医療社会学者アーロン・アントノフスキーの『健康生成資源』と運命論に陥りやすいトラウマ仮説、仕事・職場で極端に疲れきってしまう人の心理:場に適応できない疲労と緊張・嫌々ながらのストレス

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仕事・職場で極端に疲れきってしまう人の心理:場に適応できない疲労と緊張・嫌々ながらのストレス


「自意識過剰・自他の比較」によって人は悩みやすくなる1:理想自我・完全主義とのギャップ


「自意識過剰・ナルシシズム刺激」で人は調子に乗りやすくもなる2:SNSのイイネ文化と自己愛


ソーシャルスキルとは何か?:多様な定義と他者との相互作用に効果的に適応するプロセス


リーダーシップの心理学と上司・部下の上下関係(役割分担)の区別:1


リーダーシップの心理学と“厳しい上司・優しい上司”双方に共通するリーダーの能力:2


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医療社会学者アーロン・アントノフスキーの『健康生成資源』と運命論に陥りやすいトラウマ仮説

現代の精神医学では精神疾患の発症を『素因ストレスモデル』によって説明していますが、先天的な素因(遺伝・体質気質)に加わる環境条件のストレスによって、人の性格行動パターンは様々な形に変わりやすいところがあります。現代では有能なビジネスパーソンの過労死やパワハラ・セクハラの被害(ブラック企業による虐待・搾取)を典型として、『本人自身の人格・心理の問題』はなくても、環境条件のストレス(不適切・犯罪的な人間関係)によって、心身が疲弊して各種の精神疾患・不適応問題が起こるというケースは少なからずあると考えられます。

人間と社会生活・経済活動の環境や対人関係の相互作用、仕事(関係)で求められる能力がより複雑化してストレスも大きくなってくる中で、そのストレスからできるだけ離れて関わらないようにしようとすれば回避性パーソナリティー障害に近づきやすく、そのストレスとぎりぎりの精神状態で何とか向き合って、脳の報酬系を快楽行動で刺激してリフレッシュしようとすれば依存症に近づきやすくなるという問題が現代では広がっていると考えられます。精神疾患や不適応問題はその原因を、身体疾患(感染症)のような単一の原因(特定可能な原因)に還元できない難しさがあり、『同じようなストレス(苦痛な出来事・優劣の意識を刺激される競争・承認されない孤独な状況)』に晒されても、そのストレスがプラスに影響して発奮する人もいれば、マイナスに影響して立ち直れなくなる人もいます。

強くて持続的なストレスが、その人に対してどのような影響を及ぼして、どんな性格行動パターンを形成するかは非常に多様なのです。また人間は完全にストレスのない環境(何も刺激がなくて何もしなくても良い環境)でも生きることができないので、『各人にとっての最適なストレス(外的刺激)のレベル』を見極めて、心身の健康が維持できる程度の頑張りで適応できる環境を見つけていく必要があるのです。アドラー心理学や解決志向のブリーフセラピーでは、精神疾患の原因や精神的な傷つき(トラウマ)の原点を突き詰めていく『原因論』ではなくて、今ある症状や苦悩をどうすれば和らげていけるのかの『目的論』を優先すべきであると考えますが、それは発症のメカニズムや根本的な原因を知るだけでは実際の症状緩和に結びつかないことが多いからです。

『心理的問題の緩和・解決』のためには、確かに理屈による原因の納得以上に、今の自分にできる考え方や行動の中で、より適応的(マシ)なものを探すほうが効果はあると言えるのです。PTSDの精神医学的な理論やトラウマセラピーの治療方略が有効なケースもあるので、トラウマ理論に基づく原因論のすべてが無効なわけではないのですが、『広義のトラウマへのとらわれ』によって今ある症状や不適応の水準が軽くなっても、『今ここからの自分の人生』に前向きに向き合えなくなる問題(デメリット)がでてくることもあるということは、頭に置いておいた方が良いかもしれません。

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PTSDやアダルトチルドレンなどの過去のトラウマ体験が根本原因になって生じる各種の症状・問題・不適応に対処することは、控えめにいっても簡単なことではありません。しかし『トラウマの原因論=過去にトラウマ体験をしたから現状が悪いのは当たり前という人生の脚本が固定された運命論』のように解釈することは自己変革を否定する悪影響の方が大きく、『今の自分の悪い側面・何もかも全てがダメという決めつけ』だけではなく、『今の自分の良い側面・行動や意識において改善できそうなポイント』に注意を向けることが心理状態の回復にもつながってきやすいのです。

トラウマ論は、ジークムント・フロイトの『幼児期トラウマ理論』やクラウディア・ブラックの『アダルトチルドレン論』を典型的なものとして、『幼少期のトラウマを原点とする精神疾患・不適応の決定論』の色彩をどうしてもまといやすい傾向があります。実践的な解決よりも精神疾患の原因の探求にどうしても力点を置いてしまいやすいのです。ナチスドイツの強制収容所体験をした女性のメンタルヘルスを調査研究した医療社会学者アーロン・アントノフスキー(Aaron Antonovsky, 1923-1994)『健康生成論(強制収容所レベルの過酷体験でも精神の健康を維持できる力が人にはある)』のようなポジティブなアプローチもありました。

医療社会学者アーロン・アントノフスキーは、ナチスの強制収容所から生還した中年女性たちの中で約30%の女性が精神の健康を維持していたことを調べ、いつ殺されるか分からない過酷環境のストレスを受けても精神の健康を維持できた女性たちには以下の3つの特徴が見られたとしています。

1.有意味感

どんなに過酷で無意味と思われる環境に置かれても、『自分にとっての主観的な意味』を何とか探し出して実感することのできる感覚と能力。強制収容所の生死の危険のある環境でも、労働の後の休養や仲間との些細な談笑、わずかな娯楽の楽しみなどに有意味感を感じ取って、完全な絶望や何もかも諦める自暴自棄には陥らなかった。

2.全体把握感

現在の局所的な恐怖感・絶望感にとらわれずに、『物事の全体像を把握する視野の広さ』や『状況の変化に対する大局的な視点』を持っていたので、『今がきつくて絶望的でもこの先に希望を抱けるチャンスが必ず来る』と信じられたこと。自分の置かれている状況や関係性の『今・ここの時点における絶望や苦しみ』がすべてではないと知っていて、『今・ここから全体的な状況や物事が良い方向に変わっていくという可能性』を信じて、そのために行動できる感覚と能力を持っていた。

3.経験的な対処能力の確信

強制収容所の過酷な労働体験や理不尽な指示・命令に対して、『自分なら過去の経験に照らして何とか対応できるだろう』という楽観的な見通しや対処能力の確信を持てたということ。今までにない新しい課題や状況を強制されても、自分の経験的な対処能力の確信を持っているので、『自分はもうダメだ・これですべてがおしまいだ』という悲観的な認知を持つことなく投げやりにならずに、目の前の課題をこなして、いつか必ず来るチャンスを落ち着いて待つことができた。

アーロン・アントノフスキーは、生物全般には有害なストレスに対抗して自分の心身の健康と正常性を維持していける『健康生成資源』が備わっているという仮説を提唱して、あらゆるストレスに対抗可能な『一般抵抗資源』の定義として『環境変化の全体的な予測能力+自分の経験的な対処能力の確信』を上げています。

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仕事・職場で極端に疲れきってしまう人の心理:場に適応できない疲労と緊張・嫌々ながらのストレス

意欲(やる気)やモチベーション(動機づけ)、疲労感は、『状況(場)への適応感』『精神的ストレスの強度』と関係している。ブラック企業の長時間労働や過労自殺が問題になることは多いが、極端な連日の長時間労働やストレスの強い人間関係(暴言や罵声・監視的状況・ノルマ強制など)がなければ、多くの人は『仕事の時間の長さだけ』によって耐えられない疲労感・絶望感に陥るわけではない。もっとも人間が疲労して苦痛を味わうのは、『この場所(職場)にいたくない・この仕事をやりたくない』といった状況(場)への不適応感が強くて、時計とにらめっこしながら『できるだけ早く仕事時間が終わって欲しい』と嫌々ながら不満を持ちながら仕事をしている時である。仕事や職場を『学校・会合・部活』などに置き換えてみても、適応感と疲労感についての同じような相関関係が成り立つだろう。

仕事や職場(人間関係)に対するネガティブな認知が強くて、できるだけ早く仕事を終えて帰りたいと思っているような人(嫌々ながらその場にいる人)は、通常の就業時間だけでもそんなにハードな仕事内容でなくてもすぐに疲労困憊して体調を崩してしまいがちである。更に職場の人間関係の悩みや暴言、非難などがあって、『精神的ストレスの強度』が強ければ、仕事の意欲やモチベーションが落ちて疲労感も耐えがたいほどにつらいものになってしまう。逆に、仕事や職場(人間関係)に対するポジティブな認知が強い人で、『状況(場)への適応感』が高ければ、仕事の意欲やモチベーションは自然に上がって長時間働いても疲労感はほとんどないということになる。前向きな気持ちで職場の人間関係に適応して、やりたい仕事に熱中・集中して取り組んでいるような人であれば、『長時間労働・仕事の難易度・失敗の体験や責任の重さ』だけによって限界を超えて疲れきってしまうこと(やる気を完全に無くしてしまうこと)は滅多にない。

職場の人間関係やコミュニケーションが自分に合っていて居心地が良いかどうか(暴言暴力・各種ハラスメントなどで極端に強いストレスを与えてくる上司・同僚がいないか)も『やる気・モチベーション・疲労感』に大きな影響を与える。受忍限度を超えていたり違法行為に当たるような暴力的・性犯罪的なハラスメントは別問題だが、多少自分と性格や価値観が合わないとか話し方や態度が不快だとかいうレベルであれば、自分のほうから相手の主張・話題・要求にまず合わせてみて『相手との適応的な関係性・やり取りの仕方』を工夫してみることも大切だろう。仕事は思うに任せないことやストレスになることも多いが、『その場にいたいと思えるようになる・仕事内容を前向きに受け止められるようにする・仕事からの学びややり甲斐、上達、面白さに敢えて焦点を合わせてみる』ことが、疲労感や絶望感を和らげてやる気(意欲)を高めるオーソドックスな方法であることは今も昔も変わらないだろう。確かに、実際にやらなければいけない仕事や作業には『興味の湧きにくいもの・退屈で面白くないこと・つらくて大変なもの』も多くある。

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だが、どうせやらなければいけないことであるならば(いずれにせよ避けられない逃げられないならば)、少なくとも仕事をしている最中には『できるだけ早く職場から帰りたい・仕事の人間関係が嫌でたまらない・仕事内容がくだらなくて意味がない』といったネガティブな認知を持たないようにして、『仕事・作業・人間関係の良い部分(自分なりのやり甲斐・面白さ・人間関係の楽しみを感じられるポイント)』に意識(注意)の焦点、前向きな発言・行動を合わせたほうが主観的な疲労感・つらさはかなり軽減されるはずである。人間の仕事や各種の人間関係におけるストレスの強さ、疲れやすさ、苦痛の強さは、『些細なことを気にする神経過敏な性格傾向・精神的萎縮のある傷つきやすい人格構造・ネガティブな結果を悲観的認知で予測する不安感』とも深く関係している。

そういった広義の傷つきやすさや不安感(恐怖感)は、幼少期からの生育環境・親子関係で培われてしまった『自己評価・自信・他者信頼・安らぎの欠如』によって生み出されることも多いが、親から子供時代に愛情や保護を受けられずに(子供らしく親に甘えて頼ることができずに)自己犠牲を払ってきたアダルトチルドレンの性格構造にも、精神的に萎縮し神経過敏に反応して強いストレスを抱え込んでしまう傾向が出やすいとされている。アダルトチルドレンとも相関する部分のある神経過敏によるストレスの強さ、精神的萎縮による疲れやすさ・不安の強さについても、また考えてみたいと思います。

「自意識過剰・自他の比較」によって人は悩みやすくなる1:理想自我・完全主義とのギャップ

森田正馬の森田療法では、「自分の感覚・意識へのとらわれ(自意識過剰)」を改善することに重点を置いて、「神経症(森田神経質)」を治療しようとしました。思春期・青年期以降に「自分が対人的・社会的にどのような人間であるのか」「自分は他人と比較して優れているのか劣っているのか」といった自意識・自我が強まってくるのですが、自意識・自我が強い人ほど心理的に悩みやすい傾向があります。自意識過剰や自我への執着は、精神分析的療法で苦悩の原因とされる「理想自我と現実自我の乖離(ギャップ)」を誘発しやすいことも、心理的に悩みやすい原因の一つになっています。

身分制度が廃止されて人権が尊重されるようになった近現代人は特に、「建前の平等と現実の差異のギャップ」に悩みやすくなり、自意識過剰や自我への執着、知的な判断能力によって「自己嫌悪・自己批判・不安感・抑うつ感」に苦しむ人も増えました。自我が強くなる思春期の若者は、自己評価・情緒が不安定になってナーバスになったり刺激に過敏(防衛的)になったりします。自意識過剰な若者だけに限らず、人間は「自分がどう見られているかを含め、自分のことばかりを考える(自分と他者の客観的特徴・能力・状況ばかりに意識を向けて比べる)」ようになると、余計に精神状態は不安定かつ繊細・過敏になりやすくなるのです。

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精神的に健康で悩みの少ない人は、「自意識・自我が適度なレベル」に自然に調整されていることが多く、意識が「行動・活動(今からやるべきこと)」「他者・環境(適応したり気遣ったりする対象)」に向きやすくなっています。もちろん、誰でも自分自身の客観的状態に対する「自意識」や他者・理想と比較する「自我」はあるのですが、精神的な健康を保つためには「外向的な意識(自分の外にあるものに向かう意識)」「内向的な意識(自分の内面・自己像に向かう意識)」のバランスが自然に取れている必要があるのです。人間が自意識過剰(自我の強さ)で悩みやすいもう一つの理由として、「完全主義欲求」があります。かつては精神的に問題が起こるような「完全主義の欲求・思考」を持つ人はかなりのマイノリティー(少数派)と考えられていましたが、現在ではうつ病の認知療法の研究などを通して、人間は誰でもある程度は「完全主義の欲求・思考」を持つことが分かってきています。

心理テスト(心理測定尺度)で、「自分は仕事・勉強を完全にこなそうとするタイプである」や「細かい部分にとらわれてしまったり丁寧にやり過ぎたりして、時間がかかって最後まで仕上げられないことがある」「いい加減な仕事・作業を許すことができない」などの項目があると、過半の人は「とても良く当てはまる」までいかなくても「ある程度は当てはまる」の項目を選択しやすいのです。完全主義欲求の存在は、人間の内面には多かれ少なかれ自分は完璧な存在でありたいとか人から常に認められたり好かれたりしたいとかいう「理想自我」があることを示唆しています。

客観的に見て、どんなにダメダメな人でも能力・魅力が高くない人でも、内面心理には一定以上の「完全主義欲求・理想自我(かくありたい理想の自分)」があるのです。自意識ばかりが過剰になると「完全・理想・望ましい他人との比較とギャップ」によって、人は落ち込んだり無気力になったりしやすい傾向があります。そして、人生・仕事・人間関係が上手くいっていない時ほど、人は逆に自意識過剰(自己防衛的)になりやすいので、メンタルヘルスの維持管理やセルフコントロールはなかなか難しいのです。理想自我と現実自我のギャップがあまりに大きくなると、人は現実の自分を納得できるレベルにまで高めることを諦めて、「現実逃避(妄想・否認・自己否定・他者や社会の否定・ひきこもり)」に至りやすいのです。

自意識過剰が極端になる「自己愛性パーソナリティー障害」においても、自己愛は自分一人で都合の良い妄想に浸っている時(他者が自意識に合わせてくれてちやほやしてくれる時)に肥大しやすいのですが、自分が他者と比べて劣っているとか大したことがないという「客観的な状況・ネガティブな情報」に接すると、途端に機嫌が悪くなったりその現実自体を無視しようとします。

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「自意識過剰・ナルシシズム刺激」で人は調子に乗りやすくもなる2:SNSのイイネ文化と自己愛

自意識過剰とも連動している人間の「自己愛」は、非常に増長しやすい(調子に乗りやすい)のですが同時に非常に萎縮しやすい(傷つけられやすい)という特徴も持っています。客観的な能力や対人魅力がある程度高く、いつもハイテンションでとても自信家に見えた人が、一つか二つの大きな失敗・挫折を契機にして、急に言葉数が少なくなったり非社交的になって他人と関わろうとしなくなったりすることもあります。中学生時代におちゃらけて明るかった人(能力があるように見えた人)が、大学生や社会人になって見かけてみると覇気のない暗い性格や何となく陰気な雰囲気になっていることもあれば、その逆で昔のその人が嘘のように明るくなっていて自信満々に見えることもあるでしょう。

こういった一人の人間の急激な変化は、「自己愛のアンビバレンツ(調子に乗りやすいが傷つきやすい両義性)」を考えれば理解できないことでもなく、人は今の自分の人生や評価が「自分の内面に抱えている理想自我・完全主義と比較してどのくらいのレベルにあるか」によって、「自己愛・自信(自己評価)」が簡単に肥大したり萎縮したりしてしまいやすいのです。他者・異性から認められたりちやほやされると、人の自己愛・自信が簡単に上昇することを示した心理学実験として「ウィックランドの自己評価に関する実験」があります。男子大学生を対象とした実験で、自分の容姿は見せずに「自分の声を録音したテープ」を女子大学生に聞かせて、その声の印象・魅力を元に「その人と一緒に実験をしたいと思いますか」という質問に答えてもらいます。

その時に、わざと「声の印象がとても良いのでまた一緒に実験をしたいという回答」と「声の印象があまり良くないので次の実験は違う人としたいという回答」を男子学生に与えます。その後に、「自分の声が録音されたテープ」と「他人の声が録音されたテープ」を準備して、男子学生にどちらでも好きな方のテープを聞いて科学的・客観的な音声分析(声の調子・イントネーション・リズムなど)をするように指示を出しました。すると、「声の印象がとても良いのでまた一緒に実験をしたいという回答」を女子大学生にもらった男子大学生は、自分の声が録音されたテープばかりを自己愛的に聞いて音声分析の課題をこなしました。一方、「声の印象があまり良くないので次の実験は違う人としたいという回答」をもらった男子学生は、自分の声が録音されたテープをもう聞きたくないという気持ちが強まり、他人の声が録音されたテープばかりを聞いたのです。こういった自分に関する「客観的な知覚情報(自分の写真・音声・映像など)」を好むか好まないかは、「自己愛・自信の強さ」と密接に関わっているとされます。自分が嫌いであればあるほど、写真も映像も残したくないし見たくもなくなり、自分の客観的な声などに対する嫌悪感も強まりやすいのです。

そして、人はどうやら客観的な魅力だけではなく、他人や異性に「外見・声・髪型・ファッションなどがいいね(魅力的だね)と評価されるほど自己愛が強まる傾向」にあるのは確かなようです。今年の流行語の一つに「インスタ映え」という言葉がありましたが、インスタグラムで自分の色々なポーズの写真や仲間と一緒に盛り上がっている写真をアップする人も、概ね「自己愛・自信・自己肯定感が高めな人たち」でしょう。自分で「自分の客観的な姿・写真」を頻繁に眺めることが好きな人、自分で自分を見ると癒されるナルシスティックな感覚がある人は、精神的な落ち込みや苦悩が減りやすいとも言われるので悪いことでもないのですが、その自己肯定や承認欲求の心理が「イイネの数」によって補強される現代的なネットの構造も影響しています。

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FacebookやインスタグラムのようなSNSが現代で流行している要因の一つが、「自己愛・承認欲求の拡大(人から自分・家族の姿や人生の展開についてイイネで肯定してもらいたい)」にあることは明らかです。しかしそういった自己愛(ナルシシズム)や承認欲求は一概に否定的に見られるものでもなく、昔から一貫して「人から認められること・人に好かれること・異性から自分を評価されること・自分自身を好きになれること」などは、人の心が元気になって自分に自信を持てるようになるエネルギー源なのです。「褒めて育てる育児方法」と「批判して育てる育児方法」のどちらが良いかの対立では、現代は「褒めて育てる育児方法」が圧倒的に支持されていますが、それは人間一般の基本的心理として「褒められることによる自信・自己評価の上昇の効果」が大きく気分も良くなるからでしょう。

ただ「褒めて育てる育児方法」や「人から褒められる認められることによる心の健康維持」の問題点は、客観的な能力・魅力の競争もある年代になってくると、誰もが何もしなくても「みんなに褒められたり認められたり(異性にちやほやされたり)する状態」を保つことは一般に簡単なことではないということがあります。大きなお金や安定した年金給付があれば精神の不調が良くなるという昔の精神分析で論じられた「年金神経症」と同じようなもので、常にみんなから褒められたり好みの異性からチヤホヤされたりすれば精神的な健康状態が良くなるというのは一面の真理かもしれません。

あるいは、多くの人から否定されたり無視されたりし続けたことやあまりにも自分の思い通りにならない状況が続いたことで、精神状態が悪化していって病気になってしまう人がいるのも現実の症例としては少なからずあります。しかし、(その人の心の健康のためならとみんなが常に全力で肯定して奉仕してくれること自体が)非現実的な想定なので意味がないのです。同じ自意識過剰にも、他人よりも自分は劣っているとか恵まれていないとかいった「劣等感・自己嫌悪に覆われた自意識過剰」もあれば、他人・異性から認められている私は捨てたもんじゃない、なかなかの実力・魅力があると思いながら自己像を見つめる「優越感・ナルシシズムが肥大した自意識過剰」もあります。

メンタルヘルスを維持して自分に対する自信(自己肯定感)を高められる「適度な自意識のレベル」が求められてきます。しかし、覚めた気分で「客観的な自分」を見つめすぎても自分が嫌になりやすく、人におだてられたハイテンションで「調子に乗った自分」に酔っていても失敗しやすいというのが、人間の自己愛のセルフコントロールの難しい部分だと思います。

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ソーシャルスキルとは何か?:多様な定義と他者との相互作用に効果的に適応するプロセス

社会心理学・臨床心理学では、他者とのコミュニケーションや人間関係を「対人的な相互作用のパターン」と前提して、トレーニング(練習・訓練)によって「コミュニケーション能力・人間関係の能力」を高められると考えています。対人的な相互作用や個人と集団との相互作用、他者とのコミュニケーション全般に関する学習的な能力のことを「ソーシャルスキル(社会的スキル)」と呼んでいます。最近は、広汎性発達障害(自閉症スペクトラム)の療育の文脈などで“social skills(ソーシャルスキル)”に言及されることが多いのですが、“social skills”の訳語には「社会的技能・社会技能・対人技能・生活技能」などさまざまなものがあります。しかし近年は、そのまま「ソーシャルスキル」と記述したり「社会的スキル」と記述したりすることが多いようです。ソーシャルスキルを練習・訓練する技法として、「SST(Social Skills Training)」がよく知られています。

日本に出版された事典・辞典として初めて“social skill”について記載したのは、「心理学事典(平凡社,1957年)」とされますが、その段階では「社会的技能・社会技能」と翻訳されていました。ソーシャルスキルとは、他者とのコミュニケーションや集団生活との相互作用に適応するための学習的(後天的)に身につけた技能のことです。ソーシャルスキルは「他者に対する話し方・行動の仕方・態度にまつわる技能」や「集団生活の状況における適切な反応・役割・振る舞い方に関する技能」のことを指示しているのです。入院患者などを対象とする精神医学領域では、ソーシャルスキルは「生活技能」、ソーシャルスキル・トレーニング(SST)は「生活技能訓練」と翻訳されることも多いのですが、それは重症精神病患者のケースでは他者とのコミュニケーションの問題もありますが、それ以上に「社会的な日常生活の遂行に必要な生活技能(身だしなみを整える・あいさつをする・公共交通機関を使うなど)」のほうに重点があるからです。

社会的技能と生活技能の違いも含めて、ソーシャルスキルを一義的に定義することは難しいのですが、ソーシャルスキルを大きく分ければ「行動的側面を強調した定義」と「能力的側面を強調した定義」に分けることができます。

「行動的側面を強調した定義」には以下のようなものがあります。

○相互作用する人の目標を実現するのに効果がある社会的行動(アーガイル、1981年)

○社会的行動に随伴する強化の可能性を最大にして、罰の可能性を減少させる行動(グレシャム、1981年)

○個人間で行われる効果的な対人コミュニケーションにとって基本であるような行動(マクガイアとプリーストリー、1981年)

○対人的相互作用の間に観察され、社会的役割や関係性を立派にこなす能力によって特徴づけられる行動(シェパード、1983年)

○望ましい社会的成果を導く特定の肯定的対人行動(ヤングとウェスト、1984年)

○重要な社会的成果を、一定の状況の中で予言する行動(グレシャムとエリオット、1987年)

「能力的側面を強調した定義」には以下のようなものがあります。

○他者によって正または負の強化を受ける行動を発現させ、罰せられたり圧倒されたりするような行動を抑える複雑な能力(リベットとレウィンソン、1973年)

○社会的に受容され評価されると共に、個人にとって、あるいはお互いにとって利益となるような特定のやり方で、一定の社会的文脈の中で他者と相互作用を行う能力(コムとスレービー、1977年)

○特定の社会的課題を有能に遂行することを可能にする特定の能力(マクフォール、1982年)

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このようにソーシャルスキルを一つの定義として包括的に整理することは困難ですが、経験的・直感的にはソーシャルスキルが何なのかについて概ね共通のイメージがあることも明らかなのです。ソーシャルスキルとは他者とのコミュニケーションや集団活動における振る舞い方・態度によって、自分の目標あるいは社会的な目標(他者との共通の目標)を達成する技能のことです。ソーシャルスキルとは、対人的な相互作用のプロセスの中で用いる効果的な行動・発言・態度のことであり、集団活動(社会生活)に対する適応プロセスの中で用いる効果的・規則的な行動や発言のことなのです。ソーシャルスキルは個人的あるいは社会的な仲間関係を構築したり維持したりすること(他者からの愛情・承認を得るためのプロセス)とも関係しているので、個人のメンタルヘルス(心の健康)を大きく左右する一要因にもなっています。

ソーシャルスキルとは、対人コミュニケーションや社会的行動を実行するプロセスのことでもあり、対人場面においては相手の感情・意図を適切に推測する能力である「心の理論」とも深い関わりがあるのです。

リーダーシップの心理学と上司・部下の上下関係(役割分担)の区別:1

リーダーシップの心理学では、“P(Performance,目標達成能力)”“M(Maintenance=集団維持能力)”の強弱を組み合わせて考える三隅二不二(みすみ・じゅうじ,1924~2002)『PM理論(P-M leadership theory)』がよく知られている。PM理論はリーダーの能力や資質を『指示・指導による目標達成(実際の成果)』と『人間関係の調整による集団統制(まとめる人望)』の二面のバランスから考えているものであるが、部下(人間)を仕事に動機づけていく場合に難しいことの一つが『報酬の与え方』である。

人間の動機づけ(モチベーション)は大きく、金銭・物品・評価上昇などの外的な報酬を貰えることによってやる気を出す『外発的動機づけ』と、仕事・課題の内容(内容の魅力・顧客の感謝・技術の向上)そのものに興味をもって自発的にやりたいと思う『内発的動機づけ』に分けられる。仕事には給料(報酬)を貰うためや職業的地位を高めるためにするという『外発的動機づけ』も大きく関係しているが、部下(他者)を働かせようとするリーダーシップやコミュニケーションでは『金銭・物品の報酬』に頼りすぎると、返って部下(他者)のやる気が低下したり職場の士気を保てなくなったりする。

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行動経済学の心理実験では、仕事内容にほとんど面白みの少ない『同一の単純作業』をさせる場合には、金銭の報酬を大きくするほど『単純作業自体のやりがい(面白さ)の評価』が下がりやすくなることが知られていて、その理由は『原因帰属理論』で説明されることが多い。報酬が少ない時のほうが単純作業のやりがいや意味づけ(共同作業の楽しみ)をどうにかして探そうとする心理が働きやすく、報酬が増やされると単純作業そのものには意識が向かなくなり、報酬の高低だけを評価する心理になりやすい。給料(報酬)が高いほうが外発的な動機づけ(モチベーション)が高まるというのは一般論として正しいのだが、経営者・上司として部下(他者)を働かせるような場合には『中途半端(一時的)な報酬の引き上げ』は逆に部下(他者)のやる気を低下させたり、(特に報酬を元に戻して下げた場合に)不満を大きくしたりするリスクもあるということである。

自分が『相手のためを思って良かれと思ってした対応(報酬の一時的な引き上げ・下手にでる謙虚な振る舞い)』が、相手のモチベーションや心理状態を悪い方向に変えてしまうことは少なからずある。リーダーシップや対人関係の心理学の事例では『報酬の与え方・役割関係の区分・上下関係の区別』などを相手のためを思って調整することで、相手が『そのくらいの報酬は貰えて当たり前・相手は上司であるが自分と対等な立場である(甘くて気が弱いので自分に強い指導的な態度は取れないはず)』といった傲慢な考え(相手を下に見る意識)を持ちやすくなって、かえって悪い結果を導いてしまう問題が起こりやすい。

リーダーとなる人にもさまざまなタイプ(性格傾向)の人がいて、部下のモチベーションを高めたり集団の連帯感・協力意識を高めたりするために用いる指導・支援・相談・ケアの方法も変わってくる。リーダーである自分を『素晴らしい人格者・尊敬されるべき優れた人物・完璧にセルフコントロールできる寛容な人物』と実際以上のものに見せかけたい(そのように見られて慕われたい)という承認欲求が強くなりすぎると、上記した『報酬の与え方・役割関係の区分・上下関係の区別』の間違ったやり方に陥りやすくなって自分も相手も疲弊させてしまう。自分はストレスと過労で燃え尽きやすくなり、良かれ(好かれたい)と思ってへりくだってあれこれ報酬・賞賛を与えたりもした部下が自分を舐めて従わなくなるといった悲劇にもなりやすい。

つまり『部下の人間性・モチベーション』を悪い方向に変えてしまう『過剰な気遣いやバラマキ型の報酬・過度のへりくだりや持ち上げ』をしてしまうということである。

リーダーシップの心理学と“厳しい上司・優しい上司”双方に共通するリーダーの能力:2

何でもかんでも部下と同じ目線・立場に立って考え、自分も一緒になって部下と同じ雑務的な仕事で汗を流すといったリーダー(上司)は、一見すると優れた謙虚な人格者なのだが、上下関係(お互いの役割)の区別を混乱させて組織全体の成果を出しにくくするリーダーになってしまうリスクもあるのである。こういった優しさや人格性を勘違いした『嫌われないためのリーダーシップ』は、上司にとっても部下にとっても居心地の悪い人間関係の結末に終わることが多い。それは部下に好かれようと思って過剰な気配り・バラマキ・賞賛をする上司は、初めは確かに『優しくて良い上司』として好かれるかもしれないが、『仕事の目的達成のための上下関係(お互いの役割分担)』が混乱するほどに甘すぎる対応やご機嫌取りのような追従をしていると、本気で注意・指導すべき場面でも部下が上司の言うことを聞かなくなりやすいからである。

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こうなると、上司は部下に対して『これだけ色々と目をかけて良くしてあげたのに、何だあいつの態度は』という不満が強まりやすくなり、部下は部下で上司に対して『今まで優しい上司で良かったのに、急に偉そうに指示・説教をしてきて気に入らない』という的外れな怒りを溜めやすくなってしまう。しかしこういったお互いの気配り・思惑がすれ違って組織の目的達成が困難になる上司と部下の好ましくない人間関係では、上司がはじめから『部下との適切な上下関係の距離感・仕事の役割分担とラフな雑談のケジメ』をしっかりつけていなかったことが災いしてしまうことが少なくない。厳しいリーダーにも優しいリーダーにもそれぞれ一長一短があるが、一般論としてリーダー・上司は『敢えて嫌われる覚悟もないと勤まらない・厳しく指導すべき場面では演技的であっても厳しい言動をしなければならない』とも言われるように、『部下に好かれて尊敬されること(部下から嫌われないこと)』が最優先事項になってしまうようなリーダー(上司)は『部下の目的意識とモチベーションを高めて適材適所で活用して成果を出す』というリーダー(上司)に求められる役割を果たすことがなかなかできないのである。

厳しいリーダーといってもパワハラやセクハラまがいのことをして、部下(他者)の人権や尊厳を踏みにじるような傲慢不遜な態度でふんぞり返っている上司のことでは当然ない。その厳しさは『集団組織の目標達成+役割分担による成果実現』『部下の指導教育・成長支援・得意分野の見極め・心理ケア』のために向けられたものである。ここでいうリーダーシップの長所ともなる厳しさは、三隅二不二のPM理論でいう“P(Performance,目標達成能力)”につながるものである。

『P(目標達成能力)』となる厳しいリーダーの態度とは、部下を傷つけたり押さえつけたりする攻撃性・暴力性ではなく、目標達成と機能的な組織維持のために『上下関係(お互いの役割分担)のケジメ』をつけることであり、自分の指示・指導・評価に迷いのない説得力や安心感を持たせる効果もある。『M(集団維持能力)』となる優しいリーダーの態度も大切であるが、その優しさ・メンタルケアは『部下の心理状態の安定化・モチベーションの強化・集団組織の協力意識』のために発揮されるべきものであって、優しいリーダーとして自分が嫌われないため好かれるためのもの(過度にへりくだる部下のご機嫌取りのような言動)ではないことに注意が必要だろう。

PM理論の“P”と“M”の強弱の組み合わせ、あるいは厳しいリーダーシップと優しいリーダーシップのバランスが大切という話になるが、パワハラではない『適度な上下関係(お互いの役割分担)の区別』を自覚させて組織内で成果を出そうとするやる気を引き出すような関わり方、『部下ひとりひとりの人間性・適性(得意不得意)・ストレス状態』をしっかり観察して対処してあげるようなマネージメント感覚がリーダー(上司)となるべき人物には求められている。リーダー(上司・経営者)に求められる最大の資質とは何かと考えると、『自分自身の仕事の有能さ・人格の良さ・今までの成果をアピールすること』ではなく、『部下(他者)を丁寧に観察してその性格・能力・適性・ストレス(心身の健康状態)を適切に見抜き適材適所で活用できること』である。

部下(他者)をまとめて効果的に使うことのできる『優れたリーダー』になることの難しさは、自分個人がプレイヤーとして優秀な成果を出し続けてきた人のほうが難しくなるという側面もある。自分自身が個人レベルで非常に優秀な人材・学生であった場合、『自分にとって当たり前の仕事・見識・学力の最低水準』が高くなりすぎたり、『自分にとって当たり前(簡単)なことができない人の心理状態や能力の特性』が分からなくなりやすいからである。

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22歳の女優・清水富美加さんの芸能界引退と幸福の科学での出家:悩める現代人の世俗と宗教の引き合い

理由や事情は様々だが、成宮寛貴、江角マキコと一定の知名度(人気)がある芸能人の突然の引退のニュースが続いている。芸能人が復帰の可能性を残さずに、仕事を完全に辞めてしまう理由やケースは大きく分けると、以下の4つになるのではないかと思う。

1.芸能人としての仕事の需要と最低限の収入が得られなくなったので辞めるしかなくなる。

2.10~20代の若い芸能人(アイドル)が将来のことを考えて安定した手堅いサラリーマン(アナウンサーなども含む)を目指す方向や頼れる相手と結婚する方向にシフトする。サイドビジネスや自己ブランドの立ち上げが成功して、実業家・経営者に転職する。

3.公人としての責任が問われたり私生活が暴露されたりする芸能人の地位に留まることに、何らかのリスク(犯罪・不倫・非常識行為などの自分のプライベートに対する詳しい取材をされたくない事情)が出たために辞めて逃れる。

4.長時間労働・過労や精神的ストレス、難病・致命的疾患の発症によって心身に容易に(短期・中期に)回復しないほどのダメージを受けて、それ以上芸能人を継続することが困難だと判断して辞める。

女優の清水富美加さん(22)『幸福の科学への入信・出家(脱俗)』を理由とする突然の芸能界引退はいずれの理由にも当てはまらないようにも感じるが、『4の心身の不調と疲弊・健康の乱れ(メンタルヘルスの悪化)』と関係した新興宗教への傾倒なのだろう。清水富美加さんと幸福の科学との初期の接点がいつあったのか(子供の頃から幸福の科学の法話拝聴会に参加していて大川隆法氏やその教えを知っている期間は長いとする記事もあった)、家族が元々信者だったり大川隆法氏の霊言などの著作を読んでいたのかなど分からない部分は多い。だが精神的にギリギリまで追い詰められた時に助けになってくれたのが所属事務所ではなく幸福の科学の人たち(あるいはその教義・世界観)だったことから、『世俗を捨てる出家』を選んだようである。

清水さんは女優業を8年間続けてきたが、映画の人肉を食べる残酷な描写の役や水着を着て撮影されるグラビアの仕事など『自分の思想信条・倫理観・価値観にそぐわない嫌な仕事』を事務所から半ば義務としてやらされてきたことも、芸能界を引退する原因の一つになったという。休日の少ない長時間労働(長時間拘束)や給与額などの契約内容に対する不満があり、苛酷なハードワーク(嫌悪感・拒絶感のある仕事の半強要)によって心身の調子を大きく崩してしまったとも報じられており、出家を決める以前から『事務所との間のトラブル(雇用契約・拘束時間・仕事内容・健康状態に関連するトラブル)』は抱えていたのだろう。

意に沿わない嫌な仕事を無理してやらされたような被害感もあり実際に体調を大きく壊してしまった清水富美加さんの主観では、事務所にブラック企業の要素があるように感じられたのかもしれない。仮に所属事務所が、健康を壊すようなハードワークを強いてくるとか、仕事内容に対して契約にある報酬が少なすぎるとか、グロテスクで残酷な演技や性的目線で男性から見られる水着姿(露出の多い)のグラビア撮影をさせられるとかいったブラック企業的な要素があるとしても、通常は事務所のマネージャー・幹部や弁護士などに相談して労働条件や仕事内容の改善を求めていくものだろうが、どうして幸福の科学という新興宗教への決定的な入信に至ったのだろうか。

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端的には、子供時代から『幸福の科学』の教義・価値や大川隆法氏の語る宗教的な世界観・人間や霊魂のあり方との接点があって、そこにかねてから一定以上の魅力や理想、正しさを感じていたという伏線があったからだと思うが、清水富美加さん本人がそういった信仰心の履歴も踏まえて、現代の平均的な芸能志望の22歳からすれば極めてピュアな感受性(俗世の娯楽や大人の欲望を汚らわしいとか残酷・不純だとかでどうしても受け入れられない心理的な潔癖さ・真面目さ)を持っていたことがあるのではないかと思う。

世俗を捨てるとか出家するとかいう発想・言葉そのものが、一般的な22歳の若者の女性の口からは普通はまず出てこないものだが、子供時代からの幸福の科学の教義や法話との接点もあったことから、人並み以上に『俗世の生々しい欲望や娯楽のあり方に対する潔癖な嫌悪感・拒絶感』のようなものが(そういった性・金銭・残酷描写の欲を享楽的・娯楽的に楽しむのは良いことではないのだと)深層心理に刷り込まれていた可能性もあるのだろう。Wikipediaによると教祖・大川隆法氏の宗教的な世界観・教義は、根本経典『正心法語』や宗教理論書『太陽の法』に集約されるということだが、幸福の科学という新興宗教の詳しい内容・勧誘方法・収益構造などにまつわる是非を脇に置くとすれば、『世俗(みんなが信じて従っているお金や法や性などの社会常識)か宗教(利害を超えた真理・理想とされるもの)か』の古くて新しい普遍的な問いに清水さんは迷って苦しみながらも、宗教の側に居心地の良さというか自分の存在・使命感(生きがい)を支えてくれる何かを感じたのだろう。

もちろん、新興宗教の詳しい内容・勧誘方法・収益構造・洗脳リスクなどにまつわる是非を脇に置いた話なので、実際には幸福の科学を信じすぎたり寄付・奉仕しすぎたりしたことで余計に不幸な境遇に陥った人とか、社会常識に合致しない宗教固有の価値観に影響されすぎてしまった人とかもいるかもしれないが、そういった被害・悪影響がないとすれば『世俗か宗教か』という問いそのものは、誰もが人生のどこかで考えてしまう時期があったりするものではある。報道記事によると、幸福の科学における『出家』というのは出家したい信者なら誰でもできるものではないらしいが、大川隆法氏が『女優 清水富美加の可能性 守護霊インタビュー』を特別に書いているように、やはり知名度のある芸能人で広報的・布教的な影響力も鑑みて、清水富美加さんは一定の特別な扱い(将来の幹部候補的な特権待遇)にはなってくるのだろうか。

芸能の仕事内容や雇用待遇に対する不満・苦悩が、芸能界引退の主な理由であったのであれば、『世俗のルールや交渉による改善の範疇』で上手く解決できれば良かったとも思うが、仕事内容に対する不満・ストレスも『残酷な表現のある役柄・男性の性的目線を感じるグラビアなどへの倫理的な嫌悪・拒絶』があったようなので、元々芸能界というか女優の仕事(作品ごとに与えられた役柄であれば通常は自分の価値観を抜きにして必死にそれになりきるべき職業)には向いていないセンシティブな感受性を持っていたのだろう。世俗(俗世)というか一般社会(仕事)への適応は、『お金・地位・性・強い刺激(残酷描写もその一つ)に関する欲望』から直接間接の影響を受けているが、清水さんは子供時代からの幸福の科学を通した宗教的感受性もあって、『世俗的な露骨・過激な欲望に対する違和感・不快感』が強かったのかもしれず、そういった潔癖な感受性が強くなれば、芸能界の仕事とはどうしても折り合いをつけにくいものになってしまうだろう。

清水さんのツイート『力ある大人の怖い部分を見たら 夢ある若者はニコニコしながら全てに頷くようになる。そんな中ですり減って行く心を守ってくれようとしたのは事務所じゃなかった』は、まさに俗世の論理と宗教の論理のぶつかり合いで最後に宗教の論理が勝ったことを示唆するような内容だが、幸福の科学や新興宗教の潜在的な問題・リスクは別にあるとしても、『夢のあるピュアな若者たち』を使い捨てにしたり精神をすり減らしたりすることのある『俗世(一般社会の会社・仕事・刺激・価値観)の側の環境・常識』にも改善すべき部分があることを伝えてくるような引退劇ではある。現代の俗世や社会、仕事に耐え切れずにどこかに逃げ出してしまいたいとか、もうこれ以上耐え切れないという世俗(一般社会)に不適応な人たちは若者にも中高年にも数多くいて、その中からメンタルヘルスを壊して精神疾患を発症する人やひきこもり・無業者の状況で自分を何とか守らざるを得ない人、すべてが苦痛で嫌でたまらず自殺願望さえ抱いてしまう人も出てくるのだろうが、『宗教による救済(俗世からの離脱)』が悩める人たちの一般的な解決策にはなりにくい現状を踏まえると、世俗・俗世をより生きやすく働きやすくしていくという人類の歴史でずっと続いている課題にも行き当たる。

『鈍感力・環境への馴れ・適当な適応』というのも厳しい世俗社会をサバイバルするためには大切なことではあるが、『世俗からの離脱・逃避としての宗教』との引き合いで世俗よりも宗教のほうにより魅力・正しさを感じてしまうというのも現代社会の虚しさ・寂しさの現れになってしまう。潔癖・真面目・利他的でセンシティブな感受性を持つ人が淡々と図太く生きていくのが難しい部分も多々あるのが複雑・過激な現代社会であるが、『世俗(社会)か宗教(思想観念)かの問い』に深入りしすぎるリスクも考えれば、『世俗・一般社会の内部における適応的な解決法』を見つけられるほうがより望ましいとはいえるのだろう。

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元記事の執筆日:2017/11

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