ロバート・チャルディーニの『説得力の6原則』と説得の心理学:1,ロバート・チャルディーニの『説得力の6原則』とプロスペクト理論・社会的証明の原則:2

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ロバート・チャルディーニの『説得力の6原則』とプロスペクト理論・社会的証明の原則:2


橋本治『いつまでも若いと思うなよ』の書評1:『若さ・新しさ』を持てはやす現代の風潮と老い


橋本治『いつまでも若いと思うなよ』の書評2:年を取る必要のない文化の幻想と年齢実感の薄れ


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ロバート・チャルディーニの『説得力の6原則』と説得の心理学:1

人に何かをしてもらいたい時、特に初期の意思決定(自己選択)を翻してでも動いてもらおうとする時には『説得』が必要になってきます。『説得』というと、物事のメリットやデメリットを説明してメリットの多い方を勧めたり、行動の善悪(合法・違法)などを説いて倫理的・法律的に好ましくないリスクのある行動をやめさせたりすることをイメージしますが、実際に他人が『自分の言葉・態度・行動・見かけ・情報(属性)』の働きかけによってどう動くのかにはさまざまな要因が関係してきます。他者を自分の言動によって望んでいる方向に動かす『説得力』については、『影響力の武器』の著書で知られる社会心理学者のロバート・チャルディーニ(1945~)が研究していますが、R.チャルディーニは以下の『説得力の6原則』を上げています。

説得力の6原則

○好意(Liking)……人は相手が自分に好意を持っていると感じたり、自分と相手の間に共通点があると認識すると、相手に対して好意を抱いてその話の内容も信じやすくなる傾向がある。自分に対して好意を抱いてくれている相手ほど、自分の依頼や誘い、要請に対して断りづらくなり、イエスの返事を返してくれやすくなる。

○返報性(Reciprocation)……『好意の返報性・悪意の返報性』として知られる原理で、相手に対して好意的・援助的に親切に接すれば、相手も同じように好意・親切を返してくれやすい。反対に、相手に対して悪意的・否定的に感じ悪く接すれば、相手も同じように悪意・妨害でしっぺ返しをしてきやすいのである。

○社会的証明(Social proof)……人は他の人(大勢の人)がやっていることと同じことをする傾向がある。特に、同じコミュニティに所属している人や自分と共通点の多い人のやっていることと同じことを真似しようとしやすい。『周囲(ご近所)の皆さんがやっているから』は、かつての日本のように同調圧力の強い社会では説得力を発揮した。

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○コミットメントと一貫性(Commitment and Consistency)……人は他人が見ている場(公共の場)で、何かをやりますとコミットメント(関与・約束)した時には、できるだけそのコミットメントを成し遂げるための一貫性を保とうとする傾向がある。人は自分がいったん本気で取り組んだことや周囲にやりますと宣言したことを、なかなか取り消すことができず、コミットメントの一貫性を守ろうとしてその事柄を同じ方向で続けやすい。

○権威(Authority)……人は専門家や権力者(所属組織の上位者)、マスメディアなどの権威が伝える情報を信じやすく、権威からの説得に対しても一般に弱い傾向がある。人は自分自身の主観としては『私は権威に弱いわけではない・自分の見識で判断している』と思っていることが多いが、実際には自分が思っている以上に権威を信じて従っていることが多いものである。

○希少性(Scarcity)……人は大量にあるモノやいつでもできるコトの価値を低く見積もるが、あるモノやコトの希少性(なかなか手に入らないモノ・今しかできないコト)を認めた途端にその価値を実際よりも高く見積もりやすい。更に、希少性のあるとされるモノ・コトに対して抑制が効かずにすぐに飛びつきやすい。

『好意の返報性』は多くの人に知識・経験としても広く知られた原則ですが、それを効果的に使うためには、ただ適当に好意を示して親切な援助や負担をするだけではなく、『パートナーシップの構築・ギブアンドテイクの確認』も必要になってきます。自分が相手を援助したり負担を肩代わりした時に、『対等に近いパートナーシップ(仲間意識)』が成り立っていなければただの都合の良い便利な人で終わりかねず、『ギブアンドテイクの返報性』が返ってこないのです。

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何かしてやったと恩着せがましいのは悪影響ですが、『自分たちは友達・仲間(継続的なパートナー)であるという意思表示』をしたり、『困った時にはお互い助け合っていこうという姿勢や意思』をそれとなく確認することによって、人はずっと相手から一方的に自分だけが好意・利益を得ることに居心地が悪くなり、自分に良くしてくれた仲間・集団に自分もお返しをしたい(しなければならない)と思うようになりやすいのです。自分の親切や援助そのものは『無償の善意』でしてももちろん良いのですが、『好意の返報性・組織集団の協調性』によって人を望ましい方向に動かす説得力を強めたいのであれば、『自分は何もせずに相手から受け取り続けるだけのフリーライダー』の居心地を悪くして、直接的・間接的に『ギブアンドテイクで助け合う仲間のネットワーク』に取り込んでいく(自分もみんなのために何かしようと思う人を増やしていく)必要があるわけです。

ロバート・チャルディーニの『説得力の6原則』とプロスペクト理論・社会的証明の原則:2

行動経済学者のダニエル・カーネマンとエイモス・トベルスキーのプロスペクト理論では、人は不確実な状況下では『利益の獲得』よりも『損失の回避』を重視した意思決定をすることが明らかにされています。それは人は利益によって得られる喜びよりも、損失によって蒙る苦痛のほうが一般に大きいからです。100万円を得られる喜びの主観的な大きさに対して、100万円を失う苦痛の主観的な大きさのほうが大きいということです。

プロスペクト理論によると、『利益を得られる場面ではリスク回避を優先して確実に利益を得ようとし、損失を蒙る場面ではリスクを取ってでも損失を回避しようとすること』が明らかにされています。これは利益を得られる場面では、『100%の確率で1000円を貰える』か『50%の確率で2000円を貰える(50%の確率で何も貰えない)』かの選択では、多くの人は前者の確実に1000円を貰えるほうを選んで『リスク回避』をするということです。反対に損失を蒙る場面では、『100%の確率で10000円を失う』か『50%の確率で損失がゼロになる(ただし50%の確率で15000円を失う)』かの選択では、多くの人は後者の50%の確率で損失がゼロになるほうを選んで『リスクを取る』ということです。

利益を得られる場面でも損失を蒙る場面でも、損得の確率はどちらも同じなのですが、利益を得られるのであれば『できるだけリスクが少なくて(金額が小さくなっても)確実な選択』をする傾向があり、損失を蒙るのであれば『少しでも損失を減らすために(確実に不可避な損失のある選択だけはしたくないので)リスクのある選択』をする傾向があるわけです。人は『利益の喜び(得する快)』よりも『損失の苦痛(損する不快)』を強く感じやすいということから導かれる、人を望ましい方向に動かす説得力の原則は『それをすれば何が得られるかを語るだけではなく、それをしなければどれだけのモノを失うことになるか(非常に大きな損をすることになるか)を語ることも効果がある』ということです。

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チャルディーニは説得力の原則として、人は多くの場合において『何を語るかによってよりも、誰がそれを語るかによって動かされるということ』を示しており、人を説得しやすい『権威』というのも『それを語る人物の影響力・信頼度の大きさ』につながっています。個人や集団組織の目的と合致する専門家の根拠ある証言や権威者の支援などには、一般の人たちを信じさせて協力させやすい説得の効果があるからです。『権威』の説得力にはもう一つ、『自分以外の誰かが自分を推薦して褒めてくれること』があります。

一般的に、人は自分で自分の長所や魅力を宣伝して自画自賛でアピールすると、『事実ではない・美化して自惚れている・でしゃばりで鼻につく』などの悪印象を持たれがちですが、自分ではない誰かが褒めて推薦するのであれば、全く同じ内容であっても人はその内容を『素晴らしい人の特徴』として信じやすくなるのです。この時には自分ではない第三者が『権威者』としての役割を自然に果たしてくれているのですが、この第三者の説得力を利用した商品・サービスのあまりにもベタな宣伝方法として、『健康食品・ダイエット法などでこれは利用者の個人的な感想です』という前置きをしてから、その商品・サービスを第三者(実際にはCM出演のサクラに近いにしても本当の利用者であることは多い)に褒めさせて推薦させる手法があります。

集団組織の中のメンバーを動かす場合の説得力としては、『われわれ(We)の意識』を持たせて『われわれみんなで目的を共有する雰囲気』を作ることが有効とされます。人は通常は自分個人の利益や安全を損なう行為を敢えてすることはありませんが、われわれの意識を持つ集団のメンバー(一員)であるという自己定義がある時には、個人の利益を失ってでも集団の目的達成のために動くことは少なからずあるからです。

この個人が自分の利益を捨ててでもみんな(集団)のために頑張ろうとする『われわれ意識(集団の一体感)の説得力』を悪用してしまう例としては、個人を限界を超えて使役して十分な待遇・報酬を与えないブラック企業やブラックバイト、部活のしごき(いじめ)などを考えることができます。集団主義・同調圧力の強い社会共同体において特に有効に作用する説得力が『社会的証明の原則』であり、同じ共同体に所属している仲間・知り合いの大多数が同じことをしている(同じ判断をしている)という事実の伝達さえあれば、多くの人は多数派に自然に合わせるような行動をしてくれるのです。

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反対に、同調圧力に影響されにくい個人主義的信念の強い集団・文化ではこの『社会的証明の原則』はあまり効果がないわけで、多くの人は自分の内面や生き方(ライフスタイル)を重視して、『集団・多数派の真似』をせずに意思決定していくことになるでしょう。もう一つの説得力の原則は、SNSのやり取りやタイムラインの閲覧を介した影響とも重なりますが、多くの人は『自分の身近な人・知り合いから出てきた情報』のほうを信じやすく、話している相手が自分に近ければ近いほど(自分にとって継続的に重要な人物であるほど)論理的で冷静な判断力が働きにくくなるということがあります。

橋本治『いつまでも若いと思うなよ』の書評1:『若さ・新しさ』を持てはやす現代の風潮と老い

『いつまでも若いと思うなよ』は中高年の人にとってショッキングなタイトルだ。『若さ・美しさ・生産性(能力)』が持てはやされる現代では、多くの人ができるだけ年寄りにはなりたくないと思っていて、特にあまり親しくもない女性に年齢を聞くことは一種のタブーでもある。お金のある中高年には、できるだけ若くありたい(見かけ・気持ちが老け込みたくない)という欲求から、アンチエイジングのサービスや健康商品、美容整形などにかなりお金を突っ込んでしまう人も多い。

20代くらいまでの若い頃には、本格的な老いからまだまだ離れている安心感もあって、『私(俺)ももう年で若くない・10代の若者とは違って疲れやすい』などと冗談めかして言えるが、30代後半~40代以上になってくると社会的・客観的に『若者ではないこと(10~20代の若者のカテゴリーや仲間には入れない)』が決定されてきて、体の状態や肌・胃腸の調子にも加齢の影響がでてきやすくなる。30代~40代は他人から年齢のことを言われるのが少しずつ嫌になってくる年代でもあり、『自分ではまだまだ若いと思っている人』も『自分はもう年を取って体力も気力も落ちてきたと思っている人』も、どちらも『本当の若者ではなくなってきた実感』を自分なりの考え方や生き方で受け止めていかなければならない段階でもある。中年期・壮年期を過ぎて、60代以上の老年期になれば『本当の中年(現役)ではなくなってきた実感』に対して、もう一段階上の受け止め方や割り切り方が求められるようにもなる。

自分の『主観的な自意識』『客観的な年齢』があまりにも食い違っている場合には、『中年期の危機』と呼ばれる精神的危機に陥ることもあるし、かつては『年齢段階ごとにやるべきとされてきた結婚・出産・子育て』などをしていないと、どうでもいいと思っている人でも一定の不安・焦りを覚えやすい年でもある。本書『いつまでも若いと思うなよ』は、橋本治さんの個人的経験を踏まえた高齢者論であり、現代における老年期の適応戦略でもある。人の多くは、決定的に年齢で体力気力が低下するか大きな病気をするか(慢性的な老年期疾患で悩むか)でもしないと『老い』を自分のものではなく、『他人事』として捉えられないというのは確かにその通りだろう。

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高齢者であることの年金・医療・介護などの『制度的な特典』は受けたいが、『自分自身が年寄りであること・人から年寄りと言われること』は認めたがらない傾向があるというが、年寄りでさえも年寄りであることの価値を認められなくなった『敬老・孝行の薄れた超高齢化社会の時代背景』も影響しているように思う。高齢者の人口比率が増えたり(昼の街は高齢者ばかりになり)、核家族化で家に高齢者がいない人が増えたり(子供時代もじいちゃん・ばあちゃんとの接点が薄い人が増えたり)したことで、『年寄りであるだけで尊敬されたり親切にされたり特別扱いされたりすること』がかつてほど期待しづらくなった。60~70代くらいならまだよぼよぼではなく元気な人も多く、強気・頑固で攻撃的な人も多いというのがあるが、気質性格や話し方、笑顔の良さなどの部分で『可愛がられて親切にしてもらいやすい高齢者か否か』という格差も大きくなっているのかもしれない。

老いに慣れることができなくなった現代人という視点は斬新で、『若さ・新しさ』ばかりに高い価値が置かれる現代では、『年寄り・古臭い』と思われることが時代や人間関係の第一線から追い払われてしまうことを意味する。そういった年を取っていくことがマイナス評価されやすい現代の風潮があればこそ(単純に40~50歳くらいでも労働市場では若い人より格段に採用されにくくなり社会や企業にあまり必要とされていないという実感を持たされる人も多い)、心身が相当に弱らない限りは、老いを認めたり慣れることが難しくなっている。

『老い』は心身が弱るとか以前ほど元気がでなくなるという点では『病気』に似ている部分もあると著者は語るが、老いと病気の最大にして決定的な違いは『老いは治らないということ(病気は致命的疾患や慢性疾患でなければ治る可能性も高いということ)』である。橋本さんが50代の時に自分の顔色が悪くなっていることに気づいて、『疲れているな』と思い、疲れを取るために『十分な睡眠時間』を取って眠った。しかしぐっすりと眠ってもまだ顔色が悪いままだった時に、『これは疲れじゃないよ、老いだよ』と老いは治ることがなく、いずれ死んでしまう有限な人間(生命)の苦になる宿命であればこそ、仏教の創始者である釈迦(仏陀)は『生老病死』の四苦の一つに上げているのである。体力気力が衰えたり、しわしわになって美観を失ったり、病気になりやすくなったりすることは、可能であれば避けたいことかもしれないが、避けられないからこそ人間にとっての根本的な苦の一つであり、どうにもならないからこそ人間は自分なりの人生観や価値観、子孫の存在などをもって『老いの意味・価値』を解釈して受け容れていくとも言える。

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最新の現代医学では『老化』をいつか克服すべき『病気』のように見なして、遺伝子治療をすることで老化を抑制したり寿命を延ばしたりしようとするような研究もあるが、そういった研究は人間の欲望の終わりのなさを象徴すると同時に、『何事も諦めきれなくなった現代人の苦悩(精神分析のフロイトは諦める術さえ知れば人生は生きやすいといった事を語ったとされるが)』の現れの一端でもあるように思う。

橋本治『いつまでも若いと思うなよ』の書評2:年を取る必要のない文化の幻想と年齢実感の薄れ

第二章『年を取ろう』では、作家という自営業者の橋本さんが『(大きな仕事を成し遂げるために自分の腕前を上げるためには)年を取らなきゃだめだ』という考え方をしながらやってきたことが語られる。反対に、公務員やサラリーマンのような一定の給与・身分が保障された被雇用労働者になると『年を取ったらだめだ』の考え方になりやすく、『組織の中で適応するために、人生観・本質論と関係するあまり面倒くさいことを考えない体質』になりやすいと語る。

橋本治『いつまでも若いと思うなよ』の書評1:『若さ・新しさ』を持てはやす現代の風潮と老い

孔子の『論語』にある『十五で学に志す・三十にして立つ・四十にして惑わず・五十にして天命を知る…』の年齢論を引用しながら、現代人の年齢感覚とのズレを指摘するのだが、『若いやつは悩むが、大人は悩まない』というのは『近代になっての勘違い(現代でも壁にぶつかった年齢で惑いが生じるのであり、若者でなくても迷い悩む)』だというのは面白い発想である。確かに、自分自身で何かを考えてしなければならない時には何歳であっても老人であっても悩み迷うことになるが、『決められたことだけをきちんとしておけば何とかなると割り切れる状況・時期・課題(橋本さんのいう被雇用労働者的な環境)』であれば、それほど迷わなくても良いのである。

現代は『老い』を嫌って『大人になりきれない大人』が増えた時代でもあり、日本のようにこれだけの高齢化社会になってもなお、人間の生き方やあり方を考える場合に原型になっているのは『大人・高齢者』ではなく『子供・若者』であるというのはシニカルな事態である。中高年も含んだ現代人の全体的な傾向としてやはり『若さ・新しさを好ましく思う心性・価値観』が根強くあるということなのかとも思うが、若くて気力・体力・分かりやすい魅力がある人が持てはやされるスノッブな風潮は(社会における若者の相対比率が減っているから更に煽られるのか)相当に強い。『自分=子供・若者』という漠然とした自意識を切り替えて、橋本さんのいう『自分=アク(加齢によってにじみ出てくるさまざまな味わい・夾雑物)』という考え方をしたほうが、一定の年齢からは生きやすくなるようにも思うが、アンチエイジングブームも終わりそうにはない。

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現代は本書でいう『年を取る必要のない文化・オタク文化の強化』としての側面が確かにあり、精神分析の分野でも小此木圭吾さんなどが『モラトリアム人間・自己愛人間』などの社会的決断をせず自己中心的な世界観を拡張するというコンセプトでこういった文化潮流を描写したりもしていた。加齢の影響が弱まっているアイドルや芸人などを例に出して、そういった人たちは社会的役割を果たして経済的に自立していても『大人になる必要のない文化のイコン(偶像)』であり、『自由の効く若者時代の延長』であるというのは納得させられる意見ではある。

今や一般人でさえも、そういったモラトリアム人間の類似型である『制約を受ける必要を感じない年期の入った若者』になりやすくなっているのだが、『他人の老い』には目ざとく厳しいが、『自分の老い』には鈍感で気づきにくく認めにくいというのは『本書のタイトル』にもつながるなかなかシビアな指摘である。しかし最終的な結論として出てくるのは、『年を取ること、老いていることを認めるという選択』しかなくなり、そっちを選んだほうが逆に楽で生きやすくなるということだろう。老いを認めず抵抗する事によって若々しさを維持できる期間は長くなってきてはいるが、人が老いと死を永遠に避けることはできない以上、どこかの時点で自分の老いを認めたほうが楽になれる年齢・実感の閾値があるということになってくる。

老いを実感させられる病気の体験談も面白い内容になっていますが、人間が年齢を重ねて自然に老いや死の近づきを受け容れていくことの難しさは、第十一章『「老い」に慣れる』にあるように『加齢による外形的な変化と自分の加齢の実感の間にズレがある』ということだと思います。本書では男女の別なく人は、実感として『若い→まだ若い→もうそんなに若くない→もう若くない→老人だ』という五段階変化をするとありますが、実際の人間の年齢実感は更に細かく段階が分かれている可能性もあり、端的に『気持ちだけは若い時期(他人から見れば若くはない時期)』がかなり長く続いてしまうあたりに色々な悩みや不満が出てくることになるのでしょう。

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人間は人生の前半で『若い自分を前提とする人格』を作り上げて、その後は預金を少しずつ切り崩すように『若さ』を手放していく、人間は人生全体の時間の進捗を『若さの残量』で図りやすいからこそ、本当の意味で『中高年になった自己イメージ』を確立しにくいというのは分かりやすい説明でもあります。そういった中高年になりきれない自己イメージを抱えながら、超高齢化社会で『老人の状態のままの老後の人生(老いから若さへの逆転のない時間の長さ)』が始まるようになったので、現代人の老いの実感・馴れはますます過去にあったような自然な適応・諦めに至りにくいという問題があるわけですが……『いつまでも若いと思うなよ』という言葉は、他人から厳しく現実の年齢の進行を直視しろと言われているような、自分自身への自戒の言葉であるような独特な響きを持っているものです。

元記事の執筆日:2017/08/30

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