自己愛の時代を生んだ『豊かさ・個人主義・消費社会の要因』と格差・貧困の影響:1,自己愛肥大のメリット・デメリットと自己愛的な現代人の『老い・死』の受け止め方:2

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自己愛肥大のメリット・デメリットと自己愛的な現代人の『老い・死』の受け止め方:2


近代経済学と行動経済学と人間の行動選択:常に人間は合理的で、市場は効率的なのか?


自己中心的な願望によって生まれる『人間関係の不平不満』:見せかけの真面目さと内面の怒り


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自己愛の時代を生んだ『豊かさ・個人主義・消費社会の要因』と格差・貧困の影響:1

現代は『自己愛の時代』と言われるが、現代人の自己愛が肥大したり歪曲したりしやすい背景には『個人主義・消費社会(消費主義文明)・ルッキズム(外見重視主義)』がある。しかしここ20年続いた経済不況や格差拡大、貧困増加によって個人単位の自己愛を満たしづらい人も増え、『個人・所有の自己愛の時代』から『共生・共有の共同体(関係性)の時代』への緩やかなシフトが起こっている側面もある。

自己愛が肥大して自分の幸福追求を最優先して他者を選り好みしやすい“戦後日本”と、自己愛が抑圧されて国家・集団への自己犠牲的な貢献が求められ所与の人間関係(上下関係)にはめ込まれた“戦前日本”は、コインの表と裏のような相互的な関係にある。『国家権力・軍国主義・儒教道徳(長幼の序)』のような理不尽な強制が少ない個人の人格・尊厳を基盤として運営される現代の自由社会では、自己犠牲を払っても良いとする『自分を超越した対象(国家・宗教・権威者・社会・親・仕事など)』を持たない個人主義者が多くなる。

自分以上の何かに人生や生命を捧げて貢献して生きるといった滅私奉公的な生き方は、現代では逆に『権力・資本・会社から利用され搾取される生き方』として受け止められやすい。家族のために生きるといった自己以外のものへの献身もかろうじて残っていることはあるが、国家・公権力・会社などが本人にとって不利益な干渉・命令をやりすぎれば反倫理的・犯罪的なものとして非難されることになる。小さな子供時代から、お金さえ支払えば何でも買えていろいろなサービスも受けられるという『消費社会(消費主義文明)への過剰適応』も、思い通りにならない他人と協力して何かを成し遂げる(何かを生産する)機会が乏しいという意味で、『人にしてもらう消費者サイド』に立った自己愛を肥大させやすい。

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豊かな現代社会では、芸能界やアイドル、写真投稿(自己像投稿)のネット文化、Youtuberなどの影響で、中身よりもまず外見を見て評価する(外見で評価される芸能人的な仕事がステータス化される)という表層的な『ルッキズム(外見重視主義)』が優勢になりやすい。小中学生の頃から鏡で自己像を何度も見て優越感や劣等感を抱きやすくなり、少しでも自分の見た目を良くしようとする傾向の自己愛も強まりやすい。日本や欧米をはじめとする先進国の現代社会では『消費市場・恋愛関係・ネット文化・ゲーム・漫画やアニメ』などによって、過酷な貧苦・欠乏や大きな挫折・絶望に直面しない限りは、ある程度の仕事・お金があれば娯楽・買い物・人間関係を通してそこそこ満足できるという『自己愛のイリュージョン』の中で暮らしやすくなっているのである。

大多数の人は何らかの対象や活動、消費を通して『自己愛のイリュージョン』を満たして程度の差はあってもある程度は満足できるので、自己愛の強い現代社会では過去の時代よりも犯罪件数や暴力行動そのものは減っている。貧しかった時代の村落社会や親子関係では、一定の年齢になったら自立・結婚・出産を半強制するような圧力や干渉があったが、現代では各人がそれぞれの『島宇宙的な世界』で自己愛を現実的あるいは妄想的(想像的)に満たしているので、よほど親しい相手でなければ、個人主義のプライバシー感覚を超えて他者に干渉しようとする人自体が減っている。

自己愛の時代や自己愛のイリュージョンを前提とする自己愛の満たし方のレベルには実際的なものから想像的なものまで様々なものがあるが、その最低ラインは『消費社会でお金を出せばある程度の商品やサービスを買うことができる』というものであり、極端な格差や貧困、孤立がない社会であれば『各人が持つ自分相応の自己愛のイリュージョン』は維持されやすく問題(弊害)も起こりにくいということにはなる。

反対に、極端な格差・貧困・孤立によって『自己愛を尊重されて満たされている恵まれた人』『自己愛を無視されて満たされない恵まれない人』が階層的に分断されると、現代社会で各人にそれなりのレベルで共有されていた自己愛のイリュージョンが破綻したり、幻想的な自己愛の世界が今までのようには維持できなくなっていく。

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自己愛肥大のメリット・デメリットと自己愛的な現代人の『老い・死』の受け止め方:2

それぞれの個人の自己愛の幻想が維持されていれば、『社会・他者に対する不平不満や強い干渉』は表に現れにくい。だが、自己愛の幻想が衰弱したり破綻したりすると(あるいは自分自身の経済生活や人間関係そのものが成り立たなくなると)、格差のある他者や不公平な社会に対する『羨望・怨恨』が強まって、『不満のある社会・他者を変えようとする干渉や活動の動き』が出てきやすくなる。自己愛の肥大にもメリットとデメリットがあるが、メリットは自己愛が強まることそのものが自分を『不快なもの・嫌なこと・不安なもの』から守ってくれる自我防衛機制として働きやすく、経済生活が成り立って自己愛の幻想の内部で生きられる限りは『それなりの主観的な幸福感・満足度』を得やすいということである。

自己愛肥大のデメリットは自己愛の幻想に浸りきることで、『客観的な現実』を否認しやすくなることであり、特に『自分にとって不都合で不快な現実』を否認することによって、現実的な経済生活や人生設計、人間関係などに完全に適応できなくなってしまうリスクがある。個人レベルを超えた国家レベルでも、トランプ大統領のアメリカファーストではないが自分の国さえ安全で利益を上げられれば良いとする『自己中心的・自己愛的な国家観や政治運営』が影響力を強めていることもあり、日本も自国の経済財政が上手くいかなかったり将来不安や格差拡大の問題があったりで『日本や先進国以外の貧困・飢餓・紛争・絶望』といったやや遠い場所の現実には意識が向かいにくくなっている。

自己愛の幻想に浸りすぎると、『現実的・客観的な問題状況への対応』がおざなりになりやすくなり、最終的な結果として自分自身や周囲の人達が困ったり社会の利益が損なわれたりするデメリットもでやすくなる。しかし、自己愛というのは人間にとってなかなか根本的な欲求の一つでもあり、自己愛が現実的あるいは妄想的に十分に満たされてしまうと、人はそれ以外の欲求がかなり弱くなったり無視できるようになったりしやすく、『自分と異なる他者・別の世界』に対する共感的な想像力も弱まってしまう。

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現代人の自己愛の幻想のもう一つの限界として『個人の死の運命』があり、どんなに自己愛を肥大させて不安なものや不快なものから自分を防衛しても、永遠不滅の生命を持つ人間はおらずいつかは必ず死ぬ。いずれは自己愛の対象である『自分自身』を失っていく逃げられない現実のプロセスに直面しなければならないが、現代人は『思想・哲学・国家・宗教に依拠した自己アイデンティティー』を確立しにくくなっている。それだけでなく精神科医・精神分析家の故小此木啓吾氏が『モラトリアム人間・自己愛人間』の一連の書物で、現代人の自己アイデンティティー喪失を指摘し、誰か・何かのために大義名分を持って死ぬ『能動的な死』を死ぬことが不可能になったと指摘しているように、現代人の死の多くは病気・老いの先に待つ『受動的な死』になっている。

むしろ誰かや何かのために主体的に死ぬという『能動的な死』というのは、現代ではその誰かや何かに騙されたり洗脳されたりしている『悪』と見なされやすいだろう。そういった価値観や人生観の変化もあって、受動的に進んでいく死のプロセスをどう受け止めて支えてあげるか、本人の意思を尊重して楽にしてあげるかという『ターミナルケア(終末期医療)・尊厳死・安楽死』の議論も活発化しているところがある。自己愛が肥大している人ほど『老い・死』にまつわる不安や苦悩は深くなりやすいともいえるが、それは自分が生きている意味や価値を確証する自己アイデンティティーの確立と納得の機会が過去より減ってきていて、家族・子孫・情熱を傾けた仕事くらいしか持続的な自己アイデンティティーの意味づけを支えられそうなものが無くなっているからでもある。

モラトリアム遷延や自己愛肥大によって『自己愛的なイリュージョン』の中で満足する現代人は増えているが、究極的には『自分自身の老い・死の運命』によって『現実否認の自己愛』は限界に直面することになる。高齢化社会の前提も影響してくるだろうが、自分自身の自己愛を満たせるリソースや可能性、関係性が減っていく『人生後半の老い方・生き方・死に方』がシビアに問われる局面が増えていくのかもしれない。冒頭で、経済不況や格差拡大、貧困増加によって個人の自己愛を満たしづらい人が増えて、『個人・所有の自己愛の時代』から『共生・共有の共同体(関係性)の時代』への緩やかなシフトが起こっている側面もあるということを書いたが、こういった『他者との協力・協働・共感・共有』といった社会的動物であるヒトの原点に少し立ち返ってみることも、これからの個人単位でのサバイブが厳しい時代を生きる一つの方策になってくるかもしれない。

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近代経済学と行動経済学と人間の行動選択:常に人間は合理的で、市場は効率的なのか?

経済学では合理的なホモ・エコノミクス(経済人)を前提にして、自由市場原理が効率的な価格決定を行うとする『効率的市場仮説』が信じられている。効率的市場仮説の基本原則は『市場で取引されている株・債権・商品などの現時点での価格』『ファンダメンタルな価値(業績・財務・需給など基礎的諸条件)』を効率的に反映した適正価格であり、市場原理は各時点において間違った価格をつけないということである。

あくまで、“今の時点”での『市場が決めた適正価格』であって、市場価値は絶えず変化を続けるので、“次の時点”や“かなり先の時点”では『適正価格が暴騰・暴落する可能性』が常にあるので、効率的市場仮説を前提にする限り『市場価格の未来予測』には限界があるか概ね不可能である。効率的市場仮説では、何人といえども証券や商品、為替の市場価格の未来予測を確実に行うことは不可能であり、『フリーランチ(金融市場で自分たちだけが必ず儲かる絶対的な必勝法)』はないということである。自由市場におけるフリーランチの必勝法がないということを、『市場はランダムウォーカー(無作為でランダムに歩くもの)』といった言い方をすることもある。

自己利益を最大化しようとする合理的な経済人や市場原理の各時点での価格形成は間違わないという効率的市場仮説には、さまざまな反論や抵抗があるけれど、ノーリスクで必ず儲かる投資がまず有り得ないという『フリーランチはないの原則』は、あの手この手で勧誘してくる投資詐欺の自己防衛の知識としては役立つかもしれない。すべての人間(投資家)が合理的に意思決定するという近代経済学は、人間の非合理的な行動を説明する現代の行動経済学・行動ファイナンスの知見からすると、信憑性が揺らいだ眉唾な前提になってきてはいる。

しかし、『すべての人はリスク回避的(利得の喜びよりも損失の苦痛のほうが大きい)である』『投資対象に対する同一情報を入手できればすべての人は概ね同じリターンとリスクを予測できる(実際の行動では違いがでるにせよ)』というレベルの話であれば、やはり人間は合理的な意思決定をする動物としての傾向がかなり強いとは言えるだろう。合理的なホモ・エコノミクスの意思決定(行動選択)という時に反論・異論が出されやすいのは、『人によって好み・価値感が違うからどんな行動を選択するかは合理的に説明しづらい』ということである。

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単純に、余暇の5時間に時給1000円の仕事をしないかと誘われても、『5000円の現金収入』を選ぶか『5時間の自由時間』を選ぶかは、その人の経済状況(お金がどれくらい欲しいか)や主観的な疲労感(疲れていて休みたいか元気で働いてもいいか)、今やりたいことの有無によって変わってくるというような反論である。合理的な意思決定に個人の好み・価値感の要素を加えた経済学の概念が『期待効用最大化』であり、人間はそれぞれの期待効用(その選択で得られるメリット)を最大化できるような意思決定・選択をするということになる。

食費を切り詰めてロト6を1万円買って6億円が当たる夢を見ることを選択する人もいれば、宝くじなんてどうせ当たるはずがないからその1万円を食費・家族の外出に使ったり貯金したほうがいいという選択をする人もいるが、この個人間の選択の違いは『期待効用最大化の原理』によって説明することができる。自分にとっての主観的な効用を重視する『効用理論』そのものは、ジョン・フォン・ノイマンやオスカー・モルゲンシュテルンによって1940年代から唱えられていたが、合理的な人間が行うとされる意思決定では『各選択肢がもたらす結果の確からしさ(確率)と好ましさ(効用)』から『期待効用』が導かれるということである。

大多数の合理的な人は、その期待効用が最大のものを選択するのであり、市場原理が働くものであれば商品でもサービスでも自由恋愛(結婚)でも、『その人にとって可能な範囲内で期待効用ができるだけ大きく感じられるもの』が選ばれているということになる。株・債券などをはじめとする市場価格が『適正なファンダメンタル価値』と一致するという効率的市場仮説にも反論は多い。そういった反論に対しては、ファンダメンタルな理論価格から見て割高なものはいずれ売られ、割安なものはいずれ買われるので、『各時点での割高・割安な価格』はあっても長期的には需要と供給(裁定取引)によって適正価格に近づいていくという説明が一応なされることになる。

しかし、現実の市場での取引は中長期的に見ても理論価格から乖離していることは少なくなく、必ずしも市場価格が『適正なファンダメンタル価値』に近づいていっているとは言えないのだが、その理由としては『市場には必ずしも投資対象以外の代替物=別の選択肢が存在するわけではない』『裁定取引があっても理論価格に収斂する保証がない』『機関投資家が短期的利益ばかり追求して十分な価格調整が行われにくい』などを上げることができる。効率的市場や合理的な経済人を前提とする近代経済学は、現実の市場(景気)の上がり下がりや価格決定を十分に説明できないことが多く、近年ではバブルの高騰や破綻を引き起こしたりもする『非合理的な投資家心理』を考慮する行動経済学(行動ファイナンス)の分野が盛り上がりを見せている。

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『非合理的な人間の心理+非効率的な市場の動き』というのは、数量経済学的なモデル構築においては予測困難を導く障害になりやすいものであるが、現実の経済・市場・人間の意思決定を考える上では『完全にシステム化して予測できない非合理性・非効率性の要素』のほうが重要になってくるだろうと思う。近代経済学は標準的かつ合理的な理論モデルを前提にして、妥当な推論を展開して何を為すべきかの規範を示すという『規範理論』の傾向が強い。それに対して心理学的要素を加えた行動経済学は、現実の人間行動を実験的に観察しながらその理由を推測していくという『実証理論』の傾向が強くい。

行動経済学は『証拠』を挙げて、現実の人間行動の傾向性を実証していくという考え方や方法論がより科学的なのだが、『近代経済学の合理的な理論モデルと実際の人間行動の比較』を行っていくという点において、規範理論としての近代経済学と相互依存的な側面(規範と実際の差異を調べてその理由を推測する側面)も持っている。

自己中心的な願望によって生まれる『人間関係の不平不満』:見せかけの真面目さと内面の怒り

自己中心的になるほど自分の利益を忠実に追求しているはずなのに、実際の成果がでなかったり不平不満が多くなったりすることは多い。自己愛性パーソナリティー障害の人も、自分自身の権力や利益、名誉、影響力などを利己的に追求していて、他人に共感せずに他人を利用しようとするが、実際には思い通りの成果を得られなかったり、仕事・人間関係の不満を溜め込んでいることは少なくない。他人のことを気にせずに自己中心的に厚かましくなったほうが、少しでも多くの利益を得られそうな気はするが、実際には『自己中心的な願望』『客観的な現実状況』の間はズレが大きく、自己中心的になると他者からの好意や信頼、協力を得づらくなるので最終的にはむしろ一般の人よりも損をすることのほうが多いのである。

自己中心的な願望の多くは、現実には有り得ないものや状況であるため、そういった非現実的な願望を肥大させればさせるほど『思うようにならない不満・怒り・悔しさ』は鬱積していくものである。自己中心的な人は『人間関係の悩み・不満』を溜め込みやすいが、それは『他人が自分の思い通りに動いてくれて当たり前・能力や魅力のある他人が自分を気遣ってくれて当たり前』という現実にはまず有り得ない状況を前提にしていて、その都合の良い期待が満たされることがまずないからである。

自分だけではなくて相手にも『その人の自意識に基づく欲求・都合・思惑・立場があるという当たり前の前提』が分かっていないから、『自分の欲求が満たされないこと』ばかりに注意が向いて不平不満を溜め込みやすくなる。自分が『思い通りにならない他人』にイライラしている時には、逆に相手が『思い通りにならない自分』に不満を抱いている可能性が十分にあるということに想像力が及ばないのである。自分が目的達成のために努力して相手のために貢献してから、相手の好意や働きに期待するならまだ分かるが、自分自身は特別な努力・労力を払わずに一方的に他人を思い通りに動かしたいとする考え方が間違っているのだが、自己愛性パーソナリティーの人にはそういった自分と他者の対等な立場というものがなかなか理解できない。

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反対に、『他者の好意・評価』を得るためだけの『見せかけの真面目さ』というのも上手くいかないことが多い。そういった見せかけの真面目さには、『人から好かれたり認められたりしなければ自分の存在価値』がないという他者依存的な不安・恐怖があるため、仕事にしても勉強にしても真面目に熱心にやっているように見えて、実は中身のある仕事・勉強に取り組めていないこと(気持ちは上の空で集中できていないこと)が多い。自分自身の『主体的な人生・自発的な仕事(勉強)』に対して、本当の意味でのやる気や関心、自信が持てていないために、真面目に必死に頑張って人の気(注意)を惹かなければ、自分の存在価値が縮小して消えてしまうような不安・恐怖を感じているということである。

他人に認められたり気に入られたりしなければ、安心感や自己価値感を感じられないという状況になると、現実にはいくら真面目に頑張っても『他人の気を引けないこと・他人に気に入られないこと』はいくらでもあるので、結局、自分のやるべき仕事や勉強に対するモチベーションを長く維持することはできないのである。それどころか、『見せかけの真面目さ』『自己愛性パーソナリティー』と同じく、自分の真面目な努力や働きを全く認めようとしない(自分に注意・承認を向けてくれない)他人を『思い通りにならない傲慢で不快な他人』として恨んだり怒ったりしてしまうリスクもでてくる。

日本では『真面目さ』は一般に社会的・学校的に高く評価されてきたのだが、真面目さ以外に他者に自分をアピールする手段がない追い詰められたような心理状態は、本当はやりたくないことを他人の好意・評価を得るためだけに黙々と真面目にやっている側面が強まってしまうので(他人にちやほやされたい自己中心的な本心を隠した真面目さになるので)、表面的には笑顔でも、内面で不平不満の怒り・憎悪を鬱積してしまう危険があるということなのである。他人を思い通りに動かそうとする自己愛的な願望も、見せかけの真面目さで他人の承認を集めようとしている抑圧された自己愛的な欲求も、『他人に対する真の興味・貢献・愛情がない』という部分が共通している。人間関係や仕事・勉強を上手く進めていくには、自己中心的な欲求(相手から何かをしてもらいたいとする自己愛的な態度)をある程度抑えて、『他人に対する真の興味・貢献・愛情』を持つようにした上で、『相手が何を考えていて自分に何を求めているのか?』ということを自分から先に考えて動くべきなのである。

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元記事の執筆日:2017/08/10

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