M.アルヴァックスの集合的記憶と歴史の社会学

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このウェブページでは、『M.アルヴァックスの集合的記憶と歴史の社会学』の用語解説をしています。

歴史とは何か?歴史はなぜ対立を生むのか?:歴史の正面図と側面図

M.アルヴァックスの集合的記憶とマックス・ヴェーバーの歴史社会学


歴史とは何か?歴史はなぜ対立を生むのか?:歴史の正面図と側面図

過去の人物や事象を取り扱う『歴史(history)』をどのように把握するのかは、『言語・記憶・集団(国家)』を有する人間にとって本質的な問いかけである。私たちは一般的に歴史を『原始・古代・中世・近世・近代・現代』といった大きな区分に分けて認識しており、『生活様式・統治体制(権力・身分のあり方)・経済活動・価値観や理念』などの基準によってそれぞれの時代が区分されている。

古いものから新しいものへと『歴史的な事象(出来事)』をクロノロジカルに並べて、一直線の線分上に配置した出来事の時系列的な連鎖(直線的で連続的なつながり)が一般に『歴史』として認識されているものである。645年の大化の改新、794年の平安京遷都、1185年(旧1192年)の鎌倉幕府成立、1582年の織田信長の死(本能寺の変)、1600年の関ヶ原の戦い、1868年の明治政府成立などの歴史的な事象は、小学校時代の社会の勉強から始まって、時間を水平に引いた線分で表す『年表上の一つの点』として表現されている。

歴史を『授業・勉強・読書(本)』を通して学ぶ場合には、私たちは線分上(年表上)にクロノロジカルに配列された事象をイメージするが、こういった客観的な目線や線分上の点として捉えられる歴史(自分を歴史的な時間軸の外に置いている歴史)のことを、哲学者の野家啓一(のえけいいち,1949-)『歴史の側面図』と呼んだ。客観的視点に立つ『歴史の側面図』に対して、現在から過去の出来事を振り返り、自分自身も過去から現在・未来へと流れる歴史的な時間軸の一部であると共感的に自覚する歴史のことを『歴史の正面図』と呼んでいる。

歴史の正面図というのは、私自身が歴史を構成する一部であるという主観的・民族的な自覚を持ち、過去の歴史的な事象や記憶の影響を受けながら『現在の時代』を生きているという感覚に根ざした歴史のイメージのことである。線分上にクロノロジカルに配列された一般的・客観的な出来事の連鎖としての歴史ではなく、『私に記憶されたもの・私に伝聞されたもの・私が想像して影響されているものの総体としての過去のイメージ』が歴史の正面図を描いている。

“歴史の側面図”というのは『知識としての歴史・過ぎ去った過去』であり、『現在の私たちの心理・感情・行動』には影響を与えることはないが、歴史の正面図のほうはそうではない。“歴史の正面図”というのは『自己アイデンティティと関係する歴史・現在の自分や国(民族)にも影響を与え得る歴史の解釈』であり、『現在の私たちの心理・感情・行動』にも影響を与える可能性がある。だから、歴史の正面図を巡るやり取りは、『個人間・民族間(国家間)の対立の原因』にもなってしまうことがあるのである。

日本と韓国との間にある『従軍慰安婦問題・強制労働問題・歴史教科書問題』、日本と中国との間にある『南京虐殺問題・歴史教科書問題』、日本とアメリカとの間にある『原爆投下の必要制を巡る問題』などは、歴史の正面図の解釈を巡る対立である。一般的にこれらの問題は『歴史認識の問題』として表現されることが多いが、現在の自分たちから過去の歴史的な出来事を振り返った場合に、『自分・自民族・自国家を肯定的に捉えることができるかどうか(自分たちの側に正義や道義があったと言えるかどうか)』という現在の自分たち(自国)にとっての解釈的あるいは道徳的な意味づけに重点が置かれている。

歴史を客観的な知識・立場に基づく『歴史の側面図』としてだけ捉えるのであれば、『自分ではない過去の誰か(同国人・祖先含む)がした行為の責任や意味』について、『今を生きる個人としての私』が何らかの責任や屈辱、怒りを感じることはなく、当事者である本人か当時の権力主体であった国家が意味(善悪)を解釈して責任を果たすべき問題として理解されるはずである。

しかし、現実には歴史というのは『過去において既に過ぎ去ったもの・完結して終わってしまったもの=歴史の側面図』として割り切って認識できるものではない。歴史は『現在を生きる非当事者(非本人)である私たちが想起・解釈して新たに作り出しているもの=歴史の正面図』としての性格を非常に強く持っている。

そのため、『過去の自国・自民族(祖先)が行ったとされる行為の是非・善悪の価値判断』へのこだわり(自己主張の強さ・時間を超えた自己アイデンティティへの影響)が生まれ、『自分たちを正義・善とする歴史の正面図を否定しようとする他者(外国・異民族)との対立や論争』に終わりがないのである。

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M.アルヴァックスの集合的記憶とマックス・ヴェーバーの歴史社会学

過去の歴史的な事象や社会現象を『過ぎ去った過去・完結して終わった過去(客観的な知識)』として扱う社会学の分野が『歴史社会学』であり、歴史社会学が研究・考察の対象にしているのは上記した『歴史の側面図』である。歴史社会学の初期の原型となっている研究は、ドイツの社会学者マックス・ヴェーバー(Max Weber,1864-1920)『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』であり、『複数の歴史的事象の連鎖・相関の結果』として西洋的な合理主義と資本主義が成立した経緯を、説得力のある論述によって説明している。

マックス・ヴェーバーは西洋世界において普遍的な意義と妥当性を持つようになった合理主義、その合理主義と宗教的精神(プロテスタンティズム)とが相互作用して生み出された『近代西洋において人々の生活を支配しつつある運命的な力=近代の資本主義』について論述した。M.ヴェーバーの思想の特徴は、『近代西洋の資本主義』を『それ以前の時代・地域にもあった単純な利潤追求・商活動』とは区別して考えたところにあり、近代資本主義に参加する人々の“エートス(道徳的な行動様式)”を問題にしたのである。

M.ヴェーバーのいう『プロテスタンティズムの倫理』とは、神から与えられた労働の義務を『天職・使命(calling)』として捉え、世俗的な欲望を禁欲することで『勤勉・貯蓄』の徳(神への献身)を積み上げていくことである。プロテスタンティズムの倫理は『意図されざる結果』として『資本主義の精神』を導き出していったわけだが、歴史社会学には当事者の意図や計画とは無関係に『複数の事象間の歴史的な相関関係』を明らかにしていくという目的もある。

宗教的理想や神の栄光のために、あらゆる世俗的な欲望を抑圧してきた敬虔なプロテスタントたちの労働の積み重ね(勤勉さ・貯蓄志向)が、あらゆる世俗的な欲望(私利私欲)を肯定する近代資本主義の原動力になったというのは、エキセントリックな歴史のパラドックス(逆説)である。歴史の側面図を対象とする歴史社会学は、このように個性的かつ逆説的な因果関係を『歴史的事象の意図されざる結びつき』によって考察するという特徴を持っている。

歴史とは『過去にまつわる記憶とその想起』であるが、フランスの社会学者モーリス・アルヴァックス(M.Halbwachs,1877-1945)は、社会学的な記憶理論として『集合的記憶論』を提唱した。心理学分野における『記憶(memory)』は短期記憶、長期記憶、手続き記憶、作業記憶(ワーキングメモリー)など色々な種類に分類されているが、基本的に『記銘・保持・再生』の3段階から構成される『個人的記憶』として定義されている。

M.アルヴァックスは、心理学分野の記憶である“個人的記憶”は条件を整えた実験室(実験環境)の中でだけ確認される特殊な記憶であり、日常生活における記憶の多くは『他者と共に経験したことの記憶・他者との会話の中で思い出される記憶・写真や映像をトリガーにして思い出す記憶』などに示される“社会的記憶・集合的記憶”であるとした。アルヴァックスの社会学理論でいう『集合的記憶』とは、日常生活における集合的・社会的な行為や刺激を介在した記憶である。

アルヴァックスは、人間は集団の一員として過去を想起するという前提を立て、『人が思い出すのは、自分を一つないし多くの集団の観点に身を置き、そして一つないし多くの集合的思考の流れの中に自分を置き直してみるという条件においてである(Halbwachs, 1950)』と述べている。心理学分野における個人的記憶は、過去にまつわる記憶の内容は、他者にはアクセスすることができない『個人の心(脳)や無意識』に保存されていると考えるが、アルヴァックスは個人の内面にある『記憶の特定の保存場所』の存在を否定して、『自分が一員となっている集団からの刺激』によって集合的記憶が想起されやすくなると考えている。

現在の私たちの心理や行動にも影響を与える『歴史の正面図』は、社会集団がその時々に形成したり準備(教育)したりしている『構成員に共通の記憶の枠組み』によって描かれているのである。つまり、『過去の解釈を伴う想起』が行われる現在において、絶えず『過去の再構成(現在の私たちに影響を与える過去の捉え方・イメージの再構成)』が行われ続けているということである。

国家間や民族間で『歴史の正面図(歴史認識・歴史的評価)を巡る論争・対立』が終わらないのは、歴史の正面図というものが『客観的事実を思い出す個人的記憶』ではなくて『主観的解釈(過去の再構成)を続ける集合的記憶』によって描かれているからであり、社会集団と自己アイデンティティを正当化するための集合的記憶は常に『異なる集団との優劣感情(=反対意見の排除)』という性質を帯びているからである。

アルヴァックスの集合的記憶論は『過去の現在性・影響力』について説いた理論でもあるが、過去は脳や心といったどこか特定の場所にありのままの事実として保存されているのではなく、過去は『現在の基盤・集団の共通認識』に基づいて絶えず『現在における過去の再構成』を繰り返している。過去の再構成と集団社会の自己正当化(個人の自己アイデンティティ強化)によって、その意味・価値がそれぞれの時期ごとに新たに判断され直しているのである。

アルヴァックスは過去の記憶が保存されている場所というか想起されるとっかかりとして、『現在の基盤・集団の共通認識・写真や映像(記録媒体の参照)』を上げたが、それ以外にも『物質・空間』と結びつく形で過去の出来事の記憶は保存されることが多いとしている。過去に大切な人と一緒に過ごした場所に赴けば、その時の出来事や相手の言動などがリアルに思い浮かんでくることがあり、特別な思い出のある香りや味覚、音楽などに触れることによって、過去の記憶が生き生きと想起されてくることもある。このように、人間の記憶は『物質(五感)・空間(思い入れのある場所)』と切り離して考えることが難しい。

モーリス・アルヴァックスは集合的記憶論として『記憶の現在主義(現在における過去の再構成)』『記憶の物質性・空間性』を上げたが、この二つの特徴は過去の出来事を直接的に体験した当事者以外の人たちにも『過去の記憶の共有(過去の記憶による心理的・行動的な影響)』が起こり得るということを意味している。

集合的記憶の概念は『マスメディアの情報・体験者からの伝聞・記念式典・資料館・歴史的建造物・写真や映像・歴史教育』などによって再構成され続けており、『個人的記憶の直接体験の限界』を容易に超越していくのである。学校や書物で歴史の側面図(客観的な知識)として学んでいる歴史は『書かれた情報としての歴史』に過ぎない側面があるが、私たちの自意識や集団生活、国家の政策などに直接間接の影響を与えているのは、集合的記憶に基づく『生きている歴史』である。

歴史の正面図を描く『生きている歴史』はその感じ方や影響のされ方によっては、外国・異民族に対する怨恨・怒り・差別・復讐・劣等感などを刺激する恐れもあるものであり、『同じような歴史上の過ちを繰り返さないためにどうすれば良いのか』は、私たち人類に長年課されてきた集合的記憶(歴史認識・国家と結びつく自己アイデンティティ)を巡る非常に重たい課題だと言えるだろう。

M.アルヴァックスは『社会を構成する様々な集団は常に自分たちの過去を再構成することができるが、再構成を行う時、それらの集団は非常にしばしば過去を歪曲する』と警鐘を鳴らしてもいるが、『都合の悪い歴史的な事象の忘却・歪曲の誘惑』から逃れるにはどうすれば良いのか、自己正当化のための他者否定をどう克服できるのかを考えていかなければならない。

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