近代医学の発展や医学教育の充実に尽力したカナダの医学者ウィリアム・オスラー(William Osler, 1849-1919)は、『人間と動物の境界線は、薬を欲するか欲しないかにある』といった内容の言葉を残しましたが、人間の健康生活と薬とは切っても切れない関係にあります。
現代の医学的治療に用いられる治験や審査に合格した薬剤に限らず、人類は誕生以来の長い歴史の中で、病気や怪我の苦痛を癒すために薬草・生薬・鉱物・湧水などさまざまな薬を用いてきました。中国大陸に発祥して朝鮮や日本へと伝来した『漢方医学(伝統中国医学の一分野)』では、自然の生薬を複数配合した漢方薬を独自の理論に基づき処方します。
古典的な伝統医学(東洋医学・中医学)で処方される薬や医学知識のない未開社会での薬(薬草・薬湯・生薬)は、こういった自然界に初めから存在する物質(動物・植物・水分)を利用して作られます。一方、体系的な西洋医学や薬理学の知見に基づいて処方される薬剤の多くが、自然界の物質を化学合成して製剤されたものです。科学知を応用した化学合成によって製剤される薬剤の起源は、ドイツ・バイエル社のフェリックス・ホフマンが開発した解熱鎮痛剤のアスピリン(アセチルサリチル酸)にあります。
消化器障害の副作用を軽減するために、サリチル酸をアセチル化して作ったのがアスピリン(アセチルサリチル酸)です。ホフマンによるアスピリン開発の成功が1897年、バイエル社による商標登録が1899年なので、近代医学で処方する薬剤が誕生してからまだ一世紀ほどしか経っていないことになります。
近代医学で利用される薬剤の有効性は、『薬の化学物質の特定・複数の化学成分の合成・動物実験含む治験による統計学的根拠・作用と副作用のバランス』によって支えられています。アスピリンは、ホフマンが合成した当初は、その効果発現について十分な科学的説明が出来ませんでしたが、1982年にノーベル医学生理学賞を受賞した薬理学者のジョン・ベイン(英国)、ベンクト・サムエルソン(スウェーデン)、スーネ・ベルクストローム(スウェーデン)によってアスピリンの抗炎症作用の薬理機序が解明されました。アスピリンは、生体のシクロオキシゲナーゼ活性を阻害する作用を持ち、炎症・発熱を促進するプロスタグランジンの産生を抑制することで薬理作用を発揮することが分かったのです。
古典医学や未開社会の医行為で利用される自然物由来の薬の有効性は、その多くが科学的根拠ではなく『経験的根拠の積み重ね(先祖から服用し続けて効果があったという歴史)』によって支えられているところが近代医学とは異なります。これから説明するのは、近代以降の科学的根拠を持つ西洋医学で処方される薬剤についての事柄であり、伝統医学(漢方医学・中医学・東洋医学)の生薬の効果や配合についてはここでは詳しく説明しません。
医学の臨床行為で薬を処方する目的は、『疾患の治療・症状の緩和・疾病の予防・病気の診断』にまとめることが出来ますが、薬物がどのような過程・機構を経て効果を発揮するのかという作用機序(薬理メカニズム)を研究する学問を薬理学(pharmacology)といいます。
薬はその種類によって、生体内部の受容体と結合しなければ効果を発揮できないものと、生体とは無関係に試験管内などで化学反応を起こして効果を確認できるものとがあります。薬の大部分は、生体内部の受容体を介在することで症状緩和の治療効果を発揮しますが、細菌やウイルスを殺傷する抗生物質やガン細胞を攻撃する化学療法に用いる薬物の場合には、生体の外部でも実験的にその効果を確認することが出来ます。
薬効の発現に必要な受容体(レセプター, receptor)とは、細胞膜上あるいは細胞内に存在するタンパク質であり、特異的に他の物質(化学成分・生体ホルモン・神経伝達物質)と結合する性質を持っています。受容体は、『化学物質・ホルモン・ウイルス等の抗原・光刺激』など外部から細胞に作用する因子と特異的に結合して反応します。受容体はくっつける物質の違いによって、ホルモン受容体・抗原受容体・光受容体など色々な種類があります。
『特異的に』というのは、うつ病など気分障害に処方されるSSRI(SSRIには、自殺念慮の亢進など危険な副作用を指摘する主張が欧米で出てきていますが)が、セロトニン受容体と特異的に結合して再取り込みを阻害するように、受容体は『特定の物質』をくっつける性質を持つということです。各種の受容体は、『特定の物質・その物質に近似した化学構造を持つ物質』しかくっつけることが出来ません。受容体(レセプター)が薬物と特異的に結合することで、細胞の形態や機能にさまざまな変化が生じて薬物による生理作用が発現します。この生理作用の過程が、受容体を介在して効果を発揮する薬物の基本的な薬理機序(薬理メカニズム・作用機序)となります。
薬物を服用しない際に起こる血管収縮などの生理作用にも受容体(レセプター)が関与していて、α1-アドレナリン受容体にノルアドレナリンがくっつくことで血管が収縮して血圧が上昇します。怒りや興奮、敵意といった交感神経の活動性亢進によっても、ノルアドレナリンやアドレナリンが分泌され受容体と結合することで血管収縮が起き血圧が上がります。眼底検査の際に瞳孔を開かせる薬である塩酸フェニレフリンも、ノルアドレナリンと類似した生理作用を持っていて、血圧上昇や動悸などの副作用を生じることがあります。
薬剤には、受容体(レセプター)に先回りしてくっついて、それ以外の化学伝達物質(生体内活性物質)の結合を妨害する『拮抗薬(アンタゴニスト, 遮断薬)』と受容体と特異的に結合して薬理作用を及ぼす『刺激薬(アゴニスト)』とがあります。アンタゴニスト(遮断薬)は、他の生体ホルモンや神経伝達物質の結合を妨害するだけで、積極的な薬理作用を発揮するわけではありません。アゴニスト(刺激薬)は、神経伝達物質(化学伝達物質)同等の薬理作用を積極的に発現する薬剤のことです。
薬剤は、一般的に『化学名・一般名・商品名(商標名)』の3つの名前を持っています。化学名というのは、複雑な化学構造式をそのまま記述したもので、最も正確に薬剤を特定できる科学的厳密性の高い名称です。化学名は『科学的に正確な名称であり、薬の化学構造を厳密に示せる』という長所を持ちますが、『名前が機械的であり、複雑で長すぎるために実用性に乏しい』という短所を持っています。
化学名というのが実際にどんな名称であるのかを示す為に一例を挙げますと、抗精神病薬の一般名ハロペリドールであれば、化学名は『4-[4-(4-Chlorophenyl)-4-hydroxypiperidin-1-yl]-1-. (4-fluorophenyl)butan-1-one』となります。このハロペリドールの化学名は、確かに正確無比に薬剤を特定し化学構造を示しますが、こんな冗長な名前をいちいち全て暗記して間違いなく発話することは不可能です。化学名は医学・薬学の学術研究には向いていますが、一般的な医学臨床の処方や医師・看護師の間でのやり取りには向いていないので普段、化学名を聞く機会は殆どありません。
一般名とは、世界保健機関(WHO, World Health Organization)に登録されている世界共通の一般的な名称であり、日本でも公的な国家試験などでは一般名を用いています。商品名コントミンやウインタミンに対して一般名クロルプロマジン、商品名パキシルに対して一般名塩酸パロキセチンというような呼び方の違いがあります。一般的に流通している薬の名称は、やや化学的な趣きがある一般名よりも、呼びやすい名前の多い商品名(商標名)のほうが多い傾向があります。
正式な薬理学や医学の学会や研究会、臨床医や看護師によるカンファレンスでは、商品名でなく一般名を用いることが多いですが、その一般名にも、国際的な共通名称である『国際一般名(INN:International Nonproprietary Name)』と日本国内における一般名である『医薬品名称調査会承認名(JAN:Japanese Accepted Name)』というものがあります。
一般名も簡潔明快で記憶しやすい名前が多いのですが、それよりも更に簡単で記憶しやすい名前を付けられていることが多いのが、製薬会社が命名する商品名(商標名)です。製薬会社がつけた商標名を一般名と区別する場合には、商標名の後に○に囲まれたRが付けられています。
商品名で呼ぶ場合の問題点は、同一の一般名に対して複数の商品名がつけられていることが多く、各病院が薬を購入している製薬会社によって同じ薬でも呼び方が変わってしまい混乱することがあるという事です。薬の種類によっては同じ化学成分で作られた薬(一般名)に、数十個もの商品名がつけられていることがあるので、商品名だけでは何の薬か分からない場合には薬剤についての基本情報が記載されている『添付文書』を参照することが必要になります。
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