このウェブページでは、『マックス・ヴェーバーの自治都市論と近代化・匿名化する都市空間の問題』の解説をしています。
近代都市の匿名性・自由性とテロ・犯罪の恐怖感:ウルリッヒ・ベックのリスク社会論とセキュリティ強化
マックス・ヴェーバーの自治都市論と近代化・資本主義成立の条件
社会学では『空間』の社会的・意識的・歴史的な変化についても研究するが、近代化は『学校教育の規律訓練』と『インフラ・法律による環境調整』と『都市空間の匿名的な人間関係』によって独特な空間を生み出すことになった。都市化を促進する近代社会は、前近代的な地縁・血縁によって深く結合した人間関係に基づく『情緒的共同体(ゲマインシャフト)』を衰退させ、核家族と経済社会における役割・利害・責任によって人と人が結合した『利害共同体(ゲゼルシャフト)』の特徴を強めていく傾向がある。
都市には数十万人から数百万人以上の膨大な人口が集まるが、その大多数は『言葉も笑顔も交わすことがない他人』であり、近代の都市文明は基本的に他者が自分をどう思うかの世間体を必要以上に気にしなくても良い『匿名的な人間関係・社会生活』としての側面を持っている。田舎の人口の少ない農村共同体では、屋外ですれ違う昔から良く知っている近隣の人にはほぼ確実に挨拶や世間話をしなければならなかったが、近代都市ではすれ違う大勢の知らない人は挨拶以前に目を合わすこともない『匿名の他者』であることが多く、『儀礼的無関心』によって(直接の知り合いでなく仕事・役割の結びつきもない)他者とは一定の距離を置いて干渉しないことが一つの常識・マナーのようになっている。
多くの人口が集まり、お互いに無関心な態度を示す匿名的他者になりやすい近代都市のセキュリティ上のリスクとして、『テロ(テロリズム)』や『無差別殺傷事件』などがあるが、日本でも1995年にオウム真理教による地下鉄サリン事件が起こり、2001年にはアメリカでハイジャックされた航空機に突っ込まれたWTCのインテリジェンスビルが倒壊する同時多発テロ事件が起こった。その後も、アメリカやイギリス、フランス、トルコなどで多くの人が集まる場所(劇場・カフェ・ナイトクラブ・お祭り・歩行者用道路等)で無差別襲撃型の爆弾や銃器、大型トラック、刃物を使った卑劣なテロ事件が繰り返し起こっており、近代都市の空間では『悪意を持ち武装した匿名的他者+防衛の手段や意志を持たない善良な近代市民』がセキュリティ上のリスクとなっている。
欧米先進国の都市空間で引き起こされたテロ事件の多くに『イスラム過激派の思想に感化されたムスリム・移民(移民の子孫)』が関与していたため、アメリカやイギリス、フランスでは『移民排斥・反ムスリム・不寛容・難民拒絶の差別的な保守反動やヘイトクライム』も多発しており、アメリカでは不法移民やムスリムの入国を厳しく制限してメキシコとの国境に壁を建設すると公約して差別的・攻撃的な発言を繰り返すドナルド・トランプ氏が大統領に就任するという意外な出来事もあった。
他者と深く関わらなくて良い匿名的な都市空間の魅力は『自由の感覚・他者からの不干渉・人間関係の選択性(地縁血縁のしがらみが薄く好きな人だけ選んで関わる)』であるが、都市空間は誰がそこにいても何をしようとしていても大半の人が無関心で干渉しようとはしないため、テロリストや無差別犯罪の計画者にとってはセキュリティの甘い狙いやすい施設・場所がどうしても多くなってしまいやすいという問題を原理的に抱え込んでいる。日常的な生活空間がテロ・犯罪で恐怖に陥れられた経験は、平和で豊かな時代を生きている多くの現代人にとってのトラウマとなり、『人間不信・犯罪不安・体感治安の悪化』が強まっている。
現代日本は統計的には凶悪犯罪・少年犯罪が大幅に減った平和な時代のはずなのだが、将来不安・格差拡大・貧困問題などもあって『主観的幸福感+体感治安』はむしろ悪化しており、それなりに豊かで楽しい生活を送っている中流階級以上の人たちは『ゼロリスクを志向する過剰セキュリティ(セキュリティ意識過剰による異質な他者・不審に見える他者への差別的・強権的な待遇)』に陥りやすくもなっている。
先進国では総体的に豊かな時代・国であればこそ、自分が格差・貧困・孤独に落ち込めばその苦悩や怒りは深刻になりやすく、その一部が無差別的な犯罪・テロに逸脱するリスクが生まれる。逆に自分が貧困・格差・孤独と無縁でそれなりに平和で豊かな満たされた生活を送っていれば、一つしかない自分や家族の生命が絶対に奪われないようにしたいとの思いから、犯罪件数が減っていても『過剰セキュリティ』に走りやすくなるのである。
ドイツの社会学者ウルリッヒ・ベック(Ulrich Beck,1944-2015)は著書『危険社会』『リスク化する日本社会――ウルリッヒ・ベックとの対話』などを通して、『個人の安心・安全』を至上命題とする近代社会はセキュリティリスクを過剰に恐れるようになると指摘している。そして、『安心・安全のためなら多少の自由・権利は犠牲にして差し出しても良いとする近代市民の感覚(ゼロリスク社会を求める潔癖なまでの安全感覚)』が国家権力の強大化や環境管理テクノロジーの普及をもたらすことになるのである。
過剰なセキュリティ意識の空間・景観への具体的な現れとしては、IDカードの許可証を持たない無関係な人を一人も内部に入れないようにする『高層ビル・インテリジェントビル』、街全体を壁・柵で囲い込んで入口にガードマンを配置し、経済階層や文化意識の違う他者の侵入を徹底拒否する『ゲーティッド・コミュニティ(gated community)』などがあるが、最近の近代都市では異なる特徴を持つ人々と同じ空間で共存するのではなく、異なる特徴を持つ人々と生活する空間を区別してできるだけ関わらないようにする傾向が強まっている。
『テロ・犯罪・迷惑行為』を防いで市民の『安全・安心』を守るためという大義名分によって、近代都市空間はセキュリティレベルが高められ、先端テクノロジーによる新しい環境管理型権力がシステマティックに強化されていくことになる。
最近の近代都市の変化の一つは、自国民の利益や権利を侵害すると見なされる『仮想敵の集団』が厳しく監視・管理されるようになりつつあるということである。アメリカやEU先進国で『反移民・反ムスリムのヘイト感情』が高まって、政治や選挙を突き動かしているように、自国民(相対的な弱者)の雇用・福祉を奪ったり都市でテロ・犯罪を増やしたりするように感じられる『異質な他者(移民・ムスリム・日本であれば在日韓国人)』を厳しく監視・管理・排除したいとする攻撃的な衝動と根強い不信感・不寛容が、ナショナリズムの一体感と連動して高まっているのである。
近代都市のもう一つの変化は、『匿名的他者の行動・発言を記録するテクノロジーの進歩・普及』であり、その典型的な例が『空間で起こる出来事を客観的に記録できる防犯カメラ・監視カメラの増加』である。ショッピングモールや商店だけではなく、マンション・個人宅・駅前広場・公園・商店街・道路・タクシー・駅や電車などありとあらゆる所に『防犯カメラの間接的な監視網(犯罪が起きたら事後に映像をチェックできる体制)』が整えられてきているが、近代市民は『プライバシーの侵害・監視される不快感』よりも『犯罪防止効果(事後の犯人特定の手段としての利用)にある安心・安全の上昇』のほうを支持するようになっている。
環境管理型の権力やテクノロジーは、『潜在的リスクがある集団(異質な他者)・空間(大勢の人が行き来する場所)』に対して向けられているが、更に『個人の存在・居場所・行動履歴を個人識別番号や情報(ログ)として記録して必要に応じて参照できる』という完全管理社会(過度に潔癖で完全主義的なセキュリティ社会)に向かいそうな安心・安全への欲求も高まり続けている。
近代都市が誕生して発展を続けていた初期には、都市文明と経済成長によって大多数の人が明るく楽しい豊かな人生を送ることができるようになるという『ユートピア思想』も流布したが、近代都市が発展するにつれて資本主義や匿名社会(自由社会)の矛盾点やデメリットも目につくようになり、高度経済成長期を終えた先進国では『貧困・格差・非婚化(少子化)・無縁化(孤独)』に喘ぐ主観的に不幸を感じる近代市民の比率も増えてきている。
経済至上主義の反省から、E.ハワードらの都市文明や市場経済から距離を置いてヒューマニズムと田園風景のある土に触れて働く暮らしに回帰しようとする『反都市主義(アンチ・アーバニズム)の田園都市構想』の理想主義も唱えられたが、カール・マルクスとフリードリヒ・エンゲルスの『暴力革命による社会主義・共産主義』の理想と同じく実際の近代社会にユートピアをもたらすことはなかったのである。
ユートピア思想を断念した現在の近代社会における主流は、大企業・多国籍企業の生産力・雇用・納税力の恩恵に与ろうとする『資本主義・市場経済・新自由主義・グローバリズムの肯定(経済成長による国民救済への期待)』、そうでなければ国家の徴税・富の再分配(格差是正)・社会保障の強化に期待する『社会政策・福祉国家・国民国家における改良主義(国家権力による国民救済への期待)』ということになるだろう。
ドイツの社会学者マックス・ヴェーバー(Max Weber,1864-1920)は、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神(プロ倫)』を通して、プロテスタントの『禁欲的な天職意識・勤勉道徳・貯蓄志向』が近代的な資本主義が成立するための特異的条件として機能したことを指摘した。ヴェーバーの問題意識は、『近代的な資本主義・市民社会』がなぜ近世の西欧(ヨーロッパ)だけで誕生して発展することができたのか、なぜ他の地域・場所では近代化が遅れたり起こらなかったりしたのかということにあった。
ヴェーバーは近代社会の成立要因として『プロテスタンティズムの倫理』より前に西欧世界に『共同体的な都市(特に自治都市)』があったということを重視しており、ヴェーバーは近世以前の都市について『その土地と土着(労働)の関係を持たなかった人々やお互いに人間関係のなかった人々が新たに作った大きな集落』と定義している。都市は初めにその土地に住んでいたわけではない『よそ者』や『よそ者と先住者』が、社会的・経済的・法制的な関係を展開する場所であり、都市で生活する人間は農村に住む人間よりも自由で匿名的・開放的になりやすいのである。
中世の西欧世界以外にも、中国・中東・古代のギリシャやローマなどに都市はあったが、これらの非西欧の都市では『同じ都市に居住する同一の市民というアイデンティティ感覚』を持った人が少なく、『異なる部族・氏族に帰属するバラバラな感覚』のほうが強かったとされる。ヴェーバーの言及する西欧世界の都市の特異性は、異なる部族・権利・身分を持つ人々が偶然に共存するだけの空間を超えて、『同じ都市に居住する同一の市民というアイデンティティ感覚』を持ちやすかったということである。それは、近代以前の西欧世界の都市が、“私たちは同じ都市に帰属している(都市に対する参加意識を持つ)”という市民・共同体の感覚と結びつく『都市共同体としての性格』を持ちやすかったということなのである。
都市共同体に帰属して参加・貢献をする『対等なメンバーシップ(一員)の感覚』を持てるかどうかも、近代的な資本主義・市民社会・近代国家が成立するかどうかと深く相関しているというのがヴェーバーの見立てである。マックス・ヴェーバーが近代化の重要な条件の一つとして上げた『都市共同体』は、メンバーである市民が自治的な参加・貢献をして義務を果たす『自治的都市』の側面を強く持っている。ヴェーバーは近代化の要因として作用しやすい自治的都市の特徴として以下の5点を上げている。
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