『大学』の書き下し文と現代語訳:4

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儒教(儒学)の基本思想を示した経典に、『論語』『孟子』『大学』『中庸』の四書(ししょ)がありますが、ここでは儒者の自己修養と政治思想を説いた『大学』の解説をしています。『大学』は元々は大著の『礼記』(四書五経の一つ)の一篇を編纂したものであり、曾子や秦漢の儒家によってその原型が作られたと考えられています。南宋時代以降に、『四書五経』という基本経典の括り方が完成しました。

『大学』は『修身・斉家・治国・平天下』の段階的に発展する政治思想の要諦を述べた書物であり、身近な自分の事柄から遠大な国家の理想まで、長い思想の射程を持っている。しかし、その原文はわずかに“1753文字”であり、非常に簡潔にまとめられている。『大学』の白文・書き下し文・現代語訳を書いていく。

参考文献
金谷治『大学・中庸』(岩波文庫),宇野哲人『大学』(講談社学術文庫),伊與田覺『『大学』を素読する』(致知出版社)

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[白文]

大学章句序

天運循環、無往不復。宋徳隆盛、治教休明。於是河南程氏両夫子出、而有以接乎孟氏之伝、実始尊信此篇、而表章之。既又為之次其簡編、発其帰趣、然後古者大学教人之法、聖経賢伝之指、燦然復明於世。

[書き下し文]

天運循環(てんうんじゅんかん)、往きて(ゆきて)復らざる(かえらざる)なし。宋徳(そうとく)隆盛にして治教(ちきょう)休明(きゅうめい)なり。是において河南の程氏(ていし)両夫子(りょうふうし)出で、もって孟子の伝に接するあり、実に始めてこの篇を尊信(そんしん)してこれを表章(ひょうしょう)す。既にして又これが為にその簡編(かんぺん)を次し(じし)その帰趣(きしゅ)を発す。然して(しかして)後、古(いにしえ)は大学人を教うるの法、聖経賢伝(せいけいけんでん)の指(むね)、燦然として復(また)世に明らかなり。

[現代語訳]

天運というのはぐるぐると循環するもので、行って帰らないというものはない。(五代で衰退したものの)宋の時代になって徳治体制が隆盛して、政治と教育も美しくて素晴らしいものとなった。ここに河南の程明道(ていめいどう)・程伊川(ていいせん)の二人の先生が現れて、途絶えていた孟子の伝統をつないで、実に初めてこの『大学』の編を重要視されて表彰し、既にその文章の順序を明らかにして、その思想の趣意を発明するまでに至った。その後、古くは大学で人を教える場合の方法、孔子・曾子が語っていた聖人君子の道の趣旨が、再び燦然として世の中(人々)に明らかにされていったのである。

[補足]

天運の循環の真理を説いて、五代の時代に衰亡しかかっていた儒教の教えが、宋の時代になって再び盛んになってきた事を示している。程明道・程伊川(ていめいどう・ていいせん)という二人の大儒が、乱れた世の中で忘れかけられていた『孔子・曾子・孟子』の教えを再解釈して復活させたのである。

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[白文]

雖以熹之不敏、亦幸私淑、而与有聞焉。顧其為書、猶頗放失。是以忘其固陋、采而輯之、間亦窃附己意、補其闕略、以俟後之君子。極知僭踰無所逃罪。然於国家化民成俗之意、学者修己治人之方、則未必無小補云。淳熙己酉二月甲子、新安朱熹序。

[書き下し文]

熹(き)の不敏(ふびん)をもってすと雖も、また幸いに私淑して聞くあるに与かる(あずかる)。願うにその書たる猶頗る(すこぶる)放失(ほうしつ)すと。是をもってその固陋を忘れ、采ってこれを輯め(あつめ)、間(ま)また窈か(ひそか)に己が意を附してその闕略(けつりゃく)を補い、もって後の君子を俟つ(まつ)。極めて僭踰(せんゆ)にして罪を逃るる所なきを知る。然れども国家民を化し俗を成すの意、学者己を修め人を治むるの方において、則ち未だ必ずしも小補(しょうほ)なくんばあらずと云う。淳熙己酉二月甲子(じゅんききゆう・にがつこうし)、新安の朱熹(しゅき)序す。

[現代語訳]

熹が不敏であるにも関わらず、幸いにして両程子(程明道・程伊川)に私淑してその教えを聞くことができたのである。私が思うには、『大学』の書は今でもその多くが紛失している。昔からの固陋な習慣を忘れて『大学』の文書を取り集め、その間に密かに自分の意を尽くして、その欠けている完全ではない部分、省略していて詳細ではない部分を補っておいて、その後の有徳の君子の登場を待つのである。これは極めて分不相応な越権行為であり、その罪を逃れられないことを知る。しかし、国家が人民を教化して良俗を為すの意味、学者が自分自身を修めて人を治めるという意味において、まだそういった小さな補足がないわけではないのである。淳熙己酉の年、二月甲子の日に、新安の朱熹がこの序文を記した。

[補足]

朱子学を創設した朱熹(朱子)は、儒教の正しい教えを復古した両程子(程明道・程伊川)と直接会って話す機会は得られなかったが、両程子の教えとその弟子の伝承に私淑して学んだ。朱子は、三伝の李延平(りえんへい)という儒学者から、両程子の思想・教義を学んだと伝えられている。朱子は僭越であると断りながらも、『大学』に欠如していた“致知格物(ちちかくぶつ)”の教え・解釈を補足している。致知格物(格物致知)とは、唯物論的に事物の道理を追究して調べることだが、程頤(ていい,1033~1107)は『物に即してその道理を窮める』という窮理(きゅうり)を格物致知の奥義とした。

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