儒教(儒学)の基本思想を示した経典に、『論語』『孟子』『大学』『中庸』の四書(ししょ)がありますが、ここでは極端な判断を避けてその状況における最適な判断を目指す中庸(ちゅうよう)の大切さ・有利さを説いた『中庸』の解説をしています。『中庸』も『大学』と同じく、元々は大著『礼記』の中にある一篇ですが、『史記』の作者である司馬遷(しばせん)は『中庸』の作者を子思(しし)としています。
中庸の徳とは『大きく偏らない考えや判断に宿っている徳』という意味であるが、必ずしも全体を足して割った平均値や過不足のない真ん中のことを指しているわけではない。中庸の“中”は『偏らないこと』、“庸”は『普通・凡庸であること』を意味するが、儒教の倫理規範の最高概念である中庸には『その場における最善の選択』という意味も込められている。『中庸』の白文・書き下し文・現代語訳を書いていきます。
参考文献
金谷治『大学・中庸』(岩波文庫),宇野哲人『中庸』(講談社学術文庫),伊與田覺『『中庸』に学ぶ』(致知出版社)
[白文]
右第三章
子曰、中庸其至矣乎。民鮮能久矣。
[書き下し文]
右第三章
子曰く、中庸はそれ至れるかな。民能くする(よくする)鮮なき(すくなき)こと久し。
[現代語訳]
先生がおっしゃった。中庸とは、それ以上付け加えることもない究極の徳である。しかし、(その教化と実践が進まなくなっているので)中庸の徳が人民の状態や心を良くするということは少なくなっており、そういった時代が続いているのだ。
[補足]
孔子は『中庸』を至善・至美で道徳にも通じる究極の徳性と考えており、更に中庸は多くの人間にとって『天賦の自然な徳(特別な努力や訓練を要さずに身に付けられるもの)』でもあるとしていた。しかし、今の時代には、君子(士大夫)による教化が衰えてしまい、人民が自ずから中庸の徳を実践しようとすることがなくなってしまったというのである。これと同じ文章は、『論語 雍也篇』の第六にも収載されている。
[白文]
右第四章
子曰、道之不行也、我知之矣。知者過之、愚者不及也。道之不明也、我知之矣。賢者過之、不肖者不及也。人莫不飲食也。鮮能知味也。
[書き下し文]
右第四章
子曰く、道の行われざるや、我これを知る。知者はこれに過ぎ、愚者は及ばざるなり。道の明らかならざるや、我これを知る。賢者はこれに過ぎ、不肖者(ふしょうしゃ)は及ばざるなり。人飲食せざる莫きなり(なきなり)。能く味わいを知る鮮なきなり。
[現代語訳]
先生がおっしゃった。私は道が世の中で行われていない理由を知っている。知者は道を行うには知識や徳が行き過ぎており、愚者は道を行うには知識も徳も全く足りない。私は道が明らかにならない理由を知っている。賢者はその振る舞いも知性も道を行き過ぎており、不肖の者は振る舞いも知識も道には全く及ばないからである。人間は飲み食いせずには生きられないが、その味わいを深く知っている者が少ないのと同じである。(人は道なしには生きられないが、その本当の意味や方法、実践を知っている人は殆どいないのである。)
[補足]
孔子が『道(中庸の道徳)』が実践されず明らかにもならないのはなぜかという疑問に答えた章である。知者・賢者といった人格や知性に優れた者にとっては、『過ぎたるは猶及ばざるが如し』の諺のままに、人間性・能力がオーバースペックであるため、道をそのまま実践することが難しくなってしまう。
反対に、愚者・不肖者といった人格や知性に劣った者は、道を実践するための基本的な自覚(自意識)・能力が完全に足りないのである。つまり、『中庸の徳』を実践するにあたって、ちょうど良い人間性や知性、振る舞いを持っている人が殆どいないことによって、『道』はなかなか明らかにならず、また実践されることもないという話になる。『過ぎてしまう優れた者』と『及ばない劣った者』との中間的な位置にあるバランスの取れた人格や行動のあり方を指して『中庸』というのである。
[白文]
右第五章
子曰、道其不行矣夫。
[書き下し文]
右第五章
子曰く、道はそれ行われざるかな。
[現代語訳]
孔子がおっしゃった。(道は明らかにならないから)道が行われることがないのだろうな。
[補足]
上記の第三章を踏まえた上で、結局、人民が『道』を正しく理解してバランス良く実践することなどはできないのだろうなと、孔子が悲観的に現状を慨嘆してしまっている章である。
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