ゲオルグ・ジンメルの人間観と秘密・信頼関係

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このウェブページでは、『ゲオルグ・ジンメルの人間観と社会化・信頼関係』の用語解説をしています。G.ジンメルに関連する『現代社会における自己アイデンティティの複層性・断片化が生む自由と孤独』の記事も合わせて読んでみて下さい。

G.ジンメルの人間観と社会化・個人化
G.ジンメルの信頼・秘密


G.ジンメルの人間観と社会化・個人化

ドイツの社会学者ゲオルグ・ジンメル(Georg Simmel,1858-1918)は、カール・マルクスやマックス・ヴェーバー、エミール・デュルケームと並んで初期の社会科学の歴史を牽引した人物だが、ここではG.ジンメルの提唱した個人の相互作用の生成消滅を社会の構成単位とする『社会学的な人間観』について紹介していく。ジンメルは人間を社会共同体に組み込まれた所与の存在とする『有機体的・帰属的な人間観』を否定して、社会を個人と個人の間の相互作用(相互行為)によって絶え間なく形成されるプロセスとして認識した。

G.ジンメルの人間観あるいは社会観の特徴は、人間(個人)や社会を『確固とした実体』であるとは考えないところにあり、『個人と個人の相互行為が交錯する場所』というように捉えており、『人格・性格(character)』もまた相互作用の現れ方に依存するその個人の特徴の形式に過ぎないとしていた。個人も社会も『相互作用・相互行為』よりも先に実在する実体なのではなく、個人間の相互作用によって、次々に絶え間なく生み出されたり消えたりする『可変的で柔軟なプロセス(過程)』なのである。

G.ジンメルは相互作用によって生成消滅したり変化したりする個人のプロセスを『個人化(個人形成)』と呼び、個人と同様に相互作用によって変化を続ける社会のプロセスを指して『社会化(社会形成)』と呼んでいる。個人・人格は『確固とした実体』でもないが『構成要素の単なる集合』でもなく、『個人・社会との相互作用』と『個人とその構成要素の相互作用』によって生まれる“その人らしさ”によって特徴づけられていくものなのである。『個人とその構成要素の相互作用』というのは、『英語(語学)が得意という構成要素』が『英語が話せるグローバルなその人らしさ』になったり、『親切で思いやりがあるという構成要素』が『人並み以上に付き合いやすい性格をしているというその人らしさ』になったりするという事である。

現代社会では『社会機能の細分化・活動領域の多元化・ウェブ(バーチャル)とリアルのキャラの使い分け』などによって、個人化と社会化のプロセスが分かりやすく調和しなくなってきているという問題がある。前近代の職住一致の農業社会・農村共同体であれば、農業をする個人の相互作用は農村共同体の社会形成のプロセスと矛盾なく調和し、『個人の自己アイデンティティ』『農村共同体への帰属感』は絶えずセットとして受け容れられていた。言い換えれば、個人のアイデンティティが『一つの帰属社会』の内部に完全に包摂されていたのであり、現在ほどに複雑な内面・思想や多重的な集団への帰属の問題を抱えておらず個人は画一的な行動原理(身分秩序)に従っていたのである。

しかし近代以降には、社会の機能・役割と個人の活動領域が複雑に細分化(専門化)していき、個人は一つの集団(職住一致の村社会・地域社会)だけに帰属するのではなく、『国家・地域社会・企業社会・家族・友人関係・ボランティア・秘密の関係』など複数の集団組織に複雑かつ部分的に帰属するようになり、『断片的・部分的な自己アイデンティティ』を持つようになってきたのである。現在では『学校に通っている個人・会社で働いている個人・地域の活動に参加している個人』と関わるだけではその人の全体を知ることはできないし、本人であってさえも『部分的な自己アイデンティティ』を臨機応変に使い分ける日常が余りにも当たり前の感覚になっているのである。

個人はますます自由を志向して、『多元的な個性』『複数的な帰属』を求める傾向が強まっているが、その反作用として『完全な有機体的統一・全体的な秩序と役割意識』を求める社会形成との対立やストレスが強まっている状況がある。現代の社会問題や世相と照らし合わせてみても、『フリーター増加・ニート問題・未婚化晩婚化・少子化・腰かけの仕事観(自分の時間と労力の部分的な切り売り)』などの一つの原因として、結婚・育児にしろ就職にしろ『自分のすべての人生の時間と労力までは注ぎたくない(絶えず自分の思い通りになる別の領域・一つの場所に縛られない自意識は確保しておきたい)』という自己アイデンティティの断片化(部分化)が関係している。

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G.ジンメルの信頼・秘密

近代社会では社会形成と個人形成の対立が心理的緊張を生む。社会・企業は個人を自らの目的や理念に従って『一つの役割・責任』に嵌め込んで歯車のような働き方をさせようとするが、帰属や自意識が部分化して一つの集団だけに帰属して貢献する意識を持ちづらくなった自由な現代人は、社会・企業が押し付けてくる役割・義務から可能な範囲で逃れて、『自分自身の個人的な能力・興味・関係』を飽くまで追求しようとするからである。細分化・専門化した社会では、個人は『複数の集団・関係』に同時的に所属するようになるので、どの相互行為でも『自己の一部分』でしか関わることができなくなり、個人の間に『パブリック領域とプライベート領域の秘密』が自然に持たれるようになっていく。

会社で一緒に働いているさほど親しくもないAさんが、会社が終わった後にどういった生活をしていて誰と付き合っており、私生活でどんな趣味・娯楽を楽しんでいるかといった情報は通常知りえない『秘密』となるが、Aさんの家族でさえもAさんが会社でどんな仕事をしていてどのようなストレスを感じているか、会社帰りの飲み屋で誰とどんな話をしているかは知りえない『秘密』になっているのである。

また近代社会では、個人が秘密にしていたり積極的に話したがらないことについて、しつこく根掘り葉掘り質問するのは暗黙的な禁忌(タブー)であり、お互いにある一線以上は踏み込んだ質問をしないという『配慮・遠慮』をするのが当たり前になっている。近代社会では『会社員としての自己・家庭人としての自己・地域社会の一員としての自己・プライベートで自由な自己』などを使い分け、その使い分けを個人相互が暗黙的に了承することで、複雑化・多元化している社会の秩序が保たれているとも言える。

個人を社会全体の目的・秩序に従わせようとする『社会化(社会形成)』と社会からの規範・役割の押し付けを逃れて自分自身の目的・欲望を追求しようとする『個人化(個人形成)』との絶え間なき緊張関係は、それぞれが場面や相手によって自己アイデンティティの在り方を調整できるという『秘密』『相手の配慮(遠慮)』によって緩和されているのである。お互いに相手の知らない自己の部分としての『秘密』を抱えた個人は、『相互に対する知識』『無知』によって相互作用を可能にして求め合っていくという。

お互いについての知識と無知が相互作用を可能にするというと矛盾した理論にも思えるが、個人が個人と関係を持つためには『相手について何らかの部分的な知識』を持っていなければ興味を持つこともできない、そして、『相手について何らかの知らない部分(無知の領域)』を持っていなければわざわざその相手とコミュニケーションする必要性が生じないのである。お互いについての知識と無知が相互作用を生み出すトリガーになるが、個人と個人が人間関係を取り結ぼうとする時には必ず一定の『信頼(信頼関係)』が必要になる。その人間関係における信頼の必要性について、G.ジンメルは『完全に知っている相手であれば信頼する必要はなく、まったく何も知らない相手であれば信頼することができない』と述べて、信頼の定義を『他者(人間)についての知識と無知の中間状態』だとしているのである。

G.ジンメルは他者(人間)に対する信頼の究極的な根拠は、その他者の能力や価値、実績とは直接的に関係しておらず、他者に対する信頼は時に宗教的かつ内面的な無条件性を帯びており、その究極的な根拠は『原始的・遺伝的な心の態度(傾向性)』にあると語っている。

人間は基本的にはよほどの不信感や怪しさ、危険性を感じさせる相手でない限りは、『社会的文脈・常識観念・平均的な倫理観・コンプライアンス』などに従う形で、見ず知らずの相手であっても信頼するような心の態度・傾向性を持っており、近代社会の市場経済では特にお金を支払って買った商品・サービスの安全性を信じたり、マスメディアや学校教育の情報を鵜呑みにしたりといった態度になって現れやすい。しかし、このおよそ『無条件な他者への信頼』があればこそ、私たちは安心して蛇口から出る水を飲むことができて、多くの車が走っている道路で自分の車を運転することができるのであり、スーパーマーケットで購入した食品を不安なく食べることができるのである。

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