指導・説教をすることができたわけです。それが『経済力・職業』でも『知識・知性』でも若い女性に及ばないとなると、半分はったりのマンスプレイニングくらいでしかその女性と関わりを持ったりコミュニケーションを取ったりするきっかけを持てないのではないでしょうか。
女性政治家はちょっと例外ですが、マンスプレイニングのターゲットにされやすいのは、一般に中高年の女性よりも若い女性であり、やはり男性が異性としても幾ばくかの興味関心を持っているような女性(更に社会経験が未熟そうで厚顔になりきれずまだ素直さも残っていそうな若い女性)が狙われやすいという意味では、セクハラ的要素も加わりやすいのかもしれません。佐藤あずささんは『女性だから』という理由でマンスプレイニングの被害に遭ったという認識を持っているようですが、厳密には『若くて異性としても魅力を感じさせる女性』だからという理由もかなりの部分を占めているはずで、同じ女性政治家であってもかつての土井たか子さんのようなベテランで、いかにも知識・経験が豊富で反論の弁も立ちそうな(迂闊に舐めた発言をすれば何倍返しかでやり込められそうな)女性政治家にマンスプレイニングを仕掛けようという中高年の男はやはりあまりいないだろうと思います。
セクハラの誘発や興味のある女性と何か理由をつけて関わりたい男性心理にもなりますが、政治家に限らず、常識的に考えても中高年男性が若い魅力的な女性に何か話しかけたり関わりを持ちたいという場合には、『マンスプレイニング的なあなたの知らない役に立つことや重要な知識を教えてあげる、私の話を聞いたほうがあなたのためになるというスタンス』を取るしかないということもあると思います。マンスプレイニング的な要素を完全に排除してしまうと、中高年男性が若い女性に敢えてあれこれ話しかけなければならない必然性そのものが殆どなくなってしまう(別に若い女性の側は中高年男性と長々と話したいわけでもない、用事もなくしつこく話しかけているとただ不審に思われて気持ち悪がられることにもなる)ということであり、過半の女性は上司・先輩・知人などに当たる年上の男性であればそのプライドや自己顕示にも一定の配慮をして、『表面的にはすごいですねと納得・感心している顔で聞いてくれる』ので余計にそういった上から目線の説明・解説にのめり込みやすい人が出てくるのでしょう。
典型的かつ露骨な男性のマンスプレイニングというのは『男性が自分が何らかの興味関心を持っている女性に、自分の知的側面での魅力や有用性を承認してもらいたい(あなたの役に立つという建て前を作ることで関係やコミュニケーションのとっかかりを得たい)』ということであり、裏返せば『知識・知性・経験以外にはその女性と話すために訴えかけられそうな要素』を持ち合わせていないということもあると思われます。女性による男性への上から目線のマンスプレイニング(ウーマンスプレイニング)も確かにあると思いますが、『知識・知性・経験による承認欲求と自己顕示』を関係づくりやコミュニケーションの理由づけに用いるという行動方略はどちらかといえば女性よりも男性に多いもので、多くの女性は上下関係や優劣競争を意識させない『一般的な雑談・共感的な対話・わかるように話す説明』だけでも、相手(男性)と関わりやおしゃべりの機会を持つ自然なとっかかりになりやすいという違いもあります。
『ロマンティックラブ+結婚+経済の結合』が規定していた近代人のライフプランはどう変わるのか?:1
好きな人と恋愛を経験して夫婦として結びつく『恋愛結婚』が当たり前だった時代が終わり、万人が経験すべき近代の通過儀礼(イニシエーション)のように捉えられていた『恋愛』がしてもしなくても良いものに変わってきているというBLOGOSのシロクマさんの記事を読んだ。
「恋愛結婚が当たり前」だった時代の終焉とこれから
恋愛やセックスは面倒だけど今すぐ結婚したい?「恋人いらないってホント?出現!“いきなり結婚族”」 #クロ現プラス #nhk
現代では20~30代の結婚率が低下して、未婚者で恋愛をしている人も大幅に減ってきている。外見・交遊・センス・コミュニケーション力などによる恋愛格差(モテ格差)の拡大もあり、学生時代から恋愛が活発なグループとそうでないグループに分離しやすくなっているとも言われる。若い頃に異性との恋愛も含めた賑やかな交遊関係が充実しているかどうかの視点から、『リア充』というネットスラングが生まれたりもした。先日のニュースでは、20代の若者で過半の人が恋人がいない(男性の7割・女性の6割が恋人なし)ということが話題になっていたが、『(芸能人も含めた)高い理想を反映した好みのタイプの異性』はいても、『リアルの恋愛(現実的に付き合える可能性がある男女関係)』が若年世代で一般にかなり低調になっているようである。
若い男性も女性も多くは、異性・恋愛・性に興味がないわけではないが、『自分がアプローチ可能で付き合えそうな感じの異性』には好意や行動が向きにくくなっている。第一印象や見た目で熱烈に惹かれる魅力があるわけではないが、『知り合ってから段階的に相手の良い部分を見つけて少しずつ好きになっていく』というような、良い意味での異性関係のすり合わせや妥協を、30~40代以上になるなど相当に年を重ねなくてはしなくなっているのである。
ドキドキするような魅力的な異性にアプローチして交際する、刺激的な恋愛の時間の共有をするというロマンティックラブの恋愛は、近代資本主義の原動力(より大きな消費欲求をかきたてる影響力)の一つと考えられてきた。ドイツの経済学者ヴェルナー・ゾンバルトの『恋愛と贅沢と資本主義』の考え方では、近代社会の過剰な見せびらかし消費(顕示的消費)の多くは、『恋愛市場で異性にモテるため(異性と結婚した後は家族・子供のため、より豊かな家庭生活のためになる)』に行われるということになる。
女性に自分の魅力や能力を認めさせるための男性の恋愛への投資(女性へのプレゼント・職業的な権威・ステータスの顕示的消費・家や車の購入)、より力のある男性から選んでもらうために自分を煌びやかに魅力的に見せるための女性の恋愛への投資(化粧・ファッション・髪型・宝石・装飾品)が、近代的な贅沢・奢侈の過剰消費を生み出し資本主義を拡大させたという考え方である。ロマンティックラブの恋愛を前提とした恋愛結婚というのは、ある程度の大きなお金がかかるだけではなく、『男女の伝統的なジェンダー(男性の労働・経済力と女性の性的魅力との擬似的な等価交換性)』にもかなり影響を受けてきたところがある。
異性としての魅力を感じる相手にドキドキするロマンティックな恋愛とその先にある結婚というのは、近代の資本主義と個人生活(異性・結婚・子供と関係した主観的幸福感)を規定してきたものである。だが、恋愛には一定の向き不向きがあるので誰もが必ずできるものではないし、基本的にはどこかの部分(あるいは全体のバランス)で自分と釣り合う相手としか恋愛をすることは難しいという現実もある。若者でリアルなロマンティックラブの恋愛が低迷してきた理由を分類すると、『平均所得の低下や非正規雇用の増加で恋愛のイベントやプレゼント、車、おしゃれなどにかかるお金を準備しづらくなった』『男女のジェンダーがフラット化して更に男女の所得格差も小さくなってきた(男性が経済力・将来性で女性を惹きつけにくくなった)』『若者に流行しているネットのフォトジェニック文化(リア充な雰囲気・メンバーの写真をアップして共有する文化)で異性の魅力として男女共に分かりやすい外見・見栄えが占める比率が高くなった』を上げることができるだろう。
『恋愛・性愛を経ないで結婚を望む若者』が増えているというニュース、あるいはビジネスライクな契約結婚(後半は恋愛結婚的なものに変質するが)をテーマにした新垣結衣・星野源出演の人気ドラマ『逃げるは恥だが役に立つ』を参照しているが、実際に恋愛を経験しないでいきなり結婚する人が多く増えるかといったらそれほど増えないような気もする。恋愛が面倒くさいといっても本当に誰でもいいわけではないだろうし、それほど好きでもない相手と結婚するからには『結婚生活や育児が成り立つだけの経済力+安定した職業や将来性などのメリット』は求められるわけで、現代の若者が恋愛・結婚に消極的な理由がそもそも『経済力がない・雇用や収入が安定しない・将来の見通しが立たない』であることを考えると、余計に盛り上がりそうにない。
恋愛できるような好きな相手が見つからないから、前向きになれる良い出会いがないから、あるいは自分が好きな相手から選ばれないから恋愛・結婚をしない(できない)という理由も大きいだろうが、それ以前に『経済力がない・雇用や収入が安定しない(非正規雇用・昇給のない低賃金)・恋愛や結婚のための仕事(お金を稼ぐこと)に必死になれない』という理由があって、恋愛をしてもその先がないから恋愛しても仕方ないという諦めモードの若者も多い。これも鶏と卵で、その人と一緒に暮らすため(その人との子供を作り育てるため)に、何もかも捨てて必死に働きたいと思えるほどに惚れ込む異性がいないから、職業的・経済的な向上心がいまいち高まらずミニマムな経済生活で現状維持をしているという人もいるかもしれないが。
恋愛をすっとばして結婚だけができればいいのにという人は、『職業・収入が堅実で結婚生活を維持するだけの経済力があるのに、結婚する異性だけが見つからないという状態にある人』であり、若年層ではその比率は恐らく小さいだろう。結婚してくれる相手さえいれば、すぐに結婚生活をスタートさせて子供を作っても大丈夫なだけの仕事状況と経済基盤(何なら持ち家も)があるのであれば、恋愛なしでも結婚したいという人はいるかもしれないが、『結婚後にギリギリの生活(下手をすれば今よりも貧しい生活)』しかどうせできないのであれば、(特に女性側は)敢えて好きでも嫌いでもない人と結婚したいという人はいないように思える。
『ロマンティックラブ+結婚+経済の結合』が規定していた近代人のライフプランはどう変わるのか?:2
『恋愛と結婚は別物』という面は確かにあるが、それは『恋愛の非日常的なドキドキ感・イベントや感情交流の高揚感・特別な相手との特別な時間』と『結婚の日常的な人間関係(育児)・衣食住の家庭生活・ルーティンな雑務』とは違うという意味である。特別に異性として好きな相手やドキドキする魅力のある相手でなくても、確かに結婚生活(衣食住・仕事・育児の共同生活)そのものはできるはずだが、『一人で生活できる収入・状況』があれば敢えて『好きでも嫌いでもない相手との共同生活・子作り(育児)』をするハードルは現代ではそれほど低くないだろう。
『どちらかといえば好きといえるくらいの相手』で『一人や実家で暮らすよりもマシな一定以上の経済状況・生活水準』があれば、契約結婚的なものをしたいという男女は多いとは思うが、どちらかといえば好きと思える相手(一緒にいて良いところが見えてくる相手)とであれば、多少なりとも恋愛感情的・性欲的なものも自然に芽生えるものだろう。あるいは、異性との恋愛が苦手なだけで、社会経済的にはかなり良い条件を持っている人(今すぐにでも結婚生活や育児をスタートさせられる経済力のある人)であれば、年齢・容姿などで高望みしなければ、従来の婚活やお見合いでも相応の相手を見つけることにそれほど困らないように思う。
恋愛の延長線上に結婚があるという共同幻想が弱まって、恋愛結婚が当たり前の時代が終焉に近づいたとしても、『結婚が通過儀礼として機能している時代(結婚が当たり前で結婚していないと恥ずかしかったり不利益・偏見が大きい時代)』に戻らないと、『恋愛抜きの結婚』が急増するとは考えにくいのではないだろうか。現代では結婚をしてもしなくても良いという選択の自由があるから、『恋愛が面倒だから(性が嫌いだから)恋愛しないという現状維持の自由』も担保されているのである。
昔のように『絶対にいずれは結婚しなければならない』のであれば、恋愛や性を敬遠して敢えて相手を選ばないということは余計に自分を不利な状況に追い込むだけであり(今の時点で妥協するよりも悪い相手と結婚しなければならなくなるだけであり)、どうせ誰かを絶対に選ばなければならないのであれば、少しでも自分が好きな相手(少しでも条件の良い相手)を消極的であっても選ぶだろう。ロマンティックラブ・イデオロギーに基づく恋愛結婚が流行していたとされるバブル前後の時代にあってさえも、『遅くても30代までには結婚しなければならない(絶対に結婚相手を見つけておかなければならない)という結婚・出産の通過儀礼としての自明性』があったから、必死に好きな人を作って恋愛しようとしていた部分があるのではないかと思う。
その意味では、ロマンティックラブ・イデオロギーが全盛していた時期でさえも、『心から恋愛を楽しんで没頭していた人』や『本当に妥協なしで無我夢中になるほど異性として惚れ込んだ相手と一緒になった人』というのはかなりの少数派であって、いずれ遠からず絶対に結婚しなければならないから、選べる相手の範囲内で少しでも良い相手を見つけたいと思い(その相手を運命の人と思い込んで引き返せない心理状態に持っていき)、恋愛と結婚に必死になれた面を無視できない。
お見合い結婚が多かった時代も、恋愛結婚が当たり前とされていた時代も、『人はいずれ結婚・出産しなければならないという同調圧力を伴う大前提』があったわけで、結婚・出産に選択の自由が許されてしまった現代とはその前提が大きく違ってしまっている。恋愛の通過儀礼的で抑圧的な性質は確かに希薄化しつつあるが、それ以上に結婚の通過儀礼的で抑圧的な性質(結婚はみんながするものでいずれはしなければならないものという認識)が希薄化している。
『好きでも嫌いでもないそつのない人ととりあえず結婚したい人』が増えるためには、『結婚の通過儀礼性・自明性(いずれはしなければならない)』か『結婚の経済的・精神的なメリット』がなければならず、前者が弱くなっている現代では端的には異性としてそれほど好きでないのなら、『社会経済的条件が良くて生理的嫌悪を感じず(子供を作るための性行為はできて)、性格も合う人』という、好きな人を探すのとあまり変わらない程度の結構なハードルになってくる。
そうなると、今の延長線上で、『苦労・不幸を共にできるほどに好きな人(今よりも良い暮らしができるほど条件の良い人・本能的に惹かれてその人の子供がほしいとストレートに思える人)がいなければ、別に無理してまで契約結婚をしなくても良いと思う人』のほうが増えてくる可能性も否定できない。現代人には『自宅内の他者の存在・生活音・風呂トイレの共有をストレスに感じて共同生活を嫌がる人』も増えている。もう一つの可能性としては、一人暮らしや実家暮らしができないほどに社会全体の貧困化(子供を支援する親世代の困窮化)が進んで、1960年代以前のように大勢の男女が『相互扶助の効率的な生活をするため・子供を早くに働かせて家計援助してもらうため・結婚して共働きしないと生き抜くことが困難なため(一人暮らしや実家暮らしが返って一部の人の贅沢なライフスタイルになったため)』に、好きとか嫌いとかに強くこだわらずにまずまずの釣り合う相手と妥協・納得して結婚すること(結婚がロマンティックな恋愛や上昇婚とではなく最低限の生活維持・相互扶助と強く結びつくこと)もあるかもしれない。
『恋愛抜きの結婚』が今までにない新しい動機や形態のものになるかというと微妙だが、ドライな功利主義的な結婚にしても、一人暮らしよりもマシな状態になるという社会契約的なパートナーシップにしても、『今も婚活などにあるより良い社会経済的条件の相手を探す結婚』や『過去にもあった結婚しなければ一人では生き抜くことが難しい時代』と大きくは変わらないようにも感じられる。誰もがいずれ結婚しなければならないという選択の自由の剥奪(結婚しない人には何か問題があるという同調圧力・偏見の高まり)があれば、恋愛結婚にせよ恋愛なしの契約結婚・パートナーシップにせよ、それぞれがそれぞれの動機や感情、思惑(利害)によってしかるべき年齢で嫌々ながらでも結婚していくので結婚率は高まると思う。
だが現状では、『結婚してもしなくてもどちらでも良いという結婚の世間体・義務性の弱まり』があるがために、『恋愛抜きの結婚』を敢えてしたい人、することに意味やメリットのある人の数は限られることになる。前述したように『結婚・出産の選択の自由化』が起こった時点で『恋愛の通過儀礼性からの自由』も同時に起こっていたとも解釈できるわけで、結局のところ、いずれみんな誰かと絶対に結婚しなければならないという大前提が崩れれば、『異性や人間として好きな人』か『経済的・人生設計的に役に立つ人(社会経済的条件が良くて真面目な人)』としか結婚しづらくなっていく。結婚に潜む身も蓋もない部分(生きるための必要性・結婚することのメリット)というのは、それを表立って言語化することはないにせよ、昔からあるといえばあるのである。
大企業の正社員や公務員などの安定雇用で条件が良い層の結婚率・子供のいる率は有意に高くなっているが、これは『経済的・人生設計的に役に立つ人(社会経済的条件が良くて真面目な人)』であることが多く、『大企業・役所では周りの大半が30~40代までには結婚するので自分だけ結婚しないことの取り残され感が起こりやすい』からだろう。そこには異性として好きだという恋愛的な関係・感情もあるが、視点を変えれば当然ながら功利主義的なメリットも少なからずあるわけで(一方が恋愛優位だが、他方が条件優位もあるわけで)、恋愛結婚と契約結婚は綺麗にすっぱり二分できるものでもなく、昔からある部分では恋愛と条件は区別されるが、ある部分では融合しているものであるようにも思う。
“共感(empathy)”に基づくコミュニケーションの効果と難しさ1:他者の内面は正確には分からない
カウンセリングや心理療法では、カール・ロジャーズのクライエント中心療法(来談者中心療法)をはじめとして『共感(empathy)』が重視されている。共感しながら相手の感情や立場を理解していくという『共感的理解』は、カウンセリングだけではなく良好・親密で安心できる人間関係の基本にもなっている。従来、男性は『問題解決・行動志向』で女性は『共感・対話志向』だから、男性は他者にそれほど共感されなくても心理的な不安・不満は感じにくいといった単純な二元論も言われていたが、男女のジェンダーの差異が縮小している影響もあるのか、今では男性も『自分の気持ち・状況・立場を思いやって共感してほしい』という欲求はある。
男女の区別なく、他者から自分の経験・意見などに共感されたい、自分のことをよく理解してほしいというのは、人間にとってかなり普遍的な欲求・感情の一部のようである。私たちは社会的望ましさ(自分を道徳的な善人と思いたい・人からそう思われたい)や正常性バイアスなどの影響によって、自分自身のことを『他者に対して人並みに共感的である(自分のことだけを考えているエゴイストではない)』と考えがちである。
私たちは食事会・飲み会では明るく陽気な気分や表情で対応する、顧客に対しては丁寧に支持的に接して相手をもてなす、葬式では厳粛で控えめなテンションや態度で対応するといった『TPOに合わせた態度・言動・テンション』を無意識的に調整しているので、実際の日常生活では『人の気持ちや感じ方が正確には分からないこと』が問題になることはあまりない。共感・共感的理解の不足や不適切さが問題になってくるのは、どちらかの心理状態が悪くなっていて(あるいは精神疾患を発症していたりして)その相手を心理的にサポートしなければならなかったり、相手をより深く理解することで良好・親密な人間関係を維持する必要があったりする時である。
だがカウンセリングの心理面接を通した調査研究では、『他人が何を考えていてどのように感じているのか』『他人が自分のことをどのように思っているのか、どう評価しているのか』について、相手の反応に注意しているプロフェッショナルでも『他者の感情・自分への思い』を正確に推測することはほとんどできない事が分かっている。精神医学や臨床心理学のカウンセリング的な心理臨床の場だけの問題ではなく、『家族・恋人・友人・隣人・同僚・上司や部下・顧客』との広範な人間関係において、私たちは『自分は相手の気持ちがそれなりに分かっている(相手の気持ちをそれなりに分かっていて、ある程度その気持ちを尊重して対応している)』と感じているが、相手のほうは『あの人は私の気持ちがそんなに正確には分かっていない』と感じていることのほうが多いわけである。
この相手の気持ちや考えをどれくらい分かっているかについての認識や評価のギャップが、人間関係の対立や悪化、トラブル、食い違い、分かり合えなさ、諦め・遠ざかりなどにもつながっていくことになるが、自分自身について振り返ってみれば誰もが親密なはずの家族や恋人、親友に対してさえも『自分の本当の気持ちや考えを十分に分かってくれない』という不満・不安・憤り・諦めの感情を持ったことが一度ならずあるのではないだろうか。他者の思考・感覚・感情を正確には理解することができないというのは、哲学では相当に昔からある古典的な『主観と客観の相違にまつわる認識論の命題(主客問題)』であり、端的な事例としては、『他者の痛み(痛覚)』というのはどんなに努力して想像・推測や痛がる相手の励ましをしたとしても、(心配のしすぎでストレス性の心労や心身の不調はあっても)自分自身は実際の痛みとして体験することはできないのである。
ニュースで隣人や地域の少年・青年が、殺人・強盗などの凶悪事件を起こした時、あるいはクラスメイトや同僚などの知り合いが自殺してしまった時などに、多くの人は『そんなことをするような人には見えませんでした・礼儀正しくて明るい青年だったのに・そんな深刻な悩みを抱えているとは知りませんでした(知っていればもっと話を聞いてあげられたのに)』といった感想を述べるものだが、現実問題として、人は『深い付き合いのない他者の感情・考え・人生観』などをそれほど正確に共感したり理解したりできないということでもある。誰しも一定の年齢になれば、ある人が自分の思っていたような人物とは違ったという経験はするものだ。『人間にはよほど親しい人でないと見せない性格行動パターンの意外な一面』があるというだけではなくて、家族や恋人、親友といった長年の付き合いがある相当に親しい人であっても、『相手が今の時点で感じていることや考えていること、自分に対して思っていること(言いたいこと)』などを正しく共感して理解することはかなり難しい、必ず主観と客観(第三者)の間である程度のギャップが生じることになる。
その人本人しか感じていない怪我・病気の『主観的な身体の痛み』が本当の意味では分からないように、『他者が感じていること・考えていること・自分について思っていること(自分をどう評価しているか)・主観的な精神の苦痛』も本当の意味では分からない。自分の気持ちや考え方、価値観を完璧に正確に共感して理解してほしいと思いすぎるのもパーソナリティー構造の歪み・偏りにつながるし、共感的理解が不十分だからといって怒り・不満を爆発させたり情緒不安定になって日常生活ができなくなるという所までいくと、境界性パーソナリティー障害の問題も関係してくるだろう。
“共感(empathy)”に基づくコミュニケーションの効果と難しさ2:思考の共感・感情の共感
気のおけない親密な間柄や長期の付き合い、強い信頼感があるほど『共感的理解の妥当性・正確さ(自分が相手に共感してもらえているな・相手が自分のことを分かってくれているなと思える実感)』は、やはり上がりやすくはなってくるし、正確でなくてもお互いの信頼関係や依存心、安心感によって当意即妙のやり取りができていると感じやすくもなる。
人はどんな時に『共感している・共感されている』と感じるのだろうか。それは大きく以下の3つの場合に整理することができる。
1.思考の共感……自分(相手)が相手(自分)の考えていることについて『あなたはこういう風に考えておられるのではないですか。私もそのように思っていたのです』といい、相手(自分)が『その通りなんです。それが私の言いたかったことなのです』と率直に言えるようなやり取りの場合。
2.感情の共感……自分(相手)が相手(自分)の感じている気持ちについて『あなたはこんなお気持ちだったのではないですか。そのお気持ちや感じ方が分かります』といい、相手(自分)が『その通りなんです。その気持ちや感じを私は分かってもらいたかったのです』と率直に言えるようなやり取りの場合。
3.尊敬と受容……思考の共感にしても感情の共感にしても、それを相手に伝える場合には、相手が否定や非難をされているとネガティブな思いをしなくて良いように『尊敬と受容』を前提にしたやり取りを心がける必要がある。相手の意見や感情を尊重して丁寧に対応するようにし、相手の考えていることや感じていることについて温かみをもって受容できている場合である。
『思考の共感』も『感情の共感』も、家族・恋人・友人・同僚・知人といった日常生活の中の人間関係では、ほとんど意識しないままに自然な返事や反応、態度を通して相手に伝達されていることが多いのだが、カウンセリング(心理療法)などにも応用される共感的理解の伝え方の技法もいくつかある。思考の共感をもっとも簡単に伝える方法は、『繰り返し・明確化と要約』である。相手が一生懸命に話している内容や強調しているキーワードなどをしっかりと聴いて、あまり自分なりの解釈を加えずにほとんど相手の言葉のままに繰り返すのが『繰り返し』である。
例えば、相手が『今、仕事が忙しくて書類整理まで任されていて、残業続きでくたくたなんだ』と言ったとすると、共感的ではないあまり良くない答え方として、『そうなんだ。実は私の会社も今、繁忙期で眠れないくらいに忙しくて、この間なんか……』と相手の話題を自分の話したい話題へとすり替えてしまうような答え方になりやすい。こういった時に、『そうなんですか、今はお仕事が忙しくて書類の整理までされているんですね。残業が続いていて相当にお疲れの様子ですね』といった返し方をするのが繰り返しであり、文章にすると単純すぎるようにも思うが、丁寧にゆっくりした口調で相手を尊重する姿勢を見せながら繰り返しの技法を用いることで、相手は自分の考えていることや現在の状況によく共感してくれていると感じやすくなるのである。
人間関係が悪化している時やクレームを受けている時、対立や喧嘩(言い争い)になっているような時にも、自分が相手の話していることをしっかり聞いていることを示すために『繰り返し』と相手の意見・要求の内容をはっきりとさせて要点を絞込み、話の要旨をまとめていく『明確化と要約』は有効である。相手が話していることを、あなたがそのまま丁寧な態度と落ち着いた口調で繰り返して、更に別の適切な言葉で言い換えて明確化したり要約したならば、相手はあなたがちゃんと自分の話を聞いてくれていると信じることができ、あなたが自分の言いたいことを理解してくれているという納得を得やすくなるからである。相手の話を注意深く丁寧に傾聴して、相手の話していることに集中して、その内容を繰り返して明確化し要約することで、『思考の共感をされているという実感』を感じやすくすることができる。
『思考の共感』の作用メカニズムは、カール・ロジャーズのクライエント中心療法(来談者中心療法)と同じく、自分の言いたい話題や考え(指示)を相手に伝える『自己中心的なアプローチ』ではなくて、相手が話したい話題や考えを繰り返して明確化したり要約して伝える『他者中心的なアプローチ』ということである。自分の意識や関心の焦点(フォーカス)を『自分が言いたいこと・教えたいこと』ではなくて、『相手が言いたいこと・感じていること・求めていること』に移してから、集中して相手の話を興味深い姿勢で聴いていくという技法になっている。
自分が相手について考えていることを繰り返したり要約した後に、『私はこういう風な形で理解しているのですが、その理解で間違っていないでしょうか(あなたの考えていることをきちんと分かることができているでしょうか)』という質問を加えることで、自分の一方通行の誤解に陥る危険を避けて、相手の本当の気持ちからのフィードバックを受けやすくなることもある。よくある誤解や間違いとしてあるのは、繰り返しや要約の技法が『機械的なオウム返し』になってしまって、『相手が話した内容そのまま』を何の配慮や脈絡、質問もなく機械的に跳ね返すばかりになって、かえって相手の不快感・不信感を強めてしまうということである。
例えば、『私はあなたに本当に腹が立っているのよ』と言われた場合に、『あなたは私に本当に腹が立っているんですね』と機械的に跳ね返すだけだと、その後に続くフレーズが自動的に『あなたは私に腹を立てているみたいだけど、それが何か?私には関係ないことだけど』といった相手の感情を逆撫でするようなフレーズでイメージされやすくなってしまう。しかしそこで『今話してみて、あなたが私に対して本当に怒っているということが分かりました。私はあなたと仲直りしたいと思っているんだけど、私のどういった行為や態度であなたをそこまで怒らせてしまったのか教えてください』といった相手の心情や不満を推測した返し方をすれば、相手は『自分の怒り・不満の思考と感情をいったん受け入れてくれたみたいだ』という納得・安心の感情を持ちやすくなり、自分が相手に怒っている理由やどうしてほしいのかという次の建設的な話題へとスライドしやすくもなる。
『感情の共感』の技法は『思考の共感』よりも更に一歩踏み込んで、『相手の感じている感情・気持ちについて理解していること』を示すものである。上の『相手の怒りの感情に対応するやり取りの事例』のように、『相手の訴えている感情・気持ち』に焦点を合わせてそれを受け容れながら、建設的なコミュニケーションを発展させていく。相手の置かれている状況や立場、関係に対する想像力を働かせてみるということが、『感情の共感技法』の第一のポイントである。
『あなたはこういった気持ちなのでしょうか』という確認や受容をしていくことによって、『相手の気持ちをオープンにさせること・相手の攻撃性や自分への反発心を抑えること・相手の自己受容感や納得感、安心感を高めること』ができるのだが、最終的には相手がどのように考えてどのように感じているのかについて独断で決め付けるのではなく、きちんと受容しながら質問をして『相手の言葉と表情で伝えてもらい受け止めること』が大切になってくる。
元記事の執筆日:2016/12/01