『人生の意味・価値』についてどう考えるとやる気がでるか1:最終的な帰結は問題ではない、『人生の意味・価値』についてどう考えるとやる気がでるか2:自分の心身を使って日常を生きる

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『人生の意味・価値』についてどう考えるとやる気がでるか2:自分の心身を使って日常を生きる


前向きなモチベーションを持続させること1:特定の相手からの評価・承認に依存するリスク


前向きなモチベーションを持続させること2:責任転嫁・被害意識から問題解決への転換


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『人生の意味・価値』についてどう考えるとやる気がでるか1:最終的な帰結は問題ではない

物事を実際にやってみる前から『無意味・無価値』であると決め付ける冷笑的なニヒリズム(虚無主義)は、『やる気・行動力・生き甲斐』を失わせてしまう。すべてに意味がないとするニヒリズムの究極的な根拠は『人間はいずれ必ず死んでしまう』や『人類・地球の歴史にもいずれ必ず終わりがくる』といったものだが、人間の人生の意味の多くは『限りある自分の人生(生命)でやりたいことを見つけたり成長や達成を実感すること・熱中したり没頭できる活動や関係に取り組んでそのプロセスを味わうこと』にある。

確かにいつか自分の人生に終わりは来るが、終わりがあるから無意味であり何もしないで良いというわけではない。終わりがあっても『どうでもよくて無意味と切り捨てられるほど主観的な人生は短くも甘くもない(何も面白いこと・やりたいこと・やるべきことを見つけられない人生には耐えられない)』のが普通であるから、ある程度は一生懸命になって自分が長く取り組めそうな活動・対象・人間関係などを見出していかなければならないのである。

『すべてに意味・価値がない』というニヒリズムは、『自分のものではない客観的な人生を観察する目線』から導かれるものであって、『自分のものとして主観的な人生を生きていかなければならない人間の現実』を前にしては、空虚なニヒリズムに何十年間も浸り続けて生き抜くことのほうが大きな苦難となる。自分のものである主観的な人生には、苦楽の感情や何かが欲しい(誰かと関わって承認されたい)欲求があり衣食住を必需とする生活もあるから、『本質的にくだらなくて無意味だから何もしないままに過ごすということ』自体が不可能であるか経済的に贅沢な要求ということにもなってしまう。

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『面白いこと・やりたいこと・やるべきこと』はあらかじめ人生や世界(社会)に織り込まれて存在するわけではないから、『やる気・行動力・生き甲斐』がなくなって何も行動をしなければ、人生は何も面白くない無意味なものになりかねない。だが、『面白いこと・やりたいこと・やるべきことの発見や創出(解釈)の欲望』というのは、人間が生き続けるための半ば本能でもあって、そういった人生の意味を人はどこかや何かや誰かにどうにかして見出してしまう所がある。

『面白いこと・やりたいこと・やるべきこと(人生の意味や価値の主観的実感を支えてくれること)』は初めからあるかないかで考えるべきことではなく、発見しようとするかしないか、やるかやらないか、やってみて肯定的に解釈できるかどうかという軸で考えるべき(行動すべき)ことなのである。人生の意味や価値の主観的実感を支えてくれることは、『自分のためにやること』だけではなく『他人(大切な誰か)のためにやること』も含んでいて、自分に意欲や活力(エネルギー)、体力がないと感じて疲れきっているような時でも、誰かを喜ばせたり助けたりするための行動によって、逆に自分自身が勇気づけられたりエネルギーを充電できたりすることがある。

人生のすべてがくだらないといった冷笑的な態度で生きるニヒリストは、『人生の究極的な意味・価値』ばかりに強迫的にこだわり過ぎて、無気力になったり抑うつ的になったりしがちなのだが、自分だけに通用する日常生活の仕事や雑事を大きく超越した究極的な意味云々というのは、『自分のものとして生きなければならない主観的な人生』にとってさほど重要なものではないとも言えるのである。

アドラー心理学の『目的論』ではないが『面倒で大変なことも多い日常の生活・仕事・人間関係・雑事から逃げたい関わりたくないという目的』があるから、『人生に有無を言わさぬ究極的な意味・価値がないのなら真剣に日々を生きたり苦労する必要がない』となりやすいのである。衣食住を満たすための経済にも縛られる主観的な自分の人生にとっては、ニヒリストがくだらないと切り捨てている『日常の雑事の積み重ね・時間経過のプロセス』を自分が納得のいくように後悔せず楽しめるように進めていく努力・工夫はかなり重要なものである。

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『人生の意味・価値』についてどう考えるとやる気がでるか2:自分の心身を使って日常を生きる

極論すれば、大多数の人には日常生活を真剣に生きて苦楽に喘ぎながらも、『自分にとっての価値ある体験』『自分にとって大事な意味ある人間関係』を積み重ねていく以上の人生の意味はないわけだが、逆に誰もが受け入れられる究極的な意味・価値などなくても人間は食べなければ腹が減るし、孤独が続けば人恋しくもなるし、情報やCMに接すれば何かが欲しくもなるということで、多くは何かをせざるを得ない(あるいは主体的・積極的に動いてみたい)心理状態になるだろう。

自分のものではない客観的な人生がいずれ終わるから無意味・無価値であると仮定しても、やる気(意欲)や行動力がなくて生き甲斐を見つけ出せなければ、自分自身が主観的に苦しんだり生活が困窮したりするリスクが高いだけで、また諦観して無気力・消極的に生きるには人生の数十年以上の時間は非常に長いものである。反対に、『面白いこと・やりたいこと・やるべきこと・好きな他者(人生の意味や価値の主観的実感を支えてくれること)』を見つけ出すのが上手な人、常に何か誰かに対して好奇心・探究心を持っている人にとっては、人生の数十年の時間は刹那にも似て短くて物足りないものにもなり得るわけである。

人生に意味や価値がないと思い込むニヒリズム(虚無主義)のもう一つの問題点は、人生はくだらなくてどうでもいいことばかりだから労力と時間をかけて何かをすれば損をするような考え方になって、『自分の心身を使わない無為・無気力に価値があると信じやすいこと』である。努力や苦労をして何かを成し遂げようとすること自体が本質的に無意味(自分にとっての犠牲・損失)なのではなく、努力や苦労をして何かを成し遂げようとしないことによって『自分の心身・頭脳を使わなくなること』が、無意味さや無気力さを更に助長してしまうというだけなのである。

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人間の肉体の筋力・運動能力も使わなければ使わないほど、横たわって寝たきりのような状態になるほど次第に弱って衰えていくが、『興味・意欲・意志・行動力』といった人間の精神機能も使わなければ使わないほど次第に弱って衰えていき何もしたいと思えなくなってくる。病気・怪我・疲弊などの理由もなく何かをせずに休めば休むほどに、元気になって心身の活力(エネルギー)が回復して充電されるというわけではない。肉体も精神(頭脳)も長く使わなければ使わないほど、『休養・回復』ではなく『面倒・怠惰』に流されやすくなって、一事が万事のようになってあらゆることに対して無関心や面倒な気持ちが勝るようになって動けなくなりやすい。

自分のものとして生きなければならない主観的な人生というのは、基本的には『逃げることができないもの(誰かに自分の代わりをしてもらうこともできないもの)』であり『過程や結果に対して喜怒哀楽の感情が生じるもの』であるから、究極的な意味がないからどうでもいいとかくだらないとかいった理由だけで無視することはできず、『自分にとっての意味・価値の発見や創出』に一定以上の労力や時間をかけていかなければ大きな困難・苦痛に直面することになる。容易には投げ出すことのできない主観的な人生であればこそ、斜に構えたニヒリズム(虚無主義)では耐えられないことになりかねないわけだが、『熱中して没頭できる対象・活動』『継続的に守りたい人・事柄』などを見つけ出して自分の心身をフルに機能させることによって、多くの虚しさや寂しさは超えることのできるものになってくるようにも思う。

起伏と変化のある人生で陥りやすい落とし穴の一つが、日常の仕事・関係・雑事を軽んじて無気力や虚無的になってしまう『究極・普遍・思想に過度にこだわる意味(価値)の探求』であるが、『他者の愛情・承認・比較に過度にこだわる他者依存性(自分の生きる軸や没頭できる活動がない状態)』というのも、人の心を落ち込ませたり意欲を無くさせたりする落とし穴になるものだろう。

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前向きなモチベーションを持続させること1:特定の相手からの評価・承認に依存するリスク

人が何かをやろうとする能動的な動機づけは、大きく『外発的モチベーション(外発的動機づけ)』『内発的モチベーション(内発的動機づけ)』に分けられる。外発的モチベーションとは『金銭・地位・名誉・賞賛(評価)・承認』など自分の外部にあるものや他者からの承認を求めるモチベーションであり、何かのために誰かのためにという分かりやすい目的があって、『やらなければならないこと・報酬の代わりとしての仕事』をするのに向いている。

内発的モチベーションとは『好き嫌い・信念・価値観・理想・好奇心(探究心)・趣味嗜好』など自分の内部にあるものや自分自身の主体的な興味・熱中の掘り下げを求めるモチベーションであり、自分のために世の中(社会)のためにというやや高次の目的があって、『やりたいことを深めていくこと・高めていくこと』に向いているのである。外発的モチベーションと内発的モチベーションのどちらが動機づけ(やる気)として優位かは課題内容・状況・心理状態によって変わってくるが、『誰かに評価されて承認されたいという外発的動機づけ』が強くなりすぎると、自分自身が何をやりたいのかの目的意識と達成感が希薄化しやすい危険がある。

『認めてもらいたいと思っていた誰かへの思いの変化(嫌悪・憎悪・不信などへの気持ちの変化)』『誰かに自分が監視(評価)されているという精神的萎縮』があると、誰かに評価されて承認されたいという外発的モチベーションは機能しづらくなってしまうのである。『誰かに自分が監視(評価)されているという精神的萎縮』は、親からの期待・命令・誘導の影響を受けすぎて、自分の主体的な意志や欲求が圧迫されてしまい、前向きな意欲・認知を持てなくなるというアダルトチルドレン(AC)とも相関する問題である。

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子供以上に学業・受験に対して熱心で子供の成績・点数について一喜一憂の反応を示す親、いわゆる教育ママ(教育パパ)と呼ばれる親は、知らず知らずのうちに『自分(親)の理想の人生・価値観』を子供に押し付けすぎてしまうことがある。その結果、親に嫌われたり否定されたくない子供が『親の顔色・気分を伺う生き方』を身につけて、自分の適性・意欲(やる気)・興味を完全に切り捨ててでも『親からの評価(承認)のため』に必死に頑張りすぎてしまうのである。子供の適性・やる気・興味を考えずに(本人が内発的モチベーションも高めて勉強しているのであれば問題ないが)、とにかく『勉強ができて良い学校に進学できる(良い会社に就職できる)子供でないとダメという価値観』を押し付け過ぎると、『挫折や失敗をした時の意欲減退(燃え尽き感)・目標損失(無意味感)』に陥ったり、『親子関係の変化によるネガティブな感情(自分はやりたくなかったのに親から管理・監視・誘導されていたという被害的・責任転嫁的な感情)』が生まれたりしやすくなる。

子供時代の親子関係だけではなく、会社の上司と部下にしても、恋愛・結婚における自分とパートナーにしても、『その相手からの評価・承認を得るためだけに頑張っているという外発的モチベーション』は、『燃え尽き感・無意味感・被害者意識・責任転嫁(相手への不満・憎悪)』を生みかねないという意味では不健全な要素を併せ持ちやすいということでもある。

前向きなモチベーションを持続させること2:責任転嫁・被害意識から問題解決への転換

『その相手からの評価・承認を得るためだけ』に頑張っているという外発的モチベーションは、その相手がいなければ別にそんなことはしたくないし興味もないという意味で、内発的モチベーションがかなり低いことが多い。そして『相手との相互依存的な関係性』だけを頼るべき生きがいにしていると、『挫折・失敗・裏切り(依存できる関係の破綻)』に対して極端に脆弱になってしまう。その相手からの評価・承認を得るためだけに頑張っている外発的モチベーションが更に、『その相手から嫌われたくない・否定されたくない・見捨てられたくない』という必死にすがり付くような心理(相手から嫌われないための必死の努力)にまでなると、相互依存的な関係性が情緒不安定で病的なものになってしまう。

『見捨てられ不安』によって狂気的なしがみつきや怒り発作、自傷行為、抑うつ的な気分まで出てくるようになると、愛着障害や境界性パーソナリティー障害といった問題も起こりやすくなる。また『その相手から嫌われないため(見捨てられないため)の努力』というのは、自分が何者であってこれから何をやりたいのかという『自己アイデンティティー』を拡散させやすく、その相手に情緒的に依存できなくなった時にあらゆる前向きな意欲・努力ができなくなってしまいやすい(できないことを相手に責任転嫁して延々と苦しみやすい)のである。

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誰か・何かのために努力するという外発的モチベーションは意欲(やる気)を出すために有効なものなのだが、誰かのためだけに(特に誰かに嫌われないためだけにしがみついて)努力するとか人生を賭けるとかいうのは、『一つの関係が終わった時・一つの目標が失われた時』『無意味感(徒労感)・自暴自棄・責任転嫁(被害者意識)』に長く打ちのめされやすいリスクがある。その意味で、誰か・何かのために努力するという外発的モチベーションは、『自分がやりたいこと・興味を持って深めていきたいこと・熱中して没頭できること』といった内発的モチベーションとのバランスを取ることが大切になってくる。

特に、誰かに嫌われないため(見捨てられないため)だけに頑張ってする外発的モチベーションは好ましくない結果につながりやすい部分がある。それは相手との相互依存的な関係が上手くいかなくなり気持ちがすれ違い始めると(別れの兆候が見え始めると)、どうしても『今までこんなに相手のために良くしてあげたのに~,大きな自己犠牲を払って尽くしてあげたのに~,相手のためだけを思って必死に生きてきたのに~』という相手からの見返り(恩返し)を期待する心理、全く見返りが得られないと他責的に相手を責めて恨むような(いじけてやる気全般を無くすような)心理に落ち込みやすいからである。

特定の誰かのために奉仕・貢献したり自己犠牲を払って尽くすことそのものは、人間としての幸福・喜び(家族家庭を維持するための献身・思いやり)にもつながる価値のあることである。だが、『自分自身の主体性や興味関心がほとんどない時』や『自分の気持ちだけが強くて相手からの評価・承認にすっかり依存してしまっている時(相手から嫌われないため見捨てられないためだけに必死になっている時)』には、自分がやりたいことをやりたいからやるという『内発的モチベーションとのバランス』を少し意識してみたほうが良いかもしれない。

内発的モチベーションの魅力の一つは、『他者の反応に簡単には左右されないということ(他者に否定されたからといってやる気がなくなる性質のものではないこと)』、『上手くいかなくても人を責めたり恨んだりせずに済むこと(相手からの見返り・関わりがなくても他責的にならないこと)』である。苦しいことやつらいこと、悲しいこと、怒りを覚えることは人生には無数にあるかもしれないが、外発的モチベーションだけでは自分の前向きな意欲や価値観を支えきれないような時に、自分がやりたいことに熱中するという内発的モチベーションが助けになってくれたりもする。

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苦しいことやつらいこと、悲しいことがあった時に、自分を支持してくれなくなった他人を責めず、人と比べて不遇な環境を恨まず、更に自分も責めないという心理状態こそが『持続的で前向きなモチベーション』を保つ鍵になる。物事や人間関係が上手くいかない時に、自分も相手も環境も責めず恨まずに『自分が直面している苦悩・問題』とまっすぐ向き合いながら、どうすればこの苦悩を軽減できるか、どうやってこの問題を解決できるだろうかと考えることこそが『持続的で前向きなモチベーション』の中核にある思考パターンだからである。

こういった強度のストレス(挫折体験)に負けない安定した心理状態、誰か・何かに責任転嫁して腐らない自意識は、一朝一夕で作り上げられるものではなく、誰かの役に立ったとしても、『自分の行動・努力は究極的には自分のためにしたことである(自分がやりたいからやったのだ)』という自己責任感と潔い決断力が求められる。『持続的で前向きなモチベーション』を保つことは確かに簡単ではない。人生や物事が上手くいかなくなった時に『誰か・何かを責めたり恨んだり傷つけたりすることに使う時間や労力(悪者探しのためだけの時間・労力)』を、『苦しくてつらいけれどこの厳しい現状をどうすれば改善できるか(今の自分にできそうなことは何か)』という問題解決的な認知の方向に修正していく意識を持つことがまず大切である。

人から評価されたり承認されたりすること(さまざまな人間関係から得られる自己評価の高まりや役割・貢献意識)は確かに人間にとっての大きな喜び・幸せ・生きがいではある。それと同時に、自分が興味のあることや価値があると思えることに熱中して取り組める内発的モチベーションに基づく意欲的な体験は、やはり『主体的な人生の生きがい・やる気・達成感』を静かに支え続けてくれるものである。

元記事の執筆日:2017/04/18

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