グリム童話『忠臣ヨハネス』と理想的・陶酔的な異性像を示すアニマの元型:1
グリム童話『忠臣ヨハネス』と破壊・創造を担うトリックスター(道化+英雄):2
ユング心理学のトリックスターの元型とグリム童話『黄金の鳥』1:最低と最高の交代可能性
ユング心理学の自己(セルフ)の元型とグリム童話『黄金の鳥』2:父性・イニシエーションの衰退
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C.G.ユングのアニマの元型(アーキタイプ)とジェームズ・フレイザーの『金枝篇』の王殺し
分析心理学を創始したカール・グスタフ・ユング(Carl Gustav Jung,1875-1961)は、人類に共通する普遍的無意識(集合無意識)の内容を示すイメージとして『元型(アーキタイプ)』を考えた。元型にはグレートマザー(太母)やオールドワイズマン(老賢者)、シャドウ(影)をはじめとして色々な種類があるが、人間の人生の生き方や価値観の大枠を規定して大きく行動を左右するものとしてアニマとアニムスの元型がある。
アニマやアニムスは、人間の男女にとって重要なライフイベントや行動選択の動機づけ(あるいは発達課題の達成)になりやすい恋愛や結婚、自己犠牲(忘我・献身)、破滅・堕落に関係しやすい『異性像の元型』である。男性にとっての理想的な女性像のイメージとしてアニマがあり、女性にとっての理想的な男性像のイメージとしてアニムスがあるが、古来からさまざまな神話・伝説・物語(寓話)のヒロインやヒーローとしてその典型的なイメージが示されてきた。グリム童話『忠臣ヨハネス』では、一つの時代が終焉して既存の秩序・規範が崩壊する(新たな秩序・規範が生成する)『王の死・王位継承』を起点として、死せる王の遺志を継いだ忠臣ヨハネスが、『次の王のアニマ(狂気的な愛・理想の対象となる姫)との遭遇』を防ごうとする。
中世以前の王・皇帝は、時間(御世の一つの時代)を支配する擬制された神のような存在であり、政治的な統治者であるだけではなく、一つの国家・集団・部族の存続を担保する『秩序・規範・神聖(宗教)の有形の体現者』でもあった。古代から中世にかけての王の死は『国・部族の存続性(安定秩序)にとっての危機』でもあるから、『王位の迅速かつ確実な継承』は国・部族にとって極めて重要な儀式・行事となり、原始的な未開部族においては『王の病気・自然死(王の秩序の緩やかな衰退による混乱・破局)』を回避するために『象徴的な王殺し(王の殺害)』が行われることもあったという。
原始部族や古代国家の『王殺し(王の殺害による王位継承)』の風習・制度については、イギリスの社会人類学者・宗教学者のジェームズ・フレイザー(1854-1941)が『金枝篇(きんしへん)』で、その神話的・宗教的・呪術的な王殺しのエピソードを蒐集している。フレイザーの『金枝篇』はフィールドワークではなく文献・史料・口碑伝承の研究によって、未開社会・原始的部族の神話・呪術・信仰を集成して分析したものだから、後世において(実際に自分で現地に赴いて人々に接して調査したわけではないという意味で)『書斎の学問・安楽椅子の人類学』という批判もあったが、古代の信仰・呪術・禁忌の伝説や事例をここまで大量に集めた研究は類例がないとされる。
標題の『金枝』とは古代イタリアのネミにいた未開部族で『森の王の資格』とされていたヤドリギのことであり、女神ディアナ信仰と関係した『王殺し(祭祀王殺し)の風習』があったのだという。森に生えていた聖なるヤドリギには、逃亡奴隷以外の誰も触れてはいけないという禁忌があり、次代の森の王(祭祀王)になるためには『ヤドリギから金枝を手折ること』と『現在の森の王と戦って殺すこと』の二つの条件を満たさなければならなかった。ジェームズ・フレイザーは、前代の王(政治的・宗教的な権威者)を殺害するという『王殺しの風習』が世界各地に存在していたことを指摘したが、時代が下るにつれて王位や神聖権威は『世襲制』に移行していき、『次世代の王(王子)の資質・能力の適格性』と『未熟な新任の王を補佐する忠臣(側近)の役割・忠誠』のほうが問題になってくる。
グリム童話『忠臣ヨハネス』では、世襲の王政において年老いた王が臨終の前に、忠臣ヨハネスに若くて未熟な王子(次代の王)の補佐を依頼することから始まるのだが、『執政を担いにくい若年・未熟な王子』を親族・忠臣が補佐する仕組みは日本の朝廷の律令制でも『摂政・関白』というものがあった。最近、高齢となって公務遂行の困難を心配されている今上天皇の『譲位(退位)の問題』がニュースで取りざたされることもあるが、天皇は摂政よりも譲位を望んでおられるようである。現代日本の天皇制は実権のない『象徴天皇』なので摂政・関白・上皇などの補佐があっても大きな問題は起こりにくいと推測されるが、古代から中世にかけては摂政(関白)や忠臣に補佐させて後事を託す方法には『権力権威の分裂・補佐役の裏切りや謀反』といった問題もあっただろう。
グリム童話『忠臣ヨハネス』と理想的・陶酔的な異性像を示すアニマの元型:1
グリム童話の『忠臣ヨハネス』では、死を目前にした老王が家臣のヨハネスに、『お前が父親代わりになって王子の後見をしてくれれば、安らかな眠りにつくことができる』と語り、ヨハネスを国家の秩序・規範の暫時の継承者に指名するのだが、王はヨハネスに『王子に長廊下の行き止まりにある部屋の中だけは見せてはならない』と遺言した。だが禁止・禁忌はいずれ必ず違反されてしまうものであり、人間は禁止されればされるほどに好奇心や想像力を掻き立てられて『禁止・禁忌の違背の誘惑』に抗えなくなるとC.G.ユングも語っている。
C.G.ユングのアニマの元型(アーキタイプ)とジェームズ・フレイザーの『金枝篇』の王殺し
禁止されている行為やモノの先には『大きな危険・危機』が待ち構えているが、禁止を打ち破ろうとする好奇心が『危険に呑み込まれる破滅・崩壊』をもたらすか『危険を克服した成功・幸福』に行き着くかは事前には予測できない。投資においてリスクのないリターンがないように、予定調和的なリスクヘッジをするだけでは、ギリギリの現状維持はできても、『既存秩序を刷新する新たな経験・喜び』を得ることはできないのである。王が王子に対して入室することを禁止した『廊下の行き止まりにある部屋』に隠されているのは、王自身も魅惑されてのめり込むことを恐れた『黄金葺きの館に住む美しい王女の絵(絵姿)』であり、この絵に描かれた王女はC.G.ユングのいうところの『アニマ』として機能しているのである。
王は王子がその王女の絵姿を一目見てしまえば、美しい王女の姿に惚れ込んで耽溺してしまい、何が何でもその王女を手に入れたくなってしまうことを知っていたが、『アニマへの没頭・耽溺』によって既存の規範性・秩序性に支えられてきた王国の存続が危うくなることを恐れたのである。老王もまた自分自身がその王女の強い魅力に抗えないことを知っており、知っていればこそ王女の美貌の輝きに満ちた絵姿を封印して目にしなくても良いようにしていたのである。
黄金葺きの館に住む美しい王女の絵を捨てずに持っていた老王には、『王女に魅了されて王国の秩序・存続が脅かされてしまう不安・恐怖』と『アニマである理想の王女を手に入れて新たな幸福・喜びの可能性を実現したい願望・期待』との矛盾する欲求のジレンマがあった。老王は王子の後見人として補佐してくれるように頼んだヨハネスに『王子に絶対に行き止まりの部屋の中を見せてはいけない』と遺言したが、この強い禁止・禁忌の遺言は『パラドキシカル(逆説的)な挑発・誘惑』としても機能している。本音の部分でアニマである王女を手に入れたいという老王の欲望を、代わりに王子が実現してくれるのではないか(禁止を破って危険を乗り越え新たな可能性を切り開いてくれるのではないか)との矛盾する期待感がそこに宿っているのである。
老王の死後、忠臣ヨハネスは老王の息子(王子)の新たな王に対して忠誠を誓って仕えることになる。ヨハネスは初め亡くなった老王の遺言を守って、『行き止まりの部屋』を若い王に見せないようにしていたが、遂にどうしても禁止された部屋に入りたいという若い王の懇請と欲望に打ち負かされて入室を許してしまう。黄金の館に住む美しい王女の絵を、ヨハネスは王子に何とか見せないようにしようとして、身を挺して立ちふさがる。だが王子は爪先立ちになって背伸びして王女の絵を盗み見てしまい、あまりの美しさと魅力に圧倒されて気絶してしまう。目覚めた王は王女の絵姿の虜(とりこ)になってしまい、家臣ヨハネスにその激しく燃え盛る恋心を訴えて、必ず王女を自分のものにしてみせると意気込むのである。
黄金の館に住む美しい王女の絵姿は王にとっての『アニマ』であるが、男性の多くは心の中に『自分にとって理想的・陶酔的な女性像のイメージ』を抱えていて、普段はほとんどそのイメージを想起することはないのだが、『理想的・陶酔的な女性像のイメージに近い実際の女性(知覚した途端に半ば反射的に激しい欲望・劣情・陶酔を刺激されるようなずっと見ていたくなるような女性)』を目にすると、アニマによって心理・行動が半ば無意識的にコントロールされてしまうことがある。
グリム童話『忠臣ヨハネス』と破壊・創造を担うトリックスター(道化+英雄):2
C.G.ユングは普遍的無意識(集合無意識)の内容である元型(アーキタイプ)を直接に知覚・認識することはできないとしたから、アニマ(アニムス)という元型も直接の認識はできない。だがアニマ(アニムス)の元型のイメージは、『社会的・文化的・時代的・物語的な共通のヒロイン(ヒーロー)のイメージ』として触れることができたり、『実際に激しく心を揺さぶられる異性の外見・性格・雰囲気』を通じてアニマの輪郭や断片を推測することができる。
グリム童話『忠臣ヨハネス』と理想的・陶酔的な異性像を示すアニマの元型:1
アニマ(アニムス)の元型が反映されたイメージや異性像は、人間の理想や情欲を激しく揺さぶり刺激して陶酔(没頭)させる、すなわち『心・魂を奪い去るほどの影響力』を振るうことによって、自分とアニマとの幻想的な一体感に至高価値があるような錯覚を引き起こすのである。その意味で、アニマ(アニムス)の元型は、人間を幸福にすることもあれば不幸にすることもあるアンビバレンツ(両価的)な特徴を持っている。アニマ(アニムス)の元型イメージとの関わり合いが、新たな可能性の境地を切り開いてくれることもあれば、ファム・ファタルな美女に誘われ今ある安定や秩序を完全に壊してしまい、自分や周りの人々・家族をどん底に突き落としてしまうこともあるのである。
既存の家族・夫婦の安定的秩序や道徳的規範が『浮気・不倫(抗いがたい魅力を持つ別の異性像にのめり込んで今ある大切なものを捨てさせる)』によって崩される不幸も少なくないが、道徳や常識を踏み外すような危険な挑発・誘惑に逆らえず魅了されてしまう時には、アニマ(アニムス)の理想的な元型のイメージがどこかしら人間の心に揺さぶりをかけているのかもしれない。アニマの理想的・陶酔的な女性像に誘われてそれを手に入れようとする時、男性は『創造・飛躍』か『破滅・堕落』かの両極端な選択を強いられているような情況に追い込まれやすい。
精神内界の無意識領域にあるアニマの女性像が大きく強くなりすぎると、男性は往々にして『本来やるべきこと(社会的・道徳的な義務や常識)』よりも『女性との刹那的・快楽的な行為』を優先させてしまって破滅しやすくなるが、この実際の事例として『浮気・不倫・性依存(恋愛依存)・ストーカー・セクハラ・性犯罪』などを想定することができるだろう。グリム童話『忠臣ヨハネス』では、家臣のヨハネスは『老王の遺志』と『新王の願望』の板挟みのジレンマに悩まされるが、行き止まりの部屋を新王(息子の王子)に見せてはならないという老王の遺言を守ろうとしたヨハネスは、新王にとってはいずれ乗り越えるべき『父親のイメージ』にもなっている。
背伸びしてヨハネスの肩ごしに黄金の館に住む王女の絵姿を盗み見た新王は、この生命をかけてでもあの王女(女性)を手に入れてみせると燃え盛る恋心をヨハネスに宣言する。このヨハネスに対する新王の宣言は、『アニマに魅了されて抵抗できない男の盲目的な姿』であると同時に『前代の老王の定めた規範・秩序を自分の代で乗り越えていくというある種の王殺しのメタファー』にもなっているのである。老王との約束を破ってしまった家臣ヨハネスだが、今度は若き新王の願望充足を手伝うことに決めて、黄金が好きな王女を手に入れるために、黄金細工を売る商人の姿に変装して近づき、そのまま自国に連れ去れば良いと新王にアドバイスする。このアドバイスに従って黄金細工売りの商人に変装した新王とヨハネスは、遂に黄金の館に住む王女を連れ帰ることに成功する。
商人に黙れた王女は嘆き悲しむが、商人の正体が王だと分かると喜んで、王の結婚のアプローチを受け容れるという展開になる。これは一見するとハッピーエンドの展開なのだが、この王女は新王に『新たな不運・危険』をもたらす両価的な存在でもあり、忠臣ヨハネスはその不運・危険を防ぐために捨て身の献身をするのである。家臣ヨハネスは老王との約束を破って、若き新王を行き止まりの部屋の中に入れて『美しい王女の絵姿(アニマの元型のイメージ)』を見させ、更には新王と王女を結びつけるために『黄金細工売りの商人に変装する作戦』を新王にアドバイスする。
家臣ヨハネスは老王の『意識の価値観(既存の規範・秩序の維持)』と『無意識の価値観(アニマの元型に接近することによる新たな創造・喜びの獲得)』の葛藤を、新王をバックアップすることによって解消するトリックスターの表象として描かれている。トリックスターの元型を反映した人物(キャラクター)はさまざまな神話や伝説、物語に登場するが、トリックスターというのは『破壊と創造の担い手となるいたずら者・道化・ペテン師』であり、どこか真剣味に欠けていて悪ふざけやトリック(騙し)の仕掛けをしながら、既存の秩序・権威・価値をユーモラスに破壊していくのである。
既存の常識的な上下関係や権威主義を転倒させるのがトリックスターの役割であり、『忠臣ヨハネス』におけるヨハネスも、古い常識的な規範性・秩序性(老王の時代の常識)を破壊する手助けをして、商人に変装して王女を騙して連れ去るというトリックを用いることで、新たな世界や価値観の実現(新王と王女の結びつきによるアニマ獲得の体験)を成し遂げている。トリックスター(いたずら者・道化)の元型のイメージを反映したキャラクターは、ある時にはただいたずらや悪ふざけ、トリックの仕掛け(騙し)をするだけの反骨者・破壊者に過ぎないが、ある時には『破壊・騙しの後の意図しない創造・建設』を成し遂げてしまう時代・常識の変革者(おどけた英雄的人物)としての性質を帯びることになる。
トリックスターは『真面目で規範的・常識的なだけの秩序』を転倒させることによって、『世界の一面性の偏り(物足りなさ・変化のなさ)』を修正するおどけた存在であり、『正(真面目)と負(悪ふざけ)を合わせた世界の全体性』を回復して古いものを新しいものへと転換していく革新や変化の歴史的役割を担っているのである。トリックスターは王様や将軍などの実力のある権威者に逆らう反骨者として描かれることも多く、その末路は袋叩きや処刑・虐殺などの悲惨な目に遭わせられることも多い。
『忠臣ヨハネス』における英雄的なトリックスターであるヨハネスは、『カラスが予言した新王と王妃の危険を防ぐための忠誠』を尽くすのだが、『新王の信頼を失うかもしれない忠誠の示し方(王妃の胸から三滴の血液を吸い出して吐くなど)』をしなければならず、新王がヨハネスの絶対的な忠誠心を疑ってしまったことで、最後は遂に忠臣ヨハネスは石火して石像になってしまったのである。ヨハネスに対する後悔・贖罪の念に駆られた新王と王妃は、石像となったヨハネスを再び蘇らせるために、自分たち二人の子供を殺してその血液を石像に塗らなければならない(最終的には奇跡で子供は生き返るが)という苛烈な選択を突きつけられることになるが、その苛烈な選択は忠臣ヨハネスのそれまでの献身・貢献に報いるべきはずの新王が『ヨハネスを信用してやれなかったこと(ヨハネスの裏切りや悪意を想像してしまったこと)』によって生み出された贖罪の義務でもあった。
ユング心理学のトリックスターの元型とグリム童話『黄金の鳥』1:最低と最高の交代可能性
昔話や物語では『親による子殺し(子による親殺し)のテーマ』として、例外を許さない厳しい契約履行(約束遵守)が表現されることもある。昔話や物語(童話)における『王』は『規範・秩序の体現者』であり、王が悩んだり苦しんだりしている状況を『王子・若者・勇者』などが解決することによって、『規範・秩序の回復』や『旧体制の崩壊による新体制の構築』が展開されることにもなる。グリム童話『黄金の鳥』では、王が黄金のりんごの森を『りんごの数』をチェックしながら神経質に管理している(既存秩序を維持している)のだが、ある日から毎晩一つずつ黄金のりんごが盗まれるようになる。『盗み』は分かりやすい法秩序の侵犯であり、規範に対する挑戦であるが、こういった『盗みの発生』は『既存秩序の揺らぎ・体制維持のための規範の改善』のメタファーとして機能している。
S.フロイトの精神分析理論における父性原理(男性原理)の影響:切断する父性と包容する母性
『王』は黄金のりんごが盗まれることを防ぐため(危機に陥っている既存の規範秩序・体制を男性原理の方法で回復させるため)に、『三人の王子(息子たち)』に黄金のりんごの森の見張り番をするように命じる。長男と次男の王子は眠りこけて役に立つことができず、初めは能力が低いと見られて期待されていなかった三男の王子がりんごを盗んでいる『黄金の鳥』を見つけて弓を射るのである。三男の王子は黄金の鳥を射て落とすことはできなかったが、弓矢が鳥を掠めたので一枚の『黄金の羽』を証拠品のように手に入れることができた。そのまばゆく輝く『黄金の羽』は、王が統治する一国全体の価値にも匹敵するほどの大きな価値のある羽だと鑑定され、王が神経質に守り続けてきた『黄金のりんご(既存の規範秩序・体制)』の価値が相対的に低下してしまうのである。
最も期待されていないダメな人物や能力・魅力に劣る人物が、最終的に『最高の成果・予想以上の成功・ハッピーエンド』を収めるというのは、童話に代表される寓話的な物語の典型的なパターンである。つまり、『既存の体制(常識)から見た愚者・無能者』は『既存体制を変革・刷新するトリックスター(現状を思いがけない方法で変えるいたずら者)』になりやすい、これは最高と最低の価値の交代可能性だが、自分の中にある『劣等な特徴』を『優越する能力・魅力』に変えられる可能性をも示唆していると考えることもできるだろう。
王が必死に守っていた黄金のりんごは『意識領域における価値ある宝』であり、三男の王子が弓矢を射て手に入れた黄金の羽は『無意識領域における価値ある宝』であるが、黄金の羽のほうが黄金のりんごよりも圧倒的に価値があると鑑定されたことは、父性原理(男性原理)を前提とする『世代交代・父殺し(王殺し)』のメタファーとしても効いているのである。王は自分の国をも凌ぐような圧倒的価値を持つ黄金の鳥の羽に魅了されて、『一枚の羽だけでは足りない。黄金の鳥そのものを捕まえて持ち帰ってこい』と三人の王子に再び命令するが、ここでも一番目と二番目の兄の王子は『しゃべる狐』の助言を聞き入れずに次々に危険に見舞われて失敗してしまう。黄金の羽を得た三番目の王子だけが、『しゃべる狐』の助言・忠告をきちんと聴き入れて、更には狐の背中に乗せてもらって高速で移動して、黄金の鳥のいる所へと着実に進んでいけるのである。
グリム童話に限らず寓話や神話に登場する『狐(きつね)』は、一般的に他の動物よりも知能・言語能力が高くて、時に人を騙したり助けたりもする『神性(神獣性)』を持ち合わせた動物として扱われており、日本の稲荷神社信仰においても狐(きつね)は特別な霊性・ご利益・神罰(怪異を起こす超能力)を持つ存在として認識されることが多い。古来からの昔話・物語において『狐(きつね)』は、特別な知能の高さや言語能力を持っていて『人を化かす役割(神性・妖怪・超能力)』を与えられていることが多いのだが、これをユング心理学の元型(アーキタイプ)で解釈すれば『狐=トリックスター(既存の価値・秩序・権威を転換させるいたずら者や自由自在に変異する力を持つ者)』として捉えることができるのだろう。
ユング心理学の自己(セルフ)の元型とグリム童話『黄金の鳥』2:父性・イニシエーションの衰退
グリム童話『黄金の鳥』では、三人の王子の人生・行動の選択や分岐点もテーマになっており、三男の王子は長男・次男よりも『結果として適切な選択だが、一般的に非常識(間違っている感じ)な選択』をすることによって黄金の鳥を手に入れる成功の道を進んでいく。動物(狐)のしゃべることなど信用できない、何らかの物の怪のしわざかもしれないとする無難で常識的な選択をした王子たちが失敗して、エキセントリックで非常識な選択をした狐をパートナーとして処遇した三男が『冒険の仕事』を乗り越えて黄金の鳥の捕獲に成功するというのも、『既存の価値観や常識観念を逆さまに転倒させる』ところのあるトリックスターの特徴を表しているのだろう。
ユング心理学のトリックスターの元型とグリム童話『黄金の鳥』1:最低と最高の交代可能性
しかし、三番目の王子も『黄金の鳥は黄金のカゴよりも木のカゴに入れたほうがいい』という狐の助言を受け入れずに、価値ある宝を持っていることが周りに明らかになって捕えられたりもする。人生の重要な選択の場面において、『キツネの助言(無意識のメッセージ)』に従うか『自分の判断(意識の判断)』を貫くかによって結果が変わるのだが、この物語では自分自身の判断に従ったほうが結果が悪いものになりやすい傾向がある。最後に三番目の王子は、黄金の鳥・黄金の馬の次に『黄金の城のお姫様(アニマの象徴)』を手に入れて自国に帰り、次世代の王となるという予兆が示されることになるが、理想の女性像アニマの象徴であるお姫様を手に入れるまでの『苦難・危険・迷いの多い冒険の旅』が子供が大人になるための(新たな体制秩序の担い手になるための)『イニシエーション(通過儀礼)』として配置されているところに、特定の童話物語を超えた普遍性がある。
無意識領域にある価値ある宝(新たな時代の幕開け・アニマとの象徴的な結婚など)は、意識領域の病的状態や疲弊・限界を乗り越えていくために必要なものであり、ユング心理学で『自己実現』に相当する意識と無意識の調和である『個性化』を成し遂げるために手に入れるべきものである。もちろん、その無意識の宝の多くは誰でも簡単に手に入れられるものではなく、昔話や童話においても『イニシエーション(通過儀礼)の試練・難題』をクリアすることで手に入るという構成になっており、この厳しい試練や難題を乗り越えてこそ新たな可能性が切り開かれるという構成そのものが『父性原理(男性原理)』との相関が深いのである。
物語や童話において『イニシエーション(通過儀礼)の試練・難題』の多くは、『黄金の鳥』とか『かぐや姫』とかにも見られるように、『父王によって王子たちに与えられる試練・冒険』『アニマ的な女性の父親が求婚者に与える難題』といった形で表現されることが多く、そのイニシエーションを乗り越えるための『仕事・冒険・チャレンジ』によって精神的に自立した大人になってゆくという物語構成が一般化されていた。現代の日本をはじめとする先進国では、『女性原理の優位性(美しさ・可愛さ・優しさ・物分かりの良さ・上下関係のなさ・暴力や危険の全否定などの価値の上位性)』が目立つようになり、物語や童話にあるような生きるか死ぬかのイニシエーション的な試練・課題を無理やりに与えるような『区別して強制する父性原理・男性原理』は衰退や批判に晒されやすくなっている。
近代以前の時代には、父なるものがイニシエーションの試練・難題を科す時には、『若者・息子』にそれを受け入れるか否かの選択権そのものがなく、その厳しい試練・課題を上手く乗り越えられなければ、下手をすれば『死』の結果に見舞われるだけだった。その時代・集団には概ね人権も法律もなく、『社会の一員(次世代を担う後継者)・能力のある大人としての自己証明』ができなければ死ぬ危険性があるというだけであり、『困難で危険な仕事』を成し遂げていくことが自己証明からの自己実現(個性化)の道であった。
あるいは古い時代・体制秩序から新しい時代・体制秩序へ転換していくクリティカルな契機・運命にもなっており、ユング心理学でいう意識と無意識を統合してバランスさせる『自己(セルフ)』の存在・働き(自己は直接的に認識することはできないとされる)を、童話や物語の試練がほのめかしているのである。無意識の自己(セルフ)は、意識の自我(エゴ)の偏った過剰な一面性を補償して、精神世界の全体性を回復してバランスを取ってくれる役割も果たしている。だが、現代人の自己実現や個性化は『集合無意識の反映された社会システム・イニシエーション』ではなく、『個人の自由意思や好き嫌いに基づく選択・決定と自己責任』に依拠するようになり、意識と無意識を統合しようとする自己(セルフ)の元型のメッセージにまったく触れられないというケースも増えてきた。
誰もが一定の年齢で半ば無理やりにでも精神的に成熟して社会的に自立を遂げていくような父性原理(男性原理)の父なるものの強制・命令の働きは、良くも悪くも経済的必要性(仕事やお金がなければ大多数の人は生活できない)を除けばなくなってきて、その結果として『不決断のモラトリアム・個人間の精神の成熟度の格差・自己実現への過度のこだわり(できることから始めるという現実適応の弱まり)』なども生まれやすくなっている。
元記事の執筆日:2016/12/11