時代・仕事・社会の急激な変化に適応を求められる現代人2:経済と精神の豊かさのバランス
男性保育士に女児の着替えをさせないは男性差別か?:千葉市長の問題提起
埼玉県朝霞市の女子中学生誘拐監禁事件1:順調に見えた国立大卒の容疑者はなぜ罪を犯したか?
埼玉県朝霞市の女子中学生誘拐監禁事件2:ストックホルム症候群・逃げられない心理
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時代・仕事・社会の急激な変化に適応を求められる現代人1:うつ病の病前性格としての勤勉性・硬直性
ブラック企業の問題でも、仕事・職場のストレスや苦痛の問題でも、うつ病・パニック障害などの精神疾患の発症やメンタルヘルスの悪化が見られ、最悪のケースでは自殺で生命を落としたり長期の入院生活・自宅療養を余儀なくされることになる。日本社会で特に仕事・職場の問題を原因とするうつ病・パニック障害・適応障害をはじめとするメンタルヘルスの悪化が目立ち始めてきた背景には、経済のグローバル化や雇用形態の格差、市場原理・実力主義の増加、人間関係(仲間意識)の希薄化といった『急激な社会・時代の変化』がある。
急激な変化に上手く適応できなかったり理不尽・不満に思ったりすることで、日本人の精神状態や企業適応は悪化しやすくなっているということだが、几帳面で生真面目な気質性格を勤勉道徳に変えてきた日本人の多くは、元々『安定を望んで急激な変化に弱い・他律的な献身と努力が得意』という傾向もあった。日本人の大多数は近年に至るまで変化を嫌って集団・秩序・権威を重んじるという意味で『保守的』であり、『終身雇用・年功賃金』は保守的な日本人を生活・経済・働き方の大きな変化から守る防波堤のような役割を果たしてきたが、失われた20年・30年を通して従業員を変化から守る日本型雇用・家族主義経営は崩れてしまった。
集団組織のために必死に勤勉に献身してその代わりに雇用・人生設計を保護してもらうという保守的な日本人の価値観や信念が壊され、『個人主義・自己責任の競争原理(仲間意識や帰属感の薄いバラバラの個人の感覚)』に晒されやすくなったというのが現代の大きな変化である。そういった変化を個人の実力主義でやれて自由に生きられて心地良いと感じる一部の人もいるが、多くは『安定や保障の得られない変化』を嫌って恐れており、変化に耐えられなくなった時点でメンタルヘルスを悪化させやすくなっているのである。
今の状況は、雇用・給与・社会保障の大きな変化に晒されにくい『大企業・公務員の雇用』を得てそこでのキャリアを積めている人、あるいは大きな変化をむしろチャンスや面白さと感じてポジティブに新たな仕事に取り組める『チャレンジ精神・ビジネスセンスのある起業家・自由業』の人は何とか適応しやすい状況である。だが、『真面目にコツコツ努力すれば報われる・一度就職した会社を辞めてはならない・つらいことでも耐えれば必ず良い変化がある』という旧来型の変化の乏しい社会の常識・信念(融通を効かせない一直線の勤勉道徳)を、四角四面に強迫的に信じ込んでいる人は逆に割を食って不遇をかこったり、メンタルヘルスを壊しやすい状況でもあるのだ。
融通の効かない勤勉な努力家、変化を嫌ったり避けたりする秩序志向の人、人が自分をどう思っているかをすぐ考えて過度に気遣いする他者配慮の人、絶対にしなければならないという責任感や義務感が強すぎる人は『うつ病の病前性格』であるH.テレンバッハのメランコリー親和型性格や下田光造の執着性格にあてはまる部分が多い。与えられた職務に対する責任感が強く、勤勉・真面目で柔軟性に乏しい日本人の性格類型は、広義のうつ病の病前性格でもあるが、『終身雇用・年功賃金・家族主義・福利厚生』のような変化の小さい決められた枠組みや長期にわたって保障された雇用形態・仲間意識があれば、うつ病発症のリスクがかなり抑えられるのではないかと思う。
時代・仕事・社会の急激な変化に適応を求められる現代人2:経済と精神の豊かさのバランス
真面目で几帳面な勤勉家、秩序を重んじて他者に配慮し過ぎて変化を嫌う人は、うつ病になりやすいリスクを抱えている。『自律的な目標達成・ビジョン設定』は苦手であり、『今までのやり方やルールが変わる大きな変化』に対して不適応を起こしやすい。しかし、『他律的な目標達成・規定の仕事の地道な努力の継続(与えられた目標や役割をコツコツと努力してこなそうとする)』は得意であり、『保障や保護・安心や約束・仲間意識』などがあれば安定した精神状態で怠けることなく献身的に決まった業務に取り組むことができる。
時代の大きな変化、企業と社員(従業員)の関係性の変化によって、『真面目にコツコツ努力すれば報われる・一度就職した会社を辞めてはならない・つらいことでも耐えれば必ず良い変化がある』といううつ病の病前性格の人が尊重して実践してきた、旧来型の道徳観念や行動規範(人生指針)が通用しづらい場面が増えている。 今まで信じてきた勤勉道徳や人生指針が通用せずに冷遇や解雇をされると、どうしても執着性格の反動がでてきて『理不尽・裏切り・非常識を感じる不適応状態』が悪化しやすくなり、『変化した新たな環境・状況・問題』にどのように対応すれば良いか分からずに精神的な疲弊・絶望が深まっていきやすいのである。
現代の先進国では『経済的・物質的な豊かさ』よりも『本質的・精神的な豊かさ』を追求すべきだという一般論も強まっているが、時代・雇用の大きな変化の中で『経済的な豊かさを捨てて精神的な豊かさだけを取る(貧しくても気楽で楽しければいいじゃないか)』ということが、異性関係や趣味・娯楽の活動でも難しくなっている。『経済的・物質的な豊かさ』と『本質的・精神的な豊かさ』が連動しやすくなっていることに加え、『人は見た目が9割』といった著書が売れたように『中身よりも外見が重視されやすいルッキズム(ビジュアル重視)の影響』もあって、仕事・雇用・職場だけではなく恋愛・結婚・交遊においても『個人単位の競争的な市場原理(人を相対比較して優劣・好き嫌いを判断する心理)』が働きやすくなっている。
競争せず変化せずに与えられた場所で、のんびりと日々や人間関係(家族や異性との関係)を楽しむといったことが許されなくなっているというか、マイペースのスローライフが最高の贅沢の一種になってしまっている。そういった所に、現代の日本・先進国の『精神的な余裕のなさ・経済や美の競争原理のきつさ(精神的・主観的な幸福の感じにくさ)』があるとも思うが、経済至上主義・ブラック企業化・格差社会の弊害が目立ってきてもなお、『成長・進歩・金銭・快楽・美観』といった現代で支配的な価値基準が、人々の中で自己防衛的に衰えているといった感じはない。
『経済的・物質的な豊かさ』と『本質的・精神的な豊かさ』を適切に切り分けられて、『家庭・職場・学校・地域・交遊』の中に『自分がリラックスできて楽しめる居場所・仲間意識』を持てれば、現代人のメンタルヘルスも維持改善しやすくなるだろう。しかし、雇用形態や所得水準、将来予測、ブラック企業化を無視した、何とかなるさの楽観的な『人間関係・家庭生活の充実』が、現実的側面において難しいという問題の解決は簡単ではない、『人間にとっての仕事・生活・関係の意味づけ』が伴っていなければ、難易度が上がり過酷化する労働に耐える意味もまた見失いやすくなってしまう。
男性保育士に女児の着替えをさせないは男性差別か?:千葉市長の問題提起
千葉市の熊谷俊人市長が『男性保育士活躍プラン』を打ち出し、『男性保育士に女児の着替えをさせないでほしい』という保護者の声に代表される『男性保育士に対する偏見の問題』をツイートして話題になっていた。熊谷市長は育児の中で男性だから担える重要な役割があるとして、男性保育士に対する社会の理解を進め、今以上に男性保育士の割合を高めることを目指すようである。現状、千葉市における男性保育士(正規職員)の数は50人で、女性保育士の1割に満たないが、保育士の職業領域のダイバーシティ(多様性)と男女共同参画のレベルが低いという認識を市長は示している。現在は男性保育所長は0人だが22年度までに1人、27年度までに5人に増やす目標も設定し、保育所の男性用トイレの整備促進、男性保育士による『父親向け育児講座』なども政策として目指すようだ。
市長の語る保育士業界における男女共同参画推進や男性保育士による女児の着替え・トイレ(おむつ交換)の介助の促進に対しては賛否両論が出されているが、特に『男性保育士には女児(乳幼児)の着替え・おむつ交換をさせないでほしい』という反対意見に焦点が合わせられていた。男性保育士の中に確率的に性犯罪者がいるかもしれないという疑いのまなざしとまでいかなくても、男性と女性のセクシャリティや性犯罪(性的な加害行為)の発生率の違いを憂慮しての反対意見が見られた。
確かに今まで医師・学校教員・保育士など日常業務の中で子供と接することのある専門職の人が、性犯罪(盗撮含む)を犯してしまった先例はあり、その加害者の大部分は女性でなく男性である。乳幼児・児童生徒の子供が被害者となる性犯罪だけでなく、成人被害者も含めた性犯罪全体でも加害者の9割以上は男性とされるが、その犯罪統計的な事実というか女性と比較した男性のセクシャリティ・性欲の好ましくない傾向を持って、男性保育士に女児の着替えを絶対にさせるべきでないと言えるかどうか。常識的に考えれば、できるだけ同性保育士による着替え(おむつ交換)の介助が好ましいし、3~5歳以上になって女児の性自認がはっきりしてきたら基本的に女性保育士が着替えの面倒を見るというのが良いように思う。
ただ絶対に女児が3歳以上くらいになったら男性保育士が着替えの管理をしてはいけないという杓子定規なルールではなく、(間違いが起こらないように)『最低限の相互チェック体制(二人きりの状況にしない等)』を整えた上で、人員が足りなかったり臨機応変に対処しなければならない時には、男性保育士が着替えを手伝ったりするのは問題ないのではないだろうか。男女雇用機会均等法や男女共同参画社会推進などによって、あらゆる職業の男女平等化が進んだが、保育士は今でも圧倒的に女性が多いように『女性がするのが普通の仕事(女性のほうが望ましい仕事)』というジェンダーバイアスが残っている。
保育士に限らず看護師・サービス業などでは、『ケアの仕事・感情労働・丁寧な接客接遇』は男性よりも女性のほうが望ましいとか女性がするのが普通であるというジェンダー(女性向きの仕事・女性らしさが生きる仕事という固定観念)の影響が今でも払拭されておらず、男性だけでなく女性もそれが普通と思う向きがあるのである。保育士が女性向きの仕事というジェンダーバイアスの固定観念には、子供は母親が育てるのが自然で望ましいとする『母性神話・母親任せの育児の歴史』の影響があるが、近年は家庭の育児でも父親のイクメンの働きが期待されているように、育児において男性のマンパワー(力の強さ・外遊びの体力・指導力等)が活かせる場面も実際には多いだろう。
保育士の仕事は、まだ自意識・言語能力が未熟な乳幼児の身体および日常生活全般に関わるものなので、性被害や男性の下心の可能性(自分の性的トラウマ)に敏感な親御さんになると、何もできない無防備な娘(赤ちゃん)がもしかしたら性的な目線で見られているかもしれないというリスクを想像してしまうのかもしれない。だが女性保育士よりも男性保育士のほうがリスクが高いといっても、男性保育士全体の中にペドフィリア(赤ちゃんまで対象とする小児性愛の性犯罪者)がいるかもしれない確率は非常に低いもので、複数体制での着替え・おむつ交換などの相互チェックを原則としていれば大丈夫だろうし、そこまで特殊な性嗜好を疑うというのは現実的でない極端な警戒心になってしまう。
厳密には、男性保育士が内面で何を想像して何を考えているか分からないという理由で不満や警戒を持つ親御さんもいるかもしれないが、『内面の自由』を侵害してまで悪いことを考えているはずと憶測・決めつけをしたり、『男女の性的・生理的差異の公私混同(男性だけ性欲に弱く職業倫理・法規範を逸脱しやすい)』を前提にするのであれば、保育士のみでなく子供・女性を対象とするかなり広範な職業が男性に不向きという極論になりやすい。
男性と女性の性欲の違い、男性に女性よりも性犯罪の加害者が多いというのはあるが、男性全体の中で実際に性犯罪を犯す人(頭の中で想像することまで分からないにせよ)は少数派であり、保育士・教員などの専門的な仕事で信頼を裏切って倫理・法律に違反する人は更に少ないだろう。できるだけ性犯罪のリスクをゼロに近づけるには、内面でも性的な妄想頻度が少ないとされ、攻撃性・性犯罪率(性的侵襲)も低い女性のほうが男性よりも安心に感じるという人がいるのは分からないでもないが、専門家や職業人として採用する時には『職業倫理・法律順守・勤務中の人間性・公私の区別』については原則として信用して任せるしかない部分が大きい。
確かに厳密に追及すれば、サービス業・営業で女性客を相手にして笑顔で爽やかに接客していても、内心でどんな性的欲求を抱いているか(ひょっとして異性として好意を持っているのか)分からないというのはあるかもしれないが、そこまで目に見えない内面を疑えば男性は誰も対人サービスの仕事(特に女性・女児が相手となる仕事)には就けないというおかしな話になってしまう。仕事中のすべての男性が絶対に100%、女性相手の性犯罪をしないという確約は保育士に限らずできないだろうが、だからといって『すべての働いている男性保育士』をあらぬ疑いのまなざしで見るというのも理不尽であり、基本的には専門職としての職業倫理や責任感、人間性を信頼して、できるだけ疑念を持たれない相互チェックを働かせながら(人員・状況が許すのであれば女児の着替え・排泄の世話は女性保育士が担当する努力はしても良いわけで)効果的な男女共同参画を模索していくべきだろう。
大多数の男性保育士は、子供のために真面目に職務を果たしているわけで、『幼児性愛・性犯罪の予備軍』であるかのような猜疑心・警戒態勢で見ること自体が失礼で問題のあることでもあるが、『男性と女性の生物学的・性行動的な差異』をセンシティブに見てしまう人(あるいは自分自身や子供が実際に性被害を受けてトラウマになっている人・男性不信が強い人)には気になってしまうというのも心情としては分かるものではある。保育士の業界を今後も女性ばかりの職場として維持していくことは困難になるだろうが、千葉市長の政策のように『男性保育士を意識的に増員していくべき』なのか、『自然な求人状況(男性の保育士志望者数)に任せていくべき』なのかは意見が分かれるところだろう。
男性保育士の参加を拒絶するものではないが、男性で保育士になりたい人がそもそも少ないのであれば敢えて増やす必要はないという考え方も現状では根強いように感じるが、ジェンダーバイアスの影響があるとしても、給与水準などを別として男性一般に『子供・高齢者などを身近でケアする仕事の動機づけ(保育・看護・介護などの仕事を自発的に希望する人の比率)』がまだまだ女性に比べて少ないという問題もある。
埼玉県朝霞市の女子中学生誘拐監禁事件1:順調に見えた国立大卒の容疑者はなぜ罪を犯したか?
2014年3月に埼玉県朝霞市で行方不明になっていた当時中学1年の女子生徒(15)が、約2年ぶりに東京都中野区で無事に保護された。行方不明になってからテレビで、駅の街頭に立つご両親が必死に捜索活動をされている様子を見た記憶があるが、その後も行方不明者を探す報道特番などでこの誘拐された女子中学生が取り上げられていた。トラウマになるような精神的な傷つきや中長期的な心身への悪影響の心配はあるが、身体的には大きな怪我や病気がなく、無事に両親と再会することができたのは本当に良かったと思う。
異常な長期監禁事件としては、事件当時28歳の男が9歳の少女を誘拐して9年2ヶ月にもわたって監禁した『新潟少女監禁事件(1990年~2000年)』がある。この事件では親と同居する容疑者の男が長期の『ひきこもり・家庭内暴力』の状態にあり、少女が布団に巻かれるなどの身体的な拘束があったため、埼玉県の監禁事件と比較してより悪質性や悪影響の度合いが大きかったと言える。埼玉県の事件では、少女に一定の行動の自由が認められていて監禁のほとんどの期間において身体拘束もなかったため(誘拐後の暫くの期間は一定の拘束があった可能性はあるとしても)、身体の発育・健康への悪影響がかなり抑えられたという違いは大きいだろう。
容疑者は千葉大学工学部を卒業したばかりの23歳の男で、大学に近い2DKのマンションを借りていて、少女は外鍵の掛けられる部屋に監禁(軟禁)されていたのだという。23歳の容疑者の男の実家は、防犯グッズや住宅用品を扱う商店を経営しており、部屋を施錠したり防犯カメラで監視したりするための器具・方法についての知識が元々あったのではないかと言われているが、室内においては少女の行動の自由はあった(身体拘束はなかった)と報じられている。今回の監禁事件の異様さは、マスメディアによる容疑者の男の生活状況や人間性、成育歴の聞き込み調査が行われているが、『パーソナリティーや外から伺える生活状況の異常性・男女関係や家庭生活(親子関係)のトラブル・暴力や犯罪などの過去の履歴』が全くないということである。少女が部屋を逃げ出してくるまでごく普通に千葉大を卒業できる学生生活を送っていたし、同世代の女性の影はないにしても、それなりに親しい友達づきあいもしていた(頻繁にドライブや遊びに出かけていた友人の証言ではやはり部屋だけには上げてもらえなかったようだが)と伝えられている。
中学卒業後に多少の性格的な暗さやオタク趣味が出た(美少女の高校生が出演するアニメに興味があった)などの話はあっても、基本的には頭が良くて成績優秀、特別な問題行動もない礼儀正しい生徒であり、友達が全くいないわけでもなく監禁犯罪の容疑者としてマークされるような生活状況・性格傾向の素因は乏しい。国立大の千葉大学に合格した後も、小型飛行機(セスナ)の運転免許を取るためにアメリカの航空学校に短期留学するなどしており、監禁として一般にイメージされやすいひきこもりがちな標的の女性以外とは接触しない孤独な青年というよりも、『人生・趣味・仕事・将来設計』に対してむしろフットワークが軽くてアクティブなタイプの青年に見えるくらいである。
この容疑者のパーソナリティー(人格構造)の歪みというか欲望の持ち方の暗さがあるとしたら、『勉強・学歴・資格(小型飛行機の運転免許)・人生設計(就活)』に対するフットワークの軽さや目的達成のためのアクティブさが、『同世代の女性に対する恋愛・性』に対してはほとんど振り向けられていないということであり、『恋愛・女性関係以外の領域における自己評価・自尊心の高さ』と比べて現実の恋愛・異性の主観的満足度が異常に低くなってしまっていたのではないかということである。
容疑者の自己像を撮影したポートレートの写真が何枚かメディアで公開されていたが、その内の自分だけが写っている目を少し細めた一枚は(写りを良くみせる修正が入っているのではないかという話もあるが)、かなりナルシスティックな自意識の過剰さや自己陶酔の強さを感じさせるもののように見受けられる。そういった写真の写り方へのこだわりなどからも、容疑者の潜在的な自己評価や自尊心(本来の自分の価値・魅力が伝わればそれなりに素晴らしい理想の女性が寄ってきて然るべきとの優劣が綯い交ぜになったコンプレックス)は相当に高かったのではないかと思う。
常識的に考えれば、千葉大学を中程度の成績で卒業して希望した企業への就職が内定していた容疑者の人生設計は順風満帆なものであり、今までの努力や信頼、将来をすべて台無しにして卑劣な犯罪者に転落してしまうこういった事件を引き起こす動機づけは弱いと考えられやすいが、容疑者の内面における『自己評価・自尊心(自己陶酔)に見合う理想の女性への欲求の捻じれ』はかなり根深かった可能性があるのだろう。『高学歴者・高所得者・資産家』などで普通にしていればそれなりに豊かで順調な人生を送れるであろう人たちが、女性関係のトラブルや性犯罪・盗撮・ストーカー・不倫などで挫折してしまうケースは少なからずある。
そういった人たちは高学歴や高所得を得るための努力をすれば、『肥大した自己評価・優越感・自己陶酔』に見合うだけの自分に惚れてくれる素敵な女性が必然的に得られるはず(自分が傷ついたり否定されたりするリスクを負わずに理想の女性が得られるはず)という『非合理的な因果関係』を認識していることが多い。その女性の好みや選択を無視した非合理的な因果関係(自分が勉強ができれば仕事ができれば素晴らしい女性が来るはず)が成り立たないとわかった時に、女性関係(理想の女性像)・愛情飢餓・性的欲求にまつわるトラブルを起こす男性が出てきやすくなる。
普通であれば幼少期からの精神発達過程において、精神分析でいう幼児的な全能感の去勢が起こり、『学歴・経済・実力の優越感』と『男女関係の成否・好き嫌い』とは切り分けるしかない(他者の自由意思や好みを無視した恋愛関係など成り立たない)という現実を受け容れていくものなのである。テレビのバラエティー番組では、よく東大や京大などに通う頭脳明晰な青年たちが恋愛関連のインタビューに応えて、『東大(京大)に入れば少しは女性にモテるかとも思いましたが実際はほとんどモテません・学歴が高いかどうかよりも爽やかなイケメンのほうがモテます』と苦笑まじりに語っていたりするが、現代では利害を慎重に考える結婚(婚活)を別にすれば、学生段階で難関大学に通っているからといって、急に好みの女性にモテることなど(相対的な学力や知性の高さが相対的な女性の美しさ・可愛さと自然にバランスして向こうから寄ってくることなど)は有り得ないのが現実である。
大半の高学歴者は自己評価と異性関係のギャップに若干の落胆を感じる時期はあるものの、それも現実だと認識して『自分の頭脳の優秀さ・コミュニケーション傾向も含めた個性』を受け容れてくれる女性を前向きに探す方向に転換していく。こういった現実認識と自己評価の調整ができず、自分と釣り合うような女性や自分を好きになってくれる女性を探すという適応的な方向転換ができない自尊心の高い人たち(自尊心は高いが傷つきたくない人たち)が、女性への向き合い方をこじらせてしまうこと(同世代前後の女性との対等なコミュニケーションやアプローチができなくなってしまうこと)は少なからずある。
埼玉県朝霞市の女子中学生誘拐監禁事件2:ストックホルム症候群・逃げられない心理
女性(未成年者)を監禁する犯罪心理というのは、『自由意思(選択権)を持つ他者と向き合えない小心さ・臆病さ』に由来している。ロリコンの関与した監禁では特に、女性に対する身勝手な支配欲求(主従関係・処女崇拝願望)と並んで、『同世代の女性(その背後にいる恋人の男性との競争)への恐れ・嫌悪』や『対等な立場にある女性に拒絶される恐れ・不快(自尊心・女性の幻想を傷つける恐れのあるリスクの回避)』が影響していることが多く、自分以外の男の魅力や価値を積極的に認めて選んでいく同世代の女性への一方的な憎悪・嫉妬のようなものも生まれやすい。
好きだと思う自分を受け容れてくれるか拒絶するか分からない『自由意思・選択権を持つ女性』が怖いとか許せないとかいう思いが根底にあり、そこに自分の男(人間)としての価値を客観的・経験的に評価して値踏みしてきそうな『成人女性・同世代の女性』と向き合えない気弱さや自意識の過剰さが加わってきやすい。更に、女性・恋愛に対して『純粋さ・無垢さ・純愛性(自分だけを見てくれる)を基盤とする幻想』が異常に強くなっているので、女性に対する理想が現実離れして高くなってしまい、『既に魅力のある女として見られている同世代の女性(自分の年齢に合った世代の女性)』と向き合えなくなるのである。
自分と年齢がかけ離れた未成年者だけを好むロリコン(ペドファイル)の心理は、基本的には『処女性・純粋無垢に対する幻想・独占欲(まだ女性として見られておらず他の男との競合もない)』と『能力・経験・抵抗力の未熟さに漬け込んで思い通りにコントロールしやすい(自分が相手から値踏みや拒絶をされにくく自尊心を傷つけられない)』によって構成されており、それらは相手の意思・感情・都合に配慮しない『自己中心的な関係性』への欲求として解釈が可能だろう。23歳の容疑者の男がどのような手段で少女を誘拐したのか(初めにどうやって少女のフルネームや存在を知ったのか)については、まだはっきりしない部分も多いが、少なくとも数日前から少女をつけ回していたという目撃証言が出ている。誘拐する時には弁護士を装った容疑者が、『両親が離婚することになったので、弁護士があなたを保護することになった』という嘘をついて少女を連れ出そうとしたが、拒否されたので無理やりに車の後部座席に押し込み、目隠しをして移動したとされている。
容疑者は偽装工作のために、少女に『家も学校もちょっと休みたいです。しばらく友達の家です。さがさないで下さい』『元気ですごしています』といった両親宛ての手紙を書かせたりなどしたともされている。約2年間にわたる監禁生活の中で、少女はなぜ逃げ出せなかったのか(逃げ出さなかったのか)、容疑者は大学に通学したり買い物・遊びで外出したりもしているのになぜ隙を見て逃げなかったのかという、少女がもっと早く逃げなかったことを責めるような心ない批判(少女が容疑者と同意の上で長く一緒にいたのではないかという穿った見方)もネットの一部では見受けられる。
しかし、予期していなかった犯罪に突然巻き込まれて、それまでの日常生活が一変してしまうという体験は、心身が成熟した年代にある大人でさえも相当に強い精神的ショックを受けて心身が萎縮させられるものであり、犯人から監視されていると思う状況下では普段の判断力・行動力を取り戻すことは簡単なことではないだろう。少女が室内でネットを利用できたという報道があった時にも、『自由に外部情報を入手できるなら監禁ではないのではないか』という意見も出たが、その後の追加報道で『アクセスできるサイトに制限がかけられていた(少女が見ても自分から逃げ出そうという気持ちにはならなさそうな限られたサイトにしかアクセスできない設定にされていた)』ということが分かってきている。
13歳の中学一年生というのは、まだまだ精神的にも未熟な年齢で恐怖や不安のストレスにも弱い子供である。腕力で抵抗が難しい女子生徒であれば、一回から数回のやや厳しい暴力・暴言による脅迫だけでも『この相手には抵抗できない・逆らったら殺されてしまうかもしれない・怒鳴られたり殴られるのが怖くて堪らない』という方向に状況認知や行動基準が洗脳されてしまってもおかしくない。確かに、一般的な成人(特に成人男性)の視点から見れば、23歳の容疑者の男は体格が細くて暴力の面で威圧感のある存在ではないから、体格が良くて迫力のある男であれば怒声・腕力でねじ伏せることはそう難しくないようにも感じられる。だが、実際にこの男に密室で向き合っていたのは、13歳の時に無理やりに車に押し込められて、何らかの脅迫・暴力・威圧を受けていた可能性の高い未成年の少女であり、既に『この男には逆らえないという擬似的な上下関係・主従関係』が洗脳や環境適応のような形で成立していたのではないかと推測される。
未成年の少女でなくても、暴漢から脅迫された成人女性が『逃げたら殺す』と脅されて、人の多いコンビニのATMにまで連れて行かれて金を引き出される強盗事件などは珍しくないし、過去には複数の目撃者がいる電車内で言葉で逆らったら殺すと脅迫されていた成人女性が無言のままでレイプされた悲惨な事件もあった。成人男性であってさえも、複数の暴漢(いじめの加害者等)からボコボコに殴られたり蹴られたり、火傷させられたりしてリンチを受ければ、その後に『助けを求めれば逃げられそうな状況』でも従順に無抵抗に言うことを聞いてしまう(恐喝に対して通報もできずに長くお金を支払い続けてしまう)事件は数多くある。
『自分が勝てないと思う相手から本気の暴力や脅迫を受けることによる恐怖・萎縮・無力化(学習性無力感)』は思っている以上に深刻だと考えたほうが良いし、実際そういう犯罪・暴力の被害を受けて恐怖感を植えつけられたら、今までの自分の自尊心や勇気ある行動力はかなり削り取られてしまう危険が十分にあるのである。俺(私)だったら凶悪な犯罪者から暴行・脅迫・虐待を受けたとしても、逃げ出せる隙さえあれば一か八かで逃げ出してみせると豪語するのは、ある種の過信・傲慢に過ぎない恐れが強い。13歳の心身共に未熟な少女が、21歳のそれなりに頭の回転が速い男から『暴力暴言・脅迫(少しでも逃げようとしたら痛い目に遭わせる)・騙し(両親はもうお前を探してないし帰る場所なんてない)・監視(常にお前を防犯カメラで見張っている)・破滅願望(お前がいなければ俺は死ぬしかない殺すかもしれないの類)』で心理・行動をコントロールされたら、そう簡単に隙を見つけ出して逃げ出そう(暫く留守にするみたいだから逃げられるはず)という気持ちにはなれなくなるだろう。
激しい暴力や恫喝がなくても、暗く思いつめた表情で『お前がいなくなったら俺はお前を殺して死のうと思っている・俺の生きがいはお前がいることだけでいなくなったらもう生きている意味もない』などとぶつぶつ呟いているだけでも、相当に精神的な圧迫を受けて、逃げようとすれば殺されるかもしれない(逃げなければ犯人の精神の安定が保たれてそこまで危なくはならないだろう)という自己防衛が無意識的に働くようになるだろう。 私たちは平時の常識の通用する人間関係(男女関係)や不条理に対抗できる精神力、あるいは平均的な男性の抵抗力(暴力耐性)を前提にして、『暴力・脅迫・監視に対する抵抗の可能性』について語りやすいが、実際に、13歳の少女と21歳の男の能力・腕力・対処力の差を考えれば、少女を成人男性に置き換えれば、何をするか分からない暴力団・テロリストの男から何度か暴行されて『今度逃げたら殺す』と念押しされて監禁されているような状況に近いと考えるべきかもしれない。
『今なら逃げられそうだけどもし突然帰ってきたら(もし逃げる意思があるということが犯人に分かってしまったら)』と考えると萎縮してなかなか逃げ出す行動に踏み切れなくなる。飴と鞭(報酬と罰)を使い分ける『オペラント条件づけ(道具的条件づけ)』が行われて、相手の言う通りにしていれば(逃げたり逆らったりしなければ)、機嫌が良くて優しく接してくれるということで、長期的な監禁生活の中で自分を守るために『相手の要求・価値観』に自然に適応していってしまった可能性もある。行動の自由が大幅に制限された監禁環境下で、ちょっとした報酬・許可・自由を与えられると、加害者に対して好意や感謝の気持ちが起こって親しみを感じやすくなる(加害者のせいで不本意に監禁されることになった経緯を次第に忘れてしまいやすくなり仲間意識・連帯感を覚えてしまう)という『ストックホルム症候群』に陥っていた可能性も高い。
今回の監禁事件では、それほど激しい暴力・暴行は行われていなかった可能性もあるが、『逃げようとしたり逆らえば不機嫌になったり暴力・暴言を振るわれる(あるいは殺害・自殺などがほのめかされる)‐大人しく従っていれば平穏な日常生活は送れる(相手の要求もそれほど大きくなくただ一緒にいてくれればそれでいい、普通にしてくれれば絶対に危害は加えないから楽しく過ごそうなどと言われ続ける)』という賞罰のオペラント条件づけによって、学習性無力感が強まったり変化の乏しい日々の繰り返しへの再適応が強まったりしたのではないかと考えられる。監禁(軟禁)の年月が長期化していって、相手に合わせている限り(逃げようとしない限り)は激しい暴力・暴言・脅迫などもなくそれなりに普通の会話もして優しく接してくるとなれば、『監禁されている非日常的な異常状態』であっても『逆らわない限りは平穏に過ぎていく日常』というように脳が自衛的に解釈してその異常状態に何とか適応してしまうという事態は十分にあり得るからである。
初期の強烈な恐怖感や不安感がある程度薄らいでいっても、『親・友達から引き離されて自分の家に帰れなくて寂しい』という思いは残っているはずだが、『適当に相手に合わせてさえいれば当面の身の安全は保障される(それなりに優しくしてくれて欲しいものも与えてくれるので思い切って一か八かで逃げる気力が高まりにくくなる)』ということもあって、長期化した監禁状態や容疑者との生活への自己防衛的な適応からなかなか抜け出せなかったのではないだろうか。
Wikipediaのストックホルム症候群の項目には以下のような説明があるが、この内容については被害者の少女の見解と言い分に全面的に賛同したいと思う。
『オーストリア少女監禁事件の被害者ナターシャ・カンプッシュは、2010年のガーディアンのインタビューで次のように述べている。「被害者に、ストックホルム症候群という病名を付けることには反対する。これは病気ではなく、特殊な状況に陥った時の合理的な判断に由来する状態である。自分を誘拐した犯人の主張に、自分を適合させるのは、むしろ当然である。共感やコミュニケーションを行って、犯罪行為に正当性を見い出そうとするのは、病気ではなく、生き残るための当然の戦略である」』相手に懲罰の権限や最終的な生殺与奪の判断を握られていると感じている『学習性無力感』の状態にあったり、自分よりも相手のほうが圧倒的に強くて多少抵抗しても制圧されて処罰されてしまうだろうという『加害者のマウンティング(上下関係の強調)や虐待を伴う洗脳・暗示』に掛けられていれば、本心の部分では相手に従いたくない(監禁状態から解放されたい)と思っていても、自分が生き残れる可能性を少しでも高めるために、相手に反抗心(裏切り)を疑われて待遇を悪くされたり殺されないように、笑顔で明るく過ごすように自然になってしまう事は有り得るということである。
少女に室内での行動の自由があったり、加害者と一緒に買い物や外出をしたことがあったり、笑顔で加害者と談笑することがあったとしても、それは少女が望んで加害者と一緒にいたいと思っているとか監禁状態を甘んじて受け容れているというわけではなく、『学習性無力感・マウンティング・直接間接の脅迫や洗脳』によって自己防衛的に相手の要求や主張に合わせてしまっているに過ぎない。表面的には、自分から望んでその相手と一緒にいるように見えるとか、明確な恐怖や嫌悪を示しておらず逃げようとしていないとかいうことで、『被害者の落ち度』を追及するような二次被害や不適切なバッシングの原因にもなりかねない。
ストックホルム症候群に限らず『長期化する異常状態+相手の賞罰・懐柔・甘言』がある場合には、被害者がもう抵抗できない(これが自分の運命なのだ)と諦めてしまうと犯罪が正当化(無理筋な行為の既成事実化)されるような見かけ上の合意の事態が起こる危険性があるという認識は持っておくべきである。例えば、連れ去りや誘拐の時点とその後の短期間だけ暴力・暴行を用いて監禁したが、その監禁生活が2年で終わらず5年、10年と長期化していき、男女関係を含めた既成事実化がどんどん積み重ねられていった場合には、犯罪・脅しが初期の強引な関係構築だったことが忘れられているかのような見せかけの人間関係(見せかけといっても本人さえ初期の犯罪と恐怖などを失念していることもある)が作られてしまう恐れもあり、そういった事態で被害者も同意していたんだろうと責任を追及するような発言は見当違いであり無神経でもあるということである。
しかし、逮捕されそうになった容疑者は自分の首を切りつけて自殺を図るなどの衝動性もあり、そもそも未成年者を連れ去る監禁事件を計画して実行しているだけでもいざという時の反社会的な行動力・犯罪性向はあると推測されるので、大学を卒業して就職して大きく生活環境が変わってくるこの時期に、少女が逃げる覚悟を固めて容疑者が外出した隙を見て、勇気を出して部屋から出てきたのは非常に賢明で幸運なことだったように思う。ご両親が必死に少女(自分)を見つけだそうとして頑張っていた姿の記憶と家族のことを懐かしく思い会いたいと願う感情が、引越しをするなどの環境変化によって不意に蘇ってきた可能性もある。誘拐されて連れて行かれた千葉市の容疑者のマンションと比べると、引っ越した先の東京都中野区のマンションは『物理的な監禁状況(外鍵が掛けられていない等)』がだいぶ緩くなり、逃げ出せるチャンスが高く感じられたとも報じられている。
この容疑者は就職して働き出してからの少女との共同生活をどのようにしようとしていたのか、いずれ隠し通せなくなる少女の存在をどのように取り繕おうとしていたのか(戸籍も住民票もまともに取れず存在を公にできない少女と普通に暮らしていける方法はないように思える)を考えると、少女が中野区に引っ越してからすぐに逃走する勇気を奮い起こして行動に移したのは非常に良いタイミングだったように思える。隠し通せなくなって追い詰められた容疑者が何をするか分からないことを思うと、本格的に仕事が始まって少女の存在をどうするべきか邪魔に感じ始める前に逃げ出せたのは本当に良かったと思う。2年間にも及ぶ長期の監禁生活による精神的な傷つきや心身への悪影響(落ち着いてきた時の自己認識への悪影響)などを十分にケアしていく必要があるが、家族や友人、教師、関係者が少女を手厚く自然体でフォローしながら『本来であれば得られていた中学生としての人生・学業・人間関係の時間』を前向きに取り戻せるように支えていって上げられればと願う。
元記事の執筆日:2017/01/07