カール・グスタフ・ユングの外向性・内向性のタイプ論とライフスタイル:元型に見る二元論の思考法、ユングのアニマとアニムスの二元論:物語に見る親子関係(父娘)のコンプレックス

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ユングのアニマとアニムスの二元論:物語に見る親子関係(父娘)のコンプレックス


グリム童話『つぐみの髯の王さま』と女性の持つアニムスの働き1:美貌と自我と男性原理の切断


グリム童話『つぐみの髯の王さま』と女性の持つアニムスの働き2:アニムスと自立・孤独を巡る葛藤


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カール・グスタフ・ユングの外向性・内向性のタイプ論とライフスタイル:元型に見る二元論の思考法

分析心理学のカール・グスタフ・ユングは『タイプ論(性格理論)』で人間の性格傾向を大きく、自分の外部にある世界(人・モノ)にリビドーを向ける『外向性(extroversion)』と自分の内面の世界(思考・イメージ)にリビドーを向ける『内向性(introversion)』に分類した。『外向性』と『内向性』の差は、リビドー(心的エネルギー)が自分の外側に向かっているのか内側に向かっているのかの違いだが、どちらかだけに完全に偏っている性格のタイプ(型)というものはなく、外向性と内向性のバランスによってその人の向性の傾向が決まってくる。

『外向性性格』では他者とのコミュニケーション(他者から認められること)や外部にあるモノなどに興味関心が向かいやすく、『内向性性格』では自分の内面世界にある思考・信念・想像・イメージなどに興味関心が向かいやすい。外向性性格は実際に何かをやって成し遂げることや手に入れることを望み、他者がいなければ時間を持て余しやすく、一人で何かをしていても余り満足できない。反対に内向性性格は実際に何かをやらなくても読書・思索・想像などの静かな時間を望み、他者がいないならいないで自分一人でやりたいことが多く、一人で過ごす時間の満足度も高い。

自分の内面世界や一人の時間がまったく必要ないというほどの完全な外向性性格の人はまずいないし、外部世界の実際の活動や他者と一緒に過ごす時間がまったく必要ないというほどの完全な内向性性格の人もまずいない。大多数の人は『どちらかといえば外向性性格(内向性性格)』という相対的な偏り(傾向性)を持っているだけで、外向性性格の人でも時には静かに一人の時間を楽しんだり物思いに耽りたいこともあるし、内向性性格の人でも時には誰かと一緒におしゃべりしたり遊んだりしたいこと(外部世界での欲求を強めること)もある。

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他の動物と比較した人間の特殊性は、思考や感情、懐疑の主体としての『自我意識』を持つことだが、自我意識は必然的に『自分と他者』あるいは『内と外』を区別することになる。ユングのタイプ論(性格理論)も、人間の自我意識とリビドー(心的エネルギー)が生み出すもので、必然的に『自分・内側』『他者・外側』かの方向性の違いになって現れるのである。ユングのタイプ論に基づいて自己分析すれば、自分がどちらかといえば『外向性性格』なのか『内向性性格』なのかが分かり、外界を把握する時に主に使われる機能である『思考・感覚・感情・直感』と組み合わせることでより的確に自分の性格傾向が分かるということになる。

ユングの性格理論であるタイプ論を実際にどのように用いれば役に立つのかは、端的には外向性と内向性の違いを知ることで、『自分に合った適応しやすいライフスタイル(ストレスが少なく充実感の得やすい生き方・時間の過ごし方)』が分かりやすくなるということがある。外向性性格の人であれば、積極的(社交的)に他者・社会と関わって自分の存在価値や仕事の成果を誰かに認めてもらうような生き方が自分に合っていて適応しやすいライフスタイルとなる。

実際に行動して誰かとの関係を作ったり深めたり、何か目に見える客観的な成果や結果を出して認められたりということが、大きな生きがいになりやすいからである。他者からどう思われているか、実際に何ができて何を手に入れられるのかに意識が向きやすい外向性性格の人は、『他者との相互作用で作り上げる世界観と実際的(社会的)な活動・成果』が前提になっているのである。反対に、外向性性格の人は自分一人で黙々と読書・ネットをしたり映画やドラマを見ていてもそれほどの充実感は感じにくく、逆に時間の無駄をしたというような後悔や無意味さを感じやすいのである。

内向性性格の人であれば、実際に他者・社会と関わる必要性は認めつつもワークライフ・バランスのように『適度に外部世界(他者)から離れて一人になってやりたいことをやる時間』を作っていくような生き方が自分に合っていて適応しやすいライフスタイルとなる。他人から見て価値・意味がないようなことでも、誰にも邪魔されずに自分のやりたいことや知りたいことに静かに没頭できるということが、大きな生きがいになりやすいからである。自分が何を考えていて何を感じているのか、他者に干渉されずにやりたいことができるかに意識が向きやすい内向性性格の人は、『自分の思索・興味・価値観が作り上げる世界観と自由な探求心・感受性』が前提になっているのである。

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反対に、内向性性格の人はいつも他人と一緒にいたり社会的環境で活動ばかりしていてもそれほどの充実感は感じにくく、逆に人・集団に合わせすぎたり忙しすぎたりして疲れ切ってしまったというような疲労感や限界を感じやすいのである。ユングの分析心理学では『外向性-内向性』に限らず、『物事や価値の二面性(両極性)』を前提にした仮説理論が多くなっている。例えば元型(アーキタイプ)のグレートマザーやアニマ(アニムス)にしても『ポジティブな側面(保護する母親・理想的な女性像)』『ネガティブな側面(呑み込む母親・残酷な女性像)』の二面性が指摘されているのである。

日本の昔話にある『かぐや姫(竹取物語)』もアニマの一つであるが、輝くほどに美しい並ぶ者のいない絶世の美人という『ポジティブな側面』だけではなく、絶対に叶えることのできない無理なお願い事を貴公子たちに出して結局は誰とも結婚せず男には何も与えずに月の世界に帰っていくという『ネガティブな側面』も描かれている。アニマ(男性の内面にある理想の女性像・女性的側面)とアニムス(女性の内面にある理想の男性像・男性的側面)の元型の二項対立図式の二元論がそもそもあるわけだが、アニマもアニムスも『依存・危険・破滅』の原因にもなり得るものである。そして元型(アーキタイプ)が投影された実際の男女関係では、『男にとっての女の謎』『女にとっての男の謎』が魅力・誘惑・耽溺にもなるし怒り・憎悪・別離にもなってしまうのである。

アニマとアニムスが投影された抜き差しならない『賭けのリスク』も伴う男女関係では、見栄・体裁や格好つけ(表面的な飾り立て)が効果を失うという意味で、相手や状況に合わせて作る自己像としての『ペルソナ(仮面)』の元型が壊されていく。アニマとアニムスを何もかも忘れて欲求し合うような男女関係では、『むき出しの自分自身の在り方・本音』が露出した中での相互作用が求められるシビアな一面もでてくる。二元論的な思考の大本というか大前提になっているのは、人間固有の自我意識が必然に生み出す『外界と内界の区別』であり、この区別は人間の外側に無限に広がる『マクロコスモス(梵・ブラフマン・モノ)』と人間の内側に無限に広がる『ミクロコスモス(我・アートマン・魂)』の壮大な二元論の想像力(=壮大だが古代インドのウパニシャッド哲学・梵我一如や古代ギリシアの理知的な哲学にも既にその二元論の想像力の根があった)にまで広がっていくものである。

ユングのアニマとアニムスの二元論:物語に見る親子関係(父娘)のコンプレックス

カール・グスタフ・ユングは男女の性差に関する分析心理学の元型(アーキタイプ)として『アニマ』『アニムス』を提唱した。アニマは男性の心の中にある女性像であり、アニムスは女性の心の中にある男性像であるが、これらは外部の他者に投影される『理想の異性像』として機能することもあれば、『自分の性別とは逆の性別の特徴(男なら女・女なら男の特徴)』として自己の内面や言動に無意識的に取り込まれることもある。

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男性の内面にある理想の異性像としてのアニマは、昔話・童話などで美しいお姫様・お嬢様の姿で描かれて、そういったアニマ的な女性と結婚するハッピーエンドの結末も多いが、男性の内面・言動に取り込まれるアニマとしては『優柔不断・感情的・調停的(争いの回避)・外見重視』などがある。アニマがグレートマザーのような母親的・母性的な色彩を帯びることもあるが、その時には保護や甘やかしによって呑み込もうとする母性的な要素と自分が独立した男性人格として求めたい異性的な要素との切り離しが心理的な課題として浮かび上がりやすくなる。女性の心の中にある男性像であるアニムスについて、ユングは女性に男性的な『自己主張』をさせる機能として言及しており、それに対して男性側が持つアニマは主張ではなく女性的な『感情のムード』を作る機能として取り込まれやすいのだという。

女性の持つ内的な男性像であるアニムスが、女性の言動・生き方にどのような影響を与えることになるのかについて寓話化したものに、自分を大切に育てた父親との絆が深いファザーコンプレックスとも絡めたグリム童話『つぐみの髯(ひげ)の王さま』がある。『つぐみの髯の王さま』では、父親である国王とその一人娘のお姫様が登場するが、お姫様には母親がいないために、娘を可愛がって大切に育ててきた父の国王との絆は非常に深いものがある。ファザコンの表象として『父と娘』、マザコンの表象として『母と息子』を物語に登場させるのは、現代では『母と娘の結びつきの強さ』や『父親の影が希薄な家庭(父親不在・父権衰退の現状)』もあって実際の親子仲とは結びつかないケースはあるかもしれない。

だがS.フロイトの異性の親に愛情・独占欲を覚えるエディプス・コンプレックスは、『内の家族から外の他者への欲望の転換(精神的去勢による自我・エロスの社会化)』が発達課題になっていて、現代でもそういった関係性や欲求のベクトルの外部(他者)への向け変えは『社会化・精神的自立』などを促進する役割がある。『つぐみの髯の王さま』に出てくるお姫様は、桁外れの美人であるが気位が高くて傲慢な性格をしていて、自分と結婚したいとやってくるすべての求婚者を自分に相応しくないと拒絶していた。自分を完全に庇護して無償の愛を注いでくれる父親の国王の存在によって、『他の男性の価値』がほぼ無価値化されており、お姫様はファザーコンプレックス(母親不在でエディプス葛藤のない父親依存)によって、敢えて他の男性を選んで結婚・出産(母になる)をすることの意義を見いだせずにいるのである。

抜きん出た美貌に恵まれたお姫様は自己愛や自己評価も非常に強い。自分と人(男性)を惹きつける『美貌』を同一化することによって、自己愛や自己評価が高まり、並の男とは結婚するつもりはない、自分を可愛がってくれた父王以上の男性でないと結婚したくないという気持ちになっている。中世時代の王国を想定した童話であるが、お姫様の父王よりもステータスや魅力のある男性と結婚したいという結婚願望は、そのまま近代社会の男女関係で増加した『上昇婚(ハイパーガミー)』の願望にも接続しているのである。

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グリム童話『つぐみの髯の王さま』と女性の持つアニムスの働き1:美貌と自我と男性原理の切断

グリム童話の『つぐみの髯の王さま』ではお姫様のアニムスとして『父親である国王』が機能しているのだが、ユングが自己主張・意思決定としてアニムスの影響が現れるというように『男性の選り好み(あるいはかぐや姫による無理難題のふっかけによる拒絶)』というのも視点を変えればアニムスの働きとして解釈することが可能だろう。美貌というかこのお姫様のように自分で慢心できるほどの外見というのは、一般に男性が内面に持つアニマや対女性の選好的欲望の投影でもあるのだが、同じ美貌に恵まれた女性であっても『美貌と男性側の理想化・欲望に自己同一化できるタイプ』『美貌・肉体を自分の本質的価値とは関係のない表面的な形態として自己と分離してしまうタイプ』とに分かれる。

美貌・外見は近年では『可愛いはつくれるの標語』に象徴されるように、努力や道具(化粧・髪型・ファッション)によってある程度まで向上・装飾できるものに変化してはきたが、『知能(学力)・体力・職業(芸能のように外見がメインの売りではない一般の仕事)』と比べると継続的な努力が影響を与えるレベルが低く、自分が頑張って身につけた『自分自身の属性』としての実感は薄くなりやすい。『美貌と男性側の理想化・欲望に自己同一化できるタイプ』の女性は、自分を誘ってきたり求婚してきたりする男性を受け入れるにせよ拒絶する(自分の高い基準で選びに選ぶ)にせよ、『男女関係(恋愛関係)の力学・男性から何かしてもらえる恩恵』を多かれ少なかれ意識したり利用したりする人生を半ば運命的に生きる蓋然性は高くなるだろう。

このタイプの女性は美貌や見た目の魅力を『自分自身の属性』として自我違和感なく受け入れることができるからである。反対に、相当な美貌や外見の魅力に恵まれた人でも、ジェンダー的な女らしさがなくて男受けしないタイプ(男に媚びた所がなく過剰なおしゃれをせずサバサバしているなど、女性だけに持ち上げられて好かれる美人)というか、色恋沙汰にあまり関わらずあるいは結婚・出産などもせずに自分自身の能力で何とか自立していきていこうとするようなタイプの美人もいる。

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こういった人が『美貌・肉体を自分の本質的価値とは関係のない表面的な形態として自己と分離してしまうタイプ』で、自分の見た目の魅力に引き寄せられて誘ってきたり求婚してくる男性を『体目当てで中身がない・人間の本質を分かっていない・どうせ私の本当の思想や趣味は理解できない』という風にネガティブに評価しがちであり、自分自身も女性としての美貌をある程度生かした恋愛・結婚・仕事をすることを好んでいないことが多い。このタイプの女性は美貌や見た目の魅力を『自分自身の属性』ではないと感じる自我異質性が強く、『表面的な見た目の知覚・印象』によって大きく扱いを変えられること贔屓されることを不正・不公平と感じていたり、いくら自分に良くしてくれる男性がいても『どうせ私の見た目・体が目的なんでしょう』といった冷めたドライな視線、対人不信(利用される疑心暗鬼)が強くなりすぎている。自己の内面や言動、生き方に反映されるアニムス(内的な男性像)の影響が非常に強くなっている女性という見方もできる。

『つぐみの髯の王さま』の権力をもつ王様(父親)と美貌をもつお姫様(娘)は、母親不在の濃厚な絆のコンプレックスで結ばれているが、それぞれがお互いにとっての理想的・象徴的なアニマ(姫)とアニムス(王)になっていて、そこに割り込んで新たなパートナーシップを作ろうとする第三者(大勢の求婚者)をなかなか寄せ付けないのである。最終的には息子でも娘でも、生まれ育った家庭や守ってくれた親子関係の自立を求められることになり、『エディプスコンプレックス以降の社会化(外部の他者との強い結びつき)』の帰結としての『恋愛・結婚・出産(子供の育児・次世代との関係)』へと行きつくことになる。娘のお姫様を溺愛していた父の王様も、娘が自分の庇護を離れて『自分(父)に代わるアニムス』を見つけ出すべき時期にさしかかったことを感じ、求婚者を募るパーティーを開く。

王侯貴族や富豪、賢者など名だたる求婚者がお姫様に愛の告白をして結婚してほしいとプロポーズするのだが、美貌に根差した自己愛・自己評価が非常に強く最高権力を有する父親(王様)をアニムスとしているお姫様は、求婚者たちの特徴や能力をさんざんにこき下ろして馬鹿にし、すべての求婚者を拒否してしまう(他者を拒否する切断の機能はアニムスや男性原理の典型)のである。誰とも結婚しようとしないお姫様に業を煮やして怒った父親の国王は、何を考えたのか、他の有力な求婚者と比べて権力も財力も意欲も容姿も何も持っていない乞食を娘のお姫様の婿にすると強引に決めてしまうのである。

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娘の尊大な自己愛・自尊心を満足させられる相手はどうせ誰もいないのだから誰が相手であっても同じだろうという自暴自棄な決定にも見えるが、美貌をたたえるアニマとして働く娘が、何の力もない乞食との結婚生活に疲れ果てて嫌気がさし、再び父親である自分の元に逃げ帰ってくるのではないかという無意識の目論見もあったのかもしれない。結果として、姫は父親(王様)の元には戻ってこないのだが、乞食との結婚はお姫様の抱えるアニムスと母性性の独自の発展を遂げる物語のトリガーのように機能することになる。

お姫様が大勢の求婚者を拒絶して切り捨てたのも切断するアニムスの影響と考えられるが、アニムスや男性原理は他者を切断して切り捨てることによって『自立・自由』『孤独・不安』の両方のジレンマを経験させることになる。思春期・青年期の女性のアニムスの働きとして自立と孤独のジレンマ(葛藤)が生じることは珍しくないが、こういった体験はその女性独自の自我・自立の基盤を形作ったり、その自我に基づいた自分らしい生き方の模索・選択などにも影響を与えることになる。『自立・自由』と関係する女性のアニムスの働きは、『どうして女性である自分だけがそれができないのか、許されないのか』という男女平等主義のエネルギーや未成年が大人になろうとする背伸び行動にもつながっていて、『今ある現状の閉塞感(それなりに守られて快適だが自立や自由はない状況)』をブレークスルーして自分・社会の望ましさを追求するような原動力になってきたことも少なくないのである。

グリム童話『つぐみの髯の王さま』と女性の持つアニムスの働き2:アニムスと自立・孤独を巡る葛藤

女性の持つアニムス(内的な男性像・男らしさ)の強度には非常に大きな個人差があるとされるが、アニムスが強い女性というのは男性主義から自立を成し遂げて大きな成功・活躍(中には歴史的功績の達成)をすることがある一方で、あまりに女性の内面にあるアニムスの影響力が強すぎると『他者を切断して自立するための孤独・能力』や『他者(男性)に寄り掛からない自由のための戦い・不安』で大きな苦労や負担を背負い込むことも多いだろう。

アニムスにほとんど気づかず影響されない女性というのは、女性の自立・自由という側面では客観的な抑圧は多いかもしれないが、『男性社会における適応・自分を愛する男性からの保護』によって、人によってはむしろアニムスの男性像・男らしさに刺激されないがために『守られる幸せ・受け容れる安心感』のようなものを得やすいことも多いだろう。内的な男性像としてのアニムスだけでなく、外部の男性に投影して評価基準となる理想的な男性像としてのアニムスもこれが強すぎると、『どの男性も何かが足りない・自分を満足させられる男性がいない』という現実離れした選り好みや高望みに陥って、最終的に誰もパートナーにすることができなかったり、交際の途中で嫌な部分ばかりが目について別れてしまうことにもなりかねない。

アニマとアニムスに近づき過ぎることの危険性、理想の女性像と男性像の背後にある知らないほうが良い秘密・真実を伝える童話(昔話)としては、『鶴の恩返し』『雪女』『アモールとプシケー』などがあり、アニマとアニムスを直接見ないほうが良いとする訓話めいた童話には『異種婚姻譚(いしゅこんいんたん)』が多いという特徴がある。ギリシャ神話『アモールとプシケー』は、美少女のプシケーが恐ろしい怪物とされる男アモールと結婚させられる物語である。結婚前には怪物との結婚を恐れて絶望して苦しんでいたプシケーだが、いざ結婚してみると朝早くでかけて夜遅くに帰って来る『自分に醜悪な姿を見せない怪物(アニムスを直視しなくても良い状況)』によって豪華な宮殿で至れり尽くせりの結婚生活を送ることができた。

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しかし夫の怪物から『自分の姿を見る事』を禁じられていたにも関わらず、自分にここまで優しくしてくれる何でも思い通りになるように尽くしてくれる男の姿を見たいという誘惑にプシケーは耐えられない。姉たちからも怪物の姿を見るように唆されたりもして遂に禁止を破ってその姿を見てしまうのだが、姿を見られた夫の怪物はそのことを怒り恥じてその場から走って逃げだす、プシケーは完全な愛情と庇護を失って新たな苦難・自立の道を歩まざるを得なくなるのである。『アモールとプシケー』のギリシャ神話の物語は、アニムスの本体を見たり知ったりすることができない夫の怪物と別れたことが、美少女プシケーにとって苦難の道の始まりなのか、新たな自立・出会いの道の始まりなのかの解釈は分かれるところだが……ユングは女性にとってのアニムスは女性を『自立・自由・挑戦』へと向かう苦難の道に誘うような働きがあり、その苦難の道のチャレンジを上手く達成することができれば『より高い自我・創造性・自立的な生』に辿り着けるとしている。

グリム童話『つぐみの髯の王さま』では、お姫様の結婚相手が王侯貴族なのか乞食なのか、父王なのか乞食なのかという『極端な二者択一性・二項対立性』がメタファーで強調されているが、アニムスはこういった極端な選択を強いる機能も持っているとされる。お姫様は乞食との結婚生活を最初は嘆いて、もっと条件の良かった王侯貴族と結婚していれば良かったと過去を懐かしむのだが、やがて自分の行動で自分の生活を成り立たせるというアニムスの自立性、配偶者である乞食をサポートして一人前の男に育て上げるという母性性の発見に至る。『つぐみの髯の王さま』は女性の持つアニムスと母性性(利他愛・協力性)の不可思議ではあるがおよそ必然的な結合についても触れており、人生・自我の変容のあり方に示唆的な物語の構成になっているのである。

元記事の執筆日:2017/03/14

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